第九十話 待ち望んだ、最悪の展開
マユミの案内に従って、煌夜はディドと並んで通りを進んで行く。その後ろをヤンフィが軽やかな足取りで付いてくる。
人通りはまばらだが、向かう先が賑やかなのは周囲の喧騒から判断出来た。
「……おい、マユミよ。そう云えば汝は、雷帝ダーダム・イグディエルと直接の面識なぞは、あるのかのぅ?」
「ん? 雷帝と、か? ない――という回答が正確だな。互いに顔は知っているが、それは遠巻きに眺める程度で、言葉を交わしたことはおろか、対峙したことはない」
ふとヤンフィが歩きながら問い掛けた。それにマユミは振り向かずに答えながら、あ、と何やら思い出したように口を開いた。
「嗚呼、ただし――互いの能力や特徴は把握してるな。私も雷帝の能力を知っているし、雷帝も私の実力、装備も含めて知っているぞ? だから恐らく、私が一番警戒されるだろ」
愉しそうな笑みを浮かべたマユミは、通りの角を曲がって小高い丘に続く道を進んで行く。途端、人通りが少なくなって、喧騒が遠のいた。
こっちで道は合っているのか、と煌夜は首を傾げながらも、しかし迷わずに付いて行った。
「――ここが穴場なんだ。ここからなら、中央広場がよく見渡せるだろ?」
ほどなく辿り着いたのは、中央広場がちょうど見下ろせる位置にある高台だった。その場は、確かに言う通り穴場だ。見渡す限り、煌夜たち以外には誰もいない。しかも高台からは見える大パノラマは絶景でもあり、街中を広く見渡せた。
「うぉ――絶景ポイントだ」
「……マユミよ。彼奴、か?」
煌夜が手すりに身を乗り出して、広がる大パノラマの美しさに感嘆の吐息を漏らした時、ヤンフィが眉根を寄せた神妙な表情で呟いた。
「ヤン――っ!?」
「コウヤ様、お静かに――」
どうした、と煌夜がヤンフィに声を掛けようとした瞬間、傍らのディドが慌てた様子で正面に回り込んで、キスでもするほど顔を近付けてきた。口元は手で抑えられて、何かから隠すようにその場で押し倒される。
「おいおい――まさか、この距離でヤンフィ様を補足されるとは思わなかったな……そうだ。アレが、剣聖サーベルタイガーだ」
「…………想像、以上じゃのぅ。よもやこれほどとは思うてなかったわ」
マユミとヤンフィが困った顔でそんなことを話しながら、高台の手すりで仁王立ちする。どうやら見下ろした先に、剣聖サーベルタイガーが居たらしい。
だけど、どうして煌夜はディドに押し倒されたのか――それを問おうとした時、ディドが珍しくも怯えた顔を浮かべながら、手を引いて助け起こしてくれる。
「……申し訳ありませんわ。ただの威嚇とは承知しておりましたけれど、あまりの恐怖に……咄嗟だったので、押し倒すような形になってしまって……」
「いや、良いんだけど……え? 何、どゆことさ?」
煌夜は膝立ちでディドの弁明をキョトンとして聞きながら、背を向けているヤンフィとマユミに問い掛ける。
立ち上がろうとすると、どうしてか身を屈めたディドに肩を抑えられて、立ち上がれない。
「――いま、ここから見下ろせる中央広場に、雷帝ダーダム・イグディエルと、剣聖サーベルタイガーが居る。剣聖サーベルタイガーは、簡易的に設置された演説台のうえで何やら演説をしておるが――妾たちをしっかり捕捉しておる」
ヤンフィは背を向けたままで、重苦しい声音で説明してくれた。
煌夜はさきほど一瞬だけ見渡した景色を思い返して、中央広場の奥に仮設ステージみたいな演説台があったな、と頷く。そういえば、そこで堂々と立っていた茶髪の騎士装束の青年が、煌夜に鋭い視線を向けていた気がしたのも思い出す。
米粒みたいな大きさだったが、ヤンフィのおかげで視力が強化されているので、煌夜自身に向けられた視線ならば識別できた。
バッチリ目が合ったと思ったのは、気のせいではなかったということか――だけどそう考えると、相手の視力もかなり良いということになる。ちなみにその青年は、隻眼で左目に痛々しい刀傷があった。立ち姿は威風堂々と、白いマントをたなびかせた姿は英雄然としていた。
「……えと、捕捉されてるってのは、悪い状況ってこと?」
「さあ、のぅ? 凄まじく強烈な怒気を放っておる一方で、妾たちを今すぐどうこうするつもりもなさそうじゃが……」
「――ここから中央広場まで、距離にして300メートル前後だ。剣聖が本気を出せば、余裕で攻撃が届く範囲だ。しかもその気になれば、数秒もあればここまで来れるだろうな」
「なるほど、のぅ」
ヤンフィとマユミが神妙な声でそんな会話をしている。そのやり取りは少しも穏やかではない。
「……なぁ、質問なんだけど……俺って、顔出したらマズイのか?」
煌夜を立ち上がらせないようにするディドと、姿を隠すように正面で立ちはだかるヤンフィとマユミ、その構図に対して、首を傾げる。
すると、しばしの沈黙が流れてから、ヤンフィが振り返った。
「――いや、別段、問題はなさそうじゃ。とはいえ、ディドよ。妾が合図をしたら、躊躇なくコウヤを連れて【次元跳躍】を使用せよ。彼奴は【竜眼】を覚醒させておる。一瞬でも竜眼に囚われてしまえば、術式を打ち消されて、跳躍できなくなるからのぅ」
「ええ、かしこまりましたわ――コウヤ様、失礼いたします」
「あ、ああ……って、え? そんな危険なの?」
煌夜の腕を引いて、ディドは横並びに手すりのところで街を見下ろした。視界には、街を一望する大パノラマが広がるが、二人の視線の先は中央広場の演説台だった。
演説台では剣聖サーベルタイガーが、集まった聴衆に対して、何やら呼び掛けている。しかし、流石に距離があり過ぎるので、何を喋っているのかまでは聞き取れない。
そんな剣聖サーベルタイガーの少し後ろには、眩しいくらいに美しい白銀の長髪をした魔術師が控えている。遠目から眺めているだけでも、その魔術師が凄まじい風格であることは分かった。
その魔術師こそが、雷帝ダーダム・イグディエルこと、天族バルバトロスだと理解出来る。
「――おいおい、コウヤ、お前さ。剣聖に何かしたのか? 私や、ヤンフィ様には注意すら向けず、さっきから本気の怒りを飛ばしてきてるけど……どこかで恨みでも買ったか?」
「恨みとか、そんな覚えないよ……ってか、本気の怒りって、どうしてさ?」
「コウヤ様。ワタクシにしっかり掴まっていてくださいませ」
マユミの不穏当な台詞に戦々恐々としつつ、縋りつくような勢いで組まれたディドの腕と胸の感触に少しだけ照れていた。
そんな煌夜の傍らで、ヤンフィが疲れたような溜息を漏らす。
「……対策を立てる必要があるやも知れぬ。妖精族のキリアもそうじゃったが、妾としたことが、人族を甘く見過ぎておった……今日はもう、大人しく宿屋に戻るのが吉かも知れぬのぅ」
あの強気のヤンフィをしてそこまで言わしめるほど、剣聖サーベルタイガーは危険人物のようだった。煌夜はその台詞を耳にして、信じられない、とばかりに驚愕する。
「お――雷帝に代わったな」
ふとその時、潮騒のような歓声が風に乗って聞こえてきた。
見れば、演説台には剣聖サーベルタイガーではなく、白銀長髪の魔術師――雷帝ダーダム・イグディエルが立っていた。
雷帝ダーダム・イグディエルは何やら杖を掲げて、声高に聴衆へ何かを訴えかけているようだった。それがどんな内容かは分からないが、その声掛けに対して、いっそう大きな歓声が返ってきていた。
「雷帝は……確かに、それなりに強力そうじゃが、タニア単独でも勝てるのぅ……やはり問題があるとすれば、剣聖サーベルタイガーじゃのぅ?」
「ヤンフィ様にそこまで言わせるのは、相性の問題か? それとも、本当にそれほど強いのか? 私の勝手な推測だと、ヤンフィ様よりほんの少し格下の気がするのだが?」
「相性の問題じゃよ――妾が何よりも警戒しておるのは、彼奴の【竜眼】じゃからのぅ」
遠目で中央広場を眺めながら、先ほどまでの緊張感はどこへやら、ヤンフィとマユミは軽い調子でそんな会話をしている。ディドも警戒を少し緩めていた。
「バルバトロスの演説が終わりましたら、宿屋に戻りましょう? 宜しいかしら、ヤンフィ様?」
ディドがそんな提案をしてくる。それに頷きつつ、ヤンフィはチラと剣聖サーベルタイガーの位置を確認していた。
演説台から下りた剣聖サーベルタイガーは、背後で整列している騎士たちの先頭で控えて、ジッと歓声を上げる聴衆たちを見守っていた。
「うむ。妾が知りたかったことは充分に知れた。好奇心でこれ以上、竜の逆鱗に触れるような真似はしたくはないからのぅ。彼奴らが解散したのを観てから、宿屋に戻ることにしよ――」
ヤンフィがそう告げようとした瞬間、周囲の空気が明らかに重くなり、体感で数度以上も気温が下がった気がした。ピシリと空気が凍り付いたような音まで聞こえて、煌夜以外の全員が顔を強張らせた。
「――ディド! コウヤを連れて、いますぐ逃げよ!!」
「も、申し訳、ありませんわ――っ!! 異能が、使えないかしら……」
すかさずヤンフィが叫ぶが、ディドは悲痛そうな声で首を横に振った。同時に、その場でガクンと膝が砕けたようにへたり込んだ。煌夜の腕に、ディドの軽い体重が圧し掛かる。
「フフフフ……まさか、まさか、だ。剣聖がわざわざお越しくださるとは、な」
一方で、すかさずマユミが高台を背に煌夜の前に進み出て、全身から強烈な闘気を放ちながら、妖刀マガツヒを構えていた。戦闘準備万端とばかりに、腰を落としていまにも走り出しそうな姿勢だ。
しかし正面にはまだ誰も居ない。高台へと続く幅広い階段状の道には、誰の姿も見えなかった。
見下ろす道は周囲に遮蔽物がなく、見通しが良いので、人が上ってくれば見落とすはずがない。
「な、なにが起きてるんだよ? なぁ、ヤンフィ。何が――」
「――広範囲の結界も張られたようじゃ。妾たちの居るこの場を中心に、半径100メートル前後の空間が隔絶されたようじゃ……覚醒した【竜眼】の異能、竜王領域、かのぅ?」
「…………は? え? なに、どゆこと?」
ヤンフィが冷や汗を流しながら、スッと煌夜を庇って前に出る。
マユミが最前列で戦闘準備万端、その少し後ろをヤンフィが立ちはだかり、煌夜とディドは揃って手すりを背に、腰砕けといった構図でしばしの間身構えていた。
果たして、ようやく正面から一人の青年が悠然と現れた。
「――やはり見間違いじゃなかったか……魔術の類で変装している訳でもない、か。おい【剣仙】マユミ・ヨウリュウ。任務はどうした?」
青年は茶髪に隻眼、白いマントをはためかせた騎士で、先ほどまで遠目に眺めていた剣聖サーベルタイガーで間違いなかった。
その青年の威容を目の当たりにして、煌夜は慌てて中央広場を振り返る。
中央広場の奥、整列している騎士たちの先頭には、しかし同じ姿をした隻眼の青年が立っていた。
「……アレは、幻影魔術、じゃ。妾としたことが、油断したわ」
同一人物が二人、と驚いた瞬間に、ヤンフィが小声で正解を口にした。その発言を耳聡く拾って、正面から高台に姿を現した剣聖サーベルタイガーは強く頷いた。
「当然、剣聖に言われた任務は、遂行したさ。その過程で、面白いメンバーに出逢えてね。いまこうして、故郷に凱旋したのさ――剣聖におかれましては、こんなところまでどうしたのですか?」
「おい、そこの天族。迂闊に動くなよ――容赦出来ないぞ」
剣聖サーベルタイガーは、無手のまま中段に構えた。すると、まるで手品のように音もなく、その手に光り輝く長剣を顕現させた。
「へぇ? 私も成長したな。初手から【聖剣エクスカリバー】を抜いてもらえるとは――」
「――魔王属を引き連れているようだが、お前は何者だ?」
マユミが不敵な笑みを浮かべて口元を歪ませた時、剣聖サーベルタイガーは視線を切って、ヤンフィに剣先を向けながら問うた。その隻眼が燃えるような朱い光を放っている。
ヤンフィは苦笑しながら、両手をダランと下げた姿勢で胸を張った。
「妾は魔王属ヤンフィ。そう云う汝こそ、何者じゃ?」
ヤンフィの発言と同時に、辺りの空気がいっそうおどろおどろしく変わり、息苦しい瘴気が周囲を支配し始める。瘴気に中てられたのか、足元に生える雑草が次々と枯れていた。
そんな威圧を正面から受けて、しかし剣聖サーベルタイガーは何も感じていないように、平然と口を開いた。
「魔王属のことは聞いてない――天族が縋りついているお前だ。人族だろ? 何者だ?」
剣聖サーベルタイガーはヤンフィを向きながらも、どうやらその背後に居る煌夜に対して質問したようだった。剣先は動かさず、隻眼がいっそう鋭くなった。
煌夜は一瞬ビクッと怯えて、けれど努めて冷静な表情で、自分の胸を指差した。すると、剣聖サーベルタイガーはゆっくりと頷いた。
「あ、えと……俺は、その……人族、ってか……その……異世界から来た日本人で……」
「――――おい、ちょっと待て。お前、いま、何語を喋った?」
どう説明すべきか、どもりながらも煌夜が口を開けると、剣聖サーベルタイガーが隻眼を見開いて、全身から凄まじい魔力を放出させた。誰が見ても分かるほど、それは激怒の感情だった。
ギリギリ、と奥歯を噛む音が聞こえるほど、剣聖サーベルタイガーは感情を昂らせたまま、静かに質問を繰り返す。
「いま、お前は、何語を、喋った?」
「……あ、その……これは統一言語ってヤツで……」
「――何語を、喋ったかを聞いてるんだ!」
「あ、う? に、日本語?」
煌夜の言葉を遮って、まるで駄々っ子のように叫んだ剣聖サーベルタイガーの勢いに圧されて、つい分かる訳がないと素直に答える。
ところが、そんなやり取りを横で聞いていたヤンフィが、信じられないとばかりに驚愕の表情を浮かべている。
何か失敗したのか、と煌夜は恐怖を感じた。
「まさか――汝、いま、何語を口にしたのじゃ?」
「黙れ、魔王属……ああ、分かった。分かってる……そうか、そうか。OK。とりあえず、冷静に……落ち着いてやるよ」
ヤンフィが同じような意味不明の質問をするのを無視して、剣聖サーベルタイガーは深くゆっくりと息を吐いてから、中段に構えていた聖剣エクスカリバーを下ろした。
「――マユミ・ヨウリュウ。横槍は入れるなよ。俺は会話をしに来ただけだ」
「……フフフ……承知、した」
鋭い隻眼で一瞥されたマユミは、ただそれだけで一歩たじろいでいた。
マユミが威圧で気圧されるなんて、ヤンフィ以外では初めてだろう。つまりそのやり取りだけ見ても、剣聖サーベルタイガーの実力は、ヤンフィに引けを取らないことが分かる。
「……おい、お前。名前は?」
「あ、え? お、俺? 俺は、天見煌夜だ。その……この異世界のどこかに居る弟妹を捜して、旅をしてるんだけど……」
凄まじい威圧を放つ割に、剣聖サーベルタイガーからは敵意を感じなかった。だからだろう。煌夜は素直に名前を名乗って、ついでに事情を簡単に口にする。
けれど、それを口にした刹那、情緒不安定なのか、と心配になるほど、突如として剣聖サーベルタイガーはいっそう激怒した。
その全身から吹き荒ぶほどの魔力波動が噴出して、地面があまりの魔力密度に圧し潰された。剣聖サーベルタイガーが立つその場所だけ、重力が何十倍にもなっているかのようだ。半径5メートルの円状に、クレーターが穿たれた。
「へへ……そうか、そうか……なるほどね……サラの神託は……これを示してたのか……」
「――ん? サラ? え? いま、何て?」
「……コウヤ。お前、不老の異能でも授かったのか? それとも、その子供みたいな魔王属と契約して、成長を止めたのか?」
怒りを抑えつつも、苛立ちが滲んだ声音で、剣聖サーベルタイガーはやたらと馴れ馴れしく問い掛けてくる。それにキョトンとしながらも、煌夜は『サラの神託』という単語に反応していた。
「なぁ、サラ、って、月ヶ瀬サラのこと――」
「――チッ。変わってねぇな」
がっつくように一歩前に出た煌夜に、忌々し気な舌打ちが返される。
そして次の瞬間、あまりにも自然な流れる動作で、剣聖サーベルタイガーがマユミを通り過ぎて、ヤンフィの真横に踏み込んでいた。
「――何っ!?」
「動くなよ、魔王属――この距離なら、俺の方が圧倒的に疾い」
驚愕するヤンフィの首筋には、剣聖サーベルタイガーの剣が当てられていた。煌夜とは三歩程度の距離で、向かい合った状態になっていた。
剣聖サーベルタイガーは煌夜よりも頭一つ分背が高いので、上から見下ろされる威圧感がある。隻眼がギラリと光を放つ。
「コウヤ――いまさら、どうして俺の前に現れた? リュウとサラじゃなくて、どうして俺に逢いに来たんだよ?」
「…………は?」
何が何やら、とキョトンとする煌夜に、ヤンフィが心痛そうな表情を浮かべた。
「コウヤよ……恐らく、彼奴は――」
「――黙ってろよ、魔王属。お前には関係ねぇだろ? なぁ、コウヤ。どうして今更、しかも、いまの俺の前に現れたんだよ?」
剣聖サーベルタイガーの威圧に、煌夜は頭が真っ白になっており、何一つ咀嚼出来ないでいた。反論が頭の中で巡っているが、それを口に出すことも出来なかった。
ヤンフィは状況を察しているが、迂闊に口に出せないでいるような雰囲気だ。その一方で、ディドとマユミは何一つ分かっていない様子で、成り行きを注視していた。
「……あ、え……俺は……コタを助けようと……探して、ここまで……」
「だから、どうしてそれが、いまなんだよ? 俺が……いや、俺ら――リュウとサラが、どれだけコウヤを待ってたか分かってるのか? って、それも今更だな」
「…………あ、え?」
煌夜の思考に一つの事実が浮かんでいた。だが、それを認めたくはなくて、呆けたように目をパチパチとさせる。
果たして、決定的なその事実は、ヤンフィの口から語られてしまった。
「――コウヤ。彼奴が、汝の捜しておった『ヤチコタロウ』じゃ。危惧していた可能性の一つが、的中しておったらしい。コウヤがこのテオゴニアに飛ばされたのは、童たちがやって来てから、だいぶ時間が経ってからだったのじゃろぅ」
ヤンフィの言葉に、剣聖サーベルタイガーが不愉快そうな表情を浮かべた。そして、改めて煌夜の全身を眺めてから、なるほど、と頷いた。
「――あれから、八年……いや、そろそろ九年になるか。俺らがこの世界に来てから、だいぶ時間が経ってるぜ? 俺らはもう、この世界での生活の方が、天見園の生活よりも長くなった。世界を救うなんて壮大なこともやってのけたし、薄汚ねぇ大人の世界も経験した。そんな怒涛の青春を過ごして、いまじゃ英雄扱いだ。何不自由なく過ごせるだけの地位も名誉も、実力も手に入れてる――それで? コウヤは一体、何しに来たんだって?」
「あ……え……本当に……コタ、なのか……?」
健康的な浅黒い肌、ガタイは煌夜よりもずっと大きくなっており、茶けた短髪はワイルド系イケメンを思わせる。けれど、その左目は刀傷で塞がれていて、傷は顎付近まで真っ直ぐと斬られていた。この刀傷のせいで、パッと見るとヤクザを思わせる強面だった。
昔の顔立ちからは、だいぶ変わっている。
注意深く見てようやく、面影が残っていると分かる程度だ。それほど、壮絶な人生を過ごしてきたことが見て取れた。
それは、苦労、などと言う単語では語り尽くせないだけの日々を過ごしてきたことを告げていた。纏っている空気が、明らかに歴戦の猛者だった。
煌夜は無意識に手を伸ばしていた。その無防備な手は、剣聖サーベルタイガーの肩に触れる。がっしりとして実体がある存在だ。
「コウヤがこの世界に来て、どれだけの日数を過ごしたかは知らねぇけど――その様子じゃあ、一年も過ごしてねぇんだろうなぁ……ま、それを非難することはしねぇよ。けどな。ただ信じて待つってのは、俺の性には合ってなかった――あー、そうだな……うーん……チッ。言いたいことが、腐るほどあったのに……いざ、ってなると、やっぱ上手くまとまんねぇや」
剣聖サーベルタイガーはガシガシと頭を掻きながら、流麗な剣捌きで、肩に触れている煌夜の右腕を肘から切断した。
「――――ッ!?」
「汝ッ――ぐぅ!?」
あまりにも自然な動作で切断されたので、痛みは最初感じなかった。
右腕が斬られた痛みがやってくるよりも先に、ヤンフィが叫びながら、細長い棒状の刀を顕現させていた。それは次元刀エウクレイデスである。
しかし、ヤンフィが刀を振るうより疾く、剣聖サーベルタイガーは見事な体捌きで後ろ回し蹴りを放っていた。側頭部を蹴り飛ばされて、ヤンフィは無様に吹っ飛んでいく。
「――俺は『谷地虎太朗』だ。だけど、この世界では、隻眼の天騎士『コタロウ』……もしくは、ゲオ・コウタって名前で生活してるぜ。ああ、そうそう……マユミ・ヨウリュウがそこに居るから知ってるかも知れねぇけど――剣神会って組織じゃ、剣聖の称号を持ってるし、世界蛇って組織じゃ、レベル5って大幹部【騎士王】とか言う役目も担ってるぜ? ちなみに剣聖と騎士王の称号の時は、サーベルタイガーって名前で活動もしてる。コウヤは、そうだな……俺のことを、コタって呼んでもいいぜ」
トントン、と軽やかなバックステップをして、腕を失って膝を突いた煌夜と距離を取る。
煌夜はいきなり腕を切断されて、しかもあっけらかんと自己紹介されて、何が何やらと完全に思考停止していた。
「――おっと、マユミ・ヨウリュウ。もう一度言うぞ? 横槍を入れるな。これは俺とコウヤ……天見煌夜の問題だ」
「――――ッ」
言い慣れていた『コウヤ』という名称から、わざわざフルネームの『天見煌夜』と言い直して、虎太朗は鋭い威圧をマユミに向ける。
マユミは一瞬だけ踏み込もうとして、その出鼻を挫かれたか、脚を止めて硬直する。
「この――ディド! 呆けておらんで、逃げよ!」
「無駄だよ――俺の竜眼が全てを打ち消す」
吹っ飛んだヤンフィが、素早く次元刀エウクレイデスを振るった。刹那、煌夜の腕が時空魔術で発生した空間の断裂に呑み込まれた。それに一瞬遅れて、煌夜とディドの身体も包まれる。
けれど煌夜とディドの身体が黒い靄に包まれた瞬間、虎太朗の隻眼が赤く光って、魔術はあっけなく打ち消された。
「クソが!! 七星剣――――ぁ、っ!?」
「魔王属。お前が、天見煌夜の使い魔か、護衛か――どんな関係かは知らねえし、興味もねぇ。だが、俺と闘う気だったら、悪いが容赦しねぇぞ? いまこの竜王領域の中で、俺を出し抜ける能力なんて、何一つありゃしねぇ」
軽い調子で言いながら、虎太朗はヤンフィの眼前に踏み込んでいた。
一方、ヤンフィはそれを読んでいて、顕現させた七星剣をカウンターで振り下ろす。だが、そもそも七星剣は顕現されておらず、無手のまま虎太朗に腕を振るっていた。あまりにも無様な空振りである。
そんなヤンフィの左肩を、虎太朗の振るう聖剣エクスカリバーが刎ね飛ばした。傍から見ると、即死レベルの致命傷だ。
「はぁ……まったく、虚しいぜ……なぁ、コウヤ――いや、天見煌夜。俺はもうこれで、お前との縁を断ち切るぜ。ずっと心残りだったんだ。天見煌夜がいつ現れるのか……どんな顔して、俺の前に姿を現すのか……想像以上に、最悪のタイミングでの再会だ」
「……ぐぅ、ぁ……な、なんで、だよ、コタ……俺は別に……敵じゃないぞ……」
「知ってるよ。それに、仮に敵になっても、その戦力じゃ俺には勝てないだろ? どっちにしろ、もう敵とか味方とか、んなの関係ねぇんだよ――俺は俺で、過去の繋がりを終わらせたかったんだ」
ドバドバと出血が始まり、激痛が襲い掛かってくるのを堪えて、煌夜は縋るような視線を虎太朗に向ける。けれど、虎太朗は酷く冷めた隻眼で見下して、短く鼻で笑った。
「ちなみに、俺も『天見煌夜』って人間を、ずっと探してたんだぜ……けど、まさか世界中に情報網を持つ俺よりも先に、異世界初心者のコウヤが先に俺を見つけ出せるなんざ、想定外だったけどな……ま、リュウたちより先に発見出来て良かった――」
虎太朗は言いながら、冷酷な表情のままで、一歩煌夜に踏み込んだ。
放たれている威圧は、ヤンフィの本気と同格レベルだ。無意識に煌夜の身体が恐怖で震える。
「――殺しゃしねぇ。これはただの八つ当たりだし、理不尽な押し付けでもある。ついでに言えば、これで俺はもう、谷地虎太朗って名前を捨てる覚悟が出来た」
スッと聖剣エクスカリバーが横に振られる。それは光り輝く軌跡を描き、煌夜の左腕が音もなく刎ね飛ばされた。
煌夜は両腕を失って、無様にバタンと倒れ伏す。
「――――刺し違えてでも、時間を稼ぎますかしら!」
煌夜が血塗れで倒れた瞬間、金縛りに遭ったように硬直していたディドが動いた。
ディドはその全身を黄金色に輝かせて、金色の豪奢なドレス姿になっていた。右腕には白銀の籠手、左腕には神気を放つ長弓を持ち、目にも留まらぬ神速で光の矢を連射した。
「ディド、止めろッ!! 無駄じゃ!!」
そんなディドに水を差すように、ヤンフィの鋭い制止が飛ぶ。けれど、今更遅すぎる。ディドは渾身の突撃と共に、驟雨の如き光の矢を虎太朗へとぶつける。
「女を殺すのも趣味じゃねぇ。けど、殺意を向けられて、手加減出来るほど器用でもねぇ――死んでも恨まないでくれよ」
虎太朗は余裕の表情をして、聖剣エクスカリバーを大上段に構え――振り下ろす。その一撃は、見えているのに反応出来ない類の振り下ろしだった。
「あ――――ぁ」
「光陣斬――って、やり過ぎたか?」
ディドは光の驟雨ごと、より強大な光の斬撃に呑み込まれて、一瞬で弾き飛ばされた。光の斬撃は地面を大きく切り裂いて、手すりごと高台の地形を変形させる。
吹っ飛んだディドは、高台からどこかに飛ばされて、あっという間に姿が見えなくなった。
「……なあ、剣聖。今日は、何しに、来たんだっけ?」
「ああ? 会話だよ、会話。だから、これ以上は何もしねぇ――お前らが抵抗しなければ、な」
光の斬撃はすぐさま霧散して、辺りにはもうもうと粉塵が舞い上がっていた。虎太朗の周囲はクレーター状態で、そこから地面に亀裂が走り、手すりは壊れて崖になっている。
一瞬にして、この高台は悲惨な戦闘の跡地になっていた。
血の海に沈む両腕を失った煌夜と、その傍に這いつくばっている片腕のヤンフィ、その二人を遠巻きに眺めるマユミという状況である。
三人を隻眼で一瞥して、しかし何一つ油断なく、虎太朗は聖剣エクスカリバーをどこかに消した。無手なのに、攻め入る隙は微塵もなかった。
「さて、と――じゃあ、俺はもう行くか。あ、そうそう。おい、マユミ・ヨウリュウ。コウヤ……じゃなくて、天見煌夜に伝えておけ。次、俺に逢いに来たら容赦出来ない。いまの俺は、もう天見煌夜が知ってるクソガキじゃねぇ。いまの俺は、望む未来を手に入れる為に、あらゆるしがらみを捨てた悪鬼羅刹だ」
虎太朗はそれだけ一方的に呟くと、マユミの返事は待たずに踵を返した。
「あ、それと――俺の邪魔をするようなら容赦しないからな? 出来れば、サッサとこのオーラドーンから出てってくれるとありがたい」
軽い口調でそう言って、虎太朗はそのまま高台を去って行った。状況は、爆弾でも落とされたのかと疑わしくなるほどの被害状況である。
ふと見れば、中央広場で行われていた雷帝ダーダム・イグディエルの演説はとっくに終わっており、集まっていた聴衆はパラパラと解散していた。整列していた騎士たちも既に姿を消しており、簡易設営された演説台を解体する職人だけが忙しそうに働いている。
それを横目にしていると、空気がフッと軽くなった。
マユミは緊張を解くように、ふぅ、と溜息を漏らす。一方でヤンフィは、苦し気な呻き声を上げたかと思うと、吹っ飛んでいた左腕を一瞬にして再生させていた。
「――へぇ? ヤンフィ様は、治癒魔術も使えるのか?」
「マユミよ。コウヤの容態が想像以上に深刻じゃ……汝の知り合いに、セレナと同程度に優秀な治癒術師は居らぬか? それもいま直ぐに、何とかして欲しい」
「……治癒術師? あー、まあ、金さえ払えば誰だろうと治癒する凄腕の術師が居る。けど、セレナほど、と言われても、生憎、私はセレナの治癒の腕を知らん」
煌夜の身体をペタペタと触りながら、ヤンフィは慌てた様子でマユミに懇願していた。その必死さを前に、マユミは少し面食らっていた。
ところで煌夜は、気絶こそしていなかったが、虎太朗とのやり取りで完全に思考停止状態だった。
両腕を失った激痛程度では正気には戻れず、あまりに予想外な事実、現実に、心の方が追い付いていなかった。
「チッ――聖級の治癒魔術が行使できれば充分じゃ」
煌夜の腕からの出血はまだまだ続いている。このままでは、そう時間が掛からぬうちに失血死するだろう。実際、煌夜は既に貧血で顔面が真っ青になっている。
ヤンフィは叫びながら、腫物を扱うように慎重に煌夜の身体を魔力で包み込む。そして、次元刀エウクレイデスを今一度顕現させて、周囲の空間ごと抉り取る勢いで振るった。
「聖級? いやいや……流石に、そんな上等な治癒術師には心当たりがない。だがまあ、これから案内する治癒術師も、上級の『癒しの風』くらいは行使出来るから、吹っ飛んだ腕の状況によってはくっ付くかも知れんな」
「――御託は好い。急ぎ、案内せよ」
ヤンフィの強烈な威圧に、マユミが肩を竦めながら頷いた。
「ディドはどうするんだ? 死んじゃいないだろうが、たぶん重傷だぞ?」
「死んでさえいなければ、どうとでもなる。いまはそれよりも、コウヤの命が優先じゃ――それにしても、久方ぶりに妾も死を覚悟したわ……よもやコウヤの弟があれほど強いとは、のぅ」
「……なあ、それなんだが……どういうことだ? 私は途中から剣聖の喋っている言葉が分からなかったから、何を喋っていたか理解出来なかった……コウヤが『コタ』とか言っていたし、ヤンフィ様も剣聖を『ヤチコタロウ』とか言ってたが……」
「詳しい説明は後じゃ――サッサと案内せよ」
マユミの疑問に、ヤンフィは被せ気味で断言した。
はいはい、とおざなりに返事をしながら、マユミは周囲を警戒しつつ高台を降りて行く。それを横目に、煌夜は頭が真っ白になって意識を失った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ヤンフィは次元刀エウクレイデスの力を使い、煌夜の体内時間を停止させた。停止させなければ、五分と経たずに失血死するだろう。それほどの重傷、いや、致命傷である。
だが、それでも即死ではない。それは救いであり、これ以上ないほどの僥倖である。
(……最悪、妾がまたコウヤと同化しなければならぬのぅ……手遅れにならなければ好いが……)
ヤンフィは内心の焦りをおくびにも出さず、煌夜を無銘目録に隠して、マユミに案内を急かした。
「――なぁ、ところでヤンフィ様。果たして、剣聖は私たちの敵、なのか? どうして突然、コウヤを攻撃したんだ?」
足を止めずに、マユミがチラとヤンフィを振り返りながら問い掛ける。それに対して、いまこの場で答える必要を感じなかったヤンフィは沈黙で返した。
マユミは無視されても特に気にせず、苦笑だけ浮かべて早足で道を急ぐ。
それにしても、まさかこうなるとは――珍しくもヤンフィは思考に没頭する。
確かに可能性の一つとして、煌夜とその弟妹が異なる時期に転移してきたであろうことは懸念していた。それが少なくとも、数日ではなく数年単位である可能性も、あり得るとは考えていた。
だがしかし、九年もの月日が経過しており、しかもあそこまでの強者になっているのは想定外過ぎた。
(そもそもじゃ……たかだか九歳前後の童が、言葉さえ分からぬこの世界で、何年も生き延びることなぞ出来ぬと思うておった……生きておると判明した時点で、別の場所に転移しただけじゃろぅ、とも勝手に考えておったわ……)
ヤンフィは静かに反省していた。こんな展開になるなぞ、誰も予想だに出来なかった。
しかしそれとは別に、煌夜の希望とはいえ、安易に帝都オーラドーンへと赴いてしまったことが失敗だった。虎太朗が生きていることはもう分かっていたのだから、少し慎重に行動すべきだった。
「――ヤンフィ様。到着したぞ。ここだ」
ふと顔を上げると、今にも潰れそうな古民家の前でマユミが立ち止まっていた。
「……こんな場所に、治癒術師が居るのか?」
「ああ。設備は汚いが、腕はかなり良いぞ?」
マユミはドヤ顔をしながら扉を開ける。付き従ってヤンフィも中に入る。
「いらっしゃ――おっと、これはこれは剣仙様ではないですか。本日は儂なんぞに、いったい何の御用でしょうか?」
古民家の中は、入ってすぐにベッドが置かれたリビングがあり、そこに白髪の老婆が居た。老婆はマユミを見た瞬間、委縮した様子で居住まいを正していた。
そんな老婆に、マユミはヤンフィを指差した。
「急ぎ治療をして欲しい――ヤンフィ様、コウヤを」
「……うむ。ベッドに寝かせるぞ?」
マユミがヤンフィを様付けしたのを見て、老婆は慌てて頭を下げた。だがそんな礼儀など、一刻を争ういまは気にしていない。
ヤンフィはベッドに両腕のない煌夜を寝かせた。併せて、血塗れになった右腕と左腕を置いた。すぐさまベッドが血で染まる。
「えっ――こ、この方、は……?」
「誰でも好かろう。汝には関係ない――サッサと治せ」
「は、はい――え、えと……これは……何がどうなって……まさか、時間が止まっているのですか?」
老婆は煌夜の惨状を見て、途端に顔面を真っ青にさせる。恐る恐ると切断された腕に触れると、ビクッと手を引っ込めていっそう恐怖していた。
「そうじゃ。出血を止める為に、時空魔術で一時的に停止しておる。じゃが、治癒魔術は問題なく重ね掛け出来る――疾くせよ」
「ヒッ!? は、はい……それでは、失礼――『癒しの風よ』」
ヤンフィが鋭い殺気を老婆にぶつけると、慌てて煌夜の心臓付近に手を当てて、治癒魔術を行使し始める。傷口が淡い光を放ち、緩やかに再生されていく。
けれどその出力は、どう見てもセレナの足元にも及ばないレベルだった。
確かに応急手当としては充分だろう。この治癒魔術のおかげで、最低限、煌夜の命だけは保証されたと云える。それが分かって、ヤンフィは静かに安堵した。
しかし一方で、この老婆では煌夜を五体満足に戻せないことも理解出来てしまった。欠損した部位を回復することはおろか、切断された腕を繋ぎ止めることさえ出来そうにない。
「……念のため訊いておくが、腕を繋ぐことは出来ぬのか?」
「はぁ!? 出来るわけが――あ、いや、申し訳ありませんが、それは儂の腕では、不可能です。欠損部位の回復は、聖級の範疇です。儂には到底出来ません……」
「ふむ……まぁ、そうじゃろぅな」
老婆は仰天した顔でヤンフィに反論しようとして、その重苦しい剣幕に言葉を訂正した。
横に居るマユミは呆れた顔でヤンフィを眺める。この場の全員、誰もがそんなこと出来る訳がないと理解している。
(――こんな時にセレナが居らぬと云うのは、やはり判断を誤ったわ)
ヤンフィの後悔は口には出さなかったが、落胆は誰の目にも明らかだった。
そんなヤンフィが放つ空気は、室内を息苦しく重々しい雰囲気に変える。マユミはひどく居心地悪そうに、老婆に至っては治癒をしながらしきりに冷や汗を流していた。
煌夜が治癒される光景をジッと眺めながら、ヤンフィは頭を悩ませる。
このまま両腕を失くしたままで、意識を取り戻させるべきか、否か――とはいえ、即死の危険性を回避した今、煌夜の意思を確認せずに同化することは出来ない。それが主従の契約である。
「……ふぅ……はぁ、くっ……」
老婆が苦し気な声を漏らす。見れば、老婆の魔力と体力がどんどん消費されるのと反比例して、煌夜はだいぶ血色が良くなっていた。切断された腕の部位も、まるで長年そうであったかのように塞がっているし、見て分かるほど体力が回復していっている。
「のぅ、マユミよ。この国で最高位の治癒術師はどこに居る?」
老婆の手際は決して悪くはない。だがヤンフィが望むレベルではない。
マユミは難しい顔をしながら、首を横に振った。老婆を指差して断言した。
「ヤンフィ様。生憎だが、このドミナントが、帝都オーラドーンで最高位の治癒術師だ。これ以上の治癒術師はそもそも知らんし、少なくとも、この国には居ない」
「……そう、か」
ヤンフィは沈んだ顔で頷いて、次元刀エウクレイデスで停止させていた煌夜の体内時間を動かす。途端に、治癒魔術の効きがより強くなり、煌夜は息を吹き返す勢いで、呼吸が安定し始めた。
「なぁ、ドミナント。お前の知る範疇で、欠損部位を回復出来るレベルの治癒術師は居るか? 居るなら紹介して欲しいが……」
「剣仙様、申し訳ありませんが……そもそも聖級の治癒術師は、テオゴニア大陸全土でも稀有です。少なくとも分かっている中では、今代の【聖女】スゥ・レーラ・ファーが、かろうじて聖級に達してたかと……あと確実なのは、聖堂教会の【大教皇】ティフェ・ラジエル、ぐらいかと……」
「聖堂教会――本部か? そうなると、王都セイクリッド……遠いな」
老婆は治癒を続けながらマユミの質問に答えていた。しかしその二人のうち、今代の【聖女】スゥ・レーラ・ファーは、残念ながらヒールロンドの街で死んでいる。
「……のぅ、マユミよ。王都セイクリッドとは、どこにあるのじゃ?」
ヤンフィはマユミに首を傾げた。この状況になってしまったからには、次の目的は、煌夜の身体を癒すことが最優先である。
「だいぶ西に移動する必要があるな。飛竜と魔動列車を乗り継いで……そうだな。オーラドーンからだと、最短でも七日から十日ほどか? ここからアベリンに戻る方が、まだ早いだろうな」
チッ、とヤンフィは露骨に舌打ちをした。一刻も早く治癒したいのに、そんなに移動で時間が取られるのか――と、苛立ちを露わにする。
時間が経てば経つほど、欠損した部位を回復するには、高度な治癒技術が必要になる。たとえ聖級【過剰再生】を行使したとしても、欠損したことを魂が覚えてしまうと、元通りに治すことが出来なくなる場合もある。
(竜眼を使われておるからのぅ……最悪、魂が傷付いてしまえば、冠級の治癒魔術が必要になるかも知れぬ……厄介じゃのぅ)
ヤンフィがそんなことを内心考えていると、老婆――ドミナントが、その場に腰を下ろした。
どうやら治癒が終わったようだ。ついでにドミナントは魔力切れになっていた。だが、しっかりと仕事だけは果たしていた。
煌夜に視線を向ければ、両腕こそ欠損したままだが、顔色は健康的で、寝息も落ち着いている。気絶しているだけのようだ。
念のために全身をくまなく眺めるが、魔力の流れも、内蔵にも異常はない。生活する分には全く問題はないだろう――両腕がないことを良しとすれば、だが。
「これで、とりあえず儂が出来ることは、終わりました……報酬は、どちらに請求すれば、よろしいのでしょうか?」
「ん? ああ、私が支払うさ――それで? コウヤはもう動かして大丈夫なのか? それとも何日か安静にしておく必要があるか?」
「……意識が戻り次第、動いて大丈夫です。ところで……この、切断された腕はどうなさいますか?」
ドミナントが血塗れの腕に視線を向けながら、ヤンフィ、マユミと順に顔を向ける。マユミは肩を竦めながらヤンフィを見た。
ヤンフィは、両腕を瞬時に氷漬けにしてから、再び【無銘目録】に収納する。そして、眠っている煌夜の身体を掴むと、重さを感じさせぬ所作で肩に担いだ。
「――宿屋に戻るぞ、マユミ。タニアが合流次第、目的地を変更しなければならぬ」
「嗚呼、了解。それじゃ、ドミナント。今回の支払いは、剣神会に私の名前で請求しておいてくれ」
ドミナントは、かしこまりました、と頭を下げていた。それを横目に、ヤンフィとマユミは煌夜を担いで古民家を後にする。
すると古民家の前には、宿屋で待機しているはずの神種――394が浅黒い肌をした青年の姿で立っていた。
「――おい、亜種。コタロウヤチに逢いに行くなら、なぜ、ボクを連れて行かなかったのです? 約束と違うでしょ?」
能面じみた顔に不機嫌を張り付けて、394は強気にヤンフィを睨み付けていた。そんな394を前に、ヤンフィは深く溜息を漏らす。
いまの心境は、とてもじゃないが394なぞを相手にしている余裕がない。そもそもこの状況でなかったとしても、煌夜が止めなければ最初から協力する気さえなかったのだ。
「――――」
「おい、亜種!? ボクを無視しないでよ! ボクを『コタロウヤチ』の前まで案内してよ!」
ヤンフィは応える気も起きずに、394の脇を素通りしようとした。だがそれを許さず、394は最悪なことに、担いでいる煌夜の足首を掴み、強引に引き留める。
その様を見て、あらら、とマユミが肩を竦めて、一歩遠ざかった。巻き込まれたくない、という心境がありありとその顔に浮かんでいた。
「……神種よ。妾はいま、すこぶる機嫌が悪い……これは最後の警告じゃ。次に、汝の一方的な都合を口にした場合、魂を喰らうぞ」
ヤンフィが静かな怒りを口にして、スッと394を一瞥する。その一瞥は、圧倒的な魔力と瘴気を伴っており、睨まれただけで身体が硬直するほど強烈なものだった。
「――う!? あ、く……」
「今後の方針が変わった。妾たちはもはや『ヤチコタロウ』を探すことはせぬ――汝の要望は叶えられぬし、協力する義理も意味もなくなった。じゃが、とりあえず明日までは、宿屋に匿ってやろう。それで満足できぬならば、その時点から、妾は汝を敵と見做す」
地面が腐れ始めるほどの瘴気を放ちながら、ヤンフィは視線を切って394の腕を振り切った。その足取りは真っ直ぐに宿屋を向いており、誰も話しかけるな、という空気も放っている。
空気を読まない自分勝手な394も、流石に命の危険を感じたようで、ヤンフィの剣幕に押し黙った。
ヤンフィに付き従って歩き始めたマユミを横目に、394はトボトボと歩き始めた。その姿は歩きながら幼い男の子に変化していた。
「ヤンフィ様、何を言っていたのか分からんが、とりあえず宿屋に戻るのか?」
「そうじゃ――神種の処遇に関しては、コウヤが起きてから進言する。ともかく、一旦は落ち着ける場所に移動じゃ」
「了解――」
マユミとそんなやり取りをしてから、無言のまま急ぎ足に宿屋へと向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ディドは凄まじい勢い地面に激突して、森の中で木々を圧し折りながら転がり、果ては巨木の幹に半ば身体をめり込ませた状態で座り込んでいた。
ここは、帝都オーラドーンの第三区画の南側にあった広大な森の中だ。
高台から眺めた時、目算で1キロ以上離れていたところに広がっていた森と推測出来た。そこまで吹っ飛ばされたらしい。
ディドはかろうじて意識を失わずにいた。とはいえ、意識こそ失っていないが、もはや動ける状況にはない。致命傷の一歩手前程度には重傷である。
まさか、ここまでとは思っていなかった――聖級魔術の直撃だろうと耐え切れる防御力を誇る【幻惑の正装】を纏ったディドを、たったの一撃、しかも手抜きの斬撃が、これほどの威力とは予想だに出来なかった。
頭では分かった気になっていたが、剣聖サーベルタイガーは、格上どころか次元が違い過ぎた。
(……あれが……剣聖……サーベルタイガー、ですか……ワタクシでは……壁にも、なれませんでしたかしら……)
ディドが契約召喚した【幻惑の正装】は、常時【再生の鎧】と呼ばれる聖級治癒魔術が付与されている。この治癒魔術は、四肢の切断こそ癒せないが、それ以外の大半の傷は、息を吸う間に癒せるほど強力な治癒魔術だ。だがそれほどの治癒魔術を全力行使していてさえ、命を繋ぎ止めるのが精一杯という状況に陥っている。
それほど、あの一撃が強烈過ぎた。即死していてもおかしくはなかった――否、実際にいま、もし意識を失ってしまったら、ディドは確実に死ねるだろう。それほど危険な状況でもある。
(コウヤ様……申し訳、ありません……無事、かしら……)
ディドは役立たずの自らを恥じながら、ただただ煌夜の容態を心配していた。それが唯一、意識を保つ方法だった。
このテオゴニア大陸に下りてきてから、幾度となく強者に出逢ってきた。それこそ格が違う相手を見るのも、闘うのも初めてではない。けれど、あれほど実力差を感じた強者は、初めてだった。
以前、クダラークの街で邂逅した三英雄キリアと対峙した時以上に、圧倒的過ぎる力量差を感じた。
全身全霊――むしろ限界を超えた火事場の馬鹿力で最高の攻撃をしたにも関わらず、剣聖サーベルタイガーは歯牙にもかけなかった。
「……ぐぅ、ごふっ――っ」
胃から逆流してきた血を吐き出す。金色のドレスに赤い汚れが付着した。そんな無様を見下ろしながら、ディドは先ほどの光景を反芻する。
何語か分からなかったが、最初こそ、ただ会話を交わしていただけだった。あの会話のどこかに、剣聖サーベルタイガーの逆鱗でもあったのだろうか。
いや、それよりも、剣聖サーベルタイガーは途中から、煌夜と同じ不思議な響きの言葉を喋っていた気がする。それが何語か全く聞き取れなかったが、全く耳馴染みのない変な発音の言葉だった。
同郷の異世界人、なのだろうか――だとしても、どうして煌夜を攻撃したのか。
ディドは意識を繋ぎ止める為に、何が起きたのか、どうしてこうなったのか必死に考えた。けれど、ヤンフィと煌夜、剣聖サーベルタイガーがどんな会話をしていたのか分からないので、答えが出る議題ではない。それは分かっているが、どうしたら良かったのか、と強い後悔と共に思考を続ける。
(ハッキリしていることは……剣聖サーベルタイガーにとって、コウヤ様は、明確な敵であるようでしたわ……不思議と、敵意も殺意もありませんでしたけれど……なぜか、強い怒りが向いていましたわ……いったい何が、あれほどの怒りに……)
思い返せば、剣聖サーベルタイガーは純粋な怒りだけを煌夜に向けていた。
敵対していたが敵意はほとんどなく、殺意も皆無だった。だからこそ、ディドも油断してしまった。それは猛省すべきだろう。
「――何が起きたんだ? ん? お前……どうしてここに……いや、それよりも、いったい何が?」
ディドが俯いて瞑想していると、圧し折られた木々を分け入って、長い黒髪で白銀の鎧を纏った騎士が現れた。大中小の三本の剣を装備して、下唇に特徴的な黒子がある。どこか見覚えがある騎士だ。
「お前……ディド、だったな? 死にそうだが……何があった?」
その騎士は腰を落として、ディドの目線に顔を合わせる。サッと全身を眺めて、その重傷さに眉を顰めている。
ディドは声を出す余裕もなく、一瞬だけ死んだような視線を騎士に向けて、ふたたびぐったりと俯いた。口を開けようとした瞬間、またもや血が逆流してきて、血反吐しか出なかった。
「……ご、ぶっ……」
「おい――チッ。何に巻き込まれたんだ? まさか、宰相に――いや、違うな……」
ディドを眺めながら、騎士は神妙な顔で首を捻っている。その声を聞いて、ようやくこの騎士の正体を思い出す。
この白銀の鎧を身に着けた騎士は、食事処で394を追っていた白の聖騎士ワイト・ラ・グロスだ。煌夜と一緒に探していて、見付けるのを諦めた相手である。
(……いま、この状況で見付けても……意味、ありませんかしら……)
ディドは静かに溜息を漏らす。けれど、直後に思考を切り替えた。これは逆に好機かも知れない。
そもそも剣聖サーベルタイガーとの邂逅は、予期せぬ展開だった。予定にないイレギュラーである。そう考えると、当初の予定通りに、宿屋にいる394を排除するのが優先ではなかろうか。
排除する為に必要なピースである聖騎士ワイトに、ここで出逢えたのは幸運に違いない。
「おい、ディド。死にそうなところ悪いが、迂闊にオレがお前らと接触するとマズイから――」
「――ワタクシ、を……宿屋、まで……運んでください、ませ……」
「――とりあえず人を、呼んで来よう……と、思ったんだが?」
ディドは血反吐を呑み込み、声を振り絞った。
聖騎士ワイトは無責任にこの場から去ろうとしていたが、その言葉を聞いて、チッ、と露骨に舌打ちしていた。
「……オレが手を貸していることがバレるのは、あまり好ましくないんだがな……」
「貴方が……探している……子供が……宿屋に、居ますわよ?」
乗り気ではない聖騎士ワイトに、ディドは切り札を切った。途端、聖騎士ワイトの顔色が変わり、本当か、と喰い付く。それにコクリと頷いた。
「――いいだろう。ほれ、肩を貸してやる」
「どう、も……」
グイッと助け起こされたディドは、おざなりに会釈して、飛んできた方向から宿屋の位置を推測する。
(……コウヤ様は……無事、かしら……ヤンフィ様たちが居るとはいえ……万が一が……いえ、そんなことを考えるのは、失礼ですわね……ワタクシは、信じて……行動するだけ、ですわ)
一瞬だけ、ヤンフィたちが全滅した最悪を想定するも、すぐさまそんな思考は振り払う。
ディド自身が生き残っていることから分かる通り、剣聖サーベルタイガーは本気で闘うつもりがなかったのだ。それであれば、ディドよりずっと強者であるヤンフィとマユミが殺されるはずはなかろう。
また同時に、ヤンフィたちが生きているならば、何が起きても煌夜が死ぬことはない。
ディドは気持ちを強く持って、不愉快ながらも聖騎士ワイトの肩を借りながら、一路、宿屋への道を歩き出したのだった。