第九十五話 行商の街ラクシャーサにて
北東部に【竜騎士帝国ドラグネス】、西部に【聖王国テラ・セケル】、南部に【神王国ミュール】と列強諸国に囲まれて、そのいずれにも属さぬ中立地域――それがこの『自由都市群』と呼ばれる地域である。
自由都市群では各都市による自治が認められており、他国からの干渉は一切禁じられる。そうして完全に独立しているがゆえに、各都市は独自の発展を遂げていて、都市ごとで全く異なる法律まで存在していた。
さて、そんな自由都市群の中で、最も栄えていると言われる都市――それが【行商の街ラクシャーサ】である。
成り立ちは、各地を行き交う行商人たちが情報交換で集ったのが始まりであり、いつしか多くの商人たちが集まり、己の利益を追求する為に留まり、街が形成されたのである。
ここでは、あらゆる交易品が行き交い、あらゆるモノが商品として売られていた。ここで手に入らないモノは殆どないとまで言われるほどである。
飛竜便で移動すること丸一日、ようやく空の旅が終わって、煌夜たち一行は【行商の街ラクシャーサ】に辿り着いた。狭い異空間から解放されて、煌夜たちは一様に背伸びする。
「……いま、誰か何かしたのか?」
ところが、飛竜便の発着場に降り立った矢先、どうしてか完全武装した兵士に囲まれた。否、正確に言えば、発着場で入国手続きをした直後、屈強な兵士たちがぞろぞろと現れていた。
煌夜は沈んだ表情で溜息を吐きつつ、タニアは怪訝な表情でメンチを切り、マユミは呆れた表情で成り行きを見守る。ちなみにヤンフィは、ピンチにならない限りは魔力温存する、と言って煌夜の内側から出てこないと宣言していた。
「……にゃあ、お前ら? あちしたちに、にゃんの用にゃ? 不愉快にゃからサッサと退くにゃ。さもにゃいと、殺すぞ?」
タニアが武装した兵士集団の中で、一番年季を感じさせる老兵に怒りをぶつけた。その老兵はしかし、困った表情で怯えた様子を見せながらも震える手で長槍を構えていた。
「タニア、貴様、ラクシャーサでも悪さをしたのか? 私たちを巻き込まないで欲しいが……」
「あちしは何もしてにゃいにゃ。ここに来たのも初めてにゃ! マユミ、お前、適当にゃこと言うと殺すぞ!?」
「じゃあ、この状況はどうなっているんだ?」
「知らにゃいにゃ! あちしに聞くにゃ!!」
漫才のような小気味よいやり取りで、タニアとマユミが言い争う。そんな文句の応酬を始めた時、唐突に二人とも表情を引き締めて、左手方向へと顔を向けた。同時に、心の中でヤンフィも何やら感心した声を上げていた。
(――ほぉ? 何者じゃ?)
タニアたちが反応した方向に顔を向けると、兵士たちの肉壁が音もなく割れて、バニーガール姿をしたウサミミ女性が現れた。
肩に掛かる長さをした灰色の髪、血のように赤い瞳、全身は黒色のハイレグ姿をして、その片手には異色を放つ凶悪な形状をしたメイスを持っていた。
「お初にお目にかかります、獣王国ラタトニア第一王女『タニア・ガルム・ラタトニア』様。ワタクシ、この街の守備隊で総指揮官を任されているレムランと申します」
バニーガールの女性――レムランと名乗ったウサミミ女性は、タニアに匹敵するほどのナイスバディを見せ付けるように胸を張ってから、腰から曲げた綺麗な直角のお辞儀をしていた。
ただのコスプレイヤーにしか見えないその姿に、煌夜は思わず引いてしまった。しかもよくよく見ると、可愛らしいウサミミとお尻から覗く丸い尻尾は、装飾品ではなく身体から生えているのが分かった。よりいっそう驚くしかない。
(……此奴らは、兎耳獣人、と呼ばれる種族じゃ。獣族の中でも、敏捷性以外に優れたところがない種族で、古くから奴隷として扱われることが多いのぅ……じゃが、此奴は別格のようじゃ)
煌夜に応えるというよりも、独り言の延長という感覚でヤンフィが解説した。その台詞はやたらと感心しており、それだけこのレムランが凄いのだろう。
煌夜は改めてレムランの全身を注視するが、その煽情的な際どい服装を前に、頬を赤らめて目を逸らした。
「あちしを知ってるにゃか? でも、あちしはお前を知らにゃいにゃ」
「――ええ。ワタクシは一介の兵士でしかございませんので、ご存じないのも無理はないかと」
「そうにゃか? それにしてはお前、にゃかにゃかの強さにゃ。兎耳獣人族ってだけでも珍しいにゃに、そんにゃ魔力値で、あちしが知らにゃいにゃんて、少し変にゃ。しかも、姓がにゃいってことは国外追放されてるにゃか?」
「いえ、ワタクシは【救国の五人】レイリィン様の従者であり、獣界からやってきた異世界人です。その為、人界での通称である姓を持ち得ません」
「にゃるほど……だからにゃか。珍しいにゃぁ」
何やら納得するタニアを横目に、煌夜はマユミを見ながら首を傾げた。マユミもそれに応じるように肩を竦めている。よく分からない、というジェスチャーだろう。
すると、ヤンフィが意味不明な呟きを漏らす。それは解説のつもりなのか、ただの自問か。煌夜には理解出来なかった。
(……獣界、と云えば、六世界のうち、幻想界と表裏一体の世界じゃ……嗚呼、なるほどのぅ……そうじゃ、そうじゃ。その可能性を考慮しておらんかった……)
独りで納得した様子のヤンフィは、それきり沈黙していた。
とりあえず不穏な空気は感じなくなったので、タニアとレムランのやり取りを見守る。
「――で、にゃ? あちしたちに、にゃんの用にゃ?」
「失礼いたしました――レイリィン様のお屋敷にご招待したく存じます。人界で産まれた存在の中で、唯一【先祖還り】を為せるタニア様のことを、ワタクシの主君レイリィン様はとても興味を持っておられます。是非にお話ししたい、と」
「にゃ? あちしは別に【救国の五人】に用事にゃんかにゃい。興味もにゃい。急いでるにゃ――」
「――止めろ! タニア様に触れるな!! 死ぬぞ!!!」
タニアが強引にレムランの脇を抜けようとした時、近くに居た若輩の兵士が槍で脅そうとした。その瞬間、レムランが慌てた表情で叫び声を上げる。
チッ、とタニアの舌打ちが響く。同時に、槍を構えた兵士の眼前に、拳が寸止めされていた。レムランの制止がなければ、兵士はその拳に撃ち抜かれていただろう。
「――タニア様。お忙しいのは理解しております。ですが、ほんの少しで結構です。ご同行頂きたく……お話以外にも、レイリィン様から何かお願いがあるとのことですし……何より、決して損はさせないと誓います」
「損とか得とか、そんにゃの関係にゃいにゃ。あちしは用事がにゃいにゃ」
「ワタクシの主君であるレイリィン様は、【救国の五人】という肩書もさることながら、このラクシャーサにおいては、最も権力を持ち、最も成功している商人であります。これから、タニア様たちがどこに向かうにしても、ご協力も出来ると思っております」
レムランは平身低頭で叫びながら、チラチラ、後方で見守る煌夜とマユミを盗み見ていた。そこに敵意は全く感じない。
にゃぅぅ、と可愛らしい声を上げて、タニアは煌夜の顔を窺った。否、煌夜というよりも、休息しているヤンフィの指示を仰ぎたいのだろう。
(……ヤンフィ、どうする?)
(無駄に騒ぐのは嫌じゃのぅ。敵意や害意などはないようじゃし、話を聞いたうえで判断するのが好かろう? それに、じゃ。相手は【救国の五人】――つまりは汝の弟『ヤチコタロウ』と、同列に数えられた存在じゃろぅ? 少し事情を聴けるのではないかのぅ?)
(…………ああ、そっか……そうだな……)
ヤンフィの回答に、煌夜は難しい顔をしつつも頷いた。顔を上げて、タニアに告げる。
「敵意はなさそうだから、話くらいは聴いたらどうか、ってさ――ちなみに俺たち、えと【王都セイクリッド】だっけ? ってところに向かいたいんだけど――」
「可能ならば【大教皇】との面会もしたいのだが、その段取りもお願い出来ないか?」
煌夜の台詞に被せて、マユミが追加要望を口にした。
レムランは笑顔で頭を下げて、勿論、と胸を張った。そこに割って入って、タニアがメンチを切る。
「にゃら、サッサとそのレイリィンのとこに連れてくにゃ。あちしたちは疲れてるし、忙しいにゃ!」
「畏まりました。こちらです――おい、退け! 解散だ!!」
レムランの鶴の一声で、周辺を囲んでいた兵士たちは一斉に散らばっていった。飛竜便の発着場はすぐに閑散として、通行人も居なくなる。
人通りがなくなったところで、レムランが会釈してから歩き出す。
「にゃあ。ちにゃみに、あちしがここに来るってどうして分かったにゃ?」
「――タニア様が【国境の街ラビリス】で検問に捕らえられた、という情報を耳にしたので、竜騎士帝国ドラグネス全域に協力者を派遣して、タニア様の動向を探らせただけです。レイリィン様はあらゆる国に耳を持っております」
「にゃにゃ!? 怖いにゃ!? にゃんでそこまでするにゃ!?」
「タニア様を探す用事もあったようですが、それに関しては詳しくは存じ上げません。ですが、その用事とは関係なく、レイリィン様は興味を持ったことに対して、とても貪欲です。タニア様という存在に興味をお持ちになられてから、どんな方か、と恋焦がれるように思いを巡らせておられます。逢って色々な話がしたい、と――」
「話すことにゃんて何もにゃいにゃ……だいたい、何を知りたいにゃ?」
「知りたい、というよりも、同族と何気ない話がしたい、と仰せでした。レイリィン様には同族の話し相手が居られませんので――」
「んにゃ? 同族にゃら、お前が居るじゃにゃいか?」
タニアが首を傾げた。その問いに、レムランは悲しそうな顔で首を横に振っている。
「残念ながら、ワタクシは獣化が出来ない出来損ないです。レイリィン様には、同族の存在と認められておりません。だいたいにして、従者が主君と対等に話せる立場でもありませんし」
「ふぅん――そんにゃことに興味にゃいけど、その理論にゃら、あちしだって同族じゃにゃいにゃ。獣界出身じゃにゃい」
「出自はそうでしょうけれど、タニア様はレイリィン様と同じく、人族との混血でありながら先祖還り出来る方ですので――混血である点と獣化できることで、同族と認められております」
「…………」
レムランの言葉に、突然、タニアが明らかな苛立ちを見せ始めた。不愉快そうに眉根を寄せて、ギラつく双眸でレムランを睨んでいる。
「お前……それは、あちしを半端者だと馬鹿にしてるにゃか? 混血にゃのを馬鹿にしてるにゃか!? 殺すぞ?」
「い、いえ! そ、そんなことは――失礼いたしました」
「失礼? 失礼にゃこと言った自覚あるにゃ? にゃらお前、あちしに喧嘩売ってるってことにゃ? 上等にゃ――」
「――止めよ、タニア。一旦、落ち着け」
不穏当な空気を感じ取ったヤンフィが煌夜の身体の主導権を奪い取って、タニアを羽交い絞めにした。タニアはレムランの肩を握り潰さんばかりに掴んでおり、逆側の拳に魔力を篭めていた。
ここで止めなければ、容赦なくレムランを殴り飛ばしていただろう。止められたタニアは、チッ、と不愉快そうに舌打ちした。到底納得出来ていない様子だ。
「……ボス、にゃか? 止めにゃいでくれにゃ。コイツは、あちしに喧嘩を売ったにゃ。つまり万死に値するにゃ」
「妾は、二度、同じことは云わぬぞ? 落ち着け」
「…………ぐぬぬ、にゃ……」
珍しくもヤンフィに反論したタニアだったが、ヤンフィの本気に渋々と引き下がる。そのやり取りをマユミが横で苦笑しながら見守っていた。
当事者であるレムランはしきりに恐縮した様子で、申し訳ない、と頭を下げていた。
「おい、汝――レムラン、じゃったな? 汝の主は、何故に自ら姿を現さない? 妾たちをどこに連れて往くつもりじゃ? この先に屋敷とやらがあるようにはとても思えんぞ?」
進む先を見れば、そこは大通りから外れた狭い路地裏である。人の気配も希薄で、喧騒から遠ざかっているように思える。わざとひと気のないところに誘導しているとしか思えなかった。
ヤンフィの指摘に、煌夜も内心で、何らかの罠か、と警戒を強めた。
「――レイリィン様のお屋敷はこの先にありますが、この街にはありません。お姿を見せないのは人見知りで、他人に姿を見せたくないから、です。ですので、基本的にお屋敷に引き籠っておられます」
「見せたくない? 何か裏があるのかのぅ? だいたいじゃ。この街にはありません、じゃと? まるで別次元にでもあるような物言いじゃのぅ? 異界にでも住んでおるのか?」
怪しいのぅ、と呟きながら、馬鹿にした風に言い放つ。すると、ヤンフィの台詞にレムランは小さく頷きつつ、困った表情で答えた。
「コウヤ様は本当に博識でおられる……その通りです。レイリィン様は、普段、異界に住んでおられます。また、他人に姿を見せたくないのも……実は、その……基本的に普段、獣化しておられて……衣服を身に着ける習慣がないので……他者に裸を見せたくない、という理由もあり……」
「それ、変態じゃにゃいか!?」
言い淀むレムランに、思わずタニアが突っ込んでいた。だが、それとは裏腹に、ヤンフィは怪訝な表情でレムランを睨み付ける。
「――異界に住む、じゃと? 生活出来なくはないが、安全に過ごせるはずがないじゃろぅ? それこそ、自らで異界を創造しない限り、のぅ」
「ご推察の通りです。レイリィン様は、冠級の時空魔術で異界を創造なさいました――入口は、もう少し先、こちらです」
レムランは再び会釈してから、路地裏に歩き出す。すると、マユミが首を傾げた。
「なぁ、ヤンフィ様。いまの会話にあった『異界』とは何だ?」
「にゃんだ? マユミはそんにゃことも知らにゃいのか? 知識不足にゃあ」
タニアは過去の自分は棚上げして、マユミを笑い飛ばす。しかしそれを無視して、マユミは気にした風もなくヤンフィに問う。
「【救国の五人】レイリィンが、冠級の時空魔術師として名を馳せているのは知っているが、異界と言う結界? それは知らん。異空間じゃないのか? 異空間が広くなったモノか?」
「違う――『異界』とは、魔族が魔貴族に転生する場所じゃ。負の魔力に満ち充ちて、強力な瘴気が溢れておる別次元のことを指すのじゃ。魔界に近い位相をしており、極稀に自然発生する魔の領域じゃ」
「……魔貴族に、転生……ほぉ? おい、レムラン。レイリィンは私たちをどうするつもりだ?」
殺気を含んだ流し目を向けたマユミに、レムランは恐縮して息を呑んでいた。滅相もない、と首をしきりに横に振っている。
「し、信じて頂きたいのですが、ワタクシを含めて、レイリィン様にも敵意や害意はありません。どういった用事か存じ上げないので、ご説明できないのは恐縮ですが……タニア様は当然として……剣仙マユミ様を敵に回すようなことは……決して、ございません……」
「お、私を知っているのか? そのうえで、タニアにだけ声を掛けていたのか?」
マユミが底意地の悪い笑みを浮かべて、いっそう強い威圧をレムランに向けた。その不毛なやり取りに溜息を吐きながら、ヤンフィが手で制した。
「サッサと案内せよ。妾たちは、旅路を急いでおる」
レムランの背を軽く押して、ヤンフィはタニアとマユミを睨み一つで黙らせた。
そのまま路地裏を少し進んで、袋小路に到達した。袋小路の先には、二階建て程度の高さをした塀があり、歪んだ形状の扉が埋め込まれていた。
「――こちら、です」
歪んだ形状の扉を指差しながら、レムランは恭しくその場に跪いた。扉からは、なかなか強力な魔力が放たれている。内側が異界に繋がっているようだ。
「お先に、どうぞお入りください……」
レムランは歪んだ扉を開いて、内側の暗闇から漂ってくる瘴気に身震いしている。そんな彼女を一瞥してから、ヤンフィが真っ先に扉を潜った。
「ふむ――この瘴気は、間違いなく異界じゃのぅ。じゃが、魔族の気配は感じぬ」
何の警戒もなく、平然と扉を潜ったヤンフィを見てから、続いてタニアとマユミが入った。
扉の内側には、腐臭にも似た嫌な空気が漂う樹海が広がっていた。上を見上げると、薄緑色をした碧天が広がっており、太陽のような光源がないのに、空気が光を放っているように明るい。
「…………これが、異界か?」
「にゃんか、魔力濃度が高いにゃぁ……」
マユミもタニアも眉を顰めていた。ふと振り返ると、案内役のレムランは扉の外側で跪いたままだった。ヤンフィが首を傾げる。
「おい、案内はどうするつもりじゃ?」
「……いま、ご案内いたします」
レムランは大きく深呼吸してから、意を決した様子で扉の中に入って来る。途端、入ってきた扉は景色に溶け込むように姿を掻き消した。
「――えーと、失礼いたします。こちら、ですね。足元にお気を付けてください」
目の前に広がった樹海を一瞥してから、レムランは左方向に足を踏み出した。
何を目印に進み始めたのかは分からないが、確信を持って足を進めていた。ヤンフィたちはそんなレムランに無言で付き従う。
重苦しい空気が漂う樹海を、およそ十分程度散策した。
変わり映えしない風景の中を進んでいると、ふいに開けた広場が現れる。
「ここ、です」
レムランは広場の中央にある大樹の切り株の前で、崩れ落ちるように膝を突いた。だいぶ瘴気に中てられたようで、息も絶え絶えで顔面は蒼白だった。ウサミミも力なく垂れている。
煌夜の身体はヤンフィが支配しているからか、若干ダルイな、と感じる程度で、動きに支障はなかった。それはタニアやマユミも同じで、辛そうなのはレムランだけである。
「この切り株のどこが、屋敷じゃ?」
「……レイリィン様、お連れ、いたしました……」
ヤンフィが崩れ落ちているレムランに威圧すると、何やら切り株に触れながら魔力を放った。するとレムランの魔力に反応してか、切り株の上に新しい扉が現れた。その扉は宙に浮いており、怪しい魔力を放っていた。
「――入ってきて」
空間に響き渡るような幼い声が聞こえたかと思うと、空気の階段が扉まで現れた。上ってこい、ということだろう。
ヤンフィは迷わず空気の階段に足をかけた。タニア、マユミも続いて階段を上る。
扉を開けると、そこは広いリビングのような空間だった。床一面には、芝生みたいな絨毯が敷かれており、中央にはキングサイズのベッドが置かれている。
「汝が、レイリィンとやらか?」
そんなベッドに、全長2メートル弱の巨大な黒ウサギが腰掛けていた。
巨大な黒ウサギはクリクリの丸い赤眼に眼鏡を掛けており、ヤンフィにキョトンとした視線を向けていた。ウサミミをピクピクと動かして、興味津々と来客を検分している。額に小さな角が生えており、体毛はふかふかで、尻尾は三日月の形をパタパタ忙しなく揺らしていた。
「……そうだよ? ボクがレイリィンだよ? ところで、異世界人のキミはだあれ? どうして呼んでないのに、ここに来てるの? ボクは、タニア様だけを呼んだはずだけど?」
「――間違いにゃいにゃ。コイツがレイリィンにゃ」
「ふむ……」
ヤンフィが視線で問い掛けると、タニアが力強く頷いた。鑑定の魔眼で確認したらしい。
「妾は、ヤンフィ――いや、コウヤじゃ。タニアの仲間じゃ」
「コウヤ……ああ、キミがあの『アマミコウヤ』? それで、いまは魔王属ヤンフィ、なの?」
「ほお? 知っておるのか? そうじゃ」
巨大な黒ウサギ――レイリィンはぴょこんとベッドから降りて、二足歩行でペタペタとヤンフィに近寄ってきた。そこに敵意はない。
「なんじゃ?」
「ボクが聞いてたより、ずっと消耗してるけど、何かあったの?」
レイリィンが馴れ馴れしく煌夜の身体に触れた。それを珍しく、ヤンフィは抵抗もせず触らせていた。もふもふの体毛がこそばゆい。
「聴いていた、とは何のことじゃ? 誰に――」
「――キリア様から、連絡玉で聞いてたし、それより以前には、手紙でも事情を知ってたよ?」
レイリィンは煌夜の身体をひとしきり撫でた後、ピョンと軽い跳躍で数メートル飛び退いて、空気の椅子を作り出して座った。
「……サラが言ってた特徴とは合致するけど……年齢が、確かに合わないね……」
何度か眼鏡を掛け直す仕草をしながらヤンフィを眺めて、しきりに首を傾げている。怪しい緑光が眼鏡から漏れていた。
「汝は【鑑定の魔眼】でも保有しておるのかのぅ?」
「あ、うん? 保有、っていうか……まぁ、そうかな? この眼鏡が【鑑定の魔眼】と同一効果を持ってるんだ。ウィズ様から貰った眼鏡だよ」
「にゃあ、それよりも。あちしに何用にゃ?」
タニアが退屈そうにあくびしながら口を挟んだ。これ以上無駄話をしたくはない、という空気を出している。
「あ、ごめんなさい、タニア様。えと、どうしようかな……」
レイリィンは口元に手を当てて、キョロキョロとヤンフィとマユミに視線を走らせている。思案している、というよりも、言いたいけど言っちゃマズいんだよな、というアピールに思えた。
そんな態度に苛立ちを募らせるタニアを見て、レイリィンは両手を広げた。
「えと、タニア様を探してたのは、実は伝えたいことがあったんだけど……その内容が、ちょっと内密にしたい話で――」
「――サッサと言うにゃ」
「あ、うん。ま、お仲間さんなら、いいかな? うん。いいことにするよ――実は、ラタトニア国王からお願いされてることがあってさ」
レイリィンが息を吸って、可愛らしく首を傾げて見せる。
「タニア様を見つけ次第、王国に連れて来い――だって」
「にゃんだと? どういうことにゃ?」
「伝言もあってね――『我が娘、タニアよ。勘当は取り消す。王位継承権は復権させる。無理やりの婚約も一切応じる必要はない。だから急ぎ、獣王国に戻ってこい』、だってさ。ちなみにどうして急に、だと思うけど。その理由が実は、エイム様が【剣神会】に誘拐されたから、のようだよ?」
「……エイムが? いやいや、けど、そんにゃの知ったこっちゃにゃいにゃ。あちしはもう、実家とは絶縁してるにゃ」
タニアは渋面を浮かべながら首を振る。何やら複雑な家庭事情がありそうだが、それよりも聞き逃せなかったのが、剣神会に誘拐された、という点である。
ヤンフィがチラとマユミに視線を向けた。マユミが困った顔で挙手しながら口を挟んだ。
「剣神会が絡んでいる、だと? そんなはずはないだろ? 確かに、剣神会の是として『獣人族は許さない』とあるが、わざわざ面倒な誘拐などするはずはない。だいたい、いま話にあった『エイム』とは、ラタトニア王国の第二王女のことだろ? 誘拐する利点が――」
「――利点なんかないと思うよ? でも事実、剣神会の指示で、エイム様を誘拐してる。主犯は、月の号を持つ剣仙凛麗だね。知らない?」
「凛麗、が? アイツ、まさか……世界蛇にでも唆されたのか?」
「さあ? 唆された、とかそういうのは分からないけど、世界蛇の幹部【洗礼の長】バルバトロスと一対一での密会が目撃されてるし、誘拐したエイム様を世界蛇の連中に引き渡す光景も確認されてるよ」
レイリィンがこともなげに首を傾げた。まるで興味がない、という素っ気ない口振りに、しかしマユミは興奮気味で食い掛る。
「おい、適当なことを抜かすなよ? 凛麗が直接、宰相バルバトロスと密会している、だと? そんなはずないだろ」
「するはずない、そんなはずない……とか、言われても、ボクたちが調べた限りじゃ間違いないよ? ちなみに調べる過程で、十三人が死亡したんだ。適当に調べた訳でもないよ。雪の号を持つ剣仙マユミ・ヨウリュウ様としては、剣神会が絡んでいることに納得いかないかも知れないけど……」
「納得いく、いかない、ではない。凛麗はクズだが、己の実力を高めること以外に興味は持たないはずだ。剣聖や剣神から依頼されたとしても、誘拐するなどあり得ない」
「ボクたちだって、エイム様を誘拐した理由を知らないから、あり得ないとか言われても、それこそ知らないよ? あ、それで、タニア様。ラタトニアに戻ってくれない?」
憤慨するマユミなど無視して、レイリィンはタニアに向いた。そんなレイリィンに冷ややかな視線を向けながら、タニアは溜息で返す。
「あちしは帰らにゃい。帰る意味がにゃいにゃ。王位にゃんか興味にゃいし、エイムのこともどうでもいいにゃ。あちしはコウヤと一緒に生きてくにゃ」
「ふぅん? ねぇ、タニア様。一つだけ質問なんだけど……アマミコウヤとは、どういう関係なの?」
「どういう? 決まってるにゃ! あちしとコウヤはいずれ結婚する仲にゃ! あちしはコウヤの子供をたくさん産む予定にゃ」
タニアの台詞に白けた表情を浮かべながら、ヤンフィは口を挟もうとしたマユミを止める。
「――のぅ、レイリィンよ。汝の用事とは、タニアを連れ戻すことか? それであれば、残念ながら不可能じゃ。仮にタニアが納得したとしても、妾がそれを許さぬ」
「あ、そうなの? けど、どうしても、って言うお願いだから、せめてもう少し検討してくれないかな? 勿論、ボクたちで出来る援助は最大限するし、望むモノがあれば用意するよ?」
さして興味のない風で、レイリィンはヤンフィに小首を傾げる。しかしそれに、駄目だ、とヤンフィは首を振った。
レイリィンのクリクリした赤い瞳がスッと細くなる。苛立っている空気が漂った。
「タニアはいま、妾たちの旅路において重要な存在じゃ。意味のないことに付き合わせる訳には往かぬのじゃ――まさか、話とはそれだけか?」
ピシャリと言い放つヤンフィに、タニアが嬉しそうな顔をして耳をピンと立てていた。
「ふぅん? そっか、そっか。じゃあ、とりあえずこの話は終わり――それじゃ、違う話しよ? タニア様はまだ、魔眼を覚醒させていないんだよね? アマミコウヤの異能って、視えてないんだよね?」
「……馬鹿にしてるにゃか? 視えてにゃいにゃ」
タニアはどうしてか誇らしげに胸を反らした。それに対して、ヤンフィが厳しい顔をしている。
「やっぱり? だから、一緒に居れるんだね? うん。無駄な忠告かも知れないけど、一緒に旅するのは辞めた方が良いよ? だって、とっても危険だもん」
「はぁ? にゃにが危険にゃ? そんにゃ脅しは効かにゃい!」
「脅し、じゃないんだけどな。アマミコウヤの異能が、凄く危険ってことだけど……」
(――俺の異能、って? どういうこと?)
煌夜が内心でヤンフィに問うが、それには答えず、レイリィンに問い返す。
「レイリィンよ。汝の掛けている眼鏡が【鑑定の魔眼】と同一であることは疑わぬが、よもやそれが、覚醒までしておると云うのか?」
「そうだよ? 多少のコツは必要だけど、これは覚醒済みだからね。むしろ、タニア様ほどの人が、いまだに覚醒していないのが不思議」
「それで? コウヤの異能とは、何じゃ?」
「ん? あれ? 寄生型の魔王属なのに、知らないの? 本人的には、教えても良い? ここで言うと全員がそれを知ることになるけど?」
「……寄生型、ではない。タニアもマユミも問題ないし、コウヤ本人も許可しておる……して、どんな異能じゃ?」
「ふぅん? じゃあ言うけど、ボクで把握出来る異能が五つもあるね。常時発動型の【混沌を招く者】って異能と【悪運】。瀕死時に自動発動する【悪喰】。そして、肉体に宿ってる【魔王の素養】、【神の祝福】だね」
レイリィンの言葉を耳にして、マユミとヤンフィが空気を凍らせた。
マユミは興味深げに煌夜の全身を注視して、ヤンフィは重々しい口調でさらに問う。
「……【混沌を招く者】とは、具体的にどんな異能かの?」
「さあ? けど、読み取れる効果としては、とんでもなく強力な呪いみたいな異能だね。あらゆる不遇な運命を周囲に呼び寄せる能力――これ、もはや禍だよ。こんな呪いを持って、まだ生き残っているのが奇跡としか言えないね」
しみじみと呟くレイリィンに、煌夜は泣きそうな気持ちになる。今まで散々不幸な目に遭っていたのは、不運とかそういう次元ではなく、自らの異能のせいだった訳だ。
煌夜がそんなことで悲しくなっていると、マユミが恐怖を浮かべた表情で驚きを口にする。
「――そんな瑣末なことよりも、凄まじいのは、コウヤが五つも異能を持っていることだろ? しかも、そのうちの二つは、最上位の魔眼にも劣らぬ【悪運】と【悪喰】だぞ?」
「マユミ・ヨウリュウ様の驚きは分かるけど、瑣末って言うほど瑣末じゃないよ? だって【魔王の素養】と【神の祝福】を持ち合わせているってことは、死んだら間違いなく、魔神に匹敵するほど強力な魔王属に成るんだよ? 一緒に旅してたら、生きた心地しないはずだよ?」
「おい、お前ら! あちしにも分かるように説明するにゃ!! コウヤが保有する異能の数が凄いのは理解したにゃけど、それ以外のにゃにが問題にゃ?」
タニアがマユミを押し退けてレイリィンを睨み付けた。
そんな騒いでいる三人を横目に、ヤンフィは沈痛そうな面持ちで、すまぬ、と呟いていた。
(んぇ? 何が?)
(――妾が後で詳しく説明してやろう。とりあえず、此奴との会話は終わりじゃ)
ヤンフィが口を開けようとした瞬間、レイリィンがスッと両手を前に構えた。可愛らしいモフモフの前脚だが、次の瞬間、そこから強烈な光線が放たれる。それは一瞬で煌夜の頬を掠めて、背後の空間を貫いていった。音もなく背後の景色が黒く削り取られた。
何らかの攻撃魔術のように思えるが、魔力の波動は感じなかった。
「――にゃにするにゃ!?」
「タニア様、ボクの用事なんだけど、実はいくつかあってさ。一つ目が、ラタトニア王国からお願いされた内容で、タニア様を見つけ次第、ラタトニアに連れて来いなんだけど――」
「だからにゃに――にゃ!?」
「マユミも動くな。此奴はまだ警告しておるだけじゃ――じゃが、迂闊に行動すれば、少なくともコウヤの命が危険に晒される。いま此奴は、コウヤを盾に脅しておる」
憤慨したタニアは、一瞬のうちに魔装衣を纏い、レイリィンの首を握り締めていた。そんなタニアの顔面を、顕現したヤンフィが掴んで引き剥がした。また、嬉しそうな顔で戦闘態勢に入っていたマユミに手を向けて、動くなと宣言する。
「……あ、え?」
唐突に主導権を戻された煌夜は混乱して、ヤンフィに食って掛かる勢いのタニアと、平然としているレイリィンを眺める。
ヤンフィはレイリィンと向き直り、煌夜を庇うようにして威嚇した。そんな殺気を真正面から受け止めて、しかし何ら気にした風もなく、ピョンピョンと部屋の中をうろつき出す。
「ね、魔王属ヤンフィって、無慈悲の化生と恐れられた【魔剣の不死者】だよね? そんな偉大で凶悪な存在が、どうして異世界人のアマミコウヤと一緒に居るんだろう、って疑問だったけど、こうして会って話して、ようやく理解できたよ」
「ふむ? どういう、意味じゃ」
「アマミコウヤって器を、神への復讐に使う為でしょ? アマミコウヤの肉体を変質させて、器として充分に育ったところで、魔王属に転生させるつもりでしょ?」
「――違う」
「タニア様、ボクの二つ目の用事なんだけど。ボクさ、キリア様からもお願いをされてたんだ。タニア様と一緒に行動してる『アマミコウヤ』と『魔王属ヤンフィ』を見極めろ、って――」
「――違う、と云うておるじゃろぅ? 勝手に妾たちの関係を解釈して、決め付けるのは不快じゃ」
珍しくもヤンフィは駄々っ子のような剣幕で声を荒げていた。レイリィンはそれを無視する。
「あ、その……えと、どういう状況――」
「――コウヤも動くでない。後で詳しく説明してやる」
「見極めて、危険だ、と判断した場合には、キリア様に殺すことも検討しろ、って言われたんだよ。ま、判断自体はボクに任せてくれる、ってことだったけど……あ、それで、ボクは異世界人アマミコウヤを危険因子と判断したよ? だから、この場で殺したい、と思ってる」
こともなげに言って、レイリィンは緩く視線を向ける。見た目は隙だらけで、何の恐怖も感じないが、ヤンフィだけが警戒を強めていた。
「だけど、その前に一つ聞きたいな。これは三つ目の用事なんだけど……サラからのお願いでさ――アマミコウヤの出身は、どこなのか聞きたいな」
「出身……って、日本、とか?」
「えと、異世界の名称じゃなくて、育った環境?」
「あ、ああ、と――『天見園』?」
謎の問答に、レイリィンは目を丸くして驚いていた。真っ赤な瞳がパチパチと瞬かれる。
「汝の云う『サラ』とは、コウヤが捜しておる弟妹の一人で『ツキガセサラ』じゃろぅ? コウヤの世界では、たった一日程度の差だったようじゃが、どうやらこちらの世界ではそのズレが九年近くあったようじゃ。先日、もう一人の弟妹『ヤチコタロウ』に遭って、そう教わった」
ヤンフィが饒舌に、焦った様子で説明する。それを聞いて、いっそうレイリィンが驚愕している。
「そ、か――本人、なのか。じゃあ、サラに報告しないと……それじゃ、殺せないね」
「のぅ、レイリィンとやらよ。妾への侮辱は今回に限り許す。コウヤに危害を加えようとしたことも、見なかったことにしよう。じゃから、妾たちと交渉せんか?」
ヤンフィは珍しく下手に出ていた。常に強気で、何があっても引くことをしないのに、何か裏があるのかと疑いたくなるほど卑屈な態度を見せた。
「交渉? ああ、ま、そだね。ボクの用事に協力してくれるなら、当然、見返りは渡すよ? いますぐタニア様を連れて、ラタトニア王国に向かってくれるの?」
「それは不可能じゃ――だいたいにして、それは協力ではなかろう? 汝が云うておるのは命令じゃ。まぁ、どちらにしろ、見返りとやらがどれほどのモノかによるのぅ。特にタニアを向かわせるのであれば、同等の戦力を提供してくれるのが大前提じゃ」
「同等の戦力って、剣仙マユミ・ヨウリュウ様が居るじゃない」
「タニアは妾の右腕じゃ。右腕を向かわせるのじゃったら、当然、相応の見返りが必要じゃろぅ?」
ヤンフィは思ってもない台詞を堂々と吐いていた。だが実際の理由としては、マユミを信頼出来ない点が一番大きい。
けれど、そんな方便を真に受けて、タニアは満面の笑みで嬉しそうにしていた。認められたと思っているのだろう。
一方で、マユミは額面通りに受け取らず、ヤンフィの言いたいことを理解していた。自らに信頼がないことも自覚しており、そのうえで信頼を得ようとは考えていなかった。実際のところ自分は、何かが起きた際きっと、煌夜を第一優先すると約束は出来ない。
「――私だけだと心許ないのは事実だな。タニアの代わりは必要だろう」
自覚があるからこそマユミは気を遣い、ヤンフィの思いを代弁するように進言した。
「……マユミに言われると気持ち悪いにゃ」
「ふぅん? でも、それは流石に無理だよ。タニア様と同等の戦力なんて、大陸中を見渡してもほとんど居ないよ?」
「ならば、先に妾たちの用事を済ませてから、汝の用事を果たすではどうじゃ? 妾たちはいま、冠級の治癒魔術を扱える者を探しておる。候補として【大教皇】に面会しようと思っておるが――」
「――無茶を言うね。無理だよ」
ヤンフィの言葉を遮って、レイリィンはピシャリと断言した。
「無理?」
「うん。まず、冠級の治癒魔術なんて、聖女の資格者しか到達できない領域だから無理だよ? 探すだけ無駄なことだと思う。そもそもここ五百年間で、誰一人踏み入れられなかった領域だもの。さらに言えば【大教皇】との面会も無理だよ。彼女、ボクが口添えしても、全然優先してくれないから、いまからだと一年先まで会えないよ」
「聖女の資格者しか到達できぬのならば、ソレを持つ者を探し出せば良いだけじゃろぅ?」
「知らないの? 今代の聖女は『スゥ・レーラ・ファー・エイル』って言って、歴代最弱の聖女だよ?」
レイリィンが残念そうに肩を落としながら口にするが、彼女こそまだ聖女スゥが死んだことを知らないようだ。ヤンフィは首を振りながら反論した。
「汝の云う【聖女】スゥは死んでおる。じゃから、聖女の資格は他の誰かに移っておるはずじゃ。次代の聖女を探すのが先決じゃが――【大教皇】は冠級の治癒魔術を使える領域に居らぬのか?」
「……エイル様、死んだの? ふぅん? だとしても、ボクはタニア様の代わりは用意できないよ。それに、聖女の資格者を探すのは良いけど、見付けられるか保証はない。何より、先にそっちの要望を呑むのは無理――」
「――妾たちも別に、一方的な要望をしているわけではない。汝の要望も叶えようと妥協しておる。普段であれば、このような慈悲なぞ一切口にせんぞ?」
弱腰に引きつつも、決して折れないヤンフィの態度に、タニアも胸を張っていた。
「あのさ。ボクは脅されても譲歩しないよ。だって、分かってると思うけど、この空間に居る限り、ボクはアマミコウヤをいつでも殺せる有利な立場だよ? 脅す気なら脅し返すけど……ちなみにボクは、死ぬことに頓着してないから、刺し違えてもアマミコウヤを殺すよ? タニア様や剣仙マユミ様、魔王属ヤンフィを殺せるなんて自惚れることもないから、油断なんかないし」
「……そうじゃろぅな」
眉根を寄せて怒りをあらわにするタニアを、ヤンフィが手で制した。今にも殴り掛かろうとしている空気だが、恐らくそれをすると煌夜の命が危険なのだろう。
「けど、ボクはキミたちを脅すつもりはないんだ。ここでタニア様と逢えたのは偶然だからね――それに正直な話、タニア様を連れ戻す用事は急ぎじゃないし」
「にゃら、あちしを見逃せば良いだけにゃ? あちしたちの要望を先にしてもいいにゃ? 簡単にゃことじゃにゃいか」
「簡単に言えば、そうだけど。残念ながら、そういう問題で終わらせられないのが世知辛いよね。だってボクもう、ラタトニア王国にタニア様を見付けた、って報告しちゃったから」
「そんにゃの知らにゃいにゃ! あちしたちには関係にゃいにゃ!!」
「関係なくはないけど――お互いに妥協出来る案がないかな? ボクは出来る限りの見返りを用意するよ」
レイリィンは頬に指を当てて、とぼけた風に首を傾げた。その態度にタニアが激昂するが、何かする前にヤンフィが制する。
「単純じゃろぅ。妾たちの用事を優先して、冠級の治癒魔術を扱える者を探してくれれば好い。それが叶えば、タニアをラタトニアでも何でも連れて往こう。それが一番、平和的じゃろぅ?」
どの口が言うのか、にこやかな笑顔で平和的と強調した。マユミが苦笑していた。
「……それ、ボクの要望は後回しってことでしょ。それじゃ、交渉とも言えないじゃない?」
「それならば、叶えられる要望を口にせよ。妾たちとて、可能な限り汝の希望は叶えよう」
「ほら、それ。おかしいよ? ボクが妥協する側なのに、どうして魔王属ヤンフィが妥協する話になるのかな?」
レイリィンの意見はある意味で最もだろう。だが、実際のところは、どちらの主張も自己都合でしかない。この場で誰も譲る心意気は持ち合わせていないようだ。
「おかしくなどない。妾たちを呼び止めて、勝手な都合を口にしておるのは汝じゃ。じゃが、その条件を呑もうと妥協しておる。代わりに妾たちに協力しろ、と云っておるだけじゃ」
「いやぁ、そういう話じゃないでしょ? けど、もういいよ。ボク、無駄なことは嫌いだし、アマミコウヤの処遇をいま決め切れないなら、結局はボクが折れるしかないし――うん。折衷案があるよ?」
レイリィンが煌夜に向かって指差す。なになに、と煌夜は分かり易く挙動不審になった。
「ボクが案内するから、アマミコウヤを連れてゲヘナホールの調査をして欲しい」
「ゲヘナホール? 何じゃ、それは?」
眉根を寄せたヤンフィに、マユミが首を横に振った。
「おいおい、ゲヘナホールって言えば、シールレーヌの観光名所じゃないか。テラ・セケル領とは逆方向だぞ?」
「そだよ?」
「レイリィンよ。それのどこが折衷案なんじゃ? 妾たちは先を急いでおる。【大教皇】とやらに逢えるような――」
「――そこには、【大教皇】ティフェ・ラジエルを超える治癒術師が居るよ?」
ヤンフィの憤慨に被せて、レイリィンがピシャリと言い放つ。
「ボクの友達で、【天啓の巫女】サラと【隻腕の魔術師】リュウヤ。二人がいま、ゲヘナホールに封じられた【破滅の魔女】の調査をしてるんだ。けど、攻略するのには少しだけ人数が足りなくてね。きっと困ってるはずなんだ」
「……サラ、と、リュウヤ……って『月ヶ瀬サラ』と『天見竜也』か!?」
驚く煌夜に、レイリィンが力強く頷いていた。
「そうだよ。そこでサラに直接、アマミコウヤを判断してもらおうと思う。必要だったらきっと、リュウヤが魔王属ヤンフィを殺すはずだし」
「許可できぬ」
「どして? 知り合いなんでしょ? サラもずっと『アマミコウヤ』を探してたみたいだし――」
「――敵対する可能性が高いのじゃ。少なくとも、コウヤがこの状態で逢う訳には往かぬ」
煌夜が食い気味に身を乗り出したのを押さえて、ヤンフィが厳しい顔で首を振った。それは当然の考えである。実際問題、煌夜がここまで消耗してしまった原因は、大切に思っていた谷地虎太朗に攻撃されたからである。
谷地虎太朗独りを相手に、ディド、マユミ、ヤンフィの三人が手も足も出なかった。タニアも一騎打ちで闘ったとのことだが、それでも五分程度と聞いていた。
そんな谷地虎太朗と同程度の強さを持つであろう二人を相手に、煌夜を護りながら抵抗するには、タニアとマユミでは戦力不足である。
「コウヤを危険に晒すことは出来ぬ。汝の要望は却下じゃ」
「ふぅん? 危険? どして?」
本気で首を傾げるレイリィンに、ヤンフィが反論しようとしたが、それより先に言葉が続いた。
「サラはいつも、誰に何を言われても、こう言ってたよ? 『コウヤお兄ちゃんは必ずわたしを迎えに来る。それがいつかは分からないけど、それは絶対の運命なの』ってさ。それを言うたびに、リュウヤとコタロウが喧嘩し始めるんだけどさ」
「…………え?」
「あ、そかそか。そいや、オーラドーンでコタロウとひと悶着あったんだっけ? コタロウはアマミコウヤにいつも怒ってたし――もしかして、殺されかけた? だから、いまそんなに消耗してるのかな。ああ、だとしたら、凄く納得する」
確信をもって断言するレイリィンに、煌夜が目を見開く。
「それ、どういう意味――」
「のぅ、レイリィンよ。コタロウは、サラとリュウヤと仲違いでもしておるのか?」
「いや? そういうことじゃないよ。ただアマミコウヤに対する思い入れが違うだけさ。それで結局、ボクの要望は聴いてくれるのかな? ゲヘナホールに向かってくれるの?」
とぼけた様子でヤンフィに問う。それに対して、舌打ち混じりに問い返す。
「……サラは【大教皇】を超える治癒術師と云うたのぅ? それは、現時点での話か? それとも、潜在能力の話か? いま扱えるのは聖級かのぅ?」
「現時点での話だよ? 潜在能力もまだまだ発展途上だけど、今の時点でも既に、サラは大陸最高峰の治癒術師だからね。冠級こそ扱えないけど――そもそも冠級の治癒魔術なんて、どこにも伝わってないんだから扱えるわけがないよ? それこそ聖女が持つ【神の叡智】で修得しない限りさ」
「ふむ……賭け、じゃのぅ」
ヤンフィが煌夜をチラチラ見ながら、思案顔を浮かべている。何に悩んでいるのか分からないが、煌夜としても複雑な心境だった。
逢いたいが、逢った時に何を言われるのか――虎太朗との邂逅がインパクトとしては大きすぎた。怖気てしまっているのが本音だ。
「レイリィンよ。ちなみに何故、サラとリュウヤはゲヘナホールを調査しておる? 破滅の魔女の調査と云うておったが、その理由は何じゃ?」
「ふぅん? 知りたいの? ま、隠すことじゃないから良いかな? えと、キリア様から聞いた話と、各地で調べた状況から推測すると、恐らくコタロウは今、【破滅の魔女】レーヌ・ラガム・フレスベランの魂の欠片に魅入られてる可能性がある。コタロウの恋愛感情を利用して、体よく操ろうとしてる、かもしれないんだよ」
衝撃が走った。アベリンで【破滅の魔女】レーヌ・ラガム・フレスベランを宿したライム・ラガムの姿を脳裏に浮かべた。
あの時、魂だけのレーヌを煌夜から追い出す為に、かなりの手間が掛かったのを覚えていた。
「なぁ、ヤンフィ様。確かに【天啓の巫女】サラは、全ての魔術属性が聖級以上で、大陸最高峰に座する治癒術師で間違いない――コウヤと相性が悪い、って言うんなら、私たちだけで先行して逢ってみるのはどうだ?」
マユミが愉しそうに笑みを浮かべながら提案してくる。破滅の魔女という強大な敵が絡んでいることを聞いて、これ幸いと喜んでいる様子が分かる。
「にゃあ、レイリィン。ところで、折衷案がにゃんでゲヘナホールの調査にゃ? あちしたちを、サラとリュウヤに逢わせるのが目的にゃ? 裏側でにゃにを企んでるにゃ?」
「タニア様。生憎だけど、本当に何の裏もないよ? ボクは貸し借りと他者から貰った恩に、優先順位を付けてるんだよ。そこで行くと、サラとの約束が最上位で、続いてキリア様との約束、それからラタトニア王国からの依頼、って順番さ。サラとの約束は単純――『コウヤお兄ちゃんを見付けたら、すぐに教えて欲しい』だからね。今のボクがその約束を果たす為には、当人を向かわせるのが一番早い」
こともなげに言ったレイリィンに、ヤンフィが鋭い視線を向けた。感情の揺れを注意深く眺めて、嘘偽りがないことを確信する。ヤンフィはタニアに、間違いないのぅ、と頷いていた。
こうなってしまうと、レイリィンの折衷案を呑むのが一番の近道であり、正答に思えてきた。
一方で、やはり虎太朗の時と同様に、月ヶ瀬サラ、天見竜也と対峙した際、いきなり攻撃される可能性は存在している。
(……【混沌を招く者】が、どれほどの禍を引き寄せるか……それが問題じゃしのぅ)
ヤンフィは独り自問しながら、どうすることが煌夜を癒す最善かを悩んだ。
とはいえ正直、動かなければ答えなど出ないことは分かっている。どう行動しようと、どんな選択をしようとも、やはり一縷の望みに託すしかないほど絶望的な状況なのだ。
「――コウヤよ。汝が決めよ」
ヤンフィはひとしきり悩んだ後、煌夜に振り返り、短くそう告げた。
「捜していた弟妹に逢いに往くか――先延ばしにするか」
先延ばしの選択肢は、つまりここで、レイリィンの折衷案を蹴ることを意味する。それにより、どうなるかは分からない。だが、どちらにしろ、最優先目的である煌夜を癒すという目的を果たすのは、困難である事実は変わらない。
「……俺は……サラとリュウが、どう想ってるか……」
「ふぅん? 逢うのが怖いのかな? 何か、サラから聞いてた感じと印象が違うね? コウヤお兄ちゃんは、どんな時でも真っ直ぐで、怖くても決して折れず、諦めない強い心の持ち主、って聞いてたよ? だからか、サラは弱音を吐いた時、いつもいつも一人でそう言って気持ちを奮い立たせてたのに……」
「…………」
レイリィンが馬鹿にするように呟く。そこには深い悲しみ色が滲んでいた。
しばしの沈黙、煌夜は決意したように、一歩前に出て宣言する。
「俺の身体が、どうなろうと構わない。むしろ、ヤバい状況ならなおさら、先にサラとリュウに逢って、謝罪したいと思う――ごめん、ヤンフィ。えと、サラとリュウのところに向かおう」
「――承知じゃ」
パァン、とレイリィンが手を叩いた。ぴょこぴょこと飛び跳ねてから、空気椅子に腰を下ろす。
「そしたら、ボクの要望を聞いて、このままシールレーヌまで向かってくれるのかな?」
「うむ。そうなるじゃろぅ」
ヤンフィはその姿を掻き消して、再び煌夜の身体に戻り主導権を奪う。
「――これで汝の要望は呑んだぞ。じゃから、相応の対価を支払ってもらいたいのぅ?」
「相応の、対価? うん、良いよ。何がお望み?」
「まず、妾たちに同行するのじゃから、命令には絶対服従せよ。何があっても妾たちに逆らうでないぞ? 嘘も駄目じゃ。妾たちの質問には、隠し事なく答えよ」
レイリィンがキョトンとした。それは対価になるのか、という顔である。しかし、ヤンフィの要望は終わらない。
「当然ながら、妾たちに危害を加えることも禁じる。さて、そのうえで、とりあえず今回の対価として、汝が保有しておる魔道具を頂きたいのぅ」
「ふぅん? それ、対価、と言うより条件みたいだね。しかもボクを奴隷にする制限に近い。ちょっと不利すぎて、頷きたくはないけど……まぁ、いいよ? ところで、保有してる魔道具って具体的には?」
だいぶ一方的な要求だが、レイリィンは二つ返事で頷いていた。これでも十分に対価として成り立つのではないか、と思うが、ヤンフィの要求はさらに続くようだった。
タニア、マユミは一歩下がって、レイリィンの挙動を警戒していた。
「簡単じゃ。汝の掛けておるその眼鏡――【鑑定の魔眼】が付与されると云う魔道具を、妾たちに寄越せ」
「簡単だね。けど強欲だなぁ――別に良いけどさ」
「ふむ。まぁ、それも仕方ない――なに? いま、何と云うた?」
ヤンフィは断られるとでも思っていたようで、レイリィンの返答に驚く。そんなヤンフィに、レイリィンはさして気にした風もなく、すかさず眼鏡を外して手渡してくる。
「……ほぉ? 偽物、ではないようじゃのぅ?」
「勿論だよ。それは、ボクがウィズ様から貰った大切な眼鏡で間違いないよ?」
「大切、と云う割には、すぐに引き渡すのじゃな? 何か思惑でもあるのかのぅ?」
眼鏡を掛けたヤンフィが、レイリィンを訝しげに睨み付ける。視界には何やら不思議な文字が浮かび上がっていた。直感的にそれが鑑定の結果であることは理解出来たが、煌夜には読めない文字だ。
「思惑? そんなのはないよ。だってソレ、譲るのであって捨てるわけじゃないからね。それにボクは同行するんだよ? 別にいつでも取り返そうと思えば取り返せるし」
「不遜じゃのぅ。妾からこれが、いつでも奪い返せると?」
「――まぁ、奪い返すだけなら、そう難しくはないからね」
強気のヤンフィに、当たり前でしょ、とばかりにキョトンと返す。その態度には、確実に実行できる自信が滲んでいた。
「ふむ。まぁ、好かろう。それでは、今度こそ交渉は成立じゃ」
「あれ? それ以外に、魔道具は不要?」
「汝が他に何を保有しているか分からぬ。欲しいモノが出てきたら、その時に要求することにする」
「……強欲だなぁ」
ヤンフィはパンと手を叩くと、眼を細めてレイリィンを指差す。
「さて、そうと決まれば、サッサとシールレーヌに向かいたいのじゃが、汝はその格好で往くつもりか?」
「ん? そうだよ? なんで?」
「おい、レイリィン。あちしたちと一緒に行動するにゃら、獣化は解くにゃ。恥ずかしいにゃ」
首を傾げているレイリィンにタニアが呆れた顔を向けている。確かに、そのままで同行されると非常に目立つだろう。
煌夜は少なくとも、この世界に来てから一度も、完全な獣姿で歩いている人間を見たことはない。
「人化……するの? したくないんだけど……」
「出来ぬならば、妾たちと同行はさせぬぞ? 獣臭いのは嫌じゃ」
レイリィンは耳をペタリと下げて気落ちした風だった。
(なぁ、ヤンフィ。人化って、人間の姿になること、だよな?)
(そうじゃ。此奴はあえて、獣化しておる。理由は知らんがのぅ)
(……なんで嫌がってんの?)
煌夜が内心でヤンフィに質問したが、知らん、と一蹴された。そんな無言のやり取りを横目に、レイリィンは深い溜息を漏らした。
「……タニア様……人化、したくないんだけど……しないと駄目」
「当たり前のこと聞くにゃ――出来にゃいのか?」
タニアが不敵な笑みで挑発する。すると、巨大な黒ウサギの体躯が魔力を放ち、球体状の膜に包まれる。魔力の球体は緑色の輝きを放ちながら、ゆっくりと収縮した。
そう時間は掛からず、球体は人型に形状変化して、次の瞬間、パッと霧散する。
光が消えたそこには、1メートル50センチ程度の身長に、ウサミミを携えた全裸の美少女が立っていた。それがレイリィンの人化した姿らしい。
レイリィンは少し幼い印象をした童顔だが、明らかに美少女と断言出来る美貌だった。見事なまでに漆黒な長髪を背中に流しており、紅玉を思わせる鮮烈な赤眼で、額には小さな角を生やしていた。まだ成長途中を思わせる幼いルックスではあるが、子供と一蹴できるほど未熟な体型ではない。
そんな裸体を惜しげもなく晒して、レイリィンは恥ずかし気もなく立っていた。
「……疾く服を着ろ」
堂々としているレイリィンに、ヤンフィが呆れた声をあげる。途端、レイリィンがその美貌を歪めて、心底嫌そうな顔で目を細めた。
「ボク……服なんて持ってないよ?」
「タニアよ。汝の服を貸してやれ……見苦しい」
「――街で買った方が良いと思うにゃ。あちしの服じゃ、色々と足りてなさすぎるにゃ」
煌夜の視界にレイリィンの裸が映らないよう、ヤンフィはクルリと背中を向ける。タニアはレイリィンを頭の上からつま先まで眺めて、全然ダメにゃ、と首を振っている。
とはいえ、流石に何も渡さない訳にはいかないと、大きめのローブを取り出して、それを渡していた。
「獣族が人化するのを初めて見たが、こういう感じなんだな――とりあえず、服を買ってからシールレーヌに向かう段取りで良いか、ヤンフィ様?」
マユミがまとめるようにそう宣言して、ヤンフィは強く頷いた。