第二十三話 煌夜に捧げよ!
ヤンフィは煌夜の意識が完全に眠ったことを確認してから、再び身体の主導権を握る。
勝手知ったる他人の身体とばかりにソファから起き上がると、ゆっくり大きく背伸びをする。そしてその場で、屈伸をして、右肩を回して、煌夜の身体の調子を確かめた。
「……さて、煌夜には強がって見せたが……これは、妾の想定以上に劣化しておるのぅ。いよいよ、余裕がないやも知れぬ」
右腕をプラプラと動かしてから、ヤンフィは誰に言うでもなく独りごちた。その表情は軽い口調とは裏腹に、かなり深刻で切羽詰った様子だった。
実のところ、煌夜にはあえて話していないが、もはや煌夜の肉体は廃人も同然だった。常に絶えず魔力を全身に巡らせていないと、肉体が形を維持できないほどになっている。
筋肉繊維はズタボロ、身体中の骨はそのほとんどが折れているかヒビが入っており、心臓も含めて、内臓は自力ではまともに機能していない。何よりも、ほとんどの細胞が壊死を始めており、既に自然治癒では治らない身体になっていた。
今や煌夜の身体の大半が、ヤンフィの魔力を粘土細工のように練り上げて作った紛い物である。
一見すると無事な肉体に見えるが、実際はただ魔力で誤魔化しているに過ぎない。イメージとしては、今の煌夜は九割九分魔力人形のようなものだ。
生きているとは言い難い状況だった。
「…………まったく、不甲斐ないことじゃ。神はどこまでも理不尽じゃのぅ」
ヤンフィは大きく溜息を漏らす。こうなった決定打を思い返して、ギリリと奥歯を噛み締めた。
嘆いても仕方ないが、嘆かずにはいられない心境だったのだ。どうしてここまで神は無慈悲なのかと、改めてヤンフィは神を呪った。
煌夜の身体がここまで深刻になってしまったのは、先日のキリアとの戦闘が原因だった。
キリアとの戦闘で、煌夜の身体は九割九分死んだのである。戦う前であれば、自然治癒では完治こそ不可能でも、まだ煌夜の身体は活きていた。だが、キリアの攻撃を受けて、取り返しの付かない致命傷を負ってしまった。
左腕と【魔剣エルタニン】を再生できないのは、そのせいでもある。
キリアの攻撃は、苛烈云々を語るより前に、物質に宿る魔力を蹂躙して、生命力を霧散させる効果を持っていた。それは、対魔王属の攻撃だったのだろう。ヤンフィを含め、全ての魔族に対して、非常に有効な攻撃である。そしてそれ故に、煌夜のなけなしの生命力を根こそぎ奪う結果に繋がったのだ。
煌夜の身体は、左腕を吹き飛ばされた際に、その生命力をも失っていた。
生命力とは、生きた肉体から自然に溢れ出るモノであり、肉体を生かす為に必要なモノである。
当然、肉体が死ねば生命力は失われて、逆に、生命力が失われれば肉体は死ぬ――それが摂理である。
しかし、煌夜の肉体は元より半ば死んでいる。
それ故に、生命力は自然回復せず、緩やかに失われていくところだった。そこを、ヤンフィが魔力によって強制的に肉体維持して、なけなしの生命力が流出しないよう防いでいたのである。
だが、事ここに至っては、もはやその肉体維持さえ叶わなくなっていた。生命力の失われた肉体は、魔力でどう取り繕ったところで、ただただ朽ちるのを待つだけの生ゴミである。
だからこそ、ヤンフィは一刻も早く、煌夜の生命力を補填する必要があった。
「――ん? なに、コウヤ? 何か用?」
くぐもった声が、扉を挟んで風呂場の中から聞こえてくる。
それは、沐浴をしているセレナの声である。しかしそれに返事はせず、ヤンフィは煌夜の身体のまま、脱衣所を通り抜けて、風呂場の扉を開け放った。
風呂場には、当然ながら裸で、しゃがみこんで髪を洗っているセレナの姿があった。
セレナは堂々と現れたヤンフィに驚愕の表情を向けて、ピタリと固まっている。その表情は、どう反応すれば良いのか混乱している様子だった。
「ふむ……思うていた通り、胸が薄いのぅ」
「――余計なお世話よ!!」
ヤンフィは裸のセレナを見下ろして、しみじみとそう呟いた。その瞬間、セレナは顔を真っ赤にして怒鳴ると、慌てて水の張られた湯船の中に飛び込んだ。
同時に、無詠唱でもって、その場に土の壁を展開する。一瞬にして、物理的な壁がヤンフィとセレナの間に出現する。
セレナが動き出した時、少しだけ身構えたヤンフィは、その一面の壁を眺めて、ふぅ、と安堵の吐息を漏らした。
「…………攻撃されるやもと思うたが、存外、優しいのぅ」
「――ねぇ、コウヤ。アンタの世界がどうだか知らないけどさ。この世界じゃ、女性の沐浴を覗くのは無礼よ? あたし、ちゃんとアンタに沐浴するって伝えたわよね? なんで、それなのに来たのよ?」
視界を遮る土壁の向こうから、セレナのそんな声が聞こえてくる。その口調は一見冷静そうだが、怒りを堪えているようで、かすかに震えていた。それに対して、ヤンフィは平然と軽い口調で答えた。
「どこの世界でも、女性の裸を覗くのは失礼じゃろぅ? いやなに、妾が来たのはのぅ……ちょうど良い機会じゃから、一つ提案があってのぅ」
ヤンフィの言葉に、顔は見えないが、セレナの怒りのボルテージが上がったのが分かった。広くない風呂場に、重く冷たい殺意が満ちる。一触即発の一歩手前、しかし、ヤンフィは気にせず続ける。
「――汝、妾と契らぬか?」
その台詞に、風呂場の空気は凍り付いた。何を言っているのか、セレナは刹那、思考を停止する。満ち満ちていた殺意が消えて、シン、としばしの静寂が訪れた。
そうして、たっぷり五秒の沈黙が過ぎ、反応のないセレナに痺れを切らしたヤンフィは、溜息混じりにもう一度繰り返す。
「のぅ、セレナよ。妾と――契らぬか?」
ヤンフィが改めてそう告げた直後、土壁から十個の拳大の光球が現れて、それがヤンフィを包囲するように展開した。
それはピタリと空中でその動きを止めると、剣の形状に変化して、切っ先をヤンフィに向ける。
「……コウヤ、アンタ、どうしたの? あたしが魅力的だから、欲情するのは仕方ないとしてもさ。色々と段階を飛ばした上に、あんまりにも唐突過ぎるわよ? まさか、オーガゴブリンの血でも浴びて、理性が溶けたの?」
「汝が魅力的かどうかはこの際置いておくとして、妾は冷静じゃよ。無論、オーガゴブリンの血も浴びてはおらぬ」
「じゃあ、何? もしかして――あたしがオーガゴブリンの血で欲情してるとでも思った?」
「そんなわけがあるまい。コウヤじゃあるまいに――汝の魔術耐性なら、オーガゴブリンの血を飲み干したとしても、なんともないじゃろ?」
「…………それが分かってて、ち、契る、って、何よ? どういうこと?」
照れているのか、動揺で震えた声のセレナに、ヤンフィは淡々と答える。
その間も、光の剣はヤンフィを狙っていた。下手に動けば、一斉に突き刺す心積もりだろう。この魔術は、光属性の中級魔術【光剣】である。中級ではあるが、非常に殺傷能力の高い魔術だった。
「どう云うことも何も、そのままの意味じゃが……」
「じょ、女性を抱きたいなら、タニアを待ってればいいじゃない! タニアなら、喜んで、アンタに抱かれるんじゃないの!?」
「タニアでは駄目じゃ。セレナでなくてはのぅ」
「……な、何の意図があるのよ!?」
「意図なんぞない。ただセレナを抱きたい。それだけじゃ――」
ヤンフィのそんな真剣な言葉に、え、とセレナが息を呑む音が聞こえる。しかし、ヤンフィは数秒溜めた後に、フッと笑いながら続けた。
「――と、云いたいところじゃが、汝と契りたい理由なぞ一つだけじゃ。妖精族と魔力共有することで、コウヤの身体を魔力に適応させたい」
「………………へ?」
「コウヤは、魔力のない世界から来た異世界人じゃ。じゃから、この身体は、魔力に適応しておらぬ。それを作り変えたいのじゃ」
「………………ちょ、ちょっと、待って。どういう、こと?」
セレナは長い沈黙の後、搾り出すように問い返してきた。
その声には明らかに怒りが滲んでおり、周囲に浮かんでいる光剣が、少しだけ近付いてきたのが分かった。
少しからかいがすぎたやも知れん、とヤンフィは若干反省する。
「とりあえず、落ち着け――汝と契って、コウヤの身体に魔力を固着させたいのじゃ」
「…………それ、要するに、あたしと魔力共有したい、ってこと?」
「うむ、そうじゃ――まだ堕ちていない妖精族の汝でなければ、不可能じゃろぅ?」
ヤンフィがそう説明すると、周囲の光剣が突如霧散した。
良し、とヤンフィは内心でほくそ笑む。どうやらセレナはヤンフィの意図を理解して、とりあえず交渉のテーブルには着いてくれるらしい。
「はぁ――なるほど、ね。あたしの魔力と、コウヤの魔力を混ぜて共有させることによって、肉体に魔力を定着させる、ってことかしら? でも、あたしがそれをする利点、あるの?」
「汝の魔力総量が爆発的に増えて、魔術適性が全て一段階ほど上昇するはずじゃ。それと、汝の利点ではないが、妾の魔力回復速度が上がり、コウヤが魔力を操れるようになるじゃろぅ。互いに利点がある」
「でも代償は、妖精族の誇りでしょ? 釣り合わない気がするけど?」
「それは、人それぞれの価値観によるじゃろぅ。じゃが、努力せずに強大な力を手に入れるのじゃ。一般的には、釣り合っておると思うがのぅ?」
「そう、かしら? ……まぁ、それはそれとしてさ。魔力量が増えるのは分かるけど、あたしの魔術適性が上がるってのは、どういうことよ? 魔力共有にそんな効果はないはずよ?」
「今のコウヤの魔力は、すなわち妾の魔力じゃ。妾の魔力が妖精族の汝と混じれば、必然、魔力の質は向上する。妾はこれでも魔王属じゃぞ?」
「………………」
しばしの沈黙の後、魔術の土壁がガラガラと崩れ落ちた。セレナは湯船に肩まで浸かっており、いつの間にか身体には、タオルのようなものが巻かれていた。
両頬に浮かぶ鮮やかな魔術紋様は仄かに赤く染まっていて、その視線は、立ち尽くすヤンフィを上目遣いに眺めている。
「……魔術適性の上昇は、にわかに信じがたいけど、仮にそれが本当だとしても、月桂樹の加護を失ってまで手に入れたいものじゃないわ。強くなりたいとは思うけど、妖精族の誇りは失いたくない」
セレナは、妖精族の誇り、と言いながら、手で頬に浮かぶ魔術紋様を撫でた。その表情は真剣で、ヤンフィの提案を充分に考えた末の回答であることが見て取れた。
ヤンフィはその答えに、そうか、と短い吐息を漏らす。
もう一息押せば思い通りになりそうな気はするが、そこまでしてセレナを抱きたいわけでもなかった。
となれば、ここでこの話は終わりにすべきだろう。やはり安易な策は、そう成功しないものだ。
仕方あるまい、とヤンフィは頷いて、潔くこの策を諦めた。失敗した策に固執するのは無意味である。
ヤンフィの目的は、煌夜の生命力を補填することだ。
それには、他者の生命力を奪って、それを補填できれば一番手っ取り早い。しかし、生命力というのは厄介なことに、そもそも譲与できる類のものではない。それが出来るならば、とっくにヤンフィは己の生命力を煌夜に与えている。
生命力は個体ごとに異なる波長、色、質をしており、指紋や虹彩、魔力と同じで、完全一致する別の存在は、自然には有り得ない。そして、完全一致しなければ、そもそも譲渡できない性質をしている。
それ故に、生命力を譲渡するには、特殊な方法を用いないと不可能だった。
その方法の一つが、今回ヤンフィが提案したことであり、妖精族の特性を用いた方法――互いの魔力を共有することである。
妖精族は一生涯に一度だけ、他者と契ることにより、魔力を共有することができる特性を持っている。そして妖精族にとっては、魔力はイコール生命力である。
つまり魔力を共有できれば、それを生命力に変換して、煌夜の生命力に補填できるのだ。ヤンフィはそれを狙っていた。
――とはいえど、妖精族にとっては、他者と魔力を共有することは【堕落】と呼ばれており、非常に不名誉で、恥ずべき行為として嫌悪されている。
その上、堕落すると月桂樹からの加護を失い、月桂樹に魔力を混ぜて新しい個体を生み出すことも出来なくなる。人族で言えば、それは子供を産めなくなることと同義だ。
それ故に、妖精族側からすると、魔力の共有など行う意味のないことである。
今回はヤンフィが破格の利点を提示したが、それでもやはり、その程度ではセレナの気持ちは動かなかったようだ。
まぁ、ヤンフィとしても、この提案は断られるのが前提でもあった。だからむしろ、予想通りに断られて、正直ホッとしてもいた。
もし万が一セレナが乗り気になってしまったら、ヤンフィが己の意思でセレナを抱かなければならない――それは非常にやりたくなかった。
ヤンフィは魔王属である前に、女性である。当然、同性に欲情する性癖などない。
「まぁ、そうじゃろうな……であれば、良い。この話は終わりじゃ」
セレナの上目遣いに視線を合わせて、ヤンフィはスッパリ話を終わらせる。そして静かに気持ちを切り替えた。
さて――それでは、次の策である。
実のところ、最初からこの策しかないとは思っていたが、同時に、この策はあまりやりたくはなかった。
この次手は、回復した魔力の大部分を消費するし、下手をすれば得難い仲間まで失うかも知れない。
そもそも非人道的過ぎる行為ゆえに、本音ではやりたくない。
けれど、これしかないのだ。
もはや選り好みは出来ない状況である。煌夜を助ける為には、無理をするしかないだろう――セレナを道連れにして。
ヤンフィは困り顔を隠すように俯いて、その場に胡坐で座り込む。床は結構濡れており、少しだけ尻が冷たかった。
「……ねぇ、コウヤ。アンタに協力できなくて悪いとは思うわ。けど――もう話が終わったんなら、出て行ってくれない?」
傍から見るとガッカリして崩れ落ちたようなヤンフィに、湯船のセレナが鋭い視線を向けてくる。
その青い瞳は当然ながら、出て行け、と雄弁に語っていた。しかし、ヤンフィはその身体を動かそうとはしない。
「……コウヤ? まだ何か用事があるの? 急ぎでないなら、あたしが沐浴を終えてからにしてくれない? 裸だから落ち着かないんだけど……」
「ところで、セレナよ。汝は、妖精族の性質――魔力の核が欠損しない限り、あらゆる臓器が魔力で再生できることを知っておるか?」
ヤンフィは俯いた姿勢で、ボソリとそんなことを呟いた。
セレナはその問いに怪訝な表情を浮かべつつ、こくりと頷く。それは妖精族であれば知っていて当然の常識だった。
「それが、何? いまこの状況――アンタが、あたしの沐浴を覗き見してる状況に、何か関係あるの?」
「ふむ……それでは、汝は、主要臓器――例えば、心臓などじゃが、それを失うほどの大怪我を負ったことはあるか?」
「…………ないわよ。というか、さすがに心臓を失ったら、核が傷付いてなくても、ほぼ致命傷よ? それで生きていられるのなんて……それこそ、キリア様みたいに、莫大な魔力を保有してる個体じゃないと無理でしょ?」
「――この話は、妾が過去に実験したことなのじゃが――」
ヤンフィは重々しい口調で言葉を溜めて、ガクン、とその全身から力を抜いた。
それは傍から見ると、気絶か寝落ちかしたように見えた。座り込んだ煌夜の身体が、風呂場の壁に力なくもたれる。
セレナは唐突なその反応に、大丈夫なの? と、心配そうな顔を煌夜の身体に向けた。
けれどその直後、フッと芳しい桃の香りが頬を撫でて、湯船の水面に影が差す。突如、頭上に現れた凄まじいまでの威圧感に、セレナがビクリと身体を震わせた。
「――妾の持つ武器の中に、【生命の杖】と呼ばれる武器がある。これを用いて、昔、妖精族の臓器をどれだけ抜き取れるか試したことがある。するとどうじゃ? 魔力核と脳を除く、主要な臓器全てを取り出して、丸一日以上生きておった――」
セレナはチラと視線を湯船の水面に移す。そこには、中空に立つ小柄な幼女の姿が映っている。
ツゥとセレナの額を水滴が流れて、湯船に落ちた。
それは果たして冷や汗か、それとも濡れた髪に付いていた水滴か。
ゴクリ、とセレナの生唾を飲む音が、風呂場にやけに大きく響いた。
「――その妖精族は、最終的には魔力枯渇の【灰化現象】で、全身を灰にして死んだのじゃが……死ぬまでに、切断した両手両足も含めて、平均七時間程度で、何度も再生しておった。妾はあの光景を見て、かくも妖精族とはしぶとい存在じゃと、ほとほと感心したものじゃ――」
淡々とそう語る幼い声は、セレナの頭上から降ってきている。
恐る恐ると、セレナは視線を頭上に向けた。
中空に浮かんでいたのは、薄い桃色の髪をグシャグシャにした幼女だ。
幼女は、金色の蓮と、青い鳥が描かれた着物姿をして、氷のように冷淡な無表情をセレナに向けていた。その幼女こそ、本来の姿で顕現したヤンフィである。
細い柳眉に強い意志を反映した切れ長の瞳、ハッキリとした鼻と口をしたヤンフィは、湯船に浸かっているセレナを眺めていた。
ヤンフィの姿を初めて目の当たりにしたセレナは、思わず息をするのも忘れて見惚れてしまった。
その整った容姿は、どこか神々しい美しさを秘めており、その中性的な相貌は、女でもなく男でもない人間離れした存在に感じた。
また、ヤンフィの纏っている空気はまさに王者の如く威風堂々としている。ずいぶんと小柄だが、そうと思わせない底なしの存在感があった。
ヤンフィは何もない中空を、床に向かって、まるで階段を下りるように降りてきた。
ガックリと項垂れている煌夜の身体の横に立つと、セレナから視線を逸らさずに、その話を続ける。
「――取り出した臓器は、魔族や人族に移植したり、喰わせたりしたのぅ。結果は、まぁ惨憺たるものじゃったが……試行錯誤の結果、一つだけ有効な使い道を見つけたのじゃ――」
ヤンフィは感情のない瞳で、セレナの全身を舐めるように見詰めた。
セレナよりも頭二つ分小さい矮躯、七歳と言われても違和感のない容姿でありながら、しかしその雰囲気は、雄々しい山のようにドッシリとした貫禄がある。
セレナは、声を出そうにも声が出なかった。ただただヤンフィに圧倒されて、もはや自分が裸だということさえ忘れて、身動きが取れなかった。
「――それが、心臓移植じゃ。妖精族の心臓を人族に移植した時、人族はその妖精族の魔力を操ることが出来るようになった」
ヤンフィはその無表情を一転して、無邪気な笑みを浮かべる。その表情の変化に、セレナはハッとして思わず身構えた。
湯船の端に身体を付けて、両手で胸元を隠す。
ヤンフィの視線は、そんなセレナの左胸――心臓部分をジッと見ていた。
「顕現せよ――【生命の杖】。拘束せよ――【縛鎖グレイプニル】」
ヤンフィが楽しそうに宣言する。その表情はまさに悪戯に成功した子供の顔だ。
刹那、何もない中空が歪んで、銀色の蛇が絡んだ木の杖と、細長い鎖状に編まれた紐が現れた。
その二つはどちらも禍々しい魔力を放っており、セレナは一目見て危険な武器だと理解できた。
「くっ――『光よ。悪意と敵意を封じる壁と成れ――光牢』!!」
咄嗟に、セレナは目の前に光の壁を展開する。それはセレナ自身が会心と言えるほどに、高密度で素早い展開の防御結界だった。
だが、ヤンフィはまったく意に介さない。
ヤンフィは流れる動作で、中空に浮かぶ鎖状の紐を掴むと、それを無造作に放る。
投げられた鎖状の紐は、放物線を描いて光の壁にぶつかり、あっけなく弾かれて湯船に沈む。セレナはあまりにも簡単に防げたことに首を傾げた。
一方で、ヤンフィは余裕の笑みで、もう一つの武器に手を掛けた。
それは、針のように先端が鋭くなった50センチくらいの短い木の杖で、銀色の蛇が一匹、柄部分に頭を乗せて、赤い舌をチロチロと見せていた。銀色の蛇は尻尾の部分を先端に向けて、蔦が棒に絡むようにグルグル巻きで杖に絡んでいる。
ヤンフィはその蛇の頭を持って、目の前で水平に構える。途端に、蛇は身体を硬直させて、ただの装飾へと変わる。
「――アンタ、何者――」
「酷い言い草じゃのぅ、セレナ。まぁ、自己紹介がまだじゃったので、その反応も仕方ないことじゃが――妾が、ヤンフィじゃ。コウヤの内に宿っておるしがない【魔王属】じゃよ。今後とも宜しく頼む」
爽やかな笑顔で、ヤンフィは構えた杖に魔力を込めた。
その口調と表情に不釣合い過ぎる戦闘の空気に、セレナは恐怖で一瞬だけ思考を停止させる。そしてそれは、致命的なまでの隙となった。
「空間、固定――縛鎖」
「っ!? え? ちょ、きゃっ――――」
セレナが硬直したその隙に、光の壁の内側、湯船の中から、先ほど弾いた紐が浮かび上がって、セレナの身体に巻きついた。
その紐の長さは、先ほど見た時には1メートルもないはずだったが、いつの間にか、10メートル以上の長さになっている。それが、セレナの爪先から首筋までグルグルと巻きついた。何が起きたか分からず混乱するセレナをよそに、一歩、ヤンフィが近付いてくる。
ハッとして紐から視線をヤンフィに向けるセレナ。
しかし、次の瞬間、その身体が凍ったように動かなくなった。
「――ちょっと、何、これ?! う……くっ――な、動けな……え? あ、ちょ、ヤダ。恥ずかしいっ!」
セレナは湯船から浮かび上がると、磔刑に処された罪人のように、何もない空間に磔にされる。タオルしか巻いていない裸体を惜しげもなく晒されて、恥ずかしさから悲鳴を上げていた。
けれど、身体はまったく身動きできない。
「ふむ……汝は、妖精族にしては毛深いのじゃのぅ」
ヤンフィは磔状態のセレナをマジマジと眺めて、ポツリとそんな感想を呟く。それを聞いて、セレナは顔面を真っ赤に染め上げた。
「こ、この――な、なにが、したいのよっ、アンタっ!! あたしを、どう――」
「――痛くはせぬ。死にもしないじゃろぅ……ただし、回復に数日の時間は要するやも知れぬが、それは諦めてくれ」
ヤンフィはもう一歩近付いて、展開された光の壁を杖で撫ぜる。すると、光の壁はゆっくりと揺れながら、徐々に薄れていった。その光景にセレナは驚愕する。
「――魔術式を、分解した、の? まさか……」
「いちいち、妾の武器を説明するのも面倒じゃが……三つだけ、教えてやろう。一つ、その鎖状の紐――【縛鎖グレイプニル】じゃが、それは、空間に対象を縛り付ける武器じゃ。囚われたら、振り解く術はない。一つ、この【生命の杖】じゃが、これはあらゆる存在の、任意の対象部位だけを、無傷に切り取り、抜き出すことが出来る。先ほどは、展開された結界魔術の核を抜き出したのじゃ。これを巧く扱えれば、いかなる結界も解除できる。さてそして、最後の一つ――」
ヤンフィがニンマリと笑いながら、磔にされたセレナの左胸に手を添える。
セレナは、ここまでの流れとその所作で、ヤンフィが何をしようとしているのか察して、信じたくないとばかりに首を振る。
恐怖の色を浮かべた青い双眸を大きく見開いて、紡がれたヤンフィの言葉に絶望した。
「――妾はこれから、汝の心臓を取り出して、コウヤに移植する。魔力は共有できぬが、とりあえずそれで、コウヤの身体に魔力が根付く。なに、恐れることはないぞ? 心臓の一つくらいなら、この杖で抜き出せば、死ぬことはない。実証済みじゃ」
「じょ、冗談、でしょ? え……あたしが、さっき、コウヤに抱かれることを拒否したから? だから、こんなことを? ちょ……や、やめて」
「冗談ではない。まあ確かに、セレナと契れないからなのは、間違いではないが――ほれ、覚悟せい」
「や、やめて…………ちょ、仲間、でしょ? 何で、こんな……」
「仲間じゃからこそ――お互い、コウヤの為じゃ」
ツプリ、と躊躇なく、杖がセレナの胸に突き刺さる。セレナは声にならない悲鳴を上げて、必死になって身動ぎしたが、それはまったくの無意味だった。
ヤンフィはそんなセレナに微笑んだ。その笑顔は、まさに悪魔の笑みである。
◆◇◆◇◆◇◆◇
煌夜の意識は、唐突に訪れたその衝撃により叩き起こされた。
震度七の地震が起きたのかと錯覚するくらいの揺れを感じて、寝ていた身体が無意識にビクッと跳ね上がった。同時に、ドクンドクン、と突き上げるように心臓が大きく鼓動を始めて、ブワッと全身が汗だくになる。
煌夜は勢いよく顔を上げた。するとそこは、どうしてか風呂場の脱衣所だった。
「…………あれ? 俺、確か、ソファで……」
まるで100メートルの全力ダッシュ直後のように早鐘を打つ心臓を押さえながら、煌夜は寝そべっていた上半身を起こして、キョロキョロと辺りを見渡した。
しかしそこはやはり、見間違えようもなく風呂場の脱衣所である。
煌夜は頭痛のする頭を振って、記憶に残る最後の光景を思い返す。
思い出されるのは、ソファでまどろんでいた記憶だ。確か、セレナに服を乾かしてもらってから、外套を掛けられた覚えがある。
その後、心の中で、ヤンフィと何か話した気もするが、それは霞が掛かったように曖昧だった。
「ふむ……起きたか、コウヤよ。体調はどうじゃ?」
その時、風呂場の扉が開いて、ヤンフィが姿を現した。
それはヤンフィ本来の幼女姿――派手な柄の和服という格好である。相変わらず小さい体躯なのに、信じられないほど凄まじい威圧感がある。
ヤンフィはニコニコと嬉しそうな笑顔を浮かべながら、後ろ手に風呂場の扉を閉める。
一瞬だけ、風呂場の湯船の上辺りに、白い何かが浮いているように見えたが、気のせいだろうと、煌夜は気にも留めなかった。
「痛みや、何か違和感はないかのぅ? 施術は成功したはずじゃが――しばし意識が戻らなかったからのぅ」
「――痛みは、特にないなぁ。けど、違和感っていうか、なんか胸が凄いドキドキしてんだけど、何でだ? 全力で走った直後みたいに、心臓がバクバクで――――って、ん? 施術? 施術って、何の話だよ?」
「魔力は安定しておるし、生命力も先ほどより強くなっておる……ふむ、完全に成功じゃのぅ」
ヤンフィは煌夜の疑問を華麗にスルーして、満足げに何度も頷いてみせる。
けれど、その態度がまた怪しい。いやそもそも、どうしてヤンフィが顕現しているのだろうか、と煌夜は怪訝に眉根を寄せる。
「……おい、ヤンフィ。誤魔化さずに答えろよ。施術って何のことだ? 俺の身体に、また何かしたのか?」
煌夜は言ってから、慌てて自分の身体を確かめる。
目で見て何か変わったところはなく、両手で触っても何ら違和感はない。だが、そこでハタと気付いた。寝る前まで右腕一本だったが、今はちゃんと左腕が復活していた。
おお、と丸一日ぶりの左腕の感覚に、煌夜は思わず感嘆の声を上げる。グルグルと肩を回して、その調子を確かめた。
それは以前と変わらぬ万全の状態――いや、どことなく以前よりも軽い気がする。
「――左腕、治った……いや、直ったのか。魔力、回復したんだな」
「まぁ……それなりには、のぅ」
「あ、施術って、左腕の修復のことか?」
「ふむ……まぁ、そうじゃ」
「おお、そっかそっか。ありがとう、ヤンフィ――しかし、相変わらずこれ、凄いなぁ。見た目も、感覚も、完全に俺の腕だ……これが、魔力の義手みたいなもんだっていうのが、信じられないわ」
グーパーと左手を開いたり握ったりしながら、煌夜はしきりに頷いた。
左腕が復活して、どうしてか全身のダルさが消えていることを喜んで、ヤンフィの煮え切らない態度など気にしなかった。また、ヤンフィが顕現している理由を追及することも忘れてしまう。
しかし、そんな風に喜んでいた煌夜だが、すぐに深刻な表情を浮かべた。
突然、心臓の鼓動が一段階激しくなったのである。
先ほどから激しかった動悸が、尚いっそう激しくなった。ドクンドクン、と言う鼓動が、ドッドッドッ、とけたたましくアイドリングし始める。
それに対応するように呼吸は荒くなり、視界もグラグラと揺れ始める。
「…………あ、あれ? なん、だ……」
煌夜は上半身を起こしていられなくなり、そのまま脱衣所に倒れ込んだ。ガン、と思い切り頭を床にぶつけた。
「なんか……貧血? くっ、目が回る……」
寝そべっているのに、まるで立っているみたいに目が回っていた。
平衡感覚がなくなり、サーッと血の気が失せる感覚もある。しかし身体は、どうしてか内側がグツグツと煮え滾るように熱く、ダラダラと汗が流れていく。
それはまさに、インフルエンザに罹って、四十度の熱が出た時のような苦しさだった。
「ふむ……順調のようじゃ。コウヤよ、今は苦しいと思うが、しばしの辛抱じゃ。その感覚に慣れれば、汝も魔力を操れるじゃろぅ」
「……どういう……ことだ、よ?」
ヤンフィは笑顔を崩さずに、優しい瞳で煌夜の苦しんでいる様を眺めている。
煌夜は吐き気を堪えながら、額に手を当てて、ぎゅっと眼を瞑った。触れた額は物凄い熱を持っており、一方で、触れた手は氷のように冷たかった。
「コウヤよ、心配はするな。内側で暴れておるのは、汝自身の魔力じゃ。受け入れよ。それが身体に馴染めば、汝は以前よりも格段に強靭になるじゃろぅ。死ぬほどの辛さかも知れぬが、それほど長くは続かんし、死にもしない」
ヤンフィは簡単に言うが、その声は朦朧とした煌夜には届いていなかった。
煌夜の意識は既に混濁しており、もはや何も見えていないし、聞こえていない。それでも気絶は出来ず、ただただ苦しみに喘ぎ、時間が過ぎるのを堪えるだけである。
そんな煌夜の苦しんでいる様を、ヤンフィはただ静かに眺めていた。
それから、どれくらい時間が経ったのか。
煌夜の体感としては、丸一日のような気もするし、数分しか経っていない気もするが、煌夜の意識はまた唐突に鮮明になった。
何かに背中を押されたように上半身を起こして、カッと目を見開く。
「――ハッ、ハッ、フゥ……フゥ」
まるで溺れる夢を見て、飛び起きたかのような気分で、煌夜は一気に覚醒した。
脳内には爽やかな風が吹き抜け、スッキリと思考がクリアになっていく。何度かゆっくり深呼吸して、額から滴る寝汗を拭う。
煌夜は何かに突き動かされるように、その場に立ち上がった。そして自分の身体を見下ろして、信じられないと驚愕の表情を浮かべる。
ペタペタと全身を触り、肩や腕、足を動かして、その軽快さに感動する。
なぜか、あれほど激しかった心臓の鼓動が今は嘘のように静かになっているし、未だかつてないくらい身体を軽く感じていた。
全身が不思議な万能感に包まれており、今なら何でも出来そうな気がする。
「――――ほぅ。想定よりも、馴染むのが早いのぅ。コウヤよ、汝、才能があるやも知れぬぞ?」
「……何なんだよ、これ……おい、ヤンフィ。お前、俺に何したんだ? これ、左腕を直しただけじゃないだろ?」
「まぁまぁ、そう焦るな。後でじっくりと説明してやるわ――さて、と。それでは、妾はそろそろコウヤに戻るとしようかのぅ」
煌夜の問いに、ヤンフィは悪戯っ子の笑みを浮かべてはぐらかす。するとすぐにその身体を魔力の粒子に変えて、煌夜の中へと消えていく。
煌夜は心の中に入ってきたヤンフィの気配を意識して、相変わらずのマイペースに溜息を漏らした。
(――で? ヤンフィ、お前一体、俺に何を――)
煌夜はもう一度、ヤンフィに改めて質問をする。しかしその瞬間、ボチャン、と何かが水に落ちる音が、風呂場から聞こえてきた。
その突然の音にビクついて、恐る恐ると風呂場の扉に顔を向ける。
何かいるのか、と耳を澄ますが、それきり音はせず、何の気配も感じない。
脱衣所も風呂場も、シン、と静まり返っていた。
(あ、忘れておった……マズイやも知れぬ)
(ん? 何が?)
(コウヤよ、今すぐ風呂場に往け)
しばしの沈黙の後、ヤンフィが何かを思い出したとばかりに声を出した。その声はかなり慌てており、立ち尽くす煌夜に説明をせず、風呂場へ行けと促す。
何が何やら訳が分からなかったが、ヤンフィのその慌てぶりに、とりあえず煌夜は風呂場の扉を開けた。
(いったい、何だ、よ――え?)
風呂場に入り、湯船にその視線を向けた時、煌夜は思わず硬直した。
目に入ってきたのは、湯船に浮かぶ白い裸体――タオルを巻いただけのセレナである。
セレナは湯船に力なく身体を投げ出しており、ぐったりとした状態で眼を瞑っていた。
逆上せたのだろうか、その表情は苦しげに歪んでいる。
しかしそんな苦しげな表情よりも、その美しい肢体に目を奪われて、煌夜は思考を停止させていた。頭の中は真っ白になっていて、唯一そこに浮かんできたのは、美しい、という単語だけだ。
その光景に思わず、ゴクリと大きく唾を飲み込んでいた。
(……おい、コウヤよ。サッサと助け出してやれ。アレは、意識を失っておる。放っておくと溺れるぞ)
固まったままセレナの裸体をガン見していた煌夜に、ヤンフィの呆れたような冷めた声が浴びせ掛けられる。
ハッとして、改めてセレナの状態を確認する。セレナは明らかに意識がなかった。風呂場に入ってきた煌夜にも気付かず、煌夜の前でズルズルと湯船に沈んでいく。
この風呂場の湯船はそれほど深くはない。座れば胸元までしか水は届かないし、足を投げ出せるほど広くもない。けれど、顔が浸かる程度の水で、人は溺死できる――などと、考えた時に、トプン、と小さな音を立てて、セレナの頭部が湯船に沈んだ。
「ヤベッ――おい、大丈夫かよ!?」
煌夜は慌ててセレナに駆け寄り、服が濡れるのも構わず湯船からセレナを抱き上げた。ぐったりとしたセレナは、信じがたいくらいに軽かった。
とりあえずお姫様抱っこをして、大慌てで寝室へとセレナを運ぶ。
ベッドに仰向けに寝かせて、びしょ濡れの身体を丁寧に拭いてやるが、そうしている間も、セレナは意識を取り戻さなかった。
ふと外を見れば、いつの間にか土砂降りだった雨はだいぶ弱くなっており、雲の切れ間からは夕焼けが顔を見せていた。
18.12/5 タイトル変更
(「心臓を捧げよ!」をモジりました)