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急転直下を望むのは、何も俺だけではない。俺の見方では、乗客全員も視覚聴覚諸々は健在であろうから、それらは皆揃って解決を願ってやまないだろう。
現状をより正確に理解出来るのは、身体の自由を持った不可思議二人だけかもしれないが、リオ・マルデリカとここまで行動を共にした俺は、他者と比較して不可思議に一歩近付いた身であるが故、事態の把握には全力をあげる所存である。
「電車に乗る前からつけてきてたわね、何か用かしら」
リオ・マルデリカは冷徹な声でそう言った。
電車に乗る前というと、二万円の出費をしたあの服屋からだろうか。そういえば、あの時からリオ・マルデリカの様子はおかしくなったのだ。
「聞く必要が?」
そう答えた男の声は嘲るような調子だった。車体がレールの上を滑る音が重たく響く中で、嘲笑含みの声は実に不快に俺の鼓膜に潜り込んでくる。
バチバチと炎が鳴る。目には見えない空気の粒が焼かれているようだ。俺の額には汗が滲んでいる。狭い車内に燃ゆる火あればそりゃあ熱くて当然だ。
一つの車両の端と端。中央の通路を道筋ににらみあう両者。
座席に散見される客は誰一人首すら動かせない。
「その禍々しいオーラ。銀の髪に金髪混じり。一目で気付いた。典型的なラレバ教徒の女だ」
「だとして、それが一体なんだと言うの」
「我らイセンテ教徒の敵である」
不可思議が意味不明な言葉を交わす。ラレバキョーだイセンテキョーだ、なんだと言うのだ。
「驚いたわ。この世界に転生しているのがわたしだけでないことは聞いていたけれど、まさかこんなに近くで、こんなにすぐ出会うことになるとは思っていなかったもの」
「ああ、俺もだよ。この世界で平穏に暮らしていたというのに、初めて会ったシャガレ界の人間がまさか異教の者とはな!」
男はがなり、手のひらの炎を益々大きくさせた。
「ラレバ教徒は殺さねばならぬ! 異教は滅ぶべし! 異教徒は死すべし!」
「多神教は他の宗教には寛容なものだ、なんて理央は言っていたけれど、わたしたちの常識に当てはめればこんなものね。悲しいわ」
「挑発か女ぁ!」
「そちらから仕掛けてきたことでしょう」
どうやらあの男もまた異世界から来たようだ。旧知の間柄とは思えないが、浅からぬ因縁ありありなご様子。
緊迫感などという曖昧なものが、これほどまでに肌を痛め付けてきたことなど、未だかつて経験したことがない。
「はぁ」と嘆息したのはリオ・マルデリカであった。
「ごめんなさい、京司。せっかく案内に付き合ってくれているのに、ビルも野球も、お預けかもしれないわね」
俺は返事が出来ない。頷けもしない。
この生きているのか死んでいるのかも判然としない、僅かな自我でのみ存在している俺に、返答なんぞ期待してもいないだろうが、俺は何故だか心苦しかった。
視界の端に映るリオ・マルデリカの表情は悲しげだったのだ。この時を心底楽しみにしていたからだろうか。いいや、それだけではないだろう。俺の方へは一瞥もくれず、しかしこの苦しげな声音。
鈍感を自称する俺だが、女の悲哀一つ感じられぬほどの阿呆にはなっていないつもりである。
会って二時間弱。大して情も湧かぬ程度の関係であるが、目の前でこんな顔をされてみよ、声を聞かされてみよ。
胸の痛みだけは、凡も非凡も関係なく、一人前なのだ。
「我らイセンテ教が主神プラードネウモに誓って、異教を排除する!」
男は叫び、悪声を轟かせ、車内を汚す。
手のひらの炎が益々猛る。
地獄もかくや。それはおぞましく光る死への道しるべのようだった。
「灼熱神トマーリボエル!」
その声が鍵であったかのように、炎が男の腕にてとぐろを巻いた。
炎は螺旋となり、バネのような伸びやかさでリオへと駆け出す。
これが魔法か、これが魔術か。
刹那の間にて、災厄は我々に牙を剥いた!
ーーそして、リオ・マルデリカは、一筋の涙を流した。
俺は、回り燈籠のように彼女の言葉を思い出していた。
彼女は何を望んで世界と世界との壁を突き破りこちら側へやって来たのか。
リオ・マルデリカは、平和を望んでいたのだ。
争いを、遠ざけたかったのだ。
リオは、どこからともなく取り出した短剣を握りしめ、渦炎を横凪ぎにて切り払う。
炎は散った。それはとても呆気ない炎だった。
リオ・マルデリカは、魔法も魔術も得意としているという。争いの絶えない世界で生きてきたという。
その力は凶器であるといった。ナイフや棍棒よりも恐ろしい武器であったとも。
信じられぬ。
今の俺には、そこに立つリオ・マルデリカは、とても可愛らしい服で着飾った、一人の可愛い中学生にしか見えない。
白のノースリーブのニットも、桃色のスカートも、異世界製のブーツも、その短剣には決して似合わぬ。それらにそぐうものはただ一つ。ビルに野球にこの世界に、心踊る少女の笑顔のみである。
ああ、かくも虚しき現実よ。
彼女の力は凶器であった。
壁を越えて尚、彼女は向こう側の宿命から逃げられぬのだ。
ーー弟よ、罪深き弟よ。俺は一体どうすべきか。
一人残された愚鈍な兄は、この現実世界において、どう振る舞うべきなのだろうか。
弟よ、賢き弟よ。
身動き一つとれぬ兄は、彼女の頬を伝う涙を拭うことすら出来ぬ兄は、保守的狼は、その瞬間を見つめることしか、出来ないのだろうか。
本当に、そうなのだろうか。
***
方々から、雄叫びがこだまする。
この街を守る門は三つ。イセンテ教徒はその全てを襲撃してきたのだ。各地既に戦闘が始まっていた。
パレク・オキヒヨロンはその魔法にて花火を打った。司令塔として、彼は多くの魔法使いや魔術師の指揮を取るのだ。
私は子供らと共に地下へ続く道へと走った。幾人かを送り届けたならば、またも外へと駆け、女子供が逃げ遅れていないか、血眼になって探した。
念のためにと門の近くへ行くと、そこには、苦痛に悶える人間が転がっていた。
鎧姿を見るまでもない。敵兵であった。
その横を見れば、仲間が一人膝をついていた。ボーネソル・フォールテン。魔術師だ。親友だった。
息をしていない。死んでいる。
装備を調える間もなく飛び出した彼は、結婚を間近に控えた身であった。
愛する者を守るため、魔術の槍にて心臓を貫かれながらも決して臥すことなく、その場にて息を引き取ったのだろう。
ボーネソル・フォールテンもまた、争いを好まぬ男であった。
「助けてくれ」そう口にした敵兵の手には、魔術の槍がある。こやつである。この異教の者が、彼の命と、ピャーロ・スニークスの恋人と、私の友を殺めたのだ。
私は剣を握った。強く握った。
敵兵の命乞いに耳を貸さず、私は、敵兵の鎧の胸に光る異教の紋を貫いた。
一言、
「異教徒は死すべし」
そして、神術師は、まだ来てくださらない。
こんなことになるなんて……。(私が一番驚いている)