第四十三話 出発/煌夜&ヤンフィ・ソーンSide
魔動列車の乗り場でタニアたちと別れた後、ヤンフィは深い溜息を吐きながら、ソーンのにやけた表情を見た。ソーンは二人きりになったのを噛みしめるように、緩んだ顔でヤンフィを見詰めていた。
「へへへ……邪魔者は居なくなって、ようやくヤンフィ様と二人っきりだぜ」
ソーンはジュルリと涎を拭って、故意か、無意識か、そんな気持ち悪い独り言を呟く。ヤンフィはこれ見よがしの溜息を漏らした。
「……のぅ、ソーンよ。妾たちはこれから、飛竜で移動すると思うて良いのか?」
「ん? ああ! そうだぜ。オレに従順な大型の飛竜で移動するぜ」
「その飛竜じゃと、【霧の街インデイン・アグディ】まで、どれくらい時間が掛かるのじゃ?」
「おう。ここからなら、およそ二日で到達するぜ!」
弾ける笑顔でサムズアップするソーンに、ヤンフィは勿論、煌夜もピシリと固まる。二人が想像していた以上に、目的の街は、ここから時間が掛かるらしい。
「――二日、じゃと? 空を飛んで往くのではないのか? それほどまでに遠いのか?」
「いやいや、ヤンフィ様よ。こっから【魔法国家イグナイト領】に行くのだって、徒歩じゃあ、軽く四色の月一巡、寝ずの歩き詰めだぜ。その上、インデイン・アグディつったら、イグナイト領でも辺境地って言われてるとこだ。途中、飛竜でさえいくつも越えられない山岳地帯がある。いくら空路だからっても、直線じゃ行けないんだよ。そんな場所に行くのに、たった二日は驚愕だっての」
やれやれ、と肩をすくめるソーンに、しかしヤンフィは、ギリギリと歯噛みする。ヤンフィの頭の中では往復で二日ほどを想定していた。それは勿論、煌夜も同じだ。だと言うのに、単純に倍の時間が掛かるのがむしろ驚愕である。
「あ、けど、一つだけ安心してくれよ。オレの奪った飛竜は、背中に強力な時空魔術が施されてるから、魔動列車の居住箱並の居住空間を確保出来てるぜ。だから、快適な旅を約束するぜ」
ソーンはニカッと歯をむき出した笑顔で、まるで見当違いの回答をする。ヤンフィが心配しているのは、旅路の快適さでは決してないのだが、それは理解できないようだ。
(こんな時に、少鷲でも居れば、と思うが……致し方ないのぅ。じゃが、片道二日掛かるのであれば、やはり二手に分かれて正解かのぅ)
ヤンフィが独り言ちる。煌夜は意味の分からないその言葉に首を捻りつつ、間に合うのか、と焦りの言葉をヤンフィに投げた。
(……ソーン曰く、生贄の儀式は四色の月が揃う機会じゃ。であれば、日数に余裕はある)
(――でも、それが正しいとは限らないだろ? 今回に限っては、明日にでも生贄にされるかも知れないじゃないか!)
(コウヤよ。それを疑い始めれば、そも此奴の言い分は何一つ信用出来ぬ。証拠も根拠もない。じゃが少なくとも、四色の月が揃う日に、特別な儀式を執り行うと云うことだけは、理にかなっておるぞ)
ヤンフィは真剣な表情で、無言のうちに心の中で煌夜を宥めた。煌夜はこと弟妹が絡むと、途端に冷静でなくなる。
「なぁ、ヤンフィ様。とりあえず行こうぜ――実は、飛竜に乗るにゃあ、ちと面倒だが、あそこまで登ってもらわないといけなくてよ」
ヤンフィの無言の横顔を眺めていたソーンが、ふと肩を叩きながら街の中心部付近を指差した。視線を向ければ、指差した先にあるのは、この街の観光名所の一つ【クダラークの尖塔】である。
ヤンフィと煌夜は一旦そこで話を切って、どういうことだ、と首を傾げる。
「観光名所の【クダラークの尖塔】のことか? 妾たちは、観光している暇なぞないが?」
「へへへ、分かってるよ。いま説明するぜ。まず、クダラークって街は、街全体を冠魔術の大結界で覆ってるのは知ってるよな? 透明な膜みたいなもんがそれだ。円形で街を隙なく覆う絶対防御、あらゆる魔術と魔族、侵入者を許さない壁。それがあるからこそ、永い年月、一度も外敵や他国の侵攻に曝されないわけなんだが――実はよ。一箇所だけ抜け道があるんだ」
ソーンはにやけた笑い顔をして、尖塔の天辺付近に視線を向ける。
「クダラークの尖塔、その天辺には、特殊な時空魔術が施されていてな。世界蛇に所属する一部の幹部だけが知る呪文を詠唱すると……なんと、クダラークの大結界の外側と、自由に行き来出来るんだよ」
まるで自分の功績のように胸を張り、にやけた顔で鼻を掻くソーンに、ヤンフィは白けた視線を向けたまま、しかし内心では感服の吐息を吐いた。
「……尖塔の天辺、とは、あの奇怪なオブジェのことか?」
ヤンフィは目を細めて尖塔の屋上付近を眺める。そして、天辺でその存在を主張するように突き出している傘状のオブジェを指差して見せた。ソーンは強く頷く。
「そうさ。観光名物にもなってるアレが、時空魔術の施された魔道具なんだよ。ちなみに、アレは聖王の武具をモチーフにして作られたらしく、その歴史は……」
「下らぬ御託は必要ない。であれば、サッサと往くぞ」
ソーンが楽しそうに解説を始めるのを遮って、ヤンフィはソーンの胸板を割りと本気で殴りつける。ついでに、クッと顎をしゃくって、先に進むぞ、と促した。
すると、ソーンは平然とした顔で話を切り上げて、畏まりました、と頭を下げる。殴りつけたダメージはまったくないようだった。
そうして、先行するソーンに付き従って、ヤンフィは億劫そうに歩き始める。
クダラークの市街地、しかも真昼間の公道を歩いていると、当然、ソーンは注目の的になる。半裸でブーメランパンツ姿のソーンは、あまりにも目立ち過ぎるのだ。そんなソーンの後ろを歩かなければならない苦行。ヤンフィや煌夜にとって、これは拷問だった。
さて、それはそれとして――ほどなくソーンとヤンフィは、クダラークの尖塔の入り口に到達した。
クダラークの尖塔には、この間タニアと観光で来た時と同様に、わいわいガヤガヤ、多くの観光客で賑わっており、とてもじゃないがそう簡単に中へ入れる状況になかった。ヤンフィは疲れたように吐息を漏らした。待つか、蹴散らすか、少しだけ悩みどころだった。
けれど、そんな悩みはもっと大きな悩みで上書きされた。
尖塔に現れた半裸のソーン、その姿を見た途端、そこかしこから悲鳴が巻き起こる。しかし、それはある意味当然でもある。観光地に変態が現れたら、大騒ぎになるのは万国共通だろう。必然、クダラークの尖塔にいた観光客たちは、一瞬のうちでパニック状態と化す。
ヤンフィは頭を抱えながら、巻き込まれないよう距離を取った上で、事の成り行きを遠巻きに眺めることに決めた。
そうしてしばらく、観光客たちがソーンという変態に悲鳴を上げて、大混乱していると、警備兵と思しき装備の兵士が五人ほど、人込みを掻き分けて現れた。
「おい、騒がしいぞ。一体、なんなんだ!? ――って、な、なんだ、お前! そんな変態みたいな格好しやがって……」
「ちょ、ちょっと待てよ!? パンツ一丁に半裸の巨漢、しかも首にチョーカーって――コイツまさか、あのソーン・ヒュードじゃないのか!? ヤバイよ、ヤバイよ!!」
「な!? ソーン・ヒュード、だと……!? おい、急いで囲め、囲め!!! 増援も要請しろ!! 予備隊はすぐに観光客を避難させろ!!」
現れた五人の兵士たちは、ソーンの顔を視認するが否や顔面を蒼白にして、慌てた様子で大声を張り上げる。その号令を聞いてか、クダラークの尖塔の中から、わらわらと兵士が吐き出されてきた。また同時に、付近で騒いでいた冒険者風の男たちが率先して、『観光客を非難させろ』と言う号令通りに、パニック状態の皆を誘導し始める。
怒涛の勢いで展開される状況に、いったいこれから何が始まるのか、とヤンフィはウンザリとした心持ちで眺めていた。
「ソーン・ヒュード!!! ここでお前も年貢の納め時だ! クダラークでの狼藉の数々、特に、クダラークギルドマスター殺害に関して、相応の報いを受けてもらうぞ!」
次々と集まってくる兵士たちの中で、凛とした気配の青年兵士が一歩ソーンに近寄って、大剣をその鼻先に突きつけた。彼はどうやら集まった兵士たちのリーダーらしい。線は細いが風格はある。
青年兵士の怒号は警告だ。しかし、ソーンにその言葉は届かない。
「ああ? 何の話だ? そのギルドマスターってのが、誰のことだかわからねえが……まあ、敵対するつもりなら、蹴散らすまでだぜ?」
ソーンは突き付けられた大剣など意に介さず、囲んでいる兵士たちに睨みを利かせる。殺気の篭められたその眼光に、兵士たちは気圧されたように少しだけ後退る。
空気は一瞬で一触即発になる。何か引き金があれば、即座に戦闘が始まるだろう空気感だった。だが、ソーンはそれに対して何ら頓着していない様子だった。
これが戦闘になれば、一対多数。しかも、増援はまだまだ駆けつけて来ており、数の上では圧倒的に兵士たちが優位な状況だ。けれど実際には、ソーンにとっては危機でもなんでもない。烏合の衆がどれだけ集まろうとも、ソーンの実力の前では脅威にはなり得ない。
「なぁ、雑魚共よぉ。悪いが、オレらは急いでいるんだよ。てめぇらみたいな連中、いちいち相手にしている余裕はないんだ。けどそれでも、命を擲ってでもオレを止めたいってんなら――ああ、いいぜ。殺し合おうか?」
ソーンは余裕ある態度で胸を張ると、青年兵士が突きつけている大剣を、その右手で握り締めた。刃の部分を直接掴んで、グッと力を篭める。無論、そんなことをすれば、刃で手が切り裂かれるはずだが、果たして結果は違った。
バキバキゴリゴリ、とあり得ない音が鳴り響き、大剣が粉砂糖のように、ソーンの右手の中で砕かれて磨り潰された。
平然とした顔でソーンが右手を開けば、その場には、刃の欠片が粉吹雪の如く散る。そして当然のように、ソーンの右手からは血の一滴も流れていない。どころか、その掌には傷らしき跡一つ見受けられなかった。化物、と青年兵士が小さく呟いていた。
ちなみに、見るも無残に半ばから砕かれた大剣を目の当たりにして、リーダーである青年兵士と周囲を囲んでいる兵士たちは、皆一様に唖然とした表情で目を見開く。
「――これが最後の警告だぜ。退くか、死ぬか。好きな方を選べよ」
ソーンはドスの利いた低い声で凄んだ。その凄みに、誰もが言葉を失い息を飲む。
遠目から眺めているヤンフィは、このまま何事もなく終わってくれるかな、と淡い期待をするが、やはりそれほど現実は甘くなかった。
「くっ――退くな、怯えるな、倒すぞ、ここで!! クダラーク護衛団として、重罪人ソーン・ヒュードを殺す!!」
引け腰で自らを奮い立たせるように叫ぶ青年兵士に、ソーンはニヤリと笑う。その号令に呼応するように、わらわらと集まってきた兵士たちが一斉に襲い掛かる。
甘いものに群がる蟻のように、ソーンに殺到する兵士たち。傍目から見れば多勢に無勢、しかしその結果は、ヤンフィが想像していた通りに、悲惨なものだった。たかだか数十人程度の兵士たちでは、ソーンを打倒することは叶わない。群がる兵士たちはみな、紙が風に飛ばされるようにあっけなく弾き飛ばされる。
「ゆ、弓兵!! 魔法隊!! 遠距離で攻撃しろ!」
死屍累々と増えていく兵士たちの姿を見て、青年兵士は慌ててそんな号令を飛ばす。瞬間、ソーンに群がっている兵士たちは突撃を止めて、その周囲を囲むような陣形に変わる。そんな兵士たちの整った動きを見て、ヤンフィは、ほぅ、と吐息を漏らした。
兵士一人ひとりの実力は雑魚だが、連携だけは大したものだ。号令一つで陣形を整えて、しかも指示通りにすかさず弓と魔術の雨が、ソーンに向かって降り注いだ。
「こんなん、身構えるまでもねぇなぁ……」
炎の矢、氷の矢、光の矢、石飛礫などが、驟雨の如く降り注ぐ。逃げ場はない。けれど、その攻撃をソーンは鼻で笑う。避けるつもりも、防御するつもりもない様子だった。
ドドドド――と、凄まじい勢いで、全ての攻撃がソーンに直撃した。常人ならば、肉片さえ残らず吹き飛ぶのではないかと思えるほど苛烈な攻撃だった。煌夜は、えぐいなぁ、と小さく呟く。
「――――撃ち方、止め! 状況を確認する。だが警戒は怠るなよ!」
たっぷり五分経ってから、青年兵士が再び号令を出す。それでピタリと雨は止み、後には土埃がもうもうと漂っていた。その中心をジッと睨みながら、周囲に展開している兵士たちは一歩、陣形を狭める。
――刹那、土煙の中から、ボーリング玉くらいの大きさをした風の塊が発射されて、突っ立っていた兵士の一人を貫いた。
「…………あ?」
風の塊は勢いそのまま空高く飛んでいく。一方で、貫かれた兵士は呆然とした表情で、胴体に空いた空洞を見下ろしながら、疑問符を浮かべたまま絶命した。
周囲の兵士たちがその光景を見て、ざわつく。一瞬で殺された仲間に対して、驚愕と同時に恐怖が湧き上がっていた。
しかしそれも束の間――次の瞬間、同じような風の塊が、四方八方に飛び出してくる。
あぎゃあ、とか、ぐぉっ、とか、苦悶の声を上げて、ソーンを囲んでいた兵士たちは、次々とその風の塊の餌食になり、胴体に大穴を穿たれて絶命する。避けることなど出来ない。それは、少なくとも兵士たちの反射神経では捉えられない速度の攻撃だった。
「な、何が、起きた!?」
近寄ろうとしていた青年兵士が足を止めて、次々と死んでいく仲間の兵士たちを呆然と眺める。後方に控えている兵士たちも、みな同様の面持ちだ。ヤンフィはそれを見て、呆れたように息を吐いた。
「……分かりきっておっただろうに。哀れじゃのぅ」
遠めに呟くヤンフィの声は、当然ながら誰にも届かない。ただ唯一、煌夜だけがそれに賛同して、同情の視線で兵士たちを見ていた。
やがて、もうもうとした土煙が風に消える。するとそこには、コキコキ、と首を鳴らすソーンが無傷で立っていた。
「さて。一応、言っておくが……もう、逃げるって選択肢はねぇからな?」
ソーンはそのたくましい巨腕をグルンと回して、馬鹿にした風な笑みを青年兵士に向ける。
「くっ、化け物め!! みんな、捨て身の特攻――――」
ソーンの笑みで背筋を震わせた青年兵士だったが、すぐに気を取り直して、生き残っている前衛と後衛、合わせて十数名に特攻の指示を出した。また同時に、握っていた剣を投げ捨てて、自身の放てる最強の魔術を展開しようと構える。そして、その頭部を風の塊に吹き飛ばされた。
ヒッ、と傍らの兵士が息を呑む。そして、その兵士もまた、次の瞬間、頭を失い倒れ伏した。
何が起きたのか、と混乱を始める兵士たち。だが、もうこうなっては何をしても遅い。彼らはバタバタと頭を吹き飛ばされて、血を撒き散らしながら絶命していった。
結局、それから三分ほどで、その場にいた兵士たちは全滅した。
「へっ、雑魚どもめ。時間を無駄に使わせやがって」
地獄絵図みたいな凄惨な状況の中で、ただ一人生き残っているソーンは、そんな悪態と共に唾を吐く。風に乗って、凄まじい血の匂いが漂ってきた。
さて、何が起きたのか――解説は至極簡単である。
兵士たちを全滅させた風の塊、それは、ソーンが放った拳の風圧だった。傍目から見ると何気なく、しかし実際は凄まじい速度で繰り出されたストレートパンチ。その拳圧が風の塊となって、兵士たちの身体に軽々と穴を穿ち、頭部までも弾き飛ばしたのだ。多少、拳に魔力を帯びてはいたが、それにしたってあり得ない威力だろう。思わずこれには、ヤンフィでさえも舌を巻いていた。
とはいえ、この結末に至ることは半ば分かっていたので、それに対する驚きは何もなかった。
もはやソーン以外に誰も居ないことを確認してから、ヤンフィはようやく姿を現す。その姿を見て、ソーンは嬉しそうに笑みを漏らした。ただし、その笑みは気持ち悪いの一言に尽きた。
「お待たせしました、ヤンフィ様。ちょいと散らかってますが、まぁ、静かになりましたぜ」
「……血生臭いのぅ。ところで、何故にここまで狙われておる?」
死屍累々と転がる兵士たちを眺めてから、ヤンフィは何気なく問い掛ける。けれど、ソーンは疑問符を浮かべて、さぁ、と首を傾げた。自分のことなのに、まるで興味がないようだ。
「先ほどの、此奴らの口振りからすると、この街のギルドマスターでも殺したのか?」
ヤンフィは問いを続けながらも、ソーンの脇を通り抜けて、絶命している首なし遺体をまたいで、尖塔の入り口に足を踏み入れた。ソーンも続いて塔の中に入った。
「さぁ? 興味がないなぁ。けど、その可能性はあるぜ。オレはクダラークに来てから、追手らしき冒険者たちを何人か殺してるからなぁ。そん中にギルドマスターってのも混じってたかもな」
ふむ、と頷きながら、ヤンフィは塔の中を見渡した。
塔の中は円形の広間になっており、その中央に螺旋階段が置かれている。広間は八方向に通路が伸びていて、入り口脇には受付のような机が置かれていた。人の気配はまったくなかった。
物珍しげに辺りを見渡すヤンフィを横目に、ソーンは、こっちだぜ、と螺旋階段を上っていく。そういえば目的地は、この塔の屋上だったか。
先導するソーンに従い、ヤンフィは無言のまま螺旋階段を上り始める。
外観で見るよりも塔の中は高いようで、十階程度の高さまで上り、そこでようやく階段が終わりを告げる。上り階段が尽きると、正面に重々しい鉄扉が現れる。ふと足元を見れば、狭い踊り場には何やら魔法陣が描かれていた。魔法陣は、鉄扉の開錠と連動している様子である。
「――ちょいと待ってくれな、ヤンフィ様。今、扉を開けるからよ」
ソーンはヤンフィが来たことを確認してから、鉄扉ではなく、床に刻まれている魔法陣に手を当てる。そして素早く何らかの詠唱をすると、魔法陣に光が点り、次いで、鉄扉が消失した。途端に、強い風が吹き込んできた。
強烈な風を顔に受けて、ヤンフィは少しだけ目を細めた。薄目の先に見えるのは、傘状に空高く突き出した鉄製の不思議なオブジェである。オブジェは、幾つかの円柱が傘の部分を支える形で立っており、傘の部分はコンタクトレンズみたいに反った半円をしていた。
正面から見ると、いっそうその形状は不思議だ。それを見ながら、ヤンフィは屋上に踏み出す。
「コイツは、聖王の盾と、それを支える人々を模して造ったとされているぜ。頭上にある半円が、あらゆる魔術を跳ね返したとされる聖王の盾で、その柱が支えてる人々らしい。そんで、その歴史は今を遡ること――」
「……歴史など、興味はないわ。それで? ここから、どうするのじゃ?」
すかさず楽しそうに説明を始めるソーンを遮り、ヤンフィはウンザリとした顔を向けて催促する。少し残念そうに口元を結んで、けれどソーンは頷いた。
「おおぅ。了解ですよ、ヤンフィ様。んじゃ、聖王の盾の真下に来てくれ」
ソーンは奇怪なオブジェの真下に移動する。そこの足元には、やはりよく分からない魔法陣が描かれており、五メートル四方の線が引かれていた。
ヤンフィと煌夜は恐る恐るとそこに踏み込んだ。魔法陣の上に立つのは、何が起きるか分からない不安がある。ついでに、ソーンが真横にいるのも不安を助長していた。
「ではでは……お見せしますぜ。世界蛇の幹部しか知り得ない抜け道――聖王の盾のオブジェに施された時空魔術を、ね」
ソーンはもったいぶったような言い回しで、パチン、と指を鳴らす。同時に、聞き取れないほどミュートな声で、一瞬のうちに高速詠唱した。
パァ――と足元の魔法陣に光が点った。それから目の前の景色が歪み、立っている空間が世界から隔絶される。次の瞬間、目の前には地平線まで続く草原が広がった。
「…………どこか、見覚えのある光景じゃのぅ」
ヤンフィは呟きながら、記憶に新しいあの草原を思い出していた。【聖王の試練】最下層で白竜ホワイトレインと戦った時の草原である。
「どうだ、これ! 凄いだろ……って、あれ? ヤンフィ様、あんま驚いてない?」
傍らのソーンが、ヤンフィの冷めた反応を見て、期待外れとばかりに意気消沈する。
「これでも充分に驚いておるわ。じゃが――まぁ、良い。それで? 何処に向かって進むのじゃ?」
ヤンフィは前後左右を見渡してから、ソーンに冷たい視線を向けた。ソーンはすぐさま気を取り直して、グッと親指を立てる。
「おう! お任せを――こちらですぜ!」
ソーンはどこまでも透き通る晴天を見上げてから、フンフンと何度か頷いて、ヤンフィの左手側を指差した。釣られてそっちに視線を向けるが、特に何の代わり映えもない。けれど、とりあえず何も言わずに、ヤンフィはソーンの案内に従って歩き出す。
そうしてただひたすらに広がる草原を歩くこと五分、唐突に周囲の景色が暗くなり、頭上には雷雲が立ち込め始めた。ソーンはそこでピタリと足を止めて、満足そうに頷く。
「さて、実は――この時空魔術、ここから行き先が分岐するんだぜ」
ソーンは、どうだ、と言わんばかりの笑みで、ヤンフィに胸を張る。だからなんだ、と白けた視線で睨み返すが、気にせず話を続ける。
「ここから、赤の月の方角に進むと、行き先は【時空の狭間】って呼ばれる異界に繋がる。そこは聖王が作り上げた異界で、世界中のあらゆる場所と繋がってるらしいが、その鍵は伝承されてねぇ。使いこなせれば、国境なんざ意味がなくなるんだが――ま、誰も使えねぇ。んで、白の月の方角に進めば、クダラーク入り口の森に出る」
「……妾たちが往くべきはどちらじゃ?」
「おう、白の月の逆側、青の月の方角さ。そっちは……へへへ。着いたら、これは絶対驚くぜぇ」
ソーンはニヤニヤと気色悪い笑みを浮かべて、ヤンフィの腕を掴んで、青い月が浮かぶ方角に歩き出した。タニアほどではないが、見た目通りの凄まじい腕力でもって、強引に腕を引かれる。抵抗する気はないが、引き摺られるのが嫌なので、すかさず腕を振り払い、ソーンに並んで歩き出した。
そうして雷鳴が鳴り響く中をしばらく歩くと、パッとまた唐突に景色が変わる。と同時に、フッと身体が軽くなったような、小さな浮遊感に包まれて、辺り一面が真っ暗闇になった。時空魔術の出口に到達したようだ。
「……ヤンフィ様、大丈夫とは思うが、あんまここじゃ、騒がない方がいいですぜ。万が一、見つかって暴れられると厄介だ」
暗闇の中、ソーンが耳元でボソボソと囁いてくる。ヤンフィは鬱陶しいと睨みつけようとして、ビクッと体を震わせた。
(……ヤンフィ?)
突然身体を硬直させて、緊張した面持ちになったヤンフィに、煌夜は、どうした、と首を傾げる。すると、煌夜の質問には答えず、ヤンフィは恐る恐ると視線を足元に移した。
足元は透明の床になっており、床下は仄暗い水で満たされていた。水の中には、発光する無数の魚が泳いでおり、まるで水族館の水中トンネルを思わせる幻想的な空間である。
「――――ッ!?」
そんな水中の水底で、ジッと一点を見つめる巨大な眼玉があった。それと目が合った瞬間、煌夜も全身が粟立つのを感じた。それが極めて危険な存在だと、本能的に理解できた。思わず息を飲む。
「へへへ……どうだい? 流石のヤンフィ様も驚くだろ? オレらが移動してきたここは、聖王湖に棲まう魔貴族【ギガンドレッドプワソン】のねぐらなんだよ」
ヤンフィの驚愕に、ソーンが楽しそうに囁く。それを聞いて、ヤンフィは改めてその存在を確認した。
そこに佇んでいるのは、巨体過ぎて全容が掴めない何かである。目玉だけでもその大きさは、ソーンの全長の軽く四倍はあろう。凄まじい存在感を持っており、また、煌夜にはハッキリと感じ取れないが、ヤンフィに匹敵するほどの魔力も秘めていた。その体表面を覆う鱗は刺々しく、周りを泳ぐ発光した魚群の光を浴びて、赤黒く光っていた。
「ちなみに、この場所、聖王湖の端っこに浮かぶ、陸地と切り離された名前もない孤島――その洞窟の中なんだぜ?」
ソーンはそんな説明を囁きながら、正面の暗闇を指し示す。一本道に伸びるその闇からは、湿った風が吹いてきていた。
ヤンフィは顔を上げて、通路を改めて見渡した。通路に明かりはなく、どこまでも真っ暗だ。唯一の明かりは、足元に泳ぐ魚群の淡い光だけである。通路の壁に触れてみると、その岩肌は磨き上げたかのように滑らかで、ここが自然に出来た通路ではないこと示していた。
ふむふむ、と頷きつつ、ヤンフィは気持ちを落ち着かせてから、気色悪い笑みを浮かべるソーンを見た。ソーンはその視線だけで察して、心得たとサムズアップする。
「こっちだぜ」
ソーンは小声のまま、ヤンフィが向いている方角とは逆に歩き出した。ヤンフィは、ソーンと10メートルほど距離を取ってから、後に続いて歩き始める。カツカツ、と靴音だけが小さく洞窟内に反響する。
(しかし、これは……見れば見るほど巨大な生き物じゃのぅ。よもやこれほどの生き物が、竜種以外に存在するとは……)
チラチラと足元を見ながら、あまりにも大きいギガンドレッドプワソンに対して、ヤンフィがしみじみと呟いた。それには煌夜も力強く賛同する。異世界に来る前でも、これほど大きな生き物は見たことも聞いたこともない。
しばらく歩いていくと、洞窟の奥、その天井部分から仄かな光が降り注いでいるのが見えてくる。その光は、外から差し込む陽射しである。どうやらソーンはそこを目指して歩いているようだった。
さて、ギガンドレッドプワソンの目玉を目撃した位置から、直線距離にして300メートルほど歩いただろうか、まだその巨躯は終わりを見せないが、洞窟は行き止まりに達してしまう。洞窟の行き止まりにはホールのような広間があり、天井から強い陽射しが差し込んできていた。
広間を見渡すが、目を凝らしても出入り口らしき通路は見つからなかった。ただし、見上げれば、洞窟の天井には丸い巨大な穴が穿たれている。
出入り口と呼べるとすれば、その天井の穴くらいか――ヤンフィは疲れたように溜息を漏らす。
「それで? ここは、もう行き止まりのようじゃが……出口はどこじゃ?」
「へへへ、そう焦るなよ、ヤンフィ様。出口は上に開いてるだろ? 今、飛竜を呼ぶぜ」
ソーンはヤンフィの鋭い言葉に薄笑いを浮かべながら、陽射しの中で青空を見上げた。その答えは、ヤンフィが想像していた通りのものだ。やはり出口は天井からか、と少しだけ呆れる。
ところで、ソーンはヤンフィに応えるが否や、自身の股間に手を入れた。そして、いったいどこに隠していたのか、何やら細長い笛を取り出した。
その変態的な仕草を見て、ヤンフィは今更気が付いた。どうやらソーンのブーメランパンツには、道具鞄のような時空魔術が施されているようだった。センスがないことこの上ないし、そもそもそんなところに道具を収納したくはないが――まぁ、そんな突っ込みこそどうでも良いか。
ヤンフィも言葉を飲み込むと、天井を見上げて降り注ぐ陽射しを眺めた。一方で、ソーンは取り出した笛に躊躇なく口を付けて、思い切り息を吹き掛ける。だが、何の音も響かない。
「魔力を震わせる笛か……珍しいものを持っておるのぅ」
音のないその笛をチラと見て、ヤンフィは感心した風に息を吐いた。すると、スッと陽射しに翳りが見えて、強い風が上空から吹いてくる。
(うぉぉ――っ、何だ、アレ?)
天井に開いた穴から現れたソレを視認して、煌夜が驚きの声を上げる。ソーンはソレが現れたのを確認してから、笛を元の場所に戻した。その顔は満足げである。
陽射しを翳らせた正体のソレ――洞窟の天井から現れたのは、四対の翼をはためかせる竜である。ソーンの言っていた飛竜だ。
飛竜はバサバサと翼を力強くはためかせながら、広間の中央に降り立ってきた。
「よーし、よし。待たせたなぁ、グレン――さぁ、ヤンフィ様。このグレンが、オレの使役する飛竜だぜ」
ソーンは、目の前で従順に頭を垂れた飛竜の頭を撫でながら、ヤンフィに向かってグッと親指を立てて見せた。その飛竜は、名前をグレンと言うらしい。
グレンはその名が示す通り、紅蓮の皮膚をしており、体長は4メートルほどだろう。青く鋭い双眸をしていて、無感情にヤンフィを見詰めていた。魔力値はそれほど高くないように思える。覇気も威圧感もほとんど感じず、竜種とは思えないほど弱そうだった。
「ふむ。確かに、立派な飛竜じゃのぅ。それで、どこに乗ればよいのじゃ?」
「おう。ちょっと待ってくれよ」
ヤンフィは頼りないグレンから視線を逸らして、ドヤ顔をしているソーンを睨んだ。頼りない飛竜になど正直乗りたくはないが、まぁ、移動手段として考えれば、強さなどどうでも良いことだ。
ソーンは何やらグレンの背中をペタペタと触り、素早く詠唱する。途端に、その背中から魔法陣が出現して、黒い穴が中空に浮かび上がった。時空魔術の入り口だ。魔動列車の時にも体験したが、異界と繋がる出入り口である。
「……うっし。じゃあ、入ってくれよ。中は割りと快適だぜ?」
黒い穴はソーンの体長よりは少しだけ小さかったが、屈めばそれほど苦もなく入れる大きさだった。ヤンフィは怪訝な顔を浮かべつつも、言われるがまま穴に顔を突っ込む。黒い穴の中は、なるほど、魔動列車の居住箱と同程度に広い空間が広がっていた。
ヤンフィは、ふむ、と一つ頷いてから、その中に足を踏み入れる。
「ほぅ。中は、魔動列車と同じ構造か……いや、若干狭いか? じゃがまぁ、これなら二日過ごすに、不自由はなさそうじゃのぅ。ソーンと一緒なのが難点じゃが」
部屋の間取りを見渡してから、ヤンフィはリビングに備え付けられているソファに腰を下ろす。ふぅ、と大きく息を吐いて、早速そこで寛ぎ始める。
「おお、寛いでるねぇ、ヤンフィ様。どうだい? 過ごしやすいだろ?」
やがて入り口の扉から、ソーンが姿を現した。段取りが済んだのだろう。当然のように、ヤンフィの隣に腰を下ろす。逆に、ヤンフィは距離を取るようにソファから立ち上がった。
「不自由はなさそうじゃ。想像以上にのぅ。ただし、妾はまだ汝を信用しておるわけではない。許可なく妾に近寄ることは禁ずる」
「ぉおおい、そりゃあないぜ、ヤンフィ様。せっかくオレら二人きりなんだしよ。もっと親睦を深めようぜ。それこそ身体と身体で、さ」
ソーンは身体をくねらせる気持ち悪い仕草をして、なぁ、と流し目を向けてくる。その視線を無視して、ヤンフィは個室の一つに入ると、そこにある窓から外を見た。窓の外には、広大な雲海と、どこまでも青い空が広がっている。
「……おいおい、そう逃げないでくれよ、ヤンフィ様」
「おい、ソーン。ここから見えている景色は、どこと繋がっている景色じゃ?」
ヤンフィの後を追うように個室に入ってきたソーンに、すかさず質問を投げる。
「へぁ? ああ。そこは、グレンの視覚に繋がってるぜ」
いきなり話を振られて、ソーンは一瞬キョトンとしたが、すぐさま当然のように答えた。なるほど、と納得して、ヤンフィは改めて外を眺めた。飛竜グレンは、迷わず一直線に空を駆けていた。
「――此奴、目的地まで、間違いなく飛ぶのか?」
「おう。そこは安心してくれよ。進路はオレが定めてるし、目的地までの誘導もオレがやってるからよ。ちなみにオレは、こう見えても万能でね。目的地への魔力マーキングは済ませてるから、眼を瞑ってても迷わないぜ?」
ソーンがニヤリと笑みを浮かべる。興味なさげに、ヤンフィは頷いた。
魔力マーキングとは、魔力による目印である。任意の場所に施すことで、見失うことはなくなる。
自慢げに胸を張るソーンを見て、ヤンフィはふぅ、と首を振った。
「それを聞いたところで、妾の汝に対する信用度が高まることはない。言葉をどれほど尽くそうとも、結果を見るまでは、汝を認めることはない」
にべもなくそう断言するヤンフィに、ソーンはぎょっとした顔を浮かべる。だが、すぐにその表情を緩めて、パチパチと拍手をした。
「へへへ……さすが、ヤンフィ様だぜ。ますます惚れるねぇ。そうこなくちゃ、落とし甲斐がないってもんよ。ああ、確かに確かに。オレが適当な場所に連れていく可能性もあるしなぁ」
「それで? このまま、二日間。ただ呆けておればよいのか?」
ソーンのおどけた台詞に、ヤンフィは苛立ちを孕んだ視線で睨みつける。その視線に肩を竦めてから、ソーンは個室の壁際にあるベッドに腰を下ろした。
「そう邪険にしないでくれよ? まずは……そうだなぁ。お互いの理解を深める為に、生い立ちや趣味とか、自己紹介しないか?」
「――のぅ、ソーンよ。汝、本当の目的は何じゃ? 妾に惚れたとか云う戯言はさておき、他に目的があるのではないか?」
薄笑いの表情で話しかけてくるソーンに、ヤンフィは神妙な顔で問い返した。その途端に、ピンと空気が張り詰めた。ヤンフィの全身からは、凍て付く殺意が溢れている。
その殺意を正面から受けて、しかしソーンは薄笑いの表情を崩さない。
「へへへ、目的ねぇ……さすがヤンフィ様。疑り深いのも、好感度アップだぜ。しかもそれほどの殺気、本当に痺れるぜ」
ソーンは居住まいを正して表情を引き締めると、真剣な声で答える。
「――信じられないかも知れないが、オレに他意はないぜ。本当の本当に、ただ単に、ヤンフィ様と懇意になりたい一心なのさ。その為なら、あらゆる組織に敵対したって構わないくらいに、な」
オレは愛に生きるのさ、と真剣な顔のまま続けるソーンに、ヤンフィはいっそう冷たく鋭い殺気をぶつけた。個室は凄まじく重苦しい空間に変わり、心臓が弱い者なら、きっと即座に死ねるだろう。室温も数度下がった気がする。
けれどそんな空気の中でさえも、ソーンの態度は何ら変わることはない。
「どうしたって、こんな理由を信じてもらえないのは理解してるぜ? ヤンフィ様側から見れば怪しさ爆発だからな。だが、オレは決して裏切らずに、これから死ぬまでヤンフィ様に尽くして見せるぜ」
なんとも重い台詞である。死ぬまで尽くすなんぞ、それほどの義理も筋合いもなかろう。故に信用できるはずがなかった。もしこれが、友情、愛情、正義感、使命感、などの要素で話しているのならば、まだ信用できなくはなかっただろうが――
ヤンフィはソーンの台詞に何の反応も返さず、露骨に話題を逸らした。
「……そういえば、ソーンよ。あの【神竜の卵】とやらは、どうなっておる?」
「んぁ? あ? ああ、コイツか? どうも何も……石化したままだから、変わりないぜ?」
ソーンは、唐突になんだ、と一瞬だけ疑問符を浮かべるも、特段気にした様子もなく話を続ける。同時に、ごそごそと股間のパンツに手を突っ込んで、話題に上がった石塊をベッドに取り出した。
「現状、この石化を解かない限り、孵化させるのは無理だぜ。まあ、解くアテはあるけども……って、ヤンフィ様、要りますか? 要るんなら、迷わず譲渡しますぜ?」
「不要じゃ。じゃが、一つ疑問に思ったのじゃが、石化を解くアテとは何じゃ?」
ヤンフィは冷めた視線で石塊を一瞥してから、ソーンに首を傾げてみせる。
ソーンの言葉が真実であれば、石塊――【神竜の卵】は、内側から【石化の魔眼】で石化している。魔眼の魔力を解くには、一般的に、より強力な魔眼の魔力でなければ不可能である。そして、石化の魔眼は魔眼の中でも最上位に数えられるほどの魔眼である。並大抵の方法では、石化を解くことなどできない。
ちなみに、タニアの持つ【鑑定の魔眼】も、ヤンフィの持つ魔眼も、石化の魔眼よりもずっと下位の魔眼である。
「ああ、知りたいかい? へへへ、いいぜ。ヤンフィ様になら、どんなことでも教えるぜ」
ソーンは得意満面な気色悪い笑みを浮かべて、誰に聞かれるわけでもないのに、声のトーンを落として話し出す。
「世界蛇の本部に、あらゆる魔術を打ち消す魔道具が保管されてるんだ。そいつを強奪できれば、石化の魔眼なんざ、簡単に解呪できるぜ。最悪、それが無理でも、まぁ、【竜眼】を持ってるヤツの心当たりもあるし。【魅惑の魔眼】や【隷属の魔眼】って化物みたいな魔眼持ちにツテもあるぜ――どうだ? 凄くないか? オレの人脈なら、結構色んなことが出来るぜ?」
「……ふむ。そうか」
ソーンの言葉に、ヤンフィはそっけなく言って難しい顔で押し黙る。一方で、煌夜は、なんのこっちゃ、と心の中でヤンフィに問い掛けた。
(なぁ、ヤンフィ。石化を解くアテが、魔術を打ち消す魔道具、ってのは理解できるんだけど……【竜眼】とか【魅惑の魔眼】とかって、何の話?)
(……基本的な前提としてのぅ。魔眼の魔力、魔眼による魔術と云うものは、同位から高位の魔眼の力によってしか、解呪、あるいは打ち消すことができないのじゃ。そして、ソーンが挙げた【竜眼】や【魅惑の魔眼】、【隷属の魔眼】とは、【石化の魔眼】と同位に数えられるほど強力な魔眼じゃ。およそ人間が保有できるレベルの魔眼ではないのじゃが……)
(ああ、なるほどね。同程度の魔眼の力なら、石化を打ち消せるってことか……へぇ。まぁ、でも、だから何なんだ? この神竜の卵、だっけ? 孵化させるのか?)
煌夜はヤンフィの説明に一応の納得を見せるが、これからの目的には関係ないだろ、と疑問を呈する。それにはヤンフィが力強く頷いた。
(妾の好奇心じゃ。そも、あの石塊を、孵化させる意味も、必要もなかろう)
ヤンフィはベッドに置かれた石塊を指差して、真剣な表情でソーンに言い放つ。
「ソーンよ。とりあえず、妾はもう汝に用はない。その石塊を持って、速やかにこの部屋から出て行け。何か用事があれば、妾から質問する」
「おおぅ。そんなツレナイこと言うなよ、ヤンフィ様。もっとお互いのことをお喋り――」
「――これ以上問答するつもりはない。サッサと去ね」
ソーンの砕けた調子の台詞を遮って、ヤンフィはバッサリと言い切った。その強い口調に、ソーンは何か失敗したか、と困惑した表情になる。失言で機嫌を損ねたか、とまったく的外れの勘違いをしているようだった。
「馴れ合うつもりはない、と云ったぞ。しばらく一人にさせよ」
困った表情でおろおろとしているソーンに、ヤンフィは駄目だしとばかりにそう告げる。その声の冷たさに、途端、ビクッと背筋を伸ばして、ソーンは慌てて部屋を出て行った。
ソーンが居なくなり、ヤンフィは煌夜と共に安堵の吐息を漏らした。想像以上に、ソーンと一緒に居ると精神的に疲れることが分かった。
「……二日、か。長いのぅ」
しみじみと呟き、視線を窓の外の流れる景色に向ける。窓に映るのは、見渡す限りの青空だ。どれほど速く飛翔しているのかは分からないが、風を切って青空を駆ける様はさぞや爽快だろう。
目的地は【霧の街インデイン・アグディ】、目的は捕らわれた異世界人の救出――これが罠でないことを祈りつつ、ヤンフィはどこか一抹の不安を抱えて、流れる青空をただ眺めていた。
※時系列B-1