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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第四章 鉱山都市ベクラル
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第二十四話 目覚めないセレナ/戻らないタニア

 寝室に苦しそうな吐息が響いていた。煌夜の前にあるベッドには、苦しげな表情で昏々と眠り続けているセレナがいる。

 セレナはあれから――煌夜が風呂場から助け出してからずっと、もう半日以上、意識を取り戻していなかった。

 逆上せたか、あるいは、湯あたりだろうと軽く考えていたのだが、それにしてはここまで昏睡しているのはおかしい。

 けれど、この症状が何なのか、何が原因で昏睡しているのか、煌夜にはまったく見当が付かなかった。

 煌夜は、いつかのサラの手術中のような心境で、苦悶の表情を浮かべているセレナを看病していた。


「――おい、セレナ。返事、できるか?」 


 何度目かになる呼び掛け、しかしやはりセレナは何の反応も見せず、変わらずただ呻くだけである。

 煌夜は溜息を漏らしてから、セレナの額に乗せていた濡れタオルを新しいものに交換する。

 効果があるようには思えなかったが、やらないよりはマシだろう。原因が不明な以上、地道に介抱する以外為す術がない。


(なぁ、ヤンフィ。本当にこれ、寝かせておくだけで大丈夫なのか?)


 煌夜はこれまた何度目かの疑問を、ヤンフィにぶつける。するとヤンフィは、何の心配もないとばかりに平然と答える。


(大丈夫じゃ。放置しておけば治るわ)

(そう言って、もう何時間経ったんだよ? 一向に意識は戻らないし、苦しげな様子も変わらないぞ?)

(焦っても仕方あるまい。まぁ、こうやって甲斐甲斐しく看病しておれば、そのうち治るじゃろぅ)


 何度聞いても、やはり同じ答えだった。本当かよ、と疑念を浮かべつつも、煌夜は心配そうな顔をセレナに向ける。

 眉根を寄せた苦しげな表情で、喘ぐように息を乱れさせるセレナは、果たしてヤンフィの言う通り放っておいて治るのだろうか、甚だ疑問である。


(そもそも何が原因で、こうなったんだよ?)


 煌夜は、ソファで意識を失う直前――セレナが沐浴に行く時のことを思い返して、特に異常がなかったことを再確認する。

 となれば、何か不測の事態が起きるとしたら、沐浴中でしかありえないだろう。すると必然、誰が、何をしたか、容疑者は一人に絞られた。


(なぁ、ヤンフィ。お前――何をしたんだ?)


 セレナが倒れていた時、どうしてか煌夜はソファではなく、脱衣所に倒れていた。そして、ヤンフィは本来の姿で、風呂場から出てきた。

 つまり、ヤンフィが原因でセレナがこうなったであろうことは、想像するに難くない。

 だがそれでも、ヤンフィが自信を持って、放置しておけば大丈夫、と再三繰り返すので、煌夜もさして追求はしなかった。大方、タニアの時と同じように、自己紹介がてら実力を見せ付けて、脅すついでに魔力を奪ったりでもしたのだろうと思っていたのだ。

 その証左に、煌夜の左腕が直っている。

 けれど、そうだとしても、ここまで昏睡するのは明らかに変である。

 煌夜は今更だが、ヤンフィに事情を問い詰める。ところが、ヤンフィはのらりくらりと誤魔化すように答えた。


(何を、のぅ――妾は自己紹介のついでに、魔力をちょいと拝借しただけじゃよ。タニアの時と同じじゃ。ただ少しだけ魔力を奪いすぎたようで、セレナは魔力切れを起こしたのじゃ。じゃから、心配は要らぬ。放置すればいずれ治るわ)

(タニアの時と同じか? タニアは、こんな昏倒しなかったよな? 本当にただの魔力切れなのか?)

(心配性じゃのぅ――本当に、ただの魔力切れじゃよ。嘘偽りなくのぅ。だいたい、タニアは魔力切れを起こしておらんかったじゃろぅ。昏倒しなくて当然じゃ)

(本当に――本当か?)

(くどいのぅ。本当じゃよ。セレナは、魔力切れじゃ)


 ヤンフィは明らかに何かを隠している。だが、その言葉自体に、嘘はないように思えた。煌夜はどこか腑に落ちなかったが、これ以上問い質しても無駄だと分かって沈黙した。

 ふとその時、セレナが苦しそうに身動ぎする。気が付いたか、と煌夜は視線をセレナに向けた。しかし、気が付いたわけではないようだ。

 パサリ――と、セレナの胸に掛かっていた毛布がはだけた。一糸纏わぬ白く透き通る肌が惜し気もなく煌夜の前に晒される。

 その光景に、思わず目が釘付けになり、煌夜は無意識に唾を呑んだ。

 胸のはだけたセレナのその姿は、苦しそうな表情もあいまって、非常に艶かしかった。


(おお……そうじゃそうじゃ。セレナを助ける方法が、二つほどあったわ)


 煌夜がセレナのそんな艶姿を見て硬直していると、不意にヤンフィが、思い出した、と言いながら声を上げる。

 その声にハッとして、煌夜は慌ててセレナの上半身に毛布を掛け直す。


(何だよ……その、助ける方法って)

(うむ。助ける方法――と云うよりも、回復を早める方法じゃな。一つは、単純至極で最も安易、誰にも不利益のない方法じゃ――じゃが、おそらくコウヤは、この方法は選ばないじゃろぅ)

(……選ばない、って?)

(フッ――その方法は、セレナを抱くことじゃ)

(…………抱く?)


 ヤンフィの単語に、煌夜は一瞬首を傾げた。そして、正しくその意味を理解できずに、オウム返しに聞き返す。

 ヤンフィはその反応を予想通りと笑いながら、無駄に具体的な説明を始めた。


(無論、ただ抱き締めると云うことではないぞ? セレナと契るのじゃ。そうすれば――)

(いやいやいやいや――どうして、そうなる? アレか? 魔力の供給方法として、粘膜接触が必要とか、そういう設定なのか? だとしたって、俺は魔力なんてないから意味ないだろ?)


 ヤンフィの説明を最後まで聞かず、煌夜は勢い良く首を振る。若干、頭の中が混乱していた。

 魔力が足りない時に、異性と交わって魔力を与え合う――それはゲームの世界では典型的な設定だった。バイト仲間で悪友の後藤くんから、煌夜はその手の話をさんざん聞かされていた。

 だから、いざそんな設定を振られて、思わず気が動転した。しかし、煌夜の言葉に、ヤンフィは不思議そうな声を上げる。


(ん? 魔力供給? 粘膜接触? 何の話じゃ? ……コウヤの世界では、粘膜接触で魔力を供給できるのか? それは、凄いのぅ。じゃが、生憎こちらの世界では、そういう方法はない)

(…………あ、え、あ、そう、なの?)


 一人で勘違いして内心で慌てていた煌夜を、ヤンフィは冷静に否定する。煌夜はその冷静な返しを受けて、かなり恥ずかしくなった。


(――魔力供給ではなく、魔力共有じゃ。妖精族は一生涯に一度、最初に契った相手と魔力を共有する性質がある。契った相手の魔力を己の魔力と混ぜ合わせることで、己と相手の魔力の質を、強制的に変異させるのじゃ。本来、魔力と云うものは千差万別で、誰一人として同質の魔力を持つことはない。それ故に、魔力を他者に譲渡することは、基本的には出来ぬのが摂理じゃ。じゃが、妖精族はその性質でもって、同質の魔力を持つ存在を作り出せる)


 ヤンフィは淡々と語る。それを聞いて、煌夜はふと首を傾げた。

 魔力の共有、と言うことは、お互いが魔力を持っている前提だろう。だが、煌夜に魔力はない。それでは、共有はできないのではなかろうか。

 そうは思ったが、とりあえず話の腰を折るのも何なので、煌夜はヤンフィが説明を終えるまで口を閉じている。


(同質の魔力を持つ者同士ならば、魔力の譲渡は可能になる――つまり、コウヤとセレナが交われば、汝らは同質の魔力を共有できる。そうなればセレナに魔力を譲渡できる。魔力切れを起こしておるセレナに魔力が譲渡できれば、必然、回復も早くなる。しかも、魔力の共有をすると、妖精族はその身体の構成の半分を、肉の器に作り変える。肉の器になればその分、身体を維持する魔力量が減るので、いっそう魔力消費を防げる――ほれ、どうじゃ? ただセレナを抱くだけで、結果、セレナを助けることに繋がるのじゃ)

(……正直、ヤンフィの言う理論はよく理解できんけど……セレナとヤると、セレナが回復する、ってのは、理解できた……)

(うむ。まぁ、理論なぞどうでも良い。肝心なことは――セレナを助ける方法としては、此奴と交わることが、今時点で最も簡単、且つ無難な回復方法と云うことじゃ)

(…………質問があるんだが、いいか?)


 抱く、抱かないは別問題として、煌夜は疑問に思ったことをヤンフィにぶつける。ヤンフィは、なんじゃ、と聞き返してくる。


(まず第一に――俺は魔力を持ってないだろ。だから、魔力の共有なんてできないと思うんだが? それと、その……セレナが、まだ誰とも、魔力を共有してないって、どうして言えるんだよ? もしかしたら、もう誰かと魔力を共有してるかも知れないだろ)

(――確かに、コウヤ自身は魔力を持っておらぬ。じゃが、コウヤの身体には、妾の魔力が宿っておる。その妾の魔力がコウヤの身体と結び付き、同時に、セレナの魔力と混ざるのじゃ。つまり、妾の魔力がコウヤの魔力となり、またそこにセレナの魔力が混ざり、それが結果的には、コウヤに根付くことになる。まぁ仮に妾の魔力がなくとも、セレナの魔力はコウヤの生命力と混ざり合って、結局、新しい質の魔力がコウヤに宿ることになるがのぅ……じゃから、魔力の有無はあまり関係ない。ああ、それと――セレナが誰とも交わっていないのなんぞ、此奴の顔を見れば分かるじゃろぅ。処女の証でもある妖精族の魔術紋様が消えておらん――妖精族は誰かと契り、魔力共有すると、頬に浮かぶ魔術紋様が消えるのじゃ)


 ヤンフィは説明しながら、コウヤの視線をセレナの顔に向けさせる。

 苦悶の表情を浮かべるその両頬には、不思議な幾何学模様が刻まれている。

 煌夜はその魔術紋様をマジマジと眺めた。頬に浮かぶ幾何学模様、てっきりそれは、妖精族独特の風習による刺青の類だと思っていた。だが、実はそういうことではないらしい。

 へぇ、と感心の吐息が零れた。


(ちなみに妖精族は、性交による快感に弱く、溺れやすいとも聞くぞ? じゃから、コウヤが調教してやれば、従順な奴隷に仕立てることも可能ではないのかのぅ?)

(――おい、それはまったく無意味な情報だろ)


 煌夜のツッコミにカラカラと笑ってから、ヤンフィは、さて、と話を続けた。


(まぁ、それが一つ目の方法じゃが、コウヤはそれを選ばんじゃろぅ?)


 聞くまでもなく答えは分かっていると、ヤンフィは苦笑交じりに問うてくる。煌夜はその予想通りに頷いた。

 ヤンフィの思っている通り、確かに煌夜はその方法を選ばない。

 そういうことをするのなら、当然ながら、双方合意の上でなければならないし、そもそも本当に好きあった相手とでなければ、しては駄目だろう。

 煌夜は貞操観念が強いのである。


(ああ、選ばないな……それで、二つ目の方法って?)

(うむ。もう一つの方法じゃが……これもまた至極簡単で、じゃが今時点では不可能な方法じゃ)

(どういうことだよ?)

(妖精族は別名を【月桂樹の民】と云う。月桂樹の傍らで生きて、月桂樹から魔力を供給する稀有な種族じゃ――つまり、月桂樹の傍に連れて往くことが出来れば、セレナは魔力を回復できるじゃろぅ)


 ヤンフィはサラリとそんなことをのたまう。それは、物凄く簡単である。

 おお、と煌夜は感嘆の声を上げて、何が不可能なのか首を傾げた。だが、その理由はすぐに分かった。


(コウヤよ。生きた月桂樹は、オーガ山岳地帯の森のどこかに自生しておるじゃろぅ。じゃが、タニアの居ない今、妾とコウヤだけで、この意識不明のセレナをどうやって森まで運ぶのじゃ? 申し訳ないが、妾がコウヤの身体を使ったとしても、あの絶壁を登る術はない。そして、あの絶壁を登る以外に、妾はここから森へ往く道を知らぬ)

(…………ああ、なるほど)


 言われて、煌夜はすんなりと納得する。確かにそれは不可能である。


(じゃあ、セレナはこのまま、寝かせておくしかないのか……)

(コウヤが抱かないのならば、放置するしかないのぅ。まぁ、死ぬことはないが――それにしても、タニアは遅いのぅ)

(……ああ、そういえば、そうだな)


 ヤンフィの呟きで、煌夜もはたと気付いた。タニアとはまだ合流できていない。

 宿屋の外を見れば、とっくに日は沈んでおり、夕方から弱くなっていた雨はこの時間になってようやく降り止んでいた。

 空を覆っていた黒い雲は見事に流れて、夜空には月が二つ浮かんでいる。

 今の正確な時刻は分からないが、タニアと別行動し始めてからそろそろ丸一日が過ぎる。

 それでもまだ戻ってこないのは、遅いのか、妥当なのか――煌夜には、いまいち判断が出来なかった。


(……タニアと、連絡を取る手段もないしな。まだ待ち伏せしてるのか?)


 タニアのことを考えると、不安が過ぎる。

 もしかして、このままタニアと逸れてしまうのではないか――不安は膨らみ、何とかしなければ、という焦燥も生まれる。

 しかし、探しに行きたくとも、セレナがこの状況では迂闊に動けない。

 せめて連絡を取り合う手段があれば、と思うが、それはないものねだりである。


(さぁのぅ……果たして、目的の奴隷商人【子供攫い】がまだ現れておらぬのか、それとも何らかの問題に巻き込まれたのか――タニアのことじゃから、後者の可能性が高いが……どちらにしろ、今は待つしかないのぅ)

(…………クソッ。もっとちゃんと段取っておけば良かったか……)

(コウヤよ。そう焦っても仕方ないぞ? なに、タニアのことじゃから、そうそう大事にはならぬじゃろぅ。とりあえず今は動かず、明日まで待つのが良いと思うぞ)


 煌夜は、苦しげなセレナの寝顔をもう一度見てから、ヤンフィの言葉に歯噛みしながらも頷いた。

 確かに今は焦っても仕方ない。だが、そうとは分かっていても、そこまで簡単には割り切れなかった。生まれた不安は拭いきれない。


 グゥウウ――と、その時、煌夜の腹の虫が思い切り鳴った。

 どれほど不安だろうと、空腹は容赦なく襲い掛かるらしい。


 煌夜はシリアスな場面で鳴り響いたその音に、顔を赤らめて沈黙する。すると、ヤンフィが苦笑しながら進言してくる。


(フッ――それよりもコウヤよ。ボチボチ、腹ごしらえをした方が良いのぅ。腹が減っておっては、良い案なぞ浮かばんぞ?)


 恥ずかしげに頬を掻きながら、煌夜は、わかってるよ、と立ち上がる。

 セレナの隣でこのままじっと看病していても、あまり意味があるようには思えなかったし、今までの状況から分析するに、少なくとも放置することでセレナの容態が急変することもなさそうである。


「飯、食って来るか、ひとまず……」

(ふむ。そうするが良い。そうして、今日はサッサと休め。動くのは明日じゃ、明日)


 煌夜は声を出して、セレナの様子を窺う。しかしセレナは、そんな煌夜の声にも反応を見せず、ただ苦しそうに喘いでいるだけだった。


 セレナが意識不明の状態なので、煌夜は部屋に鍵を閉めて、宿屋の一階に降りて行った。

 一階の食堂は、昼時と比べるとほとんど人がいなかった。夕食の時間には遅いのだろうか。客はまばらで、見渡す限りは、食事をしている客よりも酒を飲んでいる客の方が多かった。


「お、いらっしゃい。ずいぶんとお疲れだったみたいですね? お食事です、か? ん? あれ? お客様、って――ん?」


 煌夜がカウンターの空いている席に座ると、店主が笑顔で挨拶をしてくるが、その視線を煌夜の左腕に向けた途端、怪訝な表情を浮かべてくる。

 しきりと目を擦って、あれ、と何かを思い出すように頭を押さえていた。

 煌夜はそんな店主の反応に疑問符を浮かべながらも、あまり気にせず食事の注文をする。


「ああ、食事をお願いしたい。今日のオススメでいいよ」

「――あ、ええ。畏まりました……少々、お待ちください」


 店主は相変わらず怪訝な表情のまま、しかし注文されたので、食事の用意を始める。

 何か変だろうか、と煌夜は自分の身体を見下ろすが、別段変なところはないように思う。


「あの……お客様……確か『コウヤ』様でしたか? その、一つ……お聞きしても、宜しいですかね?」


 煌夜が店内のアルコール臭さと喧騒に呆としていると、店主が恐る恐ると声を掛けてくる。

 ん、と店主を見れば、視線がバチとぶつかった。店主の視線は、何かを探るような鋭さがあった。


「……あ、ああ、答えられることなら……」

「コウヤ様は、いらっしゃった時は、隻腕だったと記憶しているんですが……それは、義手か何かで?」


 店主は視線を煌夜の左腕に移した。その質問に、煌夜はハッとしてから、あー、と納得する。

 そういえば、この宿屋に来た時はまだ左腕が直っていなかった。それを知っている人間が驚くのも無理はないだろう。

 煌夜は誤魔化すように乾いた笑いをしながら、どう説明すれば良いのか思考を巡らせる。

 そんな煌夜の顔をジッと見ながら、店主は厳つい顔をさらに厳つくさせていた。かなりの威圧感がある。しかし、手元の調理はまったく淀みなかった。


「あー、まぁ、その……部屋で、直ったって言うか、直したと言うか――」

「――まさか、お連れの妖精族。隻腕を回復できるほどの、治癒術師なんですか? だとすると【聖級】の治癒術師――つい先日、神王国で行方不明になったと噂されてる、【神姫しんき)】ですか?」


 煌夜の曖昧な言葉の途中で、店主が興奮気味に睨んできた。

 その推測はまったくの勘違いだが、何かマズイ空気が漂い始めていた。煌夜は下手に誤魔化すと墓穴を掘りそうだったので、慌てて言葉を訂正する。


「いやいや、これね。よく出来てるけど、義手でして――部屋で、直したんですよ?」

「…………義手? はぁ、そうですか……ふむ。よく出来ていますね」

「ええ、そうそう。本物みたいでしょ? 特注でして」


 煌夜はすかさず義手と言う設定に乗っかる。直感で、あのまま勘違いされるとマズイ気がしたからだ。

 しかしその直感は、ヤンフィも感じていたようで、煌夜の言葉に合わせるように、左腕を光らせてくれた。

 淡い緑色が腕から溢れ出して、指先がシャベルみたいに形を変える。それを目の当たりにして、店主はようやく疑いの眼差しを解いた。


「――それ、生体義手ですか? それとも、魔力体で出来た義手ですか? いやはや、どちらにしろ凄まじい技術ですね。一体どこの工房で作成したものなんですか?」

「あー、その、それは――」


 先ほどの疑いの眼差しはどこへやら、今度は一転して興味津々に喰い付いて来る店主に、煌夜は困った顔で笑った。

 どう誤魔化せば良いのか、まるで思いつかない。すると、ヤンフィが煌夜に代わって答える。


「――秘密、じゃ。冒険者は、手の内を他人にそうそう明かさぬ」

「あ、おっと、それはそうですね。失礼しました――――お待たせしました。今日のオススメです」


 ヤンフィが短く強い口調で答えると、店主は一瞬たじろいでから、慌てて頭を下げる。そして、ちょうど出来上がった食事を出してくれた。

 ヤンフィはそれきり押し黙って、煌夜は出された食事に手をつける。

 それから食事を終えるまで、店主は一度も話しかけては来なかった。これ幸いと、煌夜はそそくさ食事を平らげる。


「――あ、ちなみに、タニアって獣族はまだ来てないんだよね?」


 煌夜は食事を終えて席を立つと、念の為、店主にタニアが来ているかどうか確認する。しかし、店主は来てないと首を振るだけだった。


 部屋に戻ると、セレナの容態は相変わらずだった。

 煌夜の声にも反応せず、ただただ苦しそうな表情を見せるだけだ。その様を眺めていると、本当にヤンフィの言うことが正しいのか、またも不安になる。

 だが、そんな煌夜の心配をよそに、ヤンフィは平然とした口調で、もう休め、と煌夜に休息を勧めてくる。

 煌夜はとりあえず、セレナの額のタオルを新しいものに変えてから、ヤンフィの勧めに従い、ベッドに倒れ込んだ。

 眼を瞑って眠りに就こうと考えれば、煌夜の意識はあっけなく暗闇に溶けていく。

 どうやら思っていたよりも疲れが溜まっていたようだ。もの数秒で、煌夜の意識は霧散した。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 チュンチュン、という雀の鳴き声に、煌夜の意識は起こされた。

 薄目を開けると、見慣れぬ天井。

 上半身を起こすと、そこそこ広い寝室に、一人用ベッドが四つ置かれており、その一つに煌夜は寝ていた。

 かすかに隣から聞こえる吐息に気付いて視線を向けると、隣のベッドにはセレナが寝ていた。

 セレナはまた身動ぎしたのだろう。上半身の毛布がはだけて、美しい双丘が顔を見せている。その表情は、相変わらず眉根を寄せた苦しげなもので、容態は何一つ変わっていないようだった。

 煌夜は寝起きの頭を振りながら起き上がり、とりあえず真っ先に、健全な男子にとっては目の毒であるセレナの薄い胸を隠した。


 背伸びをしながら寝室を出て、リビングから窓の外を見る。

 外は、昨日の土砂降りが嘘のようにカラッと晴れており、既に日はだいぶ高くなっていた。これはもはや朝ではない。

 今、何時なのだろうか、と頭を掻きながら、煌夜は洗面所で顔を洗った。


(……疲れておったようじゃのぅ、コウヤよ。今はおそらく、十二時前後じゃ。たっぷりと半日以上、寝こけていたようじゃ)

「半日、ってマジか……そんな疲れてたのか、俺は……」


 煌夜は、ヤンフィの答えに割りとショックを受けながら、昨日と比べるとだいぶ軽い身体を動かして、セレナのいる寝室に戻ってきた。


「――おい、セレナ。もう昼らしいんだが、起き上がれるか? っていうか、意識はあるか?」

「………………」


 煌夜の呼び掛けに、しかしまったく昨日と変わらぬ無反応が返ってくる。

 煌夜はしばしセレナの横顔を眺めてから、ふぅと溜息を漏らす。


(おい、ヤンフィ。セレナは本当に、このままで大丈夫なのか? 昨日から容態が何一つ回復してないように思うんだが……これ、マジでヤバいんじゃないのか?)

(――せっかちじゃのぅ。大丈夫、と思うがのぅ……ちょいと、セレナの手を確認してくれぬか?)

(手? ああ……)


 煌夜はヤンフィの言葉通りに、セレナの手を取った。

 セレナの手は枝のように細く、白く透き通っていて、ぷにぷにと柔らかい。しかし、凍ったように冷たい手だった。一瞬、触ってビクついてしまう。


(……ふむ。【灰化現象】は起きておらぬから、大丈夫じゃのぅ)


 セレナの手をチラと見て、ヤンフィはそう断言した。だが、何をもって大丈夫と言っているのか、煌夜にはやはり分からない。


(……灰化、現象?)

(ああ、妖精族はのぅ。魔力が枯渇すると、手や足、指先などの末端から、徐々に身体が灰になっていく――【灰化現象】が起きる。灰化現象が起きると、もはや手遅れじゃが、逆に、それが起きていなければ大事はない――放っておけば治る)

(おい、またかよ。あのさ、ヤンフィ……その、放っておけばって、いつまで掛かるんだ? その間、食事とか摂らないと、結局、栄養不足になるんじゃないのか?)

(妖精族は、魔力さえあれば食事も水分も一切摂らずとも生きていける。そして、灰化現象が起きていなければ、セレナに魔力は足りている。じゃから必然、食事等は不要じゃ。つまり、放置しておいて問題ない)

(……もう一日近くだぞ? 意識さえ戻らないってのは、さすがにおかしいんじゃないのか? 手も死んでるみたいに冷たいし……)


 煌夜の追求に、しかしヤンフィは鼻で笑って続ける。その声には、絶対の自信が漲っていた。


(妖精族の手が冷たいのは、魔力をそれほど末端まで通しておらぬからじゃ。意識も、明日か明後日には戻るじゃろぅ。じゃから、セレナのことはそれほど心配はない――それよりも、じゃ)


 ヤンフィはそこで一旦言葉を区切って、今度は一転、神妙な声音で続ける。


(いい加減、タニアが戻ってこないのはおかしい――状況を、確認する必要があるやも知れぬ)


 煌夜は言われて、確かに、と押し黙る。

 セレナの容態も頭痛の種だが、いまだ合流できないタニアの件も、よくよく考えれば問題だろう。今日この時間になっても、タニアの行方は不明のままだ。

 煌夜は、はぁ、と大きく溜息を漏らしてから、セレナの手を放した。


(……まぁ、とりあえずは――)


 そして煌夜は立ち上がり、空腹を訴える食欲に従って、食堂に下りることを決める。ついでに、タニアが来ていないか、店主に状況を確認しよう。


 食堂は、昨日の夕食時よりは混雑していた。

 どうやらこの宿屋は、朝食時や夕食時よりも昼飯時が一番混むらしい。カウンター席は軒並み埋まっており、テーブル席にも空きはない。

 仕方なく、煌夜はカウンターで忙しく立ち回る店主に近付き、タニアの情報だけを聞くことにした。


「……おはようございます。あの、忙しいところ申し訳ないが……俺らの連れ、タニアって獣族は、相変わらず来てないかな?」


 煌夜が話しかけると、店主は、ちょっと待ってくれ、と手を挙げる。煌夜は言われるがまま、しばらくそこで待つ。


「――――はい、お待たせしました。えーと『コウヤ』様ですね。おはようございます。お連れの獣族ですか? いえ、一向にそれらしき方はいらっしゃいませんが……」

「……あ、そう。おかしいな」

「ちなみに、お連れの獣族……『タニア』様は、こちらにおいでになるのですか?」


 店主はどことなく疑わしい表情で煌夜を見てくる。その視線に少しだけ不安になって、煌夜は質問で返した。


「ここって【ギルド指定宿屋】だよね? それとも、ここ以外にも、その指定宿屋はあるの?」


 煌夜の不安げな質問に、店主は、ああ、と納得の表情で手を叩く。まさか他に宿屋があるのか、と煌夜は最悪の展開を予想した。

 果たして、店主は首を横に振った。


「いえいえ、このベクラルには、ギルド指定宿屋はここだけです。しかし、なるほど……ギルド指定宿屋を待ち合わせ場所にしたんですか。であれば、迷いようはないと思いますがねぇ――その『タニア』様は、いつ頃来る予定なのですか?」

「いつ頃か……分からないんだけど……まぁ、いいや。分かった。ありがとう。じゃあ、来たら部屋に案内してくれよ」


 煌夜はガックリと肩を落として、さてどうするか、と悩ましげな顔を浮かべる。

 やはりタニアはまだ来ていない。しかも、待ち合わせ場所が間違っている可能性もなくなった。セレナも相変わらず昏睡で、煌夜だけでは何も出来ない状況である。


「あ――ところで、お食事はどうしますか?」


 悩ましげに突っ立っている煌夜に、店主は気を遣ってそんな声を掛けてくれた。

 煌夜はその一言で空腹を思い出して、一旦思考を切り替える。即座に店主に顔を向けて、お願いします、と頷いた。


「畏まりました。それでは、ご用意出来次第、お部屋に運びますよ。申し訳ありませんが今は、食堂には空席がないので――ああ、食べ終わったら、食器は、そのまま部屋に置いておいて下されば結構ですんで」

「分かった。ありがとう。じゃあ、部屋に戻るわ」


 煌夜は店主の言葉に甘えて、そそくさと部屋に戻った。


(……さてと、そんでどうするか)


 部屋のソファに深く腰掛けて、煌夜は心の中でヤンフィに問い掛ける。迂闊に動けない今、何が最善で、何が悪手か相談が必要である。

 けれど、煌夜の問いにヤンフィはあっけらかんと言い放った。


(どうするも何も――このままタニアを待つか、タニアを探すかの二択ではないのか? 妾としては、タニアを探すのが良いと思うが?)


 ヤンフィの言葉に、煌夜は、なるほど、と頷いた。それは正論ではある。しかし――


(ヤンフィのそれは、セレナを放置するのが前提条件だろ? 俺は、セレナも助けたいんだよ。となるとまずは、セレナを先に治すか、タニアを先に探すか、じゃないのか?)

(コウヤよ――それほどセレナを治したいのならば、いっそ抱くのが早いと云うておるじゃろ?)

(…………それ以外の方法で、治したいんだよ)

(それは、無理じゃと云うておる。どうやって月桂樹の元に往くつもりじゃ)


 煌夜の提案に、ヤンフィは呆れ声で否定する。それはそうだが、本当にそれ以外に方法はないのか。煌夜はそこを疑っていた。


(ふむ……強情じゃのぅ。まぁ、仕方ない。では、こういうのはどうじゃ? まずはやはり――)


 ヤンフィはもったいぶったように、一旦言葉を溜める。すると、ちょうどそのタイミングで食事が運ばれてきた。

 そのせいか、ヤンフィとの会話はしばし完全に途切れて、沈黙が流れる。

 とりあえず煌夜は、食事に手をつけながら、ヤンフィに話の続きを促した。


(――で? まずは、やはり?)

(ああ。まずはやはり――タニアを探すことを優先すべきじゃ。タニアとセレナ、戦力で見れば、圧倒的にタニアが上じゃろぅ。それに、タニアは【エンディ渓谷】で、待ち伏せをしておるはず……となれば、居る場所が分かっている分、見つけるのは容易いはずじゃ)

(……あ、そっか。そういや、そう言ってたな)


 煌夜はヤンフィに言われて、タニアと別れた時の会話を思い出す。確かにタニアは、エンディ渓谷なる場所に下りると口にしていた。


(じゃあ、そのエンディ渓谷に行って、タニアを探す――もし居なかったら?)

(それが不測の事態と云う奴じゃろぅ。タニアのことじゃ、意味のないことはしないじゃろぅが、逆に、意味があるならば、好機は逃さぬはず――エンディ渓谷に居ないのならば、タニアは自己判断で別行動をしておると考えるのが自然じゃ。その場合は、タニアを探すのは諦めて、セレナの回復を待つべきじゃのぅ)

(なるほど、それは一理ある)


 ヤンフィの提案は状況を鑑みて、道理に適った適切なものだった。

 煌夜は納得して、賛成する。


(ちなみに、コウヤよ。万が一、タニアが合流できない場合、妾たちの目的である【子供攫い】の件、改めて考え直す必要があるぞ?)

(…………どういうことだよ?)

(タニアは【子供攫い】を待ち伏せしておったのじゃ。と云うことは、合流できない場合、十中八九、その【子供攫い】が関わっておる。タニアが【子供攫い】にやられたのであれば、妾たちの戦力では些か危険じゃ。危険度の高いことを、コウヤにやらせるわけに往くまい)


 ヤンフィは、考えたくないが、と付け足して言葉を切った。

 煌夜は、それはまだ考えることではない、と切り捨てて、当面、今日の行動を決める。


(――まぁ、とにかく。まずは今日のことだな。この後早速、タニアの待ち伏せ場所【エンディ渓谷】に向かおう)


 煌夜はそう宣言して、食事に意識を集中する。そうして五分ほどで、食事は綺麗になくなった。


「セレナ。ちょっと、タニアを探してくるよ――まだ、意識は戻らないか?」


 食事を終えた煌夜は、ちゃっちゃと出掛ける準備を整えて、寝室のセレナに改めて声を掛けた。しかし、やはり何度声を掛けても、それに対する反応はない。

 セレナは相変わらず、ぐったりとして、苦しげに喘いで、時折、もぞもぞと身体を捻るだけだった。

 もはや意味はなさそうだが、すっかり乾ききったタオルを、煌夜はまた新しい濡れタオルに変える。それから、ヤンフィに頼んで記憶紙で書置きを作成してから、部屋に鍵を掛けて宿屋を後にした。

 ちなみに、宿屋の店主に尋ねたところ【エンディ渓谷】は、ベクラルの街の正門から出て、一時間ほど歩いた場所にあるらしい。

 案外近いな、と煌夜は少しだけ安堵した。

 宿屋から出ると、カラリと乾いた空気と、爽やかな日差しが降り注ぐ。山間の街だからか、吹き抜ける風は涼しく爽快である。


(こっちか? それとも、そこ右か?)

(――この道はまっすぐじゃ。次の角を、右じゃな)


 煌夜はキョロキョロと辺りを見渡しながら、案内板を見つけるたびに立ち止まり、それをヤンフィに読んでもらった。

 昼過ぎなので、それなりに道路は人通りがあったが、それでも混雑するほどではなかった。

 まばらに数人が、散歩なのか仕事なのか、道を歩いている程度である。煌夜はその道を、正門を目指して進む。


 そうして、案内板を読み解きながら歩き回って、三十分ほど――ようやく正門が見える大通りに辿り着いた。

 ずいぶん遠回りをした気がするが、いかんせん、煌夜もヤンフィも初めて来た街なのだ、仕方ないだろう。


(あのデカイ門が、正門か? そこを出て、道なりに一時間か……思ったよりも歩くなぁ)

(オーガ山岳を登った時を思えば、それくらい何のことはなかろう。それとも、急いでおるのなら、走るか? 徒歩で一時間であれば、今のコウヤならば、走って十五分前後ではないかのぅ)

(焦って、道を間違えたら、そっちのが時間掛かるだろ)


 ヤンフィとそんな会話をしながら、煌夜は正門の手前までやってきた。

 正門の両脇には、槍を持った門番らしき人間が立っていたが、通り抜けるのに通行証の類は必要なさそうである。門は開け放たれており、出る人間、入る人間がノーチェックで行き来しているのを確認できた。

 よし、と心の中で気合を入れて、平然とした顔で煌夜も門を通り抜けようとする。

 何も問題が起きないように、と内心で祈りながら、それをおくびにも表情には出さず、煌夜は大きく足を踏み出す。


 ――その時、正門のすぐ脇、右手側に建っている巨大な店舗から、腰の折れ曲がった老人がひょっこりと姿を現した。


 老人が現れるのは、何らおかしくはない。

 しかし、老人が出てきた店舗は、店頭に武器と防具を飾っているので、おそらくは武具屋である。その武具屋から、明らかに腰を痛めていると思われる老人が出てきたので、煌夜はふと注目してしまった。煌夜の視線に気付いて、老人も煌夜に顔を向ける。

 老人は、灰色のマントに、クラシカルな軽装で、腰を九十度近く曲げているのに、杖の類は持っていなかった。


「――おやおや、これは、奇遇だねぇ。まさか、こんなとこで会えるなんて」


 煌夜とバッチリ視線を交わらせた老人は、その姿とは不釣合いに若い声で、驚きの表情を浮かべる。そして、旧来の知り合いに偶然出くわしたかのような態度で、足取り軽く煌夜の前まで近付いてきた。

 老人は煌夜の前に立ち止まると、不敵な笑みで上目遣いを向けてくる。

 一方で、煌夜は見覚えのないその老人に怪訝な表情を向けた。

 老人の顔に見覚えはない。無論、この世界で老人の知り合いもいない。

 だから、老人が煌夜を知っているはずはない。だというのに、老人は煌夜を知っている素振りで口を開く。


「それにしても――キミがここに居るってことは、まさかタニア君がこっちに来てるのか。想定外だなぁ……ボクはてっきり、ベスタ君が追っかけて来るもんだと思ってたのに――ゲイル君からの定時連絡がないから、何かが起きたとは思ってたけどね」


 老人は流暢に喋り続ける。

 それは一人語りのように煌夜の意見は求めておらず、内容もいまいちよく理解できない。

 煌夜は、いっそう怪訝な表情で老人を眺めた。


「しかし、それにしても、今朝早くにようやく到着したボクたちよりも早いってことは……山越えでもしたのかな? 途中でボクらの馬車は抜かされてないから、それしかないよね。凄いね、キミ。ただの雑魚じゃなかったんだね」

「……あの、すいませんけど――」

(コウヤ、喋るなッ!! 妾に代われ!)


 煌夜は老人に、いい加減止めてくれ、と口を開こうとした。

 しかしそれを遮って、切羽詰ったような声音でヤンフィが怒鳴る。同時に、身体の主導権がヤンフィに奪われた。

 一方、煌夜の言葉を聞いて、老人はきょとんとした表情を浮かべる。


「アレ? 今、キミ……」

「――汝、いつぞや【聖魔の森】にいた合成魔術師じゃな――妾に、何の用じゃ」


 ヤンフィは首を傾げる老人に鋭く言い放ち、素早くバックステップして距離を取った。

 その機敏な動きに、老人は感嘆の声を上げると、小馬鹿にした風に拍手をする。


「何の用って、いや別に? むしろ――キミたちこそ、ボクたちに用があるんじゃないのかな? ベスタ君じゃなくてさ、キミたちが【子供攫い】を狙ってるんだろ?」

「…………先ほど、ゲイルと云うておったな? 彼奴は、汝の手の者か?」

「おっと――失言、失言。ま、けど、その様子だと、ゲイル君を始末したのは、キミたちじゃないのか……ああ、うん。手の者と言うか、ゲイル君は同志かな。一応、彼もね、【世界蛇せかいへび】の所属だよ。レベル1の【新参】だけどさ。それがバレたから、始末されたのかな?」


 老人はにへらと笑う。だが、その瞳は少しも笑っていない。

 ヤンフィは警戒のボルテージを上げて、ジリジリと後退りながら老人を注視していた。煌夜は何が何やら分からず、必死に脳みそを動かして状況を把握しようと努める。

 この老人は何者なのだろうか――

 ヤンフィと老人の会話から察するに、老人は【子供攫い】の関係者で間違いない。

 しかも、ヤンフィと面識がある――いや、煌夜とも面識があるようだ。

 先ほどヤンフィは、『【聖魔の森】にいた合成魔術師』と言っていた。そこで思い出されるのは、煌夜たちの前にいきなり現れて、タニアを勧誘してきた青年である――だが、彼はこの老人と似ても似つかない。

 そんな風に思考を巡らせていると、ヤンフィが煌夜の双眸に魔力を込めた。

 唐突に視力が跳ね上がり、同時に、老人の周辺の空間がぐにゃりと歪み始める。


「汝、タニアの動向を探っておるのか……それにしては、妾たちがここにいることを知らなかったのぅ。汝の目的は何じゃ?」

「おやおや……そこまでは、お教えできないねぇ。キミが【世界蛇】に入ってくれるなら、考えるけどね。ちなみにさ、キミたちの目的は何かな?」


 互いに腹を探り合うような言い回しをして、ヤンフィは老人としばし睨み合う。

 睨み合っていると、やがて歪んでいた空間が鮮明になり、老人の姿が二重三重にぼやけたかと思うと、見覚えのある青年の姿に変わった。

 煌夜は不思議な感覚でその青年を眺めた。

 青年は細身で長身、頬に火傷の痕があり、軽薄な印象だ。その姿は間違いなく、以前にタニアを勧誘した青年だった。


(……なんだ、これ?)

(コウヤ。今視えている光景が、真実じゃ。先ほどまで見えていた老人の姿は、幻惑魔術によるもの――此奴、かなりの手練じゃ。おそらくじゃが、此奴が【子供攫い】と一緒にいると云う時空魔術の使い手じゃ)

(――――マジかよ)


 目に映る光景に困惑する煌夜に、ヤンフィがすかさず説明してくれた。

 その説明を聞いて、煌夜は注意深く老人の姿を見せていた青年を注視する。すると、青年が一歩、ヤンフィに近付いてきた。


「――腹の探り合いは、ここまでじゃ。妾は忙しい。ここで汝と事を構える気はない」


 一歩踏み出してきた青年に、ヤンフィがすかさずそう言い放つ。その声には明らかな殺気が孕んでいる。

 そんなヤンフィの殺気に怖じけたのか、青年はピタリと歩みを止めて、これ見よがしの溜息を漏らした。


「そうかい? まぁ、ボクもキミとは闘う理由がないしね。ああ、ちなみに、こうしてまた出逢えたのも何かの縁だからさ。一応、自己紹介しておくよ。ボクはガストン・ディリック――こう見えても、西方担当、【世界蛇】のレベル3【選定者】さ」


 青年――ガストンは、そう言って、くるりとヤンフィに背を向ける。


「さて、それで、キミは何て名前なのかな?」


 背を向けたまま、青年はヤンフィにそう問うた。しかし、その問いを無視して、ヤンフィは挑発的に吐き捨てた。


「――汝、タニアを勧誘しとったが、彼奴は靡かんぞ。無論、妾もじゃがのぅ」

「ははははは、そうかい? まあ、いつか気が変わるかもしれないし、今回は勧誘が仕事じゃないから、そろそろ行くよ。それじゃ、また今度、生きていたら、どこかで逢おう」


 ガストンは片手を振りながら、ベクラルの街の中に戻って行く。その後ろ姿が見えなくなるまで見届けてから、ヤンフィはふぅと息を吐いた。


(コウヤ――急いで、タニアと合流するぞ。彼奴を相手取ることになるとすれば、タニアが居らんと厳しい)


 ヤンフィは煌夜に話し掛けながら、急ぎ足で正門を通り抜ける。門の左右に立つ門番にジロリと睨まれたが、特に何か言われることも、止められることもなかった。


(……なあ、ヤンフィ。アイツ、何者なんだよ?)

(何者かは知らん。じゃが、子供攫いの共犯であることは間違いあるまい。とはいえ、あの口振り……子供攫いとは、目的を異にしておるようじゃがのぅ)


 正門を抜けた先は、開けた平原だった。

 雑草の生い茂る原っぱに、硬い土の一本道が、くねくねと伸びている。その道を迷わずに真っ直ぐ進む。


(……目的を異にしてるって、どう言うことだ?)


 煌夜は、ヤンフィの言葉に首を傾げた。ヤンフィは真剣な声で答える。


(彼奴は、妾たちが【子供攫い】を狙っていることを知っておった。じゃと云うのに、妾たちと闘う理由はないともほざいておった。つまり、妾たちが子供攫いと敵対しても、状況によっては、彼奴は妾たちとは敵対しないと云うことじゃ。じゃから妾たちが彼奴の目的に抵触しなければ、おそらく、彼奴と闘うことはないじゃろぅ)

(それは、どうなんだ? 幸運なのか、それとも不運なのか?)

(今の妾たちにとっては、幸運じゃ。しかも、彼奴はタニアと遭遇してはおらん。となれば、彼奴の裏を掻き、子供攫いだけを潰すのが今の最善手じゃろぅなぁ)


 ヤンフィは興奮気味に言いながら、もはや駆ける勢いで平原の道を進んだ。

 見上げれば、昨日の大雨が嘘のように、雲ひとつない快晴だ。しかし、前途はそれほど晴れてはいないかも知れない――煌夜は何となく、行く手に暗雲が立ち込めているような気持ちになった。


 頭のどこかで、嫌な予感がしていた。



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