第十九話 セレナと下山
走り続けて、早六時間。途中、何度か休憩を入れて、都合八時間弱を掛け、ようやくトンネルの出口に着いた。
その出口は入り口と同様に、不思議な文字の描かれた壁があるだけで、一見して行き止まりである。しかし、そこでセレナが何やら詠唱をすると、途端に、吹き荒ぶ雪景色が穴の向こうに浮かび上がる。
「先にコウヤたちが出てよ。この空間は、術者が外に出ると扉が閉まる構造みたいだから、あたしは最後に出るわ。あ……外に出たら、真っ直ぐ駆け抜けてよ」
セレナはそんな注意をしてから、今にも飛び出そうとするタニアに目配せした。
タニアは分かっているとばかりに頷いて、肩で息をする煌夜を叩くと手首を掴んだ。ちなみに煌夜の体力は、ヤンフィのチート能力を持ってしても限界を迎えており、身体が凄まじい疲労感に襲われていた。
しかし、そんなことなどお構いなく、タニアは、にゃ、と短く叫んで、煌夜を無理やり引っ張って扉をくぐった。
トンネルを抜けると――そこは一面真っ白い銀世界、地獄のような猛吹雪の中だった。
煌夜は腕を引かれるがまま全力で駆ける。
悠長に歩いている余裕などない。この猛吹雪は、まさに死の世界だった。
わずか数秒間この吹雪に晒されただけで、全身は芯まで凍えて、剥き出しの指先は凍りついていた。それに恐怖しつつ必死に駆け抜けると、ものの十数秒で、煌夜たちは無事に猛吹雪を抜けることが出来た。
抜けた先に広がるのは、完全に日の落ちた真っ暗闇の世界である。
曇っているせいだろう、夜空には星も月も見えない。ましてや、光源も見渡す限りどこにもない。辺りには、ただただ深淵の闇が広がっているだけだった。
普通ならば、上も下も分からないこの闇の中では、誰もが怖くて足を踏み出せないだろう。
だが幸いなことに、煌夜の眼はヤンフィのおかげで、光源がなくとも暗視ゴーグル並に周囲を確認できた。
煌夜の視覚が捉えたのは、八時間前に見た景色と同じような荒涼とした急斜面の景色だ。
煌夜は一瞬、アレ、と首をかしげる。
ほどなくして、辺りを眩しいばかりの光が満たす。見れば、背後からセレナが悠然と姿を現した。
セレナの周囲には、光を放つ魔力の玉が五つ浮いており、それが周囲を明るく照らしている。松明代わりだろう。白色の眩い光で、LEDライトを思わせる明るさだった。
セレナは暗闇で平然と突っ立つタニアと煌夜を見て、ふぅ、とどことなく疲れた顔で溜息を吐いた。
「よくもまぁ、灯りも出さずに居られるわね……まぁ、いいわ。ところで、ここ――ああ、ここか。なるほどね。確かに時間は倍以上掛かったけど、安全に山を越えられたようね。ここからなら、もう少し行けば【聖王行路】の難所、エンディ渓谷の崖上に出るわよ」
セレナは光を放つ玉で少し先の景色を照らして、一瞬逡巡したかと思うと、すぐさまここがどこなのか把握していた。
薄い胸を張って、自信ありげに断言していた。
夜の山で、しかも目印などどこにもない斜面で、何を見て確信したのか、煌夜は非常に疑問だった。
「それにゃら、とりあえずエンディ渓谷まで行くにゃ。日が昇る前に待機して、馬車を見逃さにゃいようにしにゃいとにゃ」
「……ここまでくれば、ベクラルは目と鼻の先よ。一旦、休憩を挟んだ方がいいんじゃない?」
「またかにゃ!? さっき休んだばっかじゃにゃいか!! 駄目にゃ――お前、体力にゃさすぎにゃ」
「あたしじゃなくて――コウヤ、何とか言いなさいよ」
タニアはセレナの休憩の提案を一笑して却下する。しかし、セレナのその提案は、さりげなく膝を突いていた煌夜を気遣ってのものだった。
セレナは難しい顔を煌夜に向ける。
「コウヤをダシに使うにゃ――んにゃ? あ、もしかして、コウヤ限界にゃ?」
「……かなり限界だな、おそらく。ヤンフィのおかげで動こうと思えば動けるけど、身体がさっきからギクシャクしてて、おかしいんだよ」
セレナの視線を追って疲れきった様子の煌夜に気付くと、タニアはその態度を180度変える。
心配そうな表情になると、すかさず周辺を確認して、暗闇の中で休める場所を探した。ギラリとその瞳が妖しく光っている。
「――コウヤ。あそこで少し休むにゃ。大丈夫にゃ?」
タニアは少し先にある巨大な岩を指差す。そこには座るのに適した小岩が幾つか転がっていた。
煌夜は、ああ、と頷いてもうひと踏ん張りと身体を起こした。すると、さりげなくその肩をセレナが支えてくれた。
煌夜たちは一旦、そこで休憩することに決める。
煌夜は巨大な岩の陰に無防備に横になり、その横でタニアが胡坐を掻いた。
セレナはそんな二人の前に陣取り、椅子のような岩に腰を下ろして、タニアのリュックからトレント料理と水筒を取り出す。それをタニアに手渡すと、傍らの煌夜に視線を向ける。
タニアはそれを見て、分かってるにゃ、と呟いて煌夜に食べるよう促した。
「あ、ありがとう……少し、落ち着いたか……」
「大丈夫にゃ? また魔力枯渇かにゃ?」
「いや――これは完全に、俺自身の問題だな。あんだけ身体を酷使したから、その反動だと思う」
煌夜は苦笑しながら答える。
魔力で強化しても、そもそも肉体の初期値が低いのだから、当然ながら限界も低い。むしろよくここまでの道のり、ずっと走り続けられたと我ながら感心だった。
常人ならばとっくに過労死していても不思議ではない運動量だ。それでもこうして無事に身体を動かせているのだから、ひとえにチートのヤンフィさまさまである。
「――ねぇ、ところでさ。アンタたち、奴隷商人を追ってるのよね?」
ふいにセレナが質問を投げてきた。しかしそれは質問というよりも確認である。
タニアと煌夜は同時に頷いた。
「その奴隷商人、見つけ次第殺すの? それとも、見つけても泳がせて、共犯者を炙り出してから一網打尽にするの?」
「……後者にゃ。アジトを突き止めて、まるっと潰す予定にゃ」
「その奴隷商人の人相書きとか、ないの?」
「あるにゃ――これにゃ」
タニアはベスタから渡されていた映像のぼやけた記憶紙をセレナに手渡す。その記憶紙を見て、セレナは無表情のままに問う。
「……二人組、なの?」
「違うにゃ――そっちの老人が【子供攫い】にゃ。もう一人は、共犯者で、時空魔術の使い手らしいにゃ」
「……コイツ? かなり若く見えるけど、時空魔術を操れるの?」
セレナが若干動揺した様子で、青年が写る方の記憶紙を凝視する。
タニアは頷いた。
「そうらしいにゃ。それも手練らしいにゃ。今は、その二人が馬車で移動してるはずにゃ」
「あっそ。まぁ、いいわ。――ねぇ、奴隷商人のアジトを潰すならさ、ベクラルまで行って、待ち伏せしてた方がいいんじゃないの?」
「……そうにゃると、どんにゃ馬車に乗っているか分からにゃいにゃ。それに聞き込みが必要ににゃるにゃ……万が一にも奴隷商人たちに、あちしたちの存在を気付かせたくにゃいにゃ」
タニアの言葉に、セレナがびっくりした顔を浮かべた。
一方で、煌夜はその会話を子守唄に、しばし瞼を閉じてまどろんでいた。
「……タニア、アンタ。結構、よく考えてるのね。分かったわ、じゃあ、エンディ渓谷で待ち伏せして――見つけたら、すぐにその後を追って、ベクラルに入るって方針なのね?」
「そうにゃ。それが最善にゃ」
「なら、あたしがエンディ渓谷で待ち伏せするわ。タニアは、コウヤを連れて先にベクラルに行って、宿屋を確保しなさいよ。二手に分かれた方が効率的でしょ?」
「――にゃに!?」
「正直さ、今のコウヤは足手まといなのよ。隠密行動をしようと思ってるなら、コウヤとは別行動の方が絶対に良いと思うわよ? それに、この山岳地帯なら、タニアよりもあたしの方が隠密行動には適してるわ。あたしなら、奴隷商人に見つからず、奴隷商人を見つけられる――」
「それは、駄目にゃ。確かに、お前があちしより隠密に適してるのは、否定しにゃい。けど、あちしには【鑑定の魔眼】があるにゃ。あちしは、奴隷商人たちを鑑定して、その情報を収集しておきたいにゃ。特に、時空魔術の使い手は厄介にゃ」
煌夜をディスるセレナの提案に、しかしタニアは即座に拒否する。
セレナは眉根を寄せて、困った顔で口元に手を当てた。
「……なるほどね。そっかアンタ、魔眼持ち……しかも【鑑定の魔眼】……それなら、そうね。タニアが奴隷商人たちを見つけた方がいいわね」
「お前、まさか気付いてにゃかったのかにゃ? あの三英雄は気付いてたにゃ」
「……珍しいオッドアイとしか――というか、あたしは外界のことを知らないんだから、仕方ないでしょ?」
タニアは小馬鹿にした風に鼻を鳴らして、セレナはどことなく恥ずかしそうに顔を伏せる。
「――にゃけど、二手に分かれるって案は悪くにゃいにゃ。コウヤを危険に晒さず、奴隷商人たちを追尾できるにゃ」
そして、タニアは何やら自己完結気味に頷くと、セレナに向かって命令した。
「お前――セレナ。あちしの代わりにコウヤを護って、【鉱山都市ベクラル】に向かうにゃ。あちしが、エンディ渓谷で待ち伏せして、奴隷商人たちを見極めるにゃ」
「――――は? ちょ、ちょっと待ってよ!? どうしてあたしが、お守りまでやらないといけないのよ? あたしは、アンタたちのお目付け役として同行してるだけなんだから!」
「お目付け役はあくまでも役割の一つにゃ。それ以前に、セレナはあちしたちの仲間にゃ。にゃら、仲間を護るのは当然にゃ」
「あのね。仲間ならどうして、アンタが命令してるのよ? このパーティのリーダーって、一応コウヤでしょ? コウヤの命令ならいざ知らず、アンタとあたしに、上下関係はないでしょ?」
タニアの物言いに、セレナは猛然と言い返す。それを冷めた目で見ながら、タニアは有無を言わさず断言した。
「あちしの方が年上にゃ。というか、この中じゃ、セレナが一番年下にゃ。パーティの新参者で、一番の年下が、先輩で年上のあちしに、何を逆らってるにゃ?」
「え――う、嘘? え? アンタは、まあ分かるとしても……コウヤって、あたしより上?」
「コウヤは十七歳にゃ。あちしは二十歳にゃ。お前は、十六歳にゃ。年功序列で言っても、セレナは一番下にゃ……ついでに、実力から言っても、あちしより弱いセレナは、やっぱり一番下にゃ。コウヤはあちしを倒してるにゃ。――分かったかにゃ? お前、態度でかいにゃ」
「…………うっ」
セレナは仰天した様子で、寝転がる煌夜とタニアを交互に見て、悔しそうな表情で押し黙った。
ここまでのタニアの言葉は、その全てが正論であり、且つセレナにはもはや反論の余地がなかった。ちなみに、妖精族のヒエラルキーは、年功序列と実力主義によるらしい。
その点で見て、実力的には、煌夜(ヤンフィVer)>タニア>セレナであり、年齢的には、タニア>煌夜>セレナとなる。
つまり、セレナは最弱で最年少、このパーティにおけるヒエラルキーの最底辺だった。逆らえる要素はない。
「……セレナって年下なの?」
まどろんでいた煌夜は、タニアたちの会話を耳にして意識を覚醒させる。
煌夜はセレナを見て、その落ち着いた様子と、理知的な言葉遣いから年上だと勝手に思っていた。それがよもや、一つとはいえ歳下だったとはびっくりである。
重たい身体を半分起こして、煌夜はセレナを眺める。
煌夜の視線を感じたか、セレナは口を真一文字にして恥ずかしそうに顔を逸らしていた。その仕草は、歳相応に可愛らしい反応だった。
「――さて、そうと決まったにゃら、あちしはサッサとエンディ渓谷に下りてるにゃ。セレナ、コウヤが動けるようににゃったら、安全にベクラルまで案内するにゃ。ベクラルの街のギルド指定の宿屋で落ち合おうにゃ」
「…………分かり、ました。はぁ、鑑定の魔眼のせいで、あたしの大人びた印象が……」
「セレナは、最初からガキにゃ。にゃにを格好付けてるにゃ。――あ、コウヤ。そういうわけにゃから、申し訳にゃいけど、セレナを頼むにゃ」
タニアは一方的にそれだけ言って、颯爽とその場から駆けて行った。暗闇に溶けるように、すぐさまその姿は見えなくなる。
煌夜は呆れた顔でタニアを見送ってから、傍らのセレナに視線を向ける。
すると、ちょうど煌夜を見ていたのか、セレナと目が合った。吸い込まれるようなその蒼い双眸は煌夜をジッと見詰めていて、思わず煌夜は息を呑んだ。
お互いに見詰めあい、しばし沈黙する。先に口を開いたのは、セレナだった。
「……ねぇ、コウヤ。あたしさ、若いっていうのがコンプレックスなのよ。だから、不用意に年齢のことは口にしないでよ?」
「う――あ、ああ、はい。分かったよ」
セレナは煌夜の瞳を見詰めながら、そんな釘を刺してくる。そもそも煌夜は女性の年齢をいじるつもりなどない。だから素直に頷いた。
「――とりあえず、もうしばらく休憩したら、行きましょ。ベクラルまで安全な道を案内するわ」
「セレナ。足手まといかも知れないけど、よろしく頼むよ」
「…………任せなさいよ。自分の役割は承知してるもの、言わなくても果たすわ」
煌夜の素直なお願いに、セレナは少し顔を赤らめる。そして、照れ隠しのつもりか、煌夜の傍に寄ってくると、その身体に手をかざして治癒魔術を詠唱してくれた。
途端に、全身を襲っていた凄まじい疲労感が安らいでくる。
(あ、そうだ。ところで、ヤンフィ……俺の左腕って、まだ元に戻せないのか? いつもなら、サッと元に戻してるのに……)
(出来なくはない。じゃが念のため、無事に宿に着くまで、もうしばらく魔力を温存させてもらう――コウヤは気絶しておったから知らぬと思うが、あのキリアとか云う女の魔術が凄まじくてのぅ。【魔剣エルタニン】は左腕に擬態した状態のまま、粉微塵に砕け散った。じゃから、左腕を再生する前に、エルタニンを再生させなければならぬのじゃが……それはかなりの魔力を使うのでのぅ)
(――え? 粉微塵って……あの気持ち悪い剣が?)
(気持ち悪いは余計じゃが、そうじゃ――お、そうじゃ、しばしコウヤの身体を借りるぞ?)
セレナが煌夜の身体を癒してくれている間、煌夜はヤンフィとなんとなく脳内会話していた。すると、唐突にヤンフィは煌夜の身体の主導権を奪う。
「おい、セレナよ。そういえば一つ、汝に問いたいことがあったのじゃが、良いかのぅ?」
「――またその言語と口調……【魔王属】のヤンフィだっけ? 何よ?」
「ふむ……キリアと名乗っておったあの仮面の女――彼奴は何者なんじゃ?」
ヤンフィの問いに、セレナは驚愕してから険しい表情を浮べる。そして、煌夜を癒すその手を止めて、一歩距離を取った。
「――――なんで知らないの? アンタ、本当に【魔王属】? キリア様を知らないって……どういうことなのよ」
「簡潔に云うと、妾は千年間、封印されておった。じゃから、この世の情勢をまったく知らぬ。――で? 何者なんじゃ? 何を為した?」
セレナはヤンフィの言葉に、ああ、と納得してから、腕を組んで何やら悩む。
説明し難いのだろうか、と煌夜が疑問に思ったとき、ふと空を見上げて困った表情になる。
「説明してあげるけど……そろそろ移動しない? 当面の肉体疲労は回復したでしょ? まずは宿屋に向かうのが先よ」
「……確かに、それは一理あるのぅ。ふむ、それでは移動しながら説明してもらおうか……コウヤ、悪いがこのまま喋らせてもらうぞ?」
「――あたしも、その一人芝居のことゆっくり聞きたいんだけど……まぁ、いいわ」
じゃあ行くわよ、とセレナは立ち上がり、もう一度空を見上げる。
月を隠すおどろおどろしい黒雲はいよいよ怪しくなっており、雨が降っていないのが不思議な天気だった。ゴロゴロと、空の鳴く音が響いていた。
セレナは三つの光の玉を先行させて、一つを自分の傍に、もう一つを煌夜の傍に漂わせた。
「足元に気をつけてよ。一歩踏み外したら、落ちるわよ?」
「妾を見くびるでないわ。――汝こそ、道を間違うでないぞ?」
「……それこそ、あたしを見くびらないでよ」
ヤンフィとセレナは互いにそんな軽口を叩いて、どちらともなく歩き出す。
隊列は、セレナが先導して、その2メートルほど後方を煌夜がついて行く形である。
二人の下る山道は、セレナの指摘通りすぐ脇が崖になっており、道幅はあまり広くなかった。深夜だからか、魔族や動物とも遭遇することなく、平穏無事で順調に山を下りる。
「それで? あの仮面の女――キリアとは、何者じゃ?」
「――妖精族の【守り手】って知ってる?」
「悪いが、妾は妖精族の生態には詳しくない」
「まあ、そうよね……じゃあ、妖精族の聖地【キリア大樹海】は知ってるわよね? それが十七年前に滅びたことも――」
「タニアから聞いておる。どこぞの幻想種に滅ぼされたらしいのぅ。半ば信じられぬが……」
ええ、とセレナは頷き、ふいに立ち止まって、足元を照らす。すると歩く方向を変えて、木々の生い茂る森の中へと進んだ。
「じゃあ、聖地に【始まりの木】と呼ばれる妖精族の神木があることも当然――」
「――当然、それも知っておる。妖精族の祖が生まれた木じゃな? 樹齢一万年を数えるとも云われる神話の時代に生まれし大樹じゃ。絶大な魔力を擁しており、妖精族の聖地を聖地たらしめている象徴。そして、その魔力があるからこそ、他の月桂樹も妖精族を生むことができる。妖精族全ての母のような神木じゃろぅ?」
ヤンフィは何も知らない煌夜に教え聞かせるよう説明を入れてくれる。それはありがたいことだが、正直興味のない煌夜には難解な話だった。
「そうよ。そして、キリア様はその【始まりの木】から生まれた妖精族――千年周期で唯一生まれて、その時代の全妖精族を束ねる【守り手】と呼ばれる存在よ。人族の文化で言うところの女王や、皇帝のような存在に近いかしら?」
「……ふむ。なるほど、じゃからあれほど規格外の力を持っておったのか」
「でもね、それだけじゃないわよ? キリア様は、聖地を滅ぼした最強の災厄――【名も無き黒竜】を倒して、最古参の魔王属と言われていた三体の魔王属と、当時の魔王まで打ち滅ぼして、世界を救った三人の大英雄――その一人なんだから」
「馬鹿な!? 魔王を――倒した!?」
ヤンフィの驚愕は静寂の辺りに響き渡る。
その反応を見て、セレナはどこか誇らしげに、薄い胸を張った。
「そうよ。たった三人――二人の人族と、キリア様だけで、当時の魔王【百獣王ゴルディア】を打ち滅ぼしたのよ。それ以外にも、数々の奇跡を起こしてる伝説の英雄の一人なんだから……タニアとの闘いは、あれでも手を抜いてたのよ」
「…………信じられん」
セレナの言葉を聞いて、ヤンフィは神妙な顔で唸った。心底信じられないのか、そのまま沈黙してしまう。
するとその時、ポツポツと上から大粒の水滴が落ちてきた。
見上げれば、深い木々のおかげでそれほど感じないが、本格的に雨が降ってきているようだった。それに気付いて、セレナの足取りが早くなる。
「なぁ、セレナ……ちなみにさ。なんで、そのキリア様って仮面を被ってたの? 顔に傷でもあるの?」
早足のセレナに追い縋りながら、煌夜はそんな疑問を口にする。
ヤンフィは驚きから回復しておらず、既に身体の主導権を手放していた。まったく相変わらずの勝手さだ。
さて、セレナは煌夜の質問を耳にして、途端に苦渋の顔を浮かべた。そして何故か視線を泳がせて言い難そうにした。
「――キリア様は、堕ちた妖精族だから」
「は? 落ちた、妖精族? って、何?」
絞り出すような声で答えたセレナは、プイと煌夜から顔を背ける。それきり無言になった。
煌夜の追加疑問は宙に浮いて、周囲には強くなってきた雨音だけが響き渡る。
「――それにしても忙しないわね、コウヤ。ヤンフィが喋ってたと思ったら、何の予兆もなく人格が変わるのね」
しばらく無言で歩き続けたかと思ったら、ふとセレナが話題を変えて、苦笑交じりに振り返ってきた。その誤魔化すような素振りを見て、煌夜は先ほどの話題は諦めて、話を合わせる。
「別に、人格が変わってるわけじゃなくて、同時に俺とヤンフィが共存してるんだよ。だから切り替わるスイッチみたいのはないよ」
「ふーん。コウヤの身体の中が、どうなってるのか気になるわね……と、着いたわ」
「ん、着いた? ――――うおぉ!?」
セレナがいきなりピタリと立ち止まった。煌夜は首を傾げながら、セレナの隣に並んで、瞬間、その景色に腰を抜かす。ちょうどセレナの立ち止まった位置は森の切れ目で、同時に、一歩先は見事なまでの断崖絶壁だった。
セレナは腰を抜かした煌夜を助け起こして、崖下を見るように促す。
「見えるかしら? この下に広がってるのが【鉱山都市ベクラル】よ。ここはちょうどベクラルの裏手なの。ちなみに正面に見えてる谷間の道が、聖王行路よ」
眼下に広がっているのは、山間の扇形になった広い窪地と、そこに築かれた沢山の建物群だった。
建物はそのほとんどが同じくらいの高さで統一されており、突出して背の高い建造物は見当たらない。またその建物群は整然と隙間なく建ち並んでおり、その隙間が街の道路になっていた。
道路は、上から見下ろすと、まるで蜘蛛の巣が張ったように、複雑に入り組んだ形をしていた。
街にはチラホラと微かな灯りが見えており、人が住んで生活している気配が窺える。
セレナはそんな街並みから視線を上げて、正面を指差している。
見ればそこには、ちょうど切り立った崖の狭間が谷を形成しており、街の入り口と繋がっていた。その道がセレナの説明してくれた聖王行路らしい。
タニアは恐らくあの辺りにいるだろう、とセレナは指をスライドさせて、崖のところを指差すが、強くなって来た雨と暗闇の為、煌夜にはその姿は見つけられなかった。
「――さてと、コウヤ。いつまでもこうしてても仕方ないし、雨足も強くなって来たから、とりあえず街に降りましょ」
「それは、賛成だけど……どっから?」
セレナはひとしきり景色の解説を終えると、その場で背伸びをして、崖下を見下ろしながら事もなげに言う。
だが、辺りには下に降りれそうな道は見当たらない。見渡す限りの断崖絶壁である。地面が見えないほどの高さ、落ちれば即死だろう。
「どこって――ここから飛び降りるのよ。あたしが風の魔術で補助するから、ちょっと度胸がいるけど、安全よ」
しかし、セレナは平然とトチ狂った発言をする。その顔はにこやかだった。
「まさかの紐なしバンジー!?」
煌夜の驚愕に、なにそれ、と興味なさそうに吐き捨てて、セレナは煌夜に向けて手を差し出す。
白く透き通るような肌をした細く小さいその手は、けれど煌夜には死出の旅を誘う死神の手に見えた。
「もう、サッサと掴みなさいよ――さぁ、行くわよ」
「――――ちょ、え!? ま、待ってぇええええええっ!!」
差し出されたセレナの手をただ見詰める煌夜に痺れを切らして、セレナは煌夜の手をガシっと掴む。そして問答無用に煌夜の身体を引っ張って、一瞬の躊躇もなく崖から飛び降りた。
それは、完全な自由落下だ。心の準備が出来ていない煌夜は、間延びした絶叫を夜闇に木霊させながら、顔面を風圧でクシャクシャにして、即死の崖から落ちていく。
「あと十秒ほどで着地するわ。結構な衝撃が来るから覚悟して――口閉じないと、舌噛むわよ」
凄まじい風圧の中、しかしセレナのその澄んだ声は煌夜の耳に届いた。
涙ながらに隣を見ると、煌夜の手を握るセレナが冷静な表情で落下先の地面を注視している。ところが、いまだに魔術を使う素振りはない。
一瞬のようで、一時間にも感じられるその落下の間、煌夜は恐怖で頭が真っ白だった。ただ言われた通りに十秒のカウントだけが、頭に響く。
そうしてセレナの宣言から九秒、あっという間でいてようやく、地面スレスレになった瞬間、ガクンと物凄い逆Gが掛かった。
何かに背中を無理やり引っ張られたような衝撃、それこそまさにバンジージャンプの如き衝撃が、煌夜の身体を地面との激突から回避させる。
ピタリと、地面から鼻先数十センチの距離で、煌夜の身体が空中で止まった。
思わず心臓が口から出そうになった。
「――――っ!?」
「ほら、ね。安全だったでしょ?」
そんなセレナの声と共に、煌夜の身体がくるりと回り、ドサっとお尻から優しく着地する。
少し遅れて、セレナは立ったままの姿勢で、ゆっくりと地に降り立った。セレナの身体の周囲には、眼に見えるほど勢いのある風が渦巻いていた。
「……ここは採掘場みたいね」
助かったことで放心している煌夜を放置して、セレナは周囲を一瞥してからそう判断する。言われて、煌夜はハッとした。
煌夜たちが落ちたその場所は、周囲の山肌が人為的に削られており、岩場と砂場しかないただただ広いところだった。
なるほど、採掘場と言われてしっくりくる景色である。テレビの特撮でよく目にする風景だった。
「街はこっちかな? さぁ、行きましょ、コウヤ」
セレナは落ちてきた崖を見上げてから、尻餅をついている煌夜を助け起こす。
煌夜も同じように崖を見上げて、そのあまりの高さに、背中をざわつかせた。よくもこんなところから落ちて無傷で済んだものである。
そんな煌夜を見て、セレナは苦笑しながらその背中を優しく押す。行きましょ、ともう一度そう催促して、絶壁に背を向けて足を踏み出した。
「あ、ああ……つうか、セレナ。なんか、楽しそうだな」
「そりゃあ、ね。初めての外界だもの。興奮するわよ、当然でしょ?」
冷や汗を流す煌夜は、セレナの楽しそうな様子に目を細める。
セレナは弾んだ声で言って、踊るようにその場でくるりと一回転した。大雨だと言うのに、ヒラリとそのスカートがはためいていた。
そういえば、土砂降りのこの雨の中で、しかしセレナは全く濡れていない。よく観察すると、どうやら薄い風の膜がセレナの身体を包んでおり、それが雨を全て弾いているようだった。
既に濡れネズミになっている煌夜からすると羨ましいことこの上なかった。
煌夜はそんなセレナに羨望の視線を向けて、これ以上濡れないようにと、外套をしっかりと着込んだ。
するとセレナは何かに気付いて、にこやかな笑顔で煌夜の外套に触れた。
「――ねぇ、コウヤ。その外套、あたしに貸して? この姿のままだと、かなり目立っちゃうからさ」
「え、あ、おい……ちょ、無理やり……ぬぅ」
煌夜の抵抗むなしく、セレナは有無を言わせず煌夜の外套を剥ぎ取った。見かけの割りに力が強い。
セレナは奪ったそれを我が物顔で羽織ると、備え付けのフードを目深にかぶって顔を隠した。
外套を奪われたおかげで、煌夜はいっそうずぶ濡れになり、服が全身に張り付いて着衣水泳の後みたいになっていた。
そんな煌夜などお構いなく、さあ行きましょ、とセレナは改めて宣言して、軽やかな足取りで街の方へと歩き出す。
「へえ――凄い、凄い。ここが人族の街かぁ――わぁ」
街に入ると、セレナはしきりに感心した声を上げて、あちこち見ながらきゃぴきゃぴとはしゃいでいた。その楽しそうな横顔は、祭りで楽しそうにしていたサラを思い出させる。
煌夜は少しだけセンチな気分になる。
ベクラルの街は、アベリンの街よりもだいぶ洗練された街並みだった。
道幅はどこも一定で、家々は整然と建ち並んでいる。道路は整備が行き届いた綺麗な石畳で、十字路には必ず案内標識が建っていた。
その標識を確認して、宿屋を探しながらセレナはぐんぐんと先に進んでいく。
当然ながら、辺りに人影はない。
まだ辺りは真っ暗、明け方に近い深夜で、しかも大雨である。街中を歩いている人間など居るはずはなかった。
「――ねぇ、コウヤ。この【ギルド指定宿屋】に向かえば良いのよね?」
「え? さあ? 分からな――」
「うん。こっちね――ほら、コウヤ。そんなチンタラ歩いてると、風邪引くわよ」
先行するセレナは煌夜に同意を求めておきながら、すぐさま自己完結して目の前の十字路を曲がった。その後姿を見て、煌夜は溜息一つ吐いてから駆け足で追いかける。
宿屋を見つけたのか、セレナはそれから迷わず突き進んだ。
現れる十字路を前へ左へ右へと曲がり、最後に狭い路地に入る。傍目から見て建物の隙間としか思えないその路地の先には、六車線くらいあろう大通りが広がっていた。
そこは、崖上から見た時、街の中央を一直線に分断していた通りのようだ。
「――あそこ、ね」
そんな大通りで、ふと立ち止まったセレナが煌夜に振り向く。煌夜はセレナの視線の先を見て、ああ、と納得した。
大通りの中央辺りに、一軒だけ明かりが漏れている建物があった。
そこは建ち並ぶ建物より一階分背の高い建物で、アベリンで泊まった【オルド三姉妹亭】と同じ入り口をしていた。そして、こんな時間にも関わらず、雨音に負けない声が店の外に漏れ聞こえている。
セレナは煌夜の隣に並ぶと、唐突に右腕を掴んで、ほら行ってよ、と先を行くよう促してくる。その声音には少しだけ緊張の色が感じ取れた。
さっきまではしゃいでいたのが嘘のように、その態度は控えめである。
「……どうか、したのか?」
セレナのその態度に、まさか何か不吉な存在でも居るのか、と煌夜は勘ぐって、内心身構えてしまった。
しかし、セレナは首を振って、恥ずかしそうに囁いた。
「――人族の宿屋なんて初めてなんだから、察しなさいよ」
煌夜はその台詞に一瞬だけきょとんとしてから、ああ、と頭の上で豆電球を光らせる。
それはつまり、一人で飲食店に入れない子供の心境だろう。初めての場所に入ることに、初対面の人族と話すことに、緊張と少しの恐怖を感じているのだ。
似たようなところで考えると、煌夜だっていまだに一人では、お金を持っていても高級料亭の暖簾はくぐれない。
煌夜は、そんなセレナの庶民臭い感性に苦笑して、今度は先立って歩き出す。
セレナは煌夜の背中に隠れるように、すぐ後ろを付いてきた。
宿屋に入ると、カランコロン、と鈴の音が鳴った。
その宿屋の一階は、オルド三姉妹亭と同じ構造をしており、奥のテーブル席には五人組の客が飲み食いしながら騒いでいる。また、正面のカウンター席には、店主と談笑している客が一人、店内の雰囲気は明るく楽しげな酒場然としていた。
「――おや、いらっしゃい。こんな時間に何の用だい?」
煌夜たちの姿を認めると、カウンターの内側にいた男性が声を掛けてくる。彼が店主だろう。
店主はスキンヘッドにちょび髭が凛々しい、いかにも紳士の印象をした筋肉質な男性だった。
店主が煌夜に気付いたことで、店主と談笑していた客も煌夜たちに振り向いた。その客は、いかにも高級そうな鋼鉄の防具を身に着けた冒険者で、これまた立派な大剣を足元に転がしている。しかし、果たしてその大剣を振れるのか、と首を傾げたくなるような肥満体型をしていた。
客はそのふくれ面を真っ赤にしており、完全にへべれけ状態である。全体的に、七福神のエビス様に似ている。
煌夜は少し怯えた様子のセレナに背中を押されつつ、店主のいるカウンターに近付いた。
(あ――そうだ、ヤンフィ。俺、喋らない方がいいんだよな? ちょっと、部屋が空いてるかどうか訊いてくれないか?)
(ふむ……いや、ここなら、妾が喋らずとも大丈夫じゃろぅ。ここには今、酒に酔っておる者しか居らぬ。誰もコウヤの言葉が【統一言語】とは気付かぬじゃろう)
煌夜は今までの教訓から、ヤンフィに通訳をお願いする。だが、ヤンフィはそれを不要と断言した。本当かよ、と一瞬疑うも、まあいっか、と深く考えずに店主に答える。
「……あ、えーと、宿を探してるんですけど、ここ、空いてますか?」
「こんな時間に、泊まり客かよ。ギャハハハハッ――!!」
何も面白いことは言っていないが、へべれけ状態のエビス様はいきなり大爆笑していた。きっと箸が転がってもおかしいのだろう。大音量の笑い声が店内に響き渡る。
店主はそれに苦笑しつつ、カウンターの内側から薄汚れた台帳を取り出した。ペラペラと頁をめくり、額をポリポリと掻く。
「空いてなくはないが、何部屋だい?」
「あ、えと……二人部屋を二つ、でいいよな?」
「――四人部屋を一つ」
煌夜が背中に隠れたセレナに確認すると、セレナは迷わず即答する。
その答えに、煌夜はギョッとした。するとそれを察したのか、セレナが小声でボソボソと弁明する。
「一部屋の方が安いでしょ? 何に気を使ってるかは分かるけど、あたしはコウヤが一緒でも気にしないわよ。それにどうせ、二部屋の場合、あたしとタニア、コウヤの一人部屋って部屋割りでしょ? あたし、タニアと二人っきりなんて嫌よ。それならコウヤも一緒の方がマシ――大体さ、コウヤが一人になったら、万が一何かあったとき、誰がアンタを護るのよ?」
確かに、と煌夜は思わず頷いた。セレナの言い分は正しく効率的だった。
しかしとはいえ、年頃の男女が同じ部屋で寝るという状況には、いまいち二の足を踏んでしまう。
「……コウヤ、アンタそんなに性欲持て余してるの?」
すると、セレナがボソリとそんな追撃をしてくる。
煌夜は慌てて首を振った。万が一にも間違いなど犯さない自信はある。
「――そんで? 四人部屋一つかい? それとも、二人部屋二つかい?」
「あ……四人部屋、一つで」
セレナが気にしないと言ってくれているのならば、そんなに深く考える必要はないか、と煌夜はセレナの提案通りに注文した。
店主は頷いて、台帳をパラパラとめくって、何かを書き込んだ。
ちなみに、タニアの意見は無視である。まあタニアから反対意見は出ないだろうという確信はあったし、今この場にいないので、とりあえず考えないことにした。
「四人部屋は、空いてるよ――何日滞在だい?」
「あー、とりあえず仲間が合流する予定だから、一泊……」
「へいへい。まぁ、連泊の受付はいつでも承るから、気軽に声掛けてくれよ」
店主はにこやかに言って、カウンターに台帳と筆を置く。
開かれた頁には縦書きで空欄があった。宿泊客の名前を記帳するのだろうか、と煌夜が店主を見ると、何やら一枚紙を出される。けれど文字など読めない煌夜は、硬直してしまう。
すると店主がそれを察したのか、口に出して説明してくれた。
「これは宿泊料の表ですよ。四人部屋は、ここ……一泊、テオゴニア銀紙幣一枚。ただし、アドニス銀貨四十枚分を前払いして下さい」
「ギャハハハハ――前払いで、アドニス銀貨四十枚って……ギャハハハハ――!!」
カウンターに座るエビス様は壊れたように馬鹿笑いをしながら仰け反り、勢いよく椅子から転げ落ちていた。
それでもまだ笑い続けており、それを店主は哀れみの目で見ていた。
「……え? 前、払い?」
「うん? ええ、前払いでアドニス銀貨四十枚が必要です。残りは引き払う時にお願いしますよ」
「セレナ、持ってる?」
「――――コウヤ、持ってないの?」
店主の説明を聞いて、煌夜は、アレ、と首を傾げた。背中のセレナを見ると、セレナは眉根を寄せて問い返す。
その反応を見るに、お金を持っているようには思えなかった。当然、煌夜もこの世界のお金など持っていない。全てはタニアの財布頼みだった。だが、タニアはこの場にいない。
煌夜は恐る恐ると、セレナにもう一度確認する。
「俺は、一円も持ってないけど……セレナはお金持ってるか?」
「……一円って何よ? というか、あたしが人族の貨幣を持ってるわけないでしょ?」
「…………俺ら、無一文かよ」
煌夜はセレナとボソボソ相談して、状況を理解すると同時に絶望した。これでは宿屋に泊まれない。
そんな不穏な空気を感じ取ったか、店主がにこやかな顔から一転して厳しい顔になり、ドンと強くカウンターを叩いた。
「おい、まさか――払えないのか? 手持ちがねぇなら、泊められねぇよ。テメェらは客じゃねぇ。サッサと帰ってくれ、邪魔だ」
店主は紳士的な雰囲気からは想像出来ないほど厳つい顔で、ヤクザの親分もかくやの形相を浮かべる。その凄みに気圧されて、煌夜は九十度に頭を下げると逃げるように宿屋を後にした。
その背中に、狂ったようなエビス様の笑い声が届く。
「…………ねぇ、コウヤ。これからどうするのよ?」
「どうするか……」
大雨が降りしきる中、無一文の煌夜とセレナは、ただただ呆然と空を見上げて途方に暮れた。
黒い雨雲が支配する夜空は少しだけ白んできているようだったが、一向に雨は止む気配がなかった。
二人は今、路頭に迷った。
※前書き、後書きの言い訳を削除して、変更履歴のみ記載
キャラクター設定等は、別途まとめて記載します
10/18 ルビ一部変更