第四十八話 地下通路の一幕/タニア・セレナSide
2020/10/17 魔神召喚の設置数は七つが正解。九つは誤りです。修正済み。
遠くで魔動列車の出発する音が聞こえる。その振動が地面を介してタニアの足元に届き、徐々に列車が遠ざかっていく気配も感じ取れた。
そんな音を聞きながら、タニアはその白い巨躯を丸めて、まるで寝ているかのように身動きせずジッとしていた。研ぎ澄ませた五感をフル稼働させて、デイローウ大森林全体を俯瞰するように、周囲の全てに気を巡らせていた。
タニアの感覚では、既にタイヨウという脅威は去ったように思う――だがしかし、もう安全かと問われれば断言は出来なかった。タイヨウの幻惑は、認めたくは無いがタニアでは見破れない。それゆえに、そう簡単に警戒を解くことなど出来ない。
そうして、タイヨウがその気配を消してから、およそ三十分は経ったろうか。
魔動列車の気配も、もはやタニアの五感をフル稼働しても感じ取れないほど遠ざかった頃合で、タニアはようやくフッと息を吐いた。
「……完全に、逃げたかにゃ? 結局、にゃんだったんだ……アイツ?」
タニアはムクリと、その白い巨躯を起こした。四つん這いだが、起こしたその体躯は2メートルを軽く超えており、グッと背筋を伸ばせば、全長は4メートル弱にもなろう。二又に分かれた短い尻尾をユラユラと揺らしながら立つその様は、まさに化け猫と呼ぶに相応しい姿だ。
これがタニア・ガルム・ラタトニア――『先祖還りの暴れ姫』の二つ名を持つ彼女の真の姿だった。
タニアは鋭い視線で周囲の暗闇をグルッとねめまわした。左右色違いのオッドアイが、暗澹とした森の闇の中で怪しく光る。
――見渡す限りでは、森の中に動く存在はない。
タニアはさらに、ぴょこぴょこと猫耳を器用に動かして、周囲の音を拾う。獣化した状態では、実のところ視力よりも聴力の方が何倍も鋭敏だった。
――耳を澄ます限り、さやさやとそよぐ風の音しか聞こえない。
「ふにゃぁ~……にゃんの気配も感じにゃい、にゃぁ……」
タニアはあくびしながら気の抜けた声を出して、舐めた前足で顔を何度か擦る。それは猫が顔を洗う仕草である。傍目から見れば、サイズ感は無視して、なんとも愛らしい仕草だった。
さて、そんな風に何度か顔を擦った後、タニアは目を閉じたまま、大口を開けて大あくびをする。先ほどまでの緊張感は何処へやら、随分とリラックスした空気があった。
「……久しぶりに、疲れたにゃ。魔力も、使い過ぎたにゃ」
タニアはそんな弱音を吐きながら、ふらふらとした足取りで、セレナが埋れているクレーター目指して歩き出した。ほんのかすかだが、セレナの息遣いは聞こえていた。
ゆっくりと歩きながら、地面に穿たれた巨大な穴の中を、タニアは横目で覗きこんだ。タイヨウの気配が消えたその大穴は、穿った当人でさえ寒心するほど底の深い穴になっていた。これほど深いと、多少砂を盛っても埋まることはないだろう。
タニアは森の中を改めて見渡す。周囲は、悲惨の一言に尽きた。
大木は幾つもが半ばで圧し折れ、あるいは倒木しており、地面はそこかしこが抉れて、掘り返したようにめくりかえっている。底の見えない大穴も穿たれているし、視線を森の奥に向ければ、生い茂った木々の間に、草一本ない更地と化した広場も散見される。
ここまで地形が変わるほどの大激戦だったか――と、タニアは改めて、タイヨウという敵の手強さと脅威に寒心した。あのまま闘っていたら、果たしてどうなっていたか。ただの人族にこれほど畏怖するとは思わなかった。
そんな風にタイヨウの認識を改めたところで、まぁどうでもいいにゃ――と、タニアはすぐさま思考を切り替えた。逃げた相手のことなど、考えても仕方ない。
それよりも今は、瀕死になっている妖精族の仲間を助けるのが先決だろう。
「おい、セレナ……意識、あるかにゃ?」
地面に穿たれたクレーターの一つにやってきて、タニアはその中心部を覗き込みながら、恐る恐ると問い掛けた。中心部には、身体の半ばを土に埋めたセレナが仰向けに倒れている。
「……哀れにゃくらい、ボロボロ、にゃ」
タニアはセレナのその姿を見て、ついついそんな感想を漏らしていた。
セレナは、ドレスの切れ端と思しき申し訳程度の布だけを残してほぼ全裸の状態で、血と泥に塗れた汚らしい姿をしていた。
セレナの美しかった白い肌はもはや見る影もなく、身体中いたるところに裂傷と火傷があった。また、火傷の一部は炭化までしており、今もなお燻っている。そしてその両腕は肘半ばまで灰化現象が進んでおり、脚は右足が半分千切れかかっていた。
これはマズイにゃ、とタニアは冷静に思考する。セレナの身体を構築するのに必要最低限の魔力が、完全に足りなくなっていた。
妖精族の肉体は人族と違い、自然治癒で腕の一つ二つは生やせるが、ここまで酷い状態だとそもそも命が危うい。いや、というよりは、もはや月桂樹の加護がなければ打つ手なしではなかろうか――
「……な、に、化け、猫……? あ……ぁ、困った、な……幻覚、が……見える」
そんな絶望的な状態のセレナを眺めていると、ふいにセレナが片目を薄く開いて、巨大な獣姿のタニアを認めた。その声は掠れていて、今にも死にそうな状態である。
「化け猫とは失礼にゃ。それに幻覚でも、にゃいにゃ――あちしにゃ、セレナ。タニアにゃ。で? お前、状況どうにゃ?」
タニアは聞かずとも分かることを問いながら、前足のプニプニした肉球でセレナの腹付近に優しく触れてみた。すると、その肉体を構成している魔力粒子が淡く散った。血が噴出すわけでも、肉の感触があるわけでもなく、手触りはまさに粉雪に似ていて何ら抵抗を感じなかった。
なるほど――既にセレナの肉体は、肉体として機能しておらずハリボテとなっている様子だ。なけなしの魔力でそれなりに形を取り繕っているだけのようである。これでは遅かれ早かれ、全身が灰化現象に陥るだろう。すなわちそれは、人族で言うところの衰弱死である。
「……見て、分かる、でしょ? って、アン、タ……何が、あったら、そん、な、姿、に……?」
「もう喋るにゃ――仕方にゃいから、見捨てにゃいにゃ。後で、感謝するにゃ」
タニアの台詞に、何を恩着せがましく、と虚ろな瞳で呟いてから、セレナは力尽きたように瞼を閉じた。だが意識はまだ手放していないようで、苦悶に歪んだ表情のまま、必死の呼吸を繰り返している。
タニアはそんなセレナの背中にスッと前足を入れて、ぺいっと自身の背中に乗せた。蛍が漂うように、淡い魔力粒子が宙に浮かぶ。
「さて、どうするかにゃぁ……にゃんか都合良く、月桂樹にゃいかにゃぁ……」
スンスン、と鋭くなった嗅覚で森の中の匂いを嗅いで見るが、いかんせん月桂樹の匂いはない。にゃぁ、と困ったように一声鳴いてから、タニアはとりあえず森の奥へと歩き出す。瀕死のセレナを背負ったままだが、一旦は当初の目的――【魔神召喚】の立体魔法陣が設置されている場所を目指すことにしたのである。
チラチラと夜空に浮かぶ月で方角を確認しつつ、タニアはノシノシと森の中を練り歩いた。
それからしばらくすると、タニアの予想通りに、森の奥に怪しい廃屋が見えてきた。タニアは廃屋までの距離と、事前に見ていた設置図を照らし合わせて、あの廃屋が目的地で間違いないと確信する。
「さすがあちし、当たりにゃ。狭いけど、ちょうど休憩できそうにゃぁ」
タニアは前足を器用に動かして廃屋の扉を開けると、無理やりその巨躯をねじ込んで、バタン、と扉を閉めた。
室内は狭く汚かった。広さとしては、六畳一間といったところだろうか。一脚の椅子とテーブル、仮眠用の小さいベッドがあり、そのあちこちに埃が積もっていた。
タニアは背中のセレナをポイッとベッドに投げ捨てる。昏睡状態のセレナは、為すがままベッドに身体を打ち付けて、死んだようにぐったりと寝転がる。
「――にゃぁ、セレナ。お前、意識、あるにゃか?」
仰向けで寝転がって苦悶の表情を浮かべているセレナに、タニアは問い掛けた。だが、苦しげな呼吸音が廃屋の中に響くだけで、セレナは返事する余裕がないようだった。
タニアは溜息を漏らしてから、改めてセレナの身体を眺める。
セレナの状態は、森で拾ったときよりもかなり悪化していた。もはやその両腕は肩までしか存在しておらず、肩口は灰化している。右脚はここに運ぶ途中で千切れてしまったようで、膝の部分から下がなくなっていた。左脚はかろうじて形を保っていたが、よく見れば、つま先から灰化現象が始まっている。露出した白い胸が、呼吸のたびに上下する。同時にその呼吸に合わせて、体表面から魔力粒子が宙に浮かぶ。
「辺りに月桂樹はにゃい。ここまで灰化現象が進行したら治癒も間に合わにゃい……これはもう、お手上げ状態にゃぁ」
タニアは、残念にゃ、と呟いた。しかしその声音に悲しみの色はなかった。随分と軽い調子で、諦観というよりも、興味がないような無感情な呟きだった。その台詞だけ聞けば、とてもじゃないが仲間が死に直面しているとは思えないだろう。
タニアのその台詞に、セレナの表情が苛立ちで歪んだ。文句の一つも言いたい様子だが、いかんせんもう既に、声を出すことも出来ないようだった。というか、その頬は白いを通り越して透けてきており、成仏寸前の幽霊みたいな様相である。
「――とは言え、にゃぁ。セレナが死ぬと、きっとコウヤは悲しむにゃ。だから、助けてやるにゃ」
セレナの表情を眺めていたタニアが、うんうん、と頷きながらそう言った。物凄くサッパリとした口調で、買い物でもするかのような気軽さだった。至極簡単だ、とばかりの物言いである。
どういうこと、とセレナが口をパクパクと動かした。本人は声を出したつもりだったようだが、残念ながら音になっていない。しかし、タニアはその台詞を察して答える。
「喋るにゃ、セレナ。にゃに、あちしに任せておくにゃ――」
セレナがなけなしの力を振り絞って、薄く片目を開けてタニアを見た。タニアはそんなセレナにニンマリと笑って、顔を洗うような仕草で鼻先を擦る。
「――と、その前に、あちし、着替えるにゃ」
巨大な化け猫姿のタニアは、その宣言と同時に、全身から眩い緑色の閃光を放つ。すると、廃屋の中で突風が巻き起こり、窓硝子を内側からガタガタと振るわせた。埃と、セレナが床に散らした灰が舞い上がり、葉奥の中が一瞬だけ煙だらけになる。セレナは喉に飛び込んでくる粉塵に、いっそう苦しそうに悶えていた。
緑色の閃光はすぐさま収束する――と、そこには全裸のタニアが立っていた。
先ほどまでの白い毛で覆われた巨大な化け猫姿ではなく、健康的な小麦色をした抜群のスタイルを誇る人間姿である。
タニアはその身体を見せ付けるように、キュッとくびれた腰に両手を当てたポージングをしながら、形の良い豊満な乳房と、ツンと張った美しいお尻を晒していた。その尾てい骨には、申し訳程度に短い尻尾が生えていて、それがチョロチョロと揺れている。ちなみに全裸ではあるが、腕輪とブーツだけは装備したままだった。
「ふぅ、久しぶりに先祖還りすると、やっぱ結構疲れるにゃぁ……身体、重いにゃぁ」
タニアは重だるく感じる身体を見下ろして、無傷であることを確認した。同時に、ペタペタと胸や尻、太腿や尻尾を触って、異常のないことも確認する。ついでに、素っ裸で腕輪とブーツだけというシュールな自身の姿に、ついつい苦笑した。もしこんな姿を煌夜に見られたら、と思うと少々恥ずかしかった。
そんなことを考えてから、さて、とタニアは気を取り直すと、腕輪に魔力を通して時空魔術を展開した。途端に、目の前には黒い穴が出現する。
タニアの装備している腕輪は、煌夜がくれた時空魔術が施された道具鞄である。先祖還りで身体が巨大になっても、装備者の体躯に応じて形状が変化したおかげで壊れなかったのだ。ちなみに言うと、タニアの装備している獣王のブーツは、装備者が先祖還りすると、魔力粒子に変わる特性を持っている。それゆえに壊れていない。
「…………にゃにゃ? グローブの替えがにゃい……けど、まぁいいかにゃ……」
展開した黒い穴に手を突っ込んで、タニアはゴソゴソと異空間を漁った。そうして異空間の中から、いつも着ている服と寸分違わぬ同じ服、同じ装備品を取り出す。
長旅をする鉄則として、当然ながら、替えの服装と装備品は一式持ってきていた。
タニアはすかさず取り出した衣服を身に纏って、装備品も身に着ける。残念ながら指貫グローブの替えがなかったので、素手になってしまったが、別段、防御面に問題はないだろう。
とりあえずサッと、黒いベストにホットパンツ姿という普段の洋装に着替えたタニアは、改めて瀕死のセレナに向き直った。
「にゃあ、セレナ。あらかじめ言っておくにゃ。あちしは仲間思いにゃから、お前を助けてやるけど、それに対して一切の苦情は受け付けにゃい。いいかにゃ?」
タニアは笑顔でセレナにそう釘を刺す。その台詞を胡乱な頭で聞いて、セレナはタニアのやろうとしていることに思い至り、まさか、と戦慄した。セレナの意識は朦朧としていたが、それでも自身の状況は十二分に理解できている。
ここまでに至ったセレナを救う方法など、思いつく限りで二通りしか存在しない。
その一つは、月桂樹の魔力を吸収することである。月桂樹の民と呼ばれる妖精族は、魔力核が崩壊していなければ、月桂樹さえあればおよそどんな状態からでも治ることが可能だ。
――だが、周囲に月桂樹がある気配はない。タニアも『辺りに月桂樹はない』と言っていた。
となると、残る方法は一つしかない。
セレナは、胡乱な頭で思い至ったその方法に、苦悶よりも激しい嫌悪の感情を浮かべる。
「……ま、待ち、なさい……な、にする……もり……」
そのもう一つの方法とは、妖精族の特性を利用すること――つまりは、性交による魔力共有である。
妖精族の誇りとされる両頬に浮かぶ魔術紋様、それを失うことと引き換えにして、交わった他者と魔力、ひいては生命力をも共有する方法である。この方法であれば、ここまで死に体になったセレナであっても助かる可能性がある。
――堕落、と呼ばれるその方法。
妖精族としての恩恵を失う代償に、魔力総量を爆発的に増加させて、魔力核の強度を一段階引き上げる効果を持つ。またその際に、半霊体の身体は受肉して、肉の器に作り変わるのである。それが為、あらゆる傷も治るのだ。
「喋るにゃっての――大丈夫にゃ。痛くはしにゃいから」
タニアの優しい声音に、セレナはいっそう青ざめた表情になり、陸に打ち上げられた魚よろしく、喘ぐように必死に口をパクパクとさせていた。そんな様を微笑ましく眺めながら、タニアは顔を近付ける。
廃屋の中には、当然ながらタニア以外いない。またこの周囲にも、ひとけはない。と言うことは必然、セレナの相手はタニアになるのだろうか――初めてを失うのも嫌だが、それ以上に、相手が同性なのはもっと嫌だった。
ところで、セレナは習得していないが、数多く存在する魔術の中で、一時的に術者の性別を変更する魔術というのは存在する。それをタニアが行使できるのであれば、同性が相手でも魔力共有は不可能ではない。
「……心、の準備……が……い、や……」
セレナは呂律の回らない声で緩く首を振った。
朦朧とした思考は、いよいよまともに働いておらず、せめて相手がコウヤだったなら、なんて有り得ない妄想まで浮かぶ始末だ。
タニアはそんなセレナの薄い胸に手を乗せて、キスするかのようにその顔を覗きこむ。そして、力強い声で詠うように呟いた。
「ん、とにゃ――『我は解放す。全ての命よ、月桂樹に還れ』」
瞬間、パキン、とセレナの胸元付近で何かが割れた音が響いた。そして、薄暗闇の廃屋の中が眩い閃光で満ちる。それは優しい白光で、同時に清涼な風だった。
「っ――え?」
白い閃光は一瞬で収まり、廃屋の中はふたたび静寂に包まれた。
しかし先ほどとは明らかに違い、廃屋の中はまるで別世界のようになっていた。乾燥して埃臭かった部屋が、なんとも心安らぐ穏やかな空気に変わっている。
「――な、にが、起きたの?」
唐突に、セレナの身体に活力が漲った。
必死に繋ぎとめていた思考が鮮明になり、息苦しかった呼吸も軽くなる。
枯渇しかけていた魔力が満タンを超えて充実したかと思うと、灰化現象で失せていた両腕が刹那に回復する。
セレナは虚ろだった視野が一気に広がったのを自覚して、困惑した声を上げた。目の前には、にゃはは、と笑うタニアの顔がある。
「――――は? え? な、何をしたの?!」
困惑顔のセレナは、自身の裸を見下ろして、普段通りの白い肌に戻っていることを確認すると、驚愕に目を見開く。半信半疑にグッと力を篭めてみると、相応に身体が反応するのを知覚して、いっそう何が何やらと混乱した。
そんなセレナの様子に、タニアがいっそう笑う。
セレナはどうしてか――完全回復していた。
「まさか……【冠魔術】?」
セレナは信じられないと首を振りながらそう呟いた。
ここまで一気の回復、一瞬での完治は、月桂樹の魔力を浴びようとも不可能だ。そうなると、可能性として考えられるのは、冠級の治癒魔術【蘇生】の行使だろう。
「――いえ、有り得ない。タニアはそもそも、治癒魔術の素養がないし……」
セレナは自身の考えにすかさず自己否定する。ヤンフィならまだしも、タニアが治癒魔術を使えるとは到底考えられない。
「確かに、あちしは治癒魔術にゃんて使えにゃいにゃ」
タニアは、セレナの台詞に笑いながら頷いた。ならどうやって……と、セレナは呟き、直後に素っ頓狂な声を上げる。
「は!? ま、まさか、これ、夢――」
「――にゃはは! 夢にゃ訳にゃいぞ。あちしの機転にゃ。感謝するにゃ」
セレナの的外れな回答を鼻で笑って、タニアはゆっくりと身体を離す。そして、セレナの胸元に置いていた手をひっくり返すと、手の平で粉々に砕け散っている結晶片を見せた。
「仕方にゃいから、妖精石の魔力を使ったにゃ。解放の詠唱と魔力操作、覚えてて良かったにゃ」
その結晶片は、サラサラとタニアの手の平から床に零れ落ちて、埃と共に霧散する。セレナはそれを唖然とした顔で眺めてから、ようやく追いついた思考で、事の重大さを理解した。
いきなりバッと起き上がり、素っ裸を何ら隠す事なく、したり顔のタニアに詰め寄る。
「ア、アンタ、何を馬鹿な――それ、キリア様から、託された大切な――」
「――おい、セレナ。一切の苦情は受け付けにゃいにゃ。あちしは、一番合理的にゃ方法で助けたにゃ。感謝するにゃ」
「合、理――はぁ!? ちょ、ふざけないでよ!? そもそも、苦情を受け付けないも何も、あたしはそれを了承してないじゃない! 一方的に決めて、何を勝手な!!」
タニアの襟元を掴んで、怒り心頭の形相で詰め寄る。そんなセレナに、タニアはふぅとこれ見よがしに溜息を漏らした。そしてすっと右拳を掲げると、何よ、と睨み付けるセレナの頭上に拳骨を落とす。
「セレナ、お前、ちょっと、うるさいにゃ。あちしは、正直、お前にゃんか死んでも困らにゃい。けどにゃぁ。お前を見捨てると、十中八九、コウヤとヤンフィ様に怒られるにゃ――だから助けたにゃ。そもそもにゃ、あちしはお前の為にやったわけじゃにゃい。コウヤの為にやっただけにゃ」
タニアの拳骨に、素っ裸のセレナは頭を押さえてその場にうずくまった。
セレナは涙目になって、恨めしいとばかりに口をへの字に結んでいる。中々可愛らしい仕草であるが、タニアには通じない。
「…………ねぇ、タニア。妖精石がどれくらい貴重なのか、理解してるの?」
改まった真剣な声で、セレナはタニアに問い掛ける。セレナのそんな非難がましい視線を仁王立ちで受け止めて、しかしタニアは、当然、と力強く頷いた。
「馬鹿にするにゃよ? 妖精石が、百年に一度くらいしか採れにゃい魔力結晶にゃのは知ってるにゃ。その組成に、妖精族の魔力核が百人分と、樹齢五百年を数える月桂樹が必要にゃのも常識にゃ――ついでに答えてやるにゃら、妖精石は本来、妖精族に転生するはずの命が、結晶化した石にゃ」
「くっ――タニア、アンタ……そこまで知ってて――!?」
「当然にゃ。にゃので、妖精石の魔力を解放すれば、セレナに魔力が注がれると踏んだにゃ。随分昔の文献に、これと似た実験をした記述があったにゃ――あちしが博識で良かったにゃぁ」
タニアの回答は、これ以上ないほど正解だった。
まさに妖精石とは、それほどに貴重な魔力結晶である。およそ妖精族百人分の魔力核が凝縮された結晶であり、妖精族の根源にもなるうる命の種。
セレナはギリと歯噛みして、二の句が継げずに押し黙った。そこまで理解したうえで、タニアは妖精石を使用したのである――セレナを助ける為に。
「ほれほれ、サッサと感謝するにゃぁ」
何やら葛藤している様子のセレナに、タニアはまったく悪びれず胸を張っていた。
今のセレナは、ひどく複雑な心境だった。素直に感謝出来ず、かといって責めるのはお門違いというこの状況に、何を口にすれば良いのか、頭が真っ白になっている。
事実として、タニアは命の恩人だ。タニアの機転がなければ、セレナは間違いなく死んでいただろうし、妖精石を使う以外の方法で助けようとしていれば、命の代わりに妖精族の誇りを失っていた。命も誇りも、セレナが何も失わずに助かる方法は、これ以外に存在しなかった。
だが一方で、この妖精石は、セレナが敬愛してやまないキリアから託されている大事な大事な依頼品でもある。
それを私利私欲で勝手に使用したという事実は、セレナにとっては非常に心苦しかった。それこそ、誇りを失うのと天秤に掛けるほどには重い。
「にゃにゃにゃ――セレナ、お前がにゃにを悔やんでるかは理解出来るにゃ。にゃけど、それは時間の無駄にゃ。キリアの依頼にゃら、また新しい妖精石を探せば良いだけにゃ? とりあえず今の目的は別にゃんだから、後のことは全部、コウヤと合流してから考えれば良いにゃ」
セレナが無言のまま悩み続けていると、タニアがいい加減埒が明かないとばかりに、軽い口調でそう告げた。しかし『また新しい妖精石を探せば良い』と簡単に言うが、妖精石はおいそれと替えが見つかるような代物ではない。それこそ、一生涯掛けて見つけ出せるかどうかである。
「……アンタ、簡単に言うけど……くっ――」
セレナは思わず反論しようとして、それがただの我侭な上に、不毛な言い分だと気付いた。台詞を言い終わる前に、グッと堪えて言葉を飲み込む。
――確かにタニアの言葉通り、ここでグジグジと悔やんでいても埒が明かないのは事実だ。感情を割り切れるかどうかは二の次に、タニアの意見は合理的ではある。
セレナはそれが余計にムカついた。
「――――分かったわよ」
セレナは大きく深呼吸してから、感情の一切合財をとりあえず棚上げして、その顔を上げた。憮然と結んだ口元が、納得行かないと無言で訴えていた。
タニアはそんなセレナに満足げに頷いて、視線を埃塗れの床板に向けた。
「じゃあ、少し休憩してから行くかにゃ――恐らく、その床から下が目的地にゃ」
タニアの視線が注がれている床は、先ほど足を乗せた瞬間、異常に軋んでいた床である。あの軋み具合は、間違いなく床下に空間があるだろう。
「にゃにゃ、眠いにゃぁ……けど、寝る前に準備しとくにゃ」
タニアは目を擦りながら大あくびして、汚れたテーブルに【魔神召喚】の設置図を広げた。そして、設置図の中の七つある丸の一つ、この廃屋の地点に×印を記入する。
「……よし。じゃあ、次にゃ……えと、ここらへんは、大丈夫かにゃ」
タニアは軋む床板の上に立つと、慎重に軋みの境目を確認してから、一息で床板を踏み抜いた。
バキャ、と乾いた音が鳴り、床には縦横1メートルほどの正方形の穴が口を開ける。そこは紛れもなく、地下への入り口だった。
「にゃにゃにゃ……思ったより、深いにゃぁ」
タニアはその入り口を覗き込んで呟いた。地下への入り口は、垂直に伸びた縦穴であり、側面に鉄製の梯子が掛かっているだけである。底は見えない。足を滑らせて落下したら、どうなることやら。
「ねぇ、タニア。休憩、するのよね?」
タニアが地下への入り口に半身を潜り込ませて梯子の強度を確認していると、セレナが気まずそうに声を掛けてくる。
そうにゃ、と頷きつつ、タニアは顔を上げた。
「ならさ。あたしが意識を失ってる間に、いったい何が起きたのか、色々と聞きたいんだけど……教えてくれないかしら?」
「それはいいにゃが、また後で、にして欲しいにゃ。あちし、いま結構、眠いにゃ」
タニアはピシャリと言い切る。その言葉に、セレナは一瞬キョトンとした。
「あちし、魔力が少にゃいにゃ……にゃので、とりあえず準備だけして、少し寝るにゃ」
セレナに答えながら、タニアは地下から身体を出す。梯子の強度は問題なかった。
「――あ、ところでにゃあ、セレナ。お前、にゃんでまだ素っ裸にゃ? 恥かしくにゃいのか? それとも変態にゃのか?」
タニアはとぼけた顔をして、セレナの全身をジッと眺めた。寝惚けているのか、その台詞に悪気は感じられず、しかも本気で言っているようだった。
そんなタニアの視線と言葉を受けとめて、セレナは苛立ちからこめかみをピクピクと痙攣させる。
しかし噛み付いても仕方ないので、セレナは大げさに溜息を漏らす。そして一拍置いて昂ぶった気持ちを落ち着けてから、嫌味たらしい口調で返した。
「……あのさ、タニア。誰が変態よ……あたし、好きで裸なわけじゃないわよ? 知ってるわよね? それをどうして、さもあたしが自分の意思で裸になってるみたいに言うのよ……だいたいさ。荷物、アンタが全部持ってるでしょ? だからあたし、着替えたくても着替えられないのよ? 分かってる? ちなみに、恥かしくないわけないでしょ? サッサと服出してくれない?」
タニアは、ああにゃるほど、と納得した風に手を叩いた。
その態度にセレナは余計にイラっとするが、グッと堪えてタニアの返事を待った。
「それは失礼したにゃ……でも残念にゃがら、あちし、セレナの服にゃんか持ってにゃいにゃ」
「――――は?」
タニアのサラリと吐いた問題発言に、セレナは思わず素っ頓狂な声を上げる。
何を言っているのか、と動揺に声を震わせて聞き返す。
「ちょ――はぁ!? ど、どういうこと……え? 持ってない、って――あたしが、元々装備してた衣装はどうしたのよ!? 月桂樹の加護を受けたワンピースと若木のケープ、純銀の胸当て――」
「セレナの装備、いい加減、ガタが来てたにゃ? さして特殊な魔力付与もにゃかったし、今のあちしら路銀が潤沢にゃ。にゃので、必要にゃら新しい装備を買えば良いにゃ――と言う理由で、棄てたにゃ」
「ん? え――す、棄てた!? ちょっと待ちなさいよっ!! あたしの装備を、何勝手に――」
タニアの悪びれない態度に、セレナは興奮気味で食い下がる。だが、そんなセレナを手で制して、タニアは道具鞄の中から薄汚れたローブを取り出した。
「ああ、そうにゃ。セレナが、魔動列車で脱いでた異常者ローブがあるにゃ。これ着たらどうにゃ?」
怒りで顔を紅潮させたセレナに、タニアは笑顔でフード付きローブを差し出した。タニアの有無を言わさぬその押し付けと態度に、セレナは唖然として絶句する。
――セレナが以前に装備していた衣装は、確かに替え時ではあった。
いずれ新調しなければならないと考えていたのも事実である。だがだとしても、セレナに無断でそれを棄てるなんて、あまりにも横暴過ぎるだろう。
セレナは怒りのままにありったけの罵詈雑言をタニアに浴びせようとして、しかしそれこそ時間と体力の無駄だと諦めた。セレナのお説教なぞ、タニアには通じないだろう。
セレナは何度かゆっくりと深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。タニアへの文句は一旦、胸の奥に仕舞い込んだ。文句は後で、煌夜とヤンフィに訴えることに決める。
「タニア……覚えておきなさいよ」
負け惜しみにも似た台詞を吐きながら、セレナは差し出されたローブを奪うように受け取った。
一方でタニアは、そんなセレナの台詞に首を傾げる。
「にゃにを覚えておくにゃ? ああ、全裸にローブ姿のセレナをかにゃ?」
「違うわよっ!! ――って、全裸にローブは仕方ないでしょ!? これしか着る物ないんだから!」
「にゃにゃにゃ。そりゃ、仕方にゃいにゃ。まぁ、明らかに痴女で、変態にゃけど――仕方にゃい。着る物がにゃいしにゃ」
ローブを纏ったセレナに、タニアは馬鹿にした物言いで軽口を叩いた。そんなタニアの挑発に、セレナは無言のままグーパンチを放つ。
けれど当然、余裕の態度で躱された。
「にゃはは――冗談にゃ、冗談。ごめんにゃ」
セレナが本気で怒っていることに気付いて、タニアは慌てて頭を下げた。その素直な謝罪に少しだけ溜飲を下げてから、セレナはベッドに腰掛ける。
すると唐突に、タニアは埃塗れの床にゴロンと横になった。汚れるのも構わず大の字になり、そのまま眼を瞑った。
「……にゃぁ、セレナ。あちし、実はそろそろ限界にゃ。ちょっと寝るから、三時間経ったら、起こしてくれにゃ……あ、それと。準備とかもしといて欲しいにゃ。必要な道具は、勝手に漁っていいにゃ」
タニアはセレナの返事など聞かず、道具鞄である腕輪を外すとベッドに放り投げる。セレナは咄嗟のそれを受け取って、呆れた顔で仕方ないと頷く。
「――――はぁ。分かったわよ。三時間後ね」
セレナの言葉に、けれどタニアは寝息で返事をしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
休憩はたっぷり四時間ほど取った。
タニアが三時間の仮眠を取った後、セレナは自分が気絶した後に何が起きたのか、タイヨウとの一連の出来事を聞いた。それから段取りの確認を行い、心と身体の準備を整えてから地下に向かう。
――そして今、二人は梯子を降りきって地下に辿り着いた。およそ十階分ほどの高さだった。
タニアとセレナは地下に降り立つと、素早く周囲を確認した。
地下に灯りはない。ただただ何処までも暗闇が広がっているだけだった。肌寒く、乾いた空気が漂っている。
「…………ここまで捻れた空間は、かにゃりヤバイ気がするにゃ」
タニアは誰に言うでもなく呟いた。それに対して、セレナも心底頷く。
呼吸困難になりそうなほど、濃い魔力が空間を満たしている。澱んで粘りつくような魔力は、全身を嘗め回されているかのような不快感を与えた。
「『――光よ』」
セレナは松明代わりに、魔術による光の玉を三つほど展開した。途端に、眩い光が地下の通路に満ちて、周囲の状況が明らかになる。
二人が立っている場所は、円形の広場になっていた。そこはちょうど十字路の中心部分のようで、ここから東西南北に真っ直ぐと、狭い通路が伸びていた。
また、その中央には噴水のようなオブジェがあり、紫色をした液体が湧き出している。噴水から湧き出しているその謎の液体は、東西南北の通路に伸びる溝へと流れ込んでいた。
周囲の壁が生暖かく感じた。壁の所々に走る赤い亀裂が、まるで脈打つ血管のように見えた。
魔族の気配が強い――否、まるで巨大な魔族の胃袋の中にでもいるようだ。
タニアとセレナはお互い困ったような表情を浮かべた。
想定していたよりずっと、地下空間は危険な状況になっているようだった。
完全に、異界化している。
「ねぇ、タニア。あたし、伝承でしか知らないんだけど……ここって、異界、ってヤツよね?」
「そうだと思うにゃ――でも、この前にヤンフィ様が潰した異界よりも、ずっと瘴気が濃いにゃ」
二人の会話に応えるように、ォォォオオ――と、通路の奥から、嘆くような悲しい響きの声が反響してくる。人の声ではなく、風の音でもないその響きに、二人は顔を顰めた。
すると、カビ臭いだけだった地下広場に、どこからともなく非常に不愉快な悪臭が漂ってくる。しかし風の動きはない。まるで足元から湧き上がってきたかのように、たちまち周囲は悪臭で満ちた。
不快なその臭いに、セレナは鼻を押さえる。
「……何よ、この臭い。排泄物と腐臭、それに死臭が混じったような……どこから発生したの?」
セレナがキョロキョロと辺りを見渡す。宙を浮かぶ光の玉が、クルクルと回りながら周囲をいっそう明るく照らした。
けれど、先ほどと何ら変わったところは見受けられない。
一方で、タニアは通路に流れ込んでいる紫色の液体に触れてみた。するとその液体は、まるでスライムのような粘着性を持っており、タニアの体温よりも20度以上温度が高かった。
けれどそれほど温度が高いのに関わらず、不思議と外気へは影響を与えていない。広場を含めて、地下は全体的に肌寒い。ところで紫色の液体に匂いはなく、毒性もなさそうだった。
「臭いの元は、この変てこにゃ液体じゃにゃいにゃ……にゃんかこの臭い、胃液っぽいにゃ」
タニアはスンスンと鼻を鳴らしながら、周囲を注意深く確認する。けれど、漂ってきている悪臭の元は特定できなかった。
ォオオ、ォオオゥ、ォオオォオッ――と。
再び気味の悪い音が、通路の奥から響いてくる。そして、より強い悪臭が漂い始めた。しかも今度は先ほどと違い、鼻を刺すような刺激臭が混じってくる。
「――タニア。この悪臭、かなり強い魔力を含んでる毒ガスのようね。魔術耐性が低いと、たぶん身体の内側から溶けて腐るか、発狂するわよ――これ、間違いなく、あたしたちに対する攻撃よね?」
「だとして、敵が見つからにゃいにゃ。気配はあるけど姿は見えにゃいし、【鑑定の魔眼】でも怪しいところは見つからにゃいにゃ」
セレナはフードを目深に被って鼻を押さえながら、タニアの背後に回る。タニアは背後の死角をセレナに任せつつ、手に付いた液体を炎の魔術で焼却して、通路の奥に目を凝らした。
四つある通路の奥からは、同じ音量で等間隔に不気味な音が響いてくる。その音の響きはよくよく感じ取れば、聴く者を不愉快にして、また恐怖を煽り、狂気に陥れるような魔力を孕んでいた。
漂ってくる悪臭同様に強力な魔力だ。つまりこれも、音波による精神攻撃の類である。
タニアとセレナは注意深く周囲を見渡す。だが、どれほど周囲に注意を向けても、殺意はおろか敵意も感じない。けれど事実として、地下に侵入したタニアとセレナを害そうとしている存在がいる。
それが何者で、どんな規模で、どこにいるのか。あまりにも敵の情報が不明確だった。
これでは、迂闊に動くことが出来ない。
「漂ってくる気配は、魔族……それもかなりの上位存在っぽいけど……敵意とか戦意が、まるで感じられないのが不気味ね」
「にゃにゃ……あちしたちの様子を窺ってるわけでもにゃさそうにゃぁ……」
「ねぇ、タニア。もしかして、この悪臭とか音って、立体魔法陣とやらの影響じゃないの?」
「――ヤンフィ様から教えてもらった知識に、そんにゃ効果にゃかった。にゃので、これは魔族の仕業にゃ」
悪臭が段々と強まる中、タニアとセレナは背中合わせにお互いの認識をすり合わせる。その間、周囲の景色は特に何も変わらず、また、見渡す限りでも敵の姿も見えない。
「魔族の仕業としたら――これ、魔貴族かしら? まさか魔神が既に顕現してるとか、ないわよね?」
「さぁ、にゃぁ? 分からにゃいにゃぁ。けど、どっちにしろ、四択にゃ」
タニアはサラリと言って、東西南北に伸びる四つの通路を順繰りに眺めた。そのどれからも、不気味な音は響いてきている。
どの道に進むのが正解なのだろうか。セレナも悩ましげに四つの通路を眺めた。
――しかし実際のところ、正解の道が一つとは限らない。
そもそも敵が複数居る可能性もあるし、目的である【魔神召喚】の立体魔法陣がこの四つの道のどこかにある保証もなかった。
タニアとセレナはしばし無言で、四つの通路をジッと観察する。けれど、何も代わり映えせず、ただただ無為に時間が流れていった。
当然その間、悪臭は絶えず発生し続けている。
「にゃぁ、セレナ。同時で、四つの通路に大威力の魔術をぶっ放すってどうにゃ? 奥に隠れてる魔族に先制攻撃をお見舞いするにゃ。セレナ、妖精石で魔力が限界を超えて回復してるにゃ? 魔力、有り余ってるにゃ?」
何も起きないことに痺れを切らしたタニアが、背中合わせのセレナにそんな提案をする。その提案に、セレナは難しい顔を浮かべて、曖昧に頷いた。
「……先制攻撃、って……まぁ、それ自体は、やってみてもいいけど……確かに魔力は回復してるし? でもさ、それで仕留め切れなかった場合に、反撃が来たらどうするの? いえ、反撃してくる程度ならいいけど……万が一、通路の奥に【瘴気の繭】があって、しかもそれが魔術の衝撃で孵化して、中から魔貴族が出て来たりとかしたら、そっちのが厄介にならない?」
あたし魔貴族と一騎打ちするのは無理よ、と言葉を続けるセレナに、タニアがフッと鼻で笑った。
「大丈夫にゃ。にゃにがあっても、あちしが対応するにゃ。だいたい、魔貴族の一体くらい、あちしの敵じゃにゃいにゃ。にゃので、心置きにゃく最大火力で魔術を放つにゃ」
タニアは自信満々に軽く断言して、グッと拳を握り締めた。そしてその言葉を裏付けるように、全身に重厚な魔力を漲らせる。
三時間程度の仮眠でも、タニアの魔力は充分以上に回復できたようだ。
「――あ、できれば、あちしの魔槍窮と同程度の威力をお見舞いするにゃ」
「……アンタの魔槍窮と同程度って……割と無茶な注文よ、それ……まぁ、とりあえず、やってみるけどさ……何かあったら、任せるわよ?」
「任せるにゃ」
セレナはタニアの言葉に一応納得して、スッと静かに深呼吸を繰り返す。集中を高めて、感覚を研ぎ澄ませて、全身の魔力を両の掌に篭める。魔槍窮と同程度の魔術を放つ――その為に、雑念を振り払い、精神を集中しているのである。
セレナは攻撃特化のタニアと違い、元来は治癒術師である。そもそも攻撃系の魔術よりも防御系の魔術の方が得意なのだ。それゆえに、セレナが保有する攻撃魔術の中に、タニアが言う『魔槍窮と同程度の威力』を持つ魔術など存在しない。そんな大威力の魔術など習得していない。
だが、ここで出来ないと引き下がるのは癪である。無理難題ではあるが、不可能ではない――試したことはないが、聖級の魔術を行使すれば良いだけだ。
セレナは意を決して、ゆっくりと魔力を練りつつ、長々とした詠唱を始める。
「ふぅ、行くわよ――――『天をも穿つ流水よ。我にひととき、汝のその偉大なる力を貸し与えたまえ。我が前に立ち塞がる敵を圧殺し、我が前に立ちはだかる障壁を打ち崩せ。数多の有象無象を殲滅する誉れを、我に授けよ――」
セレナのその美しい詠唱は、二重にも三重にもなって地下空間全体に響き渡った。同時に、魔力を篭めた掌を肩の高さに上げて、東西南北全ての通路に向ける。
ほぅ、とタニアの感心した吐息が聞こえた。刹那――辺り一面が水で埋め尽くされる。
「――天水』」
突然の水に覆われたセレナは、しかし何ら焦ることなく、静かにそう宣言した。すると途端に、広間を埋め尽くしていた大質量の水が凄まじい勢いで凝縮されて、セレナの腕に渦を巻きながら絡みついた。
――その一拍後、超高圧に圧縮された水が、レーザー光線の如く四つの通路の奥へと放たれた。
ちなみに水レーザーの直径は1メートルほど、速度は音を置き去りにして、威力はあらゆる障壁を豆腐の如く突き破る。
水属性の聖級攻撃魔術【天水】。
大質量の水を、超高圧に凝縮して、対象に叩きつける魔術である。放つ形状はいかようにもコントロールできる。非常に使い勝手の良い、破壊力抜群の魔術だった。
ォオオオオオオオン――と。
直後に、まるで狼が遠吠えするような悲痛な絶叫が響いてきた。そして、四つの通路全てから、風速50メートルを超える突風がセレナたちの立つ広場に吹き込んでくる。
タニアもセレナも、その突風には思わず眉根を寄せて受身を取った。さすがに踏ん張らないと吹っ飛びそうな風圧である。
――突風はすぐに収まった。
すると、先ほどまで漂っていた悪臭が綺麗サッパリと失せており、通路の奥から響いてきていた不気味な音も聞こえなくなっていた。
「セレナ、やるにゃぁ――まさか、聖級を行使できるにゃんて思わにゃかったにゃ。侮ってたにゃ」
「……クッ……それは、どうも……」
セレナは自らの限界を超えた魔術を行使した反動で、息も絶え絶えにその場に膝を突いた。タニアはそんなセレナを見て、にゃはは、と楽しそうに笑うと、肩をポンポンと叩く。
「セレナのおかげで、敵の位置が分かったにゃ。正解の通路は、こっちにゃ」
タニアは不敵な笑みで東の通路を指差した。セレナは呼吸を整えながら顔を上げる。
東の通路は、他の通路と変わらず真っ暗である。しかしよくよく目を凝らすと、通路の奥の闇が歪んで蜃気楼のように揺らめいていた。他の通路はそんなことはない。
「あの奥、歪んだ地点から先に、防御結界があるにゃ。と言うことは必然、魔神召喚の立体魔法陣――生贄の柱があるはずにゃ」
タニアはセレナの肩を掴んで強引に立ち上がらせると、もうひと踏ん張りにゃ、とその背中を叩く。
「防御結界の解除も、セレナの仕事にゃ。頼むにゃ」
「…………グッ……アンタ、ねぇ……ちょっと人使い、荒いわよ……少し、休ませてよ」
セレナはタニアに恨めしい視線を向けながら訴えるが、タニアはどこ吹く風とスルーしていた。無理やりセレナの腕を引いて、通路の奥へと歩き出す。
このまま休憩抜きか、とセレナが諦めの吐息を漏らした時、通路全体に爆音の如き叫びが響き渡った。
――――ガァァ、アアォウウウッ。
その咆哮は通路の空気をビリビリと震わせて、タニアとセレナの表情から感情を失くさせる。
向かおうとしていた東の通路の奥から、明らかに異様な気配と殺気が放たれていた。
※時系列A-2