bloom1 クレッセントの天使4
その2週間後に富樫さんから告白された。
結局わたしだって彼に惹かれていたんだ。
好きになっちゃうよ。 優しくて紳士で、かっこよくて。誰よりも安心させてくれる。
あっという間にわたしは彼に落ちた。 誰にも内緒でわたしたちは付き合い始めた。
デートはほとんど彼の部屋か都内のホテル。
たまにわたしが海外で出演しているショーに彼は来てくれることもあった。 そんなことをしていればmitsukiサイドのスタッフに気づかれるのに時間はかからなかった。
それでもわたしは仕事に穴を開けたり体調を崩すなんてしたことはなかったし、そのへんやはり彼もプロだ。 お互いに気をつかいあい、よい関係を築けていたからまわりも自然に応援してくれていた。 スケジュールも合わせてくれるようになったし。
ゆっくりと穏やかな関係が2年ほど続いただろうか。
確かな約束ではないけれど『結婚』の言葉も彼から出るようになっていた。
わたしは仕事をセーブし始め、三浦さんにも今期のオーディションは受けない旨を伝えた。
彼も残念がっていたがわたしとしては30も目前でこのままショーモデルとして続けていくのも難しいと感じていたし、よいきっかけだと思えば寂しくもなかった。
それに、新しい夢もある。 彼と一緒に生き、編み物をいかせる仕事をする。
胸がワクワクした。毎日が幸せだった。
その日の朝、富樫さんから電話があった。
『ごめん、別れてくれないか。』
翌日のお昼のワイドショーでは彼が結婚するニュースで賑わっていた。
そうか彼は結婚するのか。 相手は勿論わたしではない。どこかの会社の重役のお嬢さんだとテレビの中の人は言っている。 28歳のモデルが相手だとは誰も言ってくれない。
オフィスに顔を出すと三浦さんに会議室に呼ばれた。
「あれ、どういうことだ? 弥生ちゃんは知ってたの?」
「一昨日、別れてくれと言われました。それで終わりです」
「なんだ、それ?! バカにするのもいい加減にしろ!」
近くにあった事務椅子を三浦さんが蹴飛ばした。 キャスターも追い付かず、その場に激しい音をたてて倒れる。
「三浦さん……」
彼は自分が痛いような顔を泣きそうに歪めて怒ってくれた。
わたしは今のこの状況がよく理解できていなくて、悲しいのか悔しいのかさえわからなくて。 でも三浦さんが自分のことのように怒ってくれたことで、ああ、ここは怒っていいところなんだと気がついた。
「悔しい」
「弥生ちゃん……」
「悔しーよお………」
理解しちゃったら、もう止まらなかった。 身体中の水って言う水がみんな涙になって出ちゃったんじゃないかって言うくらいそれは止まらなくて、自分でもあきれた。
でも、泣いてもないても悲しいは小さくならなくて、溢れたぶんだけ水玉に穴が開いてしまったようで、うすら寒い体は両手で抱き締めても暖かくなんかならかった。
あのときの自分は、たぶん壊れていたんだと思う。
あとから人伝で聞いた話では、事務所の大口スポンサーであった会社の役員のお嬢さんとかなり前から縁談をすすめられていたらしい。
断るに断れずずるずるしていたところはっきりしない態度に「私の今度の誕生日は夫婦になった君たちに祝ってもらおう」と、期限をつけられてしまったのだという。
だからと言って電話一本で捨てられたことに今でも納得できるわけではないが、当時の、そんな理由さえ知らなかった私は更に納得できなかった。
彼の家に乗り込んでやる、彼女に洗いざらいぶちまけてやる、そんな呪詛にも似た思いで、そういえば最近呼ばれなくなった彼の部屋に出掛けていった。
合鍵は持っている。 まだ変わってなければだけど。 差し込んで回すとそれはあっけないほどいつも通りに開いた。
部屋はまるで変わっていなかった。 わたしの匂いや影を残したままの部屋に彼は彼女を招いていたのか。 おいてあった着替えも、忘れていった化粧品もそのままだ。
部屋には誰もいなかった。 わたしは部屋の中をぐるりと回り、そして見てしまった。 ゴミ箱の中に捨ててあった、わたしが出ていたショーの雑誌。
パリやミラノのファッションウィークが終わると書店ではあまり見かけないが分厚い雑誌が出る。
わたしはCMなどの仕事はしてこなかったから形に残るものはほとんどない。 その中でこの雑誌はファッションウィークに出展したメゾンがすべて載るので、わたしの写真も掲載されていた。 それを彼はいつも買ってくれていた。
言ってくれれば事務所で用意してくれたものがあったのに、いつでも買ってくれていた。
それが、捨ててあった。ゴミ箱に、ぽいと。
それを見たら膝から力が抜けた。 支える人もおらずその場に崩れると、もうなんだか世界の終わりのような気さえした。
信じていた人がさらっと他の人のものになり、わたしは比喩じゃなくゴミ箱に捨てられている。 毎日このカップルの幸せな様子がテレビに雑誌に溢れるだろう。
なにも知らない彼のスタッフから共演したのだからと不躾な披露宴の招待状が届くかもしれない。
その日が来るかもしれない。 そう思ったら。
自分の家より広いキッチンは料理のしがいがあって好きだった。 使いなれた戸棚から小さいナイフを出して、ベッドの上で左の手首を切った。
別に死のうとなんて思ってなかった。 少しは人の痛みを知ればいいと思ったのだ。 だから、ちょっと切って少し汚してあとは気を失った振りでもしてせいぜい慌てればいい。 忘れられなければ、もっといい。 そう思っていたんだ。
でも慣れないことはしない方がいい。簡単な気持ちで人の心を量るようなことはしてはいけない。 後悔なんかいくらでもするから時間を戻してほしい。
薄いナイフは思ったよりいい仕事をしてしまったので、あっという間にわたしの腕は血まみれになってしまった。 くらくらとめまいがして本当に意識を失ってしまった。
わたしを発見し、警察と救急車を呼んでくれたのは引っ越し業者の人だった。 あの部屋はとっくに解約されていて、その日全て処分される予定だった。
家具を引き取りに来た業者のひとが、ベッドで倒れているわたしを見つけて病院に運んでくれたのだ。 本だけではなく、わたしは部屋ごと捨てられていたわけだ。
見つけたのが彼や彼のスタッフなら、外部に漏れることなく処理してくれたかもしれない。 でも業者の人は救急車も警察もよんでくれたから、わたしのおろかな行動の一部始終は世間の人みんなが知るところとなった。
わたしは振られて自棄になった残念なモデルとして今まであまり出ることもなかった日本のメディアに乗っかることとなった。
大きな契約などしていなかったのは不幸中の幸いだ。
スタッフはみんなわたしの味方になってくれたけれど、やっぱり続けていくことはできなかった。
仕事はセーブしていたから違約金が発生するような迷惑はかけなかったが、わたしを知る人、応援してくれた人にはつらい思いをさせてしまった。
スキャンダルを抱えてそれでも活動しているモデルだってもちろんいる。 ただ、わたしにはそんな度胸がなかっただけだ。
そしてわたしは、静かに引退した。
辞めてしばらくは何もしなかった。 と言うか出来なかった。
本当に死にたかったのは、このときの方だったかもしれない。
後悔した。
なぜ、自分を傷つけた男の為に、大切な人たちを裏切るような真似をしてしまったのか。
困っていたわたしに声をかけてくれた三浦さん、素敵な名前とチャンスをくれた社長、わたしが何者かも分からないのに応援していると手紙やコメントを寄せてくれた優しい人たち。
それを思うとあれほどライフワークにしたいと思っていた編み物さえ手につかず、見るのも嫌でそれほどに心は萎縮していた。
それに誰かに見られているようで、実際は本名や素顔の流出はなかったようでそれはなかったのだが、外に出るもの怖かった。
家から出ることもできず、眠ることも食事をとることもままならなくなってきた頃、従兄弟が訪ねてきた。
彼とその奥さまは郊外でコンビニを経営していた。 そこで働かないかと誘ってくれるためだ。
「弥生にとっちゃ、くだらない仕事かもしれないけど。なんにもしないでここにいるよりいいと思ってよ」
くだらなくなんかない。 一番くだらないのはわたしだ。
わたしの事情を全てわかってくれて差しのべられた手を、わたしは迷わず掴んだ。
住んでいたマンションを引き払い従兄弟の案内で新しい職場、彼のコンビニに向かった。 彼の仕事が終わってからだから、もうすっかり暗闇が町を覆っていた。
車の窓から『あそこだよ』とそのコンビニを教えてもらったとき、涙が出た。
暗い闇の中に暖かく浮かぶ光が、じんわり心を包んだ。沢山の人が吸い込まれていく様も、わたしを安心させた。
それこそ今まで住んでいたところにだってコンビニなんてわんさとあった。 でも明るい中にあってそれは、あって当たり前の"ただの"コンビニだった。
でも、ここはちがう。 無条件に優しい人がいて暗闇でも迷わない様に夜の中にぽっかりと浮かんでいる。 こんなバカなわたしさえきっと受けてめてくれる。
大きな間違いをしてしまったけれど、こんな場所が用意されていて誰にかわからないけれどお礼を言いたい気持ちだった。
いつか、いつか富樫さんの幸せを願ってあげられる自分になれたらいいと思えるほどに。 今はまだ、死んでしまえとか、思っているのだけれど。
新居が決まって新たな職場で働き始めた。 ここでは誰もわたしのことは知らない。 そもそもファッション誌やCMに出ていないショーだけのモデルは一般のひとに対しての知名度は低い。 よほど興味があるのでなければ気がつかれることはない。
わたしはただ身長の大きい人、という認識だけでこの地域に溶け込んだ。
ここら辺には商店がなく、ちょっとした買い物ならここのコンビニで済ませる人が多い。 赤ちゃんから、おじいちゃんまで近所のひとはみんな顔見知りになった。 みんな優しくてあったかい土地柄、わたしのこわばった心も次第に緩んでくるようだった。
だったのに。
心音ちゃんの叔父さんだという人はブライダルの企画会社の名刺を出して手伝ってほしいと言ってきた。 編み物のことで手伝えることがあるのなら喜んでしたいと思ったが『ブライダル』の文字に胸は冷えた。
わたしがそんな神聖なものに関わっていいわけがない。命を粗末にしたような者が花嫁の門出を飾るなんてあり得ない。
今でも覚えている。 腕を流れる赤を。汚れていく2年の甘い思い出を。彼と一緒になることを夢に見ていたかわいいわたしを。
その腕で近づいてはいけないと思う。
断ろう、でも心のどこかでは引き受けたい自分もいて。 それはダメだ、ばれなきゃいいんじゃないの?と両極に揺れる気持ちが今まで編みためたものを紙袋に詰めさせた。
採用されるって決まった訳じゃない。 明日まで夢を見たっていいんじゃないか。
でもやっぱり、ごまかすことはできなかった。
「お久しぶりです。『mitsuki』さん?」
「……太田、さん」
「うちの情野が編み物ができる素敵な方がいると連れてこられたのですがまさかmitsukiさんだとは……。世間は狭いですね?」
「……今は柴田です。mitsukiではありません。……それに昨日お話を聞いて、やっぱり私には荷が重いと思って作品も持ってきませんでした。ご連絡すればよかったのに申し訳ありません」
惨めだ。 情野さんも複雑な顔で私を見ている。 だけど、もう一人いる女性はにこにこしている。 太田さんからなにか聞いた訳じゃないのかな。 なんだろう、こっちまでつられて笑いたくなっちゃうような柔らかい雰囲気のひと。
「太田くんの言いたいこともわかるけど、私こちらの作品、見たいなー。ね、見せてほしいな?」
「…………」
話し方も柔らかい。やさしい、あまい、ゆっくりな言葉たち。
「持ってるでしょ? 今日」
「……どうしてそう思うんですか?」
「だって、約束してるのに勝手に破る人には見えないし。今、太田くんに会うまでは見せてくれるつもりだったでしょ?」
「……」
「当たりだ。ね、最後は柴田さんが決めていいから見せて?」
「……車に」
太田さんは露骨に嫌な顔をした。
「咲乃さん、無駄ですよ。私は反対です」
「そうかなー? 私はピッタリの人材だと思うけど?」
オーナーである従兄弟に許可をもらい車まで行く間、太田さんと咲乃さんというひとは話していてたけど、情野さんは何も言わなかった。
呆れられただろうか。 昨日、名刺を頂いたとき本当の事を言っていれば、会社の人を巻き込まなくて済んだのだから怒っているだろうか。 車から紙袋を出し中身を取り出す。
「アイリッシュと言われたのでこんなものしかありませんが……」
「え……」
「うわーーー!」
「……」
わたしが持ってきたのはアイリッシュレースのつけ襟とカーディガン。 ロンドンのファッションウィークに出演したときそのまま休暇を取りアイルランドまで行って教えてもらった思い出の襟と、その後せっせと編んだカーディガンだ。
まだ、彼も側にいた。 夢をたくさん見ていた。 あの頃の気持ちが一杯詰まっている。
だから手編みは重いのだろう。そして時間が経つとこんなにも切ないのだろう。
「ねぇー、太田くん?」
「これは、予想外ですが……」
情野さんは作品を目の前に広げて何も言わない。
「……いいでしょう、社に持ち帰り検討させていただきます」
「さっすが、太田くん!」
「それでよろしいですか? mitsukiさん」
「……mitsukiではありません、柴田です。太田さんこそいいんですか?」
「……正直、時間がないんです。このレースになら、助けて頂きたいと思います……」
太田さんの苦しい胸のうちはわかる。 他に、宛がないのだろう。 唯一の救世主がわたしで本当に申し訳なく思う。
「情野くんは?」
「俺は……」
「気に入った?」
「柴田さんが好きです」
……………
「「「はあああっっっ????」」」




