第三十二話 迷宮クライシス/前編
巨大なドーム状をした石造りの建造物――【聖王の試練】の入り口があるそこに、煌夜は再びやってきた。とはいえ、つい数時間前にも来たばかりなので、あまり感慨深くはない。それにしても、相変わらずその周辺には、厳つい装備の戦士が拠点を築いてたむろっていた。
煌夜はチラとその厳つい連中に視線を向ける。するとセレナが、ああアレね、と戦士たちの集団の一つを指差した。
「――あそこは、地下迷宮で採れた物を換金できるところよ。鉱石を中々高額で引き取ってくれるわよ」
セレナの説明に、煌夜は彼らを凝視した。よくよく見ると、確かにそこでは、何やら物品と金銭の取引をしている様子が窺える。なるほど、換金所というわけだ。
煌夜は納得して、怪しい彼らから視線を切ると、とりあえず入り口に足を踏み入れた。本日二度目の到来である。その入り口をくぐった先には、先ほどと変わらぬ、圧倒されるほど巨大な穴が広がっている。
「にゃあ、セレナ。セレナは何階層で鉱脈を見つけたにゃ?」
受付のある部屋に向かいながら、タニアがセレナに尋ねる。
「……6階層くらいだったと思うわ。時間に余裕がないから、そんな深く潜らなかったもの。表層を適当に探索してたら、隠された部屋を見つけて、そこに鉱脈があったのよ」
セレナは、偶然よ、と続ける。すると、目の前からホクホク顔の冒険者の一団が姿を現した。彼らは今ちょうど地下迷宮から戻って来た様子だった。
「いやぁ、ついてたぜ。こんだけ採取できれば、当分は遊んで暮らせるな。とりあえず今日は、うまいもん食って、良い女抱いて、騒ぎまくろうぜ!」
ガハハ、と下卑た笑いを撒き散らしながら、その一団は、煌夜たちを通り過ぎて聖王の試練を出て行った。それを見送ってから、タニアが口を開く。
「にゃあ、セレナ。ところで、お前が見つけた鉱脈は、まだまだ採掘出てきそうだったにゃか?」
「ええ――けど、持ち運びするのも限度があったし、時間もなかったから、目印だけしてきたわ」
「目印……にゃるほどにゃ」
セレナの返事に、タニアは渋い顔をして、心なしか急ぎ足になる。
「――ねぇ、タニア。帰還の門は買わなくて良いの?」
白い部屋の受付を通り過ぎて、迷わずに奥の階段を降りようとしたタニアを、セレナが呼び止めた。タニアは、にゃん、としばし悩んでから、いくらにゃ、と問い返す。
「一つ、テオゴニア銀紙幣二枚……って、手持ちがないわね……」
「そんにゃ余裕はにゃいにゃ。そんにゃのにゃくても、あちしたちにゃら、にゃんの心配もにゃいにゃ」
セレナは値段を口にしてから、ああ無理だ、と自己完結する。それに追従してタニアは頷き、先陣切って階段を降りて行く。煌夜はセレナに促されるまま、その後に続いた。
階段は短く、二階分ほど降りるとすぐに途切れた。そして目の前には、嫌な空気に満ちた仄暗い通路が現れる。そこは一見すると、鍾乳洞のような洞窟然としていた。
どこかから、血の匂いと、腐臭を伴う生暖かい空気が漂ってくる。煌夜は顔を顰めた。
「もうとっくに採掘され尽くされてると思うにゃが、とりあえず、セレナが見つけた鉱脈に向かおうと思うにゃ。どうかにゃ?」
薄暗い通路に一歩踏み出してから、タニアは後ろを振り返って煌夜に問う。煌夜に異論などあろうはずはない。ああ、と力強く賛同した。
「にゃら、セレナ。お前が先導するにゃ――道順、覚えてるにゃ?」
「馬鹿にしないでよ? さすがに、あそこまでなら単純だから覚えてるわ。ついさっきのことだし――こっちよ」
セレナは、当然でしょ、と薄い胸を反らして、優雅な足取りで先頭を進んでいく。そこに迷いはなく、また慎重さもない。タニアはそんなセレナと10メートルほど距離を空けてから、煌夜の背後に回りこむ。
「あちしが殿をやるにゃ。コウヤは、あちしとセレナの間を歩くにゃ。一応、ここの魔族は雑魚にゃけど、いきにゃり現れるから、気を付けるにゃ」
タニアはそう言って、煌夜の背中を叩いた。それを聞いて、煌夜は少し不安になる。恐る恐ると、心の中でヤンフィに問い掛けた。
(……ヤンフィ。ここって、結構危険だったりするのか?)
(知らぬ――妾が生きておった時代に、このような迷宮は存在せんかった。いや、少なくとも、妾は知らん。じゃが……魔力残滓を見るに、タニアの云う通り、ここに居る魔族は雑魚じゃな)
ヤンフィはどうでもよさげに答えた。だが、タニアやヤンフィが言う雑魚は、煌夜にとっては、最低でも野生のライオンと同じくらいか、それ以上に危険な存在に違いない。いきなり現れると言うのならば、もっと詳しく特徴を教えて欲しい。
煌夜はヤンフィではなく、内部事情に詳しそうなタニアに問い掛ける。
「なぁ、タニア。いきなり現れる魔族って、どんなのなんだよ? ……例えば、【オーガゴブリン】とかか?」
「にゃにゃにゃ? オーガゴブリンって、そんにゃ大物、ここにはいにゃいにゃ」
直近で退治した経験のある魔族の名前を引き合いに出すと、タニアは大仰に驚いて全力で否定する。すると、さりげなくそれを聞いていたセレナが、苦笑しながら振り返った。
「コウヤ。そんな心配する必要はないわよ。気楽に行きましょ――この地下迷宮に現れる魔族なんて、所詮、Cランクの【リキッドバッド】と、Bランクの【骸骨兵】くらいだから」
「セレナ、一応、それだけじゃにゃいにゃ。油断するにゃよ? 時折、大部屋に【オーク】が現れるとも聞くにゃ」
「へぇ、そうなの? でも、ただの【オーク】でしょ?」
「――まあ、にゃ」
セレナとタニアは、煌夜を挟んでそんなやり取りをするが、CランクとかBランクとか言われても、それがどれくらい危険かなど判断できない。ましてや、魔族の名称を言われても同様である。【リキッドバッド】とか【骸骨兵】とか【オーク】とか、名称からなんとなく姿を想像できても、それがどれくらい危険な存在か理解できない。ただはっきりしていることは、セレナやタニア、ヤンフィが揃って雑魚と断言できる程度の敵だと言う事だけだ。
(……まぁ、この面子からすると、大半の化け物が雑魚なんだろうけど……)
はぁ、と煌夜は聞くだけ無駄だったと、諦めの溜息を漏らす。そんな煌夜に、とりあえずタニアが笑顔で、大丈夫にゃ、と肩を組んできた。
「とりあえず、コウヤに危険はほとんどにゃいにゃ。にゃいけど、念のために、あちしたちの間を歩くにゃ。そうすれば、にゃにが起きても、対処できるにゃ」
「…………ああ、分かった。まぁ、俺は慎重に歩くさ。というか、何か起きたら、ヤンフィに助けてもらうから」
頼むぜ、と心の中でヤンフィにお願いする。すると、ヤンフィがカラカラと笑いながら言った。
(万が一、何かが起きれば、のぅ――じゃが、よほどの悪運でない限り、この迷宮でコウヤが危険に晒されることはないじゃろぅ。とはいえ、確かに心配になる気持ちも分かる。コウヤにとっては、最弱の【リキッドバッド】でさえ脅威じゃからのぅ。まぁ、安心せよ。何があろうとも、妾が汝を護ってやるわ)
ヤンフィの力強い言葉に、とりあえず煌夜は安心して、肩を組んでいるタニアを優しく引き剥がす。少しだけ名残惜しそうな顔をして、けれどタニアは何も言わずに離れた。
それからセレナを先頭に、10数メートル離れた後方を煌夜、そのすぐ後ろにタニアと言う陣形で、薄暗い通路を歩く。通路はグネグネと曲がりくねっており、三叉路や十字路、五叉路が次々と現れては、セレナはそこを迷わずに進んでいった。時折、通路の左右に、薄汚れた木の扉や鉄扉が現れたが、その部屋にはまったく触れずに進んだ。ほどなくして、下層へと続く階段も現れる。そこを降りていく。
迷宮と言われるだけあり、この地下迷宮はかなり複雑に通路が分岐していた。地図がないと絶対に道に迷うだろうそんな通路を、しかしセレナは勝手知ったる庭とでもばかりに、何ら迷うことなく突き進んで行く。ちなみに、それに付いていく煌夜は、既に帰り道を見失っている。もはや自力では地上に戻れない状況である。
とはいえ、煌夜一人になることなどないので、不安はあまりなかった。二人と逸れさえしなければ、何も問題はない。しばらくは何も起きずに、煌夜たちは順調に階層を降りていく。
そうして、地下迷宮に潜り始めて三十分ほど経ったとき、通路の奥から激しい金属音と、気持ち悪い叫び声が響いてきた。叫び声は明らかに人間の声ではない。
煌夜は恐怖から、無意識に足取りが重くなった。すると、セレナが面倒臭そうに呟いた。
「あの声――【骸骨兵】ね。誰かが戦ってるみたいだけど、苦戦してるわね」
はぁ、と肩を落として、セレナは立ち止まり、煌夜たちに振り返る。通路は一本道だが、音が響いている方向は直角に曲がっており、先が見通せなかった。煌夜はセレナのすぐ傍まで近付いてから、恐る恐ると問い掛ける。
「……なぁ、どうかしたのか? 何が起きてるんだ?」
「この奥で、魔族と戦ってる冒険者が居るみたい。かなり苦戦気味ね……どうする? 助ける?」
セレナは煌夜に向かって首を傾げた。けれど、答えなど分かりきっている。煌夜は慌てて頷いた。
「いやいや、助けるに決まってる……苦戦、してるんだろ?」
「はいはい、そうね。そう言うわよね――じゃあ、タニア。ちょっとだけコウヤと待ってて。サッと一掃してくるから」
煌夜の即答に、セレナは仕方ないと溜息を漏らしてから、躊躇なく奥に歩いていった。どうして一人で行くのか、と煌夜が疑問に思っていると、タニアがすかさず説明してくれる。
「――奥に居るのは、【骸骨兵】と呼ばれる魔族にゃ。骸骨兵はBランクの魔族で、コウヤの知ってるとこで説明すると【聖魔神殿】にいる【グレンデル】と同格の魔族にゃ。まぁ、雑魚に違いにゃいけど、戦い難い相手にゃ。と言うのも、骸骨兵は捨て身ににゃると、身体中の骨を飛ばして、全方位からの同時攻撃をする特性があるにゃ。技の威力はそれほどでもにゃいけど、その骨には非常に強力にゃ猛毒が含まれてるにゃ。にゃので、掠り傷でも致命傷ににゃる。それを考えると、万が一にでもコウヤに攻撃が当たらにゃいよう、セレナは一人で退治しに行ったにゃ」
タニアはそう言って、セレナが消えた通路の奥に視線を向ける。先ほどまで苛烈に響いていた金属音が、いつの間にか止んでいた。もう倒し終わったのだろうか――と、煌夜が首を捻った時、奥からセレナの声が響いてきた。
「コウヤ、タニア――――もう、大丈夫よ」
セレナのその呼び掛けを聞いて、タニアは煌夜の背中を押した。煌夜は、ああ、と促されるままセレナの後を追う。
通路を少し進むと、長い直線の通路に出た。そこには、無傷のセレナと、俯いた姿勢で座り込んでいる若い冒険者、胴体を両断されている女性の死体と、苦悶の表情を浮かべている男性の死体、さらに大量の骸骨と、白銀の剣が三本転がっていた。
セレナは現れた煌夜に悲しそうな顔を見せてから、その視線を座り込んでいる冒険者に向ける。若い彼は、見た目からすると煌夜と同い年か、少しだけ年上のような印象だった。
「……彼、気絶してるけど、傷はもう癒したから、命に別状はないわよ。けど、彼以外は既に手遅れだったわ」
セレナは無感情にそう告げる。煌夜はむわっと漂う異臭と、その悲惨な光景を前に、顔をしかめる。
「骸骨兵、三体もいたにゃか?」
周囲を一瞥したタニアが、あっけらかんとした口調で首をかしげる。その問いに、セレナは少し考え込む。
「……多分ね。けど、あたしが来た時には、もう一体しかいなかったわ。彼はその一体と切り結んでいて、今にも死にそうだったし」
「にゃるほどにゃ。まぁ、どうでもいいにゃけど。にゃ、そんにゃことより、サッサと進むにゃ。そろそろ着くにゃ?」
「ええ――目的地は、すぐそこよ」
タニアは質問しておいて、その実、全く興味なさげに先を急かした。セレナもそれに頷き、もはや助けた冒険者のことなど知らん顔で、通路を進み始める。そんなドライ過ぎる二人に、慌てて煌夜は声を上げる。
「――ちょ、ちょっと待てよ。この気絶してる奴、どうするんだよ? このまま放置じゃ、危ないんじゃ?」
「にゃにゃ? 運が良ければ、魔族に遭遇する前に目覚めるにゃ。ほっとけばいいにゃ」
「そうよ、コウヤ――だいたい、覚悟して、この迷宮に挑んでるんだから、そこまであたしたちが気にする必要ないでしょ」
煌夜の台詞に、二人は当然とばかりに放置することを提案してきた。流石にそれは、と煌夜は食い下がろうとするが、呆れた声でヤンフィがそれを叱責する。
(コウヤよ、いい加減にせよ。己の実力を過信した馬鹿のその後のことまで、妾たちが考える必要はないじゃろう。行き掛かり上、助けて、傷まで癒してやったんじゃ。それで充分じゃろぅ)
ヤンフィの言葉に、煌夜は、ウッと二の句が継げなくなった。それは正論だった。だが、だからと言って、じゃあ見捨てよう、と割り切れる煌夜ではない。
煌夜は悔しそうに口を噤んでから、気絶している彼を無言で背負った。
「にゃにゃ!? にゃにしてるにゃ、コウヤ!?」
そんな煌夜を見て、タニアは驚愕する。ん、と振り返ったセレナも、若い冒険者を背負った煌夜に、物凄く不審な顔を向ける。
「何って、せめて気がつくまで面倒見るべきだろ? そうじゃなきゃ、助けた意味がない」
「はぁ……さすが、コウヤね。お人好し過ぎよ」
「にゃにゃにゃにゃ……にゃら、いっそここで殺しとくかにゃ。邪魔にゃ荷物にゃ」
「――いやいや、おい、タニア止めろよ!? どうして殺すなんて、発想になるんだよ!」
セレナは呆れてそれ以上何も言わず、また何事もなかったように先に進む。一方でタニアは、意味のわからない理論をのたまうと、背負っている冒険者の首を掴んで、躊躇なく絞め殺そうとした。煌夜は慌ててタニアを振り払い、距離を取る。
「にゃんでって、むしろにゃんで生かすにゃ? コイツは、そもそもあちしたちが、こにゃかったら死んでたにゃ。つまり、今死んでもにゃんら問題はにゃいにゃ。にゃので、殺すにゃ」
「いやいや――いや、え? ごめん。その理論、意味がわからない」
胸を張って断言するタニアに、しかし煌夜の思考は追いつかない。すると、混乱する煌夜にヤンフィが味方してくれる。
(セレナの言う通りじゃ、お人好し過ぎるわ……じゃが、それがコウヤらしくもある。良いじゃろぅ――連れて行くぞ。タニアは妾が黙らせる。しばし喋らせてもらうぞ?)
ヤンフィはそう前置いてから、煌夜の口を開いた。
「――タニアよ。リーダーであるコウヤが助けると決めたのじゃ、荷物だろうが、足手まといだろうが、協力できぬと云うなら妾が許さぬぞ? そも、コウヤは汝の納得など求めておらぬ。不服であろうと、口出しは無用じゃ」
ヤンフィがぴしゃりとそう告げると、タニアはビクっと身体を震わせる。にゃにゃ、と声を震わせながら、あわあわと面白いように百面相を見せた。
「汝はただ、コウヤを護ることだけ考えよ。コウヤは足手まといを背負っておるのじゃ。それを考慮のうえで殿を務めよ。無理とは云わせぬぞ」
「…………にゃにゃにゃ、にゃ。分かりましたにゃ、ボス」
ヤンフィは最後に鋭くタニアを流し見て、きっぱりとそう釘を刺した。その冷淡な口調と、有無を言わせぬ迫力に、タニアは情けない顔で押し黙って、申し訳なさそうに頭を下げる。ちなみに、それを遠巻きに聞いていたセレナは、クスリと失笑していた。
そうして、ヤンフィは用が済んだとばかりに、煌夜の中に引っ込んだ。さすがにもう、タニアは煌夜が背負った冒険者を殺そうとはしなくなる。
煌夜は背負った冒険者の重みを噛み締めながら、先行するセレナに遅れないよう、少し駆け足になって歩き出した。
「――あ、ここよ。この大部屋よ」
ほどなく、一本道の通路を進むと、セレナが何もないところでピタリと立ち止まる。ここ、と言いながら左手側の壁を叩いているが、しかしそこは一見してただ岩壁だった。
「この印、あたしが付けたもので間違いないわ――あ、コウヤたちは、そこで止まって。ちょっと待っててよ。中に魔族が発生してるかも知れないから、様子を見てくるわ」
セレナは壁の隅に刻まれた天秤みたいな記号を指差しながら、うんうん、と頷くと、遅れて後を付いてきている煌夜たちを手で制した。言われるがまま少しだけ距離を取った位置で立ち止まり、煌夜は、はて、と首を傾げる。タニアはすかさず後方を確認して、安全を確保していた。
煌夜たちが立ち止まったのを見てから、セレナは壁に向かい合い、パチン、と指を鳴らす。すると、壁一面が緑色の光に包まれて、次の瞬間、土気色をした銅の扉が現れた。人一人分の大きさの扉は、取っ手のない引き戸になっている。
(――ふむふむ。擬態系の罠じゃのぅ。迷宮には、よくある基本的な罠じゃ。一定時間が経過するか、誰かが中に入ると、周囲と同化する魔術式が展開されておる。これの解除方法は至って簡単。強い魔力を浴びせれば、すぐさま解ける……とはいえ、発見するのが困難な罠でもあるがのぅ)
ヤンフィのそんな解説を聞き流していると、セレナは躊躇なく扉を開けて中に入って行った。すると、扉は先ほど同様、またすぐに岩壁へとその姿を変えた。煌夜はその光景をマジマジ見詰める。ゲームの中に居るような感覚である。
しばらくそこで待っていると、再び扉が現れて、中からセレナが出てくる。しかし、その顔は見るからに消沈しており、悔しさが滲み出していた。その表情を見て、タニアが、やっぱりにゃ、と呟く。
「――案の定、もう採られてたにゃ?」
「…………チッ。ええ、そうよ。鉱石の類は欠片もなくて、逆にリキッドバッドが群れで巣食ってたわ。全滅させたけど……」
「セレナ、お前――目印にゃんて残したら、他の連中に奪われるに決まってるにゃぁ。こういう時は、違う場所に印を残しておいて、ズバリこの位置は探せにゃいようにしにゃいと駄目にゃ。鉄則にゃよ?」
タニアが呆れたように諭すと、セレナはいっそう肩を落とした。煌夜の脳裏には、入り口ですれ違った冒険者の一団が浮かんでいた。もしかして、彼らがここを採取していったのだろうか――いや、だとしても、今更後の祭りである。
「はぁ……まぁ、いいにゃ。分かってたことにゃ。じゃあ、気を取り直して、奥に進むにゃ」
沈んだセレナに、しかしタニアは特に気にした風もなく、さあ行くにゃ、と号令を掛けた。煌夜も特に何かを期待していたわけではないので、別段徒労とも思わず、ああ、と頷く。そんな二人に、セレナは少しだけ申し訳なさそうな顔をすると、小さく頭を下げた。
「ええ、分かったわ。じゃあ、進むけど……ここから先は、地図か何かで、道順を記しておかないと迷うわよ? あたし、ここから先に進むのなら、帰り道を覚えておく自信ないから」
「――自信にゃいことを、自信満々に言うにゃ」
セレナは煌夜たちに振り返ったまま、当然のような顔をしてその薄い胸を張った。態度は自信に溢れているが、確かにタニアの言う通り、そんな情けないことに自信を持って欲しくはない。ふぅ、と溜息を漏らすタニアを見て、煌夜は質問する。
「……なぁ、タニア。えっと、どういうこと? ここまでの道順、何かしら目印があって進んできたんじゃないのか? こっから先も、同じように目印を付けていけばいいんじゃないのか?」
「目印にゃんて、どこにもにゃかったにゃ。ここまでの道順、セレナは、ただ単に暗記してただけっぽいにゃ……」
「ええ。暗記よ。ここまでは寄り道していないから、覚えられたもの。けど、これ以上先を行くつもりなら、複雑な道は覚えられない――と言うかあたし、迷う自信があるわよ?」
「……あちしは、ここまでの道順も覚えてにゃいにゃ。にゃので、戻るにゃらセレナ頼みにゃ」
あっけらかんと言う二人に、煌夜は驚愕である。迷宮に潜るのに、マッピングなしで進んでいたのである。むしろ、ここまで迷わず来ることが出来たのは、奇跡ではなかろうか。
そんな煌夜の驚愕に賛同するように、ヤンフィが疲れたような声を出した。
(…………コウヤよ。最悪、迷っても妾ならば、魔力残滓を辿って、来た道を戻ることが出来る。じゃが、万が一、転移陣か何かで、妾たちが分断した場合に備えて、ここからでも地図を描くことを勧めるぞ――いや、コウヤの背負っておる荷物もあることじゃし、一旦戻って、地図を手に入れてからの方が良いやも知れぬのぅ……)
(おお、さすが万能ヤンフィ様! あ、それじゃあ、戻るべきだな。オッケ、ありがとうヤンフィ)
(妾に感謝するより、此奴らを叱っておけ。あまりにも準備不足過ぎるじゃろぅ――まぁ、己の力量を過信したわけでもなければ、不遜と云うことでもないがのぅ。此奴らならば、迷ってもなんら問題はない)
ヤンフィのその台詞に、煌夜は至極納得する。確かに、セレナとタニアだけならば、おそらく道に迷ったところで何とかしてしまうに違いない。けれど、生憎と煌夜はそうではない。それを考慮していないのは、油断であろう。だが、その油断を注意するのは、あまりにも自分本位過ぎる。そもそも足手まといの煌夜が悪いのだから――なので、二人を叱ったりはしない。
煌夜は、ふぅ、とゆっくり深呼吸してから、どうするか、と指示待ちで煌夜を注視している二人に口を開く。
「――二人とも、一旦戻ろう。んで、地図を用意してから、改めて挑もうぜ。とりあえず、セレナが見つけた鉱脈は、もう何もないってことが分かったんだ。それで充分な収穫だろ。ちょうど、俺もこの冒険者を置いてきたいし」
煌夜は言って、来た道を戻ろうと振り返る。そんな煌夜に、セレナは、仕方ないか、と頷いて、タニアは少しだけ残念そうな顔を浮かべる。しかし、文句は出ない。
「ええ、そうね。それに戻る途中で、新しい鉱脈が見つからないとも限らないし――帰りは、寄り道しながら行くわよ?」
セレナは煌夜に首を傾げながら、隊列を入れ替わる。タニアも応じて阿吽の呼吸で、立ち位置を交換した。煌夜の立ち位置は、変わらず真ん中だった。煌夜は心配そうな表情で頷く。
「あ、ああ、それはいいけど……迷わないでくれよ? 大丈夫か?」
「…………多少の寄り道にゃら、あちしが覚えるにゃ。にゃので、安心するにゃ」
煌夜の心配に、タニアが答える。その台詞に、心外だ、とばかりにセレナが眉根を寄せているが、特に反論はなかった。
「――じゃあ、とりあえず上層に戻るわ。その途中で、何箇所か分岐があったから、曲がってみるわよ?」
セレナはそんな方針を掲げながら、来た道を戻っていく。それに続いて、煌夜とタニアも歩き出す。するとその時、曲がりくねっている一本道の先から、待ち構えていたかのように、スッと何者かが現れた。
ん、と疑問符を浮かべてセレナが立ち止まる。にゃにゃ、とタニアが警戒して、煌夜を庇うように前に出る。煌夜は現れた人影を認識して、驚きの表情を浮かべた。
果たして、現れたのは冒険者ではなかった。
妖艶なドレスを身に纏い、太腿を剥き出しにした緑髪の美女――クダラークの宿屋で見た娼婦の女性だった。
彼女は宿屋の時と違い、束ねていた髪を下ろしており、その手にセレナの持つ杖と同じような木の杖を握っている。
「――にゃぁ、セレナ。あの妖精族、知り合いにゃのか?」
「いいえ、知らないわ。見覚えないから、そもそもオーガ山岳の森出身じゃないと思うけど?」
「にゃら、にゃんであんにゃ殺気を向けてくるにゃ?」
「知らないわよ――大方、アンタに恨みでもあるんじゃないの?」
「にゃにゃにゃ……? そんにゃはずは、にゃいにゃ……あんにゃ名前、あちしの記憶には、にゃい……にゃぁ?」
「自信ないのね。やっぱり、アンタが原因じゃないの?」
セレナとタニアのそんなやり取りを聞いて、煌夜は、宿屋の時も思った疑問を口にする。
「なぁ、なぁ。あの美女って、セレナと同じ妖精族なのか?」
「んにゃ? ああ、そうにゃよ? 髪が緑色にゃのは、この世界じゃ妖精族だけにゃ――――ああ、もしかして、頬の魔術紋様がにゃいから、混乱してるのかにゃ? アレは、妖精族の処女特有の印にゃ。にゃので、浮かんでにゃいのは、あの女が処女じゃにゃいからにゃ」
「処、あ、え――あ、ああ。そう、ですか……」
明け透けに語るタニアに、煌夜は思わずセレナの横顔を見てから、恥ずかしくなって顔を逸らした。目聡くもそれを見ていたセレナが、はぁ、と呆れたように息を吐いていた。そういえば、誰かにサラリと、そんなことを教えてもらった気がする。
その時はいまいちピンとこなかったが、なるほど、非常に分かり易い目印だろう。
ところでその妖精族の美女だが、彼女は、匂い立つような殺気を煌夜たちに向けながら、行く手を阻むようにして立っていた。杖を片手で構えて、鋭い視線で煌夜たちを睨んでいた。
しかし、どうして睨まれているのか、煌夜は勿論、セレナにもタニアにも心当たりはなさそうだった。
「ねぇ、アンタ……あたしたちに何か用? あたしたちは、アンタに何の用もないわよ?」
しばし見合っていたが、一向に事態が動かないので、セレナが無抵抗をアピールしながら一歩踏み出す。美女はまんじりともせずに、ただその青い双眸をさらに細めて睨みつけてくる。
意思表示しない美女に、セレナは大きく溜息を吐いてから、その双眸をスッと細めた。途端に、戦闘の空気が辺りに満ちた。
傍らのタニアは、にゃんだやるのかにゃ、と嬉しそうに呟いて、ニヤリと楽しげに笑い顔を見せている。ひりつくような緊張が漂い始めた。
「――ねぇ、答えなさいよ。アンタ、何の用があるの? そんな殺気を向けてくるってことは、殺されて――」
「わたしの名前は、アレイア。【キリア大樹海】の生まれよ」
「――ても、文句は……あ、う、え? あ……そ、そう。あたしは、セレナ、です」
最後通告とばかりに、セレナが強い語気で警告した瞬間、冷淡な口調で美女――アレイアが、自身の名前を告げる。
その途端に、セレナは突如戦意を喪失して、慌てた様子で丁寧に名乗りを上げた。タニアが不審がる。
「……にゃんにゃんだ、セレナ? 結局、知り合いかにゃ?」
「いえ、知らないけど……十七年前の【キリアの天災】を生き延びた先達には、敬意を払えって、教わってるから……」
「下らにゃいにゃ――生き延びたって言ったって、その時、その場にいにゃかっただけにゃ? つまり、逃げただけにゃ?」
「ちょ、アンタ、何を――そんな態度だから、殺意を向けられるのよ!? あ、すみません。この獣族、礼儀なくて……」
名乗りあっただけだが、セレナはもはや戦う気はないようだった。畏まった様子で、タニアの非礼をアレイアに詫びている。そんなセレナに対して、しかしアレイアの態度は硬いままだった。いや、いっそう緊張が高まっているように思える。心なしか、ぶつけられる殺気が重く強くなった。
(――――彼奴、何か企んでおるぞ。コウヤよ、警戒せい)
そんな不穏当な空気を感じ取ったか、ヤンフィが鋭い声で警告を発した。
確かに、アレイアの醸し出している緊張感は、遠くからでも高まっているのが感じ取れるほどであり、何かの合図でも待っているかのような空気だった。まさに一触即発のようなきな臭さを漂わせている。
当然ながら、タニアもその空気には気付いたようで、セレナとおどけた様子で会話しながらも、煌夜の傍から離れずその警戒心は解いていなかった。
「あ、その……アレイア、さん? えと、あたしたちに、何かあるんですか? あたしたち、これから地上に戻ろうと思ってるんですけど?」
空気が険悪になったのを感じて、セレナが恐る恐ると問い掛ける。このままでは、タニアが暴走してしまうのではないか、と少しだけ心配になったが故の気遣いだ。だがそれは結果、まったくの的外れだった。
「――セレナ。貴女のパーティは、リーダーがその人間で間違いないかしら?」
アレイアはセレナの問いには答えず、魔力が篭った木の杖を煌夜に向けた。それは戦闘の開始を知らせる合図にも等しい行為だ。敵意を向けた上で、武器の矛先までも煌夜に向けてきたのである。これはつまり、もはや交渉の余地なく敵対することを意味していた。
タニアは、木の杖が向けられた刹那、目にも留まらぬ速さで、身を挺して煌夜を庇った。
セレナも当然のように、木の杖と煌夜の射線上に身体をズラして、盾になるよう立ち位置を変える。ちなみに、まるでSPに護られているかの如く庇われた煌夜は、思わず小さな感動を味わっていた。
「それが、何か? さっきから何ですか? あたし、先達には敬意を払うよう教えられていますが、だからといって、殺してはいけない、とは教わっていません――あたし、まだ若いですけど、【世界樹の守り手】キリア様に、直々の依頼をされるくらいには、実力がありますよ? 邪魔するつもりなら、容赦しませんが?」
セレナは嫌悪感をあらわに、先ほどまでの口調とは一転して、凄まじい冷気を篭めた言葉を浴びせる。アレイアは一瞬、キリアの名前にビクッと身体を震わせたが、すぐにまた表情を消して、より強い視線で睨み返してくる。
「――邪魔、をするつもりは……ないわ。わたしの要求、と言うか、わたしたちのお願いは一つよ、セレナ。貴女、わたしの御主人様に……その、抱かれて貰えないかしら?」
アレイアはどう言おうか迷いながら、たどたどしい口調でそんなことをのたまった。だが、その言葉の意味を理解するより先に、突如、タニアの足元が緑色の光を放つ。それは瞬時に魔法陣の形に展開して、タニアを包み込もうとした。
――無詠唱により展開された結界魔術である。
術者はアレイアで、意図はタニアの拘束であった。
しかしその展開された魔術に対して、タニアは決して焦らず、平然としたまま凄まじい速度で横に飛び退く。と同時に、庇っていた煌夜を優しく後ろに突き飛ばした。
万が一にも、煌夜に飛び火しないよう配慮したのである。煌夜はよろけて、二、三歩とたたらを踏んで下がった。
魔法陣は一秒の半分に満たない速度で展開されて、タニアが直前まで立っていた位置に、公衆電話のボックスみたいな箱を形成して固まった。けれど中身は空っぽ――不発である。
タニアは、不発に終わったその電話ボックス状の箱を見て、馬鹿にした風に嘲笑した。
「――中級の無属性結界【魔牢】を展開するのは、中々凄いことにゃ。にゃけど、この程度じゃ、あちしたちを相手取るには、実力が不足してるにゃあ……あんにゃ遅い魔術展開じゃ、あちしはおろか、セレナにも通じにゃいにゃ」
タニアは言いつつ、スッと右手を振りかぶって、次の瞬間、見事な右ストレートを箱にお見舞いする。パリン、と硝子が割れる音が鳴って、緑の箱は一撃で砕け散った。
それを横目に、セレナが顔をしかめてアレイアを問い詰める。
「……ねぇ、アンタの要求とか、お願い? って、何の話? そもそも『御主人様』って何者よ? それに、あたしを、その……抱く? 言ってる意味が分からないんだけど?」
「――――意味なんて、抱かれれば分かるわ。ところで、貴女、その不甲斐なさそうな人間のこと、好きなの?」
「好――は? な、何を――え? い、意味が、分からないわよ。今、そんな話、してないでしょ!?」
アレイアの台詞に、セレナは言葉に詰まってから、直後、慌てた様子で怒鳴った。タニアは、おい油断するにゃ、とパニくるセレナを諌める。
「……す、好き、とか、嫌いとか、そんなのアンタに関係ないでしょ? 話を誤魔化そうとしてる? アンタ、何がしたいの? だいたいさ、この状況で戦力差が分からないの? これ以上、やるつもりなら、本当に死ぬわよ?」
セレナは深呼吸してから、今度こそ最後通告だとばかりの気迫を込めて、アレイアに殺意をぶつける。アレイアは、その妖艶な美貌にありありと恐怖を浮かべて、けれど、ゴクリと唾を飲み込んでから口を開いた。
「確かに――わたしじゃ、逆立ちしたって貴女たちには敵わないわ。そんなのは、最初から分かってるわ」
アレイアは一旦そこで言葉を切ると、チラリと自分の背後に視線を向けた。仲間が居るのか、とセレナとタニアはいっそうアレイアとその周囲に意識を集中する。アレイアの背後は、ちょうど曲がりくねっており、見通しが利かない。
「ちなみに、この中で一番危険なのは――獣族の貴女ね。貴女をどうにかしないと、そもそも戦いにもならない。貴女を相手にするのは、御主人様でも難しいわね。けど、セレナだけなら、御主人様一人で、何とかなりそう……」
アレイアは脅えた様子のままで、しかし挑発的な台詞を吐く。
その台詞に、セレナもタニアも若干カチンときたようで、苛立ちをあらわに、底冷えのする低い声で言い返した。
「――ねぇ、それ、あたしを馬鹿にしてるの? その御主人様ってのが何者か知らないけど、あたしをどうにかできるなら、やってみなさいよ」
「にゃにゃにゃ……それよりお前、状況を理解してるにゃか? セレナ一人だけにゃら、とか言う前に、この狭い通路でどうやって、あちしたちを分断するつもりにゃ? ここまで挑発したからには、逃げられると思わにゃい方がいいにゃ」
セレナ、タニアにそう言われて、アレイアは押し黙る。すると、ヤンフィが分析した状況を説明してくれた。
(コウヤよ。彼奴の狙いが何か分からんが、彼我の戦力は歴然じゃ。彼奴が何を仕掛けようとも、妾たちが負けることはないじゃろぅ。じゃが、この通路は狭く、しかも地下じゃ。展開される魔術によっては、崩落が起きぬとも限らん。となると、荷物を背負ったコウヤを危険に晒さない為には、彼奴の取る行動に対して、後手で動いた方が無難じゃ。どうせ後手でも、先の魔術速度を見るに、タニアたちならどうとでも出来る)
安心せよ、とヤンフィは続ける。煌夜はそれを聞いてから、改めてアレイアを注視した。
アレイアは進退窮まったような様子で、その表情を歪めて視線を左右の壁に揺らす。そこは何もない壁である。非常に挙動不審な態度だ。タニアもセレナもその所作に警戒を高めている。
ただ切羽詰って混乱しているだけなのか、それとも何らかの罠でもあるのか――どちらにしろ、油断はしない。そう思考して、タニアとセレナが身構えた瞬間、アレイアが煌夜たちに背中を向けて、通路の奥に叫んだ。
「――御主人様!! 今です!! セレナを、お願いします!!」
アレイアの叫びは、狭い通路に反響する。それは合図の類だろう。
何が、今、なのかは不明だが、セレナはバッと自分の周囲に目を配り、タニアはセレナとアレイアの両方を視野に入れて心構えする。当然、煌夜もその言葉の通り、セレナに何かが起こるのだろうと思って、一瞬身体をビクつかせてから、セレナに視線と意識を向けた。
――しかし、何も起きない。
アレイアが叫び終わってからたっぷり一秒経っても、何も起きる気配がしなかった。不発か、と一同はキョトンとして首を傾げた。
「――んん?」
「にゃにゃ?」
セレナもタニアも、煌夜でさえも疑問符を浮かべながら、拍子抜けの声を上げる。すると、無防備な背中を晒しているアレイアが、木の杖を横薙ぎに振るって左右の壁を叩いた。
今度こそ何か魔術を展開するのか、と当然セレナたちは警戒する。けれどやはり、辺りはシンと静まり返ったままで、何の変化も起きはしなかった。
ならば、アレイアの視線の先、曲がりくねった通路から、仲間の『御主人様』なる人物が現れるのだろうか――しかし、誰も現れない。
(なん、じゃ。此奴、何がしたいのか――――ぬっ!? チッ。そう来たか。コウヤ。避けろ!!)
そんな一連の不発を見て、ヤンフィでさえも拍子抜けの声を上げて――次の瞬間、何かに気付いた。ヤンフィは慌てた様子で、舌打ち混じりに煌夜へ怒鳴った。煌夜はヤンフィのその慌てっぷりに、何だ何だ、と避けずに周囲を見回してしまう。けれど、何が起きているのか気付けない。
「んにゃ? コウヤ、どうし――にゃにゃにゃ!? コウヤっ!?」
その時、煌夜が周囲をキョロキョロしている様に気付いたタニアが、ヤンフィの気付いたその罠を見つけて、絶叫に近い声で叫んだ。
タニアの視線を追うと、それは頭上である。
煌夜は、ハッとして天井を見上げた。けれど天井に何が起きたのか確認するよりも早く、タニアの瞬間移動さながらの体当たりが煌夜を突き飛ばす。その勢いに受身さえ取れずに転がり、併せて、背負っていた冒険者も吹っ飛んだ。
「――え? 何!? タニア!? コウヤ!?」
予期していなかったその展開に、慌てて振り返ったセレナが、驚愕の声を響かせる。その声を耳にしながら、煌夜は天井に魔法陣が展開しているのを目撃した。そして次の瞬間、タニアはその魔法陣から放たれた光に包まれて、音もなくその場から掻き消えた。
「なっ!? おい、タニア――――っ!? ぐぉ!?」
何の抵抗も出来ずに消えてしまったタニアを目撃して、煌夜は咄嗟に左手を伸ばしていた。だが、その左手は何も掴むことなく空を切り――刹那、肘の部分から切断されて宙を舞う。
何が起きたのかも分からず、一瞬のうちに刎ね飛ばされた自分の左腕を眺めて、直後、幾度も味わった激痛が煌夜を襲った。
無様に膝を突き、声もなく右手で左肩を押さえる。遅れて、刎ね飛んだ腕が通路を転がった。
「手際が悪いぞ、アレイア。だが、よくやった。見事に一番厄介な獣族を転移させられたな。中々の演技力だったぞ。事が終わったら、後で褒美をやろう――さて。邪魔だ、この雑魚が!」
苦悶の表情で俯く煌夜を、突然背後から現れた何者かが、悪態を吐きながら蹴りつける。
脇腹を容赦なく抉るその蹴りは、煌夜の肋骨を軽々と何本か折って、通路の端まで吹っ飛ばした。その威力に、煌夜は呼吸が出来なくなって声もなくのたうち回る。
煌夜の背後から現れたのは、黒い革のジャケットにスラックスを着て、燃えるような紅蓮のロングコートを羽織った長髪の男だった。
その男は爬虫類じみた鋭い双眸をしていて、手にギザギザの切っ先をした大剣を握っている。煌夜の腕を刎ね飛ばしたのは、その大剣である。
男は、煌夜の背後から姿を現した――つまりそれは、最初から煌夜たちの後ろを取っていたということになる。煌夜たちは、この狭い通路で、もとより挟み撃ちされていたのだった。
(……まったく。最悪の展開じゃ)
ヤンフィがボソリと呟いた。
その台詞に、痛みでのた打ち回っている煌夜も、全力で賛成したい気持ちだった。どうやら、煌夜を襲う悪運は、誰も想定できないくらいに強いものであるらしい。よほどこの世界の神に嫌われているのだろう。
世界は、少しも煌夜に甘くはなかった。
18.12/5 サブタイトル表記変更