第五話 一連托生
そこは、何も見えない暗闇だった。無重力空間に投げ出されているような感覚で、判然としない意識だけがそこに浮いていた。
煌夜は漠然と、ここが死後の世界だと感じていた。いまはきっと、意識が無に溶ける寸前の、ほんの束の間の奇跡だろうと思っていた。
あの状況で助かるはずがないと、確信していたからである。
そんな奇跡の束の間に、脳裏に去来するのはただただ後悔だった。竜也、虎太朗、サラの三人を助け出せなかったことが、万力のように煌夜の心を締め付けている。
助けるつもりで息巻いてこの異世界にやってきて、まさかの即死とは悔やんでも悔やみきれない。なんて無様な最期だろうか。煌夜はあまりにも自分が情けなくて、不甲斐なくて、その無力さに心が押し潰されそうだった。
(――汝よ、妾の言葉が聞こえるか?)
その時ふと暗闇の中で、そんな言葉が浮かび上がってきた。
それはまるで、天啓のように感じる不思議な声だった。どこかで聞いた覚えのある声――しかし同時に、初めて聞くような響きだった。ただ、その声のおかげで、後悔の海に沈んで散漫になっていた煌夜の意識がハッキリと一つにまとまった。
(……誰、だ? いや、その前に……俺は、死んだんじゃ……ここは?)
煌夜は思考を巡らせる。
死に際の光景を思い出しつつ、いま自分がどうなっているのかを把握しようと努める。意識はハッキリとしても、思考は混乱の真っ只中にあった。
(目が開かない……身体の感覚も、ない、けど……この感じは、夢か?)
煌夜はとりあえず全身に意識を向けた。しかし、身体は一切動かない。指先どころか瞼さえ思うままに出来ない。
けれど、ここが一面、闇の世界だと確信を持って認識できている。
この感覚は、よく知っている。明晰夢――夢を見ているとき、それが夢だと自覚できているときの感覚である。
「どういう、ことだ……? 俺は……どうなったんだ?」
口を動かしていないのに声が出た。瞼を開いていないのに、周囲を見渡した感覚があった。そして左手の感覚がないのに、その手が掴まれていると認識できた。
(どうもなっておらぬぞ。汝はまだ、生きている。確かに死ぬ寸前ではあったが、かろうじて命は取り留めた)
「――誰だ!」
暗闇の中でふたたび響く不思議な声に、煌夜は思わず叫んでいた。
目の前に誰かがいて、その誰かが煌夜の左手を掴んでいる。そう確信しているのだが、手の感覚は曖昧で、まるで麻酔された腕をいじられている様子を見ているような気持ちだった。
(――妾は、ヤンフィと云う。汝の命を助けた者であり、汝に命を助けられた者じゃ)
「……ヤン、フィ? 命を助けた? 助けられた? それは、どういう……?」
(うむうむ、懇切丁寧に説明してやりたいのは山々なのじゃが、とりあえずは覚醒するがいい。詳しくは汝が起きてから説明しよう)
早口に捲くし立てる煌夜に、その不思議な声は苦笑交じりで諭すように言った。
煌夜の頭に響いてくるその声は、古臭く厳めしい喋り方をしていたが、少女のような声色をしている。
煌夜はその声を怪しく思いながらも、そうすることがまったく当然のように、言われるがまま目覚めを意識した。瞬間、急速に暗闇の中で意識が浮上していくのを自覚する。
この感覚は間違いなく、夢から目覚める直前の独特な浮遊感だった。
ひととき、まどろみの至福を感じてから、煌夜は瞼の上へと降り注ぐ淡い陽光に集中する。
「――――うぉおお!」
一秒か、はたまた一分か、どれくらい気を失っていたのかはわからないが、煌夜は雄叫びを上げながらガバッと身体を起こした。
その様子は、悪夢を見て飛び起きた子供のようだった。全力疾走した直後のように呼吸は荒く、その全身は滝のように汗を掻いている。
ふと見れば、肌にへばりついたインナーのシャツは左肩だけノースリーブ状態になっており、ワイシャツも左半分が破けて、もはや服の体を成していなかった。ジーンズは赤黒い染みが模様のように点々と付いており、左足だけショートパンツ、右足はロングという状態になっている。
煌夜にとっては、だいぶ恥ずかしい格好である。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
だが、いまはそんなパンクな格好を気にするよりも、バクンバクンと破裂しそうなほど脈打つ心臓を抑えることのほうが先決だった。
煌夜はゆっくりと深呼吸しながら、心臓に左手を添えて、しばしの瞑想をする。しかしそのとき突然、眼前から夢の中で聞いた声が投げ掛けられた。
「おはよう、かのぅ? さて、気分はどうじゃ?」
ビクンと身体を震わせて、煌夜は顔を上げた。その正面には、気配もなく佇む和服姿の幼女がいた。
「――うぇ!? な、だ、おま、は?」
「おぉっと、少し落ち着け。妾は汝の敵ではない。むしろ命の恩人じゃよ?」
「な――――は?」
煌夜は金魚のように口をパクパクとさせる。寝起きの頭がまだ正常に稼動してくれなかった。混乱状態のそんな煌夜を見て、幼女はフッと笑う。
「至極混乱中、といったところじゃのぅ。まぁ、それも仕方あるまいか」
その見た目に不釣合いなほど穏やかな笑みを浮かべる幼女を、煌夜はただ声もなく見詰める。
頭の中では次々と疑問が浮かんでは消えていった。しばらく、辺りに沈黙が下りる。
やがて、たっぷり三分ほど経って、煌夜はようやく心を落ち着ける。寝起きの頭がだいぶ冷静になっていた。
「――ようやっと、落ち着いたようじゃな」
幾分か冷静になった煌夜の顔色を見て、幼女は満足げに微笑んだ。それは無邪気な笑顔だった。人を安心させる気遣いを感じさせる笑みだ。
「あ、ああ……少し、落ち着いた、けど……」
煌夜は幼女の顔をマジマジと見ながら、戸惑いを隠さず頷いた。
幼女は、幼い見た目とは裏腹に、王者の如き威圧感と貫禄を放っていた。キリッとした細眉に、強い意志を感じさせる切れ長の瞳をして、ハッキリとした鼻と口がバランスよく小さな顔に配置されている。
その怜悧な面差しは、美少女というよりは美少年に見える中性的な相貌である。
髪はピンク色をした癖っ毛で、それがワシャワシャと寝癖みたいになっていた。金色の蓮と青い鳥が描かれている和服を着ており、その立ち居振る舞いは、歌舞伎役者のように洗練された優雅さがあった。
明らかに一般庶民ではないと察して、煌夜は少し萎縮する。
「ふっ――そう畏まらずともよいぞ。妾は別段、偉ぶったりはせぬ」
「……はあ、さいですか」
「さて、それでは改めて名乗ろう」
幼女は煌夜の目の前にその小さな手を差し出して、ニコリと無邪気な笑みを浮かべた。
「妾は、ヤンフィ――古の昔、神に挑んで、無様に敗れて、異世界に封じられていた魔王属の一人じゃ」
「――ヤン、フィ? ロード?」
煌夜はその聞き慣れない単語に眉根を寄せて首を傾げるが、ヤンフィと名乗った幼女は気にせず話を続けた。
「うむ。ヤンフィじゃ、呼び捨てて構わぬよ。魔王属とは、魔貴族のうち、玉座を得る資格を持ちし存在のことじゃ――と、云うても、こことは違う世界から来たであろう汝には、理解できぬやもしれんがのぅ」
ヤンフィはそう言ってカラカラ笑うと、手持ち無沙汰な右手をグーパーと握ったり開いたりしてみせる。傷一つない人形みたいな白い手は、外見通りに子供の手だった。
「はぁ……確かに、意味がわからんが……」
「分からぬならば、考えるだけ無駄じゃ――それで、汝の名は教えてくれんのか?」
煌夜の顔を覗き込むように、グッとその笑顔を近づけて、ヤンフィは首を傾げる。煌夜はハッとして頷いた。
「あ……ああ、ええと、俺は、煌夜。天見煌夜だ。日本の高校に通う学生だよ」
「アマミ、コウヤ、か。耳慣れぬ響きじゃのぅ。ふむ。それでは、妾はコウヤと呼ばせてもらおうか――ほれ、右手を出せ」
ヤンフィはそう言って煌夜の右手を強引に掴むと、その華奢な身体からは想像できないほどの力強さで、ぐいっと煌夜を引っ張り起こした。
そしてそのまま握手しながら、頭を下げた。
「コウヤよ、礼を云おう。汝のおかげで助かった。ありがとう、妾は感謝する。今後とも宜しく頼むぞ」
「あ……ああ?」
煌夜はその突然の感謝に面食らいつつ、何が宜しくなのかわからなかったが、とりあえず頷いた。
「ふむ――それにしても、コウヤは悪運が強いのぅ。あの状態で、よもや即死を免れるとは、なかなかの僥倖じゃよ?」
「即、死――あ! そうだよ、そういや、あのキングコングはどこに!?」
ヤンフィの言葉で意識を失う瞬間の記憶が蘇り、煌夜は握っていた手を振りほどいて慌てて周囲を見渡す。
しかし、辺りには煌夜とヤンフィ以外に誰もいない。
「キングコング? はて? なんじゃ、それは?」
「キングコング、みたいな化物だよ。3メートルはある大猿の化物!」
「ふむ――それはもしや、グレンデルのことかのぅ?」
「は? グレンデル? えと、その……キングコングみたいな、大猿の化物だよ。いきなり襲ってきて、危うく死ぬとこで……いや、というか死んだと思ったんだが……あれ? 記憶が曖昧だな……あ、でもとにかく、早くここから逃げないと、やばいって……悠長にしてたら、また襲われるかも知れない」
「うむうむ。コウヤの云うておるのは、間違いなく【グレンデル】と云う魔族のことじゃのぅ。安心せい。其奴なら――ほれ、そこで枯れておるわ」
慌てた様子で周囲を警戒していた煌夜とは対照的に、ヤンフィは世間話でもするような軽い調子で言って、スッと廊下を指差した。見るとそこには、大きな二つの干物が転がっている。
煌夜は目を細めて、マジマジとその干物を見詰めた。そして、それが何か理解すると同時に目を大きく見開いて瞬かせる。
「グレンデルは、この【聖魔神殿】では最上位の魔族じゃが、妾の敵ではなかったぞ」
「――――は?」
サラリと答えるヤンフィに、煌夜はふたたび唖然とした。
その口ぶりでは、あの化物を倒したのは自分だと言っているように聞こえる。そんな馬鹿なことはあるまい、と煌夜はヤンフィの姿を改めて眺める。
その姿はどう見てもか弱い子供――幼女である。にわかには信じられなかった。
まさか、という思いで、煌夜は恐る恐る挙手した。それに応じて、ヤンフィは、どうぞ、と手を向ける。
「…………あれは、なんであんな……干物みたいになってるんだ?」
「ふむ? なんでもなにも、コウヤを殺そうとしていたのじゃぞ? そりゃあ殺すじゃろう――なんじゃ? よもや、コウヤは死にたかったのか?」
「いや、死にたくはないけど……あー、その……キミが、殺したのか?」
「妾以外、ほかに誰がおる? コウヤが殺ったのでないのであれば、自明の理じゃろう?」
何を当たり前のことを、と笑うヤンフィに、煌夜は顔を引き攣らせて静かに恐怖する。
つまり目の前の幼女は、あの化物よりも圧倒的に強い存在ということである。外見はどう見ても小学校低学年、サラよりも幼く見えるその幼女が、煌夜を一撃で殺しかけた化物を殺したという事実――恐怖を感じないはずはないだろう。
まったく信じ難いが、しかし認めるしかない。
事実は小説より奇なり、である。煌夜はそう思考して、とりあえず自らを無理やり納得させた。すると、煌夜のそんな引き攣った表情を見て、ヤンフィは何か察したようにポンと手を叩いた。
「おぉ……そうか、そうか。信じられぬのじゃな? ふむ――まぁ、よう考えれば、それも当然かのぅ」
ヤンフィは自分の身体を見下ろして、自嘲の笑みを浮かべる。
「妾の容姿がこんなチンチクリンではのぅ……なるほど、説得力は皆無じゃ。妾の話を与太と思っても仕方ないわ。まぁ、別段、今すぐに信じぬでもいい。いずれ理解することじゃし」
「あ、いや、別に。信じてないわけじゃない……ですよ? よくよく考えれば、異世界転移モノのライトノベルとかだと、幼女――いや、貴女さまみたいな方が強い設定って、よくあることなんで……いや、まぁ、実際に体感すると、これほど違和感あると思ってなかったけど……理解はできます」
煌夜は控えめに否定しながら、丁寧な言葉遣いを意識して頷いた。そして内心で、名探偵コ○ンの正体がどうしてばれないのか、その理由を少しだけ理解する。
人間は見た目が十割という言葉は、まさに至言である。
「ふむ? まぁ、信じたのならばそれでいいが……では、そろそろ、妾は失礼するとしようかのぅ」
ヤンフィは疑問符を顔に浮かべつつも頷き、さて、と煌夜に向き直る。
そしてまるでそうすることが当然のように、唐突に抱きついてきた。あまりに自然なその動作に、煌夜はまったく反応が出来なかった。
スッと腰に回される小さな腕、ちょうど鳩尾辺りに埋まる顔――それは傍から見ると甘えるような仕草である。鼻腔をくすぐる甘い匂いと、柔らかい感触、仄かな温もりが煌夜を包む。
「な、何を――!?」
「そう怯えるな――自己紹介くらいは、顕現するのが筋じゃからな」
慌てた煌夜に、ヤンフィは静かに囁く。その瞬間、突如ヤンフィの小さな身体が緑色の光の粒となって辺り一面に霧散した。
霧散した光の粒は煌夜の周りをしばし漂うが、やがて空気に溶けるようにして消えていった。後には何一つも残らなかった。
広間が静寂で満たされた。
煌夜は面食らった表情で、キョロキョロと辺りを見渡すが、誰の姿もなかった。ごしごしと眼を擦って、もう一度ゆっくりと周囲を見渡すが、やはり誰の姿もない。
いまのは、夢か幻か、それとも幽霊の類だったのか、と煌夜は自分の頬をつねった――割と痛い。痛みを感じるということは、少なくとも夢ではない。
(コウヤよ、妾は幻でも幽霊でもないぞ。消えたわけではない)
そのとき、唐突にヤンフィの声が煌夜の頭の中に響き渡る。いや、声が響くというよりも、脳内に直接意味が浮かぶ、という感覚に近い。
煌夜は狼狽した。
「――な、なんだ?」
(ふっ……いちいち反応が面白いのぅ。まぁ、落ち着け。妾は汝の内に宿っておるだけじゃ……順を追って、説明してやるわ)
その言葉に、煌夜は慌てて全身を両手でまさぐる。しかし、特に異常は感じない。服が破れている以外に、何の変化も見受けられない。
(コウヤよ、死に直面して記憶が曖昧かとは思うが、死ぬ寸前の出来事を覚えておるかのぅ?)
「死ぬ、寸前の……?」
煌夜は言われてから、はて、と記憶を掘り起こす。意識を失う直前の、あの衝撃的な出来事を――途端、サァッと顔色が真っ青になった。
「――あ、そうだよ! 俺、左腕が……え? アレ? そういえば、治ってる?」
(思い出したようじゃな……そうじゃ、コウヤは左腕を失っておった)
「……俺、やっぱり死んだのか?」
煌夜は激痛の記憶とセットで脳裏に浮かんだあの瞬間を思い出して、最悪の想像に身を震わせる。だが、ヤンフィはそれを笑いながら否定した。
(安心せい。死んではおらぬよ。間一髪じゃったが、妾の魔力でなんとか一命は取り留めたわ。欠損した左腕も、形は取り繕ったしのぅ。どうじゃ? 違和感はないと思うが?)
ヤンフィの言葉を聞いて、煌夜は左腕に視線を向ける。
確かにそこには、何の違和感もなく元通りになっている左腕が付いていた。そういえば、さっきまでその違和感に気付かなかったが、冷静になれば、服が弾け飛んでいる時点であの出来事は妄想じゃない。ということは、煌夜の左腕はあの化物に喰われている。
しかし一方で、いまこうして左腕があることも事実である。
煌夜は、ああ、と納得する。これがファンタジーで有名な、科学がいまだ到達していない万能技術、回復魔法なのだろう。
「……これ、貴女さまが、治してくれた、んですか?」
(仰々しいわ。敬語などよせ、それにヤンフィと呼び捨てよ。さて――妾が治した、と胸を張りたいところじゃが、治してはおらぬ。ま、張るほど胸もないんじゃが、妾は取り繕っただけじゃよ)
少しも笑えない冗談を交えつつ、ヤンフィはカラカラと笑った。一方で、煌夜は混乱から脳内辞書を引用する。
「取り繕う? え? 取り繕う、ってのは――①破れたところをちょこっと直す。②外見だけ飾って体裁を良くする。③うまく誤魔化す。④外見を整える……とかの、取り繕う?」
(ほほぅ、博識じゃのぅ。ふむ、その中で云うと、②じゃな。妾は生憎、回復魔法を習得しとらん。そも、致命傷のコウヤを助けられるほどの魔力も、もはや残っておらんしのぅ。なぁに、苦肉の策じゃったが、思うほど悪手ではなかろう。妾が行ったのは、コウヤの肉体を妾の魔力体で包み込み、一時的に妾と同化させただけじゃ。つまり、いまの汝は文字通り、妾の半身じゃよ)
「同化――とは?」
(ふむふむ。そう難しく考えることはないぞ? コウヤの身体に、妾という存在が一時的に同居しておるだけじゃ。いずれコウヤが回復した暁には、妾が分離すれば元通りとなろう。それに、妾はあくまでもコウヤの身体に宿っておるだけ。身体を操る主人格はコウヤじゃから、普段の生活に何ら支障はないはずじゃよ)
軽い調子でそう説明するヤンフィに、煌夜は悩ましげに頭を抱える。
それはつまり、煌夜の身体が共有財産的な位置付けになってしまったということだった。喩えるならば、某大ヒット漫画、鉄○バー○ィーみたいな、二心同体ということだろう。
煌夜は頭が痛くなった。そして同時に、その説明の不穏当な部分が気になる。
「同化、について質問なんだが――その、俺の本来の身体って、いまどういう状態なの?」
(ふむ。端的に云えば、ほぼ死んでおる。仮死状態、というのが一番近いかのぅ。妾がいま分離すれば、ものの一分で死に至るじゃろう)
煌夜は思わず吹き出して笑った。
なるほど、棺桶に片足を突っ込んでいる状況で、ヤンフィと同化する以外に選択肢はなかったようだ。だが、そうなると、次の疑問が浮かんできた。
「じゃあさ、その……どれくらいで、俺って回復するの? つうか、左腕、生えないよね?」
(ふっ、生えるわけないじゃろう? コウヤの腕は蜥蜴の尻尾じゃなかろうよ?)
ヤンフィはどこまでも軽い調子だった。しかし、その内容は煌夜にとってはかなり重過ぎる事実だった。
気付けば隻腕、命が助かった代償と思えば優しいが、それでもこれから先の人生を考えたとき、ショックは大きく受け入れるのに時間が掛かりそうな事実だった。
(ふむ……コウヤよ、ちなみに事実を告げると、汝は自然治癒では永遠に回復せぬぞ?)
ガーン、という陳腐な効果音が、煌夜の頭の中に鳴り響いた。それはいったいどういうことか、煌夜は目を点にする。
ヤンフィは面白そうに笑っている。
「え? つまり……俺は、死ぬまでヤンフィと一緒、ということ?」
(……そんなに嫌なのかのぅ? 割と傷つくぞ? 妾はこう見えて、繊細なのじゃがのぅ)
カラカラとした笑い声を聞いて、煌夜はクラッとよろめいてその場に崩れ落ちた。
(ふっ――まぁ、そう気を落とすな。妾が内に宿っていることで、コウヤに不利益はそれほどないぞ? というよりむしろ、利益のほうが大きいじゃろう。妾が宿っておれば、統一言語を操れるうえに、よほどのことがない限り、死ぬことはないじゃろう)
釈明じみた説明をしているヤンフィの言葉に、煌夜は頭を抱えた。死ぬ瞬間まで、ヤンフィが煌夜を監視していると思うと、なかなか割り切れない思いだった。
(本当にからかい甲斐のある奴じゃのぅ、コウヤ。なに、安心せい。父と母の魂に誓って、コウヤの身体は治してやるわ。確かに、妾ではコウヤを回復することは出来ぬが、冠魔術の癒し手を見つければ良いだけの話じゃ。いまの世でも、一人か二人は使い手がおるじゃろう)
「――――は? え? どゆこと?」
煌夜の落ち込んだ様子を見て、心底楽しそうに笑いながらヤンフィがそう言った。煌夜はポカンと口を開けて、首を傾げる。
(コウヤの世界ではどうか知らぬが……この世界では、死んでさえいなければ、欠損部位を含めて全てを癒せる回復魔術が存在しておる。それの使い手を捜せば、コウヤは晴れて自由の身じゃよ……とはいえ、当分は妾と一緒じゃから、我慢はして欲しいがのぅ)
「――――お前、性格、メッチャ悪いな」
(ふっ……そうかのぅ? まぁ、長い付き合いになるやも知れぬのじゃ、気を置かずやろうではないか――ああ、ちなみにのぅ、妾はコウヤの内に宿ってはおるが、コウヤの思考は読めんし、なんなら意識をこの本に移すことが出来るぞ?)
この本、と言った瞬間、煌夜の足元に真っ黒な本が落ちてきた。
それはA4サイズの本で、背表紙にも表表紙にもタイトルがない本だった。どこか見た覚えがある本だったが、煌夜はなぜか思い出せなかった。
(これは本の形を成しておるが、魔力結晶体でのぅ――【無銘目録】と云う代物じゃ。妾の魂の牢獄であり、同時に、武器の格納庫でもある。ここに意識を移しておれば、コウヤが何をしておっても妾には分からぬぞ? 見られて困るようなことをするのであれば、いつでも気軽に云うがいい。一時的にコウヤの身体から出ていよう。妾も、年頃の男児の青い性衝動を観察する趣味はないからのぅ)
「――――マジで、性格、悪いなぁ」
(マジ、と云う言葉が理解できぬが、からかわれるくらい我慢せい。それで安全が手に入るのじゃ、むしろ感謝してほしいくらいじゃよ)
含み笑いのヤンフィに、煌夜はため息を漏らす。
ガシガシと頭を掻いて、とりあえず落ちた本を拾い上げる。黒い本は一枚の紙のように重さがなく、めくろうとしてもめくれなかった。
「まぁ……分かったよ。よくよく考えれば、命を助けてくれたことは事実だしな。言うのが遅れたけど、ありがとう。感謝するよ」
(礼など不要じゃ。妾が感じておる恩義に比べれば、命の一つや二つ救うくらいは、軽いもんじゃよ)
「……それ、よく分からないんだけど、俺はヤンフィに何かしたのか? 身の覚えがないんだが?」
(なぁに、コウヤのおかげで妾が救われたと云うだけの話じゃ。それが故意か偶然かなど関係なく、コウヤはその命を賭して妾を救ったのじゃ。じゃから、妾も命を賭してコウヤに尽くそう。妾が出来ることならば、どんなことでも協力させてもらうぞ)
「あ……ああ、さいですか……」
ヤンフィの力強い断言に、煌夜は少し照れくさくなった。
まったく身に覚えはなかったが、ヤンフィが感じてくれている恩をわざわざ否定することなどしない。助けてくれるというのならば、これ以上ないほど助かるのだ。
右も左も分からないこの異世界で、仲間の存在は非常に心強いし、何より有難かった。
煌夜には、果たすべき使命がある。
その使命――竜也、虎太朗、サラを見つけ出して元の世界に戻るまでは、素直にヤンフィの力を借りるのが無難だろう。
出逢ってまだ一時間も経っていない得体の知れない相手だったが、それでも信用出来るような気がしていた。ヤンフィの言葉が、心底本音だと感じるのだ。
それにどの道、当分の間は離れたくとも離れられない相手でもある。信じてみよう、と煌夜は覚悟を決めて頷いた。
「一蓮托生、ってヤツか……んじゃあ、まぁ、宜しく頼むぜ、ヤンフィ」
(うむ、宜しく頼むぞ――じゃが、性的な交渉だけは、いくら頼まれてもお断りじゃがのぅ)
「――んなこと、頼むか!」
ヤンフィがまたカラカラと笑う。煌夜は悩ましげに頭を抱えた。いちいち鬱陶しい発言が、今後の悩みの種になりそうだった。
(――ところで、コウヤよ。コウヤの目的を聞いておらんが……コウヤはどうしてこの世界に来たのじゃ?)
「……あ? ああ――人捜しさ。大切な家族が、神隠しに遭ってこっちの世界に来てるんだよ」
ふと、ヤンフィが真面目な声で問い掛けてきた。協力してもらうのだから、隠す必要もないだろう。
煌夜はこの世界に至った経緯を、事細かに説明することにした。捜している三人と煌夜の関係も含めて、ヤンフィに助けられるまでの顛末を語る。
煌夜の事情を全て聞き終えたとき、ヤンフィは真剣な声で煌夜の目的を反芻した。
(なるほど、のぅ――その童たちを捜す、そして元の世界に戻るのが目的か……難儀じゃな)
「ああ……元の世界に戻る方法が一番のネックになるだろうな。だが当面は、三人の保護が最優先だよ。一刻も早く見付け出して合流しないと、この世界はあんまりにも危険だからな」
(……父と母の魂に誓って、妾は煌夜の目的の為に、全力を尽くそう)
ヤンフィは深刻な声音で茶化すことなくそう言って、さて、と唐突に話を切り替える。
(ところで、コウヤよ。妾に話しかけるとき、いちいち声を出さずとも良いぞ? 頭の中で念じれば、妾との会話は成立する。そも、妾はコウヤのその言語を理解できぬ)
「は? 理解できぬ、って、いや話通じてるじゃん?」
(それは、妾が統一言語を操っておるからじゃ。統一言語はあらゆる言葉の垣根を越えて、直接その意味をやり取りする魔王属固有の特殊能力じゃからのぅ……ふむ、そうさのぅ。もっと端的に云うならば、妾の言葉はコウヤの理解できる言葉に、コウヤの言葉は妾が理解できる言葉に、自動的に翻訳されて届いておるのじゃよ。その原理としては、伝えたい意思を読み取り、それを共通知覚させて――)
疑問符を浮かべる煌夜に、ヤンフィは困った声であれこれと説明する。
しかし、いまいちその原理は理解できなかった。ただ重要な部分だけは、これ以上なく理解できる。
つまりそれは、異世界モノの小説によく登場する言語理解という能力だろう。異世界人とコミュニケーションをとる上で最も有用な能力、誰とでも言葉が通じるというチートな能力である。
煌夜は納得して、ヤンフィの小難しい解説を途中で遮った。ヤンフィは少しだけムッとした声音で、最後にサラリと注意する。
(コウヤは妾と同化しておるから、人でありながら、統一言語を操れる。じゃが、コウヤの世界でしか通じぬような概念、固有名詞は、当然ながら翻訳できず、相手には伝わらぬから、気をつけるのじゃよ)
ああ分かった、と煌夜は頷いて、拾った黒い本でパタパタと扇ぐ。心地好い風が頬を撫でた。
(それは扇子ではないぞ、遊ぶでないわ――ほれ。いつまでもここで油を売っておらんで、サッサと童たちを捜しに行くぞ)
煌夜の手から煙のように黒い本が消える。同時に、ヤンフィから背中を押す言葉が掛かった。
確かにそれは正論である。いつまでもこの玉座の広間に居ても意味はない。
煌夜は促されるまま出口に足を向けて、しかし踏み出さすに、ふと玉座へ振り返った。そこには変わらず、空席の玉座だけがある。
「……目印、置いとくか」
煌夜は呟き、左半分がボロボロになったワイシャツの残骸を畳んで、玉座の上に置く。これがあれば、万が一にも背もたれに書かれたメッセージを見逃すことはないだろう。
(――無駄やも知れぬぞ?)
「無駄でもいいんだよ。やれることは、全部やっておく。それにどうせ、こんなの着てられないし……」
ヤンフィの問いにどうでもよさげに答えて、煌夜は廊下の暗闇に視線を向けた。
玉座の位置から見下ろす廊下の扉跡は、その周囲の壁に彫られている模様のせいで、口を開けて獲物を待っている魔物のように見える。
思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「なぁ、ヤンフィ。廊下を進むのに、灯りが欲しいんだが……魔法? 魔術? で、灯りを出せないか?」
(――可能、不可能で云うなら、可能じゃが……その必要はないぞ? コウヤの両目は妾と同化した影響で、闇を見通す力を得ておる。別段、灯りなど不要じゃろう)
「え? そうなの?」
サラッとヤンフィはそう言って、うむ、と力強く肯定した。
信じられない、と煌夜は半分疑いながら、恐る恐ると廊下に顔を出す。するとヤンフィの言う通り、暗視ゴーグルでも装備しているかの如く、光の一切ない廊下の闇の中でもその隅々までがハッキリと見渡せた。
しかも意識して見ると、視力が以前より格段に向上している。集中すれば、100メートル以上先の廊下の行き止まりさえ、目の前のように見えた。
(どうじゃ? この程度の闇など、真昼間の平野を見渡すようなものじゃろう?)
「確かに……つうか、視力が滅茶苦茶良くなってるのも、ヤンフィの力か?」
(ああ、それは千里眼の力じゃな。魔力を篭めれば篭めるだけ、彼方の景色を見通す力じゃ。じゃが、魔力を持たぬコウヤはあまり使わぬ方が良いぞ? 最悪、光を失うからのぅ)
カラカラと笑うヤンフィに、煌夜は乾いた笑いを返した。
そして一旦、ぎゅっと目を瞑って、リラックスしてから目を開ける。まだその瞳には景色が映っていて、ホッと一安心する。
「……なぁ、ヤンフィ。とりあえず、色々と聞きたいことがあるんだが、聞いていいか?」
(無論じゃ。妾が答えられることであれば、いくらでも答えてやるわ。それにそもそも、コウヤはこの世界のことをまったく知らぬのじゃろう? この世界の常識を一から、詳しく説明してやるわ)
「そいつは、サンキュ。んじゃ、とりあえずさ――この世界って、何て言う世界なんだ?」
煌夜は廊下の暗闇に足を踏み出して、サンキュ、という言葉に疑問を感じているヤンフィに、そう問い掛けた。
※前書きをなくして、後書きを編集しました。
ヤンフィはもう一人の主人公格です。
ヒロインの登場は、もうちょっと先です。