第四十七話 神殿の攻防/煌夜&ヤンフィ・ソーンSide
煌夜が意識を取り戻した時、そこは無味乾燥とした石造りの広間だった。
(――こ、ここは……?)
煌夜はキョロキョロと辺りを見渡す――ことが出来ず、身体が自由に動かないことに気付く。と同時に、自分の身体がありえない速度で躍動していることを自覚した。
ギン、キン、カンカン――と、甲高い金属音があちこちで反響しており、白銀の何かが周囲の石壁に突き刺さる光景が眼に飛び込んでくる。
(あ、これ、夢か……)
(――夢ではないぞ、コウヤ。呆けてないで、意識をハッキリとさせよ!!)
寝惚けているのか、と胡乱な思考で考えるのを停止した時、ヤンフィの鋭い叱責が脳内に響く。その声に頬を叩かれたような衝撃を受けて、煌夜は意識を完全覚醒させた。
「チッ――ぉおおッ!!」
珍しくもヤンフィが、野獣のような絶叫を上げていた。いったい何が起きているのか、煌夜は慌てて状況を確認する。
けれど、当然のように理解は出来なかった。唯一理解出来たことは、ヤンフィが何者かと激しい戦闘を行っているということだけだ。
「フッ――ハッ!」
しゃがむ、胸を反らす、身体を捻る、跳び上がる、等々。その所作の都度、短く鋭い呼気と共に、左腕が尋常ではない動きで【紅蓮の灼刃】を縦横無尽に振るっていた。傍から見るとそれは、まさに鞭を思わせた。
そしてその動きは、煌夜が覚醒してからいっそう苛烈に、いっそう俊敏になっていく。
ヤンフィのそんな動きを、煌夜はまるで他人事のように、ただただ呆然と眺めていた。いや、というよりも、眺めることしか出来なかった。体捌きもそうだが、その剣捌きがあまりにも速過ぎて、煌夜の脳では何をしているのか認識できなかった。
「ようやっと、コウヤが起きたからのぅ。ここからが、妾の腕の見せ所じゃ――『迸る剣気、焔の如き。気焔之太刀』」
ふいにヤンフィがそう呟いた。すると、中空を飛び回っていた赤い剣閃が突如として燃え上がり、周囲に火の粉を撒き散らす。
その様はまるで、炎の蛇が踊り狂っているようだった。
「ば、化物、め――っ!! 貴様、いったい何者だ!? 何が目的で、侵入してきた!!」
「……汝に、化物呼ばわりされたくはないのぅ。汝こそ、中々に化物じゃよ――っと!」
キ、キキン――ッ、と白銀の何かが中空で弾かれて、味気ない石床に転がる。チラと見ればそれは、手裏剣みたいな形状の刃だった。
ヤンフィ目掛けて上下左右から飛来する凶器、それを撃ち落しながら広間を駆け巡るヤンフィ。
そんな状況を認識した途端に、煌夜はようやく何が起きているか朧げに理解する。
(ここ……が、目的地の神殿――【ヘブンドーム】ってとこ、か?)
恐らくきっと、ヤンフィは何らかの手段でもって、夜空に浮かんでいた浮遊城【ヘブンドーム】に到達したのだろう。しかし侵入した後で、敵に見つかった。それで追われている、という状況に違いない。
煌夜は記憶を辿る。だが、思いだせる最後の光景は、フードを目深に被った灰色パーカーの二人組、ライ、レイと、霧の濃い路地裏で対峙していた場面である。
そこから何が起きて、ここに至ったのか、その過程はスッポリ抜け落ちているが、概ね予想を外してはいないだろう。
(――さて、コウヤよ。状況に疑問は尽きぬじゃろうが、とりあえず端的に説明してやろう。妾は今、敵に襲われておる)
ヤンフィが燃える剣を振るい、左右同時に迫り来た白刃を撃ち落す。そして、言わずもがなの状況説明をしてくれる。大変ありがたい。煌夜の想像はドンピシャリだった。
「これも躱すか!? クソ、糞、くそ!!」
若い男性が悪態を吐く声が、石床に反響していた。しかし声の主はどこにも見えない。
声の出所はどこか、ヤンフィがキョロキョロと周囲を一瞥するが、やはりどこにも姿は見えなかった。見えるのは、何もない中空に突如として現れて、凄まじい速度で絶え間なく飛んで来る白刃だけだ。
煌夜では避けるどころか反応さえ出来ないだろうその刃を、けれどヤンフィは、いとも容易く撃ち落しつつ、広間の中央付近をグルグルと回っていた。
広間の出入り口は、部屋の隅に小さな扉が、正面には両開きの大きな扉がある。だがヤンフィは、そのどちらにも向かう素振りがなかった。ヤンフィが何をしているのか、煌夜は疑問だった。
「起点は、どこじゃ――ッ!? チッ」
ヤンフィは忌々しげに舌打ちして、出口には目もくれずに、広間の中心で円を描くようにステップを続けていた。空中に描かれる赤色の軌跡と、火の粉を撒き散らしながらの美しいその剣舞は、まさに炎の精が踊っているようである。
煌夜は窮地にも関わらず、ついつい感嘆の吐息を漏らす。
「――クソ、クソ、クソがぁ!! 埒が明かない!!」
荒々しく苛立った声が反響する。それに呼応するように、飛んでくる白刃は激しさを増していく。けれど、やはり声の主の姿は見えない。
ザン、とヤンフィが炎の剣を一閃した。
カランカラン、と白刃が床に転がり、壁に突き刺さる。幾度も幾度も繰り返されるその光景。それは、激しさを増そうとも変わらなかった。
(ヤンフィ、逃げないのか!? 何をグルグルグルグル……)
(ここは敵が用意した異次元空間じゃ。見えておる出口は、ただの飾りじゃよ)
(――――はぁ!?)
衝撃的な告白を事も無げに済ませて、ヤンフィはスッと音もなく剣を真横に振るう。中空に炎の軌跡が生まれて、雨あられと降り注ぐ白刃を薙ぎ払う。
(い、異次元、空間って、どういうことだよ?)
(そのままの意味じゃよ。妾はどうやら、魔眼を過信しておったようでのぅ……不意を突かれて、気付けばここに囚われておった)
苦笑交じりのその発言に、煌夜は不安が膨らんだ。軽い調子で話しているヤンフィだが、状況は一向に好転していない。
フッ――という短い呼気と共に、ヤンフィは何度目になるか分からない【気焔之太刀】を振るう。
剣閃が炎を生み、生まれた炎は蛇のように空中を泳いで、ヤンフィの周囲を焦がす。
「グッ――クソッ、糞!!」
炎が空中を焦がすたび、若い男性の悪態が響く。相変わらず姿は見えないが、その声はどこか焦りが見え隠れしていた。
一方、ヤンフィも薄笑いを顔に浮かべていたが、内心では少し焦り出していた。段々と回転の上がる白刃の嵐。捌くのはまだまだ余裕なのだが、技術面ではなく、体力面で限界が近かったのだ。この調子で動き続けると、煌夜の身体が持たないかも知れない。
――とはいえ、そんな両者の焦りとは裏腹に、状況はしばらく変わらなかった。
まるで申し合わせたように、繰り返しの録画映像のように、幾度も幾度もヤンフィは炎の剣を振るい、縦横無尽に襲い掛かってくる白刃を弾き飛ばす。悪態を吐く男性の台詞も変わらず響き続けて、無限ループでは、と錯覚するほど同じような場面が繰り返された。
だがそんな膠着状態は、当然ながら永遠には続かない。
そろそろ本格的に煌夜の身体が悲鳴を上げ始めた時、やっとのことでヤンフィは、敵の尻尾を掴むことに成功する。
「フッ……ようやく見つけたぞ。起点と――汝を」
ヤンフィは会心の笑みを浮かべてそう呟いた。そして唐突に、ピタリとその場で動きを止めて、紅蓮の灼刃を鞘に収める。
(――なっ!? お、おい、ヤンフィ。いったいどうした!?)
諦めたとしか思えない無防備な態度のヤンフィに、煌夜が驚愕の声を上げた。
全方位から降り注ぐ白刃の雨は止んでいない。このままでは串刺しのズタボロになってしまうだろう。
しかし、ヤンフィは不敵な笑みだけ浮かべて、煌夜に答えることなく瞼を閉じた。
「――――『煌く一閃、其れすなわち死への誘い。死閃之太刀』」
辞世の句のように静かに告げたヤンフィに、観念したのか、と姿の見えない敵の声が応えた。その刹那、眼前の空間に亀裂が入る。ピシリ、と硝子にヒビが入ったような音が辺りに響き、次の瞬間に空間がぐにゃりと歪んだ。
「ば、馬鹿なっ!? 何が起き――――が、はっ!?」
驚愕の声。その直後、苦悶の悲鳴と共に、ドサリと何かが倒れる音が聞こえた。途端に、強い血の臭いと死臭が漂い始める。
ヤンフィはゆっくりと瞼を開けた。
「……ほぅ。思うていたよりも若いのじゃのぅ」
ヤンフィが目の前の光景を見て、小馬鹿にした風に呟いた。その足元には、二十歳前後の青年が臓物の海に沈んでいた。
ふと周囲を見渡す。すると周囲に広がっていた光景は、今の今まで駆け回っていた石造りの広間でなく、石柱が等間隔に幾つも立ち並んだ大理石の通路であり、いかにも神殿の廊下と呼べるような空間だった。そしてこの廊下には、死屍累々という表現こそ相応しいほど夥しい数の死体が転がっていた。その死体の全ては、胴体を真っ二つに切断されている。
「コウヤよ。すまぬが、もはや侵入したことは敵陣に知れ渡っておる。ここから先は時間との勝負になるじゃろぅ――ひとまず、魔道元帥とやらに遭遇しないことを祈っておれ」
ヤンフィは、足元の血溜まりに倒れ伏している青年の首を蹴り上げて圧し折ると、左右を警戒しながら廊下の奥へと走り出した。
この廊下は室内ではなく屋外にあるようで、立ち並ぶ石柱の外側には夜空が見えている。
「――いたぞ! 例の侵入、……ぐっ!?」
直線距離にして100メートルほどの廊下を疾駆していると、正面に仰々しい装備をした兵士たちが立ちはだかっているのが見えた。兵士たちはヤンフィの姿を視認するが否や、問答無用に武器を構えて、一斉に魔術を展開しようとした。
けれどその反応は――――遅すぎる。
ヤンフィは兵士たちの姿を認めると同時に、スッと腰を落として腰元の剣を抜き放つ。抜き放った剣は中空に残像を焼き付けて、真一文字に一閃された。
すると、どうだ――立ちはだかっていた兵士たちの胴体が、まるで初めからそうであったように、ズルッと横にずれて、重力に従い床に転がった。
そうしてそのまま、床には血の池が幾つも出現する。
(――――っぅ、う!?)
煌夜は思わず、その凄惨な光景と鼻を刺激する死臭に、吐き気を催した。しかし、身体の主導権はヤンフィにあるので、当然吐くことは出来ない。だからか、グラグラと脳が揺られるような気持ち悪さに顔を顰めた。
そんな煌夜の気分には頓着せず、ヤンフィは速度を落とすことなく血の池を飛び越える。
兵士たちが警護していたその場所には、巨大な鉄扉があった。そこを開け放つ。
「奴が侵入者だっ!! 殺せ!!」
鉄扉の先の部屋は、礼拝堂のような部屋だった。そこに、パッと見渡しただけでも十数人の魔術師が待ち構えている。その魔術師たちは全員、同じようなローブを纏っており、雰囲気は如何にも熟練の実力者を思わせた。
ヤンフィは疲れたように息を吐く。雑魚には違いないが、烏合の衆ではなかった。
突然の闖入者に対して、その魔術師たちは皆、冷静に反応できている。手慣れた様子で間髪入れず一斉に、彼らは魔術を展開してきた。
その魔術一つ一つの威力は、さして警戒するほどではなさそうだが、全てを受け切るのは煌夜の身体が耐えられまい。かと云って避けることも出来そうにない。となれば、取り得る手段は限られる。
「これだけの魔術を斬るのは、至難じゃが……」
礼拝堂に入ったヤンフィは、待ち構えていた魔術師一団が放つ壁の如き攻撃魔術を前に、一瞬も逡巡することなくすぐさま全速力でもって突撃した。
炎の魔術、氷の魔術、風の魔術、土の魔術――それら複数の属性魔術が、驟雨の如く襲い掛かる。その苛烈な攻撃の渦の中心に、ヤンフィは躊躇なく飛び込んだ。けれど当然ながらそれは、自殺行為でも自暴自棄になったわけでもない。
ヤンフィは紅蓮の灼刃を逆手に持ち替えると、一瞬だけグッと溜めを作ってから、真一文字に振り抜いた。
狙うは、展開された魔術の魔力核だ。理論上、魔力核を破壊すれば、魔術はその体を成さなくなる。
――とは言え、そんな化物じみた芸当が為せるのは、ヤンフィくらいのものだろうが。
「――ば、バカなっ!?」
ヤンフィと攻撃魔術の壁が激突する寸前、振り抜いたヤンフィの剣閃が全ての魔術を掻き消した。それはまるで、突風が砂塵を吹き飛ばすような光景だった。
あまりにも呆気ない結果である。けれどその結果は、ヤンフィ以外の誰も予想出来なかったことでもある。出会い頭で会心の不意打ちを放ったつもりの魔術師たちは、その光景を前に、驚愕して思考を停止させていた。
「あ、ありえんぞッ!? ただの剣技で、魔術を打ち消し――いや、掻き消した、だと!?」
銀色のローブを纏った魔術師の一人が、声を震わせながらそんなことを叫んだ。他の魔術師たちは、信じられない、と駄々っ子のように首を振りながら、目の前の現実を否定していた。
――その無意味な思考停止状態。致命的なまでの隙を、ヤンフィが逃すはずがない。
「『最速にして、不可視の飛刃――雨燕』」
あまりにも速すぎる太刀捌き故に、ヤンフィの腕が幾重にもぶれて見えた。それとほぼ同時に、礼拝堂に居た魔術師のうち、金色のローブを着ていた三人以外の首が床に落ちる。遅れて、フォン、と風切り音が手元から聞こえた。
(……デタラメすぎだろ)
煌夜はその光景を見て、ついぼやいた。ヤンフィが凄いことは理解しているが、煌夜の身体を使ってこれほどの芸当を成し遂げる様を見ていると、正直、夢の出来事にしか思えない。
「討ち損じが、三人のぅ――――フッ!!」
ヤンフィは風の如く疾駆していたかと思うと、瞬間、何かに弾かれたような勢いで斜め後方に跳び上がった。およそ二足の人間の動きとは思えないそのリアル立体機動に、煌夜は思わず、口から心臓が飛び出そうになる。電車の急停止より激しく、脳と胃がシェイクされた。
ガガガ、とたっぷり一秒遅れて、硝子の破片を思わせる氷の飛礫が床板に突き刺さる。ヤンフィが止まらず真っ直ぐ駆け抜けようとしていれば、まさにドンピシャで直撃コースだった。
「コイツはオレが抑えておく!! お前ら、急いで親衛隊に連絡を――」
ヤンフィは重力を無視して、礼拝堂の天井に伸びる石柱の側面に着地する。と、垂直の石柱を天井に向かって駆け上る。
そんな奇天烈な動きに畏怖の視線を向けながら、かろうじて生き残った金色のローブ三人のうち、赤髪の魔術師が他の二人に指示を飛ばす。
「――汝ら、甘いのぅ。妾を抑えられるはずがあるまい」
しかし、その指示を最後まで言い切る前に、赤髪の魔術師以外の二人はあっけなく胴体を真っ二つに両断されていた。ヤンフィは不敵に笑いながら紅蓮の灼刃を一振りして、礼拝堂の天井を前傾姿勢で駆けていく。
天地逆転したかのような視界と、ヤンフィのその凄まじい動きに、煌夜は目を回していた。
「く、くそぉ……だ、誰かッ――ぉおおッ!!」
あっと言う間に唯一の生き残りとなった赤髪の魔術師は、天井を駆けるヤンフィにすかさず両手をかざした。直後、赤髪の魔術師を囲むように巨大な炎の柱が四つ出現する。それは炎属性の上級魔術【炎竜】である。
天井を駆けながら、ヤンフィはそれを横目に、ほぅ、と感心の吐息を漏らした。無詠唱で上級魔術を展開できるとは、中々の実力である。少々舐めていたかも知れない。
そんな思考をしていると、巨大な炎の柱が互いに絡み合い、一本の巨大なレーザー光線と化して、ヤンフィに迫ってきた。
「これは、流石に斬れぬのぅ――仕方ない。顕現せよ、エルタニン」
ヤンフィは目にも留まらぬ早業で紅蓮の灼刃を鞘に収めると、自身の左手首を掴んで地上から立ち昇って来る炎のレーザーを見据えた。そして、そのレーザー目掛けて急降下する。
果たして、炎のレーザーはヤンフィに激突し――けれど、ヤンフィを焼き焦がすことなく、いやそもそもダメージすら与えること叶わず、ヤンフィの持つ魔剣に吸い込まれた。
その有り得ざる光景に、もはやたった一人の生き残りである赤髪の魔術師は、恐怖に歪んだ表情で唖然と口を開けていた。
渾身の魔術が、いともあっさりと無効化されたのだ。予想だに出来なかったのだろう。
「……呆けておらずに、追撃すれば、まだ勝機があったものを」
ダン、と礼拝堂の床を蹴り上げて、着地すると同時に、ヤンフィは赤髪の魔術師へと飛び掛かった。赤髪の魔術師はそれに反応できず、ただ呆然と肉薄する片腕のヤンフィを見ていた。
一瞬の交差――左腕のないヤンフィは、右手に握った魔剣エルタニンで、赤髪の魔術師の心臓付近を切り裂いていた。勝負はそれで決する。
「は? なん――――ぁ」
ヤンフィはそのまま全速力で礼拝堂の奥へと駆け抜ける。その背後に、拍子抜けのような声と、ドサリと人が倒れる音が聞こえてくる。振り返るまでもなく、赤髪の魔術師は魔力枯渇で絶命である。
禍々しい黒色をして、刃はなく鉄板状、蛇の如くうねる剣身をした魔剣エルタニン。
何一つ斬ることの出来ないナマクラな魔剣だが、あらゆる魔力を奪い尽くすことが出来る究極の魔剣でもある。使い方によっては、武器にも防具にもなる。ちなみに、普段は煌夜の左腕の代用をしている。
「クッ……やはり、上級魔術程度では、腹の足しにならぬか……」
戻れ、と小さく呟いて、ヤンフィは魔剣エルタニンを煌夜の左肩の辺りに構えた。途端に、魔剣エルタニンは緑色の光を放つ粒子に変わり、無くなっていた左腕へと転じる。
ヤンフィは礼拝堂の奥、置かれているグランドピアノの後ろ側にあった大扉を開け放ち、その向こう側へと駆け込んだ。
そして、目の前に広がっていた光景に顔を歪める。
礼拝堂の大扉を抜けた先は、吹き抜けになった円形の大広間だった。
その床には重厚な絨毯が敷かれており、部屋の奥には緩やかな螺旋階段が控えている。二階にはバルコニーが設けられていて、高い天井からは巨大なシャンデリアが吊るされている。
この景観だけ見れば、舞踏会の会場と言って差し支えない。しかし、その景観を打ち壊している要因が二つあった。
一つは、重厚な絨毯を赤く染め上げている死体の山だ。大広間の至るところに、襤褸雑巾のように転がっている冒険者たちの死体。それが異様な空気を醸し出している。
そして、そんな死体の山に囲まれて、平然と突っ立っている半裸の巨漢。その見覚えのある姿に、ヤンフィは舌打ちした。
「――何故、汝がここに居る?」
ヤンフィは、ふぅ、と一息吐きながら、すかさず紅蓮の灼刃を抜き放って構える。心底不愉快だ、とばかりに、正面で笑顔を見せる巨漢を睨んだ。
「何故、って……そんなの決まってるだろ、ヤンフィ様。本当にオレは、ヤンフィ様を死なせたくないんだって……いや、まぁ、そりゃあ、色々と隠し事してたことは悪かったぜ。けど、だからって、こんな無謀な突貫しないでも――」
「もう一度だけ、問う。ソーンよ、何故、汝がここに居る?」
両眼に鉤爪状の傷、肩に掛かるドレッドヘア、丸太のような首には黒いチョーカー、極めつけにブーメランパンツ一丁の半裸の巨漢――忘れようもないその変態は、ソーン・ヒュードである。
インデイン・アグディの宿屋で決別してから数時間、まさかここで遭遇するとは思っても見なかった。
「――ヤンフィ様を、助ける為だぜ。ここまで無傷で来れたのは流石だけど、こっから先は、いくらヤンフィ様でも命懸けになる」
ヤンフィの強い眼光を真正面から受けて、ソーンはやれやれと肩を竦めていた。非常に気に食わない態度だが、そこに突っ掛かっても仕方あるまい。ヤンフィはグッと怒りを飲み込む。
「ソーンよ。汝の言葉はもはや信用ならぬ。妾の邪魔をするならば、容赦はせぬ…………と、云いたいところじゃが、今一度だけ、挽回の機会を与えよう」
ヤンフィは魔眼に魔力を篭めて、ソーンの感情を読み取る。また同時に、ソーンが嘘を吐いていないかどうかを見極める。
ヤンフィのその言葉に、ソーンは途端破顔して、よっしゃ、と呟いて何度も頷いていた。どうやら、喪われた信頼を取り戻せる好機だと勘違いしている様子だ。
(……図らずも、クダラークまで帰る手段を取り戻せたのぅ)
実際のところ、ソーンはあくまでもクダラークに戻る為の足――それ以外、ヤンフィはソーンを使うつもりはなかった。だが、何らか有益な情報を引き出せるかも知れない。
「先ほど、ここから先は命懸けになる、と云うたな? では、ここから先には何がある?」
ヤンフィは紅蓮の灼刃の切っ先を、二階左のバルコニー脇の扉に向ける。それを見て、ソーンは感嘆の声を上げた。
「流石過ぎるぜ、ヤンフィ様。どうして初見の、この【ヘブンドーム】で、そこまで真っ直ぐ目的地を目指せるのか。ここって、魔道元帥ザ・サンの時空魔術で、あちこちが異空間と繋がってる迷路なんだぜ――ああ、ああ。はぐらかすつもりはねぇよ。分かってる。ここまで来ちまったんだ。いい加減、もう言うぜ……ヤンフィ様が絶対に激昂して突貫しそうだったから、言いたくなかったんだがよぉ……」
ソーンは困ったような表情でポリポリとこめかみを掻いてから、意を決した風に口を開いた。
「……この先っつうか、あの扉から通じてる先が、ヤンフィ様の目指してる牢屋がある部屋だぜ。異世界人たち攫われた連中は全員、あの奥にある部屋に囚われてるぜ。けどその部屋は――魔道元帥ザ・サンの私室でもある。ああ、ちなみに今はザ・サンとエルネスが絶賛お楽しみ中だぜ」
ソーンの台詞に、なに、とヤンフィは眼を細めた。嘘か否か、ソーンの眼を覗き込むが、嘘偽りなく何の誤魔化しも見受けられない。
ヤンフィに見詰められて、ソーンはニッコリと気色悪い笑みを浮かべると、羨ましいぜ、と漏らしながらヤンフィの身体を睨め回す。
ヤンフィは嫌悪感をあらわに、気持ち悪いのぅ、と吐き棄てた。
(あ、え? エルネス、ってあの金髪ポニーテールの人?)
一方で煌夜は、ソーンのそのジェスチャーに困惑しながらも、宿屋で会った時のエルネスの姿を思い浮かべた。凹凸の少ない修道服姿だったが、プロポーションは悪くなかった。顔立ちも整っていて妖艶で、いかにも大人の女性という雰囲気だった。彼女はザ・サンの愛人だったのか。
そんな状況ではないと思っていても、ついつい男のサガでそれを妄想してしまう。
(…………コウヤよ。盛るのは後にせよ)
(う――い、いや、その、ごめんなさい)
ヤンフィが冷めた声でツッコんだ。慌てて、煌夜は邪念を振り払う。
「……それで? ソーンよ。よもやこの期に及んで、誤魔化そうとは思うておらぬよな?」
ヤンフィは冷徹な視線をソーンに向けて、凄まじい覇気を叩きつけながら釘を刺す。ソーンは指の出し入れジェスチャーを止めて、ゴホン、と咳払いをした。
「本当、ヤンフィ様にゃあ敵わないぜ――ああ、分かってるよ。もう隠さねぇ……異世界人たちが囚われてるってのは、確かに事実だ。だが、あそこの連中は、ヤンフィ様が命を懸けて助け出すほどの価値はねぇぜ。だって囚われてる連中は皆、自立行動も出来ない廃人――肉人形だぜ? オレは少なくとも、アレを生きてるとは表現できねぇ。あいつらは、肉体が死んでいないだけだぜ」
(――――は?)
ソーンのあっけらかんとした台詞に、煌夜は理解が追いつかず思考を停止させる。一方で、すかさずヤンフィは冷静に問い返した。
「肉人形――精神汚染されて、自我崩壊した上で、魔力を喪失した状態のことか?」
「あ? ああ、そう、そうだぜ。いわゆる肉人形と呼ばれる廃人状態だ。だから、助ける意味がそもそもねえんだぜ」
「ふむ……奴隷化の禁術、か……じゃが、なればまだ救いはあるのぅ」
ヤンフィは苦々しく頷いてから、もう一度ソーンの瞳をジッと見詰めた。ソーンはまだ知っている全てを語ってはいない。
「ふぅ――そんでもまだ、助けるつもりですか。ああ、ああ。前向きですねぇ。はいはい、そうだろうと思ってたぜ。あー、ちなみに異世界人たちは、殺処分されるまでは、この神殿で兵士たちの慰み者として扱われてるぜ。およそ人権なんざ存在しない道具扱いをされて、それをただ悦ぶだけの人形だ。そんでもまだ助ける気になるかい?」
「……精魔の儀か。胸糞悪いのぅ。じゃが、いっそう急いで救出せんとならんのぅ」
「それもご存知かよ――そうそう。精魔の儀、だぜ。特殊な魔法陣を敷いた密閉空間に、強烈な欲を満たして、複数人の魔力を混ぜ合わせることで、意図的に異界を創り出す禁術。ちなみにそこまで知ってるなら、これも承知だろうが……異界ってのは、魔貴族を生み出す特殊な空間だぜ」
ソーンの補足説明に、ヤンフィはギリリと歯噛みする。人の身で異界を創り出す禁術を扱うとは、想像以上に魔道元帥ザ・サンとやらは危険な存在のようだ。殺せるのならば、ここで殺しておくべきだろう。
さて、そんな状況と分かれば、もはや一刻の猶予もない。一秒でも早く、胸糞悪い宴に興じている塵芥を殺して、異世界人たちを助けなければ――
ヤンフィのそんな焦りを察したか、ソーンが慌てた様子で言葉を続けた。
「ぉおっと、待ってくれって、ヤンフィ様。だから、今この瞬間はマズイんだって――魔道元帥ザ・サンと直接対決することになるし、エルネスの糞女も相手取らなけりゃあならない。いくらヤンフィ様でも、その二人を相手にするのは自殺行為だぜ――だからこそ、オレが止めにきたんだぜ?」
「――ソーンよ。その話が真実であることは、汝の感情の色から理解した。その事情があったればこそ、妾に真実を告げなかったのも理解できる。じゃが、妾が歩みを止める理由にはならぬ」
覚悟は決まった、とヤンフィは紅蓮の灼刃を一振りしてから、ゆっくりと螺旋階段に向かって歩き出す。それを止めるべく、ソーンは両手を広げて立ちはだかった。
(…………おい、ヤンフィ。コイツ、何を言ってるんだ?)
一方、目の前に立ちはだかったソーンと対峙した時、ようやく煌夜が一言呟いた。
停止していた思考が、やっとのことで動き始めたようだ。とは言え、まだまだ認識は追い付いていない。
ふぅ、とヤンフィは心の中で溜息を漏らす。煌夜の感情が爆発する前兆を感じる。だが、今はまだ爆発して欲しくはない。煌夜の意思が強くなればなるほど、身体のコントロールが鈍くなるからだ。
(コウヤ、気持ちを落ち着けよ。妾がやることに変わりはないぞ。囚われておる異世界人たちは、全員救い出す。元凶であるザ・サンは――まぁ、状況を見て殺す。殺せなくとも、この浮遊しておる神殿【ヘブンドーム】は堕とす。じゃから、妾に全てを委ねておけ)
(……廃人、ってどういうことだよ? 兵士たちの慰み者、って……)
ヤンフィは足を止めて、ソーンを睨みつける。同時に、心の中で自問自答し始めた煌夜に、落ち着け、と声を掛ける。
(死んでおらぬのならば、聖級か冠級の治癒魔術でどうとでもなる――妾たちの目的は何も変わらぬ。そもコウヤよ。囚われておる輩の中に、探しておる童が居るとは限らぬ。取り乱すのは、其奴らを助け出した後で良かろう)
ヤンフィの説得に、煌夜はグッと拳を握り締めて、爆発寸前の感情を押さえ込んだ。
冷静なヤンフィの声に、取り乱しそうになる心を落ち着ける。
確かに今、ここで癇癪を起こしたところで、状況は変わらない。
ところで、ヤンフィの威圧を正面から受け止めて、ソーンはまったく動じず憮然と立っていた。
「退け、ソーンよ。二度は云わぬぞ」
「ヤンフィ様! 後生だから、ここは退いてくれよ! ザ・サンには絶対に勝てない――ヤンフィ様が死んじまう!」
「汝ほどの者が、そこまで畏怖する存在と云うことは理解した。戦わないに越したことがないことも、理解できる。じゃが、今はその危険性を考慮した上でも、妾は往かねばならぬ」
退くことは出来ぬ、と静かに断言して、ソーンの脇をスッと抜けた。ソーンはそんなヤンフィの決意を前に、はぁ~、と長く重い溜息を漏らす。そしてガクンと項垂れた。
ヤンフィは全神経を煌夜の身体に集中させる。魔力を必要以上に漲らせて、紅蓮の灼刃を強く握り締めた。
想定される死闘を前に、気持ちを高揚させる。
「――ソーン様。これは、どういう状況ですか? まさか……」
その時不意に、驚愕した声が二階のバルコニーから聞こえてきた。
ハッとして見上げれば、いつの間に現れたのか、誰もいなかったはずのバルコニーに、気だるげな様子で佇む妖精族の女性がいる。
その妖精族の女性は、目も覚めるような緑色の髪をおかっぱにしており、かなりの釣り目だが素晴らしい美人だった。
両頬には妖精族特有の魔術紋様が浮かんでいる。
左手には髪の色と同じ色の錫杖を持ち、灰色のフード付きパーカーを着ていた。
「……汝、妖精族じゃったのか」
ヤンフィは彼女の姿を認めて、ほぅ、と感心げに呟いた。その姿には、見覚えがあった。
宿屋でエルネスが連れていた灰色パーカー三人組の一人。フードを目深に被っていたせいで、その顔は見えなかったが、間違いないだろう。
名前は、たしかミリイと云ったか。
「ソーン様。侵入者を退治すると仰っていたのは、嘘でしたか? やはり、裏切り者ですね。侵入者を手引きするとは――」
ミリイはバルコニーを開けて廊下に出ると、階下に広がっている死体の山を見渡してから、疲れたように息を吐いていた。
「――ご存知と思いますが、今、エルネス様と魔道元帥様は、大事な定例会議中です。何の為にここまで来たのかは存じませんが、時間を改めてお越し願えませんか?」
カツカツ、と靴音を響かせながら、ミリイは螺旋階段へと歩いてくる。
それを横目に、ヤンフィも歩みを止めることなく螺旋階段に足をかけた。
「何が、大事な定例会議中、だよ。盛って、喘いで、楽しんでるだけだろが――で、ミリイ。オレは、別段手引きなんかしてねぇ。だが、こうなっちまったからには、仕方ねぇ。オレは愛の戦士――ヤンフィ様が往くと言うのなら、地獄だろうとお供するぜ!!」
階下のヤンフィと、階上のミリイが睨み合った時、項垂れていた半裸の巨漢ソーンがいきなりそんなことを叫んだ。
唐突にバッと振り返り、螺旋階段の上にいるミリイへと人差し指を突き付ける。
いったい何だ、とヤンフィもミリイも白けた顔をソーンに向けた。
「ヤンフィ様。引き止めることが叶わないなら、もう止めねぇ。このオレの命を懸けて、ヤンフィ様の目的を手伝うぜ。おいミリイ。つうことで、オレはやっぱり世界蛇を抜けるぜ!」
「…………何を、今更。あの、申し訳ありませんが、ソーン様。貴方は、もうとっくに【世界蛇】を抜けた人間ですよ? 今日、この場に来れたのは、ひとえにエルネス様のお言葉添えがあったが故です。何を勘違いなさっているのか……」
はぁ、と溜息を漏らして、ミリイは哀れむような視線をソーンに向ける。けれどソーンは何処吹く風と胸を張り、おぉし、と何やら気合を入れていた。
「……まぁ、どうでも良いですが――ああ、ヤンフィ様、でしたか? 今そこで引き返すなら、命だけは助けて差し上げますが?」
ソーンとミリイの問答を呆れた顔で眺めながら、ヤンフィは我関せずと階段を上ろうとした。
すると、ミリイが鋭い視線と丁寧な台詞でヤンフィに釘を刺してくる。それは中々の殺気である。けれど、その程度の警告で歩みを止めるヤンフィではない。
「妾も同じことを汝に告げようか? 今すぐここから消えるならば、命だけは助かるぞ?」
「――――はぁ。非常に残念です」
短い問答。だがそれで結論は出ていた。お互いに譲る気など毛頭なかった。
一触即発で膨れ上がる戦意、それはその場を戦場に作りかえる。そしてそれを合図に、ミリイの身体が内側から爆発――否、爆発したと錯覚するほど凄まじい勢いで、その全身から魔力が放出された。
その魔力量は、ミリイの上司であるエルネスの魔力量を軽く超えており、いや、下手をすると完全状態のヤンフィをも凌ぐかも知れないほどの魔力総量だった。
「なん、じゃ――!?」
ヤンフィは咄嗟に階段を蹴り、一息で広間中央のシャンデリアに飛び移る。
こんな魔術はヤンフィの広い知識の中にも存在していない。注意深くミリイを観察する。
ミリイは、階段の踊り場で悠然と立っていた。その周囲には、凄まじい密度の魔力が漂っている。
その魔術は一見するとタニアの魔装衣に似ていたが、決定的に違うのはその魔力量だった。
魔装衣とは、単純に言えば魔力の鎧である。だが、アレはもはや、魔力の盾――いや、城壁だろう。魔力の厚みが、パッと見て1メートル以上はある。あの厚みを突破するのは、並大抵のことではない。
「ヤンフィ様、ここはオレに任せてくれッ!!! ミリイ、テメェの相手はオレがやってやるぜぇ!!」
ヤンフィがミリイの姿を見て、その攻略法を考え始めた時、どこか愉しげな大声で、ソーンが一直線に螺旋階段を駆け上る。けれどその台詞は、明らかにヤラレ役の雑魚の台詞だった。
大体にして、ソーンのその突進は、誰がどう見ても無謀な突撃だった。
魔力の城壁に、何の対策もなく、肉体だけで立ち向かうなど馬鹿の極みだろう。ミリイの魔術特性が分からないのでなんとも言えないが、十中八九、ソーンは一方的にあしらわれる。
だが――ヤンフィは、満足げに頷いた。ソーンがどうなろうと知ったことではない。
現状、ミリイのこの魔術がどんなものか分からない以上、迂闊に手は出せない。であれば、ソーンが玉砕する様を見て、それから対策を練れば良かろう。もし運良く、ソーンの言葉通りに、ミリイの相手を任せられるのであれば、それはそれで、押し付けて先に進めば良い。
「任せるぞ、ソーン。死んでも良いから、妾の役に立て!」
ヤンフィはすぐさまシャンデリアから飛び退いて、ミリイが現れたバルコニー近くの廊下に着地する。
ヤンフィの目的は、あくまでも救出であり、ついでにザ・サンを殺すことだ。優先すべきは、ミリイを倒すことではなく、先に進むこと。
そこに迷いはなかった。
ヤンフィは着地と同時に、滑らかな動作で駆け出して、バルコニー脇の扉に手を掛ける。しかし、その一瞬前に、扉の前に魔力の壁が出現した。
「クッ――汝!?」
ヤンフィの手が魔力の壁に弾かれて、一瞬遅れて爆発する。咄嗟に受身を取って、なけなしの魔力で防御したから耐えられたが、その一撃で右腕の骨が折れていた。
……まあ、骨折程度ならば、すぐさま取り繕えるが、相応に魔力を消費してしまった。
ヤンフィは、チッ、と舌打ちして階段の踊り場にいるミリイを睨み付けた。ミリイは涼しい顔でヤンフィに手をかざしている。
「そこから先に、行かせるはずがないでしょう?」
「――――テメェの相手はオレだっつったろぅ、が!!! 超・怪・力っ!!!!」
ミリイがまさにヤンフィを追撃しようと掌に魔力を篭めた瞬間、分厚い魔力の城壁に、ソーンが凄まじい勢いで飛び付いた。
そして、見惚れるくらい見事な筋肉の躍動を披露しつつ、右半身をこれでもかと言うほど捻って、渾身の右コークスクリューブローを放つ。
その光景に思わずヤンフィは、馬鹿か、と唖然としてしまう。あれほどの質量を誇る魔力の城壁に、物理攻撃など無意味――
――ドッガァァアアアンッ!
ところが、ヤンフィのそんな思いとは裏腹に、ありえないほどの爆音を響かせて、魔力の城壁が弾け飛んで消失した。
同時に巻き起こる台風並の爆風。ヤンフィは思わず、両手で頭部をガードした。
「……ソーン様。宜しいのですか?」
爆音と爆風が通り過ぎた後、抑揚のない涼しげなミリイの声が廊下に響いた。
頭部をガードしつつ、その腕の隙間から様子を窺うと、ミリイと対峙したソーンの姿がある。
ソーンは右拳から血をダラダラと流しながら、不敵な笑みを浮かべてファイティングポーズを取っている。一方で、ミリイは魔力の城壁を破壊されたのにさして動揺しておらず、平然とした表情で左手の錫杖に魔力を篭めていた。
二人の距離は、およそ1メートルもない超至近距離。ソーンの射程である。
「ソーン様は、勝算のない戦いが嫌いだったかと記憶しておりましたが?」
「はぁあん!? テメェ如きが、愛の戦士と化したオレに、勝てると思ってんのか? 笑わせん、なッ――ぉおおお! 超・拳・連撃!!」
ミリイが心底不可解だと首を捻りながら問い掛けた。それをソーンは一蹴して、不敵な笑みと共に、拳を突き出す。
右と左のストレートパンチのハードラッシュ。マシンガンブローと表現するのが適切なほどの高速連続パンチ。それが全弾、ミリイの顔面を容赦なく狙っていた。
「…………馬鹿、じゃのぅ」
その凄惨な光景を呆れた目で眺めつつ、ヤンフィはついつい溜息を漏らしていた。
ソーンの攻撃は、その一撃一撃が、遠目からでも分かるほど重たい拳だ。離れていてさえ、空気を震わせて激突した瞬間の衝撃が伝わってくる。
けれど残念なことに、それら全ては、ミリイの眼前1センチのところに展開された薄い魔力の壁に阻まれて、彼女には何のダメージも与えていなかった。
魔力の密度が違い過ぎる。ソーンとミリイは、純粋な魔力量もそうだったが、魔力操作の点でも、圧倒的な技量差があるようだ。単純に、相性が悪い。
(……とは云えど、あそこまで卓越した魔力操作が出来て、妾並の魔力量を誇っておれば、相性云々では片付かぬかのぅ)
冷静に戦況を分析してから、けれどヤンフィは気持ちを切り替えて、バルコニー脇の扉に再び手を掛ける。今この瞬間、ミリイの注意はソーンに向いていた。
果たして、何の妨害もなく扉は開かれた。
ニヤリ、とほくそ笑んで、ヤンフィは素早く扉の内側に入る。ヤンフィのその背中に、あ――と、拍子抜けしたようなミリイの声が届いた時には、バタン、と扉は閉まっていた。
「ぉおおおおおお――ッ!!! こっから、全力ぅ――超・神・撃!!」
ミリイの注意が一瞬だけヤンフィに逸れた瞬間、大広場からそんな大声が響いてきた。そしてそれに一呼吸だけ遅れて、ボォン――と、間延びした爆発音が響く。
「ふむ……期待はしないが、祈ってやろう」
ヤンフィは後ろ手に扉を閉めると、置き去りにしたソーンに黙祷を捧げる。勝て、とまでは云わないが、せめて足止めの役割は果たして欲しい。そう強く祈った。
「さて――ようやく本題じゃのぅ」
そうして一秒の半分ほどソーンへ祈った後、真っ直ぐと顔を上げて、前に伸びる長く薄暗い廊下を見据える。この廊下は、直線距離にして50メートルほどか。
途中にいくつか扉があるが、ヤンフィの目的地、正解の扉は、突き当たり正面にある扉だろう。強い魔力残滓がそこに続いているのが見えた。
ヤンフィは短い呼気と共に、全速力で廊下を駆け出す。
※時系列B-6