第四十四話 遭遇/タニア・セレナSide
互いに睨み合う硬直状態はそう長くは続かなかった。高まった戦場の緊張感の中、先に動いたのはタイヨウである。
タイヨウは心臓の上辺りで、素早く十字を切った。タニアはその挙動に反応して、グッと腰を落として身構えた。何をされても良いように、集中のボルテージを上げる。
果たして、タイヨウの周囲に十数個の魔力球が現れた。赤い光を放つ拳大のその魔力球を見て、タニアは己の目を疑った。
それは、タニアがよく見知っている魔術にそっくりだった。いまやタニアしか扱うことが出来ないはずの【魔闘術】――その技のうちの一つ、【魔喰玉】と呼ばれる魔術にそっくりである。
どうしてそれを扱えるのか、どうしてタニアが使おうと思った技を使うのか、様々な疑問は尽きない。けれど混乱している暇はなかった。
タニアはすかさず、全身に魔力を纏わせる。緑色をした魔力は、まるで張り詰めた筋肉のようにタニアの身体を包み込む。魔闘術の奥義である【魔装衣】、その中でも、近接攻撃力特化型――【魔装衣・獣】と呼ばれる形態である。
「キミたちは……退く気も交渉する気もないようなので、仕方ない。私は、キミたちを敵と見なす」
タイヨウは涼やかな声でそう告げる。それはすなわち、戦闘の宣言だった。
タイヨウの声に、タニアはブルリと背筋を震わせてから、ニヤリと口元を悦びに歪めた。この震えは、強者と対峙したことによる武者震いだ。久しく感じていなかった興奮である。この相手に、実力の出し惜しみなど出来ない。
「セレナ、手を出すにゃよ。コイツは、あちしが一対一で殺すにゃあ――」
タニアはぐっと上半身を前屈みにして、四つん這いのような低姿勢で、少しだけ後方にいるセレナに命令する。その声はかなり興奮気味で、どこか愉しそうな響きをしていた。
そんなタニアに、タイヨウはゆっくりと首を横に振る。その顔には、どこか哀れむような色が浮かんでいた。しかも余裕さえ窺える。
甘く見られている――ならばこそ、好機だ。と、タニアは両足に力を篭めて、予備動作なしにタイヨウに飛び掛ろうとした。
魔装衣を纏った状態での全力の疾走。その速度は、音速を超える素早さを誇る。駆け抜けただけで、踏みしめた地面はめくり上がり、周囲の何もかもを吹き飛ばして、蹴散らす暴風の如き突撃。
しかし――突撃する直前に、足元に【光剣】が突き刺さった。それはセレナの攻撃魔術だった。
「にゃ、にゃにするセレナ――」
「――何する、じゃないわよ、この馬鹿猫!! さっきから、アンタ、どこ見てるのよ!? 死ぬわよ!!」
いきなり横合いから冷水を浴びせるような怒号が飛んできた。同時に、足元に突き刺さった光剣が消失して、代わりとばかりに結界が展開される。
何を、と疑問符を浮かべたタニアの正面に、次の瞬間、凄まじい爆発が巻き起こる。それは赤色の雷を伴い、セレナの結界を一撃で破壊した。
「――にゃにゃ!?」
また、タニアが認識できない攻撃だった。タニアはギョッとすると同時に、すかさず全速で飛び退いた。
直後、タニアの位置に巻き起こる爆発。そして降り注ぐ赤い雷撃。
一瞬にして、半径3メートル範囲が不毛の大地に変わる。木々は吹っ飛び、大地はめくり上がり、空気はきな臭くなった。
「タニア!! アンタ、やるなら真面目にやりなさいよ!!」
セレナが切羽詰まった声で叫びながら、大量の【光剣】を上空に展開した。同時に、複数枚重ねた【光盾】を自らの正面に浮かべて、且つ地面を盛り上げて分厚い土壁を作り上げる。
それは、三つの異なる魔術の同時展開。しかも魔術の重ね掛けである。同時展開も魔術の重ね掛けも、凄まじい集中力と、魔術センスが必要な技術である。それを無詠唱で瞬時に展開できるとは――今更ながら、タニアはセレナの実力を見直した。
だがそれはそれとして、セレナの展開したそれらの魔術程度では、タイヨウの魔術を防ぐことはできなかった。
タニアがセレナに感心した刹那、土壁に赤い稲妻が炸裂する。稲妻は土壁を一瞬にして瓦解させて、相殺させるべくぶつかった光剣を蹴散らして、展開されていた光盾を紙のように切り裂いた。そしてそのままセレナの身体を貫く。
セレナは稲妻の直撃を受けて爆音と共に吹っ飛んだ。それを横目に、タニアは今こそ好機とばかりに、タイヨウ目掛けて飛ぶように駆ける。
音速の壁を越えて、瞬きするより速く、タニアの突撃がタイヨウを蹴散らす。ドン、と爆発するような空気の振動と、薙ぎ倒される木々。ただの体当たりが、もはや爆撃に等しい衝撃を生む。駆け抜けただけだというのに、タニアの通過点はそれとわかる轍が出来ていた。地面がめくり上がり、見事な一本道が出来上がっていた。
「これで、どうにゃ!?」
地面に半ば脚を埋めることでようやく止まったタニアは、バッと背後を振り返り、蹴散らしたタイヨウを注視する。
手応えはあった。大事には至らなかったとしても、少なくとも無傷ではすまなかったろう。
しかし、振り返った背後には、平然とタニアに向けて掌をかざすタイヨウの姿があった。
「にゃにゃ――!?」
タニアが振り向いた瞬間、タイヨウのかざした手から血の様に赤い【光剣】が無数に展開される。それはセレナがよく使用する光属性の攻撃魔術だが、その形状がまったく異なっていた。タニアは目を見開いて驚愕する。赤い【光剣】は、ネジのような螺旋状の剣だった。
ネジの如き【光剣】は、次々と空中にその禍々しい姿を見せて、術者であるタイヨウの姿が隠れるほど無数に展開した。
「――くっ、タニア!!」
どこからか響くセレナの絶叫。それを合図に降り注ぐ光剣の雨。逃げ道はなく、避ける隙もない。受けるしかないが、この直撃はさすがのタニアでも大ダメージを負う。
そんな思考を巡らせて、タニアは歯を食いしばりグッと足を踏ん張った。
ドドドドーーと、怒涛の勢いでタニアに突き刺さる剣の雨。魔装衣の硬度を最大まで高めてさえ、あまりの連撃により装甲は削られていく。
「――キ、ツイ、にゃ......」
珍しくもタニアが弱音を吐く。それほど強力な魔術である。普段は圧倒的な攻撃力で敵を圧し潰すのがタニアの戦い方だが、今まさにそれをタイヨウにやられている。この攻撃力は、タニアの全力にも匹敵するかも知れない。
タニアは否応ながらも、防御一辺倒で耐える以外の術を取れなかった。
「『――求めに応じて、応えよ。流水の主よ、その波濤を示せ――水竜』!!」
ふと、暗闇の中から流麗な詠唱が響き渡る。途端に周囲の温度が数度下がり、空気は湿り気を帯び出した。そして、空に昇るように屹立する水の竜が姿を現す。
それは水属性の上級魔術【水竜】――セレナが展開した援護の攻撃魔術である。
光剣の雨に晒されながらも、タニアはその竜の姿を認めて、思わずチッと舌打ちした。セレナがこの水竜で何をしようとしているか、容易に察せたからである。同時に、くそ、と悪態を吐いた。
水竜は、タイヨウではなくタニアを目掛けて、その巨大な顎を開いた。そして躊躇なく襲い掛かってきて、タニアを攻める光剣の雨ごと、辺り一帯を飲み込んだ。
凄まじい勢いの水の塊が側面から叩き付けられて、タニアは、踏ん張りも空しく押し流されるままに吹っ飛んだ。鈍器で殴られたような衝撃が脳を揺らす。
水竜は、攻撃魔術の破壊力としてみるとそれほどではないが、純粋な圧力としてみると、かなりの威力、水圧を誇る。
さて、そんな水竜は、タニアを吹き飛ばして光剣を呑み込んだ後、周囲の木々を薙ぎ倒しながらタイヨウへと迫る。
「…………上級、魔術か。さすがに、妖精族なだけ、ある」
一方、眼前に迫り来る水竜を呆と眺めて、タイヨウは焦った様子もなく呟いていた。身構えもせず、興味なさげにただ立ち尽くしている。避ける素振りはおろか、防御する様子もない。
けれど、それも当然だろう。恐らくセレナの水竜程度では、直撃しようともタイヨウがダメージを負うことはない。それほどまでに、タイヨウとセレナには実力差があった。
とは言えど、一瞬でも怯んでくれれば充分――と、タニアはタイヨウに迫る水竜を横目に、吹き飛んだ先ですかさず体勢を整えた。グッと右腕を引き絞って、渾身の魔力を拳に篭める。狙うタイミングは、水竜が直撃したその瞬間だ。
「今、にゃ――――にゃ!?」
果たして、セレナの水竜はタイヨウに直撃――する刹那、突如正面に現れた巨大な炎の壁に激突して、その巨躯を蒸発させる。凄まじい爆風が、森の中を走り抜けた。
あれは、中級の防御魔術で【炎壁】である。防御力はそれほど高くはないが、水属性には有効だ。だがそれにしても、展開規模が大きい。
よもや一瞬で、あれほどの規模の防御結界を展開できるとは想定していなかった。タニアは面食らうと同時に、忌々しげに舌打ちする。これでは欠片も不意打ちにならない。即死させられない。
「……にゃけど、仕方にゃいにゃ!!」
計画していたタイミングを逸そうとも、攻撃を見送るなどという選択肢はない。
タニアは破れかぶれとばかりに、引き絞った本気の【魔槍窮】を炎の壁に向けて解き放つ。槍状をした魔力の弓矢が、立ちはだかる木々を貫きながら一直線にタイヨウ目掛けて飛んでいく。
「素晴らしい、威力だ。だが、素直過ぎる」
迫り来る魔槍窮を見ながら、タイヨウはボソリと呟く。その上から目線で、余裕溢れる台詞を耳にして、タニアは苛立ちからギリと奥歯を噛み締めた。
甘く見るにゃよ、と掌に魔力を集中させて、グッと両足に力を篭める。タイヨウが魔槍窮を受けるか避けるかしたら、飛び掛って【魔突掌】をお見舞いする心積もりである。
さてところで、一直線にタイヨウへと迫る魔槍窮は、水竜と激突して薄くなった炎の壁に突き刺さり、軽々とそれを突き破る。そのまま、ほんの少しもその威力を減じることなく、無防備に立ち尽くすタイヨウの胴体を貫こうとして、突然、パッと霧散した。
「にゃん、だと!?」
タニアはその有り得ざる光景に驚愕して、思わずポカンと呆けてしまった。
タイヨウは、受けるでもなく、避けるでもなく、タニアの魔槍窮を打ち消した。【魔槍窮】という攻撃魔術を、ただの魔力に空中分解させたのである。それは信じ難い事実だった。同程度の魔術をぶつけることで相殺させるならまだしも、術者以外の第三者が、まさか打ち消すとは露ほども想像していなかった。いや、想像できなかった。
如何なるレベルの魔術だろうとも、一度展開された魔術を術者本人以外で打ち消すことは、限りなく不可能に近い芸当である。理論としては決して不可能ではない。だが少なくともタニアは、他人の魔術を打ち消すことが出来る人間に出会ったのは、これが初めてだった。
「……ありえにゃい、にゃ」
魔槍窮が打ち消された事実の前に、タニアは追撃の手を止めてしまう。飛び掛ろうとしていた気勢は削がれて、魔突掌を叩き込もうと身構えた姿勢のまま、ただ呆然とタイヨウを眺めてしまった。
「キミは、私と、相性が悪い、ようだ」
「にゃ!? グゥ――ッ!?」
タニアが足を止めて呆けた一瞬――背後からタイヨウの声が聞こえてくると同時に、凄まじい衝撃が腹部に叩き込まれた。激痛が脳天を突き抜けて、あまりの衝撃に呼吸が出来なくなる。しかも認識していなかったが故に、受身も取れずに吹っ飛ぶことしか出来なかった。
(――にゃにが、起きたにゃ!?)
タニアは吹っ飛びつつも、必死に状況を理解しようと思考を巡らした。タイヨウに何をされたのか、いったい自分に何が起きたのか。勢いよく転がりながらも、苦痛に喘ぐより先に、周囲を観察する。
(あちし、タイヨウから視線を切ってにゃい。にゃけどアイツ、気付けば、後ろに立ってたにゃ。あちしの認識より速く動いた? そんにゃ馬鹿にゃ! それよりにゃ――にゃんで、あちしは、アイツの魔術を認識できにゃい? セレナは、魔術を認識してたにゃ。あちしとにゃにが、違う?)
零コンマ一秒に満たない時間の中で、タニアは努めて冷静にそんな自問自答を繰り返す。タイヨウに翻弄されっぱなしで、怒りと苛立ちから感情は沸騰していたが、それでも思考だけは混乱させず、現状を把握しようと必死だった。
「ちょ、タニア、大丈――なっ!? え、嘘でしょ!?」
セレナは吹っ飛ぶタニアに呼び掛けようとして、悲鳴じみた声を上げた。だが生憎、タニアにはセレナの状況まで把握する余裕はなかった。
セレナは、扇情的なそのドレスこそ無傷だったものの、露出した白い肌には裂傷や打撲が目立ち、体力もだいぶ削られていた。顔には疲労と苦痛の色がありありと浮かんでいる。
そんなセレナは驚愕に目を見開き、次の瞬間、全身を巨大な赤い落雷に貫かれた。赤い落雷が雨の如く幾筋もセレナに降り注ぐ。
凄まじい音の衝撃を伴った轟音が木々を揺らし、赤色の雷光が夜の闇を明るく照らした。
一瞬か、数秒か、落雷の雨は不意にピタリと止まる。途端に、暗闇と静寂が辺りを支配した。
「……今の、は」
タニアは四つん這いの姿勢で、落雷の爆心地に視線を向ける。空気がピリピリと感電しており、周囲は音が消えたように無音だった。
「――【雷槍】で即死しなかったのは、さすが、妖精族だ。けれど、【神雷】ではどうか?」
無音の暗闇に、ふとそんな片言の呟きが響く。それは、タイヨウの呟きである。
すかさずタニアは声の方に顔を向けた。声はタニアのすぐ近く。右手側、数メートルの距離からだった。
「にゃんにゃんだ、お前!?」
振り向いた方向には、正しくタイヨウが立っている。涼しげな無表情で、下らないモノを見下すような冷めた双眸で、セレナが居た場所を眺めている。
そんなタイヨウにタニアが怒鳴った。
「私は、キミたちの敵、だ。見知らぬ、獣人族の娘、よ」
タニアの言葉に、タイヨウは視線を向けずにそう答えた。抑揚のない片言で、至極つまらなそうに。しかし、明確な敵意と殺意だけは相変わらず凄まじかった。
タニアはギリギリと奥歯を噛み締めた。タイヨウという敵の実力、潜在能力を見誤っていたようだ。油断こそしていなかったが、全身全霊で対峙してはいなかった。このままでは、あっけなく殺されてしまう可能性がある。
チラリと、タイヨウの視線の先、セレナの居る場所を見た。
落雷の雨が降り注いだその場所は、見事なクレーターが出来上がっており、暗闇にまだ静電気がピリピリと踊っていた。そして爆心地には、地面に身体を半ばまで埋めて、ピクリとも動かないセレナの姿があった。
ちなみに、先ほどまで無傷だったセレナのドレスは、いまやビリビリに破けており、うつ伏せで倒れたその姿は、ほとんど全裸に近い状態だった。
だが、それも仕方ない。タイヨウが無詠唱で放った【神雷】と言う魔術は、聖級の合成魔術である。直撃すれば即死級の攻撃魔術だ。しかも恐らく、その破壊力は冠魔術に匹敵するだろう。セレナの装備していた【娼姫の魔装】は、確かに聖級の防御力を誇るが、その程度ではとてもじゃないが防ぎきれはしない。
「……これでも、即死しないか」
セレナのあられもない姿を眺めながら、タイヨウが疲れたように溜息を漏らした。言う通り、セレナはまだ死んではいない様子だ。けれど、よくよく見れば指先が灰化し始めている。このままでは遅かれ早かれ結末は同じだろう。
こうなってはもう――致し方ない。
「――獣化、するにゃ」
タニアは口惜しそうな声で呟いた。それは決意である。未だにタイヨウの底が見えていない状態で、先に自らの底を露呈するのは避けたかったが、それで死んでは元も子もない。
すぅ、と深く深く息を吸う。同時に、フッと目を閉じて、纏っていた魔装衣を解除させた。途端に、満ち満ちていた緊張の空気が緩み、タニアの戦意が霧散した。
「……なん、だ?」
唐突に戦闘の空気が緩んだことで、タイヨウが怪訝な表情を浮かべてタニアを見た。すると、タニアは降伏したかのように頭を垂れた。
信じ難い光景だ、とタイヨウは我が目を疑った――瞬間、タニアの身体が膨れ上がり、当然のように服が飛び散った。
「――ッ!?」
タイヨウはその光景に思わず息を呑んで硬直してしまった。それほどまでに衝撃的な光景だった。
タニアの全長が、元の二倍以上に変化する。四肢は太く膨れ上がり、四つん這いの姿勢がより猫背になって、白い体毛がぶわっと全身を覆う。両脚の爪も鋭く長くなり、顔立ちはまさに獣と化す。
その姿は、まさしく化け猫だった。4メートル弱の巨体をして、二又に別れた尻尾を持つ猫である。暗闇で爛々と光る双眸は、左右色違いのオッドアイだった。
獣族と呼ばれる種族は、本来、獣界に棲んでいた異世界人であり、そもそもが獣と同じ姿かたちをしていた。例えば、ガルム族ならば、四足歩行で二又の尾を持つ大型な猫の姿であるし、ラガム族ならば、四足歩行で九又の尾を持つ中型の狐の姿であり、レギン族ならば、二足歩行で三日月の形をした尾を持つ小型の兎の姿であった。だが、永い年月を人界で過ごすうちに、それら本来の姿を失ってしまった。そうしていつしか獣族は、生まれ出でた瞬間より、体の一部に特徴を残すだけの、人族に似た種族に成り下がった。
しかしそんな獣族の中でも極稀に、数百年に一度の周期で、獣族本来の姿で生まれてくる存在がある。それが先祖還り――獣族の祖に限りなく近い血を持つ存在である。
先祖還りは、生まれた瞬間が獣の姿であり、後天的に人族の姿を獲得する。そして自らの意思一つで、獣化も、人化も――それぞれ姿を切り替えることが可能だ。またその特徴として、他を圧倒する身体能力と魔力を秘めている。タニアはその先祖還りである。
さてところで、獣族が本来の姿に戻った時――つまりは獣化すると、凄まじい恩恵が得られる。肉体強度や魔術耐性が強化されて、体力は勿論、心肺機能が向上する。あらゆる身体能力は跳ね上がり、魔力量も増大、必然、素の戦闘力が爆発的に向上する。しかもそこに一切デメリットはない。更に、獣化最大の恩恵として、【魔闘術】の真価を発揮できる。
――すなわち、獣化した今のタニアこそが、全身全霊、本気の全力である。
「これが、真なる【魔装衣】にゃ」
化け猫となったタニアが静かに囁く。すると、タニアの全身から緑色の魔力が迸った。迸る魔力は全身の体毛を逆立たせて、立ち上る炎のように暗闇で揺らめいた。
「覚悟するにゃ――――容赦、しにゃいにゃ」
タニアの決然としたその言葉は、戦闘開始の宣言であり、開戦の合図である。緊張の緩んでいた凪いだ静寂に、突如、爆発したかのように殺気と闘気が膨れ上がる。
タニアはほんの少しだけ四肢に力を篭めた。一方で、タニアのその威圧を受けたタイヨウは、ビクリと脅えたように身体をビクつかせた。まったく想定していなかった状況で、タイヨウの思考は完全に停止していた。
そんなタイヨウの反応に、タニアはニヤリと哂い、次の瞬間、音も無く襲い掛かる。
一陣の白い風が、暗闇の森を駆け抜ける。それは音を置き去りにする超高速の突進だった。
足音さえ立てず、視認さえ出来ない瞬速で、タニアは立ち尽くすタイヨウの脇をただ駆け抜けた。4メートル弱の巨体とは思えぬ俊敏さと身軽さで、木々の隙間を縫うようにすり抜けた。
「【魔紐刃】――にゃ!」
タニアは走り抜けると同時にそう叫ぶと、そのままの速度で跳躍する。
タン、と軽やかなステップで、鮮やかな緑色の魔力を纏った白い巨体が、風に揺れる木々の枝を足場にして着地する。枝の太さとタニアの対比がおかしいことを除けば、その光景はまるで宿り木に止まる鳥のようだった。
さて、タニアがその細い木の枝に着地した刹那、ザン、と何かが切断されたような音が響いた。その音を、タイヨウは困惑した表情で耳にした。音に一テンポ遅れて、景色がゆっくりとズレ始める。
タニアの走り抜けたコースにあった全ての物体が、いつの間にか切断されて、横にスライドしながら倒壊を始めたのだ。
「――――な、に?」
タイヨウの呆気にとられたような音が聞こえる。しかし、その音が発せられたと同時に、タイヨウの上半身と下半身もズレて、あっけなく崩れ落ちた。さすがに、こうなってはもう助からないだろう。
周囲の木々と、タイヨウを両断せしめた技――それが【魔紐刃】である。獣化した状態でようやく使用可能となる魔闘術の一つで、あらゆるモノを切り裂くことの出来る極細の紐を展開する魔闘術である。太さ0.1ミリほどの視認困難な極細の紐は、魔力で作られた強靭な刃だ。タニアは森を走り抜けた際に、その紐をあちこちに絡み付けて、ピンと張ることで何もかもを切断したのである。
タイヨウは何が起きたか不明瞭なまま、呆然とした表情で、上半身だけ地面に転がる。それに遅れて、下半身がガクンと膝から崩れ落ちた。そうして、分断されたタイヨウの体躯に、同じく切断された大木が轟音を立てて倒れ込んでくる。
タニアはタイヨウが潰される様をジッと確認してから、しかし欠片の慢心も油断もせずに、スタッと地面に降り立った。タニアの巨躯は羽のような軽やかさで、まるで重さを感じさせない着地である。
「…………死んだ、かにゃ?」
タニアは警戒を解かず、その猫耳をツンと立てて、タイヨウの息遣いや気配を探る。タイヨウの能力が未知数である以上、確実に死んだと確信できない限り、警戒を解くことはない。
タニアが耳を澄まして周囲に意識を集中すると、二つの気配が感じ取れた。
一つは、瀕死の状態で小さく喘ぐセレナの呼吸だ。彼女は身体から漏れ出す魔力を留めようと、必死になって意識を集中させている。
もう一つは、少しも乱れぬタイヨウの呼吸である。冷静で平静な息遣い、それが信じ難いことに、タニアの頭上、月明かりを遮る巨木の枝から感じ取れた。
けれども、無残に両断されたタイヨウの身体は、変わらずタニアの視線の先にある。【鑑定の魔眼】でそれを確認すると、本物と同じようにステータスが読み取れる。死んでいるにも関わらず、だ。
「にゃるほど、にゃ」
タニアは抑揚のない声で静かに納得する。ここに至ってようやく、タイヨウの能力を理解できた。
「――あちしは、視覚を奪われてるにゃか」
タニアは、自身の目に映る全てが、まったく当てにならない虚像、タイヨウが見せる幻覚だと確信する。いつタイヨウの術中にハマったのかは分からない。だが、どうやら今もまだ、幻覚を見せられているらしい。
タニアのその台詞に、ほぅ、と感心した風な吐息が漏れた。スッと頭上を仰ぐ。
「いまだ、幻惑に囚われている、はず。どうして、気付けた?」
タニアの頭上、息遣いの感じられる枝には、何の姿も見えない。当然ながら、鑑定の魔眼をもってしても何も映らない。しかし、獣化して研ぎ澄まされた聴覚と嗅覚が、視線の先のタイヨウの気配を確実に捉えていた。
「ここまで馬鹿にされて、気付かにゃかったら、とっくに死んでるにゃ」
タニアは不敵に口元を歪めて、その白い巨躯をグッと丸める。すると、タニアの全身を包んでいる【魔装衣】が一瞬だけ掻き消えて、直後、キ――ン、と空間が凍り付いたように無音になった。
「死ぬにゃ――【魔驟雨】!!」
それはとても愉しげな声音だった。タニアにとっては勝利の宣言であり、タイヨウにとっては死の宣告に等しい言葉だった。獣化したタニアが満を持して放つ冠級の攻撃である。
タニアの白い巨躯から魔力が溢れた。溢れた魔力は次々と巨大な槍に形状を変えて、その穂先をタイヨウの気配がする上空に向ける。そしてそれは、瞬く間に百を超える数となり、次の刹那、その全ての槍が一斉に砲弾の如く放たれた。
人族の形態で放つ【魔槍窮】――それを、驟雨の如く無数に放つ奥義。それが【魔驟雨】である。
ただでさえ魔槍窮の一撃は聖級の攻撃魔術に匹敵するのに、その魔槍窮が息つく間もなく降り注ぐ――今回の場合は打ち上がる、が正しい表現だが――のだ。直撃すれば、もはや即死は免れないだろう。これはたとえ、相手がヤンフィであろうと、耐えられるはずはない。
そんな自信の技を放って、けれどタニアは追撃の手を緩めるつもりはなかった。
花火のように次々と上空に放たれる魔力の槍。それを横目にしながら、タニアの白い巨躯は森の中を疾走した。瀕死のセレナを巻き込まないよう、彼女が埋まっているクレーターから距離を取ったのである。
魔驟雨は凄まじい爆音を響かせながら、夜空に緑色の軌跡を描いていく。同時に、赤色の爆発も巻き起こり、また、白色の閃光が瞬く。
赤色の爆発は、タイヨウの迎撃魔術のようだ。流石に魔驟雨を避けるには間に合わず、また無数のソレらを打ち消すことも出来なかったのだろう。同レベルの魔術でもって相殺している様子である。だが、魔驟雨全てを相殺することは不可能だ。
タニアは200メートルほど距離を取ってから、夜空を染めるその眩い閃光を遠目に眺める。空を彩る色はやがて、赤色の爆発が無くなり、スッと伸びていく緑の筋と、白色の閃光だけになる。
タニアは内心でほくそ笑みつつ、後ろ足だけで立ち上がり右前足を大きく横薙ぎに振るう。すると、暗闇に五線譜の並びをした魔力の刃が浮かび上がり、まるで意思を持つかのように飛翔していく。刃は鎌鼬のように、障害物を何ら物ともせず、森の中の巨木を豆腐を切るかのように易々と切断していく。その刃に触れたモノ全てが、まったくあっけなく分断されていく。
この技は、タニアの意思一つで縦横無尽に空間を駆ける遠距離攻撃で、【魔爪燕】と呼ばれる魔闘術の一つだ。あらゆる物質を切り裂く五つの刃であり、遠隔操作できる使い勝手の良い攻撃だった。しかもその殺傷能力は、非常に高い。
飛翔する五つの刃は、白色の閃光が瞬く上空に向かっていく。
タイヨウは魔驟雨の直撃を受け続けて、もはや肉片ひとつ残っていないだろう。だが万が一、まだ五体満足であったならば、魔爪燕が切り刻む。
情け容赦のない追撃、しかしタニアの慎重さは更にもう一手、トドメの魔術を展開する。
「この姿だと、調整が難しいにゃぁ……」
タニアは、にゃごにゃごとそんな呟きを漏らすと、カパッと口を大きく開いた。グッと四肢に力を篭めて、地面に爪を食い込める。それはこれから発生する衝撃に耐える為の姿勢である。
一方で、タイヨウ目掛けて飛翔する魔爪燕が、タイヨウが居るであろう場所に到達する。到達した瞬間、その魔爪燕から、硬い魔術壁と肉を断つ感覚が共有される。その手応えにタニアは頷いた。
手応えでは、タイヨウの身体はもうバラバラ状態である。
けれど、それで終わりではない。ヤンフィや煌夜のように、身体を欠損しようとすぐに回復する化物も居るのだ。追撃の手は止めず、塵一つ残さぬ気概でトドメを刺す。
「出力、全開にゃ――」
パァア――ッと、タニアの開けた大口に光が集まり始める。それは眩いばかりの白色光で、口の中いっぱいに巨大な球を形作った。同時に、タニアを中心として、台風でも来たかのような凄まじい突風が巻き起こる。
やがて、集まる光は口の中から溢れ出して、光の球の大きさはタニアの口に収まらなくなる。するとそれは、ゆっくりとタニアの口から出てきて、タニアの眼前に移動した。タニアは、ふぅ、と溜息を吐いてから口を閉じて唾を呑み、ゴロゴロと喉を鳴らす。
そうして眼前で浮遊する白い光の球。それはタニアの巨躯と同じくらいまで巨大化して、まるで月のように煌々と輝いていた。
タニアはその光の球に前足の肉球をトンと載せる。瞬間、クッと首を竦めて、瞳を細めた。
「――――解き放たれよ、【魔神閃】」
タニアがそう宣言した時、光の球が爆発したかのように大きく膨れ上がり、ポン、と気の抜けたような音を鳴らした。刹那、圧縮された空気がようやく解放されたかのように、凄まじい爆風、衝撃波が発生する。まさに竜巻が暴れ回ったかの如く、一瞬にして、半径50メートルに存在した巨木が全て、その風圧だけで薙ぎ倒された。
そして光の球は、タイヨウに向かって眩い光線を照射した。その光線は数千度を超える熱量を伴っており、文字通り光速でタイヨウの身体を貫く。光線の射線にある物体は即座に蒸発して、あらゆる障害物がその存在を消失させる。
――ちなみにもし、この場に煌夜が居たならば、この光景を見てこう思ったに違いない。これこそまさにビームライフルか、メガ粒子砲、あるいは波動砲である、と。
「……にゃにゃにゃ!!」
タニアはギュッと瞼を閉じながら、グッと爪を地面に突き立てて、体勢を低くして必死に光線の反動に耐えた。耐え切れずに吹っ飛べば、途端に光線も方向がぶれる。射線がずれてしまえば、下手をするとセレナを消し炭にしてしまうかも知れない。
この光線は、【魔神閃】と呼ばれる魔闘術の一つで、魔闘術の中でも、最も扱いが難しく、魔力の消費効率、燃費が悪い範囲攻撃である。威力は冠魔術に匹敵するが、その威力の割りに魔力消費量が大きい。人族形態でこの魔術を放とうものならば、まず反動に耐え切れず的を絞れない上に、一発撃って魔力切れになるだろう。故に、この魔術を放つのならば、獣化状態限定だった。とは言え、先祖還りしていても、体力的にも魔力的にも厳しい技だが。
さて、魔神閃の照射から、数十秒――タニアは苦しげに舌打ちして、光の球を霧散させる。ボチボチ魔力残量が厳しくなったからである。まあ、それでも充分にトドメ足りえただろう。
「ここまで、あちしにやらせたのは、お前が初めてにゃ……これで生きてたら、お手上げにゃ」
お手上げと言いつつ、もし生きていたとしても、次善の策は用意している。戦意は微塵も衰えておらず、当然そこに油断もない。だが一旦、気を抜いた体を装って、タニアは魔装衣を解除した。
五感を研ぎ澄ませて、猫耳を立ててジッと周囲の音を探る。先ほどとは一転して、さやさやと流れる穏やかな風だけが聞こえる。
タニアはしばし動かず、静寂の中から異質な音や気配を探るが、特に何の気配も感じない。いや、正確を期するならば、セレナの虫の息だけは感じ取れる。
良かった――巻き込まれてはいないようだ。タニアは、少しだけ安堵する。
「……さて、と。油断はしにゃいぞ」
タニアはそんな決意表明をしてから、タイヨウの方へと軽やかに走り出す。駆け足は無音で、風のような疾走だった。途中、瀕死のセレナをチラと見るが、彼女は先ほどよりも灰化現象が進んでいた。今でも充分危険だが、これ以上の放置は本格的にマズイだろう。
200メートル程度の距離は、全力で走らなくとも、今のタニアからすれば五秒掛らなかった。
タニアは魔驟雨を打ち上げた爆心地に戻ってくると、タイヨウの気配を五感全てを用いて探る。けれど、やはり気配は感じない。
「完全に、塵と化したかにゃ?」
傍目から見れば、先ほどの猛攻はやりすぎた感が半端ではない。しかし、そこまでさせるタイヨウの実力を、タニアは少しも過大評価とは思わなかった。しかもこの状況で、まだタイヨウが生きている可能性を捨ててはいない。
タニアは瞳を閉じて、猫耳に集中する。獣化した今ならば、タニアの聴覚は普段の数十倍だ。1キロ離れた場所にいる虫の鳴き声さえ拾うことが出来るだろう。だが、そこまで集中するまでもなく、突如として上空に、覚えのある威圧感が現れた。
「そうか……つまり、キミが『タニア・ガルム・ラタトニア』……ガルム族の、暴れ姫。ガストンが、執着している、娘、か」
片言のその声は随分と擦れており、息も絶え絶えに聞こえた。
タニアはすぐさまその場から飛び退いて、声がした方に顔と殺気を向ける。
果たして、タニアが向いた先、地上から5メートルほど高い夜空には、右腕を失っただけのタイヨウが浮かんでいた。
「にゃははは――ヤンフィ様と同じぐらいの化物にゃ、お前」
タニアはタイヨウの姿を認めてから、乾いた笑みを浮かべる。タニアが想定していた最悪よりも、この状況はより悪いと言える。タイヨウにはまだ、余力がだいぶ残っている様子だったからだ。
「ああ、落ち着け。キミが、タニア・ガルム・ラタトニアと知ったからには、もはや私は敵対しない」
そんな台詞と共に、タイヨウは宣言通り殺気と戦意を解いて、無事な左手を広げた。無抵抗のアピールのつもりだろう。緊張していた空気が一気に弛緩する。
しかし、タニアはその緩んだ瞬間を見計らい、予備動作なしに弾丸もかくやという速度で、タイヨウの浮かぶ中空に跳躍する。暗闇を引き裂くように、白い巨躯が飛んだ。
――それは、時間にして零コンマ一秒よりも短い刹那の出来事だった。
タニアの白い巨躯が瞬きよりも早くタイヨウの眼前に迫り、突き出した左前足がタイヨウの頭をガッシリと掴んだ。タイヨウはそのあまりの俊敏さに反応できず、また油断した隙を突かれたこともあり、ただ目を見開いた。すると、トン、と右前足がタイヨウの胸部、心臓の上付近に触れた。
タイヨウの感覚では、肉球が左胸を触った、その程度に感じただろう。だが次の瞬間、その魔闘術は炸裂する。
「――【魔爪突】にゃぁ!!!」
タニアの声が夜空に響く。そして、タイヨウの背中に魔力の爪が突き出てくる――直後、タイヨウの身体が、内側から爆散する。
両手足が着脱式の人形が壊れるみたいに、タイヨウの胴体から四肢が弾け飛んで、その胸元が赤黒く染まった。肋骨が肉を突き破り内側から外側に開いて、千切れた内臓のほとんどが、腹圧に押されて割けた腹から溢れ出していた。
ゴブリ、とタイヨウの口から大量の血が零れる。
スゥ――と、憂いを帯びていたタイヨウの顔から、血の気が失せていく。
タイヨウの身体からは力が抜けていき、先ほどまであった生気が、凄まじい速度で薄れていくのを感じた。また同時に、タニアの腕にタイヨウの全体重が掛かってくる。タイヨウ自身を浮遊させていた魔術が解けた影響だろう。つまり、タイヨウは完全に脱力している。
「手応え、あり、にゃ!」
ニンマリと会心の笑みを浮かべて、その声は愉悦に満ちている。これは、誰がどう見ても過剰殺人だろう。けれど、タニアはそれでもまだ終わらせるつもりがなかった。
空中でタイヨウを貫いたタニアは、そのまま右腕を振り抜いて胴体を引き千切る。もはや力を失っているタイヨウは、ダラン、と身体を弛緩させて、タニアに頭を掴まれたままぐったりとする。
なまじタニアが巨大な化け猫姿だからか、タイヨウのその姿はまるで、野良猫に腹を喰い千切られた魚のようにも見えた。タイヨウは、まったく無様な有様だった。
「――これで、終わりにゃぁ!!!!」
タニアが吼える。そして、タイヨウの頭を掴んでいる左前足を大きく振りかぶった。タイヨウはまさしく襤褸雑巾のようになりながら、タニアの為すがまま身体を揺らした。
タニアの白い巨躯が空中で反転する。振りかぶった左前足が、掴んでいるタイヨウを地上目掛けて投擲する。
フォン――、と。風を切る音が暗闇の中に響いた。その直後、土煙がタニアの浮かぶ高さまで舞い上がるほどの衝撃で、タイヨウが地面に激突した。当然のように地面が捲りあがり、隕石でも落ちたかのようなクレーターが出来る。
さて、そんなクレーターに埋もれるタイヨウに向けて、タニアは更に両足を振りかぶり、振り下ろした。まるで空中を蹴るかのような仕草、だがそれは、追撃の【魔槌牙】である。
夜空に展開される巨大な槌。人族形態で放つ【魔槌牙】よりも巨大なソレを、もはや死に体のタイヨウに向かって、タニアは容赦なく叩きつける。
ドォオオ――ン、という轟音。同時に、地面には、底の見えない深さの巨大な穴が穿たれた。
タニアは空中で更に姿勢を変えて、風の魔術で足場を生成すると、ピョンピョンとその足場を飛び回りながら、音もなく地上へと帰還した。
そうして巨大な穴の縁に降り立ち、首を竦めながら底を覗き込む。
「これでも、まだ生きてるにゃか?」
警戒こそ解かないまでも、流石のタニアも、もはやタイヨウは瀕死だと確信していた。むしろここまでやって尚、タイヨウに余力があるのならば、一旦、退くという選択肢を考えた方が建設的である。これ以上戦闘が長引くと、セレナが死んでしまう。
タニアはジッと穴の底を覗き込んで、猫耳に意識を集中させる。すると、ほんのかすかに、タイヨウの息遣いが聞こえてきた。
「……【魔爪突】で、確実に魔力核を砕いたはずにゃ。にゃのに、にゃんでまだ生きてるにゃ。ちょっと、化物過ぎるにゃ」
タニアは忌々しげに独りごちる。主要臓器を爆発させて、魔力の核も破壊した。そのうえで、肉体をぺちゃんこに潰したと言うのに、どうしてまだ絶命していないのか。ここまでの不死性は、いかにタニアでも想定外だった。
「どうするかにゃ……このまま放って置いたら、死んでくれにゃいかにゃ?」
タニアはタイヨウの気配に注意を払いながら、これからどうすべきか逡巡する。
そもそも、不本意で戦闘になってしまったが、タニアとセレナの目的に、タイヨウなどまるで関係ない部外者である。タイヨウにかかずらって、怪我をするのも馬鹿らしいし、目的が果たせなくなるのも意味が分からない。となると、もうこれ以上、関わるべきではない。
そう思考した時、穴の底からか細い声でタイヨウが告げた。
「…………これが、『タニア・ガルム・ラタトニア』か。ガストンが、私に強く推薦するはず、だ。これほどとは想定して、いなかった」
タイヨウはそんな台詞を吐いてから、フゥ、と疲れたように溜息を漏らしていた。
タニアは会話する気などサラサラないので、ただただタイヨウの気配にだけ集中して、次の一手に思考を巡らせ始める。
ところが次の瞬間、タイヨウの気配が希薄になり、煙が風に流されて消えるように、その場から存在感が無くなっていった。何だ何だ、とタニアは己の五感を限界以上に研ぎ澄まして、バッと穴の縁から大きく距離を取る。
「……私は、ここらで、本部に帰るとしよう……キミの、正体が判明した以上、殺す必要も、ない」
そんな片言の台詞を最後に、タイヨウの気配、存在感は、綺麗サッパリ消え失せた。
消える瞬間、時空魔術が展開したような空間の揺らぎが感じられたので、恐らくタイヨウは、時空魔術でどこかに跳んだのだろう。つまりは、最後の台詞は負け惜しみと言うことである。
こうして、タイヨウという脅威は去った――が、しかし、タニアは緩みそうになる緊張を引き締めて、しばらくの間、微塵も警戒を解くことはしなかった。これが杞憂に終わればよいが、万が一、タイヨウが引き返してこないとも限らない。
その時、パァ――ッ、と。森の外から、魔動列車の警笛が聞こえてくる。
どうやら、もう二時間ほど経っていたらしい。停車していた魔動列車が、補給と点検を終えて、次の目的地へと出発するようだ。
遠くで鳴り響くその警笛が聞こえなくなるまで、タニアはジッと動かなかった。
※時系列A-2
投稿開始から一周年、しかし記念に何かすることはない。