第八十五話 アベリン事変/顛末
「気持ち悪い視線を向けるなよ、異世界人。そんなにボクが気になるのか? まったく反吐が出る――あ、けど、ボクを助けてくれたら、感謝だけはしてやるよ」
想像以上の辛辣な毒舌を吐くライム・ラガムを前に、煌夜は思考停止して硬直していた。すると、ふいに肩をポンと叩かれる。
「――コウヤ様。不本意ながら、マユミの言う通りかしら。このライム・ラガム、更生の余地がないほどに心が捻じ曲がっているかしら」
「おい! たかだか天族如きが、ボクを見下すなよ? ボクはキミらと違って崇高な志と目的がある。そこの下賤な異世界人に魅了された挙句、ただの性処理奴隷になってる汚物は黙ってろ、不愉快だよ」
ディドが囁いた呟きに被せて、ライム・ラガムが殺意を篭めた視線を煌夜に向ける。煌夜は思わずその眼力に圧されて顔を背けた。一方で、ディドは呆れた表情で溜息を漏らしていた。
「コウヤよ。妾の決定が妥当であることを理解したところで、事実だけ伝えよう。いまコウヤの身体には、レーヌ・ラガム・フレスベランと云う厄介な輩の魂が封じられておる。もとはライム・ラガムの器に入っておったが、特殊な魔術でコウヤの身体に移ったのじゃ」
「は、はぁ……レーヌ?」
「……チッ。この、クソ異世界人め……」
ヤンフィの淡々とした口調に対して、ライムが毒を吐きながら煌夜を睨み付けた。その清廉で美しい外見とは裏腹に、どこまでも口汚い。
ところで、そんなライムとヤンフィのやり取りを前に、煌夜は話に付いていけずキョトンとしていた。自らの中にレーヌ・ラガム・フレスベランが封じられていると言われても、だから何だ、である。それが危険なのかどうか、いまいちピンと来なかった。そもそも今までもヤンフィが内に宿っていたのだ。何が違うのか分からないので、それほど驚くことではなかった。
それに何より、ヤンフィを筆頭にして誰も慌てていないことから、おおごとではないのだろうと軽く見ている。本当に危険な状況であれば、きっと周囲の空気はもっと重くなっているはずだ。
そんな煌夜の思考を読んだのか、ヤンフィが場を和ますように軽快な口調で続ける。
「とはいえ、安心せよ、コウヤ。汝は妾と主従契約を交わしておる。じゃから、レーヌに心と魂を支配されることはない。ディドの封印術も機能しておるから、コウヤの身体が奪われることもないぞ? 当然、レーヌが封じられておる間は命の危険もない。じゃが――」
ヤンフィは言いながら立ち上がり、ライムの小麦色をしたロングヘアを鷲掴んで、何の容赦もなくテーブルにその顔を叩きつけた。
「――此奴を自由にさせると、コウヤに封印したレーヌ・ラガム・フレスベランを解放される恐れがある。解放された場合、妾たち全員が危険に晒される可能性が高いのぅ」
「……可能性、じゃないよ……解放されたら、真っ先にキミたちを喰い殺す――あ、だけど、自主的に助けてくれたら、命だけは助けてあげるよ」
テーブルに顔を叩きつけられたまま、ライムはヤンフィにそんな軽口を吐いていた。ライムの全身からは、室内を満たすほどの強烈な威圧が放たれている。恐らく拘束されていなければ、今すぐにでも暴れ回ったことだろう。
傍から見た煌夜でさえ、それがハッキリと分かるほどライムの気迫は鋭く強烈だった。
「おい、青年。決定権は貴様にあるんだろ? それで? ライムの処遇、どうするんだ? 他の連中と同じように異能を使って、貴様のハーレムに追加でもするか?」
「――おい、マユミ。お前、ちょっと黙るにゃ。コウヤに悪感情を持つのは構わにゃいけど、あちしたちに同行するにゃら、コウヤを馬鹿にしたり、軽んじたりするにゃ!! 殺すぞ!?」
「ほぉ? 殺す、ね――ヤンフィ様が許すなら、私は、タニアと闘うのは望むところ――」
「――のぅ? 汝ら、誰の許可を得て、口を開いておるのかのぅ?」
にゃにを、と激怒していきり立つタニアと、不敵な笑みを浮かべるマユミ、その二人を睨み付けながらヤンフィが鋭く一喝した。瞬間、室内に満ちていたライムの威圧を上書きして、ヤンフィの重々しい瘴気が空間を支配する。
「コウヤ。ちなみにウールーを縛っておった奴隷紋じゃが、汝が寝ておる間に解呪させておる。じゃからもはや、此奴の使い道はない状況じゃ」
「あ、え――あ、それは良かった……」
ヤンフィは言いながら、ライムの後頭部を持ち上げて再びテーブルに叩き付ける。その様はまさに拷問である。手加減はしているようだが、それでも、ドン、と大きい音が鳴り、叩きつけられたライムの額からは血が滲んでいた。
けれど、そんな暴力を受けているにも関わらず、ライムの眠たそうな双眸はギラギラと強い光を放っており、何をしても屈さないとばかりの気概が窺えた。
この光景だけ見ると、正直ヤンフィが一方的な悪役にしか見えなかった。正義の味方でないのは確かだが――と、煌夜は心の中で呟く。
「それと、じゃ。云うべきか悩んでおったが、此奴の態度で決めたわ……コウヤ。今のアベリンの状況じゃが、どうやら生存者は、この奴隷区画周辺に避難した一部――およそ百数名だけのようじゃよ」
のぅ、とヤンフィは、部屋の入口で立っていたクレウサに首を傾げる。クレウサは力強く、コクリと頷いてから口を開いた。
「ええ。どうやらそのようですね。先ほど確認いたしましたが、この一角以外に、人の痕跡はおろか、気配さえありませんでした。街の中央に張られた結界というのも、改めて確認いたしましたが、そもそもそれらしく展開しているだけの幻惑魔術でした。昨晩気付けなったのは、付近の魔族が放つ魔力で誤魔化されていたからだったようです」
「……え? えと、それ、どういうこと?」
「つまり――この街には、もうほとんど人なぞ居らぬ。此奴によって虐殺されたのじゃ。此奴は『レーヌ・ラガム・フレスベラン』を復活させる為に、街の住民を生贄に捧げたのじゃ。しかも狡猾なことに、街一つを喰い潰せば異変に気付かれる。じゃからあえて全滅させず、魔族に襲われている街を演出をしておった。助けを呼べるように、あえて冒険者の一部を生かして……生贄の人数を操作しておった。そうして、一定以上の実力を持つ冒険者を呼び寄せて、定期的に生贄を補填していたようじゃ。じゃから、わざと退治出来る魔族を街中に徘徊させて、もはや存在せぬ自警団の噂まで流しておった」
ヤンフィの説明に、傍らのディドが強く手を握ってくれた。煌夜は頭が追い付かず、え、と疑問符を浮かべて、実行犯のライムを見る。
すると、ライムは煌夜の視線に対して、忌々しそうな視線を返した。
「――何が悪いのさ? 効率良く栄養を補給する為には、一定の繁殖要員を残しておくこと。期待や希望を持たせておくのが畜産の基本だろ? それにボクが畜産を始める前から、治癒魔術師に対して同じような間引きを奴隷解放軍もやってたよ? だから便乗しただけじゃないか! だいたいさ、一方的に責められる筋合いはないと思うな? だってボクのおかげで、奴隷区画に生きる性奴隷以外の獣族たちは、割とまともな生活水準になったんだから――恩に着せるつもりはないけど、感謝されることをしたはずだ。ボクは、この獣人族差別が激しい腐った街を浄化したんだ。そのついでに、腐った因子である人族を、レーヌ様の栄養にさせてもらっただけだし、むしろレーヌ様の栄養になったことは栄誉だよ?」
心の底から微塵も自分は悪いと思っていない口調で、逆切れ気味に吐き捨てるライムに、煌夜は吐き気を覚えた。命に対する価値観が違い過ぎた。
ライムは一言で表せば、純粋な悪だった。
街で必死に生きている住民たちを畜産と言い切る精神に、なるほど、と煌夜は納得した。確かにこれでは、一緒に旅など出来ようはずはない。
「さて、コウヤよ。選択肢は二つと思うておる。一つは、ライムをこの場で殺すこと。妾としてはこれが最善と思うておる。後腐れないからのぅ。もう一つは、ゴライアスに引き渡すこと。勿論、ゴライアスに引き渡す際には、妾が隷属契約を施しておくから謀反はさせぬし、魔力を扱えぬよう条件も組み込むつもりじゃ」
どうじゃ、と首を傾げてから、ヤンフィはライムの頭をテーブルに擦り付けるように圧し付ける。ぐぅ、と呻く声が聞こえたが、煌夜はもうそれを可哀そうとは感じなかった。
とはいえ、殺すという決断は重い。平和主義の煌夜には選択肢などなかった。
「……ゴライアスに引き渡そう。生きて、罪を清算させるべきだ」
「コウヤ様!? それは――」
「にゃ!? コウヤ、本当にいいにゃか!? 後悔することにゃるかも知れにゃいぞ!?」
「あ、え――?」
煌夜が真剣な顔でヤンフィに告げると、その決断に驚愕の表情でディドが反応する。同時に、タニアも信じられないとばかりに声を上げた。そんな二人の反応に、セレナが呆れた調子で口を開いた。
「コウヤ。アンタの決断は『毒竜を狩らずに飼って死に至る』ってことよ? 別に、あたしはこの街がどうなっても、別にどうでも良いけど……本当に、それでいいの?」
「……は? 毒竜を狩らず? って、何どゆこと?」
「え? 有名な諺よ、知らないの? あ、えと……問題が何か分かっているのに、それを解決させずに管理しようとすれば、いずれ同じ問題に襲われて身を滅ぼす、ってことよ。そもそも、ライム・ラガムを生かしておいたところで、ゴライアスってチビデブの性欲が満たされるだけでしょ? そこで例えば――可能性は低いけど……世界蛇の何がしかが、ヤンフィ様の隷属契約を解呪するかも知れないわよ?」
「――セレナよ。コウヤの決断に水を差すでないわ」
セレナの台詞を聞き終えた直後、ヤンフィが鋭く口を挟む。
そんな他方からの意見に、煌夜は少し考えこんでしまう。セレナの指摘は確かにそうだが、だとしても人を殺す決断はおいそれと出来なかった。
「――ボクは、生きていたいよ……そりゃあ、目的が達成出来るなら、この命は惜しくないけど……志半ばで死ぬくらいなら、性奴隷でもいい。罪とやらがよく理解出来ないけど、今回の失敗は教訓にするし、次があれば――その時こそ、失敗しない。それもこれも、生きてなければ機会は来ないもん」
煌夜が視線をライムに向けると、そんな力強い口調で断言された。
一見すると前向きな発言にも聞こえるが、その実、反省の色など皆無で最低の思考でしかない。そんな台詞を聞いてしまって、煌夜の心はいっそう揺れた。
ライムが吐いた『失敗しない』とは要するに、また同じことを画策する決意であり、諦めないという意思表示だ。このまま野放しにすれば、きっとセレナたちの危惧通りに、どこかで大勢が犠牲になるに違いないだろう。
「――くっ……でも……」
「茶番だな――おい、青年、目を閉じていろ」
煌夜が俯いて唇を噛んだ瞬間、マユミが呆れ声と同時に立ち上がった。そして、ヒュン、と短い風切り音が鳴ったかと思うと、頬に生温かい水滴が飛んできた。
「マユミ、汝……」
「――え、何を?」
ヤンフィの戸惑う声に、煌夜は顔を上げようとするが、それより先にディドの胸元で目の前が遮られる。柔らかく温かい胸に包まれて、煌夜の視界は閉ざされた。
「青年――コウヤ、だったか? コウヤは、少し博愛主義すぎる。ま、その性根は、割と私は嫌いじゃないが、これから先が思いやられる。なぁ、ヤンフィ様。決断を委ねるのが、貴様らの主従関係かも知れないが、時には正しい決断を示しておくのも従者の心得だろ? コウヤが苦しむ可能性は、事前に潰しておくことこそ、優しさじゃないか?」
「……マユミよ。汝の感性で物事を語るのは不遜じゃ。今回は不問とするが、次に勝手な振る舞いをしたら、同行は取り止めるぞ?」
マユミが教え諭すような口調でそう告げる。それに対して、ヤンフィが冷めた声音で凄んでいた。
何が起きたのか分からない煌夜は、ディドの胸から顔を上げようと身動ぎする。だが、煌夜の力ではディドを振り払えず、ただただフゴフゴと言うだけで終わる。
少ししてから、仄かに血の臭いが漂ってくる。同時に、ズクンと一瞬だけ強い鼓動がして、こめかみに血管が浮き出す。
血の臭いに酔ったのか――軽い吐き気が襲い掛かり、思わず煌夜は口元を押さえた。物凄く気分が悪くなっていた。
煌夜がそんな悪寒を感じていると、耳元でディドが静かに囁いた。
「ライム・ラガムは……マユミに首を落とされましたわ」
ディドは力強く煌夜を掻き抱いて、少々お待ちを、と続ける。周囲からは、はぁ、という溜息が漏れ聞こえてきていた。
「マユミ、お前……ゴライアスの依頼、どうするつもりにゃ? ライム殺しちゃったら、依頼未達成じゃにゃいのかにゃ?」
「依頼? 達成しているだろ? ゴライアスの依頼は『タニアたちと行動を共にして、ラガム族の女を捕まえてくる』ことだ。その後は『好きにしろ』と言われている。殺すな、とは言われていない。私は事実として、ライム・ラガムを捕まえてきた。だから報酬は貰う。これでごねるなら、契約不履行でゴライアスを殺すだけだ」
「……お前、卑劣にゃ」
タニアとマユミのやり取りを耳にしながら、煌夜は非常に複雑な思いだった。
殺す決断が出来なかった煌夜に代わり、その責任も含めて実行してくれたマユミは、きっと優しいのだと思う。だが同時に、殺さない方法もあったのではないか、と無責任にも考えてしまう。
――とはいえ、結局は煌夜が優柔不断で、ブレない信条がないことが原因ではある。そのせいで、こんなスッキリしない後味悪い結末を迎えたのだ。
煌夜はギュッと目を瞑って、悔しさから拳を握り締めた。
「さて――この死体は、ゴライアスに渡すとして、今後の方針を決めないか?」
深刻な空気になる中、マユミは軽い調子で音頭を取り始めた。誰も異論はなさそうだ。
すると、煌夜を抱き締めるディドの腕が緩み、ようやく顔が解放された。人肌に癒されていた面もあり、ほんの少しだけ残念に感じてしまうが、それはおくびにも出さず煌夜は覚悟を持ってテーブルを見た。しかし、テーブルの上には想像したような悲惨でスプラッターな光景はない。
テーブルには、正座したままで蹲る蝋人形のような死体があるだけだ。
その蝋人形のような死体は、姿形こそライム・ラガムだったモノに違いないが、首から上が綺麗に切断されていた。血が出ていないことから、一見すると趣味の悪い置物と言われても違和感はない。
煌夜はてっきり血溜まりが広がって、如何にも惨殺死体と思える状況を想像していたので、この光景は少しだけ拍子抜けだった。ちなみに、血が流れていないだけではなく、首の切断面がまるで鏡面みたいに美しいので、いっそう人工物に思わせた。
「マユミ。汝は出しゃばり過ぎじゃが、まぁ好い――改めて、次の本題に入ろうかのぅ」
その時、パン、とヤンフィが手を叩き、テーブルの上の死体を手品のように消失させる。恐らく【無銘目録】の中に収納したのだろう。
何もなくなったテーブルの上には、少しだけ血とシミがあったが、さりげなくディドがそれを拭ってくれていた。
ところで、切断した首の在処だが、マユミが戦利品のように傍らに置いていた。チラと見たが、その表情は先ほどと変わらぬ冷徹なもので、苦悶の色は浮かんでいない。まるで、今も生きているのではないかと疑いたくなる。
「ん? 要るのか、コウヤ? だが生憎、ゴライアスに渡す品だから無理だ」
「あ、いや、要らない、です」
煌夜の視線に気付いて、マユミが不敵な笑みを浮かべて首を持ち上げた。それを全力で拒否して、ソファに背を預けた。
マユミはからかうように笑ってから、眠たそうに開いていたライムの瞼をスッと下ろす。ライムの表情は一転して、穏やかな眠りの表情になった。さりげなく気を遣ってくれたらしい。
「マユミが同行することになったので、妾たちの目的を再確認するぞ――妾たちが目指すのは、竜騎士帝国ドラグネス領内じゃ。目的は、コウヤの弟『コタ』こと『ヤチコタロウ』を捜し出して保護することじゃ。相違ないかのぅ?」
「ああ、間違いないよ。まずはコタを見つけ出す。だから協力してほしい」
ヤンフィの不思議なイントネーションを耳にしながら、煌夜はすかさず頷いて、その場の全員、特にマユミに対して頭を下げた。マユミはそれを聞いて、ふぅん、と何やら思案顔になる。
「次に優先度は低いが、竜騎士帝国の宰相、ダーダム何某の正体を暴く、じゃったかのぅ? その道程で【守護竜の泪】とか云う国宝を奪うこと――」
「――口を挟んで申し訳ないが、ダーダム何某とは、ダーダム・イグディエルのことか? 通称【ドラグネスの雷帝】……ちなみに、貴様らは知らんと思うが、世界蛇の幹部レベル4【洗礼の長】天族バルバトロスだぞ?」
「――ほぉ? 汝は知らんと思うが、妾たちの云う正体を暴くとは、まさに其奴が、世界蛇のバルバトロスであることを証明することじゃ。もしや汝、その証明が出来るのか?」
サラリと爆弾発言をしたマユミに、ヤンフィが同じような言い回しで言い返す。視線を向けると、マユミは、ふむ、と一瞬口を噤んでから、しかしすぐさま肩を竦めて首を横に振った。
「……第三者に証明することは不可能だろ? そもそも世界蛇であることなぞ、当人が認める以外に証明出来るはずはないだろ?」
「そうかのぅ? 例えば【鑑定】で真実の名前を公表すればどうじゃ? それが可能か不可能は別として――」
「不可能だ。仮に冒険者ギルドの水晶玉でもって、公衆の面前で名前を晒されたところで、権力で握り潰されるさ。雷帝を舐めるなよ。アイツは竜騎士帝国ドラグネスで最高位の宰相だぞ? 帝国内ならば、何が起きても握り潰せるさ」
「お待ちくださいませ――証明出来ない、と言うのであれば、貴女はどうして、ダーダム・イグディエルが天族バルバトロスだと知っているかしら? それこそ、本人に宣言でもされたのかしら?」
「期待には答えられないことを予め断っておくぞ? 私の場合は単純だ。剣神会の【剣聖】――私の上司が、偶然にも世界蛇所属のレベル5【騎士王サーベルタイガー】なのだよ。その上司を通して、部下である雷帝が、バルバトロスと言う名前を使って依頼をしてきた。その時、上司から直接、正体を教えてもらったのさ」
マユミはおどけた様子で、殺意を滲ませるディドに説明を続ける。
「そもそも今回、私がこんな世界の果てまで来たのは、ガストン・ディリックのお目付け役として、だ。ガストンは立て続けに任務を失敗していて、世界蛇の中で信用を失っていた。だから、次の任務で失敗されて困る雷帝が、万が一にも失敗しないようにと、私を同行させたのさ」
「……にゃあ。ガストンの任務って、何だったにゃ? 結局、お前が同行したって失敗したにゃ?」
「失敗? いや、任務は成功したぞ? ヤツの任務は、このアベリンを掌握して、世界蛇の支配下に置くこと。ひいてはそれを可能とする為に、アベリンの奴隷商会を裏でまとめていた獣人【粛清のベスタ】を殺すことだ。私はそれを見届けたから、小遣い稼ぎにゴライアスの護衛を引き受けたのさ」
サラサラと、とんでもないことを口にするマユミに、煌夜は眉根を寄せて困り顔を浮かべる。情報量が多すぎて、だいぶ混乱していた。
そんな煌夜を横目に、タニアが質問を続ける。
「待つにゃ……ベスタが、奴隷商会をまとめてる、ってどういうことにゃ? ベスタは【奴隷解放軍】として、数多くの奴隷商会を潰してたにゃ」
「……これは、ガストンから聞いた話だが、粛清のベスタは、アベリン領主の傀儡で、奴隷だったらしい。奴隷解放軍を隠れ蓑に、奴隷の供給と流出を一定数に保ち、奴隷市場の永続的な継続を担う役割を持っていたそうだ。奴隷制に抗う姿勢は、実際は見せ掛けだったらしいぞ? ついでに言えばベスタは、ライム・ラガムのような世界蛇から卸された奴隷を、横から奪い盗る役割も担っていたそうだ――ま、今回のライム・ラガムは誤算だったが」
「…………信じ難いにゃ」
「信じなくても結構だ。どちらにしろ、もう関係者は死んでるからな――あ、そうか、そうだ。正体を暴く方法、つまりバルバトロスであることを証明する方法を思い付いたぞ」
タニアに説明していたマユミが、唐突にポンと手を叩き、何か思いついたように頷いた。その言葉を聞いて、ヤンフィがタニアを手で制した。
「マユミ。それはどのような方法じゃ?」
「極めて簡単さ――雷帝を殺すことだ。死人に口なし。殺してから事実を公表すれば、さすがに隠蔽することは出来ないだろ? それにどうせ、国宝【守護竜の泪】を奪う必要があるのだから、否応なく殺し合いになるはずだ」
「――どういうことじゃ?」
「どういうことも何も――――ヤンフィ様と話していると、調子が狂うな。まるで世間知らずの子供に話しているようだ」
マユミがやれやれと肩を竦める。
その呆れたような響きの台詞に、ヤンフィは一瞬苛立ちを露わにした。だが珍しくも文句を呑み込み、続きを促した。
「ああ、失礼……守護竜の泪は竜騎士帝国ドラグネスの国宝だが、いまそれは、帝国の英雄である雷帝ダーダム・イグディエルが肌身離さず持っている。アレは装備者の魔力を大幅に底上げする魔道具で、しかも装備してるだけで自動的に冠級の防御結界が発動する代物だ。アレを装備した雷帝は、私でも苦戦するほどに強いぞ?」
「……なるほど、のぅ」
ヤンフィは渋い声で頷いた。煌夜もそれを聞いて、騙された、と強く思っていた。その気持ちはタニアたちも同様で、エーデルフェルトの依頼はがだったと理解する。
国宝を盗むだけという依頼は、その実、雷帝ダーダム・イグディエルから国宝を奪い取るという内容だったということだ。しかもマユミの話を鵜呑みにするならば、正体を暴くには、殺す以外に術はないらしい。
煌夜は口には出さずに、この依頼は不可能だと理解して、達成せずに諦めることを決意していた。冒険者のランク云々は、正直もうどうでも良い話でもある。
「ふむ。まぁ、好い。貴重な情報じゃが、とりあえず今はさておくぞ」
ヤンフィも煌夜と同じ結論に達したのか、マユミの話題はもう充分と一呼吸吐いた。
「マユミもこれで、妾たちの目的が理解出来たろう? そのうえで、これからのことを話そうではないか――」
ヤンフィはチラっと全体を見渡す。無言のうちに、口を挟むなよ、と全員に念押ししている。それに異論は全くない。煌夜は強く頷き、他のメンバーも頷いていた。
「――妾たちが目指すのは、竜騎士帝国ドラグネス領内。当初の予定では、このまま北進して【龍神山脈】を踏破するのが一番最短と思っておった」
「それが最短だろ? ……失礼」
マユミが呟くように口を挟み、瞬間、ヤンフィが殺気を篭めた睨みを利かせる。口を挟むな、と警告しているにも関わらず口出しするマユミに、タニアが今にも飛び掛かりそうな剣幕を見せた。
しかしそれを無視して、ヤンフィが何事もなかったように続ける。
「じゃが、今回、そんな危険な龍神山脈を踏破する必要がなくなった。踏破せずとも、竜騎士帝国ドラグネスに到達する術を手に入れたからのぅ――」
ヤンフィはニヤリと意味深な笑みを浮かべて、キョトンとするセレナに流し目を送る。その視線にセレナは首を傾げたが、ふと何かに気付いて、気まずそうに目線を逸らしていた。
「――大鷲、顔だけ顕現せよ。許す」
「げっげっげ、許された! でも、顔だけ! 悲しい、残念、けど仕方ない! ヤンフィ様、大鷲、どうすればいい!? 何したらいい?」
「……少し黙れ」
突如天井から、気色悪い鳴き声と共に巨大な鳥の顔が現れた。何もない空間から顔だけ出す姿は、不気味の一言である。
顔だけ出したその大鷲に、煌夜は恐怖を感じて短い悲鳴を上げた。一方で、ディドを含めた周囲はさして騒がず、叫び声がうるさい、と訴える視線を大鷲に向けていた。
「コウヤよ。紹介しておらんかったが、此奴は妾が使役しておった魔貴族で、名を大鷲と云う。長らく妾を裏切っておったが、此度、改めて妾の支配下に堕ちた」
「げっげっげ、げっげっげ! 大鷲、ヤンフィ様、裏切ってない! ソレ、濡れ衣! 大鷲、ヤンフィ様に忠誠誓ってる!!」
「……もう一度だけ云うぞ、大鷲。黙れ」
「げぇぅ……」
ヤンフィとの漫才の如きやり取りを横目に、煌夜は、はぁ、と大鷲の不気味な顔を眺めた。大鷲はヤンフィに怯えているようで、嘴を噤んで委縮している。その有様を見るに、ヤンフィに逆らえないのは間違いなさそうだ。
「この大鷲じゃが、非常に稀有な異能を持っておってのぅ。時空魔術と似た魔術を行使できる――異空間を操り、空間と空間を繋げる術に長けておるのじゃ。この異能ならば、物理的距離に依らず、あらゆる場所に移動することが可能じゃ」
ヤンフィのその説明に、煌夜は一瞬だけキョトンとして、しかしすぐさま何が言いたいかを理解した。ハッと眼を見開いて、テーブルをバンと叩いた。
「――ってことは! 今すぐにでも、竜騎士帝国ドラグネスに瞬間移動出来るってことか!? 山越えなんてせず、ワープ出来るってことか!?」
「その通りじゃ――大鷲の魔力が及ぶ範囲であれば、移動は可能じゃ。そして竜騎士帝国ドラグネス領内であれば、空間を繋ぐことは可能じゃ」
「なら――」
「――じゃが、今すぐ移動と云うのは些か冷静さに欠ける。焦るな、コウヤよ。移動で時間が掛からぬのじゃから、しっかりと準備をすべきじゃ」
煌夜の言葉をみなまで言わせず、ヤンフィは諭すような口調で遮った。
う、と思わず言葉を呑んで、煌夜は深呼吸して冷静になろうと努める。だが煌夜が焦るのも、仕方ないだろう。すぐにでも虎太朗のところに行けると言われたら、一秒でも早く向かいたいのは当然である。
「……準備、って、何をするんだよ?」
煌夜は絞り出すように、ヤンフィの言い分を聞く姿勢を見せた。煌夜が行きたいと願っても、独りでは旅に出れない。ヤンフィたちの助けがなければ、煌夜独りでは何もできないことに変わりはない。
「コウヤの身体に、レーヌ・ラガム・フレスベランが封印されておると云うことは説明したじゃろぅ? 其奴は、悔しいが妾の力では消滅させることが出来ぬ。じゃが、取り除かなければコウヤの安全も保証出来ぬ。じゃから、レーヌを消滅させる為に、ちょいと寄り道を提案したいのじゃ」
「…………寄り道、ってなんだよ?」
「【聖魔神殿】の玉座に往きたい――妾が封じられたあの場所であれば、レーヌを消滅させる術を使えるからのぅ」
ヤンフィの言葉に、マユミが眼を輝かせて口を挟んだ。
「ほぉ? 聖魔神殿と言えば、最果ての洞窟と呼ばれる迷宮か? 攻略難度Aランク。だが実際はそれ以上に踏破が困難とされる場所か?」
マユミの高揚したその声を無視して、ヤンフィは煌夜だけ見詰めながら続ける。
「コウヤのことじゃから、自らのことなぞ二の次にしたいじゃろぅ。じゃが、いまはディドの血縛呪牢で封印出来ておるとしても、いつまでも保てぬ。じゃから、封印が充分な効力を持っているうちに、取り除くべきじゃ」
「……まぁ、良いけど……寄り道って、またあそこまで行くのか?」
煌夜がこのテオゴニア大陸に来た初日、グレンデルという魔族に殺されかけた嫌な思い出――脳裏にその光景が浮かび、知らず知らずに眉根を寄せる。同時に、この街に来るまでのハチャメチャだった一日も思い出す。タニアとの邂逅も含めてだが、たった一昼夜がだいぶ長く感じたのを覚えている。
またあの迷路を戻らなければいけないのか、と煌夜は渋面になった。
そんな煌夜の考えを察したヤンフィは、苦笑しながら首を横に振る。
「安心せよ、コウヤ。玉座には一瞬じゃ。それこそ大鷲の能力であれば、時間は掛からぬ――けれど、恐らくレーヌを消滅させるのに、数日は掛かるじゃろぅ」
「……え? 数日も!?」
「特殊な儀式を執り行うのでのぅ……じゃが、寝ておればすぐじゃよ?」
ヤンフィは小悪魔めいた笑みを浮かべて首を傾げる。その横で、タニアが挙手した。
「にゃぁ、ヤンフィ様。よく分からにゃいけども、つまり今から【聖魔神殿】の探索を優先する、ってことにゃか?」
「探索はせぬ。妾とコウヤ、ディドだけで玉座に赴くのじゃ――汝らは、妾たちが戻ってくるまで待機しておれ」
「――おいおい、ヤンフィ様。私も是非、聖魔神殿を攻略したいね。同行させてくれないか?」
「黙るにゃ、マユミ!! お前、さっきから、本当にうるさいにゃ!! 調子に乗るにゃよ!? ヤンフィ様が大目に見てるからって――」
「――マユミ、タニア。黙れ、と何度も云わせるでない」
タニアの癇癪で収拾がつかなくなる前に、ヤンフィが凄まじい威圧を放った。その威圧を前にして、二人はピタリと口を閉じた。表情は全く納得していないが、もう何も言わなかった。
「さて、コウヤの心の準備が好ければ、すぐに玉座に往きたいのぅ――マユミは、ゴライアスとの契約をキッパリ終わらせておけよ? タニアは、コウヤの弟妹たちの動向を注意しておけ。入れ違いに移動されては敵わぬ」
「……承知した」
「……かしこまり、にゃ」
渋々と頷く二人を横目に、ヤンフィは立ち上がった。煌夜は話の流れから、仕方ない、と肩を竦めて立ち上がった。
とりあえず、ヤンフィの言葉に従って聖魔神殿に向かうことにする。何をするのか知らないけども、煌夜の安全は確保されている。
「ヤンフィ様。ワタクシもご同行させて頂いて宜しいかしら?」
「無論じゃ――大鷲よ。玉座への道を繋げ」
「……げっげっげ。畏まりました、ヤンフィ様!! ここに、繋ぐ!? 入る!?」
「疾くせよ」
顔だけ出していた大鷲は、あまり騒がずに姿を消した。次の瞬間、天井に黒い穴が現れる。まるでブラックホールみたいな大穴である。
黒い大穴を見上げて、ヤンフィは煌夜の手を引いた。
「それでは、往くぞ――タニア、後は任せた」
ヤンフィの台詞に、力強く手を挙げるタニアを見ながら、煌夜はヤンフィと共に黒い穴へと吸い込まれる。遅れて、ディドも跳び上がり、黒い穴に入っていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
煌夜たちが居なくなった後のリビングに、タニアの苛立つ溜息が響いた。それに対して、あえてマユミは鼻で笑うような失笑をする。
ヤンフィが居なくなっただけで一気に殺伐し始めるリビングの空気を感じて、セレナはわざとらしい溜息を吐いて立ち上がる。
これ以上、ここに居るのは精神衛生上宜しくないだろう。
「……タニア。あたしは食堂に居るわよ」
「にゃぁ、マユミ。お前、上司が【世界蛇】の【騎士王】サーベルタイガーって言ってたにゃ? 騎士王って言えば、レベル5のことにゃ? にゃら、騎士王グレイヴの間違いじゃにゃいか? だいたいにゃぁ、騎士王は死んだはずにゃ――【救国の五人】に討ち果たされたって有名にゃ」
部屋を出ようとしたセレナの背後で、何やら興味深い話題をタニアが口走る。それを聞いてセレナはつい立ち止まり、後ろを振り向いた。
一触即発の如き緊迫の空気の中、しかしタニアは冷静な視線でマユミを見詰めている。一方でマユミは、何やら感心した風な表情で、なるほど、と頷いていた。
「情報通だな。そうだ。それは正しい知識だ。確かに、騎士王グレイヴは【救国の五人】のパーティによって討伐された。けれどその後、新たな騎士王が選定されたのさ」
「……世界蛇って、そんにゃ簡単に代替わりさせにゃいはずにゃ。それこそ、圧倒的にゃ実績か、実力を示さにゃいと――」
「――だから、示したんだ。旧騎士王を殺すほどの実力を、な」
マユミの爆弾発言に、セレナとクレウサが硬直する。それはすなわち、英雄と崇め奉られている【救国の五人】の中に、世界蛇の幹部が居ると言っているのだ。
あまりの衝撃的な情報に、セレナは無言のままソファに戻った。クレウサも扉から少し離れて、リビングの入口で壁に寄り掛かる。
「お前。にゃんでそれを知ってるにゃ? お前こそ、世界蛇じゃにゃいのか?」
「疑わしいか? ま、そうだろな。けれど残念ながら、私は世界蛇じゃない。あの連中みたいに、破滅主義じゃない。私が知っているのは単純――言ったろ? 剣神会で【剣聖】の地位に居るのが、サーベルタイガーだと……今回、ガストンに同行しろと命じられた時に、条件として一騎打ちを申し出て、剣聖の座を賭けて戦ったんだ。残念ながら負けたが……その時、色々と教えてもらったのさ」
「――負けた? お前が、負けたにゃ? そんにゃに強いにゃ!?」
珍しくもタニアがマユミの強さを認めて、驚愕していた。セレナもマユミが負けたという言葉を正直信じられない思いだったが、とにかく話を最後まで聴こうと口を噤んだ。
「強かった……相性もあったが、純粋な私の剣技も届かなかった。ま、今だったらどうか分からないがな」
「……相性、ってどういうことにゃ?」
「サーベルタイガーは覚醒した竜眼持ちで、しかも聖剣まで持っている。だから竜骸甲を無効化出来るし、妖刀マガツヒと互角に切り結べた――言い訳だが」
「…………ソイツ、隻眼にゃ?」
「分かるか? ああ、隻眼だ。隻腕の魔術師じゃなくて、隻眼の天騎士だ。救国の五人中、最強を誇る剣士『ゲオ・コウタ』――『コタロウ』の愛称で知られる英雄だよ」
にゃるほど、とタニアが納得して頷いた。
セレナもここまで話を聞いたら、誰のことを言っているのか流石に察していた。森の中で暮らしていて世情に疎い妖精族のセレナでさえ、その勇名は耳にしている。
救国の五人に数えられる英雄【隻眼の天騎士】こと、ゲオ・コウタ――数多の戦場で勇名を馳せた青年であり、三英雄キリアから『コタロウ』の愛称で呼ばれる人物だ。偶然にも煌夜の弟と同じ響きをした愛称だが、御年十八歳になる隻眼の青年である。二年前に起きた【世界蛇の役】で大活躍して、わずか十六歳という若さで、三英雄と同じSSランク、最高位を冠する冒険者になった麒麟児だ。
「救国の五人と呼ばれるほどの英雄が、どうして世界蛇にゃ? まったく信じ難いにゃ……全てを手に入れた英雄が、にゃんで世界蛇に与するにゃ?」
「理由なぞ知らん。だが、この世界に恨みを抱いていたのは知っている。だから、自らの望む世界を創生する為に、世界蛇の武威に縋ってるようだ」
下らない、と吐き捨てるマユミに、セレナが恐る恐ると挙手した。今更ながら、世界蛇という組織の強大さに恐怖を感じ始めていた。
「……ねぇ、一つ質問いい? その……世界蛇の騎士王サーベルタイガーが救国の五人の天騎士で、ドラグネスの雷帝も世界蛇で、二人が上司部下の関係だとしたら……もしかして、あたしたち……その二人を、同時に相手しなきゃならない、ってこと?」
「おぉ、良い質問だ――だが、その質問の答えは分からん。剣聖の目的は、雷帝とは異なっていると聞いている。だから、雷帝を討った後でどう出るか分からん。運が良ければ、敵対はしないだろ」
「…………それ、楽観過ぎない?」
「そうか? ま、そうだとしても、私はどちらでも構わない。むしろもう一度剣聖と戦える機会があれば、それは僥倖だ」
マユミの戦闘狂な発言に、セレナは呆れた顔で言葉を呑んだ。タニアを見れば、何やら神妙な顔で腕を組んでいた。
「私からも、一つ良いでしょうか? 救国の五人である隻眼の天騎士は、いま竜騎士帝国ドラグネスに居るのでしょうか?」
「――それも良い質問だ。ああ、居るぞ? いまは確か、聖王国テラ・セケルからの賓客として、竜騎士帝国領内を視察行脚している」
「そうですか……それでは、遭遇しないことを祈るべきでしょうね。難しいかも知れませんけど」
クレウサは疲れたような顔で、諦めの吐息を漏らしていた。セレナはその気持ちがとてもよく分かる。きっと、祈ったところで煌夜が最悪を引き寄せることだろう。それか、タニア辺りが問題を起こして巻き込まれそうだ。
「ふぅ――私は、そろそろゴライアスと戯れるとする。貴様らも自由に過ごしたらいいだろ。ちなみに、私の部屋は別に取ってある。ヤンフィ様が戻ってきたら、呼びに来てくれ」
マユミは傍らにあるライム・ラガムの首を持つと、そのまま立ち上がって部屋から出て行った。
そんなマユミを見送ってから、セレナも食堂に向かった。タニアの放つ空気が重苦しくて、とても部屋でゆっくりできそうになかったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
大鷲の空間接続を使用するのも、随分と久しぶりだった。ヤンフィが封印されている期間を無視しても、直近十年は使用していなかったように思う。
ヤンフィは音もなく乾いた石床に降り立ち、幾百年経とうと変わらぬ無骨な玉座を眺めた。玉座には薄汚れた布切れが、綺麗に畳まれて置かれている。ここを旅立った時のまま何も変わっていない証拠だ。
そんな止まったような空気の中で、玉座は微かな瘴気を放ちながら、当然のようにそこにあった。
煌夜と出逢い、旅を始めてから、僅か四色の月一巡程度だが、とても久しぶりに戻ってきた感覚だ。
「……ヤンフィ様、ここが、最果ての洞窟、かしら?」
感傷に浸っていたヤンフィに、ディドが息も絶え絶えに声を掛ける。嗚呼、と空返事だけしつつ、振り返った。
ディドは気絶した煌夜を抱き抱えたまま、無表情を辛そうに歪めて、跪いてヤンフィを見上げている。
そういえば、とヤンフィは今更ながらに思い出す。
大鷲の空間接続は、通り抜ける者の魂にかなりの負荷を掛ける。凡人であれば、空間を超える瞬間、廃人になるほどだ。
煌夜にはヤンフィの加護があるから、さして気にしていなかったが、それでも気絶している。ディドのような神聖な気を纏う天族であれば、正気を失わなかったのは僥倖でしかない。
口には出さないが、ヤンフィは感心しつつ再び視線を玉座に向けた。
「うむ、そうじゃ。【聖魔神殿】の最奥じゃよ。妾が治める唯一無二の城にして、魔王属固有の絶対領域――魔王に至る為の祭壇じゃ」
感慨深げに呟いて、薄汚れた玉座に手を当てる。鈍く青白い光が走ったが、すぐにその輝きは消えた。辺りは静寂が支配していた。
「ここならば、大規模な術を使っても問題ない。レーヌを逃すこともないしのぅ」
さて、と呟きながら、ヤンフィはディドに抱えられた煌夜に近付いた。
煌夜はぐったりとして、完全に意識を失っている。
「――ディドよ。コウヤを玉座に座らせよ。妾が合図をしたら、血縛呪牢の封印を解け」
「……大丈夫、なのかしら? コウヤ様の身体に、負担はありません、かしら?」
「コウヤに負担の掛からぬ方法は存在せぬ。じゃが、ひとまず安心するが好い――コウヤは痛みを感じぬまま、意識のないうちに全てが終わる」
ディドは指示に従い、気絶している煌夜を玉座に座らせる。途端、玉座が強い光を放ち、紫電が幾筋も迸り、煌夜の身体に絡みついた。それはまるで、座する者を拒絶しているかのようだった。
「コウヤ様っ!?」
「――ディド、下がれ」
煌夜の身体に絡みつく紫電を見て、ディドが慌てて玉座から引き剥がそうとした。それを鋭い言葉で制して、ヤンフィは玉座を静かに眺めた。
「……ですが……コウヤ様が……」
「グレイプニルよ、顕現せよ」
ディドの訴える眼を真っ直ぐと見返しながら、ヤンフィは何もない中空から紐状の魔力鎖を顕現させる。魔力鎖は煌夜を雁字搦めにして、玉座から逃がさないように縛り上げる。
「ディド。封印を解け――今ならば、レーヌが現れても何も出来ぬ」
「…………っ、くっ! かしこまり、ましたわ……」
パチン――と、煌夜の身体の内側から、風船が弾けるような軽い音が聞こえた。直後、ビクン、と煌夜が椅子の上で跳ね上がり、絡みつく紫電に感電しているかの如く痙攣を始める。しかしその激しい痙攣は、ヤンフィの顕現させた魔力鎖が無理やりに抑え付ける。
激痛に喘ぐように、白目を剥いた煌夜が天を仰いで口を開けた。表情は苦しそうだったが、声はなく、反射で動いている様子だった。
「――下手な演技は止せ、レーヌ・ラガム・フレスベランよ。とりあえず、話し合わないかのぅ?」
無言のまま、音も出さず苦しむ様子の煌夜に、ヤンフィが涼し気な調子で問い掛ける。その問いに対して、今までの反応が嘘のようにピタリと身動ぎが止まる。
ふぅ、と諦めたように息が吐かれて、煌夜の顔がヤンフィに向けられた。
「何を話し合うんだよ? ボクは、もうキミに興味ないよ……あ、でも、一つだけ文句があるな。よくもボクの器を壊してくれたな。全部じゃないとはいえ、ボクの魂を取り込める逸材なんて、百年に一人居るか居ないかってくらい稀有だったのに……キミたち、ボクの器に用があるって言ってたから、無茶をしないであげたのにさ……まったく計算外だったよ」
「ほぉ? ライム・ラガムを殺したことをもう察しておるのか? 流石じゃのぅ」
「流石も何も――魂で繋がってたんだから、器が壊れた瞬間に理解したよ」
煌夜の身体で軽口を叩くレーヌに、ヤンフィは強い殺気をぶつける。けれどその殺気をまるで意に介せず、レーヌは肩を竦めた。
「さて、レーヌよ。妾の要求は一つじゃ。コウヤの身体から出て往け」
「断るよ、当たり前だろ? ボクを馬鹿にしないで欲しいな。キミが執心してるこの異世界人は、確かに魔力は希薄だし、ボクの能力をほとんど利用出来ないけど、器としてだけ考えれば、とても優秀だ。ライムが保有していたボクの魂を全て受け取ってもなお、まだ容量に空きがある……閉じ込められちゃったのは誤算だけど、嬉しい誤算でもある」
「――穏便に済ませようと思ったが無理かのぅ。であれば、妾も強硬手段を採るぞ?」
「強硬手段? 出来るならどうぞ? ボクに拒否権なんてないじゃん」
ヤンフィの脅しに対して、レーヌは、出来もしない癖に、と挑発的な態度を取っていた。確かに、煌夜に危害を加えられないことを知っているならば、強硬手段と言ってもたかが知れている。出来もしない癖に、と高を括る気持ちは理解出来る。
ディドも同じ思いか、ただ成り行きを眺めている。
「大鷲。玉座の間を隔絶させよ――【儀式剣饕餮】を始動させる」
「げっ、げぇえ!? 饕餮!? レーヌ様、レーヌ様、警告する! 饕餮、危険!! 逃げるをお勧めする!!」
ヤンフィはスッと右手を上げる。それに答えるように、中空から焦った濁声で大鷲が騒ぎ出した。
大鷲はこれから何が起こるのか理解している。それゆえに慌てている。
大鷲の慌てふためく様を無視して、ヤンフィは静かに集中を始めた。これから執り行う儀式は、手間と時間が掛かる。
しばらくして、玉座の間が張り詰めた空気に変わる。大鷲からは重い瘴気が溢れ出して、凍えるような冷気が玉座の間に満ち始めた。
「――『神獣饕餮の銘を持ち、神獣饕餮の神力を持つ高貴なる剣。妾は命じる。妾の怨敵を討ち果たすべく、妾に助力すべし。妾はこれより、儀式にて相応の代償を支払う覚悟也――」
「……興味深い、術式だ」
ヤンフィはグッと右手を握り締める。途端、右手には、1メートル前後で鉛色の剣身を持つ剣が顕現した。その剣は、先端が鍵十字になっており、斬る用途に不適切な形状をしていた。
儀式剣饕餮――幻獣界において最上位の神獣【饕餮】を顕現させて、一時的に使役することが出来る剣である。饕餮はあらゆる魔を喰らい、あらゆる魔を討ち祓う神獣であり、特定の姿を持たないが故に、形を成さない存在を滅することに特化している。
ちなみに、この魔を喰らうという特性は、魔剣エルタニンのように見境なく魔力を喰らうことではない。ましてや、マユミの妖刀マガツヒが持つ【暴食】の特性とも全く異なる。
饕餮の特性は、端的に言えば、概念を喰らうのであり、目に見えない魂をも喰らえる。故に饕餮ならば、煌夜を傷付けることなく、レーヌの魂だけを滅ぼすことが出来る。
「――神獣饕餮よ。妾の求めに応じよ。妾の望みを応えよ』」
ヤンフィはおよそ八千語の祝詞を詠唱して、振り上げた儀式剣饕餮を振り下ろす。
シャラン、と鈴の音が鳴り響き、玉座の間一帯が鏡面のような床と壁に変わる。白光が乱反射して、重力が何倍にもなる。
これをもって第一段階。さて、これより長く困難な儀式が始動する。
「……ボク。キミみたいな魔王属を相手にするのは、初めてだ。とっても人間臭い……これ、虚弱な人族が執り行う召喚系の儀式だよね? しかも、時間が掛かる類の儀式でしょ?」
レーヌが半ば呆れた顔でヤンフィを見ながら、そんな疑問を口にする。ヤンフィは不敵な笑みを浮かべたまま、その場の全員に向けて答えた。
「……呼び寄せるのに五時間、受肉させるのに一時間弱、と云ったところかのぅ? 代償は、天族ディドの血液と、人族五十人分の魔力、二十五時間の空間隔絶じゃ……じゃが、顕現さえすれば、目的を達しうるまでは消えぬ」
「――それ、対価と見合ってるかな?」
「さてのぅ? 仮に見合わぬとしても、汝が滅せるならばそれで充分じゃ……ところでディドよ。饕餮が顕現した暁には、周囲の魔力が吸収されるから覚悟せよ。併せて、顕現の余波で爆発が起こる――コウヤの身体を死ぬ気で護れ」
サラリとディドに無茶振りしてから、ヤンフィは意識を切り替えた。
儀式剣饕餮を発動して、饕餮を顕現するに至るには、七段階までの複雑な手順を踏む必要がある。それらの手順を正しく最後まで実施出来た時、ようやく儀式が成立して神獣饕餮が顕現する。
顕現した饕餮は、儀式剣饕餮を持つ術者との契約に従い、術者が望む目的を達するか、己が殺されるまでの間、現世に留まり続けて、命令に忠実な使役獣となる。そんな饕餮の実力は、古参の魔王属と同格程度には強力で、ヤンフィでさえも油断すれば屠られるほどの脅威である。
ちなみに、この儀式剣饕餮という武器は、レーヌの呟いた通りに、人族が魔王属を倒す為に苦心して編み出した召喚術であった。本来の用途は、人族が神殿の奥で密やかに執り行う性質の儀式である。それゆえに、戦場の敵前で使用する想定がない為、手順が複雑で時間がかかる仕様になっていた。
遥か昔、ヤンフィに対して使用された時は、だいぶ苦戦した覚えがある。その時に神獣饕餮は返り討ちにして、儀式剣饕餮を人族より奪い取った。
「そうじゃ、それと饕餮が顕現した瞬間から二十五時間、この空間は隔絶して、いかなる能力も使用できず、空間干渉も出来なくなる――妾たちに影響はないが、覚えておけ」
ヤンフィの台詞にピンと来ていない様子のディドを無視して、鏡面のようになった玉座の間を禍々しい魔力で満たしていく。
さて、気合を入れよう――ヤンフィは静かに目を瞑り、神獣饕餮の顕現に向けて集中を高めた。