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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第五章 聖王の試練
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第三十四話 迷宮クライシス/後編

 落ちて行く。

 ただひたすらに落ちて行く。

 上も下も、右も左も分からぬ暗闇を、浮いているような感覚のまま、ずっと落ちて行く。

 どれほど落ちてきたか定かではない。感じるのは風の抵抗だけだ。轟々と鼓膜を震わせる風の音を聞きながら、煌夜はいつ終わるとも知れない暗闇を落ち続けている。


(……なぁ、ヤンフィ。俺って、死んだのか?)


 ふとそんな疑問さえ浮かぶくらい、長く長く落下していると感じていた。120階層ならば、これほど長く落ちずとも底に着くはず――だが、いまだに底は見えない。

 体感ではとっくに一分、二分過ぎている。何なら三分も過ぎているかも知れない。けれど鼓膜を揺らす風の轟音は終わらず、体全体に感じる重力と風の抵抗もちっともなくならない。となれば、実はもう既に底に激突していて、死んでしまっているとしても不思議はない。

 煌夜がそんな不安に駆られている時、しかしヤンフィは真剣な声でそれを否定する。


(コウヤよ。汝はまだ死んでおらぬ。落下を長く感じておるのは、妾が感覚を引き伸ばしておるからじゃ。今はまだ落ち始めてから数秒じゃ――じゃが、そろそろ見えてきたのぅ)


 ヤンフィの答えに、煌夜は意識を下に向ける。そこには明かりのない暗闇が広がっているが、ちゃんと意識すれば、暗闇だろうとはっきり見えた。地面がすぐそこに迫ってきていた。

 すると、煌夜の身体がクルリと反転する。下を向きながら大の字だった身体が上を見上げる体勢になり、その瞬間、フッと身体が浮き上がった――そして同時に、気絶するくらいの激痛が全身を襲った。


「ッ――!!? ぁ――ぇっ!!」


 声にならないほどの激痛が、全身を駆け巡り、頭が割れるような頭痛が襲い掛かってくる。しかし代わりに、フワリと優しく地面に下ろされた。場違いに甘く芳しい果物の香りが鼻腔をくすぐる。


「――ふぅ。さて、ここが【聖王の試練】の底、じゃな? ふむ……周囲に魔族はいないようじゃが――」


 硬い地面に寝かされた状態で、ヤンフィのそんな声が頭上から降ってきた。痙攣する身体に鞭を打って目を開ければ、煌夜を見下ろすようにして、ヤンフィが顕現していた。どうやら、地面に激突する寸前に、ヤンフィが煌夜を抱き抱えて助けてくれたようだ。

 なるほど。だから助かったのか――と納得するが、今は何が起きたかよりも早く、この苦痛を取り除いて欲しかった。煌夜は、声にならない声で、縋るような視線で、ヤンフィに訴える。


「コウヤよ。その様、まるで空気を求めて口を開ける金魚のようじゃぞ? ああ、皆まで云わずとも良い。痛覚を遮断せねば、まともに呼吸さえ出来ん状況じゃからのぅ――今戻ろう」


 その様を見て、ヤンフィはカラカラと笑いながら、顕現していたその姿を霧散させる。途端に、煌夜の全身が何かに包まれたように温かくなり、ゆっくりと痛みが消えていった。けれど、それに引き換えて身体の感覚がなくなる。今、主導権はヤンフィにあるからだ。


(――――ひとまず、壊れた身体を元に戻すか)


 激痛が完全に消えると、ヤンフィはその場から立ち上がり、折れてプラプラとしている右腕に力を込める。すると右腕が緑色の淡い光を放ち、直後、スッと元通りに直った。それから何度か腕を曲げてみて、問題ないことを確認している。見た目にも動きにも、違和感はなかった。

 次いで、足元に転がっていた煌夜の左腕を拾い上げる。それを肘の部分の切断面にぐいと押し付けると、まるで初めからそうだったかのように、左腕は元通りにくっついた。

 その一部始終を眺めて、相変わらず我が事ながら不気味な身体だ、と煌夜は複雑な気分になる。


「さて――と、コウヤよ。妾たちは、地下迷宮の一番最下層に落ちてきたわけじゃが……これよりタニアたちと合流して、あのワグナーとやらを倒し、装備を奪おうと思っておる。異論はあるか?」

(……タニアたちに合流するのは賛成だけど、ワグナーを倒すのは別に……と言うか、装備を奪うって、何故に?)


 ヤンフィの宣言に、煌夜は疑問符を浮かべる。それに対して、ヤンフィはやれやれと肩を竦めた。


「彼奴の目的は、セレナの貞操じゃぞ? 仲間の貞操を奪われそうになって、コウヤは怒りが湧かんのか? それに、ここでワグナーを生かしたままにすれば、またどこかで襲われるに決まっておる。ならばこそ、倒しておく必要があろう? ちなみに、彼奴らの装備は、非常に貴重な装備じゃ。特にあの紅蓮の外套――あれがあれば、今後の旅路でコウヤの生存確率は跳ね上がるじゃろぅ」


 力強く語りながら、ヤンフィは周囲を見渡す。120階層の底は円形のホールのような造りになっており、左右向かい合うようにして、人一人分の通路が口を開けている。どちらに進むか、目印のようなものは何もない。


(紅蓮の外套、って――あのロングコートか。やたらと動き難そうだったけど……つうか、奪うってどうなんだ?)


 煌夜はいまいち釈然とせず、ヤンフィに口答えする。人を殺して、その装備を奪うなんて、まさに盗賊の所業だ。到底、納得も承服もしたくない。そんな煌夜をヤンフィは一笑に付した。


「コウヤ。貴重な装備が道に落ちていたら、拾って我が物にするのは必然じゃ。それに、妾たちを殺そうとする敵に情けなど無用じゃろぅ? ほれ、つまりはそういうことじゃ」

(いや、まぁ、言いたい事は分かるけど……)

「ならば、深く考える必要なぞないじゃろぅ。妾たちには目的があり、それを成す為にはあらゆる手段を用いるべきじゃ。違うか?」


 ヤンフィの言い分に、煌夜は、違くないさ、と頷いた。じゃろぅ、とヤンフィは満足げに言って、スッとその足を左手側の通路に向ける。とりあえず進まなければ、タニアたちに合流など出来ない。


(……ところで、タニアたちは無事なのか? どこに向かえば、合流できるんだ?)

「無事ではあろう。じゃが、どこで合流できるかは、運次第じゃのぅ」


 軽い口調であっけらかんとヤンフィは言って、そのまま直感に従って通路を歩き出した。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「――というわけにゃ。で、今、ここに居るにゃ」


 タニアの簡潔な事実説明に、ウェスタはひどく落ち込み消沈した面持ちを見せている。しかし、それも当然かもしれない。最愛の婚約者が、胴体を真っ二つにされて殺され、敬愛する師匠さえも死んだと聞けば、誰でもそうなるだろう。


「……ミレイ……師匠……」


 ウェスタは力なく呟く。タニアはそんな傷心のウェスタに、しかしまったく気を使わず、あっけらかんと問い掛ける。


「にゃあ、お前。ショックにゃのはいいけど、今はそんにゃの置いといて、ここの地図とか持ってにゃいか?」

「――――そ、そんなこと、って!?」

「あー、いいにゃ、いいにゃ、そういうの。あちしには関係にゃいし……で? どうにゃ?」


 タニアは激昂しそうな勢いで顔を上げたウェスタを、おざなりにあやして、強い口調で問うた。ウェスタはタニアが命の恩人である手前、怒りたくとも怒りきれず、またその威圧に気圧されて、グッと怒りを飲み込んだ。


「……地図は、あります。けど、60階層までの簡略図です。さっきの話を統合すると、ここは恐らく95階層でしょうから、役に立たないですよ」

「にゃにゃ? にゃんで95階層って分かるにゃ?」

「天井にある転移魔法陣、それも、俺が戦ってたとこの先の通路にあったんですよね? だとすれば、十中八九それは、噂になってる冒険者殺しの転移陣ですよ。行き先は、95階層、宝物庫手前の魔族部屋――運良く、オークがいないみたいですけど、噂じゃ、部屋を埋め尽くすほどのオークが巣食ってるらしいですよ。だから、冒険者殺し、です」


 ウェスタの説明に、にゃるほどにゃぁ、とタニアは納得する。ウェスタはここに偶然何もいなかったと勘違いしているようだが、実際は既に、オークは全滅させている。

 しかし、となれば、間違いなくここが95階層だろう。噂になるということは、誰かが一度でも攻略したということである――つまり、宝物庫があるということにもなる。


「あ――ちなみに、宝物庫は既に荒らされてて、何もないって言われてます。だから、ここはいろんな意味で、冒険者殺しなんですよ」


 ウェスタのその補足に、タニアはガクッと肩を落とす。なかなか小気味好い肩透かしである。ついウェスタの横顔を殴りつけた。


「ガァ――っ!? な、何を!?」

「憂さ晴らしにゃ」


 キッとタニアを睨みつけるウェスタだが、ギラリと睨み返されてそれきり押し黙った。

 タニアは、ふぅ、と息を吐いて、にゃらどうするか、と腕を組んだ。いきなり6階層から95階層とは、戻ろうとしたら中々困難な道のりである――ここはひとつ、待つのも手かもしれない。


 転移魔法陣は、行き先が固定だ。そして、条件さえ揃えば何度でも展開する罠である。壊されない限り、戻れはしないが、来ることはできる。となれば、タニアが転移したことを見ていた煌夜たちが追ってくる可能性が高い――何事もなければ、だが。

 タニアは状況を思い返す。転移魔法陣に魔力を注いで展開のきっかけを与えたのは、紛れもなくアレイアだろう。タニア相手は分が悪いと、戦力を分断させるつもりだったのだ。その思惑は見事にハマったが、それでもアレイアごとき、セレナに勝てるとは思えない。


「……ましてや、いざとにゃればボスもいるにゃ」


 タニアの独り言に、ウェスタは首をかしげる。それを無視して、タニアはうんうんと頷いて見せる。

 やはりどう考えても、しばらくはここで待機するのが無難だろう。アレイアを倒したセレナたちが、タニアを追って転移してくるはずだ。もし、しばらく待っても来ないなら、その時はきっと、転移魔法陣が破壊されたに違いない。

 タニアは、自身が見捨てられる可能性など微塵も考えず、気楽に待つ心算で床に寝そべった。床はひんやり冷えていて、埃臭く血生臭い。


「……あ、あの……移動、しないんですか?」


 いきなり床に大の字になったタニアに、ウェスタが恐る恐る声を掛けた。タニアは視線だけ向けて、にゃ、と頷く。


「あちしの仲間が、恐らく転移してくるにゃ。それを待ってからでも、遅くにゃいにゃ」

「……仲間……そう、ですか?」

「にゃにゃ――って、ちょうど来たにゃ」


 ウェスタとそんなやりとりをしていると、ちょうどタイミング良く、壁際に誰かが落ちてくる。

 煌夜かにゃ、と期待したタニアは、しかし現れたセレナを見て、怪訝な顔を浮かべた。セレナは信じられないくらい満身創痍だった。慌てて身体を起こす。


「にゃにゃにゃ……セレナ!? お前、いったいどうしたにゃ!? にゃにがあったにゃ!?」

「――え!? 妖精族!?」


 セレナを見て、異なる理由で驚愕するタニアとウェスタ。セレナは、とりあえず無事にタニアに合流できたことに安堵して、思わずその場に倒れこんだ。


「おい、セレナ!! コウヤはどうしたにゃ!? というか、アレイアとかいうあんにゃ女相手に、にゃにを遅れをとってるにゃ!?」

「……くっ……アンタだって、アレイアにハメられたくせに……」

「うるさいにゃ――で? どうしたにゃ?」


 セレナは荒い呼吸をしていたが意識はハッキリしており、タニアの悪態にも嫌味を返せていた。タニアはセレナに詰め寄り、神妙な顔で問い掛ける。


「……アレイア……?」


 一方でウェスタは、二人が口にしたその名前に、首を捻りながら反応していた。それは心当たりのある反応である。だが、そんなウェスタなど無視して、セレナは口を開いた。


「……アンタが転移した直後に、煌夜の背後から男が現れたのよ。そいつはアンタと同じくらいの強さで、不意打ちに煌夜の腕を切り落としてから、一撃であたしをここまでにしたの。あのまま戦ってたら、あたしは死んでたわ」

「にゃにゃにゃにゃ――コウヤはどうしたにゃ!? そんにゃ相手を前に、にゃんでお前だけが転移してくるにゃ!?」

「コウヤは……無事だと思う……ヤンフィ様がなんとかしてくれたから……あたしを逃がしてくれたのも、ヤンフィ様だし」


 セレナは顔を伏せて申し訳なさそうに呟いた。タニアはそれを聞いて、途端に難しい表情を浮かべる。ヤンフィがセレナを足手まといと判断したということは、それほどの相手が現れたということである。不安で表情は曇った。


「そいつは、何者にゃ? にゃにが目的で――」

「そいつの狙いは、あたし――いえ、正確には、妖精族の魔力みたいね……あたしと……その、魔力共有して、自身の魔力を高めるのが目的ってほざいてたわ。アレイアの飼い主みたいで、名前は……ワグナー、とか言ってたわね」

「ワグナー? 知らにゃいにゃぁ……何者にゃ?」


 タニアが眉根を寄せて首をかしげていると、ウェスタが驚愕に目を見開いて震える声で呟いた。


「――ワグナー・ウォル・リウ……って、あの【竜殺しの魔剣士(ドラゴンスレイヤー)】ワグナー、ですか?」


 ウェスタの台詞に、セレナは今更その存在に気付いて、怪訝な表情を浮かべた。


「……ところで、タニア。なんでここに、この人間がいるの? あたし、てっきり戦闘に巻き込まれて死んだと思ってたんだけど……」

「あちしだって知らにゃいにゃ。にゃんだ? コウヤが助けたとかじゃにゃいのか?」

「違うわ……ああ、でも心当たりはあるわね。多分、あたしに大ダメージを与えた一撃。あの斬撃で、転移陣が発動したんでしょう。アンタ、運が良かったわね」


 セレナはウェスタに冷徹な視線を向けながらそう言って、で、と威圧を交えて話の先を促す。


「それで、アンタ。そのワグナー何某のこと、何を知ってるの?」


 セレナの氷の威圧に気圧されつつも、ウェスタは恐る恐ると言葉を続けた。


「あ、あの……その剣士は、紅蓮の外套を着てましたよね?」

「ええ、それとギザギザした大剣を持ってたわ」

「そ、それじゃあ、間違いなく、【竜殺しの魔剣士(ドラゴンスレイヤー)】のワグナーですよ。世界で一番SSランクに近いSランク冒険者って言われてる有名人です。アレイアっていう娼婦の格好をした妖精族を従えていて、今までに何体もの【魔貴族(アール)】を屠ってきたと噂される化け物です」

「――へえ。魔貴族を、ね……確かに、相応の実力はあったけど……」

「しかもワグナーは、その実力もさることながら、神代の装備を幾つも保有していることでも有名です。中でも、紅蓮の外套は【暴食(ぼうじき)の鎧】と呼ばれる防具で、聖級以下の魔術を全て吸収するという究極の装備ですし、ワグナーの持ってる大剣もこれまた凄まじくて――【魔操の鍵】と呼ばれてる武器です。周囲に漂う魔力を意のままに操れる魔剣ですよ」


 ウェスタのその饒舌に、セレナは納得の表情を浮かべた。暴食の鎧――道理で、セレナの渾身の魔術が効かなかったわけである。

 確かに、トドメを刺したかどうか確認せず目線を切ったのはセレナの油断だったが、油断しようとしまいと、初めからセレナでは勝負にならなかったということになる。セレナには、魔術以外での攻撃手段がないのだから――。

 一方で、タニアはそれを聞いて、ふむふむと満足げな表情を浮かべた。


「にゃあ、そんにゃ装備を持ってるにゃら、そのワグナーって金持ちにゃ? 少にゃくとも、その装備は売ると高いかにゃ?」

「――う、売る!? 正気ですか!? それ、神代の装備ですよ!? 三英雄の装備と同じくらいに貴重なんで――グェッ!?」

「うるさいにゃ――売れるか、売れにゃいかで答えるにゃ」


 タニアの問題発言に、ウェスタは驚愕して怒鳴り散らした。それを瞬間的に、物理的な殴打でもって制して、タニアは強い口調で詰問する。

 ウェスタは血反吐を吐きながら、泣きそうな顔で答えた。


「……売れるし、売ったらきっと、テオゴニア金紙幣十数枚はするでしょうね……売るつもり、なんですか?」

「金紙幣十枚!? ――にゃるほど、そりゃあいいにゃ。殺して、奪う。決定にゃ」


 タニアは瞳をキラキラとさせながら、ニヤリとほくそ笑んだ。そして、満身創痍のセレナを見やる。セレナはタニアのその雰囲気から、何が言いたいのかを察して、ええ、と頷き返した。


「あたしも、アンタの決定に異論はないわ。当然、アイツらを逃がすつもりなんてないわよ。そりゃ、ワグナーはあたしの手に負えないけど、アレイア相手ならどうにかなる――いえ、どうにかするわ」


 セレナは力強くそう頷いてから、ウェスタに鋭い視線を向けた。


「……ねぇ、ちなみにさ。アレイアにも魔術が効かなかったんだけど、アイツも何か特殊なカラクリがあるのかしら?」


 セレナの質問に、ウェスタは、確か、と記憶を掘り返して、そういえば、と言葉を続けた。


「えーと……娼婦みたいなドレスを着てたと思うんですけど――それ、確か【娼姫の魔装(しょうきのまそう)】とか言ったかな? 魔力を蓄えて、瞬間的に防御魔術を展開する防具とかだと、聞いた覚えがあります。かなり貴重な装備らしいですが……よく知りません」

「……あたしの上級魔術を、瞬間的に防御したの、か……へぇ、それはそれは……」


 セレナは難しい表情で口元に手を当てて戦略を練る。次にアレイアと相対した時に、どう攻めるか、事前に考えておかないとまた遅れを取ってしまうだろう。

 そんな風に思考を巡らせているセレナを見てから、タニアがパンと両手で一つ拍手をする。ウェスタとセレナの注目が集まった。


「整理するにゃ――とりあえずセレナ、ここに転移してくる前に、ヤンフィ様は何か言ってたにゃか?」

「いいえ――あたしに『転移魔法陣を使え』ってだけ命じて、囮を買って出てくれたわ」

「にゃら、当面はここで待機しとくにゃ――ヤンフィ様が、ワグナーたちを倒したにゃら、あちしたちを追って転移してくるはずにゃ。にゃけど、転移してこにゃかったら、転移できにゃい状況ににゃったと仮定して、あちしたちはあちしたちで動くにゃ」


 タニアの言葉に、セレナは頷く。まったく異論などない。セレナ自身、少し休憩しないと、体力、魔力共に限界であるし、情報を整理する意味でも待機は有効だ。何より、転移魔法陣に問題がなければ、ワグナーを倒して、ヤンフィが転移してくるのは間違いない。

 するとその時、ウェスタが怪訝な表情で口を挟んできた。


「あの……その、ヤンフィ様? と、コウヤってのが、お仲間なんですか? けど、たった二人じゃ、ワグナー相手には生き残れないと思いますけど……待つだけ、無駄になりそうな気が……」


 ウェスタのその台詞に、セレナとタニアは視線を合わせて、溜息一つで無視をした。説明しても信じられないだろうと、説明することを放棄したのである。そもそも、ただのお荷物であるウェスタに、事情を事細かに教える必要を感じなかった。


「――で、しばらく待っても、コウヤが転移してこにゃかったら、あちしたちはまず上階……1階層の受付を目指すにゃ。その途中で、コウヤを見つければ合流。見つからにゃければ、受付で情報収集にゃ。ついでに、ワグナーは見つけ次第、ぶっ殺して装備を奪う。方針としてはそれで良いにゃ?」

「ええ、それが無難ね。ヤンフィ様なら魔力残滓が見えるから、この【聖王の試練】で迷うことなんてないはずだもの。ワグナーを追い払ったら、入り口に戻ってくると思うわ」


 決まりにゃ、とタニアはもう一度拍手をしてから、ふたたびゴロンと床に寝転がる。セレナも、ふぅ、と溜息を吐いてから、壁にもたれ掛かると片膝を立てて座り込む。


 それきり会話はなくなり、その場には沈黙が下りた。

 二人に無視されているウェスタは、非常に居た堪れない気持ちだったが、かといって一人で行動する気にもなれず、視線をキョロキョロとさせながら、胡坐を掻く。そして、親指に嵌っている指輪に魔力を篭めて、時空魔術を展開した。

 途端、中空に黒い穴が生まれて、ウェスタはその中に手を突っ込んだ。ごそごそと中を漁り、乾パンと水を取り出す。

 それは時空魔術による道具鞄である。指輪に時空魔術を付与して、異次元の空間を作り出し、そこに道具を収納する技術だった。冒険者の必需品とも言われているが、非常に高価な魔道具で、所持している冒険者は稀だ。ちなみに、タニアはそれを購入できなかった為、リュックで代用している。

 さて、タニアはその時空魔術を見て、ガラリと目の色を変えた。ギラリとウェスタを睨みつけながら、低い声で問い掛ける。


「…………おい、お前。それ、他に、にゃにが入ってるにゃ?」

「え――? あ、えと……椅子、とか、調理器具や、寝袋と、食材とかが……でもこれ、容量はそこまで大きくないから、食材は三日分、ですけど……」

「寝袋、寄越すにゃ。それと、食事を用意するにゃ」


 タニアは有無を言わせぬ迫力でウェスタに命じると、セレナはどうするにゃ、と寝そべったままでセレナに視線を向ける。セレナは首を横に振って、要らない、と答えた。


「あ、え? あ、は、はい。食事……って、言うと?」


 ウェスタは慌てて寝袋を取り出してそれをタニアに手渡すと、反論することなく食事の要望を尋ねる。


「にゃんでもいいにゃ――けど、美味くにゃかったら殺すにゃ」


 平然と断言するタニアのその無茶振りに、ウェスタは震え上がりながら、はい、と頷いた。否、ウェスタには頷く以外の選択肢はなかった。


 そうしてしばしタニアたちは、コウヤが無事に転移してくるのを期待しながら、血生臭い大部屋で待機する。


 だが結局、二時間待っても誰も転移しては来なかった。


 ――ちなみに、ウェスタの作った食事は、中々豪快な味付けで、しかし不味くはなかった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 歩き始めてから、そろそろ二時間は経つだろうか。

 一向に道は分岐せず、ひたすらの一方通行で、しかも上層への階段すら見つからなかった。

 今はヤンフィが身体を支配しているので、実際に歩いているのは煌夜ではない。しかしそれでも、ただただ真っ直ぐと道なりに進み、しかも景色が何一つ変わらないとなると、孤独に歩き続けるのはさすがに心が滅入ってくる。


(…………いい加減、これ、おかしくないか?)


 煌夜は何度目かになる疑問をヤンフィにぶつける。それに対して、ヤンフィは唸るように首を傾げつつ、けれど同じ台詞を答える。


「――魔力残滓を見るに、この通路は、間違いなく誰かが通っておる。じゃから、どこかに通じておるはずじゃ」

(それは、もう何度も聞いたよ。なぁ、これってさ。無限ループの通路とかじゃないのか?)

「ああ、無限回廊ではない。時空魔術で空間が歪んでおることもなければ、幻覚を見て誤魔化されているわけでもない」


 ヤンフィは断言して、そのまま歩みを続ける。周囲を見渡すが、やはり代わり映えしない通路である。

 ふと、この通路を見て、【聖魔神殿】の長い廊下を思い出した。あの時もひたすら同じような道をずっと歩いた覚えがある。

 この世界の迷宮とは、どこもこういういうものなのだろうか――退屈の極みだ。

 かといって、魔族が出て欲しいというわけではない。だが、何らかの変化が欲しいところだった。特に今回について言えば、ヤンフィと話す事柄もほとんどない為、会話がまったくないのも苦しいところである。


「――――途切れた」

(――え?)


 ふいに、ヤンフィがピタリと足を止める。同時に、意味不明で不穏当な台詞を呟いた。嫌な予感が煌夜の脳裏に過ぎる。


「――魔力残滓が、途切れた」


 ヤンフィは真剣な表情で左右の壁を一瞥すると、祈るように瞼を閉じて頭を垂れる。すると、煌夜の全身が緑色の光――魔力の光に包まれた。

 何だ何だ、と混乱する煌夜に、次の瞬間、強い強い風が吹きつける。同時にぐにゃりと、煌夜の周囲の空間が歪んだ。


「ふむ……なるほどのぅ。これはある意味、外れを引いたようじゃ」


 フッと、煌夜を包んでいた光が霧散して、ヤンフィが呟きと共に瞳を開ける。目の前には相変わらず暗く長い通路が伸びており、左右の壁はただの岩である。


「コウヤよ。ここの先が、最下層の最奥じゃ――つまり、上層に行く道は、逆側だったと云うことじゃのぅ。そして、もはや退き返せぬ。退路は断たれた」


 ヤンフィは苦笑しながら、背後の暗闇に振り向き、来た道を指差す。先ほどと何が違うのか、なぜ引き返せないのか、煌夜は疑問を浮かべる。


「今、妾が来た道は、時空魔術により無限回廊になった。もはや戻れぬ。どうやら、この位置まで来ると、退路が閉じる仕組みになっておったようじゃ。さて、となると進むしかないが――果たして、今の妾の魔力で何とかできるかどうか……」

(……どういう意味だよ?)

「これより先、最奥の部屋から強力な魔力波動が見える。十中八九――【魔貴族アール】がおる」


 ヤンフィはスッと真剣な表情になると、右手に黒いA4サイズの本――【無銘目録むめいもくろく】を召喚した。それをパラパラと捲り、とある頁で捲るのを止める。

 その頁には、緩く反り返った形状の刀の絵が描かれていた。刀は、刀身が真っ黒に塗られており、余白部分には何やら文字のようなものがびっしりと記入されている。しかし、煌夜には読めない。


「【七星剣しちせいけん】――妾が保有する武具の中でも、最高位に数えられる宝剣じゃ。じゃが、これはとびきり魔力消費が激しくてのぅ。コウヤにまた、激痛を覚悟してもらわねばならない。良いかのぅ?」

(…………嫌だって言ったら、どうにかなるのか? と言うかそもそも、俺に選択肢はあるのか?)


 煌夜の問いに、ヤンフィはしかし少しも茶化さず、珍しく真面目な表情で答える。


「どうにもならぬし、選択肢なぞもない。ただ、心の準備を与えておるだけじゃ――いつでも良ければ、今すぐに踏み込むつもりじゃが?」

(ああ、やっぱりな――いいよ。我慢する、さ……?! ぐぅ――)

「――しばし堪えよ、コウヤ」


 煌夜が諦め気味に頷いた瞬間、前触れなく全身が激痛に襲われる。

 ガンガン、と脳みそを直接叩かれてるような頭痛。両手足をバットで殴られるような鈍痛。視界はチカチカと明滅を始めて、酔ったみたいにグラグラと揺れ始める。生爪を剥がれたところに塩を塗られたような燃える痛みが身体中の皮膚を襲い、同時に、呼吸が出来ない苦しさが訪れる。

 そんな苦痛に煌夜が喘いでいる一方、ヤンフィは【無銘目録】の頁から、漆黒の刀を取り出した。それは頁に描かれていた通りに、緩く反った刀で、長さは三尺(約90センチ)ほど。切っ先は鋭く、刀身は細く脆そうだった。

 それを握って、ヤンフィは一歩を踏み出す。すると途端に、目の前の空間が歪んで、狭かった通路が広がった。同時に、暗かった視界に光が差して、まるで地上のような明るさを見せる。


 ――そこには、地平線まで続く草原と、天を突くような巨木、小さな湖が広がっていた。


 見渡す限り一面の緑、天井はなく青空に太陽が浮かんでいて、直径10メートルはあろう巨木が聳え立っている。その巨木を中心にして、円形の湖が広がっていた。

 草原を撫でる穏やかな風と、この世の春を思わせる優しい陽気、そして、巨木の天辺で翼をはためかせる白い竜が、現れたヤンフィを出迎えていた。


「……幻想種、しかも竜種の魔貴族か……よもや、ここまでの大物がおるとは思わなかったぞ」


 ヤンフィはその白い竜を認識して、漆黒の七星剣を逆手に構える。グッと腰を落として、全身に振り絞った魔力を巡らせる。想像していたよりも敵が強大すぎた。ツー、と冷や汗が頬を伝う。


 幻想種――この世を構成する六世界のうち、テオゴニアと呼ばれている人界ではなく、幻想界と呼ばれる異次元からやってきた生物の総称である。

 主な幻想種には、竜種、巨人種、鬼種などがおり、そのどれもが高い知性と凄まじい魔力を持っている化け物だった。

 特に竜種などは、あらゆる生物の中で最強に区分される生き物である。そんな幻想種の中でも、さらに魔貴族だ――その実力は、魔王属にも匹敵するだろう。


 さて、その白い竜は、全長が軽く20メートルを超えていた。六対計十二枚の翼をはためかせて、キリンのように長い首を巨木の枝に乗せている。

 全身を覆う滑らかな白磁の鱗は、日の光を反射させて煌いており、見せびらかすように垂れ下げた七本指の前肢には、鋭く凶悪な鉤爪が付いていた。

 白い竜はヤンフィを見て、その顔を緩やかに持ち上げる。

 燃えるように紅い双眸が、ヤンフィの姿をジッと見詰めてきた。

 ヤンフィはその視線に見詰められただけで、まるで身体を押されたように錯覚する。それほどまでに、威圧感が強烈だった。


「汝は、何者だ? 何の用でここまで来た? 聖王の試練を受けに来た猛者か? それとも、聖王との盟約を果たしにきた勇者か?」


 グォオオオ――ッ、と湖が波打つほどの衝撃波を伴った雄叫びを上げつつ、白い竜は【魔神語デモンラング】で、そんな言葉を口にする。そこにはまだ、敵意は含まれていなかった。

 しかしヤンフィは、その台詞に対して、ゴクリと唾を飲み込んだだけで答えなかった。


「――答えぬ、と云うことは、我の言葉を解せぬか? まあそれも当然か……ここに来る人の子が、我の言葉を解せたことなどないからな」


 白い竜が諦観の滲んだ声で、そう呟いた。

 ヤンフィはそれにも答えなかった。だがそれは、魔神語が理解できないから答えられないわけではない。【統一言語オールラング】を操るヤンフィにとっては何語であろうと関係ない。ヤンフィが答えないのは、単純に白い竜の意図が掴めないからだった。


「さて、人の子よ。我の言葉を解せぬのは理解した。であれば、これより聖王の試練を始めるとしようか――」

「――ま、待てっ! 妾に敵意はない。聖王の試練とやらにも、興味はない。もし叶うならば、ここから出して欲しいと願うが、どうか?」


 白い竜が高らかな咆哮を上げた瞬間、ヤンフィが慌てて話しかけた。

 白い竜はその声に一瞬だけ動きを止めて、しかし次の瞬間、その巨体からは想像も出来ないほどの速度で飛翔すると、凄まじい衝撃と共にヤンフィの眼前に下り立った。

 ズズゥ――ン、と地鳴りをさせながら着地して、白い竜はその顎を開けると間髪入れずに白色の光を放つ。

 それは、竜の息吹であり、極大なレーザー光線だった。

 純粋な魔力の奔流であり、威力は聖級を凌駕する。それが躊躇なく、ヤンフィ目掛けて放たれた。

 ヤンフィは咄嗟に回避行動を取った。だが、躱しきることは出来なかった。白い竜の息吹は、煌夜の肉体限界を遥かに超える速度で放たれていた。


「…………くぅっ!?」


 光の奔流は大地に巨大な穴を穿ち、草原の一部を焼け野原に変える。一方、全身全霊を持って飛び退いたヤンフィは、左半身を使い物にならなくされて、無様に草原を転がっていた。

 苦痛に顔を歪めつつ、ヤンフィは煌夜の左半身を見る。

 かろうじて四肢は繋がっているが、一見して千切れる寸前だった。

 ちなみに、その衝撃と激痛でもって、煌夜の意識はプッツリとなくなっている。耐えられる痛覚の限界を超えたので、気絶したようだ。

 ヤンフィは歯噛みした。煌夜が気絶している状態では、煌夜の肉体を十全に使うことが出来ない。

 ただでさえ、煌夜の肉体では目の前の白い竜には太刀打ちできないというのに――状況は想像以上に厳しくなっていた。


「――ふむ? 汝、魔王属ではなく、人の身か……であれば、どうやって【統一言語オールラング】を習得したのか? 答えよ」


 白い竜は、いつでも殺せる余裕を見せつつ、冷徹な声でヤンフィに問い掛ける。ぎょろりと、緋の瞳がヤンフィの動向を窺っている。不穏な動きをしようものなら、瞬時に反撃されるだろう。先ほどと違い、重く纏いつくような殺気がヤンフィに向いている。

 白い竜との間合いは目測で50メートル。しかし、この距離は、巨躯の白い竜にとっては至近距離に他ならない。前肢を伸ばせば、おそらく一歩で届く距離だ。

 ヤンフィはゆっくりと身体を起こして、見上げるほどの白い竜に、不敵な笑みを浮かべつつ答えた。


「妾は――【魔王属】ヤンフィ。じゃが、この身体は推察通り、人族の身体よ。ちと事情があってのぅ。人族の身体を間借りしておる」

「ヤンフィ――ヤン、フィ!? その名、覚えがあるぞ。確か、我が封印されるよりも昔にいた魔王属が一人だな。【西の王】、【剣神】、【魔剣蒐集家】、など魔王属の中でも数多の二つ名を持ち、大鷲おおわし少鷲しょうわし青鳥せいちょう開明獣かいめいじゅうを従えた最弱の魔王――」

「過去の話は止せ――で、どうじゃ? もう一度云うが、妾に敵意はない。聖王の試練とやらも、知ったことではない。見逃して欲しいのじゃが……?」


 ヤンフィは不安げに表情を揺らしながら、白い竜の反応を見守る。白い竜はヤンフィの名乗りに一瞬だけ驚きの表情を見せていたが、そのお願いに対しては神妙な顔付きになった。


「この異次元から、外に出して欲しいだけじゃ……お願いできぬか?」


 ヤンフィは今一度、白い竜に力強く頼み込む。すると白い竜は、畳んでいた六対の翼を孔雀のように大きく広げたかと思うと、両前肢の鉤爪に魔力を篭めつつ、上段に振り被った。それは一見して、威嚇の様相であり、とてもじゃないが平和的解決が望めそうな雰囲気ではない。

 ヤンフィは鈍い反応をする煌夜の身体を無理やり動かして、グッと腰を落とすと七星剣を握り締めた。


「我は四大竜が一体――【白竜ホワイトレイン】。いかなる魔王属にも与せず、古の盟約にのみ縛られしモノである。我の使命は二つ。一つは、ここに至れた猛者に聖王の試練を与えること。もう一つは、聖王の血族と共に、交わされた盟約を果たすこと。それ以外は、いかなるモノからの頼みも聞けぬ」


 グォオオゥ――――ッ、と白竜ホワイトレインは凄まじい咆哮を上げる。それは、ヤンフィにとっては絶望的な宣言であった。戦闘は不可避のようだ。


 白竜ホワイトレインが飛翔する。それだけで巻き起こった烈風は、上級の風属性魔術に等しい衝撃波を周囲にもたらした。草原の草は根こそぎ薙ぎ倒されて、風圧でヤンフィは吹き飛ばされそうになる。

 そんな強風を真正面から受け止めて、ヤンフィはギリギリと奥歯を噛み締めながら、煌夜の全身に注ぎ込めるだけの魔力を注ぐ。煌夜の身体が、緑色の魔力光に包まれた――瞬間、飛翔している白竜ホワイトレインから、空間を切り裂く魔力の斬撃が襲い掛かってくる。それは両前肢を振るうことで放たれた鉤爪による斬撃である。

 半径30メートル四方を格子状に切り裂くその面攻撃は、防ぐことは当然不可能であり、回避さえも困難な攻撃だ。


「――【千里眼】よ」


 ヤンフィは呟くと同時にカッと瞳を見開いた。途端、眼球からとめどなく血が流れ出す。すると、視界に映る景色が白黒に変わった。

 時が止まったように、周囲の時間の流れが緩やかになる。

 ――それは、ヤンフィの魔眼が本来持つ視界だった。千分の一秒が、一分にも感じるほどの動体視力と思考加速である。

 零コンマ一秒に満たない速度で迫る致死の鉤爪の軌道を、その【千里眼】によりヤンフィは読み切って躱す。唯一無二の隙間を縫うように、踏み込みつつ紙一重で躱しきった。ただし代償に、全身の筋肉繊維がブチブチと切れて、加速に耐え切れず骨のあちこちヒビが入ったが、命だけは無事である。

 それから一刹那遅れて、背後で鉤爪の斬撃が大地を抉った。凄まじい衝撃と音が発生して、土埃というよりも地面が爆発したように舞い上がり、土石が雨のように降り注ぐ。


「ほぅ――人の身とはいえ、腐っても魔王属か。体捌きは見事だ。だが、次はどうだ?」


 白竜ホワイトレインは、中空100メートルほどの位置でヤンフィを見下ろしながら、どこか試すような態度で次の一手を放つ。それは、六対の翼から放たれる光の雨だった。

 一手、鉤爪の攻撃だけで既に死に体のヤンフィに、まったく容赦のない攻撃である。ヤンフィはもはや笑えなかった。

 ヤンフィの全身を貫く光の雨――それは、文字通り光速の雨であり、ヤンフィの千里眼をもってしても避ける術がなかった。否、正確に言えば、千里眼で見切っても、煌夜の身体がついてこない。


「【無銘目録】――コウヤを頼む」


 しかし、ヤンフィは諦めない。もはや避ける術はなく、防御など不可能。だが、たった一つだけ、出来ることはあった。

 光の雨が全身を貫く――と、貫かれたはずの煌夜の身体が揺らめき、蜃気楼のように立ち消えた。そしてその場には、黒いA4サイズの本が一冊現れる。

 白竜ホワイトレインはその光景にギョッとして、慌てて魔力感知を行った。すると、自らの頭上に凶悪な魔力が現れている。


「終わり――じゃ」


 白竜ホワイトレインの頭上には、いつの間にか、本来の姿のヤンフィが七星剣を振り被っていた。

 狙いはその首、一刀の下に断ち切って、それで勝負を決するつもりだった。

 七星剣は最強の剣である。その剣に()()()()()()()()()()()

 形あるあらゆる物質を、例外なく切断出来る呪われた剣――それが七星剣だった。故に、白竜ホワイトレインがどれほど硬い防御力を誇っていようと、この剣の前には無意味である。


「――――ぬぅ?! グゥウっ……!?」


 果たして、白竜ホワイトレインは、間一髪で首をねじって斬撃を躱していた。ヤンフィの剣は、その長い首を断ち切れず、翼を一翼刎ね飛ばすだけに留まる。

 ヤンフィはその事実に、表情を凍らせる。そしてその一瞬の隙を突いて、白竜ホワイトレインの尻尾がヤンフィを薙ぎ払った。


「……ぐぅ、くそ……マズイ……」


 ヤンフィは隕石の如く地面に落下して、無様に地面を転がった。美しい着物が、あっと言う間に泥まみれになる。けれどそんな瑣末よりも、今の不意打ちで白竜ホワイトレインを殺せなかったことに、その表情を歪める。

 ヤンフィにはもう魔力がなかった。本来の姿を顕現して、煌夜の身体を無銘目録に収納して、七星剣を振るう、それをやりきるだけで、もはや蓄えた魔力は底を尽いていた。これ以上の戦闘は、ただの自殺行為でしかない――幾度も経験した絶望の中でも、飛び切り目覚めの悪い絶望である。


 ヤンフィは泥まみれの格好で立ち上がり、握っていた七星剣を霧散させる。もはや無手で、白竜ホワイトレインを見上げながら、ただ立ち尽くした。

 グォオオオオゥ――と、白竜ホワイトレインは空を仰ぎ見ながら、勝鬨みたいな咆哮を上げている。五対と一枚の翼をはためかせながら、その巨躯に魔力が充実していく。


「――――すまぬ、コウヤよ」


 そうしてヤンフィは静かに、優しい声でそう囁いた。


11/11 一部の誤字修正

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