第十六話 旅立ちの朝
うつらうつらとした思考に、どこかからか聞こえてくる鳥の鳴き声。瞼には緩い光を感じて、煌夜は目を覚ました。
まだ身体も脳も完全に起きてはいないが、とりあえず寝ぼけ眼を擦りながら、ゆっくりと上半身を起こす。
見渡せばそこは、まったく馴染みはないが、見覚えのある豪華なベッドの上である。
「……ああ、そういえば……ここは、異世界だったな……帰りてぇ……」
煌夜は昨日も味わった違和感をもう一度噛み締めながら、滞在わずか三日目にして強烈な郷愁を感じていた。
しかし、それはきっと、この世界のどこかにいるはずの、竜也、虎太朗、サラたちも同じに違いない、とそう己の心に活を入れて、後ろ向きの思考を切り替える。
寝起きの気だるい身体を動かして、いつの間にか掛かっていた毛布を剥がした。
すると、煌夜の隣に、もぞもぞと動く生暖かい塊があることに気付く。ふと見ればそれは、猫耳と白髪が特徴的なタニアの寝顔だった。
「んにゃぁ……? もう朝、かにゃ?」
タニアはベッドで丸まったまま、毛布から顔だけ見せて、煌夜にトロンとした目を合わせてくる。煌夜は、タニアのそんな台詞に苦笑しつつ、どうして一緒の毛布をかぶっているのかは不問として、掛かっていた毛布を引き剥がす。
そして、朝だぞ、と声を掛けようとして、その姿に硬直した。
――果たして、丸まっていたタニアの上半身は裸で、下はパンティのみという姿だった。
あらわになる美しく巨大な胸。まさにメロンの如きそれを目の当たりにして、煌夜はすかさず視線を逸らした。同時に、無意識に唾を飲んでいた。
一方で、タニアは、にゃ、と小さく短い悲鳴を上げて、毛布を剥がされたことに恨めしい目を向けてくる。けれど、己の胸を隠す仕草はない。
恥ずかしくないのか、それともタニアは自分の格好に気付いていないのか――煌夜はそれを指摘しようとして、しかし声が出なかった。
不自然に視線を逸らしている煌夜に気付いて、タニアは上半身を起こすと自分の格好を自覚した。するとずいぶんと余裕な動作で、晒している胸を両手で隠して、少しだけ恥ずかしそうに顔を赤らめた。
煌夜はそんなタニアの恥じらう仕草に胸キュンしつつも、ハッと我を取り戻して慌てて謝罪した。
「ご、ごめん。見るつもりはなかった」
「……別に、見ても減らにゃいから気にしにゃいにゃ。けど、手を出すつもりにゃら、今からは遠慮して欲しいにゃ。今日は急がにゃいと……あ、それと、あちし、初めてにゃので、犯るにゃら、優しくして欲しいにゃぁ……」
咄嗟に謝った煌夜に、タニアは艶のある響きでそんなことをのたまって、ピタッと背中にしなだれかかってくる。
「うぇ!? な、なにを――いやいや、違う違う。手を出すつもりなんて無いよ? やらないからね? それ誤解だよ?」
煌夜はしどろもどろに慌てながら、しかし背中に当たる魅惑的な感触を振り払って、ホールドアップしながら立ち上がる。
寝起きのせいもあって、思わず下半身が反応しそうになったが、なんとか堪えることに成功した。素晴らしい鉄の意思だ、と煌夜は自分を褒めたい心境である。
「――さ、さあ、朝だ。起きようぜ」
どもりながらも何事もなかったように、とりあえず煌夜はベッドから降りてリビングに向かった。
「……コウヤはやっぱり、チョロそうにゃ。あちしの魅力に、メロメロにゃ」
そんな煌夜の背中を見ながら、タニアはボソリとそんな感想を漏らしていた。その表情はどこか誇らしげで、妖艶、そして嬉しそうだった。
一方、ドギマギする鼓動を必死に抑えながら、リビングのソファに腰掛けた煌夜は、冷静になってふと気付く。
「……よくよく考えると、俺が謝る要素は何も無いよな? ここは俺が泊まってる部屋だし、昨日は俺が先に寝てるし……つうか、そもそもなんでタニアが半裸でベッドに寝ているんだ?」
煌夜は誰に聞かせるでもなく独りごちる。すると、心の中でヤンフィが、可笑しそうに笑いながら答えた。
(まったく、コウヤは面白いのぅ。見事に期待通りの反応をしてくれるわ――ちなみのぅ。タニアが半裸で寝ておったのは、ベッドに入る前に湯浴みをしておったからじゃ)
(……さすがヤンフィ。人が慌てるのを見て楽しむなんて悪趣味だな……というか、湯浴みしたから半裸で、しかも俺のベッドに寝るって流れがよく分からないんだが……?)
(それだけ、コウヤに懐いておると云うことじゃ。誘っておるのじゃよ。半裸で同衾しておるのじゃから、コウヤの好きにして良いと云うことじゃ。それに本人も云うておったじゃろぅ? 後でなら何をしても良い、と――なぁに、安心せい。その時になったら、妾は見ないよう隠れていよう。干渉もせぬから、自由にして構わんぞ?)
下世話なことを言いながら、ヤンフィはカラカラと笑い出す。それは完全に煌夜をからかっていた。
ふぅ、と深呼吸を一つして、煌夜はそんなヤンフィを無視することにする。と、その時、ダボダボの白いシャツを着たタニアが、リビングに顔を出した。
煌夜はその格好を見て、スッと視線を逸らす。
タニアの格好はパッと見て、裸に大きめのシャツ一枚にしか見えない。
パンティを穿いていると知ってはいるが、ちょうど腰元までがシャツで隠れているので、一見すると、何も穿いていないように思える。
ただでさえ、その存在を主張する胸元は見事な谷間を惜しげもなく晒している。朝から刺激的な艶かしい姿である。だからこそ、目のやり場に困る格好だった。
「おはようにゃ、コウヤ。昨日はずいぶんグッスリ眠ってたにゃ」
タニアが挨拶と同時に、元気よく右手を上げた。その動きで、シャツで隠れたメロンがプルンと揺れていた。
「ああ、おはようタニア……なあ、そのことだが、なんで俺のベッドに寝てるんだ?」
煌夜は視線を逸らしたまま、しかし尋問するように強い口調でタニアに問うた。
タニアはあっけらかんと答える。
「にゃんで? にゃんでもにゃにも……部屋に戻るのが面倒臭かったからにゃ」
「――裸なのは?」
「寝る時に、胸が締め付けられるのは嫌にゃ。それに、ヤンフィ様が『同じベッドで寝たければ、湯浴みして綺麗にして来い』って言うもんにゃから、そういうことをされるんだと覚悟したにゃ」
「――――チッ、結局、ヤンフィの悪戯かよ」
煌夜は合点がいったとばかりに、呆れた様子で天井を仰ぎ見る。タニアはそんな煌夜と向かう形で、地べたにドカっと胡座を掻いた。
「――にゃあ、コウヤ。ところで、今日からの旅路について相談にゃんだけど……【鉱山都市ベクラル】へ向かった【子供攫い】に追い付く為に、山を越えたいと思うにゃ」
「山越え……?」
「そうにゃ、オーガ山岳地帯を越えるにゃ。ベスタの話にゃら、子供攫いは馬車でベクラルに逃げたらしいにゃ。とにゃると、通る道は南門からの【聖王行路】――ベクラルまでは二日か三日は掛かる道程にゃ。けど、オーガ山岳地帯を縦断出来れば、丸一日で辿り着くにゃ」
ふむふむ、と頷きつつ、じゃあそれでいいんじゃないのか、と煌夜は簡単な気持ちで頷いた。
「タニアの判断に任せるぜ――ヤンフィも、それでいいって言ってるし」
そもそも生憎、この世界の地理など知らないのだから、言われるがまま進まざるを得ない。それがどれほど危険だろうと、少なくとも煌夜はそれを分からない。
一応、ヤンフィに心の中で確認も取ったが、ヤンフィもその【オーガ山岳地帯】を知らない様子なので、軽い調子で賛成している。
「本当にゃ? ふぅ、良かったにゃ……にゃら、ちょっと強行軍にゃけど、オーガ山岳地帯を越えるにゃ」
煌夜が二つ返事で賛成してくれたことに安堵した様子で、タニアは嬉しそう頷いている。それを見て、ヤンフィがボソリと補足する。
(……まぁ、心配はあるまい。妾の知る限り、この辺り一帯で【聖魔神殿】以上に危険な場所はないと記憶しておる。魔族の質もそうじゃが……そもそも、この周辺は世界の果てと呼ばれるくらいに田舎じゃ。碌な魔族はおらぬよ。タニアほどの戦闘力があれば、万が一もありえぬじゃろぅ)
それを聞いた煌夜は、魔族に襲われる心配よりも、どれくらいキツイ山登りになるのかが心配だった。富士山級以上だとしたら、百パーセント体力が持たない自信がある。
そんなことを考えていると、タニアがふと申し訳なさそうな顔を浮べる。
「……そうにゃると、やっぱり、すぐにでも出発する必要があるにゃ。暗くにゃる前に、オーガ山岳の中腹を越えにゃいと危険にゃ。にゃので、冒険者ギルドに案内するのは諦めて欲しいにゃ」
「――ん? ああ、それは別に……いや、そうか、似顔絵を配れないのか……」
煌夜は一瞬タニアが何を言っているか気付けなかったが、すぐに竜也たちのことを思い出す。当初予定では、各地の冒険者ギルドに似顔絵を配って、手掛かりを探す計画だった。
――しかしそれは、当てもなく探すよりは効率的という理由に基づいた指針だ。
そもそも似顔絵を冒険者ギルドに配れば、すぐに見つかるわけではない。
見つかる確率も高いとは思えない。それならば今は、【子供攫い】を追う方が優先であろう。最悪、子供攫いに囚われていた場合、命に関わるのだ。
瞬時にそう思い至って、煌夜はタニアに力強く頷いた。
「――冒険者ギルドは、また今度でいいよ。それよりも追う方が先決だな」
「分かったにゃ……一応、オルドたちに言って、似顔絵を食堂に貼っておいて貰うにゃ」
「ああ、そうしてくれるとありがたい――ん?」
――ドンドンドン、と。その時、部屋の扉がノックされた。
どこか焦ったような力強いノック。何か火急の知らせだろうか、と心配になるような勢いで、扉は叩かれ続けている。
鍵は閉めなかったと思うが、と煌夜が首を傾げると、タニアが、あ、と声を漏らした。
そして、にゃはは、と笑いながら、立ち上がって扉の鍵をガチャリと開ける。どうやら鍵を閉めたのはタニアらしい。
さて、そこに現れたのは、顔面蒼白で、長いストレートヘアを乱れさせたウールーだった。
愛らしい表情は今にも号泣寸前になっており、出迎えたタニアの姿を見て、サッと絶望的な表情になった。
その相貌を間近で見て、タニアは思わずドン引きしている。
一歩、二歩と後退りながら、どうしたにゃ、と恐る恐る声を掛ける。
しかしウールーは声を出せずに、その場でペタンと女の子座りで崩れ落ちた。そんな光景を遠目に見て、煌夜は慌てて駆け寄る。
「な、何があったんだ!?」
また厄介ごとか、と半ば覚悟して、煌夜はウールーの目線に腰を落としてその顔を窺った。すると、ウールーはハラハラと涙を流し始める。
「ウールー、にゃんとにゃぁく、察したけど……いったいどうしたにゃ?」
一方で、タニアは至極冷静に問い掛ける。その声に、ウールーはか細い声で返事をする。
「ひ、姫様、が……穢、された……」
「ウールー。むしろそれにゃら、祝福の言葉こそ相応しいにゃ。あちしがコウヤと結ばれた記念に、朝飯は豪勢にするにゃ」
タニアは笑顔で、平然とそんなことをのたまう。一瞬思考が追いつかず絶句した煌夜だったが、その意味を理解して、慌てて声高に否定した。
「いやいや、嘘言ってるんじゃないよ!? 結ばれてなんかいないし、何もしてないから!!」
「……じゃ、じゃあ……どうして、姫様が裸なんだ、劣悪種……? お前が、その有り余る性欲に任せて、服を引きちぎったからじゃ、ないのか……?」
「嫌に表現が生々しいが全く違う!! 俺は何もしていない!! 何も知らない!! 冤罪だ!! つうか、俺も困ってんだよ!?」
煌夜の猛抗議に、タニアは、にゃははと苦笑した。
それを聞いて、ウールーは縋るような上目遣いをタニアに向ける。その潤んだ瞳は、本当ですか、と問い掛けている。
「にゃにゃ、確かにまだ、コウヤには何もされてにゃいにゃ。ごめんにゃ……ちょい、ウールーをからかったにゃ」
「――――よ、よかったぁ……」
ウールーはタニアの言葉を聞いて、長く長く息を溜めてから、しみじみと深い息を吐いた。
その表情はホッと一安心程度のものではなく、危篤な家族が一命を取り留めた時のような、心の底からの安堵だった。
「……姫様が、お部屋におられないので、もしや、劣悪種の毒牙に……と思ってしまい、気が動転して……」
「にゃあ、ウールー。劣悪種、って言ってると、ヤンフィ様に怒られにゃいか?」
「ヒッ――も、申し訳ありません、劣――コウヤ、様」
タニアの指摘でハッとして、土下座の勢いで頭を下げるウールーに、煌夜は呆れた声で言った。
「はぁ……もう、なんて呼んでもいいよ。誤解で襲いかかってさえ来なければ、ね。んで? タニアを探してたんじゃないの?」
「あ――は、はい。朝御飯の御用意が出来ましたので、食堂まで降りて来てください」
ウールーは立ち上がってもう一度頭を下げると、流していた涙をエプロンで拭って、そのまま食堂に降りていった。
それを見送ってから、タニアは苦笑しつつ煌夜の部屋に戻っていく。はぁ、と溜息を漏らして、煌夜はその後を追った。
「おい、タニア。朝飯だろ、行かないの――なっ!? ちょ、何を脱いで――」
どうしてか寝室に戻って行ったタニアを追いかけると、彼女は突如として、着ていたシャツを脱ぎ捨てた。
あらわになる豊満な胸を堂々と晒しながら、きょどる煌夜にタニアは平然と答える。
「着替えるにゃ――こんにゃ、コウヤ専用悩殺衣装じゃ、食堂に降りれにゃいにゃ。あ、コウヤは先に行ってていいにゃ。あちしは旅の準備もしてから、食堂に行くにゃ」
タニアは見せ付けるように、上半身裸でパンティ一枚と言う格好のまま、ベッドの床に脱ぎ散らかした服を拾っている。
その様子をチラチラ盗み見つつ、煌夜は頷いた。
(コウヤよ、妾たちも旅の支度をしよう。差し当たって、アールーが服を仕立てられたか、確認しに往くぞ)
(――あ、そうか。分かってる、分かった……行くか)
心の中でヤンフィにそう言われて、少しだけ後ろ髪を引かれる思いで、本格的に着替え始めたタニアに背を向ける。
とりあえず、アールーがどこにいるか分からないので、煌夜は食堂に向かった。
食堂には、昨日と同じ朝の光景が広がっている。煌夜を迎えてくれる芳しい匂いと、程よい喧騒。空いている席も昨日と同じカウンター席だった。
「おはようございます、コウヤ様。昨晩はよく眠れましたか?」
カウンター席に座ると、すかさずオルドが笑顔で水を出してくれる。
それを受け取って、ああ、と頷いた。『昨晩はお楽しみでしたね』と茶化されなくて良かった、と煌夜はさりげなく安堵していた。
そんな煌夜の前に、淡々と食事が並べられる。配膳するのは、仏頂面のウールーである。
「……あ、オルド、さん。アールーはいませんか?」
煌夜は出された食事に、頂きます、と手を合わせてから、食堂のどこにもいないアールーについて聞いた。
すると、オルドは苦笑しながら、階段の方へと視線を向ける。
「アールーは、その……まだ、準備をしておりますので、もう少々お待ち下さい――それと、コウヤ様。わたくしのことは、オルド、と呼び捨てで結構ですし、もっと砕けた喋り方で大丈夫ですよ。従属している年下の者に、敬称など不要ですし」
「はぁ……ん? 年下、なの? え? オルドっていくつなのさ?」
「十五歳になります。アールー、ウールーも同じです。わたくしたちは三つ子ですので――タニア様よりお聞きしましたが、コウヤ様はタニア様より三つ年下――十七歳、なんですよね?」
「あ、ああ、そうだけど――え? 十五歳? マジかよ」
煌夜はオルドの言葉に、つい絶句してウールーを見詰める。
圧倒的に大人びた雰囲気を持つオルドがまだ十五歳ということにも驚きだが、それ以上に、身長差40センチ強はあろうオルドとアールー、ウールーが、三つ子という事実が衝撃的すぎた。
というよりも、十五歳だとしたら、逆にアールーとウールーの容姿は幼すぎるだろう。てっきり十二歳前後かと思っていた煌夜からすれば、寝耳に水である。
何に驚いているのか察して、ウールーがジト目で煌夜に無言の抗議をしてきた。
『身長が低いから何ですか? 童顔だから何ですか? 文句あるんですか? というか、女性の年齢で驚くのは失礼ですよ?』
ウールーの瞳は、無言のうちにそう訴えている。だが、それはスルーして、煌夜は食事を続ける。
しばらくすると、階段からタニアが顔を出した。
その服装は、昨日と何も変わらないへそ出し、肩出し、黒ベストと言ういでたちに、手甲、指貫グローブを着けて、煌夜とお揃いのブーツを履いている。
ただし、昨日と違うところは、紺色の外套を羽織っていることだろう。片手には満杯に膨らんだリュックを持っている。これがタニアの旅装束のようだ。
タニアの格好を見て、ウールーはその手を止めて唖然としていた。
「姫様、その格好……まさか、もう何処かへ旅立たれるのですか?」
「にゃにゃ、おはようにゃ、ウールー、オルド――そうにゃ。朝御飯食べたら、オーガ山岳地帯を越えるにゃ」
「「オーガ山岳!?」」
タニアの軽い口調に、オルドとウールーがハモって驚愕する。
その声に、食堂のほかの客が一斉にオルドたちを注目した。だが、渦中にタニアがいることに気付いて、すぐさま視線を逸らしていた。
煌夜は、その二人の驚きに、なんだなんだ、と首を傾げて、心の中でヤンフィに問う。だが、ヤンフィも、知らん、の一言だった。
「……オーガ山岳を越えるということは、目的地はベクラル、ですか? であれば、聖王行路を早馬で駆けるのでは、遅いのですか?」
「昨日、この街を馬車で出発した連中に追いつかにゃいといけにゃいにゃ。とにゃると、オーガ山岳を縦断しにゃいと間に合わにゃいにゃ」
「でも、姫様……オーガ山岳には……」
「知ってるにゃ。けど、ボスがいればにゃんとかにゃるはずにゃ」
タニアは、事情のわからない煌夜とヤンフィに何の説明もなく、サラリと無責任なことを言う。
煌夜は呆れたように息を吐いて、何となくだが、その道程が普通は選べないくらい危険な場所なんだろうと察した。
けれど、そうしないと子供攫いに追いつかない――ならば、多少の危険と犠牲は仕方ない。
煌夜はあえて何も聞かず、とりあえず美味しい食事に集中する。
「――あ、そうそう。オルドたちにお願いにゃ。この記憶紙をこの店に貼っておいてくれにゃいか?」
「あ、ああ、これは――コウヤ様が探しておられるご弟妹ですね。ええ、畏まりました。心当たりのある方がいないかも、探しておきます」
「ありがとにゃ。頼んだにゃ」
「……ありがとう。よろしくお願いします」
タニアは食事の片手間に、竜也たちが写った記憶紙をオルドに手渡す。
オルドはそれを受け取ると事情を察して、快く引き受けてくれた。
(……さて、コウヤよ。一息吐いたところで、妾はそろそろアールーを探したいのじゃが?)
タニアの豪快な食べっぷりを横目に、食後の果実ジュースを飲みながら店内の繁盛ぶりをなんとなく眺めている時、ヤンフィが不快そうな声音で催促してきた。
煌夜は、ああ、と思い出して、テキパキ働くオルドに声を掛ける。
「なぁ、オルド。アールーって、どこにいる?」
「――あ、え、ええ。アールーでしたら……その……あの……二階隅の、自室で、コウヤ様からのご注文の品を――――あ!?」
「んん? あ、ちょうどタイミング良く――ぅえ!?」
しどろもどろするオルドが、突然口に手を当てて上品に驚く。振り返ると、そこには見覚えのあるツインテールのアールーが、階段から下りてくるところだった。
煌夜は、ちょうどいい、と喜び、しかしそのアールーの雰囲気に息を飲んだ。
アールーは全身から負のオーラを垂れ流しており、その双眸は虚ろで死んだ魚のようだった。
顔はげっそりとしていて、見るからに徹夜明けだとわかる顔つきである。生気を失ったゾンビを思わせるふらふらな足取り。
いったい何が起きたら、こうまでなるのか。煌夜はその豹変ぶりに恐ろしくなる。
――ところで、そんな驚きは置いておいて、その手には、折り畳まれた布地の衣装が見えた。
語るまでもなく、徹夜の針仕事だったのだろう。アールーはふらつきながらも煌夜の前にやってくる。そして、まるで家臣が王に宝を献上するかのように、跪いて恭しく頭を下げながら差し出してくる。
差し出されたその衣装を前に、しかし煌夜は思わず距離を置きたくなった。
すると、そんな煌夜のドン引きしている気持ちなどお構いなく、ヤンフィが声を出した。
「ふむ、間に合ったか……危うかったのぅ。もう少し遅ければ、仕置をした上で、金など払わぬところじゃ」
そんな横柄過ぎるヤンフィの口撃、それを聞いたアールーは、顔を伏せたままビクッと肩を震わせる。
どっちにしろ金を払うのはタニアだが――と、煌夜は思ったが、いちいち突っ込まなかった。
「まぁ良い、では見せてもらおうか――――ほぉ、これは、なかなか器用じゃのぅ。生地に竜革を縫い合わせて柄にしておるのか……ふむふむ。多少、地味じゃが、手触りも良いし、伸縮性もあるのぅ。生地も上質じゃ」
ヤンフィは煌夜の身体のコントロールを奪うと、渡された上下をその場で広げて、しきりに感心している。
渡されたのは、シャツのような灰色の肌着と、黒いズボン、深緑色のレザージャケットだった。
灰色のシャツはVネックの長袖で、藍色の弧線が波を描くように胸元にデザインされている。サイズはフリーサイズである。煌夜の体格ならば、問題なく着られるだろう。
黒いズボンは、脛の半ばまでの長さをした、いわゆる七分丈で、手触りがジャージのような、伸縮性のあるものだった。
深緑色のレザージャケットは半袖で、内側と外側にポケットが左右一つずつ付いている。
煌夜は自分の身体を見下ろす。片足が半ズボンになっているボロボロなダメージジーンズ、直肌に黒いジャケット――意識してみると、ずいぶんと奇抜で恥ずかしい格好である。
昨日はよくこれで外を歩けたな、と今更ながら恥ずかしくなった。
(コウヤよ。着替えたいのだが、衆人環視のここで着替えても良いか?)
(……いやいや、一応女性陣がいるから、ちょい待てって)
ヤンフィはどこかウキウキした声で聞いてくる。だが、今この瞬間、煌夜は数少ない女性陣の注目の的になっている。ここで半裸になるのは、少し気恥ずかしい。
ということで、煌夜はとりあえず服を持って二階の廊下に向かう。煌夜が席を立つと、跪いていたアールーがすかさずその席に座り込んで、ぐだっとカウンターに突っ伏していた。
煌夜は二階の廊下に誰もいないことを確認して、手早くパンツ一丁になり、用意された服に着替えた。鏡がないので似合っているかは分からないが、動く分には申し分ない。
肌触りは上下共に絹のようにサラサラで、通風性も良い。しかもずいぶんと丈夫な布で、且つ伸縮性があり、何より軽かった。
「……寒くもなく、暑くもない。七分丈もちょうどこのブーツで隠れるから、いい感じだな」
(ふむ――竜革の質は悪いが、まあ充分な強度を出せるか。これは、思っていたよりも良い仕事じゃ)
煌夜が満足げに頷くと、ヤンフィも満足げに呟いていた。その呟きの意味はよく分からなかったが、どうやらヤンフィの眼鏡に適う服であるらしい。
煌夜は、屈伸、背伸びを何度か繰り返して、服の着心地を確認する。かなり動き易かった。
煌夜は、脱いだボロボロのズボンと、タニアから借りた黒いベストを畳んで、食堂に下りていった。
現れた煌夜を見て、タニアは、ピュー、と口笛を吹き、オルドは小さく拍手してくれる。
死んでいたアールーは虚ろな瞳で、煌夜の姿を厳しく睨み付けてから、うむ、とやり切った感を出して頷いていた。
「コウヤ、似合ってるにゃ。防御薄そうにゃけど」
「アールー、相変わらずお見事です。コウヤ様にお似合いですよ。ウールーもそう思うでしょう?」
「…………まぁ、さっきまで奇抜な格好と比べれば、だいぶ良いとは思いますよ」
製作者であるアールー以外の女性陣から概ね良好な反応を貰って、煌夜は心の中でニンマリしながらタニアの隣に座る。
「あ、その……タニア、このブーツ貰っていいか?」
「んー、いいにゃ。替えはあるにゃ」
「ありがとう。んでさ、この服は返そうと思うんだけど……汗掻いてるから、洗った方がいいかな?」
「んにゃ? ああ、このままでいいにゃ。別にまだ着れるにゃ」
煌夜が畳んだ黒ベストを渡すと、タニアは平然とした顔でそれに鼻をつけて、くんかくんかと臭いを嗅いだ。そして、大丈夫にゃ、と何事もなかったように傍らのリュックの中に無造作に突っ込む。
いいのかそれで、と煌夜は疑問符を浮べたが、私物の扱いにとやかく言うことはなかろうと、気にしないことにした。
「――コウヤ様、そちらの御召し物は、どうなさるのですか?」
煌夜の手に残ったボロボロのズボンをチラリと見て、オルドが首を傾げてくる。
煌夜は、どうしようか、と少し悩んでから、断捨離の思いでオルドに頭を下げた。
「……あー、捨ててくれませんか? もうさすがにこれは直せないでしょう?」
「アールー、どう? これだと、無理かしら?」
オルドは受け取ったボロボロのズボンを広げ、疲れきって項垂れているアールーに見せる。
彼女は凄まじく嫌そうな顔をして、しばしジッとズボンを眺めてから、溜息と共に小さく頷く。
「……継ぎ接ぎだらけになりますので、修繕するよりも生地だけ再利用した方が良いと思います。修繕できなくはないですが……時間、掛かりますよ?」
「あー、いいよ、いいよ。そこまでしなくて……どうせ安物だ」
「それなら……恐縮ですが、アールーが再利用させて頂きます……宜しいですか?」
煌夜はアールーの問いに頷いて、お願いする、とズボンを手渡す。その時、ポケットに入れて忘れていた携帯電話がポロリと床に落ちた。
ゴトリ、と床に転がるシルバーの四角いその携帯電話を見て、一同が不思議そうに目を細める。
「あ……そっか、忘れてた。携帯か、どうすっか……」
とりあえずそれを拾って、煌夜は悩む。
充電が切れているので、もはや無用の長物ではある。だが、ここは魔法が存在する世界、もしかしたら充電器なしでも充電する術が見つかるかも知れない――それでも結局、電波がないから電話としては使えないが、ここで捨てるのは早計だろう。
一同の注目を集める中、煌夜は携帯を持っていく決断をして、タニアに差し出した。
「……にゃんにゃ、これ? 不思議な、鉱物にゃ?」
「これは、携帯電話――あー、鉱物じゃなくて、通信手段の一つだよ。今はもう使えないけど、一応、預かっておいてくれよ」
「…………これが、連絡玉にゃ? まぁ、いいにゃ」
タニアは携帯電話をあらゆる角度から眺めて、つまらなそうにリュックに仕舞う。
それから食事の最後の一口を平らげると、さて、と一つ気合を入れて立ち上がった。
「とりあえず腹ごしらえ出来たから、早速出かけるにゃ。コウヤもそれで出発できるにゃ?」
「――ああ、行けるよ」
「にゃら、出発にゃ」
タニアはミルクをカップ一杯飲み干してから、リュックを背負ってすぐさま宿の出口に足を向ける。まったく自分勝手だ、と思いつつも、煌夜もとっくに心の準備は出来ていた。
荷物など何もないので気楽なものだし、ぐっすり寝れたおかげか、昨日と比べて身体がだいぶ軽く感じる。
「あー、お世話になりました。事情も説明せず、慌しくて申し訳ないけど……また戻って来るから、その際はよろしく」
「こちらこそ、大してお構いもせず申し訳ございませんでした。お気をつけて行ってらっしゃい。わたくしたち一同、コウヤ様とタニア様、ヤンフィ様の旅の無事を祈っております」
煌夜の挨拶に、オルドは恭しく頭を下げてくる。煌夜はそれに恐縮しつつ、我関せずと宿の入り口に立つタニアに苦笑して、すかさずそこに向かう――ところで、ピタリと意思に反して足が止まった。
ん、と疑問を浮べると同時に、口が勝手にまた喋りだす。ヤンフィの仕業である。
「……アールーよ。ちなみに、防具は用意できんかったと云う認識で良いのじゃな?」
「ヒッ!? あ――あぅ、も、申し訳、ありません!!」
ヤンフィはゆっくりとカウンターに振り返り、不敵な笑みをアールーに向けた。
それを見て、アールーは素っ頓狂な悲鳴を上げて震え上がり、直後に、床へ頭を擦りつける。
アールーのその様子に、ギャラリーが遠巻きに何事かと驚いていた。
「まぁ、仕方あるまい――タニアよ。テオゴニア銀紙幣を二十枚ほど出せ」
ヤンフィはアールーに近付き、平伏したその様を見下ろしながら、タニアに向かって手を広げる。
タニアはその命令に一瞬面食らっていたが、嫌そうな顔をしながらも、命令通りに薄汚れた紙幣を出した。
「アールーよ。思うていたよりも、汝は腕が良い職人らしい。先払いで金を渡しておく。妾たちが戻ってくるまでに、竜鱗を使った防具一式と、これと同じ服をもう二着作っておけ……ああ、それと要望がある。この服に織り込んだ竜革は、もう少し質の良い物を使え」
ヤンフィは軽い調子でそう言って、柔らかく微笑んで見せた。
しかし、タニアはその言葉に顔を引き攣らせており、頭を床に擦りつけたままのアールーも、小刻みにそのツインテールを震わせて、愕然としているのが分かる。
煌夜にはよく理解できないが、また無茶ぶりなのだろうな、と半ば呆れた心持ちで成り行きを見守った。
「にゃあ、ボス……竜麟は、最低レベルでも銀紙幣十五枚はするはずにゃ」
「ほぅ。妾の思うているよりも安いではないか! であれば、アールー。服は三着用意するが良い」
「…………ボスは、鬼畜にゃ」
タニアのフォローはむなしく響き、アールーはふらりと立ち上がった。そしてヤンフィから、顔面蒼白の虚ろな瞳で紙幣を受け取る。
「……い、いつまでに、ご用意すれば……よろしい、ですか?」
「どれくらい掛かるかのぅ、タニア」
「――――読めにゃいにゃぁ。ま、十日は掛からにゃいと思うにゃ。往復三日として、子供攫いを見つけるのに一日、潰すのに一日……最速で五日かにゃ」
「ふむ……それでは、七日で用意しておけ。出来なければ、仕置きじゃ」
はぃ、と擦れた声で返事をして、アールーは幽鬼の如き足取りで食堂から消えていった。
この成り行きを見守っていたギャラリーたちは、同情の視線をアールーに、畏怖の視線をヤンフィに向けてから、また何事もなかったように食事を続ける。
これでもう、ヤンフィは言うことがなくなったのか、身体のコントロールを煌夜に返した。
煌夜は自分の意思で身体が動くことを確認してから、残金を勘定しているタニアに声を掛ける。
「……悪い。もう大丈夫だ。サッサと行こうぜ、タニア」
肩を軽く叩いて宿屋の入り口に歩き出すと、タニアが窺うような上目遣いを煌夜に向けてくる。
「にゃぁ、コウヤ。防具にゃしでいいにゃ? 竜革の布地とはいえ、それじゃ、防御薄いんじゃにゃいのかにゃ?」
「大丈夫、だと思うけど……あ? ああ、分かった――ヤンフィ曰く『とりあえず何かあれば、タニアで何とかせい』だとさ。まぁ、当面は急がないとだから、このままでいいよ」
「…………畏まったにゃ。コウヤを危険には遭わせにゃいと誓うにゃ」
そんな問答をしながら、煌夜とタニアは宿屋を後にする。
向かう先はアベリンの街の西門である。
ふと空を見上げれば、向かう先の西空にはどんよりした暗雲が立ち込めていた。
煌夜の頬を撫でる風は湿った空気を孕んでいて、晴れてはいても雨が降る兆候を感じられる。
煌夜はどこか嫌な予感をさせつつも、タニアの先導に従って歩き出す。
――平穏無事な旅が出来ますように、と煌夜は祈りながら、こうして異世界での三日目が始まった。