1-1-1[ペスト村]終わりと始まり
悲劇とは誰の許可を得ることも無く、唐突に訪れてしまうものです。それは運命という言葉を使ってしまえばそれまでですが、でも定められた明日というのを見ることができないわたしたちにとっては、訪れてからの出来事をただ素直に受け入れるしかありません。
その日、わたしたちの暮らしていた村は魔獣によって壊滅させられました。わたしが15年間ずっと暮らしてきた村です。小さいけど自然に囲まれた綺麗なところで、みんなが和気あいあいと仲良く暮らしていた村です。それが一夜にして見る影もないような瓦礫の散らばる広野と果ててしまいました。
建物が壊されるだけだったならまだマシだったかもしれません。だってまた新しい土地でも見つけて、新しい家でも建てればいいんですから。時間とかお金とか労力とかはかかるかもしれないけど、だけどまたやり直せる、明日に希望を託すことだってできる、またみんなと笑いあえる日々を送ることだってできるかもしれない。
……運命は多くの人たちの明日を絶ちました。具体的に言うならば、わたし以外の村人はみんな……。取り戻すことのできない命を失ってしまいました。
絶望の夜が明けた頃、我が家の崩れ果てた姿を見て呆然と立っているのがわたしです。まだ破滅の熱が冷めない中、昨日まで人が暮らしていたとは思えない廃屋をじっと見つめます。
あまりに現実味のない世界に意識を背けようとするけど、身体中に訴えてくる五感のせいで引き戻されてしまいます。現実を目の当たりにしたわたしにできることといったら……。
「パパ……。ママ……」
ずっと呼び続けました。そのことに意味があるかどうかすらわかりません。ただそうしてないとパパもママもあまりに遠くへ行ってしまいそうな気がして。
泣きたい気持ちは溢れるのに涙が流れてくれないのは、きっと昨晩中ずっと息を潜めて泣いてたせいです。渇き切った目は鋭い痛みに襲われるけど、それでも目の前を見つめることに精一杯過ぎて瞬きさえできず、世界は霞み続けます。
そんな時間をどれほど過ごしたでしょうか。
ガタッ……、ザザ……。
「……! だ……、誰? 誰かいるんですか?」
不意に後ろの方から物音が聞こえてきました。先ほどからずっと聞こえてくるような崩壊の名残音とは違う、なんというか、意思を感じる音。
自分以外にも魔獣から逃げ延びることができた人がいたのかもしれない。声が嗄れてしまってうまく出せないけど、それでも力の限りを振り絞って音が聞こえてきた瓦礫の方へと呼びかけました。
「誰かいるんですかー!? い、いるなら返事をしてくださーい! 誰かいませんかー!? …………」
返事無し、姿を見せてくれることも無し。
そこで悟ってしまいました。さっきの物音を立てたのが何だったのかを。冷静に考えればすぐに思いつくようなことでした。
この村は昨晩に襲われたばっかり。だったら物音を立てる可能性が高いのは、襲われた側の人間ではなくって、襲った側じゃないのか。まだ村の周りを徘徊してても何もおかしくない。
気づいた時にはもう遅いものです。案の定、瓦礫の上に身を翻して現れたのは紅い眼をした巨犬でした。体躯は紫の毛で覆われ、人を狩るために特化した爪と牙を覗かせる様は、まさに魔獣と呼ぶに相応しい佇まいです。
その巨犬とはまだ距離があるものの、襲い掛かられたらこんな距離なんてあっという間で埋められてしまいます。下手に動いたら襲われそうな気がしたので、隻眼に睨まれたまま身動き一つできません。蛇に睨まれた蛙状態です。
いなくなれ、いなくなれ、いなくなれ。
心の中でそんなことを思ってもそうそう思い通りになるはずはありません。襲いかかってはきませんが、いなくなることもありません。
ガタッガタ……。
またも後ろの方から物音が聞こえてきました。
誰かが助けに来てくれたのかも、とかやっぱり思ってしまうわけです。さっき学んだはずなのに。
希望的な想いは叶うはずもなく、振り返ると二頭目の巨犬が牙を剥いてました。
機を待っていたのか、それからあれよあれよという間に巨犬が現れて、ついには十頭もの巨犬がわたしの周りを取り囲んでいるという構図が出来上がってしまいました。どうやら御丁寧なことに、わたしを物理的に逃げられない状況に追い込みたいようです。当のわたしは既に、精神的に逃げられないような状況なんですけど。
これは、もう、ダメだ。どうしようもない。逃げられない。せっかく生き延びることができたと思ったのに。……あぁ、……でもそっか。わたし一人だけ生き延びることができたって何の意味も無いよね。わたし一人だけじゃこの先も生きていけるわけないもん。それに死んじゃうのは怖いけど、天国でパパとママに会えるかもしれないし、仲の良かった友達とも遊べるかもしれないし。死んじゃうのも悪くないのかな?
巨犬が徐々に包囲の輪を縮めてきます。わたしは覚悟を決めました。死に希望を委ねました。
一歩一歩近づいてくる魔獣。この瞬間、今すぐにでも駆けてきて、わたしの命を吹き飛ばすんじゃないか。……覚悟をしたって怖いんです。足が震えてしまって立ってるのがやっとなんです。
この時ばかりは自分の明日を知ることができました。運命を知ることができました。この運命が覆るはずないと思ってました。
覆るはずないと思ってました。
ついに正面の巨犬が駆け出して、それに吊られてか、他の巨犬も一斉に襲いかかってきます。わたしは恐怖に目を開けていられなくなってギュッと瞑ってしまいました。
目を瞑った世界は当たり前のように真っ暗です。何も見えない中、巨犬が地を蹴る音が聞こえてきます。神経が研ぎ澄まされているせいなのか、時間の感覚がイマイチわかりません。目を瞑ってどれだけ時間が経ったのか、巨犬はどれくらい近くまで来ているのか、今まさに首が掻き切られる瞬間なのか。頭の中で思考がグルグル廻ります。
——死んじゃうの?
頭の中に声が響きます。微かにだけどハッキリと声が聞こえます。それが自分自身で自問自答をしている声なのか、幻聴を聞いているのか、何処かの誰かが話しかけてきているのか、それすらわかりません。
徐々に近づいてくる巨犬の足音。
——殺されちゃうんだー、へぇー。
またしても聞こえてきました。周囲の音がありえないくらい鮮明に聞こえてきます。
……この声は自分の声じゃない。それに幻聴でもなさそう。つまり……?
——せっかくアライブなのにね、もったいないね。
誰かいる! 誰かがわたしの様子を見てるみたい! でも誰が?
気になって目を開けてしまいました。目の前には跳躍してわたしのことを襲おうとする巨犬の姿。反射的にしゃがみ込んで避けると、頭上を掠めていくように飛び越えていきました。
パッと辺りを見渡しますが人間の姿はどこにもありません。その代わりにいるのは加速して迫り来る巨犬の群れ。
死は覚悟していたはずなのに、一度そこから逃れようとしたせいで覚悟に揺らぎが生じちゃったようです。死にたくないという気持ちが全身から沸き立ちます。生きるための意識が覚醒します。
震える足に力を入れて立ち上がり、その勢いのまま走り出します。少しでも恐怖から遠ざかるために走ります。その後どうしようかなんて考える余裕はありません。ただ、今のわたしが生き残るためにできるのは逃げることだけ。逃げ切れるとか逃げ切れないとかではなく、逃げなくちゃいけない。
四方から飛んでくる巨犬の体躯を掻い潜るように逃げます。だけどわたしなんかが易々と逃げ切れるようだったら村も壊滅せずに済んだでしょう。10秒としないうちに瓦礫に足を取られて、派手に転んでしまいました。右手をしこたま強く地面に打ち付けたはずなのに、痛みを覚えることもままならないようです。
倒れたわたしに為す術などありません。ここぞとばかりに駆けてくる巨犬を呆然と眺めるしかありません。
最早、何かを考える気力も残っていませんでした。
だからこの後起こった出来事を現世のものとは思えなかったのです。
腕を振りかぶりながら飛んでくる一頭の巨犬。
体を守ろうと反射的に突き出されるわたしの両腕。
どこからか聞こえてきた炸裂音。
空中で先ほどまでの慣性とは全く違う方向に飛ばされる巨犬。
衝撃を受ける必要が無くなり、放ったらかしにされるわたしの両腕。
吹き飛ばされたまま受け身も取れず、動かなくなった巨犬。
警戒して距離を置く他の巨犬。
さっき炸裂音が聞こえてきたほうの瓦礫の山から不意に姿を現した一人の女の人。
「ふぃー、ブラボーブラボー。さっすがあたし。ハンドレッ発ハンドレッ中の腕前だーい」
意味不明な言葉を並べてる気がするその女の人。
わたしよりちょっぴり年上に見えるその女の人。
人差し指で銃をくるくる回してるその女の人。
おっきなリュックを背負ってるその女の人。
あくびをしてるし、緊張感なんてまるで無い感じでわたしのほうへ歩み寄ってくるその女の人。
両腕を放ったらかしにしたまま、天国からの使者が来たのかなって心持ちでその女の人を見詰めるわたし。
「それ、何のポーズ? 雨乞いでもしようとしてるのかい?」
わたしを小馬鹿にした雰囲気で話しかけてきたその女の人。
話しかけられた言葉の意味が全然理解できないわたし。
高圧的な唸り声で威嚇をしてくる巨犬。
わたしの頭の上に手をポンッと置いたその女の人。
やっとそこで通常の思考回路を取り戻すことができました。頭の上の確かな触感に、夢とは思えない温かさがあるように感じたからです。
女の人は手を差し伸べて来ます。どうやらわたしが立ち上がる手助けをしてくれるらしいです。正直わたしはまだ立ち上がるだけの気力なんて無かったけど、でもその助けを無下にもできなくて、無けなしの体力でどうにか立ち上がりました。
女の人は立ち上がったわたしを感慨も無さそうに一頻りボーッと見て、そして軽く手を挙げながら尋ねてきました。
「やぁ、元気?」
「…………へ?」
……えっと、……見りゃわかるでしょ。元気なんてありませんよ。空気を読もうよ。挨拶の使い方間違えてるよ。
しかしこれが、残念ながらわたしたちの最初の会話となってしまいました。こんな出会い方をしたんじゃロクな関係を築けるはずもないってもんです。
「いやー、見事に囲まれちゃってるね。これはもしや巷で言う絶ボディー絶ライフってやつだね。このままだとあのワンちゃんたちにイートされちゃうね、あたしたち」
絶ボディー絶ライフ? あぁ、絶体絶命のことか。
……ってそんなことはどうでもよくって!
なぜか女の人はそんなことを言いつつも、どこか達観してると言うか、あっけらかんとしています。
「そ・こ・でー、そこで提案があるんだけどー」
巨犬がまたジリジリと距離を詰めてきてるのに何をのんびりしてくれちゃっているのでしょう。なんだかイライラしてきます。
それでもこの提案こそがわたしの運命を覆すことになるわけです。そしてわたしたちの旅の出発地点にもなるわけですが、この時そんなことを知るはずもありません。
女の人は無邪気そうな笑顔を浮かべながら言いました。
「食べ物をくれるんだったら、君が生き残る手助けをしてあげてもいいんだけど、どう?」
その提案はその時のわたしにとって超不快な最悪の提案でした。