第十七話 月桂樹の民
アベリンの街の西門を出て、荒涼とした平野を二時間ほど馬で駆けると、大森林と形容するに相応しい緑色の広がりが見えてきた。同時に、壁を思わせるほど絶壁の茶色い山肌がその雄姿を見せ始める。
「――あと二十分くらいにゃ。もうちょい頑張るにゃ、コウヤ」
時速40キロは出ているだろう馬上で、タニアが大声を張り上げる。その大声は、腰の手を回して背中に張り付いている煌夜に対してのものだ。
だが、俯いて青白い顔でぐったりしている煌夜は、まともに返事などできず、背中に頭を当てて頷くことしか出来なかった。
「にゃにゃにゃ、まったく誤算にゃ。まさかコウヤが馬に乗れにゃい上に、この程度で酔うにゃんて。情けにゃいにゃ。ちょっとだけ幻滅にゃ」
全身を外套ですっぽりと覆ったタニアは、まっすぐ前を見据えながら、残念そうに息を吐いた。
煌夜とタニアは今、二人で一頭の馬に乗っている。
本当ならば、一人一頭ずつの予定だったのだが、いかんせん煌夜が馬に乗れないことが判明して、タニアが自分の後ろに乗せたのである。
荷重が大きくなる分馬の速度は落ちるが、片道馬車を雇うよりも安いので、二人一緒を選択した。しかしそれが裏目に出て、煌夜は一時間ほどで見事に酔い、いまやグロッキー状態になっていた。
「……ぐぅ、ぅ……すま、ん……」
煌夜は、こみ上げてくる吐き気に堪えながら、か弱い声でタニアに謝る。けれどその声は、流れる風切り音に掻き消されて、タニアには届かない。
(ヤンフィ、助けて……)
(すまぬのぅ、コウヤ。さっきも云うたが、既に酔った状態のコウヤを元に戻す術を妾は持たぬ。一旦止まって安静にするほかない)
(……く、そ……最、悪だ……ぅ)
前後左右にグラグラと揺らされる視界。
ビュウビュウと叩きつけられる風。
何度も何度も大きく横に揺れる馬上で、煌夜はヤンフィに何度目かの助けを求める。
けれどヤンフィはこの件に関してはドライなもので、死にはすまい、と一蹴して、まったく助けてくれなかった。
タニアもタニアで、時間がもったいない、ということで、煌夜の体調を無視して馬を走らせ続けていた。おかげで、煌夜の体調は悪化の一途である。
とはいえ、急いでいるのも事実なので、体調回復を理由に休もうとも提案できず、煌夜は必死に耐え忍んでいた。
煌夜とタニアの目的地は、【オーガ山岳地帯】の入り口とも言うべき第一の山の麓である。
【アベリン】の西門からだと、直線距離にしておおよそ60キロらしい。馬を駆れば二時間弱で着く距離だった。
けれどここでも馬の二人乗りが災いしてか、想定以上に時間が掛かっていた。予定よりも時間が押している。
「――にゃぁ、コウヤ。ちょっとこっから悪路にゃ。しっかり捕まるにゃ」
タニアが少しだけ後ろを向きながら、手綱を強く握り締めた。瞬間、宣言通りに馬が大きく上体を起こして、次いで、踊るようにその尻が跳ねた。
ぅうぐぉっ――と、まるでゾンビの唸り声みたいな音を出して、煌夜は込み上げた胃液を必死に飲み込んだ。同時に、ぎゅっとタニアの細い腰のくびれにしがみ付く。
二の腕にはタニアのポヨンとした下乳の感触があったが、そんなことを意識できる余裕はなかった。しがみ付く力が緩めば落馬、吐き気に負ければタニアの背中と煌夜の身体は吐瀉物にまみれる。
どちらも地獄である。だが、煌夜はそれを堪えた。
ホッと一安心する煌夜にしかし、本当の地獄が襲い掛かる。まだこれは、地獄の始まりだった。
煌夜たちの行く手に現れたのは、そこかしこに転がる巨大な岩石である。
馬はその障害物を大きく身体を振って避けていく。すると必然、馬上は大きく左右に振れて、死に体の煌夜をこれでもかと言うくらいに揺らした。
(――あ、これは……もう駄目だ……)
煌夜はただただ必死にタニアの腰に縋り付いて、そのまま意識を失った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
アベリンを出てから、そろそろ三時間、ようやくにしてタニアたちは、目的としていた場所――【オーガ山岳地帯】の入り口である第一の山の麓まで辿り着いた。
そこは見渡す限りの広大な樹海である。
雰囲気は【聖魔の森】と似た印象の薄暗い森だが、あの森とは違い、ここには生き物の気配が溢れている。鳥の鳴き声一つ取っても、けたたましいくらいに鳴り続けているし、聞いたことのない変な虫の声も響いていた。
タニアはその森の入り口で馬を解放して、気絶した煌夜の回復を待っていた。
あれから煌夜は、馬上で色々と限界を迎えてしまい、顔面蒼白になって気絶してしまっていた。
「……まったく、情けにゃいにゃぁ」
水で濡らしたタオルを煌夜の額に乗せて、タニアは苦笑交じりに囁いた。
煌夜の体調が、ここまで酷くなるとは想定していなかったのである。とはいえ、過失だろうと故意であろうと、結果として煌夜がダウンした事実は変わらない。回復するまで、しばらく動けないのも事実である。
タニアは、ちょっと失敗したにゃ、と反省しながら、さっきまでと一転して曇天になっている空を見上げた。
出来れば雨が降り始める前には、山の中腹まで登りたい。
そうしないと、今日中の山越えが難しくなるし、そもそもここで長居するのは危険である。少しだけ焦ってしまう。
「――おい、タニア。コウヤが回復するまでは、しばらく掛かりそうじゃが……何を焦っておる?」
どことなく焦るタニアの様子を見て、ヤンフィが煌夜の声で問い掛けてくる。
「んにゃ、ボスか……んー、実は、早くここから離れたいにゃぁ……ここでの長居は、ちょっと危険にゃ」
「危険? 何がじゃ? 妾は昔、この山岳地帯を踏破した記憶があるが、別段、危険な魔族はおらなかったはずじゃ。何を焦ることがある?」
「…………んにゃにゃ、確かに強い魔族は、いにゃいにゃ……けど今は……」
煌夜の身体を少しでも休ませる為、ヤンフィは寝転んだままでタニアに問う。するとタニアは、視線を泳がせながら言いよどむ。
何か隠している素振りである。ヤンフィは誤魔化されずに、強めの口調で食い下がる。
「今は……? 今は、なんじゃ? 妾の知らぬ何を隠しておる? タニアよ、正直に云わねば、また魔力を吸うぞ?」
タニアはヤンフィの台詞に、困った、と眉根を寄せて悩ましげな顔を浮べた。そしてしばし悩んでから、その重い口を開く。
「……今は、この辺り一帯……麓から中腹までが、妖精族の住処ににゃってるにゃ」
「な、に――? 妖精族の住処、だと? どうしてじゃ?」
「それは十七年前のことにゃ。妖精族の聖地で、唯一の住処だった【キリア大樹海】。そこが、ある幻想種によって滅ぼされたにゃ。そのせいで、妖精族のほとんどが死滅して、生き残った少数が世界各地に散らばったにゃ。その散らばった妖精族の住処の一つが、このオーガ山岳地帯の森にゃ」
タニアは言いながら、山の豊かな緑に目を向ける。その瞳には、若干の緊張が見て取れる。
それを聞き、ヤンフィは、なるほど、と呟いて煌夜の身体を起こした。
「じゃから、『妾がおればなんとかなる』――か。確かに、妾がおれば言葉は通じよう。じゃが、妖精族と言葉が通じても、会話が出来るかは別じゃろう? そも、妖精族の縄張りに踏み込めば、いかなる理由だろうと、戦闘は避けれまい」
「……にゃので、ボスの力でにゃんとかにゃらないかにゃ?」
「妾に丸投げか――この、駄猫め」
タニアの無責任な台詞に悪態をついてから、ヤンフィは頭を悩ませる。丸投げされても、ヤンフィも策は思いつかない。
妖精族――別名を【月桂樹の民】とも言う。
非常に排他的で閉鎖的な環境に生きる種族であり、基本的に、他種族とは相容れない存在である。
その個体はうら若く美しい容姿をした女性体しか存在せず、寿命が非常に長いことが特徴だ。
身体は人間と同じ構造をしてはいるが、その実、高濃度の魔力結晶体であり、正確には肉の器ではない。その為、脳以外の臓器は全て魔力で再生可能であり、食事の摂取は不要である。
けれど食事の代わりに、定期的に魔力の供給が必要な種だ。
ちなみに、妖精族の個体は子供を産めず、一定年数を経た月桂樹に己の魔力を混ぜることにより、新しい個体を生み出す特性を持つ。また、月桂樹の生える森以外ではその生命力が著しく下がることから、永い生涯をずっと森から出ずに過ごす性質で、それゆえに【月桂樹の民】と呼ばれていた。
さて、そんな妖精族だが、彼女たちは総じて魔術の申し子だ。
人族の数倍の魔力を生まれながらに保有して、ありとあらゆる魔術に精通している。また、その五感は獣族に匹敵するくらい鋭敏で、身体能力も極めて高い。
弱点としては、快感と痛覚に弱く、意志薄弱な個体が多いことが挙げられるが、その戦闘力は極めて高く驚異的である。
――余談だが、妖精族はその美しい容姿と、子供を産めない特性、快感に弱いという弱点から、人族に捕らえられて娼婦として扱われることが多い種族でもある。
その為、妖精族は遥か昔から人間――特に男性を忌み嫌っていた。
そんな妖精族の住処に、ヤンフィたちはこれから無断で踏み込もうとしている。
それはすなわち、彼女たちからすれば侵略に等しいだろう。つまりは戦争になる。
とはいえ、タニアとヤンフィほどの強者ならば、仮に戦争になっても死にはしないだろうが、その代償は軽くはないはずだ。
ただでさえ手強い妖精族だが、彼女たちは、森の中、特に月桂樹の近くでは、無限に等しい魔力を得る。その上で徒党を組まれては、如何に個々の戦力で圧倒していようとも、戦うのは得策ではない。
「ふむ、タニアよ。麓から中腹まで、と云うことは――もうここ一帯は、妖精族の住処と見るべきかのぅ?」
「分からにゃいにゃ――にゃけど、見渡す限りでは月桂樹がにゃいから、まだ大丈夫じゃにゃいかにゃあ」
タニアは楽観的に呟いた。それに対してヤンフィは溜息を漏らすと、無言で立ち上がってタニアの耳を思い切り抓った。
「にゃぁあ――痛いにゃ!?」
悶絶するタニアを尻目に、ヤンフィは森の中に意識を集中させる。
煌夜の瞳に魔力を込めて、千里眼の能力の一つを発動させた。はっきりと空間に漂う無数の魔力跡が視認できる。
「――――おい、タニアよ。残念なお知らせじゃ」
「んにゃ? にゃにが……にゃにゃっ!?」
空間に漂う魔力を読み取って、ヤンフィは思わず頭を抱えた。そしてギロリとタニアを睨むと、ちょうどタニアも状況を把握できたらしい。
ピクピクと耳を左右に動かして、森の奥に顔を向ける。
果たして、タニアたちは既に大勢の妖精族に囲まれていた。
何十人もの妖精族が、木々の上から完璧な包囲網を形成していて、合図一つで交戦開始できる状態で、その全身に魔力を漲らせている。
「……状況はもはや、手遅れのようじゃな」
ヤンフィは疲れたように息を吐き、タニアと背中合わせに身構える。タニアも当然のように戦闘態勢になり、周囲からの妖精族の威圧を受け止める。
静寂の森に、キナ臭い緊張が漂い始めた。
するとその時、身構える二人の前に、一人の女性が姿を現わす。
音も無く、重力を感じさせぬ足取りで、彼女はタニアの数メートル前まで歩み寄ってきて、ふと立ち止まった。
彼女は、妖精族特有の衣装ではなく、外界の冒険者然とした軽装備で、片手には細長い枝のような刺突用の剣を持っていた。
風の魔術でも纏っているのか、背後で迷彩模様のマントがたなびいている。
美しい深緑の長髪と、スラリとした体躯をして、その顔には仮面を被っていた。
「――何故こんなところに、先祖返りの暴れ姫がいる? 貴様ら、この森に何の用だ?」
仮面の女はタニアに顔を向けて、妖精語ではなく、標準語でそう問い掛けた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
煌夜の意識は、突然の激痛でもって無理やりに叩き起こされた。
肺が潰されるような苦痛と、凄まじい衝撃で身体が吹っ飛ぶ感覚。
煌夜は慌てて目を開けようとして、そもそも既に目は開かれていることに気付く。すると、視界には信じがたい光景が飛び込んでくる。
それは――大木に叩きつけられるタニアの姿だった。
(――――なっ!? え?)
タニアは強烈に大木へぶつかり、その勢いで大木は倒壊する。
そんな光景を認識した直後、煌夜の身体が本人の意思を無視して、その場から飛び退いた。
ヤンフィが身体をコントロールしているのは明らかだ。その俊敏さは非常識なほど速かい。けれどそれでも、攻撃を避けるには遅かった。
次の瞬間、煌夜の右足があらぬ方向に折れ曲がり、飛び退いた勢いそのまま着地できずに地面を転がった。そして巨木に身体を打ち付けるが、少しの痛みを感じただけで、すぐさま姿勢は立て直される。
ヤンフィは、キッと前を見据えた。
煌夜が意識を視線の先に向けると、そこには、RPGでよく見る弓使いような格好をした仮面の女が立っていた。どうやら、彼女が敵らしい。
煌夜は、自分が気絶している間に何があったのかをヤンフィに聞こうとする。
しかし、ふいに強烈な吐き気に襲われた。
「ぐぅ――ぉお、ぇっ……」
煌夜が堪らず嘔吐くと、口からはドバドバと血反吐が吹き出す。
ふと見れば、右腕は肩が外れて肘の部分で逆向きに折れているし、左腕は例によって例の如くまた無くなっている。
挙句に右足も折れて、脇腹には拳大の穴が開いていた。
煌夜は絶句してから、せっかく新調した服がまた汚れちまったな、と現実逃避気味なことを考えた。
その時、ヤンフィが切羽詰った声で叫ぶ。
「タニア――妾を護れっ!! 此奴の狙いは、妾じゃ……くっ!?」
「『逆巻く風の主。その偉大なる雄姿を、我が前に示せ――数多の風塵よ、絶対なる風神よ、我が風陣に集い踊れ』」
ヤンフィの叫びにかぶせて、仮面の女が流麗な詠唱をする。途端、凄まじい風が中空で逆巻き、それは巨大な竜を形作った。
風の竜である。
フォオオァ――ッ、と風の竜が甲高い咆哮を上げる。刹那、正面から大口を開けて、風の竜がヤンフィに迫った。
ヤンフィは咄嗟に折れた右手で頭を庇って、グッと身を屈める。
今のヤンフィに、これを避ける余裕はなく、無論受け流すことさえ出来ない状況だった。
ヤンフィは煌夜の全身になけなしの魔力を巡らせて、竜革の硬度を限界まで硬くする。
竜革は流し込んだ魔力の量に応じて防御力が上がる素材だ。それを編み込んだアールー手製の服は、限界まで魔力を注ぎ込めば、大砲の一撃さえ耐えられるだろう。
だが、それでもその魔術を防ぎきることは不可能である。
果たして、ドォン、という爆音が響き渡り、衝撃波が周囲の木々を軒並み薙ぎ倒した。
――しかし、その風の竜は、ヤンフィに当たる直前に何か別のモノと衝突していて、見事に爆散していた。
そのおかげで、ヤンフィは直撃を回避できており、煌夜の身体もかろうじて散り散りにならず済んでいた。
とはいえ、衝撃波までは防ぎきれず、煌夜の身体はその風圧に押し潰されて、もはやボロボロになっていた。
「……今のが【魔槍窮】か。なるほど、驚異的な威力だ。よもや【聖風陣】を掻き消すとは思わなかった」
「にゃははは――さすが三英雄にゃ。ボスを守りにゃがら、しかも多対一の闘いだと、分が悪いにゃ……」
「それに、先の魔術は割と本気で放ったのだが、ほとんどダメージを受けていない……それが【魔装衣】だな。伝説通りの防御力。さすがに、ラタトニアで悪名高い先祖返りの暴れ姫は手強いな」
仮面の女が涼しげな声でふと背後を振り向く。
そこには、先ほど吹っ飛んだタニアが、全身を緑色の光で包んだ状態で立っていた。その額からは一筋の血を流して、その顔には苦笑と疲労が張り付いている。
(――コウヤよ、すまぬ。此奴は……いや、ここを囲んでおる連中は、妖精族と云う種族じゃ。ちょいと交渉に失敗してのぅ。襲われておる。かなり危険な状況じゃ。ちなみに、この仮面の女じゃが、強さはタニアと同格か、それ以上じゃ)
混乱で頭が真っ白になっている煌夜に、その時ヤンフィが苦笑混じりに事情を説明してくれる。しかし、その説明に救いはなかった。
(…………なぁ、ヤンフィ。この状況、逃げられないのか?)
(無理じゃろぅな。此奴ら、妾たちを逃がすつもりがない)
(……でも、なんか、どんでん返しの一発逆転的な、凄技とかあるんだろ?)
(神の奇跡に祈る以外、今の状況を打破する術は思いつかぬのぅ)
とりあえず切羽詰っている状況ということを理解した煌夜は、それでも何とかなるんだろとばかりにヤンフィに問う。
つい先日の対タニア戦を思い返してみれば、あの絶望的な状況でさえなんとかなった。今回も大丈夫――と期待したが、ヤンフィの回答は至極あっさりとした否定である。
煌夜はこの絶体絶命な状況に、もはや笑うしかなかった。
そんな時、タニアが仮面の女に一つ提案する。
「にゃぁ、三英雄の……あちしと一騎打ちするにゃ。そんで、もしあちしが勝ったら――」
「――魔王属は逃がさんし、そもそも貴様と一騎打ちもしない」
――あちしたちを見逃すにゃ、とタニアは続けようとして、その台詞はあっさりと遮られる。
「わたしたちは、この森を護る為にここに居る。この森を穢す恐れのある魔王属を、この状況で逃がすわけがないだろう?」
「……にゃはは……にゃるほど、確かにそうにゃ……にゃら、やっぱり仕方にゃい――」
仮面の女の冷静な返事を聞いて、タニアは乾いた笑いを浮べた。
一方、ヤンフィはそんな二人のやり取りを見ながら、どこかに隙がないか探す。だが、仮面の女に隙はなかった。
周囲の隠れた包囲網も緩んでいない。逃げ道が見当たらない。
「――服が破けるから、やりたくにゃかったけど……」
すると、タニアがなにやら呟いて、その身体から眩しい緑色の光を放ち始めた。
何か奥の手だろうか、と期待した煌夜だったが、仮面の女は鼻で笑って剣を振るう。
「――――風縛陣」
短く鋭く、仮面の女はそう詠唱した。途端にタニアの身体が地面にめり込む。
うにゃにゃ、と悶えながら、タニアはそれにまったく抵抗できず、一瞬で地面に押さえつけられた。
そしてあっけなく、それだけでタニアがやろうとした奥の手は封じられる。
「く、そ……にゃ。にゃんだこれ、獣化、できにゃい……」
「先祖返りはさせぬさ、暴れ姫――安心しろ。貴様の命は助けてやる。だから、少しだけそこで見ていろ。わたしたちが魔王属を殺すのを、な」
「にゃにゃぁ――逃げろ、にゃ。ボス――ッ!!」
タニアの絶叫と共に、仮面の女は剣を振り上げた。
その光景を呆と眺めながら、ヤンフィはふと全身から力を抜く。もはやこれまでか、と諦観の思いが煌夜の心に浮かび、まるで介錯を待つ武士の如く頭を垂れて瞼を閉じた。
(……これまで、か。すまぬ、コウヤ――)
「――何が、これまでだっ!! 勝手に終わらせるなよっ、ヤンフィ!! 諦めたらそこで試合終了なんだよっ!!」
「――――ぬ?」
ヤンフィが煌夜に語り掛けた瞬間、ようやく煌夜は自分の身体のコントロールを取り戻した。
そしてすかさず、ヤンフィを怒鳴りつける。またそれと同時に、素早い正座からの流れる動作で土下座する。
仮面の女とは、会話が出来ている。ということは、お互いに理性のある存在である。
ならばこそ、平和的な解決が望めるはず――それこそタニアじゃあるまいし、と仮面の女の良心に縋りながら、煌夜は一旦顔を上げて、ハラハラと涙を流して見せた。
「――助けてくれ!! 俺らが悪かった!! この通り謝るから……助けてくれ!!」
左腕はなく右腕も折れている不恰好な状態で、煌夜は頭を地面に擦り付ける。
そんな煌夜を見て、仮面の女はピクッと動きを止めた。
「俺らは敵じゃないっ!! 抵抗の意思なんてないっ!! だから、見逃してくれよ……俺らはただ、この山を登りたいだけなんだよっ!」
煌夜は、仮面の女の動きが止まったのを見逃さず、今が好機とばかりに声高に畳み掛ける。
それこそまさに必死だ。天見煌夜、一世一代の命乞い。
情に訴えることでしか、今は活路を見出せなかった。すると、そんな思いが通じたのか、仮面の女は剣を下ろして、静かな声で問い掛けてきた。
「貴様――その言葉、異世界人、か?」
「助け――うぇ? あ、ああ、そうだよ! 異世界から来て、訳もわからず死にそうになってんだよ!! 頼むよ、助けて――」
「ならば、問おう。貴様、何故に魔王属を内に宿している?」
「――下さい、お願いします……へ? 魔王属って……あ、ヤンフィの、ことか?」
仮面の女は剣の切っ先を煌夜に向けながら、コクンと一つ頷いた。
「……えと、ヤンフィは命の恩人で――」
「――おい、暴れ姫。抵抗しないと誓うなら拘束を解いてやってもいい。どうだ、誓えるか?」
煌夜が事情を説明しようとするのを遮って、仮面の女はタニアにそう告げる。
聞いておいて無視かよ、とほんの少し苛立ったが、煌夜は逆らわないよう、神経を逆撫でしないよう、平身低頭押し黙った。
一方、タニアは怒りの形相で、毛という毛を全部逆立てている。拘束が解かれたら、即座に噛み付くだろうことが見て取れた。
「――おい、タニアさん。頼むから、抵抗しないと誓ってください。俺が死にます」
「フー、フー……にゃぁ、にゃ。わかったにゃ……抵抗しにゃい。だから、早く解放するにゃ」
「ほぅ――よく飼い慣らしているようだな。なるほど、いいだろう。貴様を信じてみよう――――総員、術式を解け。あとはわたしが責任を持つ」
仮面の女はよく響く声で、森の中に隠れているらしい仲間たちにそう告げた。
それは妖精語と呼ばれる言語で、タニアには意味のわからない言葉である。しかしその号令の直後、タニアは拘束が解かれたので、約束が守られたことを理解する。
「にゃにゃにゃ――っ!!」
拘束が解かれるが否や、タニアは猛ダッシュで煌夜のそばに駆け寄って、仮面の女と相対する。
タニアの全身からは、燃え上がる炎のような緑色の魔力が溢れており、抵抗しないというのが嘘にしか思えないほどの殺意を放っていた。
「暴れ姫よ、そういきり立つな。わたしは貴様らの話を聞くくらいの余裕がある」
仮面の女はタニアの威圧を柳に風と受け流し、枝みたいな剣を腰元のホルダーに戻した。そして、優雅に一歩踏み出して、煌夜を指差す。
「とりあえず異世界人の貴様、名前を何という?」
「あ、はい。俺は、煌夜って言います。天見煌夜です」
「――――アマミコウヤ、か。コウヤ……コウヤ、ね」
「は、はい、どうぞ豚でも、雑魚でも、なんとでもお呼び下さい」
仮面の女は不思議な発音で煌夜の名前を繰り返し呟き、煌夜は卑屈に頭を下げる。その間、タニアの警戒は相変わらずだった。
「アマミコウヤ、貴様、幾つだ? 見た目、十七、八にしか見えないが……?」
「は――? え、いや、十七ですけど?」
その時、唐突に年齢確認が入って、煌夜は思わず素っ頓狂な声を上げる。だが、すぐに気を取り直して、ありのまま答えた。
すると仮面の女は、何やら思案している様子でしばし沈黙してから、ふいに顔を左手側の森に向けた。
「おい、セレナ。すまないが、見苦しいからこの男の手足を治してやってくれ」
「――え? だ、大丈夫、なんですか、キリア様? コイツ、魔王属ではないのですか?」
仮面の女――キリアと呼ばれた彼女は、森の奥にいるセレナとやらに呼び掛ける。すると姿は見せず声だけで、そのセレナから返事がきた。
キリアはコクンと一つ頷きながら、チョイチョイと手招きをする。はぁ、と言う溜息が聞こえてきた。
「分かりました――今行きます」
そんな声が聞こえてほどなく、鮮やかな翠色の髪をサイドテールにした美少女が森の奥から姿を現す。どうやら彼女がセレナらしい。
セレナは白く透明感のある肌に、碧色をしたロングスカートのワンピースを着て、深緑のケープを羽織っていた。
ワンピースは肩と背中が大胆に開かれており、胸元には弓道の胸当てみたいな形の白銀のプレートが付いている。
素手に木の杖を持ち、いかにも魔法使いという印象だ。
身長は煌夜より10センチほど小さく、凹凸の薄い幼児体形である。けれど、その相貌は街中ですれ違ったら思わず振り向くほどに美少女だ。
空を溶かしたような双眸、つんと澄ました顔をして、第一印象はツンデレお嬢様である。
そんなセレナは、両頰に不思議な幾何学模様を描いており、インディアンみたいなその模様が、神秘的な雰囲気を演出していた。
「……はぁ。ちょっとアンタ。癒してやるから、そこの狂猫に噛み付かないよう言いなさいよ」
「にゃに言ってるか分からにゃいにゃ!! 喧嘩売ってるにゃら、買うにゃ!!」
セレナは威嚇するタニアの前に立ち止まり、鬱陶しそうな顔で煌夜に視線を送る。煌夜はそれに頷いた。
「タニア、彼女が俺の身体を治してくれるらしいから、ちょっと下がってくれないか? つうか、喧嘩売るなよ」
「にゃにゃ……? 治す? にゃんでそうにゃったにゃ?」
「いや、俺もよく分からんが、見苦しいからだと」
タニアはキョトンとして首を傾げたが、生憎と煌夜もどうしてそうなったか分からない。だが、治してくれるというのならば、それはこれ以上なくありがたいことだ。ヤンフィは煌夜の身体を治せないのだから。
タニアは不承不承と煌夜の後ろに下がる。すると、恐る恐るとセレナが近寄ってくる。
「はぁ……それじゃ――『癒しの風よ。彼の者に活力を与えよ』」
セレナは引け腰で煌夜の折れた右手を掴むと、心地よい声音で詠唱をする。
途端に、煌夜の身体を魔力の光が包み込んだ。爽快な風が頬を撫でる。その風は瞬く間に煌夜の折れた右手と、右足を癒して、脇腹の傷も綺麗に塞いでみせる。
その光景を見たタニアは、思わず息を呑んでいた。
「にゃにゃ……上級の治癒魔術にゃ。さらりと使いこにゃすにゃんて……お前、ちっこいくせに凄いにゃぁ」
「褒めるなら、手放しで褒めなさいよ。まあ、狂猫に褒められても嬉しくないけどね――あ、ねぇ、ところでアンタ。これ、痛くないの?」
「さっきは割と痛かったけど、今はそれほどでも……それに普段は、ヤンフィが痛みを受け持ってくれてるから」
「ふーん、痛覚遮断でもしてるのか……まあ、いいや。あ、それとさ。これは忠告だけど、アンタさ、もうちょっと自分の命を大切にした方がいいわよ。さっきの戦闘、勝てないのは仕方ないにしろ、捨て身すぎるでしょ?」
「へ、あ? あ、ああ……うん。分かる。分からないけど、なんとなく分かった。以後気をつけるよ。あ、治してくれて、ありがとう」
煌夜の不明瞭な台詞に、セレナは、何それ意味わかんない、と吐き捨てて、仕事は済んだとばかりにすぐさま距離を取った。
見れば、煌夜の身体は、左腕と破れた服以外元通りである。一瞬のうちで、骨折と脇腹の大怪我が完治している。
これが治癒魔術の威力か、と煌夜は感心した。
「キリア様、あたしにできることは終わりました。潰れた左腕の回復は聖級じゃないと無理です」
「ああ、ご苦労――さてと、アマミコウヤ。貴様、ここに来た目的を登頂だと言っていたが、どういうことだ? この山頂に何がある?」
キリアはセレナを労うと、煌夜たちに問い掛ける。しかしその問いは妖精語の為、タニアには分からない。
煌夜は、首を傾げて指示待ち顔をするタニアを見てから、キリアに答えた。
「あの、山頂が目的じゃなくて……山越えがしたくて――」
「――ああ、なるほど。【鉱山都市ベクラル】に急いでいるのか。理由を言え」
「え……ああ、その……【子供攫い】って言う奴隷商人を追っていて……ソイツが――」
「――なるほどな。先回りして、その奴隷商人を捕まえるつもりか。確かに、アベリンからベクラルへの最短は山越えだな」
キリアは煌夜に最後まで説明させずに、ズバリ内容を理解して納得する。察しが良いのはありがたいが、会話が多少強引でもある。
「それで? その奴隷商人を追う理由はなんだ?」
「あ、ああ、うん……家族が、もしかしたら捕まってるかもしれなくて――」
「他人助け、か。なるほどな。ちなみに、家族とは? 異世界のこちらに、貴様の家族がいるのか?」
「……うん? あ、ああ、今は逸れてしまってるけど――」
「異世界に来たのは、いつだ?」
「…………三日、くらい前だけど?」
「アマミコウヤ、貴様は【救国の五人】を知っているか?」
「…………知らないけど?」
「異世界に戻る術は、見当がついているのか?」
「…………いや、ついてない」
キリアは矢継ぎ早に意図のわからない質問を繰り返す。
一応、煌夜はそれを一つ一つ正直に答えるが、何が言いたいのか分からず混乱する。キリアはひとしきり聞いた後、しばし思案するように沈黙した。
(なぁ、ヤンフィ――【救国の五人】って、何よ?)
(妾も知らん。じゃが、おおかた彼奴自身のことではないのかのぅ)
キリアが沈黙していると、蚊帳の外だったタニアが、チョンチョンと煌夜の肩を叩いた。
「にゃぁ、今の会話にゃんだったにゃ?」
「うん? うーん、事情聴取的な? まあ、よく分からん。あ、そうだタニア、ところでさ、【救国の――」
「――アマミコウヤ、貴様に一つ依頼をしよう。それをこなしてくれるのならば、この森を自由に抜けて構わない。どうだ?」
煌夜とタニアの会話を当然のように遮って、キリアはそんな条件を提示する。
それは先ほどまでの妖精語ではなく、標準語の台詞であり、視線は煌夜ではなくタニアに向いていた。
煌夜の名前を口にしてはいるが、タニアに対して問うているようだった。
煌夜は開けた口を閉じて、タニアの顔を伺う。タニアはしばし考えてから、煌夜に視線を合わせて力強く頷いた。
「その依頼って、どんなもんなの?」
「簡単なお使いだよ。とある男にこれを届けて欲しい」
そう言うが否やキリアは、小さな宝石を煌夜に投げる。しかしいきなり放られたそれは、煌夜の手で跳ねて地面に転がってしまった。
すかさずタニアがそれを拾う。
「あ、ごめん。取れなかった――」
「これは……妖精石、にゃ。初めて見るにゃ」
「――失くすなよ。それ一つ探し出すのに、七つの集落を回ったのだからな」
煌夜は、キリアの鋭い叱責に頭を下げて、タニアの手で緑色の光を放つその宝石を眺める。一見するとそれは翡翠のようで、正二十面体のような綺麗な形をしていた。
「その石を、ベクラルから南東にある神聖帝国領【商業の街ニース】に住むウィズと言う男に渡して欲しい」
「にゃにゃ!? 【商業の街ニース】にゃ!? こっからだと、滅茶苦茶遠いにゃ!?」
「……そんな遠いのか、タニア?」
「こっから最短で寝ずに移動しても、二十日以上掛かるにゃ。しかも、国境を越えにゃいといけにゃいから、通行証も必要ににゃるにゃ」
仰天するタニアの台詞に、煌夜も絶句する。往復で考えれば、四十日以上か。そんなに寄り道してる暇はない。
ところが、そんな煌夜たちの反応は予想通りのようで、キリアは涼しげに続ける。
「時間が掛かるのは承知している。だから、別段わたしの用事は急がない。貴様たちの用事――奴隷商人の件が解決してからでも構わない。どうせウィズは、アレを完成させるまで、街から出ることはない」
「――にゃ? 後回しにしてもいいにゃ?」
「ああ、構わない。その代わり、お目付役として一人同伴する」
キリアはタニアにそう答えると、背後で控えめに立っていたセレナに振り向いた。そして彼女にちょいちょいと手招きする。
セレナはその呼び出しで何かを察したようで、一瞬凄まじく嫌な顔をしてから、しかしすぐさま感情を殺して無表情になる。
「わたしの用事をこなすまで、このセレナを連れて行け。セレナは非常に優秀な治癒術師だ。魔術適性も軒並み高い。足手まといにはならないだろう」
「……キリア様。確かにあたしは、外界に出たいとは言いましたが、こんな得体の知れない連中と一緒に行くのは――」
「偶然は運命の導きだ。難しく考えず、流れに身を任せてみろ。それに、パーティを組むからには強者とが望ましいだろう? こと強さで言えば、そこの暴れ姫は冒険者ランク【SS】並の実力を持っているぞ」
「……はぁ、そうですね……野蛮な獣と、魔王属を従える人間、か――まあ、旅路の話題には事欠かなそうですけど」
セレナはタニアと煌夜の顔を交互に眺めてから、これ見よがしに溜息を吐いた。そしてキリアに不承不承と頷く。
「わかりました。何事も経験です。お目付役の任、引き受けます」
「――にゃあ、ちょっと待つにゃ。にゃにを勝手に、そっちだけで話を進めてるにゃ?」
合意したセレナにその時、タニアが沈黙を破って、苛立ち混じりに文句を口にする。
「依頼を受けるのは、仕方にゃいにゃ。どの道、いずれ向かう先にゃ。けど、ソイツを連れて行くのは、また別の話にゃ。そもそも連れてく意味が分からにゃいにゃ」
「――アマミコウヤよ。この話に不満があれば言え。その瞬間に、わたしの剣が貴様の首を刎ね飛ばす」
「にゃ!? にゃにを言ってるにゃ。そんにゃことさせにゃいにゃ!!」
煌夜を庇うように身を呈するタニアに、キリアは冷たく言い放つ。
「勘違いするなよ? わたしは、貴様たちと交渉してはいない。アマミコウヤの無様な懇願に絆されて、仕方なく折れてやっただけだ。この条件が否だと言うのであれば、もう一度仕切り直すか?」
「にゃにを! やるって言うにゃら、やってやるにゃ!!」
「――おいおい、ちょっとストップ。タニア、少し落ち着いてくれ」
キリアの挑発に際限なくヒートアップするタニアの頭を叩いて、煌夜はキリアの前でもう一度土下座する。
「不満なんか一ミリもございません。畏まりました、是非、ご一緒して下さい」
「…………そこまで低姿勢だと、気持ち悪いわね」
「よし。それでは、セレナよ、後のことは頼んだ」
ははぁ、と平伏した煌夜に、セレナがドン引きしている。
そのセレナの背中をトンと叩いて、キリアは煌夜たちに背を向けた。
「総員、よく聞け! この侵入者たちは、今この瞬間、セレナの旅仲間となった。故に特例として、セレナが一緒の間は、この二人の森への立ち入りを許可する。異議ある者はいるか?」
キリアがよく響く声でそう宣言すると、それを合図にしたかのように、次々と森の奥からセレナと同じ格好をした人々が姿を現す。
それは十人、二十人ではなく、ざっと見て百人近くの大人数だった。
どこに隠れていたのかと驚くほどの大勢が、煌夜たちの周りに潜んでいたらしい。彼女たちはセレナと同様に、頬の不思議な幾何学模様を描いていた。
キリアは現れた彼女たちをゆっくりと見渡して、もう一度、異議ある者はいるか、と声を掛ける。
「「「【世界樹の守り手】の御心のままに」」」
大勢の妖精族が、キリアに向けて一斉にそう唱和して、九十度のお辞儀をする。
それに満足げな頷きを返して、キリアはセレナをチラと見た。セレナは神妙な顔で頷き返して、周囲の頭を下げている妖精族たちを見渡す。
「みんな、あたしの我侭でご迷惑をお掛けします。今までありがとうございました――いつか、キリア様みたいに立派になって、ここに戻ってきます。それまでしばしのお別れです」
セレナが大きく頭を下げた。すると、一人また一人と、小さくセレナに手を振ってから、森の中へと音もなく消えて行った。
しばらくすると、まるで最初からそうだったかのように、煌夜の周囲には誰もいなくなる。
「ああ、それとセレナ――ウィズに会ったら、ひとつ伝言を頼む」
「何ですか? 愛の言葉以外なら承りますが――」
「――茶化すな。何、他愛もないことさ。『蛇が不穏な動きを見せている』――と、そう伝えてくれ」
「畏まりました」
キリアは去り際にセレナと妖精語でそんな会話をして、煌夜たちには一瞥すらせず、他の妖精族同様に森の中へと消えて行った。
後に残るのは、立ち尽くすセレナと、土下座する煌夜、中腰になって身構えているタニアだけである。
森の中を涼しい風が吹きぬける。
「はぁ……ねぇ、ちょっと――アマミコウヤ、だっけ? とりあえずこれから宜しく。あたしはセレナ。呼び捨てで構わないわ」
その場で動かない煌夜とタニアに、セレナが溜息を吐いてから軽く自己紹介をする。
それに対してタニアは、怪訝に眉を潜めた。その顔は、まったく納得していない様子である。今にも噛み付きそうな空気を放ちながら、土下座する煌夜を見てくる。
煌夜は、どうどう、と小声でタニアを宥めつつ、正座でセレナと相対する。
「じゃあ、お言葉に甘えて、セレナ。こちらこそ、宜しくお願いします。俺もコウヤでいいで――」
「――アンタたち、奴隷商人だかを追いかけてて急いでんでしょ? 細かい自己紹介とか、アンタたちの目的とか、そういうことはひとまず【ベクラル】の宿屋で、落ち着いてからにしない? サッサと出発しないと、暗くなる前に山越え出来ないわ」
セレナはキリアと同じように、煌夜の台詞を途中で遮って、サッサと行きましょ、と首を傾げる。その態度に、タニアが噛み付く。
「急いでるのを、妨害したのはお前たちにゃ!! にゃにを勝手にゃ――」
「ラタトニアの暴れ姫さん。アンタ確か、もう王女じゃないのよね? タニアって、呼ばせてもらうわ」
「にゃ?! お前みたいにゃ奴に、呼び捨てされるのは嫌にゃ!」
「――ねぇ、コウヤ。あたしは急いでないけどさ。いいの? ここでタニアと問答してたら、追いつけなくなるわよ?」
涼しい顔でさも当然に事実を言って、セレナはサッサと森の奥へと歩き出す。そして、行かないなら置いてくわよ、とでも言いたげな表情で、正座をしている煌夜に振り返った。
確かに、こんなところで喧嘩しているのは時間の無駄である。
煌夜は立ち上がると、怒り心頭のタニアに、もう行こう、と促す。
「にゃにゃ、コウヤ! にゃんにゃ、アイツ!!」
「分かったから、タニア。とりあえずさ、今はセレナの言う通りだろ? 先を急ごう」
「フー、フー、フー……分かった、にゃぁ」
タニアは不承不承と煌夜の説得に頷いてから、先を行くセレナを追い抜いた。そして、あちしが先頭にゃ、とでも言わんばかりに、セレナを睨みつけてから鼻を鳴らす。
それをセレナは、はぁ、と溜息を漏らして無視した。煌夜は慌てて、そんな二人に付いて行く。
とりあえずこうして、望むと望まざるに関係なく、旅の道連れが一人増えたのだった。
二人目のヒロイン、セレナ登場回
お子様体型、妖精族、後方支援タイプのヒロインです
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