第四十六話 苦渋の決断/煌夜&ヤンフィ・ソーンSide
陽の沈んだインデイン・アグディは、一寸先も定かでないほど濃い霧に覆われてしまっていた。そんな濃い霧の中、家々の灯りが薄ぼんやりと浮かび上がり、反響する笑い声が響いてくる。
なるほど人通りが少なかったわけだ、とヤンフィは納得した。
夜の時間帯になると、これほどまで濃い霧が立ち込めるとは思っていなかった。これほどの視界不良の中で、出歩く輩などそうそう居ない。
さて、ヤンフィは足元に注意しながら、濃い霧の中を適当に歩いていた。迷っているわけではない。目指す目的地を見失っているわけでもない。行き先は、あくまでも冒険者ギルドである。勿論、その冒険者ギルドの場所が分からないわけでもない。街にある案内板を見れば、迷うことなどなかった。
しかしヤンフィは、このインデイン・アグディという街の全容を把握する為に、あえて寄り道しながらグルグルとあちこちを歩き回っていた。
(……さて、コウヤよ。最悪ではないにしろ、想定していた中でも悪い方の展開になった今、これからの方針を確認しておくぞ)
初めての街だというのに、まったく見通しが利かない霧の中を迷いなく歩くヤンフィが、ふと心の中の煌夜に話しかけてきた。
ああ、と生返事をしながら、煌夜はヤンフィに頷く。
(先も云うたが、最優先事項はクダラークへの帰還手段を確保することじゃ。タニア、セレナたちと合流できぬと、向こうの状況が分からぬからのぅ)
(――何か、アテでもあるのか?)
ヤンフィの自信に満ちた口調に、煌夜は期待しつつ問い返した。だが、ヤンフィはフッと鼻で笑ったかと思うと、力強く否定する。
(アテなど、あるわけなかろう? じゃが、とりあえず冒険者ギルドに往けば、遠くの地からここに赴いてきた冒険者が少なからずおるはず……其奴らに問えば、何らか方策も見つかるじゃろぅ)
なるほど、と煌夜は頷き、同時に、行き当たりバッタリだな、と呆れた。まあ反論するつもりは微塵もないし、代替案もないので、問答無用に賛成ではある。
(そうしてクダラークへの帰還手段が確保できたら、次に、囚われの異世界人たちを救出じゃな。ソーンから得た情報は、恐らくある程度は正しいじゃろぅ。なれば、妾たちは『魔道元帥ザ・サン』とやらに遭遇せんように侵入せねばならぬ)
(……ああ、ヤンフィでも速攻殺されちまう、ってヤツだよな? タニアみたいな怪物なのかな?)
(ソーンの口振りじゃと、タニアよりも圧倒的に実力は上じゃろぅ――妾が勝てぬかどうかは別として、冠級の時空魔術【空間連結】が扱えるのじゃから、最大の警戒が必要な輩ではあるのぅ)
ヤンフィの分析に、ふーん、と煌夜はおざなりに返事する。冠級という用語の意味を、額面上の理解しかしていない煌夜にとっては、それがいかに凄まじいことかシックリきていない。
煌夜は、以前に習ったヤンフィの講義を思い出す。
魔術とは、威力や難易度、詠唱の長さ、消費魔力量等から、五段階のランク分けがなされている――下級、中級、上級、聖級、冠級がそれだ。そして、冠級とは、その五段階の最高位であり、そもそも扱える人間がほとんど居ないと言う。だから、冠級を扱えることが凄いというのは理解できるのだが、実際のところ、それがどれくらい凄いのかよく分からないのが正直なところだった。
――とは言えど、タニアより圧倒的に実力が上と聞いて、煌夜の頭の中には、エンカウント=死亡の図式が成り立っていた。まあそもそも、このヤンフィをして、『最大の警戒が必要』と言わしめるような敵だ。心の底から遭遇したくはない。
(……警戒したところで遭遇する可能性はあるが――今回は、遭遇したとしても、戦わずに逃げるつもりじゃぞ。それで良いな、コウヤ)
(ん? 戦わずに逃げるのは、当然だろ? つうか、何で俺に聞くんだよ? 俺はそんな危険な奴をどうにもするつもりなんてないぜ)
ヤンフィの唐突な問いに、煌夜は首を傾げた。危険に自ら突っ込む趣味はない。そんな死神みたいな相手に対して、逃げる以外の選択肢など思いつかない。
ところが、そうでない、とヤンフィは苦笑した。
(コウヤよ。気付いておらぬようじゃから云うておくが――根本的な問題として、異世界人を攫っておる元凶は、魔道元帥ザ・サンじゃろぅ? なれば、其奴を葬らない限り、殺処分は続くのじゃぞ? ヘブンドームなる神殿で、いったい何を行っておるのかは知らぬが……元凶を野放しにしておれば、何度でも同じことを繰り返すじゃろぅ)
あ――と、煌夜はヤンフィの指摘で、呆然としてしまった。確かにその通りである。
異世界人を攫ってきて殺処分しているのが、ザ・サンの命令だとソーンは言っていた。となれば、今現在、囚われている子供たちを救出したところで、それがまた繰り返されるだけだろう。原因であるザ・サンをどうにかしない限り――
(ちょ、ちょっと待ってくれ……え? じゃあ、今回、囚われてる子供たちを助け出しても、また同じことが起きるってことか?)
(そうじゃな。元凶を野放しにしておれば、十中八九、また異世界人が囚われるじゃろぅな――ああ、ちなみに、囚われておるのが童とは限らぬぞ?)
あっけらかんと言うヤンフィに、煌夜は慌てた様子で問い返す。
(なら、どうすれば――そ、そのザ・サンとやらをなんとかできないのか!?)
エンカウント=死亡の図式が浮かぶ中、しかしどうにかならないかと期待を込めて懇願した。困ったときの神様、仏様、ヤンフィ様、頼みである。だが、ヤンフィは難しい顔を浮かべつつ、首を横に振る。
(妾が何より大事なのは、コウヤの命じゃ。実際、ザ・サンとやらがどれほどの強者かは知らぬが、ソーン程の存在が危険視する以上、雑魚ではない。先の竜眼の女――エルネスじゃったか? 彼奴程の存在も従えておるのじゃ。簡単に葬れるとは思えぬ。然れば、現戦力で敵対するのは無謀じゃ。コウヤの命を守るだけでなく、囚われの異世界人たちも救出して、となれば尚更じゃ)
ヤンフィの冷静な説明に、何もかもヤンフィ頼みの煌夜はそれ以上強く言えなかった。これ以上何か言うと、それはもはや駄々でしかない。グゥ、と押し黙り、言葉を飲み込む。
(けれど、安心せよ。そう簡単に殺戮を再開出来ぬよう手は打つつもりじゃ。それに、今時点では不可能かも知れぬが、いずれは殺す――コウヤの身体が落ち着いたらのぅ)
自信満々に語るヤンフィの台詞に、煌夜はとりあえず頷いた。ふと気付けば、ようやく冒険者ギルドに辿り着いていた。
冒険者ギルドは街の真ん中に位置しており、今まで見てきたギルドと比べて、かなり大きかった。入り口の扉には、冒険者たちのランキングらしき貼り紙が付いており、中から楽しそうな声が聞こえてくる。どこのギルドもそうだったが、飯屋か酒場が併設されているのだろう。
ヤンフィは躊躇せず、ギルドの扉を開け放つ。
冒険者ギルド内は、外観と同様にかなり広かった。
吹き抜け構造をした五階建てで、一階には、役所のような受付カウンターと、飲食できる丸テーブルがいくつも並んだ酒場が併設されている。二階より上に、きっと依頼の掲示板が置かれているのだろう。
受付を見ると、既に夜の時間帯だというのに、随分と盛況だった。十数人の冒険者が、受付カウンターに並んで、ガヤガヤと騒がしい。その受付では、女性職員が五人ほど座っており、並んでいる冒険者たち相手に、手際良く受付業務をこなしていた。
ヤンフィは素早くギルド内を一瞥すると、ふむふむ、と頷きながら、一旦、混んでいる受付は避けて、酒場の一角、端の席で酒を呷っている老戦士三人のテーブルに近付いた。
老戦士三人は、その纏う雰囲気が如何にも旅慣れた冒険者然としていた。
「のぅ――少し、尋ねたいことがあるのじゃが、よいか?」
ヤンフィは老戦士三人のうち、一番貫禄のある顎髭の戦士に声を掛ける。
「――ああ!?」
見ず知らずの人間に、唐突に話し掛けられた顎髭の戦士は、ジョッキに入った麦酒らしき飲み物をテーブルにドンと置いてから、不機嫌そうに顔を歪める。
「んだよ、ガキ。俺らに何の用だ!」
「ふむ……まぁ、そういきり立つな。ちょいと、道を尋ねたいのじゃ」
「――はぁ!? なんだと?」
酒気を帯びた生臭い息を吐きながら、顎鬚の戦士はヤンフィを睨みつける。その鋭く強い眼光は、歴戦の古豪を思わせた。しかし、その程度の威圧ではヤンフィは怖気たりしない。
「ここから、クダラークまで往くには、どれくらいの時間が掛かる? また、どう云う手段で向かうのが最短じゃ?」
ヤンフィはただ淡々と問う。その問いに、顎鬚の戦士は眉根を寄せて、左右の連れと顔を見合わせた。
「……クダラーク、ってどこの国だ?」
「いや、国じゃねぇだろ……何か、どっかで聞いたことがあるなぁ……なんだっけか……んー、ん? 聖王伝説の終着地、がそんな名前だったか?」
左隣に座っていた隻眼の戦士――三人の中で唯一白髪でない偉丈夫が、過去を思い返すような遠い眼をしながらそう呟いた。それを聞いた途端、思い出したとばかりに、右隣に座っていた角兜の戦士が指を鳴らした。
「おお、それだろ、それ! 聖王伝説の決着の地――【聖王国テラ・セケル領】にある【湖の街クダラーク】だろ! 確か、聖王湖の中心に存在する『世界一美しい街』って二つ名の観光地だよな?」
「――あ、それだな! クダラーク、クダラーク……おおう、そうだそうだ」
角兜の戦士の言葉に、そうだそうだ、と二人の老戦士が感動した風に何度も頷いていた。そんな反応を冷めた視線で見詰めたまま、ヤンフィは静かに再度問う。
「――それで? ここから、クダラークまで往くには、どれくらいの時間と金が掛かるのじゃ?」
その問いに顎鬚の戦士は険しい顔を浮かべて、無骨な握り拳でテーブルを強く叩くと、ずずい、とヤンフィにメンチを切る。
「なんで、俺らがいちいちそれに答えなきゃいけねぇんだ!? ガキはもう寝る時間だろうが!!」
顎鬚の戦士の怒号が冒険者ギルド内に響き渡った。だが幸いにも、酒場のガヤガヤとした喧騒のおかげで特段注目はされなかった。とはいえ、すぐ近くで飲み食いしている一部の連中が、やかましいぞ、と大声で文句を言ってくる。
ヤンフィは、ふぅ、と疲れたように一息吐いてから、凄まじい殺意と威圧感を全身から放出する。そして文句を言った一団を見詰めた。
ヤンフィのその眼光に射竦められた一団は、ヒッ、と小さく脅えた悲鳴を上げて、すぐさま視線を逸らした。視線だけで格の違いを理解できたようだ。慌てて謝る様が滑稽である。
ヤンフィは次に、その威圧を顎鬚の戦士に叩きつける。だが、顎鬚の戦士はまるで堪えず、不愉快そうに眉根を寄せた。
「……妾が優しく問うておるうちに答えたほうが良いぞ? 次はない」
「チッ、まったく話にならねぇガキだな! ああ、だが、俺らは慈悲深いから、その暴言は聞かなかったことにしてや――」
ヒュン――と、瞬きよりも刹那の間に、顎鬚の戦士の顎鬚が、パラパラとテーブルの上に散っていた。目にも留まらぬ神速で、ヤンフィが腰元の魔剣――【紅蓮の灼刃】を抜き放ち、顎髭だけを斬り捨てたのである。
ゴクリ、と顎鬚のなくなった老戦士が息を呑んだ。反応さえ出来ず喉元に突きつけられた魔剣。その剣身が纏う炎の舌は、老戦士の首筋をチロチロと舐めていた。
「――死ぬか、答えるか。どちらじゃ?」
ヤンフィは無機質な声で言って、スッと目を細めた。今一度、叩きつけられる威圧。炎の舌に舐められて焦げ付く首筋の皮膚。
老戦士は目を見開いてから、観念した風にゆっくりと両手を上げる。
「お、落ち着け……俺らが、わ、悪かった。答える、答えるから……知ってることなら、何でも答えるから許してくれ」
「ふむ、良かろう。じゃが、それならば、最初から素直に答えよ。さて、それで?」
老戦士が慌てて謝罪すると、ヤンフィはようやく【紅蓮の灼刃】を下ろした。
抜いた時もそうだったが、鞘に収める時も同様に、あまりの早業で残像さえ捉えられない。仕舞う様は、まさにコマ送りのようで。その抜き差しが一瞬過ぎて、パッと切り替わったとしか思えなかった。居合い術の達人が見ても、鞘に収めた瞬間はきっと見えなかったろう。煌夜は素直に感心した。
そんな煌夜の感心はよそに、ヤンフィは当然のような仕草で、老戦士たちのテーブルの空いている椅子に腰掛けた。
「あ、ああ……クダラーク、だったな? おい、どれくらい掛かるんだ?」
「え? あー、こっからだと、そうだなぁ。ザックリと考えて――【聖王国テラ・セケル領】の国境まで行くのに、四色の月一巡と六日くらいだろ。んで、クダラークは【聖王国テラ・セケル領】の比較的西寄りの場所だから……おおよそだが、二巡は掛かるんだろうな」
老戦士の右隣、角兜の戦士が答える。その台詞にピシリとヤンフィは固まる。無論、その反応は煌夜も一緒だった。本当に、そんな遠いのか。
四色の月一巡と言えば、一ヶ月と同義、つまり三十日間ということである。それほど悠長に旅している余裕はない。観光ではないのだ。
「……それは、陸路か? 空路はないのか?」
「はあ? 空路、って何だ? 飛竜とかのことか? 面白いことをほざくガキだなぁ、【竜騎士帝国ドラグネス】じゃあるめぇし、空路なんざあるわけねぇだろ。陸路以外には、移動手段なんてねぇよ」
笑うというよりも呆れた口調で、老戦士はヤンフィに告げた。ヤンフィは渋面を浮かべると、悔しそうに唸るしかない。
すると、隻眼の戦士が、ああちなみに、と前置いて補足してくれる。
「もっと早く行く方法も、なくはないぜ。資金があるなら、連山のどこかにある【アグディ族】の集落を見つけて、【陸戦魔動艇】を買うって方法もあるぜ? あれに乗れば、十五日ほどで国境を越えられるだろ」
隻眼の戦士は、なぁ、と二人の仲間に賛同を求める。老戦士と角兜の戦士は力強く頷いていた。しかし、ヤンフィと煌夜にとって、それはまったく朗報にならない。どちらにしろ日数が掛かり過ぎる。
だいたい【陸戦魔動艇】とはなんぞや――ヤンフィはギリと奥歯を噛んで、けれどグッとそんな言葉を飲み込んでから席を立った。
「おい、ガキ。何の目的で、どうやって、ここまで来たのかは知らねぇが、一つだけ忠告しておいてやる。この街は【魔法国家イグナイト領】の中で唯一、領主と法が存在しない街だ。便宜上、イグナイト領に属しちゃあいるが、実際は、税も納めてねぇから独立都市と変わりゃしねぇ。だから、国を追われた犯罪者や、荒くれ者共が集まってくる――覚えときな」
老戦士はそんな忠告をヤンフィの背中に投げてから、再びジョッキに口を付ける。
ヤンフィは、聞く相手を間違えたか、と若干後悔しつつ、空いてきた冒険者ギルドの受付カウンターに向かった。
「――いらっしゃいませ。本日はどのような用件でしょうか?」
ちょうど空いた受付カウンターに行くと、褐色肌の受付嬢が爽やかな笑顔を向けてきた。
「のぅ。ここから【湖の街クダラーク】まで往くには、どれくらい日数が掛かるかのぅ?」
今何時? みたいな軽い調子で、ヤンフィは褐色肌の受付嬢に問い掛けた。すると、彼女はきょとんとしてから、聞き違えか、と首を捻りながら問い返してくる。
「え? 湖の街、クダラーク、ですか?」
「うむ、そうじゃ」
「ええと……【聖王国テラ・セケル領】にある【湖の街クダラーク】のことですか?」
「うむ、そうじゃが?」
信じられないという表情で目を瞬かせる褐色肌の受付嬢に、ヤンフィは困惑顔を浮かべた。
「ええと、その……どれくらい、と言われると……そうですね。ここから、聖王国テラ・セケルの国境まで行くのに、だいたい四色の月二巡ほどです……ですので、恐らくですが、湖の街クダラークまで辿り着くのに、三巡か、四巡か……だいぶ長旅になるかと思いますよ」
褐色肌の受付嬢は困った顔で、自信なさげに答える。その答えは、先ほどの老戦士たちの回答とほぼほぼ変わらないものだった。
ヤンフィは絶望的な気持ちになる。見事に裏付けが取れてしまった。けれどめげずに、首を傾げつつ問い掛ける。
「距離があるのは分かっておる。じゃが、妾は急いでおるのじゃ。何か、こう、パッと二日程度で移動できる秘策はないかのぅ?」
「パッと、二日で!? そ、それは、いくらなんでも、無理でしょう……ここを何処と勘違いしているのですか? ここは魔法国家イグナイト領の中でも、かなりの辺境ですよ? 他の街への移動手段だって、徒歩以外にありませんし――――あ、そういえば」
ふとその時、困りきった表情の受付嬢が、何か思い出したとばかりに顔を輝かせる。しかし直後、ヤンフィの姿を見てその表情を曇らせた。
「なんじゃ? 何か秘策でもあるかのぅ?」
「……ええと、あると言えばあるのですが……貴方に、それが出来るかどうか……」
「云うてみよ」
ヤンフィは褐色肌の受付嬢に喰い付かんばかりに詰め寄る。すると、褐色肌の受付嬢は、どうしようかと迷いつつも、恐る恐ると口を開いた。
「――転移魔術を扱える偉大な魔術師が、ちょうど昨日この街に戻って来てまして……彼なら、報酬さえ積めば、聖王国テラ・セケル領内に転移させてくれます。ただ、その報酬額が桁違いですが……」
「ほぅ、転移魔術、のぅ。ふむふむ、成功するのなら、報酬は出し惜しみせぬぞ」
受付嬢の物言いに、ヤンフィは感心した風に頷き、任せろとばかりに胸を叩いた。報酬がどれくらいか知らないが、今のヤンフィたちならば、多少高額だろうと問題なく払える。
だが、そんな自信満々のヤンフィに、褐色肌の受付嬢は疑わしい目を向けてきた。
「出し惜しみも何も……報酬額の最低は、テオゴニア金紙幣百枚から、となりますよ? それでも、お支払いできますか?」
「――テオゴニア金紙幣、百枚!? なんじゃそれは?!」
ヤンフィはその報酬額を耳にして、絶叫じみた声を上げる。あまりの高額に、唖然と開いた口が塞がらなくなった。そんな驚きに、この世界の貨幣の価値基準が分からない煌夜は、つと首を傾げる。
(テオゴニア金紙幣? って、どれくらいの価値だっけ?)
(――アドニス金貨十枚分じゃ。ちなみに相場の目安として、アドニス金貨二枚前後が、一般人が四色の月一巡で稼ぐ資金じゃよ。つまり、一般人が五、六十年掛けて稼ぐ額じゃ)
(……え? ちょっと待って……ん? 仮に、一ヶ月を二十万で計算して……い、一億円前後!?)
煌夜は頭の中で算盤を弾いてから、その高額を理解して驚愕する。一方、ヤンフィは煌夜の驚きに共感して頷いた。その代金は、不可能を可能にする額と考えたら安価だが、だとしても気軽に払える額ではない。特に、ソーンの飛竜で、無料の快適な旅を経験してしまった今のヤンフィたちにとっては、移動費だけに一億もの大金を費やすなど、あまりにも馬鹿げている。
そんなヤンフィの心中までは察せなかったが、その反応から、やはり払えないのだな、と褐色肌の受付嬢は勘違いして、うんうん、と力強く頷いていた。小さく、やっぱりね、とも呟いた。
実際のところは、払えなくはない。だが、ヤンフィは難しい顔でそのまま押し黙った。
「高額になるのは当然ですよ? そもそも転移魔術は、限りなく冠級に近い聖級の時空魔術です。扱える魔術師も、世界で片手の指で数えられるほどですから。今、ちょうどその偉大な魔術師の一人が、この街に戻ってきてくれているので――」
「いや、払えぬわけではないが……」
「ああ、強がらなくても大丈夫ですよ? 別にこちらは困りませんから。ただ、貴方の『パッと、二日で、クダラークに』という要望を満たせるとしたら、それくらいしか思いつきませんけど」
褐色肌の受付嬢はそう言って、もはや仕事は終わったとばかりに、ヤンフィの背後に並び始めた他の冒険者たちに意識を向けた。そんな所作を見て、ヤンフィは仕方ないとカウンターを離れる。
ソーンが簡単にここまで送ってくれたので、容易に帰る手段が見つかるかと思っていたが、それは大いなる勘違いだったらしい。ソーンと袂を分かれてまだ一時間も経っていなかったが、少しばかり早計だったかと、ヤンフィはかなり後悔していた。騙されていたとしても、もう少し様子を見るべきだったかも知れない。
「……とは云えど、彼奴とこれ以上一緒に行動するのは不安じゃしのぅ。なれば、じゃ――」
ヤンフィは独りごちながら、冒険者ギルドを後にした。
外は濃い霧と夜の帳で、一寸先さえ見えない状況になっている。けれど、何の躊躇もなく、ギルドを出て右手側に足を踏み出した。
「――コウヤよ。クダラークへの帰還手段は、来る時と同様にソーンを使う。じゃが、異世界人たちを救出するのは、妾のみでこれから決行する。良いか?」
迷いなく歩きながら、ヤンフィは首を傾げてみせた。それに対して煌夜は、それってどういうこと、と疑問を口にする。ヤンフィの考えがどうなっているのか理解できていない。
(……すぐにでも救出したいから、勿論、それは賛成だが……帰還手段にソーンを使うって、どういう意味なんだ?)
「どう云う意味も何も――そのままの意味じゃよ。ソーンの態度が怪しいから、到底、一緒に行動することなど出来ぬが、移動用の足として見るならば、頼りになる。彼奴は明日の九時に、あの竜眼の女と待ち合わせをしておる。と云うことは必然、それまで安易には動かぬじゃろぅ。妾たちで、それまでに事を済ませるぞ」
ヤンフィは声に出してそう言って、不意に足を止める。見れば目の前の霧の中に、古びた一軒家があった。看板はないので、民家のようだった。
ヤンフィは、ふむ、と頷き、そこに入る。
(な!? お、おい、ヤンフィ?! ここ、ひとんち――)
(驚くでない。ここは、道具屋じゃ。ソーンが云うておった『なんちゃらの檻』。救出する者を運搬する用に、時空魔術が施されたその檻を、手に入れておくべきじゃろぅ。流石に、救出時にゾロゾロと足手纏いを引き連れる訳には往くまい?)
驚きの声を口にした煌夜に、ヤンフィはそう説明して笑う。
ヤンフィのその提案は至極まっとうで、煌夜は、うむうむ、と頷いた。ただ一つ疑問だったのは、どうしてその一軒家が道具屋だと断じれたのか、それだけである。看板も何も出ていないその店が、何故に道具屋だと分かるのか、不思議だった。
「……何の用ですか?」
その一軒家の中は、正面にカウンターがあり、左右の壁には道具の置かれた棚があった。なるほど確かに道具屋の態である。
ヤンフィは左右の棚を一瞥してから、眠そうな糸目で憮然とした声を出してきた若い女店員に顔を向ける。女店員は、客に対する態度とはとても思えない剣呑な空気を出していた。
「奴隷を運ぶ運搬用の檻が欲しい」
しかし、ヤンフィはそんな女店員の空気など気にも留めず、単刀直入に要望を伝える。
「…………そうは見えませんが、奴隷商人ですか?」
「別段、妾が何者だろうと、汝には関係なかろう? 大型の檻が欲しい。急いでおるのじゃ、サッサと出すが良い」
カウンターをトントンと叩いて、ヤンフィは女店員を射竦める。殺気こそ篭っていないが、その冷めた視線に女店員はビクッと身体を震わせた。
「大型の……檻、と言うと【奴隷の箱】ですか?」
「それじゃ、それじゃ。実物がどんなものかは知らぬが、それが欲しい」
女店員がおずおずと口にしたその商品名を耳にして、ヤンフィは満足げに頷いた。その商品名は、ソーンがエルネスに要求していた魔道具の名称である。間違いはないだろう。
ヤンフィの頷きに、女店員は難しい顔をしつつ、渋々と立ち上がる。そして、少々お待ち下さい、と蚊の鳴くような声で言って、店の奥へと消えていった。
「お待たせいたしました……これが、うちで扱っている【奴隷の箱】です。最大格納量2000キロ、収納面積10平方メートル。値段は、テオゴニア銀紙幣五十枚ですが、どうしますか?」
しばらくして、女店員が奥から持ってきたのは、ルービックキューブみたいな大きさの四角い箱だった。格子状になっており、中身は空っぽである。それを無造作にカウンターに置いて、女店員はヤンフィの姿を胡散臭そうに眺めた。
一方で煌夜は、女店員が口にした値段を、頭の中で日本円に換算してみる。
テオゴニア銀紙幣五十枚=アドニス金貨五枚=アドニス金貨二枚がおよそ二十万円計算で、つまりは五十万円――正直なところ、高いのか安いのか、まったく相場が分からなかった。
「ほぅ――これは、どう扱うのじゃ?」
「必要量の魔力を注ぎ込むと、箱に刻まれた魔術式が起動して、時空魔術【異次元空間】の魔術が展開されます。そうしたら、そこに人を放り込めば良いだけです。収納用の道具鞄と同じ原理で、ただ必要な魔力量が多いだけですよ」
「なるほど、なるほど」
ヤンフィは女店員の説明におざなりな返事をしながら、その【奴隷の箱】を手に取った。箱に重さはほとんどなかった。
ヤンフィは感触を確かめつつ、試しに箱へ魔力を集めてみた。すると、格子状のソレが光を放ち出して、ブラックホールみたいな黒い穴が空中に出現する。黒い穴は、異空間への出入り口である。
「よく、展開できますね……それ、最低でもBランク冒険者並の魔力量がないと展開出来ないのに……」
ヤンフィが平然とそれを展開する様を見て、女店員は目を見開いて驚いていた。
ヤンフィは、ふぅ、と疲れたように息を吐いてから、魔力を注ぐのを中断する。途端に、ブラックホールは消失した。
「……想像以上に、消費量が厳しいのぅ」
ヤンフィはそんな難点を言いつつも、懐からアドニス金貨五枚をカウンターに出した。購入することに迷いはなかった。五十万と言えば大金ではあるが、手持ちに余裕が有り余っている現状、さして惜しい金額ではない。
まあ、先ほど移動費で一億円掛かると言われた後なので、金銭感覚が若干狂っていたのも否めないが――
「え? あ、え? お、お買い上げ、ですか?」
「それ以外に何がある? では、貰って行くぞ」
女店員は、ヤンフィが何の躊躇もなく全額出したことに困惑して、どうしたらよいのか目を点にしていた。だが、いちいち相手しているほど時間に余裕はないので、ヤンフィはそのまま商品を受け取って、店を後にする。探していた物が手に入ったので、もはや長居する意味はない。
(……なぁ、ヤンフィ。一つ聞いていいか?)
店の外に出て、満足に前も見えない霧の中を歩き出した時、煌夜が遠慮がちに口を開けた。ヤンフィは無言で頷きつつ、【奴隷の檻】を懐に仕舞った。
(ここが道具屋で、必要な物が置いてあるって、どうして分かったんだ? まるで知ってるみたいだったけど……)
(ああ、そんなことか。なに簡単じゃよ。まず道具屋だと断じたのは、魔道具特有の波動が店内から漂っておるのが見えておったからじゃ。それに、【竜眼】の女――エルネス何某が引き連れていた一人が、ここに出入りした形跡も見て取れた。なれば、ソーンに注文された道具があるに違いあるまい)
どうじゃ、とドヤ顔をするヤンフィに、煌夜は、名探偵はかくもこうして推理するのか、と思わず感心した。見ている世界が、文字通りに違うようだ。
「さて――問題は、ここからじゃがのぅ」
そんな風に煌夜がヤンフィに感心していると、ヤンフィはふと霧の中で立ち止まり、困った表情で天を仰いだ。どこか諦めが入ったようなその態度に、煌夜は若干、嫌な予感がした。
聞きたくはないが、恐る恐ると問い掛ける。どうした――と。
「妾たちが、向かおうとしている神殿【ヘブンドーム】とやらじゃが――場所に目星は付いておるが、どうやって乗り込むべきか、悩んでおる」
苦笑気味にそう呟くヤンフィに、煌夜は驚きつつ聞き返す。
(え? 場所に、目星付いてるのか? どこにあるんだよ?)
「フッ……今、魔力を篭めてやろう。されば、コウヤにも視認できるはずじゃ――ほれ」
ヤンフィは言って、その双眸に魔力を篭めた。すると、白い霧で何も見えなかった視界が、サァッと開いた。暗闇を見通すヤンフィの眼力は、濃い霧さえモノともしないようだ。
さて、見上げた夜空に浮かんでいたのは、大きさも色も違う二つの月と、ユラユラと浮遊している巨大な城である。煌夜は目に飛び込んできたその光景に思わず絶句した。
(――――え? 城が、浮いてる?)
ヤンフィは煌夜の台詞に満足げに頷いてから、視線をその浮遊城から逸らして正面の大通りに向けた。人っ子一人歩いていない大通りに、緑色をした魔力の流れが道しるべのように伸びていた。
「十中八九、浮遊しておる城がそれじゃろぅ。内部にかなりの人間がおるようじゃしのぅ」
ふぅ、と溜息を漏らしつつ、ヤンフィはゆっくりと前に歩き出す。煌夜はヤンフィのその言葉に途方に暮れて、どうするんだ、と力なく呟いた。
空を飛ぶ術のない煌夜たちでは、あれに乗り込むことなぞ出来はしない。
ところが、ヤンフィはそんな煌夜の心配に首を振った。心配すべきはそこではない、と口を開く。
「……乗り込むだけならば、幾らでも術はあるぞ。じゃが問題は、どこからどう侵入するか、じゃよ。飛翔して近付けば一発で視認されるじゃろぅ。まぁ、かと云うても、地上のどこから繋がっておるのか、いくら散策しても分からんかったがのぅ」
ヤンフィはそんなことを言いながら、困った表情を浮かべていた。ヤンフィの悩みと煌夜の悩みは、どうやらだいぶ違うようである。
――と、ふいにヤンフィは立ち止まり、一瞬だけ背後に視線を向けた。しかし背後には誰も居ない。
「流れに身を任せてみるも一興か。出たところ勝負と云うのも、悪くはない」
そんな呟きを漏らしてから、ヤンフィは何事もなかったようにまた歩き出す。煌夜はヤンフィの台詞に疑問符を浮かべつつ、結局どうするんだ、と問い返した。
(ふむ……とりあえず、彼奴らの出方を窺おうかのぅ)
(彼奴ら? って、誰のことだよ?)
(――妾たちを尾行しておる連中じゃよ。監視が目的か、それとも妾の身柄を拘束することが目的か、果たしてどちらかのぅ?)
ヤンフィは事も無げに言うと、自嘲気味に笑う。その台詞を聞いて、煌夜はビックリして意識を背後に向けた。今は身体のコントロールがヤンフィにあるので振り返ることは出来ないが、意識を向けると何者かの動く気配が感じられた。
(数は二じゃ。倒せない相手ではないが、ちと骨が折れるやも知れぬ)
大通りを曲がって狭い路地裏に入る。そこでふと立ち止まり、背後を振り返った。
「さて、どうするかのぅ。ひとまず軽く殺しあうか?」
ヤンフィは少し大きめの声でそんな質問を投げ掛けた。誰に、とは言わなくても分かった。直後、霧深い路地裏に、慌てた様子の二人が駆け込んできたからだ。闇を見通すヤンフィの眼力で、その姿がハッキリと分かった。
二人はフードを目深に被って顔を隠していたが、その灰色のパーカーと纏う雰囲気から、何者なのかすぐに分かった。
見覚えがある。宿屋で、エルネスと一緒に居た灰色パーカー三人組のうちの二人、確か名前を――
「ライに、レイ、じゃったかのぅ? 何用じゃ?」
ヤンフィが指差し確認しながら、現れた二人に問い掛ける。待ち構えていたヤンフィと対面した二人は、ビクリと一瞬だけ身体を震わせて、互いにフード顔を見合わせた。
「――――いつから気付いていた?」
二人のうち右側、身長が高い方の一人が、一歩進み出て声を上げる。同時に、パサリとフードを下ろすと、そこから金髪の美少年が現れた。白馬の王子様という表現がまさにお似合いの美貌、同性である煌夜でさえ息を呑むほどの美形、彼がレイである。
「いつ? 妾が宿屋を後にした時からじゃよ」
「最初から、か……少々、貴殿を甘く見たか」
「――おい、レイ、どうする? エルネス様に指示を仰ぐか?」
ヤンフィがさも当然とばかりに答えると、左側のライが舌打ち混じりに言った。それに対して、レイは首を横に振る。
「エルネス様にお伝えするほどではない。気付かれるのは想定内――」
「――のぅ、レイ。それで、何用じゃ?」
冷静なレイの言葉に被せて、ヤンフィが鋭い殺気をぶつける。その凄まじい殺気に、レイとライは一歩たじろいだ。ヤンフィはその威圧一つで、誰が格上で、誰が格下か、この場の力関係を明確にさせた。
「用件が……あるわけでは、ない」
レイは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、口惜しそうに呟いた。
「我らが与えられた任務は、貴殿の監視だ。それと、貴殿の実力を推し測ること」
「魔力薄弱の雑魚とはいえ、魔王属を野放しにすることを、エルネス様は好しとはしない」
レイの言葉に、ライが挑発的な言い回しで補足する。その言葉に、ヤンフィはいっそう殺気を膨らませた。また同時に、腰に吊るした剣の柄に手を掛けた。
「――ライ。戦闘は認められていない。挑発するな」
ヤンフィの所作に、すかさずレイが反応して、ライを叱責する。ライはフードをいっそう目深に被り、俯いて舌打ちだけして黙り込む。
「監視、のぅ。それで? いつまで監視は続けるのじゃ?」
「明日、貴殿がエルネス様と合流するまで、だ。それまでは、不審な行動をとらないよう勧める」
「不審な行動、とは?」
問うまでもなく、【ヘブンドーム】に侵入する、ということは明らかに不審な行動だろう。だが、その行動を二人は止めるか、否か。ヤンフィは探りを入れた。
「大人しく明日の朝九時まで宿で待機すること以外の、全ての行動が不審な行動だ。理解できたなら、すぐにソーン様の居る宿に戻れ」
ライが苛立ち混じりに断言する。その発言に、ほぅ、とヤンフィは小さく息を漏らした。ある程度分かっていた答えでもあるが、正面きって即答されるとは予想外だった。
しかし、それに従う道理はない。指図される謂れもない。
「――仮に、妾がその不審な行動を取った場合、どうするのじゃ?」
薄笑いで軽い口調、けれど凄まじい戦意を二人に叩きつけながら、ヤンフィは首を傾げる。その威圧に一瞬だけ息を呑んで、身構えるライを手で制したレイが告げる。
「街中に喧伝するだけだ――『魔王属が居る』とね。貴殿が強かろうと弱かろうと、魔王属である事実は変わらない。そして、魔王属はあらゆる生物の天敵だ。魔王属が居ると知れれば、街の全戦力は貴殿を討つべく団結するだろう」
淡々とした口調で無表情に告げるレイに、今度はヤンフィが苦々しく表情を歪める。
そんな答えは予想できなかった。隠密行動をとりたいヤンフィにとっては、最も効果的な対策である。脅し文句としても見事過ぎる。
反論が思いつかず、ヤンフィはグッと唾を飲み込んだ。
「我らは、貴殿と争うつもりはない。戦闘になっても、逃げることを優先する。当然、それが叶わず殺されたとしたら、エルネス様が仇を討ってくれるだろう」
レイは言いながら、一歩後退する。ライはそんなレイに、不本意と言わんばかりに舌打ちしてから、しかし反論せず同様に退いた。
厄介な状況になってしまった。ギリ、とヤンフィは奥歯を噛んだ。
レイとライの二人はそれなりに強いが、ヤンフィの敵ではない。だが、二人が戦わずに逃げる選択をした場合、殺しきるのは骨が折れる。一方、ならば戦わず、ヤンフィが逃げる選択をした場合、二人を撒くのはもっと困難だろう。
まあ、どちらにしろ、隠密行動は取れなくなる。
(……このままヘブンドームに向かったとて、大騒ぎになれば退路がなくなるのぅ。かと云って、わざわざ罠の渦中に足を踏み入れるのも阿呆じゃし)
(これはつまるところ――八方塞って奴か?)
ヤンフィが難しい声で唸る。それを茶化すように、煌夜は努めて軽い口調で言ってみた。なんとも嫌なもので、八方塞、絶体絶命、窮地に陥るなんてことは、ぶっちゃけ慣れた展開である。
ところが、ヤンフィはそれに首を振った。状況はそこまで深刻ではない、と続ける。
(八方塞、ほどにはなっておらぬ。じゃが……救出できても、生還できねば、意味がない)
ヤンフィは押し黙り、レイの美形をジッと見詰めた。レイはその視線に力強い視線を返して、何が起きても対処できるよう身構えていた。
そうして、しばしの沈黙。
互いに見詰め合うだけの膠着状況。それに焦れたか、ライがレイの肩に手を置いて口を開いた。
「おい、ヤンフィとやら。これ以上、ここで問答しても無駄だろう。選んだらどうだ? ソーン様の居る宿に戻るか、否か」
ライの鋭い殺気がヤンフィに投げ掛けられた。さしたる威圧ではないが、言外に含んだ脅しが、非常に効果的である。その発言は言い換えれば、宿に戻らなければ魔王属がいると喧伝するぞ、という脅しに他ならない。
――もはや、選択の余地はないだろう。
(なぁ、ヤンフィ。これはもう、一旦、ソーンのとこに戻るしかないんじゃ――)
煌夜は、考えた末にそんな提案をした。そりゃあ確かに煌夜としても、今すぐにヘブンドームに異世界人を救出に向かいたい気持ちだ。だが、そうすると街全体が敵に回るというのならば、それこそ避けるべき展開ではなかろうか。ここで短絡的に動いて、結局、最悪の事態になるよりは余程マシに思える。
ソーンの企みが何かは分からないし、エルネス何某の思惑も不明だ。ヤンフィの他に、信頼の置ける仲間も居ない。けれど焦った結果、目的を果たせないのであれば、それこそ無意味だろう。
(――コウヤよ、覚えておけ。これは妾の教訓なんじゃがのぅ。未知の脅威より、多勢の強者より、準備された罠のほうが、圧倒的に恐ろしい)
ところが、煌夜の提案を聞いたヤンフィは、苦笑交じりにそんなことを呟いた。非常に心の篭った台詞で、遠い過去を思い出しているような響きだった。ん、と煌夜は首を捻る。
ヤンフィは煌夜には何も答えず、続けてレイとライに聞こえるような音量で、独り言を呟いた。
「――幸いにして、50メートル範囲内の建物に、人の気配はない。巻き込まれるのは、妾と汝らだけのようじゃのぅ」
「……ん? 何が、言いたい?」
ライが不穏な声で問い返す。それには無言で、ヤンフィは、背に腹は変えられぬ、と腹を括った。そのよく分からない決意に、煌夜は嫌な予感で全身を震わせた。
(おい、ヤンフィ……何をする、つもり――)
「顕現せよ、呪われし槍――【樹槍ロムルス】よ!」
煌夜の声に被せて、そんな叫びが霧の中に響く。瞬間、黒いA4サイズの本――【無銘目録】が空中に現れて、その頁が勝手にパラパラとめくられた。そしてふと止まると、開かれた頁から小さな種が飛び出す。不思議な光景である。
種は空中で一旦静止すると、そのままユラユラと漂ってから、ヤンフィの掌にストンと落ちてくる。そんな光景を前に、レイとライは身構えて動かず警戒を高めていた――それが悪手とも気付かず。
(な、何だよ、これ。おい、ヤンフィ――)
(コウヤ、意識を手放せ!!)
ヤンフィの切羽詰ったような鋭い声が頭の中に響く。しかし、それを認識するより先に、煌夜の意識はブラックアウトした。ヤンフィが強制的に煌夜を気絶させたのである。そうしなければ、恐らく発狂してしまうだろう。
さて――こうして、状況は一変する。文字通り一秒で、世界が変わる。
ヤンフィの掌に落ちてきた種が、一瞬にして細長い木製の槍となった。
細長い槍は、眩いばかりの緑光を放ち、周囲の霧を一瞬にして晴れさせた。
細長い槍は、持ち手の部分から蔦を生やして、ヤンフィの手に絡みついた。そして、瞬きよりも短い一瞬で、ヤンフィの右半身から水分と魔力を根こそぎ奪い去った。
ヤンフィは目にも留まらぬ神速で【紅蓮の灼刃】を抜刀すると、自身の右手、樹槍ロムルスが絡みついている部分を、根元から焼き切った。ポト、と右手ごと槍が地面に落ちる。
「な、何が――!?」
「レイ、逃げ――――」
驚愕の声が上がる。けれどそれは、最後まで発言できずに霧散する。
レイとライの二人は、ヤンフィの手から落ちた槍が地面に刺さった瞬間、逃げる暇もなく水分と魔力を吸い取られてミイラと化す。
槍が地面に突き刺さった瞬間、狭い路地裏のそこが、青々とした木々の生い茂る森に変わる。
「ぐ、ぅぁ――」
何が起こるのか承知していたヤンフィも、しかしそのあまりの激痛に苦悶の声を上げた。咄嗟に切り落とした右手が、音もなく樹槍ロムルスに咀嚼された。
ヤンフィが保有する武器の一つ――【樹槍ロムルス】。
その槍は、槍と云うよりは、範囲結界魔術に近い。まず武器として扱うことは出来ず、しかも持ち手を選ぶ代物――いや、選ぶというより、堕落した妖精族以外は、そもそも満足に触れることさえ出来ない呪われた武器である。その上、使い手の意思関係なく発動し、範囲内の生物を死滅させなければ落ち着かないという厄介な代物だ。
その効果は、樹槍ロムルスを中心とした上下左右直径50メートル範囲円の空間を、呪われた月桂樹の森に置き換えることだ。この呪われた月桂樹の森は、妖精族にとっては治癒魔術に等しい結界であり、それ以外の生物にとっては水分と魔力を吸収する範囲攻撃でもある。
樹槍ロムルスは吸い取った水分と魔力を糧に巨大な月桂樹と化して、範囲内に存在する生物が死滅するまで、空高くどこまでも伸び続ける。
ヤンフィの右手を飲み込んだ樹槍ロムルスは、地面に落ちた瞬間から月桂樹の巨木に変わり、見る見るうちに天高く伸びていく。それに伴って、凄まじい速さで身体から水分と魔力が奪われていく。その速度たるや、ものの一秒で、体重の二割の水分が、総魔力量の三割の魔力が奪われるほどだ。
人族は通常、体重の一割ほども水分を喪失すると、臓器不全で死ぬ危険がある。魔力であれば、総魔力量の七割が喪失すると枯渇状態になる。ちなみに、枯渇状態が三秒も続けば脳死である。つまり常人ならば、この呪われた月桂樹の森では、数秒と掛からず死に至る。
では、魔族なら生きられるかと言えば、そうではない。魔族も人族同様に、水分を喪失し、魔力をなくせば死に至る。魔王属であるヤンフィであっても例外ではない。
けれどそんな中で、どうしてヤンフィは生きているのか――それは、煌夜の心臓がセレナの心臓を代用しているからであった。セレナの心臓は、妖精族の心臓である。それゆえに、月桂樹の森の恩恵を受けることが出来ている。魔力を奪われるのと同時に、魔力を供給されているおかげで、かろうじて死なずに済んでいる。また水分枯渇については、ヤンフィが魔力を変換して補っていた。
――これは、ヤンフィという魔王属ならではの芸当だ。また、妖精族の心臓を持った煌夜の肉体だからこそ出来る裏技でもある。ちなみに生前、ヤンフィが【樹槍ロムルス】を使用した際は、自身が効果範囲外に逃げることで上手い具合に使用してきた。
「フッ……妾の限界が先か、浮遊城まで到達するのが先か、博打じゃのぅ」
何度味わっても慣れることのない内側から水分が蒸発していく感覚を笑いながら、ヤンフィはすかさず月桂樹の巨木に飛び移った。
月桂樹の巨木と化した樹槍ロムルスは、横も縦もグングンと成長していき、あっという間に街中で一番背の高い存在となる。
飛び乗っている巨木の幹から見下ろせば、深い霧に包まれた街が一望できた。
一方、見上げれば、夜空に浮かぶ巨大な浮遊城がある。目測であと10メートル、自身の魔力量と比して、ギリギリの距離だろうか。
こうして、地上から夜空に伸びていく巨大な月桂樹。静かな夜の街中に、突如現れたそれは、あまりにも奇異な光景である。
煌夜の意識があったならばきっと、この光景を見てこう呟いたに違いない。
まさに、ジャックと豆の木のようだ――と。
※時系列B-5