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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第一章 聖魔神殿
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第四話 幼女、現る

 

 ふわふわと空中を漂っているような感覚。次いで、優しく頬を撫でてくる爽やかな風。

 そして、瞼に感じる柔らかい日差しを意識した途端、煌夜の身体は重力を自覚して、突然どこかに叩きつけられた。


「ぐぇ――なん……だ?」


 背中に感じるのは冷たく硬い床の感触。触れてみれば、それはフローリングではなく硬い石床のようだった。

 煌夜はノロノロと上半身を起こした。首を緩く振って、瞼を開く。

 差し込んでくる日差しが眩しくて、思わずウッと眼を眇めた。

 はて、自分はさっきまで何をしていたのか、どうしてこんなところで寝ていたのか、ここはいったいどこなのか――煌夜の頭にはそんな疑問が次々と浮かび、それらがグルグルと駆け巡っていた。

 何が起きたのか、寝起きの頭がまったく機能していなかった。

 非常に混乱しているな、とハッキリ自覚できた。


「…………俺は、天見煌夜、だよな?」


 ぽけーっとその場で座り込んだまま、ふと口をついて出た疑問は意味不明なものだった。

 答えるものはいないが、分かりきったことだ。煌夜は、煌夜である。他の何者でもない――哲学的な意味ではなく。


 煌夜は自分の身体をまさぐった。

 特に怪我などの異常はなく、着ている洋服は『先手必勝』の文字が書かれたプリントシャツと、前ボタンを留めず全開で着ている迷彩の長袖シャツ、色の滲んだジーンズ、つまり意識を失う前に着ていた服である。

 心臓の鼓動も感じるし、しっかりと足も付いている。携帯の鏡アプリを使用して自身の顔を映し出すと、そこには十七年間見慣れた顔がついている。

 煌夜はふぅ、とひとまず安堵した。どうやら死んではいないし、別の人間になったとかでもないようだ。むろん改造されたとか、そういうこともなさそうである。

 そうして少し経って落ち着いた頃合で、煌夜の脳裏にはさっきの光景が脳裏に浮かんでくる。

 自分がいまどこにいるのか、心当たりは一つだけだった。


「ここが……神の国、なのか?」


 呟いて、辺りを見渡す。しかし、煌夜以外は誰もいない。


「おーい! リュウ、コタ、サラ!! 誰かいないか!」


 煌夜はたまらず大声を張り上げるが、その声は虚しく響いて消えていった。当然ながら返事はないし、辺りはすぐさま静寂に満ちる。

 煌夜は立ち上がり、グッと伸びをして首を鳴らす。体調に問題もなさそうだ。改めて辺りをよく見渡す。

 ここは、なんとも厳かな空間だった。印象としては廃墟の遺跡、雰囲気はダンジョン最奥のボスの間だろうか。

 等間隔に並ぶ白い石柱に、東京駅を思わせる一面ステンドグラスの八角形をした高い天井。広さはバスケコートほどある長方形で、床も壁も大小様々な多面体の石を組み合わせた石造りである。

 出口は一つ、煌夜の背後にある巨大な両開きの鉄扉だけ。その両開きの鉄扉は閉じているが、片面が壊れて無くなっている。

 扉を背にして真っすぐ正面には石柱が列をなしており、広間の中央奥には、少し段差のある床に無骨な椅子が一つ置かれていた。椅子の置かれた床には、赤い絨毯の成れの果てのような襤褸が敷かれており、雰囲気はまさに玉座のようだった。

 煌夜はしばし黙って、耳をすます。周囲に意識を集中させて、気配がないか探ってみた。

 しかし、何の気配も感じられず、耳に届くのは微かな風の音だけだった。


(さて、とりあえず……ここがどこかを調べないとな)


 ふむ、と一人頷いて、煌夜は広間を散策した。

 石床には埃と砂が積もっており、歩くたびに煌夜の足跡が残る。

 広間の壁を隅から隅まで手探りで調べる。だが、別段変わったところはなく、何の変哲も無い石壁だった。

 煌夜は石柱を調べる。広間にある石柱は全部で二十七本、それをくまなく調べたが、やはり何も見つからなかった。文字が刻んであることもなければ、スイッチらしきものもなく、ペタペタ触れても何も起きない。

 煌夜は次に玉座を調べた。

 玉座は床に溶接されているのか、動かすことのできない椅子だった。鉄製のようで、ひんやりと冷たく硬い。座ってみたが、座り心地は非常に悪く、やはり何も起きない。


 そんなこんなで一時間ほど広間を探索した結果、結局何の収穫もなかった。

 煌夜はガックリと膝をついて、徒労に終わったことを嘆く。信じたくなかったが、本当に何の痕跡も形跡も見付からなかったのである。

 煌夜は、竜也たちを信頼している。

 サラや虎太朗だけだと少し不安だが、頭脳明晰な竜也には全幅の信頼を置いていた。竜也ならば間違いなく、いきなり異世界に転移しようとも冷静に振舞えるはずだ。


(まず、リュウはここが異世界だとすぐに気付くだろう。自然、俺が追ってくることにも思い至る……そうなれば必ず、自分がここにいたっていう目印を残すはずだが……)


 冷静な竜也ならば、真っ先に転移先で痕跡を残すはずだ。自分たちを探しに誰か来た時のことを考えて、なにもしないなんてことは竜也に限ってありえなかった。

 そう考えると、痕跡が残っていない理由などそう多くは思いつかない。

 煌夜は、さてと腕を組んだ。


 まず煌夜が思い付いた一つ目の可能性は、竜也たちの転移先がここではない可能性だ。

 煌夜が目を覚ましたのはこの広間だが、竜也たちも同じ場所とは限らない。全員がバラバラの場所に転移した可能性さえも充分にありえる。

 また、もう一つの可能性は、転移直後に何かがあった可能性だ。

 痕跡を残す間もなく、何かに巻き込まれてしまった。たとえば、何者かに襲われて、はたまた攫われて、痕跡を残す余裕がなかった可能性である。あまり考えたくないが、可能性としては有力だろう。

 そしてもう一つの可能性は、痕跡を残したが消されたという可能性だ。

 竜也たちが転移してから既に丸一日が経過している。そのタイムラグで、残された痕跡が消えた可能性も一考の余地はあろう。

 煌夜はそれらの可能性を頭に浮かべてから、それでは自分はどう対応すべきか、今後の行動指針を練った。何事もまず、動き出す前には考え得る限りの可能性を考慮することが肝要である。

 煌夜の信条は、冷静によく考えてから行動なのだ。

 特に道に迷ったときや、何らかの重大な岐路に立たされたときなどは、勢いと直感で動いて成功することなどない。

 今までの経験から、煌夜はそれを嫌というほどわかっていた。


「リュウ、コタ、サラたち三人を見つけ出して、無事に日本に戻る――それが最終目的で、至上命題だな。さて、その為にはまず……やっぱ何をおいても状況の把握が優先か」


 煌夜はそう独りごちた。そして、三人を捜すことをひとまず諦める。

 ここは何が起こるか分からない異世界である。自分が何をするべきか、それだけは間違えてはいけない――と心の中で、自らをそう戒めた。


(状況がわからないと、俺自身の安全確保もできないしな……)


 三人がいまどこにいるかも重要な問題ではあるが、しかし当面、煌夜はそれを無視した。

 いま最優先すべきは、三人の安否を心配することでも、三人がどこにいるかを捜すことでもない。煌夜自身の身の安全を確保することこそ、何よりも最優先の事項であった。

 現状、いまの煌夜に三人を捜し出す方法はないのだ。となれば、三人の安否を考えても仕方がない。ミイラ取りがミイラになってはいけないのである。

 助けるために来た煌夜が、助けを求める状況になったら、それこそ本末転倒であろう。

 さて、そうなると必然、煌夜が取るべき行動も決まってくる。それは、無事このダンジョン風な遺跡から出ることであり、どこかで人に会うことである。

 この世界のことを調べなければ、最終目的には辿り着けない。情報こそ何においても得難い宝なのだから――


 煌夜は頭の中でまとまった指針に、うむ、と満足げに頷いて、いま出来ることを為すために動き出した。

 とりあえず念のため、携帯でこの広間の写真を撮る。そして、竜也たちがここを訪れたとき、それと分かるように、財布に忍ばせていた十得ナイフを使い、玉座に文字を刻んだ。


『ここから出て、街を目指す。これを見たら、安全第一で街を探せ。煌夜』


 煌夜は玉座の背もたれに、そうデカデカと書き残す。もしこれが世界遺産とかだったらヤバイかな、と一瞬だけ躊躇はしたが、その時はその時だ。知らぬ存ぜぬで誤魔化そうと考えた。

 よし、と煌夜は意気込んで、書き込んだ通りにここを出ることにする。

 この世界が地球かどうかはわからないが、少なくとも、人間のような知的生命体が存在する世界とわかっている。この遺跡がその証左だろう。ここは明らかに人為的な建物である。なればこそ、どこかに街もあるはずだ。

 煌夜は周囲に気を張りつつ、壊れた扉から顔を出して廊下を確認する。

 廊下は、暗闇が支配していた。そこには灯りが一切なく、見える範囲ではまるでピラミッドの内部みたいな通路をしていた。

 廊下の横幅は10メートル、天井の高さは5メートルほどだろう。ずいぶんと広い通路である。携帯の明かりだけでは心許なく、煌夜は踏み出す勇気を持てなかった。


「……なんか、ここって地下っぽいな」


 煌夜は廊下の奥を見つめながらボソッと呟く。そして、一旦、玉座の広間に戻った。

 改めて見ると広間は、柔らかい光で満たされていた。光は天井付近のステンドグラスから差し込んでおり、その高さはおよそ10メートル強はあろう。煌夜の立ち位置からでは、外の景色は窺い知れない。

 広間を見渡しても、ここが地上か地下か、どちらともいえない構造をしていた。


「……出られない、なんてことはないよな?」


 最悪の可能性が脳裏を過ぎって、煌夜は冷や汗を流した。まさか、と自嘲しながらそれを自己否定する。

 しかし実際、可能性のひとつとして、ここがどこかのダンジョンであり、地上への出口が最下層にしかない場合というのもありえる。

 ひたすら下層に潜るタイプで、道中にはモンスターが出てくる。そういうライトノベルの設定を思い出して、ガクブルと足が震えた。

 それこそ考えても仕方ないことだったが、人は未知に遭遇すると行動も思考も鈍るものである。煌夜はしばし腕を組んで立ち竦み、廊下に踏み出す決意を充填する。

 しかし、そのとき――


 グガァアア――ッ……ドォン、ガゴン……ガラガラ――


 ふと獣の雄叫びと瓦礫の崩れるような破壊音が、廊下の闇の奥から響いてきた。瞬間、ビクリと全身を硬直させる。とても嫌な予感がし始めていた。

 煌夜は目をパチクリさせながら、錆び付いた機械のようなギクシャクとした動作で、ゆっくりと廊下のほうへ顔を向ける。

 半壊している扉の奥の闇から、微かに響いてくるズシンズシンという何かの歩行音。

 それが、ズルズルと何かを引きずるような音を伴って、少しずつこの広間に近づいて来ている。


 何が起きたのか、何がいるのか、煌夜の直感は最上級の警鐘を鳴らしていたが、同時に、怖いもの見たさの好奇心が逃げるという決断を妨害していた。

 足が縫い付けられたかのように、煌夜はその場で息を呑んで、ただ突っ立っていた。

 足音が大きくなるにつれて膨れ上がる恐怖、やけに大きく聞こえ出す心音、そして――それは現れた。

 ガゴン、と半壊していた扉のもう半分が吹き飛んで、巨大で凶悪な化物が広間に姿を現わす。それは、特撮で見た覚えのある巨大な猿の化物だった。


「リアルに――キング、コング? ぅ、え? あれ? ヤベ……」

「――――グァアガァアア!!」


 煌夜は化物を目の当たりにして、ビクンと震えて硬直する。その様は、まさに蛇に睨まれたカエルの如く、恐怖で喉が引き攣り、視線はその化物から1ミリも反らせず、呼吸もままならなかった。

 恐怖に怯える煌夜を見て、化物は喜んでいるような雄叫びを上げる。それはまるで勝ち鬨の咆哮のように聞こえた。

 煌夜はその咆哮に気圧されて、腰砕けにジリジリと後退る。

 その化物は、全長3メートルを超えるゴリラのような生き物だった。全身は赤茶色の体毛で包まれていて、口からは吸血鬼みたいな牙が突き出ていた。二足歩行していて、毛むくじゃらの両腕は丸太のように太い。その姿を何かに喩えるならば、まさしくキングコングである。

 化物はその太い右手に、頭が三つもある犬を握り締めていた。

 握り締められた犬は、化物と対比すると小さく見えたが、それでも煌夜より巨体であることが見て取れた。全長2メートルほどか、その胴体から内臓を垂らしており、弛緩してピクリとも動かない様子から、既に死骸であるようだった。


 さて、キングコングのような化物は、ジリジリと後退る煌夜を見て、唐突に犬の胴体を二つに引きちぎった。ブシャ、と辺りに臓物と血が広がる。

 キングコングはそのまま、千切った犬の上半身部分、その三つの頭を鷲掴みして握り潰して、血走ったように真っ赤な双眸で煌夜を睨みつけた。煌夜は声にならない悲鳴を上げる。


「グァアアアッ!!」


 追い詰めたぞ、とでも言っているのだろうか。

 化物はもう一度、宣言するように雄叫びを上げて、左手でその膨れ上がった胸板をドラミングする。そして右手の犬の残骸を振りかぶって、滑らかな投球フォームで振りぬいた。

 煌夜は恐怖から微動だにできなかった。だが、それは幸運だった。

 煌夜の立っていたすぐ脇を、その犬の屍骸が凄まじい勢いで飛んでいく。轟という風切り音が耳を掠めると直後、ビチャリ、と生々しい音が鳴り響き、白い石柱の一つが赤く染まった。それはまさにトマトでもぶつけたかのようで、犬の死骸は砕け散って柱にへばりついていた。

 煌夜は思考が真っ白になった。もはや何も考えられない。

 何をどうしようとも、死ぬ以外の結末が思い描けない。煌夜の本能は早々に生を諦めていた。

 ――それも仕方ないだろう。

 目の前に立ち塞がるのは明らかな死神だった。一般人で素手の煌夜では、まともに戦えるような相手ではない。この化物の前では、ライオンさえ愛おしく見える。誰がどう見ても絶体絶命、八方塞だ。この窮地を脱する術など、煌夜には一切なかった。


 化物がゆっくりと、一歩だけ煌夜に近寄った。そのプレッシャーとあまりの恐怖に、プツリとそのとき煌夜の中で何かが切れた。

 途端に思考がフルスロットルで回転を始める。絶対的な死を前にして、この土壇場の状況に追い込まれて、煌夜は逆に冷静になっていた。

 あまりに現実味のない光景に、なんとかなるさ、という楽観的な気持ちさえ浮かんでくる。


(……そうだよ。異世界転移モノなら、こういうときご都合主義の展開があるはずだよ……たとえば――そう、たとえば、俺に特殊能力が芽生えてる、とか)


 かつてないほど冴え渡る思考で、煌夜が瞬時に思い至ったのは、物語によくある展開である。

 この手のピンチを解決するご都合主義の一つ、特殊能力の覚醒だった。往々にして、異世界転移モノでは、主人公は特殊能力を手に入れている。ならば、煌夜にも何らかの能力があってしかるべきだろう。

 その能力を駆使して、ここをなんとか切り抜ける――そんな展開を、煌夜は夢想した。


「ステータス、オープン……いや、違う。んー、なんかこう、能力が頭に降りてくるのかな?」

「グゥウウォオオ――ッ!!」


 煌夜は軽い調子で呟きながら、ババッと太極拳のようなポーズで化物に構えた。

 何の意味もない動きだったが、化物はそれに一瞬ビクつき、警戒して近寄るのを止める。しばし睨み合う両者――だが、ただそれだけである。どれほど経とうと、一向に何も起きる気配はない。

 煌夜はいま、人生で一番と思えるほど集中していた。その集中力をもって、思いつく限りのあらゆる発想で、自らに宿ったであろう能力を引き出そうと躍起になった。

 けれど、自分の把握する能力以上の何かが出来る予感はまったくなかった。そもそも特殊な能力が備わったようにも思えなかった。むろん、ステータスオープンなどと口走ったところで、ゲームや小説みたいにステータスウインドウが表示することもなく、頭に何か思い浮かぶこともなかった。

 つまりは何一つ状況は好転しなかった。煌夜の背中を再び、嫌な汗がつと流れる。

 化物と向かい合って硬直すること三十秒、長い沈黙の末に、何も起きないと理解した化物は、もう一歩近づいてきた。


(いやいや、待て待て……まだ、俺は死んでない。死んでないなら、諦めるなよ。とりあえず――三十六計逃げるに如かず、だ。足掻けば、助けもやってくるさ)


 煌夜はすぐさま気持ちを切り替えて、今度はこのピンチを救ってくれる何者かが現れることを期待しつつ、ともかくここから逃げることに集中する。

 グッと腰を落として静かに息を吐き、視線は化物から逸らさず、ゆっくりと斜め後ろにすり足で下がる。逃げる為には、出口に立ち塞がる化物の後ろに回り込まなければならないが、そのためには立ち位置を入れ替える必要があった。

 キングコングのような化物は、どうやら煌夜を警戒しているようで、用心深く間合いを計っている。いきなり襲い掛かってこないのは、臆病だからか慎重だからか。

 どちらにしろ、煌夜にとっては願ってもない幸運だった。

 お互い睨み合いながら、煌夜は化物と立ち位置を入れ替えようと、ジリジリ半円を描くように移動する。しかしその思惑を知ってか知らずか、化物は決して背後の扉から距離を置かず、身体の向きを変えるだけで煌夜に対応する。

 見た目に反して、なんとも賢明な判断である。

 煌夜という獲物を逃がすつもりは毛頭ないようだ。


(…………この広間に、隠し部屋とかないのかな? なんか、逃げ切れる気がしないんですけど)


 一時間にも思えるほど緊張感漂う数分間が経過して、現状は何も好転していなかった。

 煌夜の立ち位置は最初よりずいぶんと後ろに下がっていたが、その分だけ化物も近寄ってきていた。煌夜の背中には白い石柱、一方で、化物は広間の入り口の扉を背中の一直線上に据えていて、その長い両腕を伸ばすことにより、脇から抜けさせるつもりもないと主張している。

 煌夜はこの化物から逃げられる気がしなかった。


「ちっ……やべぇ、な。マジに……ふぅ……ふぅ」


 どうシミュレーションしても殺される以外のビジョンが浮かばない。そんな絶望が煌夜の脳裏を繰り返し過ぎり、乱れる呼吸がやけに頭に響き始める。

 凄まじいまでの集中と、生か死かの極限状態の緊張に、煌夜の体力が限界を迎えたのである。気付けば既に、呼吸はひどく乱れて、顔面は蒼白になっている。軽い酸欠も起こしていた。


「……グゥウウォ――――ウガカァアアアア!!」


 そうして、その瞬間が訪れてしまった。煌夜の視線が少しだけ下がった刹那、その隙を見逃さずに、化物は襲い掛かってきた。いや、襲い掛かるという形容は妥当ではない。煌夜にとっては、その光景はまさに、巨大な壁が落ちてきたように感じていた。

 化物と煌夜との距離は6メートルあまり、その距離が瞬きの間に縮まり、見上げるほどの巨躯が豪腕を振り下ろしてきたのである。

 耳に届く風切音、叩き付けられる衝撃、揺れる視界。

 咄嗟に反応して紙一重でかわす――なんて芸当は、煌夜には到底不可能だった。無論、受け止めることさえ出来ない。

 その豪腕の速度は速すぎて視認できず、威力は爆撃を思わせる凄まじいものだ。まったくの凡人である煌夜が対応できる要素などどこにもなかった。

 煌夜は受身も取れずに、その一撃で広間の端まで吹っ飛んでいた。ドガン、と石壁に激突する。


「――――あ?」

「ガァアアアッゥ――ゥッ」

「…………生き、てる? ぅ? あぁ――――え? あ、あがががぁ、っ!! ゲホッ、グ……」


 煌夜の口から、ただただ呆然とした音が漏れた。

 化物の一撃を受けて、まだ生きていることが奇跡だった。だが、煌夜がその奇跡を感じてフッと気を抜いた瞬間、全身にやってきた激痛に顔を歪めて絶叫する。

 化物はその絶叫を聞くと、嬉しそうな咆哮をあげつつ両腕で胸板をドラミングして、全身で歓喜を表現していた。

 煌夜はゴロゴロとその場で転がりながら、ひたすら絶叫を轟かせた。

 左肩から先が、燃えているように痛かった。さらに遅れて、背中がジンジンと痛みだす。その途端、喉元からすっぱいモノが込み上げてきて、抑えきれずに撒き散らす。煌夜の口から出てきたのは大量の血だった。


(痛い、痛い、痛い、いたい……いたい、いたい、イタイイタイイタイ……イタ、イ!!!)


 煌夜の思考は激痛で黒く埋め尽くされていて、それ以外のことはまったく考えられなかった。絶望も恐怖も逃げる意志さえも霧散して、ただただ痛みに嘆いていた。


「グゥウウァ――――ガウッァアア」


 化物がドラミングを終えて低く唸った。のそのそと足元の潰れた肉片を拾って、それを紙みたいに引き千切って、ひとつをゆっくりと丸呑みする。

 その肉片は――煌夜の左腕、その成れの果てだった。

 煌夜の左半身は、至近距離で爆弾が爆発したかのような凄惨な状態だった。

 左腕は肩口から見事に弾け飛んでおり、骨が露出している。肋骨は何本か折れており、脇腹は皮膚が剥がれて肉が見えている。左足も太腿が大きく抉れており、膝から下はあらぬ方向に曲がっていた。もはや立ち上がることも出来ない。

 この状態ではむしろ生きて意識があることが奇跡だった。しかし即死出来なかったのは、果たして幸運かどうか――


「――グァアアアゥッ!!」


 化物が吼えた。それは先ほどまでの叫びとは毛色が異なり、どこか怒りの色が感じ取れる咆哮だった。ギラリと、仇を見るような視線を激痛でのたうつ煌夜に向けている。

 次の瞬間、煌夜の腕の残骸をオニギリでも作るような要領で丸めて、振りかぶっていきなり投げつけてきた。

 視認できない速度で迫った肉片は、幸運にも煌夜の手前にあった石柱に打つかって爆散した。ビチャ、と嫌な音を立てて、血と肉片の雨が石床を汚した。

 それを見て、化物が悔しそうな咆哮を上げる。

 ダンダン、と石床を踏み鳴らし、隣の石柱を殴りつけた。その一撃で直径1メートルはあろう石柱が、いとも容易く圧し折れてガラガラと崩れていた。

 一方、煌夜は既に死に体である。永遠にも思えた激痛は、気付けば何も感じなくなっており、平衡感覚さえなくなっていた。

 視界は急激に狭く暗くなっており、ぼやけてほとんど何も見えていない。

 もはや感情が欠落したように何もかもどうでもよくなっており、他人事のように現状をありのまま受け入れていた。

 いま煌夜と化物の距離は、10メートルほど離れている。だが、どれほど距離を取ろうとも、化物が煌夜を諦めない限り、助かる可能性はないだろう。

 煌夜はもはや動けない。動く気力さえ失っている。

 化物が一歩、近付いてきた。そのとき、ふと煌夜が思ったことは、床に広がっていく自身の血の海に対して、掃除が大変だろうな、という下らないことだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 煌夜を襲ったキングコングのような化物は、この世界では【グレンデル】と呼ばれている魔族である。人間を好物としており、力が強く凶暴で、非常に執念深い性質の魔族だった。

 そんなグレンデルは、度重なる不運に苛立っていた。

 何もかも自業自得なのだが、グレンデルには自分の行いを省みるほどの知性はない。そのため、湧き上がる苛立ちを地団駄で表して、石柱を殴って壊すという八つ当たりで、本能的に感じている恐怖を発散させていた。

 グレンデルの苛立ちの原因は三つあった。

 ひとつは、三つの頭を持つ猟犬の魔族【サーベラス】を投げ捨ててしまったことだ。

 グレンデルにとっては、それは一週間ぶりの貴重な餌だった。だが、もはや手元には肉片しかない。おかげで空腹を満たせない。

 もうひとつは、煌夜の肉が凄まじく不味かったことだ。

 グレンデルの好物は人間の肉である。しかしこの【聖魔神殿】には滅多に人間など訪れず、また訪れる人間というのは例外なくグレンデルよりも強者で、闘っても一方的に刈られるだけだった。

 グレンデルは今までに、同胞があっけなく狩られる姿を幾度も目にしていた。それゆえ、煌夜のように弱い人間というのは非常に貴重で、絶好の餌なのだ。だというのに、その肉がまさか吐き気を催すほどに不味いとは思っていなかった。そのあまりの不味さに、グレンデルの空腹はいっそう厳しくなっている。

 そして最後のひとつは、今まさに起きている異変に対して、逃げることができないことだった。

 突如として死に体の煌夜を包みだした魔力の淡い緑光が、どこか得体の知れない恐怖を放っている。魔族としての本能が死を覚悟させて、けれども死にたくないという動物の本能から癇癪を起こしていた。


 さてそんな異変は、煌夜が意識を手放した瞬間、ちょうど血の海が玉座の広間中央まで広がったときに起きた。


「――ようやく神の封印が解かれて起きてみれば、妾の恩人に、なれは何をしようとしておる?」


 どこからか響き渡った統一言語オールラングによる台詞。

 淡々と抑揚なく響いたその言葉は、一瞬でグレンデルを心の底から恐怖させていた。

 言葉を解さぬグレンデルでは、台詞の意味は分からない。しかし、台詞の主が何者かは考えるまでもなく理解できており、言外に込められた怒りの感情も嫌というほど理解していた。

 グレンデルは魔族の本能で、逆らってはいけない存在の逆鱗に触れてしまったことを自覚していた。

 ほどなくして、煌夜の身体を包んでいた緑光が収斂した。すると一際眩しく光を放ち、次の瞬間には、グチャグチャだった煌夜の左半身が元通りになっていく。

 煌夜を包んだ緑光は何度か明滅して、その後、ゆっくりと煌夜の身体から離れていった。

 そして四方に散らばった緑光は、まるで蛍みたいに空中を漂いながら、広間の奥にある玉座へと集まっていった。


「グォオオオッ――――ッ!」


 グレンデルが恐怖の悲鳴を上げた。見詰めるのは一点、緑光が集まった先――広間の奥の薄汚れた玉座である。

 そこには、退屈そうに肘置きにもたれ掛かる幼女が座っていた。幼女は居丈高な態度で、ゴミを見るような視線をグレンデルに向けている。

 幼女の外見は七歳前後だろう。

 身長は120センチほどで、桃色の短髪を寝起きみたいに乱れさせて、宝石に彩られたかんざしを二つ付けていた。

 金色の蓮と青い鳥の柄をした紅蓮の和服を身に纏い、玉座の傍らにA4サイズの黒い本を立て掛けている。その蒼い双眸は眠そうに細められており、その麗しい相貌は外見に似つかわしくない大人の妖しい魅力を感じさせる。


「……グレンデルよ。覚悟は出来ておろうな?」


 静かに、退屈そうに、幼女はそう問い掛けた。その声音は幼子特有の甲高い響きだった。

 グレンデルはその台詞を聞いて震え上がる。直感で、逃げられないと理解できた。けれどそれでも、死にたくないという本能から、すぐさま広間の出口に駆け出していた。

 まさに脱兎の如き素早さで、その速度は煌夜を襲ったときよりもなお速く、一心不乱の逃走だった。

 だがしかし――それでは遅すぎた。


「愚か者め。せめて挑めばよかろうに」

「グァ――――ガ」


 グレンデルが目にも留まらぬ速さで廊下に到達した刹那、その胴体は真っ二つになって宙を舞った。何が起きたか、グレンデルは理解できなかっただろう。

 グレンデルを両断したのは、今の今まで玉座にいた幼女である。

 幼女はいつの間にか、その手に錆び付いた銅の剣を握り締めて、廊下でグレンデルを待ち受けていたのだ。

 瞬間移動、そうとしか思えない一瞬の移動だった。

 しかも幼女はその細腕で、見るからに切れ味の悪そうなその銅の剣で、グレンデルをあっけなく両断したのである。


「雑魚め……」


 ドシン、と崩れるグレンデルの上半身をつまらなそうに眺めて、幼女はそう吐き捨てた。

 そして分断された死骸に容赦なく剣を突き刺す。すると、ゴクンゴクン、と不気味な音を立てて、銅の剣はグレンデルの血を吸っていった。見る見るうちに屍骸は水気を失い、干からびてミイラのようになる。


「……やはり、グレンデル程度の魔力量では、魔剣ダーインスレイヴの顕現とは釣り合わぬのぅ」


 幼女は、ふぅと疲れたように一つ吐息を漏らして、完全に干からびたグレンデルの屍骸を見下ろす。もはやその屍骸には、血の気はまったくなかった。

 一振り、二振り、幼女は銅の剣を十字に振るう。すると途端に、銅の剣は緑色に光る細かい粒子になって、背中の腰帯に挟んであるA4サイズの黒い本に吸い込まれていった。

 幼女は寝起きの頭を起こすようにゆるゆると首を数度振ると、倒れ伏す煌夜に顔を向けて優雅な仕草で歩み寄っていった。

チート幼女が物語のキーパーソンです。

ちなみに、ヒロインではありません。

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