第二十六話 生贄の柱
3メートルほどの高さの梯子を降りると、そこは階段の踊り場になっており、さらに下へと続く長い階段が現れた。
階段の下からは、ぬめるような気持ち悪い風が漂ってきており、明らかに清潔でない雰囲気を感じる。
「……にゃんか、生臭いにゃ。ヤバイ感じがするにゃ」
タニアがボソリと呟く。それに煌夜は同意した。微かに、鼻を突くような腐臭が混じっている。しかし、かといって、ここで引き返すわけにも行かない。
煌夜とタニアはお互いに頷き合って、タニアを先頭に階段を下り始めた。
階段に灯りはない。地獄への入り口のようなひたすらに真っ暗闇の中、けれどタニアも煌夜も特に気にせずそのまま下りて行く。
煌夜はヤンフィの魔眼のおかげで、タニアは生来の眼力で、暗闇でも先を見通せる目をしていた。
(――――異界化、しておるのか?)
階段を下りていると、ふとヤンフィが恐る恐ると呟いた。
その単語に煌夜は不穏当な空気を感じ取り、一旦、その場で立ち止まる。タニアもそれに気付いて、どうしたにゃ、と煌夜に振り返った。
「……いや、ヤンフィが何か、ここが異界、とか言うからさ」
「にゃにゃ? 異界? 異界って何にゃ?」
煌夜はタニアに答えつつ、ヤンフィに問い掛ける。するとヤンフィは、いや、と曖昧に言葉を濁した。
(…………何でもない。気のせい、じゃろぅ……ちょいと、空間に漂う魔力残滓が読み取れんだけじゃ)
(それ、どういうことだ?)
(……ここは、どうしてか、空間に魔力が留まり難いようじゃ……奥に、何ぞ強力な魔法陣でも設置されておるやも知れん――――いやまぁ、妾の言葉は気にせず、慎重に進むが良い)
ヤンフィは、何でもない、と強調して、煌夜に先を促す。
ヤンフィにしては歯切れの悪いその態度に、煌夜は少しだけ不安になったが、とりあえず言われるがまま頷いた。
「分かった――タニア、慎重に行こう。ヤンフィの予想だと、奥に何か魔法陣があるかも知れないってさ」
怪訝な顔を向けていたタニアに、煌夜はそれを伝えた。
にゃにゃ、とタニアは頷きながら返事をして、また下へと下りて行く。そのペースは先ほどよりも気持ちゆっくりだ。煌夜も後に続いた。
それから、どれくらい下りただろうか。ざっと時間にして十分以上、段数にして六百段は数えただろう。
およそ二十五階相当の高さを下りきって、ようやく階段が終わりを告げる。
そこにあったのは、真っ直ぐと伸びた通路だった。その通路は人三人分ほどの幅があり、左右の壁に小さな炎が燃えている。
「ここ、空間が捻れてる気がするにゃ。にゃんか【聖魔神殿】みたいにゃ」
タニアは遅れて下りてきた煌夜にそう呟いて、気を付けるにゃ、と先を歩き出す。煌夜もどことなくそれは思った。
通路はそれほど長くはなかった。50メートルも歩けば行き止まりに到達して、目の前には錆びた鉄製の扉が現れる。扉は2メートルほどの高さをしており、鍵穴もドアノブもなく、単純な押し戸のようだった。タニアは迷わずに扉を押し開いた。
ギギギギ――と、重い音を鳴らして扉は開いた。
途端に、漂っていた腐臭がいっそう強くなり、鼻を刺激する。思わず煌夜は眉根を寄せて、鼻を押さえた。タニアも目を細めて踏み込むのを躊躇する。
「なんだ、この悪臭…………生ゴミか?」
扉の内側からは強烈な腐臭が臭ってきていた。
その臭いはまるで、生ゴミがぶちまけられた炎天下のゴミ捨て場と、下水道の臭いをミックスしたような悪臭だった。
同時に、身体が嘗め回されるような不快感にも襲われる。
「――にゃあ、コウヤ。ちょっとここで待ってるにゃ。この部屋、瘴気が溢れてて、にゃんかヤバイにゃ。あちしが確認してくるにゃ」
煌夜が扉をくぐろうとした時、一足早く中に入ったタニアが制止の声を掛けてきた。その顔は険しく、何か危険を察知したかのような様子だった。
煌夜は一瞬面食らって、しかし反論することもなく頷いた。
扉の外側から部屋の中を覗き込むと、その部屋は、2階吹き抜けのダンスホールみたいな広々した空間だった。
部屋の中央に、一本だけ大きな柱があるが、それ以外には何もなく、どうしてこれほど臭いのか不思議である。
部屋の中は薄暗いが、天井付近に青白い炎が幾つも浮かんでいて、それが照明代わりになっていた。青白い炎は星のようで、非常に幻想的である。
タニアは慎重な足取りで、中央の柱へと近付いていく。特に音もなく、空気感に変化はなかった。
(アレは――コウヤ。妾に身体を貸せ)
(ん? ああ、いいけど……どうした?)
(ここにある魔法陣は、かなり性質が悪い……タニアの協力も必要になる。ともかく妾に代われ)
タニアが部屋の中を歩き回る姿を見て、ヤンフィが切羽詰った様子で言う。
煌夜は、ああ分かった、と主導権をヤンフィに預けた。するとヤンフィは迷わず部屋の中に入っていき、中央の柱をジロジロと眺めているタニアに近付いた。
「――コウヤ、まだ安全が確認できてにゃいにゃ。部屋から出るにゃ」
「安心せい、タニアよ。とりあえず、ここには瘴気の繭がない。じゃから、警戒する必要もない」
「にゃにゃ? ボス、かにゃ? …………瘴気の繭、って何にゃ?」
タニアが鋭い視線でヤンフィに振り返る。その口調は叱責するように厳しい声音だった。
それに対して、ヤンフィは無感情に平坦な声で断言した。その力強い断言に、タニアは疑問符を浮かべて首を傾げた。
「瘴気の繭は――【魔貴族】を産む繭じゃ。ここは、そもそも異界と呼ばれる空間でのぅ。魔族が【魔貴族】に転生する場所じゃよ」
「にゃにゃにゃにゃ――っ!?」
ヤンフィはサラリとそんなとんでもないことを言って、しかし平然とした顔で部屋の中を見渡した。
タニアは驚愕してから、ヤンフィの言葉とは真逆にいっそう警戒を高めていた。タニアの反応を見て、ヤンフィは苦笑する。
「タニアよ、そう警戒するな。魔貴族は、瘴気の繭から産まれ出でる。じゃが、見る限りここには、それが一つもない。じゃから、魔貴族はおらん。それに、そもそも魔貴族に転生する魔族もおらん。じゃから、どうあっても何も起きぬ」
ヤンフィはそう断言して、部屋の中央にある柱に手を触れた。瞬間、柱と煌夜の手に静電気が走ったが、それ以外には特に何も起きない。
「――まぁ、とはいえ、この空間に満ちる瘴気を浴びすぎると、脳が壊れて狂気に囚われるじゃろぅから、長居は禁物じゃが――」
「にゃあ、ボス……あちし、知らにゃかったんだけど……【魔貴族】って、この異界って空間で産まれてるにゃか?」
ヤンフィの説明に被せて、タニアが、質問にゃ、と挙手して発言する。その質問に、ヤンフィは一度頷いてから、首を横に振った。
「全ての魔貴族が、ではない。異界は、それ自体が極々稀にしか発生しない空間じゃ。当然そうじゃから、ここで転生する魔貴族と云うのも、極々稀な存在――そうじゃのぅ。魔貴族のうち一割弱、かのぅ」
「…………にゃるほど」
その答えに、タニアは複雑そうな顔で頷く。すると、ヤンフィが補足とばかりに口を開いた。
「ちなみに、異界とは、時空の歪みじゃ。自然発生して自然消滅する、予兆のない自然現象じゃ。じゃから、偶然以外に、魔族がここで魔貴族に転生できることはない」
ヤンフィは言い終えると、柱に当てた左手に集中し始めた。
淡い魔力光を左手から溢れさせて、瞑想するように静かに瞳を閉じた。それを邪魔するのも悪いとは思ったが、煌夜は一つ質問を投げる。
(……なぁ、ところでヤンフィ。さっきから言ってる【魔貴族】って何だっけ? 何か聞いた覚えのある単語なんだけど、よく覚えてないんだが……)
煌夜の質問に、ヤンフィは、ふぅ、とこれ見よがしの溜息を漏らして、瞑想した姿勢のままでサラリと答えた。
(魔貴族とは――魔族のうち、高い知性と莫大な魔力を持ち、魔神語を解する存在じゃ。魔族より上位の存在で、コウヤに分かるように云うならば……タニアと同程度の強さを持った魔族じゃと思うが良い)
(――――ああ、なるほど。ボス敵ってことね)
ヤンフィの説明に、煌夜はスルリと納得して、同時に、恐怖で身体を震わせた。そんな化け物みたいな存在を生み出すこの部屋から、一刻も早く逃げ出したくなった。
「――さて、タニアよ。妾が合図したら、ちょいと全力の【魔槍窮】をこの柱を目掛けて放ってくれぬか?」
煌夜が納得する一方で、ヤンフィは柱に手を当てたまま、タニアにそう問い掛ける。タニアはヤンフィの行動を不思議そうに眺めていたが、言われてすぐさま頷いた。
「いいけど――いいにゃ? ボスにゃら大丈夫にゃと思うけど、爆発に巻き込まれると結構危険にゃ」
「――気にするな。早く準備せい」
ヤンフィは瞼を閉じたまま、タニアにそう強く命じる。タニアは慌てて、廃屋の屋根を破壊した時のように、弓道の会の姿勢を取った。
それを見て、煌夜が慌てる。
屋根が吹っ飛んだ時の光景を思い出して、背筋を凍らせる。柱と接触しているこの状態で、あの技を柱にぶつけられたとしたら、その衝撃で煌夜の身体が粉々になりかねない。
(おいおいおい、ヤンフィ。何をするつもり――)
「――タニアよ。五秒じゃ、合わせよ! 往くぞ、五、四、三、二……」
煌夜の声は全く無視されて、ヤンフィはタニアに合図を送る。
タニアは、にゃ、と短く返事をして、より強く腕を引き絞った。そして、二人で口を揃えて、一、と唱和した瞬間、魔力の弓矢は解き放たれた。
煌夜は爆発を覚悟する。
訪れるであろう衝撃に備えて、何が起きても驚かないよう身構える。
しかし、予想していた衝撃は何一つ訪れなかった。
「……にゃにゃにゃ?」
果たして、柱に直撃して炸裂すると思っていた【魔槍窮】は、直撃する刹那、宙に現れたブラックホールのような穴に吸い込まれて消えた。
音も衝撃も何もかもが綺麗にその穴に吸い込まれて、タニアの気の抜けた素っ頓狂な声だけが響き渡った。煌夜も肩透かしを食らって、頭の中が真っ白になっていた。
それからたっぷり三秒の沈黙の後、ヤンフィが、ふぅ、と息を吐いてから、ゆっくりと瞼を開いた。その吐息に我を取り戻し、タニアが声を上げる。
「――――ボ、ボス? 今のは、何にゃ? あちしの本気が、変な穴に、飲み込まれたにゃ……」
「今のは、異界を引き起こしていた原因――【魔神召喚】と呼ばれる魔法陣じゃ。この柱に見えておるモノは、生贄を媒介にして展開する立体魔法陣じゃよ。異界に封じられた魔神を呼び寄せる秘術……【子供攫い】が、どうして童を攫っておるのか、これで納得したわ」
ヤンフィは忌々しげに吐き捨てると、柱から手を離して遠ざかった。
すると程なくして、柱から湯気のような煙が発生する。その直後、ヒャーン、という甲高い音が響き渡った。そうして次の瞬間、柱を見ていたタニアと煌夜は、その吐き気を催すような光景に絶句する。
今の今まで石柱だったはずのそれは、突然本来の姿に戻り、重力に従って崩れ落ちた。
本来の姿に戻ったそれらは、ドチャ、という生々しい音を立てて床に転がり、赤い海をその場に作り出す。
――それは、糸の絡んだマリオネットの如く歪な形に折れ曲がり、苦悶の表情を浮かべながら、全身を鮮血に染めて息絶えている幼い子供たちの姿だった。
その数は、少なく見積もっても、二十人は下らないだろう。
その有様はまさに、小学校の運動会で行われる組体操が崩れた時のようで、放り投げられた人形が折り重なっているようだった。
煌夜はその光景を前に、思考が真っ白に停止する。
幸いにして、重なり合っている子供たちの顔に見覚えのある顔は一つとしてなかったが、犠牲になったのが知り合いでなくて良かったなどと思えるはずはない。
「【魔神召喚】は、多くの生贄を必要とする。またその生贄は、生命力が強ければ強いほど望ましい。童ならば、理想的な生贄になるじゃろぅ」
「……攫ってきた、子供を生贄に捧げたのかにゃ……」
「――――タニアよ。そう云えば先ほど、印の付いた地図を見つけたな。アレを出せ」
タニアが胸糞悪いとばかりに歯噛みしながら呟くと、ヤンフィは、そうじゃ、と頷きつつ地図を要求した。
タニアは言われるがまま、テーブルに置かれていた【湖の街クダラーク】周辺の地図を渡した。
「ふむ……おそらくこれは、【魔神召喚】の設置図じゃな。ここに記された赤丸には、ここと同じく、生贄の柱――立体魔法陣があるはずじゃ」
ヤンフィは言いながら、地図に記された赤丸の七箇所を指でなぞった。
その説明を聞いて、煌夜は眩暈がするほどの怒りに襲われる。ここと同じような悲惨な光景が、最低でも七つあると言っているのだ。それは断じて許されることではない。
その時、タニアが申し訳なさそうに挙手をした。ヤンフィが、なんじゃ、と顎で質問を促す。
「……にゃあ、ボス。つかぬことを聞くけど……その、魔神、って何にゃ? 呼び寄せると、どうにゃるにゃ?」
タニアが口にしたその質問は、煌夜も思った疑問である。
ここまで多大な犠牲を払って召喚する魔神には、どれほどのメリットがあるというのか――願い事でも叶えてくれるというのだろうか。
ヤンフィは無表情のまま、煌夜の想像を否定するように、首を横に振った。
「魔神とは、この世界の天敵じゃよ。破壊を司る神――召喚主の命が続く限り、あらゆる存在を破壊し尽す存在じゃ」
「…………破壊し尽す、にゃ?」
「そうじゃ。呼び寄せたが最後、召喚主以外の視界に映る全てを灰燼に帰す。その強さは、魔王と同格以上じゃ」
それを聞いてタニアが息を呑んだ。そして、何かに気付いて納得するように頷いた。
「にゃるほど。【世界蛇】の教義――『既存の世界を滅ぼす』にゃら、魔神は最適にゃ。【子供攫い】も、世界蛇の構成員にゃのかにゃ?」
「……何が目的かは、【子供攫い】を尋問すれば良かろう。とりあえず、ここから出るぞ……ほどなく、この異界は消滅する。巻き込まれて、異界に引き込まれると厄介じゃから、急ぐぞ」
ヤンフィは用は済んだとばかりに、踵を返して部屋から出ようとした。
それに従いタニアも足を踏み出すが、ふと積み上げられた子供たちの死体を見てから、どうしようか迷った顔をする。
「にゃあ、ボス……このままにするにゃ?」
「――部屋から出たら、燃やすぞ、タニア」
タニアの問いに、ヤンフィは無感情に言い放つ。その有無を言わさぬ台詞に、タニアは不承不承と頷いた。
一方で、煌夜はハッとしてから、猛然とヤンフィに物申す。
(おい、待てよ、ヤンフィ! この子たちも攫われて来たんだろ、身元を確認して――)
(――時間の無駄じゃ。此奴らは、運がなかった)
(――っ!? そ、そうかも知れないけど……)
(コウヤが心を痛める意味も、気にする必要もない。此奴らと妾たちの運命は交わらなかった。燃やして供養はする。それで充分じゃろぅ? 幸い、コウヤの捜す童はおらんようじゃしのぅ)
ヤンフィは淡々とそう言って、部屋の外へと出て行く。それに遅れてタニアも部屋を出ると、ヤンフィに目配せをした。
(コウヤよ。目的を見失うなよ? 妾たちは今、子供攫いのアジトを潰して、他の無事な童を助ける為に動いておる。手遅れになった童に時間を掛けておったら、救える命を捨てることになるぞ?)
ヤンフィは煌夜に諭すように言うと、タニアと視線を合わせて力強く頷く。それを合図に、タニアはスッと右手を掲げて、指を鳴らすと同時に振り下ろす。
無詠唱で展開された炎の魔術が部屋の中に炸裂して、凄まじい熱風が廊下を吹きぬけた。
部屋の中は一瞬で真っ赤に燃え上がり、肉の焦げる嫌な臭いが熱風に混じって漂ってくる。
煌夜は、悔しさと怒りと、自らの無力さを噛み締めて、ヤンフィに反論せず押し黙る。ヤンフィはそのまま、タニアを伴って道を戻っていく。
二人は無言で、心持ちその足取りは来た時よりも早足だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
地上に戻ってくると、ヤンフィは煌夜の身体の主導権を放棄する。途端に、凄まじい疲労感が煌夜を襲った。
重く沈んだ気持ちと相俟って、煌夜は廃屋のベッドに腰を下ろした。
「……大丈夫かにゃ? ボス?」
「――ああ、大丈夫……少し、疲れただけだよ」
「にゃにゃ、コウヤにゃ……うん、分かったにゃ。ちょっとそこで休んでるにゃ」
タニアが心配そうな顔を向けてくる。煌夜は疲れた表情で笑ってから、考える人の像みたいな姿勢を取った。
あの悲惨な光景が、頭の中でグルグルと渦巻いていた。
苦悶に満ちた子供たちの顔が、助けを求めるその表情が、煌夜に無力さを痛感させていた。
タニアは煌夜の返事を聞いて、ああ、と何やら察して、悲しそうな顔を浮かべてから、廃屋を出て行った。
気を遣ってくれたらしい。少しだけ一人にしてくれたようだ。
(――コウヤよ。そう気負うな。あれはとっくに手遅れじゃった。気にしても仕方ない。あの童たちは、生贄に捧げられてから、だいぶ時間が経っておった。それこそ、コウヤがこの世界に来る前からじゃ。救えるはずはなかろう?)
(…………クソッ、だけど……何なんだ、何がしたいんだ、子供攫いは――)
(子供攫いの目的は、タニアが尋問して聞きだすじゃろぅ。まぁ、いかなる理由じゃろぅと、妾たちがやることに変わりはないがのぅ。子供攫いからアジトを聞き出して、まるっと潰す。ついでに売られる前の童を救う――それだけじゃ)
ヤンフィは冷淡に語る。
それはまさにその通りなのだが、だからと言ってそう簡単に煌夜は気持ちを切り替えられなかった。
グツグツと煮え滾る憤りに、ギリギリと歯噛みする。血が滲むほど強く拳を握り締める。
(とりあえず落ち着け、コウヤ。憤る気持ちは分かるが、この世界では日常じゃ。いちいち気落ちしていても仕方あるまい)
(――なぁ、ヤンフィ。ちなみにさ、さっき、地図にある赤丸の箇所も、ここと同じようなことになってるって言ってたけど……本当か?)
(本当じゃ――あの赤丸は、【魔神召喚】の設置図で間違いない。赤丸の位置には、生贄の柱が設置されておるか、もしくは、これから設置されるはずじゃ)
(でも、その【魔神召喚】って、ここの魔法陣を潰したから、もう失敗してるんだよな?)
(いや、一つの魔法陣を潰した程度では何も変わらぬ。【魔神召喚】の厄介なところは、設置した魔法陣のどれか一つでも動いておれば、魔神を呼び寄せるには事足りることじゃ)
ヤンフィの言葉に、煌夜は眉根を寄せて首を傾げた。ならどうして七箇所も設置したのか――煌夜のそんな疑問を察したか、ヤンフィは補足する。
(【魔神召喚】は、そもそも成功率が極端に低い秘術じゃ。完璧な手順を経ても、百回に一回、魔神を呼び寄せられるかどうか――じゃから、成功率を上げる為に、様々な下準備をする。複数の魔法陣を、より成功率が高い場所に設置して、生贄の質を少しでも高める。そうして、ジッと待つのじゃ。それこそ、十年、百年、千年……と。ああ、釣りに似ておるな。獲物が餌に喰い付くまで、ひたすら待つ――それが【魔神召喚】じゃ)
(な、なん……それじゃ……もしかしたら、明日にでも、魔神が現れるかも知れないのか?)
(――可能性は零ではない。じゃが、呼び寄せたとしても、すぐには魔神は顕現せんよ。召喚主がその身を媒介にして、この世界に引き込む必要があるからのぅ。まぁそう云うわけで、【魔神召喚】を食い止めるのならば、設置された魔法陣全てを破壊するか、召喚主を探し出して殺す必要がある)
煌夜は唖然として、空を仰ぎ見た。
どこまでも広く蒼い空は、しかし煌夜の心を少しも晴らしてはくれなかった。
(ちなみに、じゃが……魔神召喚の生贄は、一定周期で交換する必要がある。じゃから、常に生贄を探しておるはずじゃ。奴隷商人と云う職業は、まさに適職じゃろぅな)
ヤンフィのその言葉に、煌夜の心は暗く重く沈んでいく。
こうしている間にも、また誰かが生贄になっている可能性さえあるということだ。それはやはり、見て見ぬ振りなど出来はしない。
「――にゃにゃにゃ! ボス、ちょっと、来るにゃっ!」
その時ふいに、タニアが慌てた様子で叫び声を響かせた。
煌夜はハッと我に返って、反射的に重い腰を上げる。タニアは、早く早く、と廃屋の外で煌夜を呼び続けた。
煌夜が廃屋を出ると、子供攫いが倒れている場所に、見覚えのある青年――ガストン・ディリックが立っていた。
煌夜はすかさず身構える。
サッと周囲を見渡してタニアを探すと、タニアはしかし、ガストンと相対してはいるが、身構えてはいなかった。
煌夜が出てきたのを確認してから、こっちにゃ、と手招きしてくる。
「――おや、やっぱりキミもいたね? やぁやぁやぁ、さっきぶり、見知らぬ誰かさん」
タニアの隣に立つと、今ようやく気付いたとばかりに、ガストンが笑顔で頭を下げる。
その姿格好は、先ほど街の出口で会った時の老人の姿ではなく、ガストン本来の姿、頬に火傷の痕があり軽薄な印象をした若者の姿で、灰色のマントと蛇が描かれた灰色のシルクハットをかぶっていた。
(――此奴、幻影じゃ。映像だけを飛ばしておる。ここに本体はない)
ガストンのニヤケ顔を見て、ヤンフィが呟いた。
それを聞いて、煌夜はマジマジとガストンの姿を注視するが、本物にしか見えない。と、タニアが憎しみの篭った声音で言った。
「お前、にゃんで【子供攫い】を殺したにゃ? 仲間じゃにゃいのかにゃ?」
「ん? ああ――仲間、ではないかな? ボクは、彼の一番の顧客だっただけさ」
その会話で、煌夜は倒れ伏して泡を吹いている【子供攫い】――オール・ビッドに視線を向ける。
オールは先ほどと変わらぬ様子に見えるが、よくよく見ると心臓の位置に穴が開いていた。
タニアの言葉を信じるならば、オールを殺したのはガストンである。
どうやって殺したのか、何が目的で殺したのか、それは定かではないが、ともかくこれで貴重な情報源が失われたことに間違いはない。
煌夜は悔しげに唇を噛んだ。
(コウヤ、此奴には妾が対応する。身体を借りるぞ)
(ああ……頼む)
煌夜はヤンフィに言われてすぐさま主導権を明け渡した。
ヤンフィは一歩、タニアの前に出て、見下すような視線をガストンに向ける。
「――ガストン・ディリック、じゃったかのぅ。汝、何故ここに居る?」
ヤンフィの問いに、ガストンは楽しそうに笑って、タニアを指差す。
「キミたち――と言うか、タニア君に逢いに来たのさ。そのついでだけど、用無しになった【子供攫い】の口封じも兼ねてね」
「妾たちがここに居ると、どうして分かった?」
「ははは、それは簡単だよ。タニア君の姿がなくて、キミが街の外に出て行ったなら、目的地はここしかないだろう? キミたちが【子供攫い】を追ってきたってのは知ってるからね」
おどけた調子で答えるガストンに、ヤンフィは目を細める。すると、傍らのタニアが冷めた口調で問い返す。
「あちしに、何の用にゃ? あちしはお前に用事にゃんて、にゃいにゃ」
「――この前は、ちゃんと話せなかったからさ、改めて勧誘に来たんだよ。タニア・ガルム・ラタトニア君、キミ、ボクたち【世界蛇】の仲間にならないかい? 色々と優遇するよ? キミなら、すぐに幹部にもなれると思うし――」
「にゃらにゃい――話がそれだけにゃら、今度はあちしたちの質問に答えるにゃ」
「はははははは、即答か。少しくらいは考えてくれても、よくないかい?」
「熟考した結果にゃ。世界蛇にゃんかに興味にゃいにゃ――――で、奴隷商人【子供攫い】が扱っている子供たちは、どこにいるにゃ?」
ガストンの勧誘など当然とばかりに断って、タニアは子供攫いに尋問しようとしていた疑問をぶつける。
その質問に、ガストンはこれ見よがしの溜息を吐いた。
「【子供攫い】の商品は……もう彼の流通ルートに乗ってしまったよ。ボクは、商品の一部を優遇してもらった代わりに、アベリンからこの街までの輸送を手伝っただけでね。ベスタ君から助けてあげたのは、ちょっとしたおまけさ」
「――もう一度問うにゃ。子供たちは、どこにゃ?」
「…………そうだね。彼らにはもう用はないし、わざわざ潰すのも面倒だから、タニア君に教えちゃうか」
タニアの殺意が篭った鋭い眼光に、ガストンはしばし思案顔を浮かべたかと思うと、ニヤッと笑ってペラペラと語りだした。
「子供攫いは、【アベリン】【ベクラル】【クダラーク】【デイローウ】の四つの街それぞれに、息の掛かった冒険者を二人ずつ、計八人の冒険者を飼っている。その二人のうち、片方が渡し役で、子供攫いから商品を受け取って、それを次の街に届ける役割。もう片方が交渉役で、届けられた商品を奴隷市場に卸して対価を受け取り、それを子供攫いに届ける役割を担っている。ボクは、今回の商品をもう渡し役に預けているから――今頃商品は、次の街【クダラーク】に向かってるよ」
ガストンは【子供攫い】の商売方法を暴露して、タニアとヤンフィに微笑んだ。それは、なんとも胡散臭い笑みだった。
「――さてと。タニア君にはまたも断られちゃったし、ひとまず口封じも終わったから、そろそろボクは本来の任務に戻るね。こう見えてもね、ボクは管理職だから、忙しいんだよ。しかもさっき、新しい任務も来ちゃったしねぇ」
やれやれと肩を竦めたガストンは、その場でクルリと背を向ける。すると、映像が揺れてテレビの砂嵐のようになった。
「それじゃあ、ここでさよなら、かな? 今度は当分、会えないと思うけど……もし気が変わったら――」
「――御託は良い。妾の質問に答えよ。ここの【魔神召喚】は、汝の仕業か?」
一方的に自分の都合だけを喋ってそのまま姿を消そうとしていたガストンに、その時、ヤンフィが鋭く切り込んだ。
途端、砂嵐の映像がピタリと動きを止めて、ガストンがゆっくりと振り返る。
「キミ……どうしてそれを知っている? 【魔神召喚】は、数百年前に忘れ去られた秘術のはず……子供攫いが喋ったのか? キミ、何者だい?」
「汝が殺した子供攫いは何も喋っておらんよ。じゃから、誰が召喚主だか分からぬ――汝が、召喚主か?」
「――キミ、危険だな。顔は覚えたから、要注意人物として警戒させてもらうよ」
ガストンは先ほどとは打って変わった感情のない無表情でヤンフィを睨みつけてから、口元だけ笑いの形を作る。
そのおぞましい形相に、煌夜は思わず寒気がした。
「勝手にするが良い。で? 召喚主は、汝か? 誰が、あの生贄の柱を形成した?」
「――教えてあげても良いけど、もしかしてキミ、あの魔法陣を破壊したのかな?」
「無論じゃ。異界をそのままになんぞ、しておくわけがない」
ヤンフィの答えに、ガストンは目を瞑って空を仰ぐ。その様子はかなりの悲壮感が漂っていた。
「マズイなぁ。またボクの失態になっちゃう、急いで報告しなきゃ、か……」
ガストンはそう呟いて、再びその身体を砂嵐状態にした。ヤンフィは苛立ちをあらわに、ガストンの答えを待った。
「召喚主は……ボクの上司さ。【世界蛇】のレベル4――生贄の柱も、その上司が数日を掛けて準備してくれたのに……」
ガストンは疲れたように息を吐いて、それを捨て台詞に、その場から姿を消した。後に残るのは、物言わぬ【子供攫い】オール・ビッドの死体だけである。
沈黙が流れて、しばらくタニアとヤンフィはその場で立ち尽くす。
そして、もう何事も起きないことを確認してから、同時に吐息を漏らした。
「……アイツ、胡散臭いにゃ。信用できると思うかにゃ?」
「信用は出来んが、あの情報に信憑性はある。実際【子供攫い】を殺しておるし、嘘をついておるようには見えんかった。これは想像じゃが、おそらく子供攫いは【魔神召喚】の手伝いをして、情報漏えいを防ぐ為に口封じで殺されたのじゃ――となると、設置図に記された赤丸は、全て生贄の柱が完成しておると見て間違いなさそうじゃ」
「ボス……あちしは、【魔神召喚】ってのが、どれだけ危険か分からにゃいから、優先すべき事案か判断できにゃいんだけど――これから、どうするつもりにゃ? ガストンの言葉が本当にゃら、あちしたちが当面やるべきは、【湖の街クダラーク】に向かった渡し役を見つけ出して、子供を助けて、子供攫いの共犯者を潰すことにゃ」
タニアは神妙な顔で言いながら、その場に胡坐を掻いて座り込む。
地べたであろうとお構いなく、傍にあるオールの遺体にも頓着せず、である。ヤンフィは頭をポリポリと掻きながら、背中を廃屋の壁面に預ける。
「整理する事柄が多いのぅ――今の状況では、正直、最善手が何か、判断し難い。まぁ、妾としては、コウヤの判断が全てじゃが。一度、セレナも交えて、話す必要があろう」
ヤンフィは腕を組んで、どうじゃ、とタニアに首を傾げる。タニアは思案顔でしばし黙り込んでから、パンと手を叩いて頷いた。
「分かったにゃ。確かに、あちしもちょっと混乱してるにゃ。本音を言えば、いますぐガストンを殺しに行きたいけど……今の映像、後ろの景色が流れてたから、ガストンはもう【ベクラル】から移動してるにゃ……」
口惜しそうに拳と拳をかち合わせてから、タニアは立ち上がる。ヤンフィもその意見には賛同して、チラとオールの死体に目を向けた。
「タニアよ。ところで其奴、どうやって殺されたのじゃ?」
「心臓に、上級の炎系魔法陣が組まれてたみたいにゃ。それが突然発動したにゃ。それと、頭部に映像を投影する魔法陣を組んでいて、それであちしたちの前に姿を現したにゃ。ガストンは言葉通り、最初からオールを殺すつもりだったみたいにゃ」
「ふむ、そうか……念の為、その死体を燃やしておけ」
にゃ、とタニアは短く返事をして、すかさずオールの死体に炎をぶつける。それは一瞬で燃え上がり、ものの数秒で消し炭に変わった。そしてそれを強い風が吹き飛ばす。
しばらくすると、その場には骨さえ残らず、何の痕跡もなくなった。
(コウヤよ。とりあえず、宿屋に戻るぞ。セレナの体調を回復させて、今後の計画を立て直すのが良いじゃろぅ)
(…………ああ、そうだな。一旦、落ち着いて、どうするか考えないと……)
(では、妾は引っ込むぞ。気だるいやも知れぬが、少し踏ん張ってくれ)
ヤンフィはそう言って、身体の主導権を煌夜に戻す。言う通り、ガクッと身体が重くだるくなったが、とりあえず気合を入れて屈伸する。
「――タニア。んじゃ、とりあえず宿屋に戻ろう」
「にゃにゃ? 分かったにゃ、コウヤ。じゃあ、また飛ぶから、しっかり捕まってるにゃ」
「………………え?」
タニアは煌夜の声にニッコリと頷いて、来た時と同様に、煌夜の腕に腕を絡めてくる。それは若干、来た時よりも強く密着している気がしたが、それよりも先に、あの恐怖感が蘇ってきて冷や汗が零れた。
そして、心の準備が満足に出来ていない状況で、タニアの背中に、四対の魔力の翼が生える。
煌夜がゴクリと唾を呑んだ。すると、ゆっくりと足が浮かび上がった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ガストン・ディリックは、グラグラと揺れる馬車の中で気だるげに身体を起こした。
意識がまだハッキリとしていないようで、酒に酔ったように視界と思考が胡乱だった。遠隔で姿を投影する魔術は難度が高く、いまだにガストンは後遺症なしには発動できなかった。
「――大丈夫か? 何か問題でも起きたか?」
頭痛を振り払うように頭を押さえていたガストンに、その時、そんな涼しげな声が投げかけられた。それは、ガストンの正面に座っている女剣士からのものである。
ガストンはその言葉に苦笑して、ああ、と頷いて見せる。
「心配、してくれてるのかい? 優しいね、マユミ君」
「私が優しいのは揺ぎ無い事実だが、貴様の心配はしていない。私は任務遂行に支障がないか、それにしか興味がない」
「……相変わらず、素っ気無いね」
ガストンは、やれやれと肩を竦めてから、目の前に座る女剣士を改めて眺める。彼女は、急遽上司から派遣されてきた助っ人だった。
腰元まで伸びた長くしっとりとした黒髪に、氷のように冷めた表情、竜を思わせる赤色の双眸をして、その肌は雪のように白い。
身長はガストンと同じくらいかほんの少しだけ低いが、のべつ幕なしに垂れ流す強烈な覇気が、彼女を巨人の如く感じさせる。
彼女は、馬車の隅に片膝を立てて座っており、1メートル50センチほどの無骨な刀を抱き抱えていた。
「それにしても、マユミ君。わざわざこんな辺鄙なところまで、よく来たねぇ?」
ガストンはだいぶ鮮明になってきた思考で、彼女に話しかける。
彼女は煩わしそうな表情を浮かべて、蔑んだ目でガストンを見詰めてくる。思わずその威圧に、ゾクゾクと背筋を震わせた。
「――ああ、まさか世界の果てまで来ることになるとは思わなかったが、そこに強者が居るのならば、私は何処にでも赴こう」
冷めた声で、当然だ、とばかりに呟く彼女に、ガストンは頷いた。
この手のタイプは、扱い易くはあるが、注意が必要でもある人材だった。良くも悪くも自分の気持ちに忠実なのである。
そんな彼女――刀さえ持っていなければ、貴族の令嬢と言って差し支えない様相の妖艶な美女は、マユミ・ヨウリュウと言う。ガストンの上司が、懇意にしている大組織から借りてきた用心棒であり、且つ、ガストンが任務を遂行したかどうか確認するお目付け役である。
ガストンは今、非常に残念なことに、【世界蛇】の組織内で信用が失墜してしまっている。
「ところで、その【粛清のベスタ】とやらは、強者なのか?」
ガタン、と大きく馬車が揺れた時、マユミがふとそんなことを口走った。
ガストンは困った顔で頭を掻く。頷くのは簡単だったが、マユミが求めている領域の強者か否かが判断し難い。
「――マユミ君は、念の為の助っ人だよ。本来ならきっと、ボク一人でも充分に殺せる相手だと思うんだけど……」
「ああ、なるほど……そういえば、貴様、信用がなくなっているんだったか」
「そう明け透けに言われると照れるね……まぁ、そうだよ。だから、万が一にも失敗しないように、マユミ君を派遣してくれたんだろ」
ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らしてから、マユミは飽きたとばかりに項垂れる。仮眠を取るのだろう。アベリンへの道のりは、まだ長い。
ガストンは、はぁ、と静かに溜息を漏らして、今のこじれた状況に頭を悩ます。こうなったそもそもの原因を思い返して、また無意識に溜息が出た。
ガストンには、多くの部下がいるが、中でも優秀な部下が三人いた。
彼らは、組織内でも評価が高く、冒険者であればSランク相当の実力者だった。幹部候補生でもあり、レベル3【管理者】という地位にもついていた。
ちなみに、世界蛇の中での序列は、頂点に同列の二人を掲げて、レベル5、レベル4に、二人ずつ、レベル3【選定者】が四人おり、それらの計十名が幹部と呼ばれている。また、レベル3には【管理者】と言う地位の人間がおり、その人間たちを幹部候補生と言う。
そして、幹部十名のうち誰かが失脚すると、全体が繰り上がり、幹部候補生が幹部となって空きの椅子に座る仕組みである。
さて、そんな三人――ガストンが全幅の信頼を寄せていた優秀な部下たちだが、突然、立て続けに任務を失敗した。いや、正確には、失敗ではなく、藪蛇を突いて、殺されたというべきだろう。
一人は、妖精族を狩っていて、伝説の妖精族を呼び寄せてしまい、返り討ちに遭った。
もう一人は、野心が過ぎたか、ガストンの寝首を搔こうとしたので、奴隷として市場に売った。
そしてもう一人が問題で、彼は一番の実力者であり歴戦の強者だったが、タニアという化け物に手を出そうとして、あっけなく死んでしまった。
それは軽率すぎる独断であり、完全な油断だった。
その失態が原因で、ガストンの評価は著しく下がった。このままでは、今の地位を降格になるだけではなく、制裁の対象にもなってしまう。
それを挽回するために、ガストンは駆けずり回った。
まず、三人の任務を全て引き継いだ。それらはどれも重要な任務で、そしてどれも中途半端だった。だからそれを引き継いで、完全に仕上げることが、信用回復への第一歩だった。
しかし、何もかもうまくいかなかった。
タニアの横槍や、何者かの妨害で、ガストンは満足な成果を上げられなかったのである。しかもそれが続いたせいで、上司からは呆れられて、今は全く当てにされていない。
だから、こんな外様の若造が監視に付いたのだ――と、ガストンは仮眠しているマユミを睨みつける。
彼女は大人びて見えるが、これでもまだ十九の子供である。そんな子供が監視役で、悔しくて堪らない。
「しかし……我ながら、本当に忙しないなぁ。ベクラルの滞在時間、わずか五時間くらいで、移動はたっぷり二日とは……はぁ、早く信用を取り戻さないといけないや」
ガストンは呟いて、ゴロンとその場に横になった。そして、シルクハットを顔にかぶせて、マユミと同様に仮眠を取る。
馬車はそろそろ、エンディ渓谷から続く難所の谷間を通り抜けるだろう。
そうなれば、なだらかな平地がしばらく続く。寝るのにちょうど良かった。
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