毒を食べる
毒を食べる
心が悲鳴をあげている。ぎゅうううっと、このまま握り潰されてしまうのではないかと危惧してしまうほどの衝撃が駆け抜けて。どくんどくんと早鐘の様な警告音が肢体を震えさす。瑞葉は薄く笑った。全身が毒に蝕まれているのだ。
長年付き合っていた幼なじみの彼──郁斗が言った。「他に好きな人が出来た」と。「別れよう」と。それが別れ話だと瑞葉はしばらくの間、理解出来なかった。ただその時吹いた一筋の風を刃物の様に鋭く感じたのを覚えていてる。ぼんやりと彼の言葉が頭の中で反芻されてようやく意味を咀嚼出来た。
(死にたいな)
咄嗟に浮かんだのは自分の死だった。だって自分は今まで郁斗だけを愛していたから。郁斗が傍にいてくれたから生きてこれたのだ。その郁斗に背中を向けられたら、この世にいる意味がなくなってしまう。
「分かった」
瑞葉は小さく頷いて、郁斗の前から消えた。泣いてしまいそうだった。しかしぐっと唇を噛みしめて溢れ出そうになる涙を必死に押し込める。心臓がやけにうるさく、身体は鉛の様に重い。精神はズタズタで息をするのも億劫なくらい生を投げ出したかった。
──他に好きな人が出来た。
気付いていた。それまで誰より優しかった郁斗が、余所余所しくなっていたこと。知らない香水の残り香がしたこと。行為はしてもキスはしなくなったこと。デートの回数が減ったこと。一緒にいてもぼんやりとしていることが多かったこと。そして、郁斗が注ぐあの子への熱視線──……。
そのひとつひとつが毒だ。苦しくて苦しくてこんなにも心が叫んでるのに致死量には至ってないらしい。失恋では死ねないのか。人間の死とは案外簡単なもので、車に轢かれたら、高いところから飛び降りたら、首を吊ったら、刃物を突き刺されたら、銃を発砲されたら──きっと死ねるんじゃないか。なのに毒をこれだけ飲んだ瑞葉が死なないのはおかしな話だ。全身に毒が回っているのに生きなければならないのか。いやそんなはずはない、と瑞葉は思い直した。まだ毒が足りないだけだ。もう少し毒を喰らえば、自分は──……。
「郁斗先輩、あの冴えない幼なじみと別れたみたいだね」
「正直ざまぁだよ。全然釣り合ってなかったもん。郁斗先輩には琉歌先輩がお似合い! お似合いと言えばこの前、二人がキスしてるとこ見ちゃった!」
「えー!? マジで!? 僕も見た~い!」
「二人のキスシーンはね、絵みたいに綺麗だったよ!」
「郁斗先輩、あの幼なじみの時と違って堂々といちゃついてない!?」
「そりゃあねえ。琉歌先輩マジで美人だもん。見せつけたいんじゃない?」
「幼なじみと違ってね」
ぎゃはは、と下品な笑い声を響かせ廊下を駆け抜けていく名も知らぬ後輩達。聞くつもりはなかったが、柱の陰で偶然聞いてしまった瑞葉は溜息を吐いた。容姿端麗な郁斗は学園でも目立っていた。ただでさえ色恋沙汰に多感な年齢の生徒達は、有名人である郁斗の恋愛を注視していて捨てられた瑞葉を面白可笑しくネタにする。それはいい。知らない人達から嘲られることは慣れた。だけど。
──二人がキスしてるとこ見ちゃった!
苦しい。悲しい。痛い。禍々しい毒が身体に注ぎ込まれる。じわりと目頭が熱くなり、涙が滲みそうになった所で頭を振った。
(きっともうすぐ、もうすぐだから……)
泣いてはいけない。折角の毒が薄まってしまうから。