笹の迷宮
冒頭、虫の描写があります。嫌いな人はとばして読んでください。
父親とのやり取りからでも読めますので。
笹の迷宮
あの頃、僕のお気に入りは、家の裏にある古い瓦を積んだ場所で、捕まえたムカデだった。僕の友人たちに、この生き物を見せると、飛び上がって嫌がり、僕を変わり者扱いするのだった。だが、僕にはそんな事はどうでもいいことだった。僕は生き物ならどんなものだろうと大好きだったのだ。
僕は飼育ケースにルーペを近づけ、ムカデの赤黒い節足が滑らかに動き回る様を見て驚嘆したものだった。ムカデの体は数え切れないパーツから出来ていた。赤黒くつややかな長い胴体はたくさんの節からなっていて、その一つづつに移動するための小さな足が二つづつ付いていた。頭や触覚、節足、それらが一つの誤りも無くメカニカルに動き回る姿に、私は心を躍らせるのだった。確かにムカデは不気味な形をしていたが生きているのだった。
夏の時期に、それに触ってしまい噛まれた事もあった。私が飼育ケースを掃除しているときムカデを掴むと、それは驚くほどの俊敏さで身をよじり、親指の付け根に噛み付いたのだった。私は突き抜けるような強い痛みを感じて、ムカデを振り落とすと蓋を閉じ、傷を水で洗った。僕は軽くショックを受けた。
父は仕事から帰ってくると私は大きく腫れ上がった親指を見せた。彼は私の軽率さを注意すると、手を見てくれた。彼は獣医だった。
「まあ、特に問題は無い」と彼は短く言い、抗ヒスタミン剤を塗ってくれた。
「ありがとう」
「修司こういう毒のある生き物を扱う場合は注意しなければだめだ。ゴムの手袋でもつけて触るんだ。だが、ヤマカガシやマムシでなくて良かったな。それにコブラだったら死んでいたぞ」
「ヤマカガシに毒なんてあるの?」と僕は聞いてみた。
「ああ、ある。ヤマカガシの頸部に、強い毒性があることが報告されている。それにマムシは子どもや老人、体力のないものが噛まれるとかなり危険だ。私の言っている事がどういうことか分るね。それにマムシやヤマカガシはいくらでもいるからね」
「うん」
「それならいい。毒のある生き物がどういうものか分かっただろう。こういうものを扱うにはしっかりした知識が必要なんだ」
「うん、わかった。毒のあるものには気を付けるよ」
「それがいい。自分の扱えるものと扱えないものを、区分けできることは大切な事だ。よく覚えておくといい。それと今日は軽い熱が出るかもしれない」
「熱が出る?」
「ああ、子供や年寄りがムカデに刺されると熱が出る事があるんだ。君はもう中学生だからたぶん大丈夫だと思うが、熱帯地域では大ムカデに刺されて、ショック死した例もあるらしい」
「死んだの?」
僕は少し心配になった。
父は少し笑い「いや、心配する必要は無い、日本に生息するムカデは小さく毒性が低いからそういった報告はない。ただ、万が一に熱が出て、患部が強く痛み我慢できないようだったら、私を起こしなさい。病院につれていくから」と言った。
父は普段から口数の少ない男だった。彼は自分から言葉を発するのは普段の挨拶ぐらいか動物を診療している時だけで、余計なことはほとんど話さなかった。
僕は彼の何気ない態度や話し方が好きだった。彼はよく一人で本を読んでいた。それも、自分の専門の本ばかりでなく、文学や人類学の本もよく読んでいた。僕も本を読んでいて、読みわからない事があると父親に聞いた。父親は聞かれたことに対してほとんど表情を変えず論理的に説明した。何事も論理的に話すのが彼の特徴だった。
彼はどういうわけか、いや、ある意味当然といえばそうなのか、冷たい人間だと多くの人から、思われていたようだ。だが、そんなことはない。それについては弁護をしなければならない。彼はときどき救えなかった動物の話を悔しそうに話し、獣医療がいかに無力なのか僕に話した。
彼はよく「人間は痛みや病気の症状を言葉に出来る。でも、動物にはそれが出来ない。だから、まず目の前にいる病気の動物になって、感じ考え抜くしかない。他者の痛みを自分のものできなければわからない」と言っていた。僕は『他者の痛みを自分のものにする』というのは、いささか格好良すぎると思う。動物であろうと人間であろうと、『他者の痛み』を自分のものには出来っこない。だが、父の言う『他者の痛み』を自分の中にあるように感じ想う事は、出来得るのではないかと思うのである。それに、そうしたことの出来る人間は冷たい人間にはなれないのではないかと父を弁護したい。
確かに口数は少なく表情の変化は乏しい男であった。確かに風変わりで、感情表現が巧いとは言えなかった。そういう父の影響を受けて育った僕は父に良く似ていると言われた。しかし、これも表面的な意見で、僕と父は全く違った人間だった。僕は父とは違って本質的には物事の判断を感情に委ねる人間なのだ。
僕は中学の二年生だった。田舎の中学で特別なことは周りに何一つ無かったが、身の回りには僕の大好きな生き物が溢れていたし、必要なことはたった一人でも勉強する事が出来たので、僕はこの生活に満足を感じていたのだった。しかし、それも来年の卒業と共に終わるということになっていた。
それには理由があった。母親は妹と東京で暮らしているからだ。母親は五年前から研究者をしていて、東京の大学にいたのである。そこに、今年の九月から妹が行ったのだった。それは僕たち家族に深刻な出来事が起こったからであった。妹に起こった事件を忘れてしまいたいという事情もあった。だから、父も僕の中学卒業を期にこの地での開業をやめにして、一家そろって、東京に移ってしまおうと考えたのだった。妹の事件は僕たちの心に大きな傷を残していた。僕たち家族にとって、その傷は深いやけどのようなものであった。
僕は学校から帰ると日課の生き物の観察に笹原に行ってみようと思ったのだった。僕は家に居るときは、父が連れてきた動物の面倒を見るか、生物の観察をしていた。僕は植物の標本を作ることや、捕獲した生き物のスケッチをすることがとても好きだった。
その日は、強い南風が吹く日だった。風が強くなかったら、海に行ってみたかったのだが、タイドプールを探るのは危険だと思った。こういう風の強い日は磯の生き物を
見ているうちに、高波にさらわれる危険性があるのだ。
風の吹く日は笹原の中が不思議と居心地がいいのである。僕はそれを経験的に知っていた。
僕はノート、スコップ、カッターをバックの中に突っ込むと、フードの付いたジャケットを羽織って出た。そして、自転車に乗り、30分ぐらい走り、台地の縁へとやってきた。そこで自転車を桑の木によりかけると所々、赤土のむき出しのなったゆるい小道を登っていった。大きな風が吹くたびに、笹の上部が大きく揺れているのが見えた。
緩いがけを登り切ると、崖の縁に沿って、それほど大きくないタブの木が生えていた。さらに、そこから見通しの悪い幅2メートルぐらいの小道が、笹を掻き分けるように奥へと延びていた。笹のトンネルの中に入ると、僕は奥へと歩いていった。笹原の中は風の影響をあまり受けていなかった。ざわざわと上から音がするものの、中はほとんど風を感じなかった。ただ、海から吹いてくる南風は微かな潮の匂いを含んでいた。
僕はとりあえず闇雲の歩いてみる事にして、どんどんと奥へと歩いていった。地面には笹の葉が落ち所々にゴミが落ちていたが、汚れては居なかった。
僕はまっすぐ進み、途中二股の道を左に折れ、途中窪んだところを通った。窪みの底には密集した笹の隙間からコンクリートの土台みたいなものが見えた。見通しの悪い笹の隙間から目を凝らすと、土台は土管巻きで井戸のようだった。僕は立ち止まるなんとなく、もし井戸だっだら、水があるのだろうか覗いてみたくなった。しかし、止めた。密集した笹を掻き分け古井戸まで行くのは骨が折れそうだった上に、万が一に井戸の中に転落したら冗談ではすまない。
僕は気を取り直すと、また歩き始めた。
ここは、ずいぶん前は畑だったそうだ。唐黍やら里芋、麦、トマトや茄子、胡瓜などが作られていたのだろう。しかし、今は笹原になっている。笹薮を開いて再び畑に戻すことは容易なのだろうか。僕は高い笹に囲まれ全くの別世界になってしまった辺りを見回してみた。僕には農業の知識はなかったが、畑や田は一度、藪に戻してしまうと、元に戻すのは大変な労力が必要なことは知っている。
僕は笹を掻き分け先へ先へと進んだ。奥へ奥へと進めば進むほど、回りの笹の背丈は高くなり道は狭くなり、所々で枝分かれして、三叉や辻を作っていた。僕はそれらの道を闇雲に選び、分け入って進んだ。すると20分くらい進んだかどうかで、僕はすっかり自分がこの笹薮のどこに居るのか全く判らなくなってしまった。
でも、別に迷ってもよかった。このわけの分らない不思議な空間を見たくて、また中の生き物を見てみたくてここに来たわけだったのだから。
しかし、どうしたものだろうか、僕は目の前に分岐している二又の前でひざを抱え座り込んだ。あたりにはもうゴミ一つ落ちていなくて、足元には笹の落ち葉が積もっているだけだった。
僕は座り込むと辺りをよく観察してみた。まず一番目に付く笹、その一草の直径は約2センチあまり、土壌に近い部分では葉は無く、上部を見上げると光のあたる部分に多くの葉が生えているのが見えた。その葉のせいで、地面には直射日光が届かず中は薄明るい程度だった。そして、その笹の密生のため、見通しも悪く小道から左右へは、ほとんど見通しが利かないといった様子だった。
言うまでもないが、植物種はこの笹の他には、ほとんど無く、云わば独占種であり、きわめて良好に生育している事が理解できた。僕は他の植物を探して、目を凝らし回りを探った。するとさらに植物種が幾つか発見された。山桑、仙人草、カラスウリと自然薯だった。それらのどれもは、光を求め笹の上へと枝や蔓を伸ばしていた。
カラスウリの実を見つけた。僕は手を伸ばしてすっかりと朽ちて、スカスカになったカラスウリの実をもぐと手にとって観察した。それは去年の実だった。実は紅い鮮やかな色を失い、冬の風雪に黄白色に劣化していて、握力を加えるとぼろぼろと手の中で崩れた。
そこで、ふと、ずいぶん前に父が言っていたことを思い出した。それは、自然界においてある場所が独占種によって占められていることは多くの場合、ひどくバランスを欠いているという話だ。独占種の繁茂や繁殖はその場の生態系を損ない、やがては独占種自体の破滅に向かうという話だった。しかし、そうだろうか笹の群落は今見た限り、それほどバランスを欠いているわけではないようだ。もう、かなりの長きにわたって群落は保持され、しばらくはそうであろうと推察された。『いや、そうでもない事態もあるか?』という考えがパッと脳裏に浮かんだ。ある本で読んだ事柄だった。
笹の開花だ。笹や竹の仲間はイネ科の植物であるが、一年草のイネとは違って、笹は何十年という長いサイクルで稀に花をつける。そして、開花、結実すると、その群落は衰弱し、多くが枯死してしまうのだ。ただ、そこにはまた新しい植物の種子が運ばれて繁茂し、多様性を取り戻しつつ、このあたりに良くあるような照葉樹林に戻っていくのだ。いずれにしろ、少しづつ、少しづつ、時間をかけて移ろっていくのである。
僕は笹の迷宮の中で地面に腰を下ろし、空を見上げた。風が激しく笹を揺さぶり、その向こうには青空が見えた。僕は安らかな気持ちだった。周りには多くの植物があり、鳥もやってくる。辺りの土くれの中には地虫や小動物が居る。僕はたった一人ではない気がしたのだった。
少しの間そうしていると腰の辺りが冷えている事を感じた。じっとしているとまだ、寒い。僕は立ち上がるとさっきのカラスウリの実をビニールの袋に入れ、持ち帰って観察する事にした。バックにビニール袋をしまうとカッターを出して、笹を一本根元から刈った。僕は笹の葉や枝を落とすと手に持って道を進んだ。
刈った笹には心地よいしなやかさがあり、強く振ると風を切り、ビュっと音がした。
笹原の中は起伏にとんでいた。僕は2メートルぐらいの小さな崖をのぼり、下ると、窪みがまた広がっていた。
僕は幾つかの辻を曲がり、闇雲に進み、そこで気がついた。何のことは無い、同じところに戻ってきていたのだ。僕は目を凝らすと、見通しの悪い笹の先に、さっきの古井戸があるのを見つけた。ただ、さっきよりずっと古井戸は近くにあった。いつの間にか古井戸はほんの少し近づけば、覗けるような位置にあった。僕は慎重に古井戸に寄ると周りを見た。古井戸は直径1.5メートルくらいのコンクリートの土管が巻いてあり、地面から50センチほど出たような形になっていた。そして、その上部には転落しないようにか、鉄製のコルゲート板で蓋がしてあった。コルゲート板はぼろぼろに錆びていて穴が開き、土管をふさぎきれず、覗くと真っ暗な世界が広がっているのが見えた。僕は持っていた笹を穴の隙間から差し入れて、下に放ってみた。笹は闇に吸い込まれ、しばらくして小さな水音を伝えた。かなり深い井戸だなと僕は思った。
「結構、深いでしょう?」後ろから声がした。
僕は心臓を掴まれたような感覚を覚え、後ろを振り返った。人が居た。子どもだった。僕と同じくらいの齢の子だった。
「うん、深い。たぶんここは台地だから水脈まで遠いんだ」と僕は答えた。
「台地?」
「うん、ああ、たぶんここの標高が回りに比べれば高いから、水の流れている所まで深く掘らなくてはいけなかったんだ」と僕は言いなおした。
その子は僕の方をじっと見ると「へえ、そうなんだ」と単に会話をつなぐ様に言った。
僕は変わった子だなと思った。その子はジーンズに白いシャツ、その上にジャンパーを羽織っていた。僕は立ち上がるとその子の方が、少し身長が高い事が判った。そして、僕はその子の変わった容姿に気がついた。まず、とても痩せていた。顔は骨ばっていて、肌は白く、目はアーモンド形で、瞳はずいぶん色素が薄く、明るい茶色、髪の毛も明るい茶色をしていた。僕はメラニン色素の薄いタイプなんだなと感じた。でも、本当に驚いたのは耳の形だった。髪は短く、お陰で耳がよく見えていて、その耳はちょうどトールキンの小説に出てくるエルフみたいに先がとがっていた。僕は思わず耳を凝視してしまった。その子の耳は白く、全体の印象が骨ばって見えるためか、硬い陶器のような質感が感じられた。僕はなんだか別の世界へやってきたのではないかと感じた。
「ああ、この耳ね。面白いでしょ」とその子は自分の耳を触りながら言った。
その子の声は高く、女の子みたいに聞こえた。
「いや・・・・、べつにその」と僕は口ごもった。
「いいんだよ。まあね、生まれつきってやつだから」とその子は笑った。上品な笑い方、品のある人たちがするような笑い方だった。たぶんこの子の家族がそうしているんだろうと僕は感じた。
僕は当惑していた。このわけの判らない状況に、僕は胸にドキドキとしたものを感じた。僕の心の内側をコツコツと叩かれるような不思議な感じだった。
「あの、君は?」
「結実、ゆみとは読まないで、ゆいみと読むの」とその子は早口で言った。
「ゆいみ・・・・、ああ、君の名前?かな。そうだ、よろしく僕は修司」
「修司かあ、そう。君は変わっているね」と結実は言った。
「変わっている?」と僕は尋ねた。
「ふふっ、ほら、そういうところ」結実は明るく笑いながら言った。
僕はこういう会話のペースが苦手だった。ただ、悪い気はしなかった。僕は目の前の子に好感を感じているのだった。
「修司はなにをしていたの?」
「生き物の採集」
「本当?どう何かいた?見せて」
「いや、何も・・・・、カラスウリの実だけ」僕はこう言うと袋の中をみせ「君は?」と尋ねた。
「うーん、そうねお散歩よ。ここの中ってぐねぐねしているでしょう。だから面白いの。迷って夜になりそうになったこともあるけど」
僕は笑った。本当にそうだ。僕だって生き物の採集に来たけど、この笹原の中が面白いから来たのだ。こんなことを面白いって感じる子はそうはいない。
それにしてもこの子はどこの子だろう。年は同じくらいなのに、学校でこの子にあった事がない。別な学校に通っているのだろうか。しかし、この町で子どもは皆顔見知りだと言ってもいい、それにこんな特徴的な子だったら覚えていないわけが無い。
「君はどこの学校?」と聞いてみた。
「学校?行っていないよ。私、病気なんだ」
「病気なの?」
僕は少し驚いた。
「うん、病気なんだよ。それもひどいの・・・・。自分の意思とは無関係に笑い出したりとか、急に悲しくなったりとかね」とどうでも良い事のように言った。
それにしても、そんな病気があるのだろうか、結実の自分に対しての奇妙な言い方が気になった。とっさにある種の精神疾患なのかもしれないと思った。僕は精神疾患の症状と言うものを幾つか見た事がある。
「そうか病気なんだ?それじゃあ仕方ないな」と僕は言った。なんとなくこの事は聞かないほうがいいなと思ったのだった。
「そう仕方ないの」と結実はヘラヘラと笑いながら言った。自分の病気に対してはまったく切実さが感じられない言い方だった。たぶん嘘だろうと直感的に僕は思った。この子は適当に話している感じがした。でも、学校に行っていないのは本当だろう。学校に行かなくていいというのは羨ましいなと僕は感じた。
「学校に行かなくていいのはちょっと羨ましいね」と僕は言った。
「あははは、良い事言うね。修司は、じゃあ君もいかなきゃいいじゃない」
「そういう訳にもいかないんだよ」
「どうして?」
「それは・・・・・・、そういうシステムなっているんだ。なんて言うかな人間の社会は組織、システムなんだ。だからシステムに適合できないと排除され困難を引き受けさせられる事になる。場合によっては懲罰を受ける事になるんだ」と僕は言った。あの担任の元でサッカーをやっているとそう思うようになる。
「くだらーなーい。そういう考えはもう古いのよ。今は今の事だけ考えればいいのよ。今を楽しくやらなきゃ。修司は一体全体何のために生きているのよ」と結実は間髪を入れずに否定した。
「確かに、それも分るよ。でも・・・・」
「ふふっ、そうだね。人間の社会はシステムなんだ。システムの中に適合しないと罰則がある。アハハハっ」と結実は僕の口調を真似て笑っておどけた。
「そうなんだ・・・・・・、でもさあ」
「でもじゃあないよ。だったらそのまま適合できるの?修司は楽しいの?」と結実は言った。僕は黙ってしまった。実際、ただ、毎日、登校して教師の板書をノートに写して、仲間と話をして、サッカーボールを蹴って、さも楽しいって振りをしているだけなのだ。人の作った理屈を自分に言い聞かせているだけなのだ。本当は学校なんかにいるよりも、もっと何かこうドクドクとした物を見つめていたいし、自分の周りを流れていく風のようなものに触れていたいのだ。僕は結実にそう言いたかったが、そのドクドクとしたものが何なのか、その風のようなものが何か説明できなかった。胸の中にモヤモヤとしたものがあるのを感じた。
「理不尽なんだ。それに価値判断がめちゃくちゃなんだよ」と僕は我慢できなくなって声を荒げた。
「価値判断がめちゃくちゃってどういうこと?もっと具体的に言ってよ。どうして理不尽なのよ?」
「それは僕のまわりが決め付けるんだ。例えば、僕と母はずいぶん前から離れて暮らしている。その事を先生はすぐに問題にする。でも、僕は父さんと結構楽しくやっているし、寂しくもないんだ。それなのに先生は勝手に決め付けるし、それに差別する。小学生の時には、この子の情緒未発達はお母さんが居ないからだって言われたよ。でも、僕はそんな事を思った事もない。確かに、僕は人ともあまり話さないし、めったに笑わない。変わった生き物が好きでいつも眺めていたりする。でもそれで僕は誰にも迷惑をかけたことはないし、僕は僕だ。勝手に決め付けて欲しくないよ。それに妹の、妹の事を、あの事件は妹が悪いって言うんだ。だからぶん殴ってやったんだ」と僕はまくし立ててしまった。こう僕は言って自分で驚いた。僕はこんなにも学校に不満を持っていたのか。なぜこんな事を言ってしまったのかよく分らなかった。
僕は結実が笑うだろうと思った。でも、結実は笑っていなかった。結実は僕の言った事をちゃんと聞いていた。そして、結実は僕の瞳を覗き込むとこう言った。
「ああ分かったよ。たぶん修司は自由なのがいいんだね。決め付けられるのがいやなんだね。でも、それは価値判断とかじゃあないね」
僕は頭を金槌で殴られたようなショックを受けた。
結実は続けた「修司はたった一人で歩きたいんだね。君はもう自分は全部持っているって思っているんだね」結実の言葉はとても優しい響きを持っているように僕には聞こえた。
でも、僕はその言葉に恥ずかしくて、素直になれなくて「訳がわからない。君のいう事は答えになっていないよ。僕はどうすりゃ良いんだ」と言った。
結実は横にある笹を掴むと引っ張ってしならせた。笹はしなやかな弧を作った。
「答えなんてないよ。世の中にはそんなどうしようもない事よりも、可愛いものや、綺麗なものがたくさんあるよ。例えば冬の日の朝日に光り輝く霜柱、夏の初めの朝露に濡れたくもの巣が無数の水滴をつけて輝く様、時間によって移り変わっていく猫の目とか、実は自分の周りにある全てのものが美しいのではないかってね。そういうものを自分の身の回りに感じながら生きていければ、結構やっていけるんだ」
「そんなどうしようもないことって、それは、そうかもしれないけど、人はどうにかしないことにはどうにもならない」と僕はつぶやくように言った。確かに結実の言うとおりなのかもしれない。確かに美しいものは人を自由にする。それに生きる事を励ましてくれる。
でも。人はそんなにきれいに生きられるのだろうか。人はどうにもならいことや、下水の汚泥みたいなものを、多かれ少なかれ、心の中に抱えて生きている。そういうものと折り合いをつけるためにシステムやら決め事を作ったのかもしれない。僕はそれを結実に言おうとした。
「君のいう事はそうだけど」と僕は言いかけた。
すると「君もしつこいね」と結実は言い僕のバックを手からひったくり走り出した。僕はそれを追って駆け出した。自然薯を掘った穴を飛び越え、小さな崖を転がり僕は結実を追った。結実は笑いながら、笹の小道を右に左によけ、黒焦げになって打ち捨てられた原付を飛び越え、雨に濡れてよれた週刊誌を拾って僕に投げつけた。息が切れ、体の奥のほうから悲鳴があがったが、体を動かす喜びと爽快感が僕を捉えていた。
気がつくと僕らは笹原の入り口に来ていた。日が西に傾き、タブの木が黒々と陰の色を濃くしていた。結実は僕にバックを放って返すと「さようなら」と言って手を振り、笹原の中に消えていった。
僕はもときた道を帰った。
日が暮れると、風はゆったりとした南風に変わり、雨が降った。春の雨、植物の芽吹きを助けるような、湿った土のにおいがする暖かく、優しい雨だった。僕はとってきたカラスウリの実の写生をしたが、まるで身が入らなかった。不思議な経験だった。こんな気持ちははじめての事だった。
僕は心の中に熱を持った小石のようなものを感じた。それは結実のことを思うたびにどきどきとした心臓の鼓動を加速させた。僕の中に音楽が生まれていた。僕はどんなところにいてもどんな事をしていても、その音楽は結実の事を思い出すと小さな音を奏でるのだった。
翌日学校へ行ってもそれは変わらなかった。僕は数学の講義を聞き、理科の実験をした。理科の授業中、中年の男性教師は理科室の教壇の上で油粘土の振り子を揺らし、実験の説明を熱心にしていた。普段なら理科は比較的好きな授業だったので、熱心に聞いたが、僕は、始終、結実の事を思い出していた。よく分らないはじめての気持ち、それが何であるか、よくわからなかった。
授業の間、結実の顔や姿を思い出すと、今すぐにでもあの笹原に行ってみたくなった。放課後はサッカー部の練習につき合わされるので、顧問をしている担任と顔を合わさないように部活に向かうふりをしてすぐに帰宅した。
僕は担任を憎んでいた。彼は生徒に自分で作った序列を巧みに利用して、生徒を従わせるような教師だった。ただ、僕がこの男を憎んでいたのはそんな事からではなく、妹の事件を同級生の前で話した事だった。それはこの小さな町にすぐに広まった。そして、中にはよく事件を知らないのに、妹に原因があるというようなやつまで現れてきたのだった。僕はそういう連中を片っ端から殴ってやった。妹は被害者なのだ。あまりにひどすぎるのではないか。笑うしかないのは、この行為のおかげで僕はすっかり、教師たちからキレて暴力を振るう厄介者扱いされてしまう事になったことだ。
帰宅すると飼育している動物たちの世話をした。普段なら僕はそうした作業を楽しんでやるのだけれども、今日はどうしてもいつものようには出来なかった。僕は最後にレトリバーの餌を出し、水を替えてやると頭を撫ぜ、自転車に乗ると笹原に向かった。その途中、今日は結実に逢えるのだろうかと思ったが、それは分らなかった。なにしろ僕は結実のことは何も知らなかった。どこに住んでいるのか、全く知らなかったのだ。だから、笹原に行っても結実に逢える保障は無かった。でも、僕にはそんなことはどうでもよかった。行ってみれば何かがあるかもしれないということだけで十分だったのだ。
笹原についたのはもう夕方に近い時間になっていた。日は傾き始め、冷たい風がかすかに吹いていた。冬の戻りだった。
僕は崖を登り、昨日のように笹原の中に分け入った。風が無いので、笹の中は昨日よりも静かだった。時折、百舌の鳴き声が響いていた。
僕は歩き、またの例の井戸を過ぎ、幾つもの小径に入り、そして辻をこえ、広間のようなところへと来た。そこはちょうど円形に3メートルくらいの広さで笹が刈り取られていた。周りには自然薯を掘った穴がいくつかあり、掘り出した土を中央に盛ったため、野球のピッチャーマウンドのように真ん中が盛り上がっていた。円形の広間には僕の入ってきた道のほかに二本の小径が合流していた。
僕はその小径の左側の道に入ろうとした。そこで僕は出くわす形になった。結実だった。結実は僕の目の前にいたのだった。
「結実」と僕は言った。
結実は僕の事を見て「あなたは?」と言った。僕はなんだか様子が変な事に気が付いた。
その子は「私は結実ではない」と言った。僕は驚き、言葉が出なかった。同じ容貌に、同じ声、僕はあることに気がついた。
「ひょっとして双子なの?」
「そう」
「君の名前は?」
「芽生」
「芽生?君は結実の?」
「結実は私の兄」
「結実は君の兄さんなの・・・・・・」
「そう、あの人の妹、私は」
「結実は男なの?」
「そう、あれは男、私は女」
僕はよく分らなかった。僕は驚いていたが、世界がなんだか別のものへ移項していく、そんな感覚がした。
「こんにちは、修司」と後ろから声がした。僕は後ろを振り向いた。僕は手を伸ばすと結実の頬を触った。骨ばった感じの上に、肉があり、冷えた大気のせいで、ひんやりとしていたが、それは存在だった。僕はそれがとても美しいもののような感じがした。そして、急速に何か僕の周りに暖かさが戻ってきた感覚がしていた。それはエロスだった。僕のペニスは勃起していた。
「君はへんてこな顔をしているよ。もしかして、私たちが双子だってことに驚いた?」
「おどろいた」と僕は言った。
「そうだろうね。妹と話した?」
「話したよ、君が兄さんだって言っていた」
「そうか、それはちょっと驚きだな、芽生がはじめて会った人と話が出来るなんてめったにないことだよ」と結実は芽生の傍に行くと芽生を抱き寄せた。二人はよく似ていた。いや似ていたなんてものじゃない。ほとんど、同じにしか見えなかった。結実は芽生と目を交すと「芽生が遊びたいってさ」と言った。僕は芽生を見ると彼女は小さくコクリと頷いた。
「芽生はあまり話さないし、人見知りする。ちょっと、エキセントリックだけど、頭の中では怒ったり、悲しんだりしているんだ」と結実が言った。
すると芽生が結実をじっと見つめている事に気がついた。ほとんど表情の無い顔だったが、口元にほんの少しだけ力が入っていて、それは結実を睨んでいるのだということに気がついた。
「ごめん、ごめん、余計な事を言ったかな」結実もそれに気が付くと、おどけた感じで言った。
「人は極めて限定された形でしか世界に関わる事ができないんだ」と僕は笑って芽生に言った。芽生は黙って僕を見ていた。意味が分からないという感じだった。しまった、言い方が悪かったなと思った。すると、結実が僕の肩をたたいて「修司はすぐに難しい事を言うね。つまりね、修司が言いたいのは人は一人ひとり、その人毎にぞれぞれの世界への関わり方があると言いたいんだよ。芽生がそのままでいいということを修司はいいたいんだと思う」とフォローしてくれた、
芽生は顔をそらし別の方向を見ていた。芽生は表面上は冷たく、表情が少ないが、それは見かけで、感情が豊かなのかもしれないと僕は思った。
僕らは遊んだ。駆けっこをしたかったが、もうずいぶん暗かった。そこで、ままごと遊びをすることにした。結実が言い出したのだ。
僕と結実がまず結婚式を挙げ、それから口付けを交した。僕は結実とキスをした。ごく自然にそうなった、芽生がそれをじっと見ていた。
やがて芽生が産まれ、結実が働きに出て、僕は家庭で芽生を育てるのだ。芽生は甘え、結実は笑った。僕は不思議と暖かな気持ちになった。
そのうち暗くなってきて僕らは笹原から外へ出て別れた。月が出ていた。僕たちは笑って分かれた。
その日から僕と結実と芽生は遊ぶようになった。僕は学校が終わると、笹原に行った。ぐるぐるとした迷路に分け入り、歩くとそこには芽生と結実がいた。
芽生は決まって、例の円形の間にいた。彼女はそこで両腕で膝を抱えその真ん中に座っていた。結実は遅れていつもやってきた。
けれども、僕はこの双子たちがどこから来ているのか、他に家族が居るのか僕は知らなかった。そのことを僕は芽生に聞いてみた。
芽生は指で方向を指し示し「あっちに家がある」と言った。
「笹原の奥に家があるの?」
「そう」
「他に一緒に暮らしている人はいるの?」
「二人で暮らしている」
「じゃあ、結実のことは好き?」
「うん」
「どんなふうに」
「どう思っているかってこと?」
「大切に思っているとか、嫌いだとか、どうとも思っていないかとかそういうことだよ」
僕は聞いてみた。何だか気になったのだ。
「好き」
「好きなの?」僕は芽生の抑揚の無い声を聞き、心臓が撥ねているのを感じた。芽生はどこか遠くを見ているようだった。その横顔は美しい彫像のようだった。僕は芽生の手に触れた。芽生の手は冷たく、ほっそりとしていた。芽生は片腕を回し、僕らは抱き合った。僕は緊張していたが、芽生も僕もこうなることを求めているのだ。
芽生の口にキスをした。暖かさが伝わってきた。僕は芽生が肉体を持っている、一つの生命なのだという事を思い知った。唾液が流れ、舌が触れ合い、滑らかな感じがした。人格を持った個々の個体、雌雄という別の存在、僕はひどく興奮しながら、自分の行為や芽生の肉体を観察していた。そして、人はなぜこうもただ一つの生命体としての、いやもっというならムカデとか、いやどんな生き物も、そう犬とか猫と同じ身体を持った生き物である事を普段は忘れているのかという事を思った。
僕は芽生とセックスをした。芽生の中は暖かく、僕は射精をした。マスターベーションはした事があったけど、そうした行為とはぜんぜん違っていた。僕は終わった後、なんともいえない、何かをなくしたような心細さを感じた。芽生は僕を見ていた。芽生の色の薄い瞳は深く僕を捉えていた。僕は芽生が愛おしくなり、目じりにキスをして涙をすくった、潮のしょっぱい味がした。
結実は僕と芽生を見ると「ああ、そうなのか」と言った。
「芽生が好きなんだ」と僕は言った。
「うん、わかっている。でも、私も修司のこと好きなんだけどな」と結実が言った。
「僕も結実のことも好きだよ」と間を置いて言った。
僕らは別れた。それから次の日は学校でこられなかった。僕は担任に職員室に呼ばれていたのだった。担任が僕を三年になったらフォワードにするというのだ。僕は単に背が高く、球捌きが上手いというだけのことで、僕にサッカーの才能があるとは到底思えなかった。でも、生徒数の少ない学校でそれは仕方のない事だった。最上級生は何か問題がなければレギュラーになるのだ。僕のクラスメイトも手が大きく、反射神経がいいからと言う理由でゴールキーパーになっていた。
次の日曜日、僕はまた、笹原に行く事ができた。笹原は少しの間に大きく変わっていた。笹に花が咲いていたのだ。そして、僕は迷路の中をさ迷ってみたが、結実と芽生に会うことは出来なかった。僕はその後も何度となく笹原を訪れたが、二人の姿はなかった。
僕は諦め切れず笹原の奥に行き、二人の家を探した。いつか言っていた芽生の言葉を思い出したのだ。僕は笹原を抜け台地の縁を歩き、海岸の方に張り出した方へ行った。
そこには古びた木造の家屋があった。しかし、人の気配はなくすでに家の周りに雑草が生え始めていた。ガラス戸の外から中をうかがうと、中にはほとんど何も残されておらず誰も居なかった。
それからしばらく僕は二人を探したが結局見つからなかった。父に言って、二人の噂がなかったか尋ねたが、彼は知らなかった。友人や顔見知りにも同じことを尋ねたが二人の事はだれも知らなかった。
僕はどういう訳かサッカーに打ち込んだ。家では父の生物に関する本を読み、学校に行くと授業を聞かないでサッカーばかりしていた。別にサッカーが死ぬほど好きなわけではなかったが、それが生活の一部になっていたことは事実だった。担任はサッカーが上達することを喜んでいた。チームは僕ともう一人のミットフィルダーを中心に纏まり、急速に強くなっていった。
僕たちは暗くなるまで練習をして、朝早くから体力をつけるため走りこんだ。そうした行動を教師たちは褒めたが、別に僕らはそうしたいからそうしただけで、それにただなんとなく充実していたのだ。結果的にチームは県大会の準決勝まで勝ちあがり、教師たちを喜ばせた
そして、僕はこの活躍のお陰で、二学期の終わりには幾つかの学校からサッカーで誘いを受けるまでになった。でも、僕はそのどれもに行く気はなく、断ってしまった。そして、僕は両親のすすめで受けた、大学付属の学校に合格して、春から通うことになった。そして、父は予定通り僕の卒業と同時に開業をやめ、東京へ引っ越す事になった。
その年の冬には、笹原は開花が原因で枯れ始め、誰かが焚いた焚き火で燃えて無くなってしまった。焼けて野原になった笹原からは身元不明の白骨遺体が出てきて、街ではちょっとした騒ぎになり、うわさになった。だが、その遺体の身元が判明する事も無かった。
僕は引越しの前の日、飼育していたムカデを、裏庭の瓦の下にそっと放してやった。
あれから年月がずいぶん過ぎ、僕は大人と見られるようになった。
僕はあの町を去ってから、双子にあったことはない。ただ、あの短い体験は幻ではなかったと思うのだ。証拠にはならないが、僕があの時家に持ち帰ったカラスウリを描いた写生が残っているのだ。
この頃、あの笹原での出来事を思い出そうとすると、記憶が断片的になり、細部があいまいになってきていると感じる。鮮やかな画像としてあれらのことを思い出せなくなってきているのだ。
それでも冬の終わりには、この頃の事を思い出すのだ。それは決まって潮の匂いのする南風が吹く日だ。僕は潮の匂いを感じながら、出来うるかぎり鮮明に二人を思い出そうとする。
連載の方の合間に、短編小説もいくつか投稿したいと思います。短編小説はずいぶん前に書いたもので、基本的にプロットとか作らないで書いてあります。誤字や脱字とは別に荒さがあります。でも、それはそれでいいと思っております。その時の自分の気持ちとか割り切れなかった事とかが、荒さに出ているからです。自分としてはそれを大切にしたいのです。もちろん、日本語として間違っているよというのがありましたら、ご指摘ください。それは訂正いたします。長々とくだらない事を言ってすみません。ここまでお読みくださいましてありがとうございました。