第二十五話 合流、そして……
平原の道を突き進むこと三十分強、徒歩の行商人を何人か追い抜き、煌夜は分岐道に到達した。
ト字に分かたれたその道には、木の看板が立てられている。当然ながら、文字の読めない煌夜はヤンフィに翻訳してもらう。
(……真っ直ぐ道なりが【聖王行路】、右が【ベクラルの滝】と書かれておる。【エンディ渓谷】は聖王行路の難所じゃと云うておった……ならば、妾たちが進むべきは道なりじゃ)
(――了解)
煌夜は頷いて、迷わずそのまま真っ直ぐの道を選択する。
そこからの道は、なだらかな下り坂になっており、やがて草の茂る平原は枯れた大地へ、広かった道幅は狭くなり、谷間の道へと姿を変えた。
車二台がギリギリすれ違える程度の狭い谷間までやってくると、煌夜は頭上を警戒しながらそこを歩いた。辺りには煌夜の足音がやけに大きく響き、その反響か、崖上から小石が転がり落ちてくる。
日本であればきっと、落石注意の看板が置かれるに違いないだろう。
ところどころに転がっている巨大な岩石が、煌夜を無言のうちに威圧している。かなり危険な場所である。
(ここが、エンディ渓谷、かな?)
ガラガラ、と背後で煌夜より少し大きめの岩が転がり落ちてきた。ハッと振り向くと、激しい落下音と共に、岩石の破片が煌夜の足元まで飛んでくる。それを見て、ツーと冷や汗が流れる。
幸いにして下には誰もいなかったが、潰されていれば即死だろう。
(おそらく、そうじゃな……ここのどこかで、タニアが待ち伏せしておるはずじゃが……)
冷静な声音でヤンフィは言う。同時に、また煌夜の目に魔力が込められて、視力が格段に向上した。
煌夜の視線はヤンフィに誘導されて前を向き、真っ直ぐと続く谷間の道の終わりを注視する。
だが見渡す限り、この道には誰もいないし、何もない。ただただ岩が転がっているだけだった。
(……1キロほどで、この谷間は終わりのようじゃのぅ。それより先は、緩やかな上り坂になっておる)
ヤンフィがそう告げると、前方100メートルほどのところで、またガラガラと岩が転がり落ちてきた。
それを見て、思わず煌夜は足を止めた。
(――コウヤよ。分かっておるとは思うが、落石には気をつけよ。極力、魔力は消費したくない。じゃから、避けれるならば避けてくれ)
(いや、言われるまでもなく避けるけどさ……)
ヤンフィの忠告に頷き、先ほどよりもより慎重に、警戒はいっそう強く、少しの音でも反応できるよう集中しながら、しかし足早に、煌夜は道のど真ん中を進んでいく。
「あっ――コウヤにゃ!!」
煌夜がしばらく進んだその時、ふと谷間に聞き覚えのある声が響き渡った。
反響する音の出処は頭上から、煌夜はバッと視線を上に向ける。飛び込んできたのは、目も眩むほどの太陽の日差しだ。思わず目を細めて、右腕で視界を覆った。
すると、視界がフッと翳って、何かが落下してくる風切り音が耳に届いた。
嫌な予感に煌夜は身構えて、咄嗟にその場から距離を取る。
落下してきた何かは――タニアである。満面の笑みで両手を広げて、煌夜に抱きつくような姿勢で落ちてきていた。
見上げた崖は100メートル以上の高さがある。タニアは、そこから飛び降りてきたようだ。
煌夜が寸前まで立っていた位置に、凄まじい落下速度でやってきて、けれど音もなく着地した。その着地はまさに猫である。背を丸めて、広げた両手と両足を同時に地面につけて、四つん這いの姿勢で落下の衝撃を全て受け流していた。
少しだけ砂埃が舞い上がる。
「――にゃあ、コウヤ。にゃんで、あちしを避けるにゃ? あちしのような美女が落ちてきたにゃら、優しく抱き締めてくれるのが礼儀じゃにゃいのかにゃ?」
着地するが否や、タニアは少しぶすくれた顔で理不尽な理論を煌夜にぶつけてきた。その台詞に、煌夜は引き攣った顔を浮かべる。
「――あのなぁ、タニア。あの速度で落下してくる人間を、抱き留められるわけないだろ? ぶつかったら死ぬぞ、俺」
「そんにゃことにゃいにゃ。コウヤにゃら、きっと余裕だったはずにゃ」
タニアは立ち上がり、根拠もなく自信満々にその豊満な胸を張る。そして、パッパッと両手の砂を払ってから、煌夜に近付いてきた。
その足取りは軽やかで、表情も平然としている。あれほどの高さから落ちてきて、何のダメージもないようだった。
「あ――ところで、こんにゃとこにコウヤ一人で、どうしたにゃ? セレナはいにゃいのかにゃ?」
タニアは煌夜の背後や周囲に視線を巡らせてから、にゃ、と首を傾げる。
その様子は、別行動を取る前と何ら変わることのない平常運転のタニアだった。煌夜の心の中で、ヤンフィが呆れたように呟く。
(……よもや、タニア。丸一日以上、ただ待ち伏せしていただけじゃったのか?)
何か別件に巻き込まれて戻ってこないのかと心配していたが、もしやそれは杞憂だったのか、と煌夜は、ヤンフィの疑問と同じ疑問を口にする。
「――なぁ、タニア。ちなみにお前、昨日、丸一日、何をしてたんだ? 俺ら、宿屋で待ってたんだが……」
「にゃにゃ? にゃにって――ここで待ち伏せしてたにゃ。昨日は、【子供攫い】たちが現れにゃかったにゃ。偵察出来てにゃいのに、コウヤたちに合流は出来にゃいにゃ。にゃので、粘ってたにゃ」
「……粘ってたって……まぁ、それもそっか。結構、心配したんだけど……じゃあ、何かに巻き込まれて遅くなったわけじゃないんだな?」
「にゃ? 巻き込まれるって、にゃにに巻き込まれるにゃ? あちしは、心配されるようにゃことはしてにゃいにゃ……それに、まだ一日しか経ってにゃいから、連絡も不要と思ってたにゃ――そっち、にゃにかマズイことでもあったのかにゃ?」
拍子抜けする煌夜の様子に、タニアが逆に心配げな顔を向けてくる。
タニアに言われて、ヤンフィも煌夜も若干反省していた。確かに、たった一日で焦りすぎたかも知れない。特に昨日は大雨だった。馬車で移動していたとはいえ、その速度は予定よりも遅くなったのだろう。
「――ん、にゃ?」
その時ふいに、タニアの顔が険しくなった。眉根を寄せて、右目の青が淡い光を放つ。
その鋭い視線は、煌夜の身体をジロジロと眺めていた。その迫力に気圧されて、煌夜は一瞬たじろいだが、すぐに何事か理解する。
きっと、隻腕だった左腕が直っていることに気付いたのだろう。
煌夜は左腕を上げて見せながら、これは、と口を開いた。
「一日休んだおかげで、ヤンフィの魔力が回復したらしくて――」
「――にゃんでコウヤ、魔力量が、倍近くに膨れ上がってるにゃ? たった一日で、魔力量がこんにゃ増えるにゃんて、常識的に有り得にゃい……まさか、コウヤ……セレナに、手を出したのかにゃ? あんにゃ、貧乳の妖精族の誘惑に、乗っちまったのかにゃ!?」
「――――え? な、なんの話……?」
煌夜の言葉を遮って、タニアがグッと顔を近づけてくる。
その表情に浮かぶのは、悔しいという感情と、困惑、ほんの少しの怒りである。だが、煌夜には何のことか分からない。
へ、と目を点にしてキョトンとする。
(おお、そうじゃった。タニアは【鑑定の魔眼】持ちじゃったのぅ……)
キョトンとする煌夜の内側で、ヤンフィがポンと手を叩いたような声を漏らした。
どういうことだ、と煌夜はヤンフィに問おうとして、しかし突如その場に四つん這いで崩れ落ちたタニアにビクッとする。
「……にゃんてことにゃ……まさか、こんにゃことに、にゃるにゃんて……いや、そんにゃことより……にゃんでコウヤは、あちしじゃにゃくて、あんにゃ貧相にゃ女に……あちしが魅力で……負けたにゃ……?」
「……あ、あの……タニア、さん? いったい、どうした?」
「……それとも、コウヤは、アイツみたいにゃ、貧相にゃのが、好みにゃのか……?」
酷くショックを受けた様子で、タニアはボソボソと呟きながら項垂れる。
その様に、煌夜は何が何やら混乱して慌てた。すると、事情を察したヤンフィが煌夜に代わって口を開く。
「タニアよ――汝のそれは、勘違いじゃ。コウヤは、セレナに手を出してはおらん。とりあえず落ち着け」
「…………その言語、ボス、にゃ? それは、本当かにゃ……?」
「本当じゃ。コウヤの好み云々は知らぬが、セレナの色香で迷うことはなかったぞ――まぁ、仮に手を出しておったとしても、汝には関係ないがのぅ」
ヤンフィは挑発的にカラカラと笑いながら言って、ほれ、とタニアに手を差し出す。タニアは消沈した顔を上げて、ヤンフィと視線を合わせる。
「……関係にゃく、にゃいにゃ……コウヤは、割と一途にゃ性格にゃから、初めての女には、思い入れするに決まってるにゃ……そうにゃると、あちしがコウヤと結ばれる可能性が、だいぶ低くにゃるにゃ……」
「それは、まさにそうじゃろぅな――じゃが、それは完全に汝の自己都合じゃろぅ?」
「まぁ、自己都合にゃのは、否定しにゃいけど…………セレナに手を出してにゃいにゃら、どうやって、魔力量を増やしたにゃ?」
タニアはおずおずと手を取って、グッと身体を起こした。
どこかいじけたような表情で、にやけるヤンフィに問い掛ける。そんなやり取りに、とりあえず煌夜は口を挟んだ。
「――なぁ、ちょっと口を挟むけど……セレナに手を出したとか、出してないとか、どうしてそういう話になるのかを、俺にも分かり易く説明してくれないか?」
無視して話を続けられないように、煌夜は身体の主導権を奪い返して声を出す。
ずいぶんとあっけなく主導権が奪い返せたことに、若干ビックリしたが、今はそんなことよりもと、気持ちを切り替えてタニアの手を放した。
心の中でも、ヤンフィに同じ台詞を問う。ヤンフィが、はぁ、と溜息を漏らしていた。
(……細かいのぅ。何、別段気にすることではない)
(いや、気になるだろ。まぁ、タニアの、俺と結ばれる可能性云々についても、かなり気になるけど……)
(そりゃあ、あれじゃ――察しが悪い上に鈍感でお子様なコウヤには、難しいお話じゃよ)
(――――俺を馬鹿にしてるだろ? まぁ、とりあえずそれは置いとくけど)
煌夜はヤンフィと心の中でそんな会話をする。
一方で、タニアが少しだけ困った表情で口を開いた。
「……コウヤの魔力量は、つい一昨日までは、魔術を使わにゃい街人と同じくらいだったにゃ。数値にすると、50ってとこにゃ。それが、今は110くらい、倍以上に増加してるにゃ。これは将来有望な冒険者レベルにゃ――魔力量は、増やすのが非常に難しいにゃ。魔術を幾度も行使して、地道に増やす以外に術はにゃい。喩えるにゃら、筋肉に似てるにゃ。それが一日で倍、これは通常、有り得にゃいにゃ」
タニアはそこで言葉を区切って、ふぅ、と深呼吸した。ヤンフィも煌夜の内側で、その通りじゃ、と同意している。
煌夜は、なるほど、と納得した。
「けどにゃ。妖精族の特性にゃら、それが出来るにゃ――妖精族は、人の形をしてるけど、肉を持たにゃいにゃ。あの身体は、高濃度、高密度の魔力結晶体で……肉を持つ種族と交尾することで、相手と魔力を共有できる特性を持つにゃ。魔力を共有すると、妖精族自身と、交尾した相手、お互いの魔力量が爆発的に上昇するにゃ。理論的には、妖精族は他者と交わることで、魔力結晶体じゃにゃくにゃり、半身が肉ににゃる。その分、身体を構成していた魔力が浮いて、その浮いた魔力が、魔力量の増加に繋がると考察されてるにゃ。にゃので、コウヤの魔力量が突然ここまで増えたにゃら、それはセレナと交尾した以外ににゃいにゃ――――でも、違うにゃ?」
「違う…………はず」
タニアの恐る恐ると窺うような上目遣いに、煌夜は曖昧に頷いた。
煌夜自身に覚えはないので、違うと断言したいところだったが、気を失っていた間に起きた出来事が分からない以上、それに相当する何かを、ヤンフィが勝手に行っている可能性に思い至ってしまった。
煌夜は、ヤンフィに説明を求める為、心の中でヤンフィに身体の主導権を明け渡す。
不思議と、リモコンのスイッチを切り替えるような気安さで、ヤンフィと身体の主導権の入れ替わりが可能になっていた。
「――ほぉ、強制的に妾に変えたか……ふむ。さて、それでは、妾が説明しよう。コウヤの魔力量が増えた理由じゃが――セレナの魔力を無理やり奪ったのじゃ。妾の保有する武器の中に、そう云った芸当が出来る武器がある。以上じゃ」
「…………にゃ? それだけ、にゃ?」
「それだけじゃ。じゃが、反動でセレナは今、魔力が枯渇寸前になっておる。自力で回復するのに、時間を要する状態でのぅ。それが為に、妾は単独で汝を迎えに来たと云うわけじゃよ」
「にゃる、ほど――」
ヤンフィのあっけない告白に、タニアだけではなく、煌夜もまた拍子抜けする。
そのサラリとした説明は、ドラ○もんが道具説明をする時の簡潔さに似ている。どうしてそうなるかの過程は飛ばして、結果どうなるかだけを伝える。
故に、周囲はそういう道具なのだと納得するしかない。
「――それにゃら、とりあえずコウヤの貞操は守られたにゃ」
良かったにゃ、とタニアは安堵していた。しかし直後に、何かを思い出すように首を捻って、にゃあ、とヤンフィに疑問をぶつけた。
「ところで、その武器ってどんにゃのにゃ? 魔力を奪うっていうと、あちしがやられた時のあの禍々しい魔剣かにゃ? でも、それだと、あちしの魔力もコウヤに追加されてにゃいと、おかしいにゃ」
「……チッ、賢しいと厄介じゃのぅ」
「にゃにゃ?」
タニアの疑問に、ヤンフィは舌打ちして、小声でそう吐き捨てる。そして、悪戯がバレた子供が観念して白状する時のような顔で口を開いた。
「あー、そのじゃなぁ……正確には、魔力を奪ったのではなく――魔力核を割って移植したんじゃ。じゃから、コウヤの内に宿る魔力は、純度100パーセントのセレナの魔力じゃ。ちなみに、魔力核を割った武器は、汝には見せておらんし、見せんぞ。説明もせん。妾の秘密じゃ」
ヤンフィは言うと、バツが悪そうにすぐさま身体の主導権を放棄する。フッと、身体が煌夜の意識下に戻ってきた。
タニアを見ると、信じられないと驚愕の顔を浮かべていた。正直、煌夜には魔力核なるモノが何かも分からないので、タニアの衝撃がどういう類のものか理解できない。
それに、魔力を実感できない煌夜にとって見れば、セレナの魔力が宿っていると言われても、まったくピンとこない。
「……魔力核が割れたら、死ぬんじゃにゃいのかにゃ?」
タニアがゴクリと唾を呑んだ。その台詞に、煌夜は耳を疑う。一瞬だけ、辺りが静まり返る。
(…………妖精族であれば、死なぬ。じゃが、その代わりに、今の昏睡状態なのじゃ)
ヤンフィがボソリと煌夜の心の中で呟き、その声にハッとなった。
本当か、と念押しで確認すると、マジじゃ、と半笑いでヤンフィは切り返す。煌夜は、タニアにそれを伝える。
「あ、タニア――なんか、妖精族なら、死なないらしいぞ。けど、そのせいで、今、セレナは結構深刻な状態だけどさ」
「…………その言語、コウヤにゃ? いや、まぁ、アイツが死のうと、あちしたちには関係にゃいけど……死にゃにゃいのか? ふーん、あっそ」
タニアはどこか腑に落ちないようだったが、どうでも良いか、とすぐに気持ちを切り替えている。どこかその声は、残念そうな響きさえ感じさせた。
煌夜とタニアがそんな風にのほほんと会話していると、その時、ヒヒーン、という馬の嘶く音が響いてきた。そして、それに呼応するかのように、ガラガラと岩が崩れ落ちる。
二人は、音の鳴ったほうにバッと顔を向けた。
その音は、煌夜が歩いてきた方角――【鉱山都市ベクラル】側の道から、聞こえてきた。
見れば谷間に、二頭の馬に曳かせて馬車が下りてくる。馬車は結構な速度で走っており、物の数分で煌夜たちとすれ違うだろう。
煌夜は慌てて、道の端に寄る。タニアもそれに従い、険しい表情で身体を崖に寄せる。
馬車は軽快な速度で煌夜たちの前を通り過ぎていく。地面に転がる岩などまるで気にも留めず、時には、ガタン、と岩を踏んで車体を大きく揺らしながらも、あっと言う間に駆け抜けていった。
チラリと見えたその馬車の内側には、武装した戦士が二人と、老人、青年、少女の三人が乗っているのが見えた。
その五人に見覚えはない。だが、どこか嫌な予感がした。
「…………なぁ、タニア。今の見たか?」
「んにゃ? 見たけど、どうしたにゃ?」
「なんか、嫌な予感がしたんだけど……今の連中、見覚えとかないか?」
煌夜は神妙な声でタニアに問い掛ける。タニアはきょとんとしてから、首を振った。
「にゃいにゃ――ただの冒険者一行じゃにゃいのかにゃ?」
タニアのそのあっけらかんとした答えに、煌夜は消化不良気味だが、杞憂かな、と頷いた。
そして、そういえば、と今更ながらここに来た理由を思い出す。タニアと無事合流できた安心からか、ついつい話が脱線してしまった。
「あ、タニア――ところで結局、待ち伏せを続けてるってことは、【子供攫い】はまだ、ここを通っていないのか?」
「にゃにゃにゃ? ああ、今朝早くそれっぽいのが通ったにゃ――そうにゃ! こんにゃところで、遊んでる余裕はにゃいにゃ。コウヤが来たにゃら、一緒に来るにゃ。説明は移動しにゃがらするにゃ」
「は? お、おお、っと――ちょ、痛い。行くから、そんな引っ張るなって」
タニアは、ポンと手を叩いてから耳をピンと立てて、慌てた様子で煌夜の腕を引いた。
向かう先は、馬車が来た方向――つまりは、煌夜たちがやってきた側、ベクラルの街への道である。
なんだなんだ、と疑問符を浮かべる煌夜を、タニアが早く早くと手招きする。
「この【エンディ渓谷】に来る手前に、【ベクラルの滝】への道があったはずにゃ――そこに【子供攫い】らしき奴が居るにゃ」
タニアは歩き出すと、声のトーンを落としてそう言った。煌夜は目を見開き、駆け足でタニアの隣に並ぶ。
「どういうこと……だ? 子供攫いらしきって? そこがアジトなのか?」
「んー、どっちも判断が難しいにゃ。ひとまずは、あちしが見た状況を説明するにゃ」
煌夜が横に並んだのを見て、タニアは走り出す。
その速度は、短距離走のトップアスリートばりの速度だったが、ヤンフィのおかげだろうか、煌夜は難なく付いて行けた。
「あちしは、ジッと崖上から【エンディ渓谷】を通る馬車や徒歩の人間を観察してたにゃ。そしたら、今朝、屋根のにゃい馬車で、老人と青年の二人組が通ったにゃ。ソイツらは、ベスタの記憶紙とは違う顔立ちだったけど、見た目と年齢が不一致だったにゃ。青年の姿をした方は、オール・ビッド、八十七歳。老人の姿の方は、ガストン――【聖魔の森】で遭った【世界蛇】のガストン・ディリック、二十四歳だったにゃ」
「……ガストン・ディリック、って」
「コウヤも覚えてるはずにゃ。あの、いけすかにゃい男にゃ。アイツ……幻惑魔術で、姿を変えてるみたいにゃ。とにゃると、十中八九、ベスタが負けたって言う時空魔術の使い手は、アイツにゃ」
タニアが忌々しげに呟く。その名前に、煌夜はつい先ほど、ベクラルの街の入り口で出会った男を思い出す。
老人の姿をしていたが、その実は、青年であることを偽っていた男である。
【世界蛇】所属のレベル3【選定者】――と、よく分からない階級を名乗って、ヤンフィに相手取るのは厳しいと判断させた男だ。
煌夜は、ヤンフィの予想通りに、ガストンが【子供攫い】の共犯だったか、と頷いた。
(やはり、か……しかし、ようもタニアは、襲い掛からず我慢できたのぅ。妾は、てっきり出会い頭で襲い掛かるじゃろぅと予測していたが……)
ヤンフィが煌夜の中でそう呟いた。それには若干賛同である。ガストンとの最初の遭遇を思い出せば、タニアの怒りは押して知るべしだったし、タニアの性格からして、我慢はしない性質だと思っていた。煌夜もそれには少し驚いていた。
そんな煌夜とヤンフィの気持ちを読んだのか、タニアは渋い顔を浮かべて、走る速度を落とした。
「…………にゃんにゃ、その顔。あちしだって、アイツは殺したかったにゃ。けど、優先順位が違うにゃ。あちしの役目は【子供攫い】のアジトを調べることにゃ。あくまで斥候役――敵の戦力が把握できてにゃいのに、後先考えず挑む愚は犯さにゃいにゃ」
タニアは、ふん、と胸を張り、ここにゃ、と言いながら急ブレーキを掛ける。
いきなりの急停止と、話に集中していたせいで、煌夜はその動きに対応できず、体勢を崩して前のめりにつんのめる。
それをタニアが、事前に打ち合わせたかのような動きで、抱きとめた。
ふわり、と女性特有の甘い匂いとモフモフの耳毛が、煌夜の鼻腔をくすぐった。思わずくしゃみをする。
「――アイツらは、ここの分かれ道で、二手ににゃった。ガストンは、そのまま馬車でベクラルまで……オールは、ここで馬車を降りて、徒歩で【ベクラルの滝】に向かったにゃ」
見れば、そこは看板の立っている分岐道だった。タニアはその道の左側を指差して、こっちに行ったにゃ、と説明を続ける。
「オールの真の姿が分からにゃいから、アイツが【子供攫い】かどうか確信は持てにゃいけど……変装してるってのが怪しいにゃ。それに、アイツら以外に、ベスタに匹敵するようにゃ魔力の持ち主は、通らにゃかったにゃ。移動速度から推測しても、九割がた間違いにゃいと思うにゃ」
「…………ああ。間違いなく、そのオール・ビッドだか言う奴が【子供攫い】だろうな」
タニアの推測に、煌夜は力強く賛同した。そして、ガストンとの会話を思い出して、その内容をタニアに教える。
ガストンはあの時、煌夜たちの目的をいとも容易く看破して、しかも自分が【子供攫い】の共犯であることを暴露した。ということは必然的に、一緒に行動していたオール・ビッドが【子供攫い】に違いあるまい。
煌夜の話を聞いて、タニアは驚愕の後、憎しみの篭った目でベクラルの方角を睨みつけた。
にゃるほど、と納得しつつ、ベスタに渡されていた連絡玉を取り出して、口を開いた。
「昨日の夜、ベスタから連絡があったにゃ。その時、隻眼のゲイルが何者かに殺されたって話を聞いたにゃ。ゲイルは、ヤンフィ様とベスタが疑ってた内通者にゃ。誰に殺されたのかは知らにゃいけど、殺される前に、あちしたちの動向を密告したに違いにゃいにゃ」
タニアの言葉に、ヤンフィも煌夜も頷く。これで、ガストンの言葉の裏が取れた。
「――あ、そうそう、それと……昨日の連絡で、ラガム族の女を無事に助け出せたって、ベスタが言ってたにゃ。ラガム族の女は、奇跡的に五体満足で、意識もハッキリしてるらしいにゃ。名前は――『ライム・ラガム』とかって、言うらしいにゃ」
「あ――あの女の子、無事に助け出せたのか」
「らしいにゃ」
タニアが、ついでとばかりに教えてくれた情報に、煌夜はホッと安堵した。
脳裏に浮かぶのは、狐耳で裸の少女の姿である。思わず赤面して、少女の裸を頭から掻き消す。
そんな煌夜を訝しげな顔で眺めてから、タニアは、さて、と足を踏み出した。進む先は【ベクラルの滝】への道である。
「オールは、森の奥にある廃屋に居るにゃ。何故かアイツ、その廃屋に入ってから、出て来てにゃいにゃ。廃屋は小っちゃいから、そこがアジトとは考え難いにゃ。にゃので、あちしが思うに、そこは仲間との合流地点と考えるにゃ……この先には、森と崖しかにゃいし、崖からは観光名所の滝が流れてるだけにゃし。ここに来る道は、さっきの分かれ道からか、直角の崖を登るしかにゃいにゃ。そして、あちしが見てた限り、まだ誰も来てにゃいにゃ」
そんなことを喋りながらしばらく進むと、涼しげな風と共に森が現れる。
森は見通しよく開けており、背の高い木々が多かった。歩道と言えるほどの道はないが、地面はしっかりしており、それほど草木が生い茂っているわけではないので歩きやすかった。ただし、見渡す限り同じような景色だったので、煌夜一人では確実に迷う自信がある。
そんな森の中を、タニアは慎重な足取りで、鋭く周囲を警戒しながら無音で進んでいく。
煌夜もタニアに倣って、極力、音を鳴らさぬように歩いた。
(……ん? あれ? なんか、身体が軽くなった気が……おい、ヤンフィ、なんかしたか?)
そうして、森の入り口が見えなくなってしばらく経った頃、ふいに煌夜の身体が軽くなった気がした。身体の内側から力が湧き上がるような、気力が充実して全身に力が漲る感覚に、煌夜は戸惑った。
(――何がじゃ? 妾は何もしとらんぞ? 何か異常でも感じるのか?)
(いや……異常ってわけじゃないけど……まぁ、いっか。何でもないよ)
(ふむ……? ならば良い)
ヤンフィはとぼけているわけでなく、本当に何も分からないようで、本気で煌夜を心配してくれた。だが煌夜は、まあいっか、と何事もなかったことにして、話を終わらせる。
身体が動きやすくなる分には、何も困ることはない。確かにこれは異常といえば異常な感覚だったが、どうしてか悪い予感はしない。
「……コウヤ、そろそろ【ベクラルの滝】にゃ。ここら辺から、ちょっとだけ見通しが悪くにゃるから、足元、気を付けるにゃ。万が一落ちたら、助けられにゃくはにゃいけど、かなり危険にゃ」
森に入って真っ直ぐ進むこと、十五分ほど。タニアが煌夜に振り返って、そう注意を促した。
言われて意識を周囲に向ければ、心なしか気温が低くなっていて、空気が湿り気を帯びている。また遠くから微かに、ドドド、と水が勢いよく流れ落ちるような音が聞こえてくる。
前方に生える木々はその密度を増して、地面は急斜面の登りになり始めた。
完全に気分は登山である。
それから程なくして、タニアは傍の木を掴んで立ち止まった。ちょうどそこは小高い丘のようになっており、後ろから見上げる分には、見晴らしの良さそうな場所だった。
煌夜は足元に転がる岩や幹に躓かないよう気を付けながら、タニアの隣に並ぶ――瞬間、そこからの景色に思わず絶句する。
眼に飛び込んできた光景は、絶景の一言に尽きたからだ。
眼下に広がるのは、突き抜ける青空を映したような巨大な湖。
そして、そこに流れ落ちる虹を纏う大瀑布である。
「ス、ゲェ――っと、危ねぇ」
「――コウヤ、気を付けるにゃ。ここは滑るにゃ」
煌夜はその光景に眼を奪われて、思わず足を滑らせる。しかし、予想通りとばかりに、タニアがすかさず腕を引いて、何とか事なきを得た。
煌夜とタニアが立ち止まった場所は、よくよく見ると、崖からせり出した庇のような巨大な一枚岩だった。まるで飛び込み板のようになっているそこは、苔がびっしりと生えており、非常に滑り易くなっている。
煌夜は、くわばらくわばら、と肝を冷やした。
さてところで、眼下に見える大瀑布は、そのせり出した飛び込み板のような岩の直下、崖の途中にある横長の洞穴から噴出していた。
まるでライオンの口から垂れ流される水のような様子で、その洞穴から勢いよく水が噴き出ている。水はそのまま重力に従い、中空で放物線を描いて落水していく。
幻想的なのは、その滝に、虹が纏い付いていることだった。
いかなる現象なのか、滝を守るようにして常に、虹がその周りに架かっていた。
「ここが、ベクラルの滝にゃ。で、オールが立て篭もったアジトは、あそこに見える廃屋にゃ」
呆然と大瀑布の壮観に眼を奪われていた煌夜にその時、タニアが脇をちょいちょいと突付きながら、右手側の方角を指差した。
ハッとして、煌夜はタニアの指し示した方に顔を向ける。しかし、見えるのは深緑の森だけである。
煌夜は目を細めた。ジッとその方角を注視するが、やはり分からない。
(……コウヤよ、瞳に魔力を込めるのは、こうするのじゃ)
煌夜が一生懸命と遠目をしていると、呆れ声でヤンフィがそう呟く。すると、血液が眼球に流れ込むような感覚と共に、双眼鏡を覗いているかのように、視力がグングンと良くなる。
瞳に魔力が込められたようだ。この視界は、まさに千里眼と呼ぶに相応しい。
「――――あれ、か?」
視力10は下らないだろうどこぞの原住民並の視界は、タニアの指し示した廃屋をようやく捉える。それは森の奥深く、木々の隙間からチラリと見えた小さいボロ小屋である。
木々に囲まれて隠れるその廃屋は、場所を知っていないと辿り着けないだろう。
「オールは、まだあそこに篭ってると思うにゃ。あちしは、アイツがあそこに入ってから、ずっと見張ってたにゃ」
「…………タニアって、視力いくつだよ?」
「んにゃ? 視力? んー、ここからにゃら、あの廃屋のドアノブの汚れくらいにゃら見えるにゃ」
タニアのサラリとした告白に、煌夜は内心で驚愕する。
ちなみに、ここから廃屋までは、直線距離にしておそらく1キロ以上はある。その上で、廃屋との間には、遮蔽物として廃屋より背の高い木々が乱立している。その隙間を縫って、かろうじて見える廃屋の、しかもドアノブの汚れまで見えるなんてのは、にわかに信じがたい視力だった。
「あっちから、こっちはおそらく見えにゃいと思うにゃ――けど、一応隠れるにゃ」
タニアは、驚いている煌夜の肩を掴んで、森の中へと戻っていく。
「……あちしは、ここよりもっと向こう側の崖上から、廃屋を監視してたにゃ。そしたら【エンディ渓谷】にコウヤの姿が見えたにゃ」
「ここから、俺が居たところが見えるのか?」
「ここからは角度的に無理にゃ。もっと向こう側にゃ――あそこにゃ。あそこがちょうど、エンディ渓谷の真上にゃ。あちしはそこで陣取ってたにゃ」
タニアは説明しながら、廃屋とは逆側を指差した。
そちらに視線を向けると、200メートルほど先で森が切れており、そこには崖がある。なるほど、と煌夜はとりあえず頷く。
そして改めて、タニアは化け物だな、と寒心した。
「――にゃあ、ところでコウヤ。これからどうするにゃ? あちしは、オールが【子供攫い】かどうかの確信が持てにゃかったから、今日一日は監視するつもりだったにゃ。でも、【子供攫い】の確証が得られた今にゃら、このまま廃屋に突撃しても良いと思うにゃ。アジトがあそこじゃにゃかったとしても、何か情報が手に入るはずにゃ」
タニアが首を傾げながら挙手して、煌夜に今後の判断を委ねてくる。煌夜はその意見を聞いてから、ふむ、とヤンフィに相談する。
(……なぁ、ヤンフィ。どう思う? 俺もタニアの意見に賛成で、ひとまず【子供攫い】の身柄を確保して、攫われた子供たちの居場所を聞きだしたいと思うんだが……?)
(うむ。妾もそれが最善と思うぞ――ここであえて泳がせる意味はないじゃろぅ。時間が経てば、下手をすると、あのガストンだかが現れかねん。そうなったら、ちと厄介じゃ。タニアが暴走するやもしれんからのぅ)
ヤンフィは苦笑しながらそう言って、煌夜の意見に賛同してくれる。
煌夜は、よし、と頷いて、タニアに答えた。
「――ヤンフィとも相談したが、あの廃屋に突入して【子供攫い】の身柄確保を最優先しよう。当然、攫われた子供がいたら、全員助ける」
「にゃ!」
タニアは満面の笑みで短く返事をして、その場にリュックを下ろす。
グルグルと肩を回しつつ屈伸して、身体の節々の準備運動をすると、ガン、と両の拳を合わせた。完全に臨戦態勢である。
「……おい、タニア。やりすぎるなよ? 子供が居たら――」
「――分かってるにゃ。にゃけど、おそらく子供は居にゃいにゃ。隠密行動で廃屋まで最接近した時、中には人の気配が一つしかにゃかったにゃ。それに、ベスタの話にゃら、攫った子供はみんにゃ、時空魔術の使い手が捕らえてる可能性が高いにゃ」
タニアは自信満々にその自慢の胸をドンと叩いて、任せるにゃ、と頷いた。
どうやら待ち伏せで鬱屈した気持ちを、破壊衝動に変えて発散する気のようである。一方、タニアのその言葉で、あ、と煌夜は忘れていたことを思い出した。
(そうだよな……もし、あのガストンが、攫った子供を連れてる場合、やっぱアイツと戦わないと――)
(――コウヤよ。そのもしもの過程は、ひとまず捨て置け。順番じゃ。まずは【子供攫い】を捕らえる。話はそれから、じゃろぅ?)
(…………ああ、そうだな)
煌夜の考えを、即座にヤンフィは斬って捨てる。確かにそれは正論である。だが、あまりにもドライすぎる意見でもあった。
煌夜としては、最優先は子供攫いと言うよりも、子供攫いの攫った子供たちの行方こそが最重要である。とはいえ、子供を救い出すでも、子供攫いを潰すでも、今やることは変わらない。
煌夜はやる気満々のタニアに苦笑を浮かべて、廃屋側に向かって足を踏み出す。
「にゃにゃ? コウヤ、どこ行く気にゃ?」
「――――あ? いや、あの廃屋じゃないの?」
「にゃら、そっちじゃにゃいにゃ。廃屋に徒歩で行くにゃら、だいぶ遠回りしにゃいと無理にゃ。森の中を真っ直ぐ向かうと、途中に川が流れてるから通れにゃいにゃ」
にゃのでこっちにゃ、とタニアは煌夜の腕に腕を絡めて、どうしてか、せり出した岩場に進む。
もうここから先には、道はない。なんだ、と煌夜は怪訝な顔をタニアに向ける。嫌な予感が頭を過ぎる。
「おい……こっちは、崖――」
「突撃するにゃら、こっから一気に向かった方が早いにゃ。大丈夫にゃ。この程度の距離にゃら、コウヤを持ってても、何とか行けるはずにゃ――【魔装衣・天族】」
タニアはニッコリと笑ったまま、その全身から緑色の暖かい光を放つ。それは魔力の奔流である。
溢れ出した魔力はタニアの背中で収束して、四対の巨大な翼を形成する。煌夜の頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
「――――舌噛むから、口を閉じてた方が良いにゃ。行くにゃ」
「ちょ、待てよ――ぐっ!」
緑色で半透明をした天使の如き翼を生やしたタニアは、絡めた煌夜の腕をさらにグッと抱き締める。むにっと、柔らかく暖かい胸が煌夜の腕に押し潰されるが、その感触を楽しんでいる心の余裕はまったくない。
次の瞬間――――想像通りに、タニアは煌夜ごと空を舞う。
(ほうほうほう――当然と云えば当然じゃが、タニアは天族形態もお手の物か……なるほど、なるほど)
やたらと感心するヤンフィの声を聞きながら、煌夜は身体に襲い掛かってきた凄まじい重力に必死に耐えていた。
どうしてか、全身がプレス機で潰されるような錯覚をする。深海に生身で潜って水圧で潰されるのはこんな感覚なのだろうか、と思わず考えたほどだ。
煌夜と腕を組んだタニアは、中空をゆらゆら舞うと、突如、速度0から時速100キロほどに急加速して飛翔する。
まるで弾丸の如く真っ直ぐと、廃屋の場所に向かって飛んで行く。
顔が引き攣るほどの風圧が煌夜の顔面を襲った。だが、それはほんの一瞬の出来事だ。
ドガン、ズザァアア――と、けたたましい爆音が響き、飛翔したタニアと煌夜は、廃屋の手前に広がっていた木々を蹴散らして着地する。その衝撃で地面は抉れて捲り上がり、通り道にあった大木が音を立てて圧し折れた。
「着いたにゃ――コウヤは、ちょっとここで隠れて、待機していて欲しいにゃ。あちしが、まず先制攻撃するにゃ」
「………………」
着地するが否や、タニアはそう言って、煌夜の腕を解放した。
煌夜は返事も出来ずに、その場に崩れ落ちる。けれど、タニアと離れた途端に、煌夜を襲っていた凄まじい重力は消失してくれた。
タニアは崩れ落ちた煌夜など気にも留めず、四対の翼をそのままに、右拳を肩の高さで引き絞った。視線は正面の廃屋を向いており、その姿勢は弓道の会の姿勢を思わせる。
そして、一瞬の静止と静寂――タニアが右の拳を前に突き出す。そこに腰は入っていない。ただただ突き出しただけの姿勢である。その刹那、拳から眩い槍状の矢が一つ、廃屋に向かって飛翔した。
それは当然ながら廃屋に激突して、閃光弾の如き凄まじい光と爆音を発生させる。
「――――――ぁ」
まともにその閃光を見て、その爆音を耳にして、煌夜は苦しげに顔を歪める。
頭の中で、キーン、と耳鳴りがして、グワングワンと脳が揺れた。
(……いきなり【魔槍窮】とは、容赦がない上に、馬鹿じゃのぅ)
ヤンフィの言葉が心の中で響くが、今の煌夜はそれに返事をする余裕がなかった。だが、その意見には全面的に賛成である。
タニアは馬鹿だった。
どうして中の様子を確認する前に、小屋ごと吹き飛ばすような大技を放つのか。
子供攫いを確保するのではないのか――これでは、中の人間が即死していてもおかしくない。そんな心配が、声にならず煌夜の頭の中をグルグルと回っていた。
やがて、閃光と爆音が落ち着いた時、ガラガラガラ、と何かが崩れ落ちる音がする。
煌夜は目を擦りながら、顔を上げた。そこに広がっていた光景は、しかし煌夜の想像していたような光景ではなかった。
廃屋は、屋根の部分が吹き飛んでいただけで、瓦礫と化してはいなかった。先ほどの崩れた音は、廃屋の脇に積まれていた割られていない薪が崩れた音だったらしい。
タニアは拳を突き出した姿勢を戻して、首を回してから一歩足を踏み出した。
「――――抵抗するにゃら、死ぬ気で来ることにゃ!!」
タニアは大声でそんな宣言をする。その声音には愉悦が混じっていた。きっと口元は笑っているに違いない。
一歩、一歩、噛み締めるように廃屋へと近付いていく。それを見ながら、煌夜は頭を振って身体を起こした。
(クソッ……タニアを、止めないと……)
(待て、コウヤ――――何者か、現れるぞ)
煌夜がタニアに制止の声を掛けようとした時、ヤンフィがそれを止める。同時に、ギギィ、と扉が開いて、中から一人の青年が姿を見せた。
「何者だ! いきなり小屋を破壊し――き、貴様っ、タニア・ガルム・ラタトニア!? クソっ、そんな馬鹿なっ!!」
現れた青年は怒鳴り声と共に、持っていた杖をタニアに向けたが、タニアの顔を視認した瞬間に顔面蒼白になる。
そして、馬鹿な、と喚きながら、脱兎の如く背を向けて森の中へと逃げ出す。しかし、当然そこで逃がすほどタニアは甘くない。
青年はすかさず、近くにある大きな木の後ろに隠れるように回り込んだ。だが、タン、と軽い跳躍でもって、タニアはその前に先回りしてみせた。
青年の足もかなり速かったが、タニアの動きはそれ以上に速い。
「クソッ、クソッ!! お、『大いなる炎、我が命に――」
「遅いにゃあ。とりあえず、眠るにゃ!」
「――――がっ、ぁ――っ!」
口惜しそうに悪態を吐きながら、咄嗟に何かの魔術を詠唱した青年の鳩尾に、タニアのボディブローが突き刺さる。
ズドン、という重い音が聞こえて、青年の身体は勢いよく吹き飛んだ。受身も取れず、そのまま大木に激突して崩れ落ちる。
タニアはうつ伏せに倒れた青年を冷めた目で見下ろして、その動きを注視した。しかし、青年はピクリとも動かない。
戦闘はわずか十数秒であっけなく決着した。
タニアが強すぎるのか、相手が弱すぎたのか、その両方か――ともかく、タニアが大事なくて良かったと思う反面、これが人違いだったらマズイな、と煌夜は少しだけ不安になる。
「…………なぁ、タニア。ソイツが、子供攫い、か?」
煌夜は恐る恐るとタニアに近付く。タニアは視線を倒れ伏した青年から動かさず、そうにゃ、と口を開く。
「コイツが、オール・ビッドにゃ。このなりで、やっぱり八十七歳にゃ――」
「…………八十七歳、なのか? 本当に……?」
「あちしの【鑑定の魔眼】には、そう表示してるにゃ」
まったく身動きしない青年を眺めながら、煌夜は信じられないと眉根を寄せる。するとヤンフィが、間違いない、と反応した。
(此奴も、幻惑魔術で姿を偽っておるわ……ほれ、よく見よ、コウヤ。ちょうど、此奴の幻惑魔術が解けるぞ)
ヤンフィの言葉通り、青年の髪が黒髪から白髪に変わり、それも薄くなる。
身体つきもガッシリした体躯から、腰の曲がった老人の姿に変わる。その姿格好は、まさしく八十代の様相だ。
「幻惑魔術が解けたみたいにゃ……これが本当の姿にゃ」
「…………死んだ、わけじゃないよな?」
「まだ生きてるにゃ」
タニアは力強く頷いた。死んだから幻惑魔術が解けたわけでないようで、煌夜は少しだけ安堵する。
「しかし……コイツが、【子供攫い】か……」
煌夜は倒れ伏したオールの顔を見ようと、中腰になって手を伸ばした。それをタニアが肩を掴んで止める。
「――コウヤ。それ以上、近寄らにゃい方が良いにゃ」
「え? どうかし――」
タニアに振り返りながら、どうかしたのか、と問い返そうとした時、オールがバッと身体を起こす。その動きは、老人とは思えないほどの俊敏な身のこなしで、煌夜とタニアから数歩分の距離を取った。
オールは、しわだらけの顔を苦悶に歪めて、口元から血を流しながら、杖を煌夜に向けて振り下ろす。
「――燃やし尽くせ。業火』」
魔術の最後の一節を詠唱して、オールの杖からは渦巻く炎が巻き起こった。
炎は悪意を伴って煌夜に襲い掛かる。煌夜が、ヤバイ、と身構えた時には既に遅い。煌夜の身体は炎に巻かれていた――が、それは瞬きの瞬間に、鎮火する。
「――――化け物……」
「寝てろ、にゃ」
炎が煌夜を襲ったのと同時に、タニアが無詠唱で煌夜に滝のような水を浴びせていた。
炎はそれですぐに消え去り、オールは歯噛みして毒を吐く。そして、流れる動作で踏み込んだタニアの前蹴りを胸に受けて、サッカーボールか何かのように軽々と後方へ飛んで行く。
何度か転がり、オールは身体を痙攣させながら、仰向けに倒れ伏した。
しわだらけの顔は引き攣り、白目を剥いている。これは演技ではなく、間違いなく気絶していた。
「さてと、とりあえずコイツ、どうするにゃ?」
タニアは、ボロボロのオールを見下ろして、煌夜に問い掛ける。煌夜は、ああ、と頷いた。
「逃げないよう、縛っておこう――それより、廃屋の中を調べよう。攫われた子供が居るかも知れない」
「…………人の気配はにゃいと思うけどにゃ」
「隠し通路とか、あるかも知れないだろ?」
煌夜は屋根が吹き飛んで半壊している廃屋に意識を向ける。入り口の扉は開いたままで、覗ける室内には誰もいないように思える。
しかし、果たして本当にそうだろうか。ともかく、ここがアジトでないことを確認するのが先決だろう――と、煌夜が思考を巡らせた時、ボキバキ、という嫌な音が響いた。
ハッとして視線をタニアに向けると、タニアは無感情に、気絶しているオールの手足を折っていた。両手足、四本が全て逆向きに曲がっている。
「タ、タニア、さん!? 何を――」
「――縛るモノがにゃいから、逃げられにゃいよう、足を潰しておくにゃ。当面、これにゃら、動けにゃいはずにゃ」
タニアは悪びれもせず笑顔で言って、煌夜と肩を組むと、半ば無理やり廃屋の中へと進んでいく。チラと見えたオールの顔は、ブクブクと蟹みたいに泡を吐いていた。
廃屋の中に入ると、そこには予想通りに何もなかった。
十二畳ほどの一間しかない部屋で、暖炉と薄汚れたベッド、小汚いテーブルと椅子があるだけである。床は埃が積もっており、そこには一種類の足跡しかない。
どうやらオール以外には、誰もいなかったらしい。
ちなみにテーブルの上には、地図のような紙が置かれており、何箇所かに赤い丸が描かれていた。
「これは――【湖の街クダラーク】周辺の地図にゃ」
タニアがその地図を見て、そんなことを呟いた。その名称はどこかで聞いた覚えがある。
「【クダラーク】も、子供攫いの行商範囲って、ベスタは言ってたにゃ。とにゃると、この赤い丸が拠点の可能性が高いにゃ……」
ああそうだ、と煌夜は思い出す。
確かに、ベスタが子供攫いについて説明していた時、拠点の一つとして【クダラーク】と言う名称を上げていた。
これは貴重な情報源だろう、と改めて地図を見る。けれど、煌夜には書いてる文字は当然ながら読めなかった。
「……地図以外に、目ぼしいモノは、にゃさそうにゃ」
ひとしきり室内を見回り、一応、暖炉の中まで確認して、他に何もないことが分かると、タニアがそっけなくそう宣言した。煌夜もそれに頷いて、ガックリと肩を落とす。
仕方ない、あとは子供攫いへの尋問か、と煌夜はタニアと一緒に廃屋を出ようとした。その時、ふとヤンフィが何かに気付く。
(――コウヤ、待て。床下に、空間がある)
ヤンフィの言葉に、煌夜は足元を見た。埃まみれの床に無数の足跡、しかし、ある一点でその足跡は不自然にずれていた。
よく見れば切れ目のような線が見えて、さらに注視すると、その床板は外せそうだった。
煌夜は汚れるのも構わず、床にしゃがみ込む。すると、タニアもそれに気付いて、にゃにゃ、と驚きの顔を浮かべながら、注意深く煌夜の行動を見守っていた。
「地下が、あったのかにゃ――こんにゃとこに?」
「――ここがアジトの一つかも知れないな。攫われた子供がいるかも知れない……」
床板は重かったが、転がっていたバールのような鉄を使い、梃子の原理でなんとか持ち上げてスライドすれば、地下へと続く梯子が顔を見せる。
ゴクリと息を呑んで、煌夜はタニアと視線を合わせる。無言でタニアは頷き、煌夜を押し退けて、先に梯子を降りて行った。
(コウヤよ、魔術残滓から察するに、オール以外の痕跡はここにはなさそうじゃが……警戒を怠るなよ?)
タニアが梯子を降りきったことを確認して、煌夜も降りようと足をかけた時、ヤンフィがそんな忠告をしてくれる。
それに、分かっている、と頷いて、煌夜はゆっくりと地下への梯子を降りて行った。
※文字数18000越え
我ながら超長文になっている。反省