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作者: みさと

プロローグ

花にとまっている蝶を捕まえようと、二枚の羽をつまんだ。

幼かった俺は、うっとりと美しい蝶を見つめた。白い羽だった。まるで絵本に出てくる妖精のようだ。

 もんしろちょう?

蝶をよく見ると、羽に細かい粉の様なものがついていた。それに気ついた瞬間、俺は慌てて手を放した。蝶は何事もなかったかの様にヒラヒラと飛び去った。

指を見ると人差し指と親指に、白い粉がついている。幼かった俺は、とっさに毒だと思った。

泣きながら家に帰り、母親に訴えた。

 チョウチョのドクがてについたよ。

母親は笑って言った。

それはリンプンというのよ。チョウチョに毒なんてないのよ。

俺は泣きじゃくった。 

 ほんとに、ほんとに?

母親にそう言われても信用できず、泣きながら、何度も水道で手を洗った。

それ以来、蝶をつかまえることはしなくなった。

小学生になってから知ったことだが、蝶の鱗粉に毒は無いという。

蛾と違って、蝶に毒を持つ種は存在しないのだとか。

だが、毒の鱗粉を持つ蝶が、この世のどこにも存在しないと、本当に言い切れるのだろうか。

第一章 パパラッチ


 道路は二車線ある。

幅はわりと広く、車通りはたまにしか無い。路肩に何台か、車が駐車してあった。人は乗っていない。

夜の9時。

日曜日のせいか、住宅街は静まり返っていた。歩道に人影は無い。

目当てのマンションは、住宅街の中にある。さほど大きくなく、5階建てくらいの簡素なマンションだ。

神戸かんべ)透は、車からマンションの玄関がはっきりと見えることを確認すると、路肩に車を駐め、サイドブレーキを引いた。

ここなら近所の住人に、大して不審がられずに済みそうだ。

張り込む場所にはいつも気を使う。

近所の住人に、不審な車が駐まっていると、通報されたりすれば厄介だ。従って、大概は車は使用しない。移動はもっぱら電車かバイクが主流だ。

今日は特別だった。

契約する雑誌社に入った情報が、ガセネタである可能性が高そうだったのだ。そういう時の勘は結構あたる。長いこと張り込んで肩透かしをくらうのは、仕事とはいえ、しんどい話だった。

今日はのんびりと車で張り込みとするか。

透はそう決めていた。車の中はエンジンを切っても、適度な温度で快適だ。

11月の気候は、東京では暑くもなく、たいして寒くもない。夜になるとさすがに冷えるが、それを除けば最も過ごしやすい季節に思える。

透は運転席でカラダをひねり、後部座席に置いてあったカメラバッグを引き寄せた。愛用のカメラはキャノンのデジタル一眼レフだ。ISO感度が良く、比較的光量が少ない場所でも被写体を捉えることができる。このカメラと付属のレンズやなんやかやで、軽く100万は超える。コンパクトデジカメでも、今は十分性能がいいが、カメラにはこだわりがあった。いいカメラを持つことが、透にとって最後の砦だ。

 5年くらい前だったか。自分のカメラを売って取材費を捻出し、バクダッドに行った同僚の男がいた。田所という名前だった。

「自費で取材に行っても、借金がかさむだけだ。やめておけよ」

イラク行きを決めた田所に、居酒屋で安いチューハイを飲みながら、透はそう忠告した。

田所は笑って、「俺もジャーナリストのハシクレだからさ」と答えた。

その時の田所の、ジャーナリストという言葉が透の心に重く沈んだ。

あれからもう5年立つ。

透はいつの間にか、40歳になっていた。

大学時代の友人達は結婚して家庭を持っていた。普通に就職した友人は会社で役職についている。しかし、結婚して家庭を持つことなど、今の自分には考えられなかった。

そんな勇気も資格も無い。

カメラを売り、戦地に行った田所の「ジャーナリストの端くれ」という言葉は、今でも透の心の中でくすぶり続けている。

それでも、生活をするためには、どんな仕事でもする必要があるのだと自分に言い聞かせた。仕方ない。生きているだけで金のかかる世の中だと。

 今朝、透が契約している雑誌社に、女性アイドルの熱愛情報がFAXで流れた。

アイドルグループ「アプリコット」のメンバーである西嶋はるかが、男のマンションで密会するといったものだ。情報によると、男は一般人だった。FAXには、ご丁寧に男のマンションの住所と部屋番号まで書かれている。

この情報が、他の雑誌社にも流れていたなら、相手の男が自分でリークしたということも考えられる。だが、他の雑誌社に動きが無いところを見ると、ただのいたずらである可能性が高い、と透は踏んでいた。アイドルグループのファンの中には、おかしな連中がいて、この手のいたずらをよくしてくるからだ。

 女性アイドルグループの「アプリコット」は、芸能界で有名なプロデューサーが手掛け、ここ3年くらい前から人気が出てきたグループだ。グループのメンバーは総勢で50人近くいる。新曲を出すたびに、ファンによる人気投票が行われ、上位10人に選ばれれば、テレビで歌うことができる。

西嶋はるかは、「アプリコット」の中でも常に上位5位に入り、単独でCMに出演するほどの人気タレントだ。

透は、西嶋はるかを遠くから何度も撮影していた。

人気アイドルのプライベートを撮影すれば、大衆はその写真に大枚をはたくからだ。

23歳という年のわりには、はるかの整った顔立ちは大人っぽく感じられた。一見、男が近寄り難い雰囲気を持っている。その為か、今までにスキャンダルらしいスキャンダルは無かった。

今回も、恐らくただのガセネタに違いない。

透はカメラのレンズを除き込み、マンションの入口に焦点を合わせた。

「これでよし」

あとはのんびりと待つとするか。

カメラを助手席に置くと、狭い運転席で両腕を思い切り伸ばした。

刻刻と時間が過ぎていき、時計は夜の11時を回ろうとしていた。しんと静まりかえった住宅街に車は殆ど通らず、人通りもなかった。時折りどこかの家で飼っている犬の遠吠えが聞こえた。

透が何度目かのあくびをした時だった。前方から、若い女が歩いてくるのが見えた。一人だった。

帽子に薄い色のサングラスをかけているが、背格好からして西嶋はるかに間違いない。透は、車の窓越しにシャッターを切った。車内にシャッター音が響く。

はるからしき女は、写真に撮られていることに気付く様子も無く、マンションに入って行った。

男と2ショットの写真が欲しいな。

もう少し張り込んでいれば、男との写真が撮れるかも知れないと透は思った。

時計を見ると11時15分だった。助手席にカメラを置くと、運転席のシートを少し倒した。

シートを倒すと、丁度マンションのベランダが見える。305号室。それがFAXに書かれていた、はるかの相手の男の部屋番号だ。道路に面した手前の部屋から、301、302と数えていくと、305号室は一番奥の部屋と推測できる。

302号、303号と305号に電気が点いている。カメラに望遠レンズを装着しピントを合わせる。ベランダは見えるが、部屋の中までは見ることができなかった。

透は、買っておいた缶コーヒーのプルトップを開けて飲んだ。すっかりぬるくなっている。

男との2ショットを撮るのは難しそうだな。まあいい。はるかが、マンションから朝帰りするところを撮れればいい。

しばらくすると、ベランダにはるかの姿が見えた。透はカメラを構え、望遠レンズでベランダを覗いた。レンズが、はっきりとはるかの姿を捉える。

すると、男が掃き出し窓から、ベランダに出てくるのが見えた。

はるかは、ベランダの手すりを背にして立っていた。何か言っている。叫んでいるようにも見えた。男の姿は、丁度ベランダの柱の影で見えない。レンズ越しに見る、はるかの表情が、怯えているように見えた。透は連続でシャッターを切った。

すると、柱の影から、はるかに向かって、男の両手が伸びた。その手は、はるかの首に絡みつき、首を絞めているようだった。

いったい、何をやってるんだ?

シャッターを切り続けたが、次第に透は焦りを覚えた。

はるかが苦しそうに顔を歪めるのがわかった。

まずい。

咄嗟にカメラを助手席に置くと、車から飛び出した。ガードレールを飛び越し、マンションの入口に向かった。古いタイプのマンションで、玄関は幸いなことにオートロックではなかった。すんなりと、自動ドアを通り抜ける。

エレベーターを待つのがもどかしく、奥に非常階段を見つけると、一気に駆け上った。廊下を走り、305号室にたどりつく。

インターフォンを鳴らしたが、返事がない。

ドアを勢いよくたたいた。廊下にドンドンという音が鳴り響いたが、構うことはない。

音にたまりかねたのか、ドアが開き、中から西嶋はるかが顔をのぞかせた。

「どなたですか? 」蚊の鳴くような声だ。顔は血の気が引いたように真っ白だった。

はるかが無事であった事に、透は安堵した。

「今、あなたがベランダで男に襲われているのを見たんですよ」

低い冷静な声で透は言った。

はるかは。慌てて当たりを見回すと、

「騒がないでください。近所迷惑ですから」と言った。

いかにも迷惑だと言わんばかりに眉をひそめている。

騒ぐつもりなど毛頭無い。男に首を絞められたように見えたから、慌てて来たのだ。

透はバツが悪くなり、それ以上は何も言わず、さっさと立ち去ろうと後ろを向いた。

その時だった。はるかが透の腕を掴んで言った。

「中に入ってください」

「え? 」

「中に入って」

はるかに促され、仕方なく透は玄関に入った。

部屋にはさっきの男がいるはずだった。自分に何の用があるというのだ。

透が玄関に入ると、背後で、はるかが鍵をかけた。

「わたし、あなたを知っています。写真誌のカメラマンの方ですよね」

透は答えなかった。はるかが透の顔を知っていたとしても不思議では無い。芸能記者やカメラマンは、芸能人と持ちつ持たれつだ。はるかの事務所も、透がどこの雑誌社のカメラマンであるかは調査済なのだ。売れっ子タレントを抱える事務所は、いざと言う時は、透に大枚をはたき、スクープ写真をもみ消すこともある。

部屋の中は玄関からリビングらしき部屋まで、廊下がまっすぐに続いている。

はるかは、サンダルを脱ぐと、透にも靴を脱ぐように促した。

部屋には男がいるはずだった。透がカメラマンであることを知っているならば、恐らくスクープ写真を出させない為の交渉だろう。

もしや、その筋の男とか? そうなると厄介だ。写真のメモリーカードは黙って渡したほうがいいだろう。

透は身構えながら、はるかの後に続いた。

リビングに入ると、部屋は冷房でもつけているように冷えていた。思わず身震いするほどだ。

部屋は6畳程の広さで、デスクの上にパソコンが置いてある。

天井まで高さのある本棚には、ところ狭しとアニメのフィギュアが、透明のケースに入れて飾ってあった。部屋の隅には大小のダンボール箱がたたまれて積み上げられている。

これを見る限り、ここの住人はネットでフィギュアを売る仕事でもしていたようだった。

ドアを入ってすぐの床に、ベージュ色に黒い模様の毛布が掛けられて置いてあった。まるで人が横たわっているように見える。透は、激しい違和感を覚えた。

こんなところに、何を置いているんだ。

はるかの方を見ると、ただ、毛布を見下ろし黙って立っていた。部屋に他に人の気配がないのも奇妙だった。

毛布から、黒い靴下のようなものが覗いていた。それが人間のつま先のようにも見える。ベージュの毛布が少しめくれている部分があった。そこから、妙な物が見える。

目を凝らすと人間の腕のようだ。透の声が震えた。

「何だ? 」

よく見ると、毛布に広がる模様だと思っていた黒い染みは、模様ではなかった。黒い染みが何を意味するのか。それほど考えなくても、答えは出る。突然、胃液がこみ上げ、透は慌てて手で口を押さえた。

「首締められそうになったんです」

小刻みに震えるはるかの口から、細い声が漏れた。

「なんとか、逃げようとしたんだけど、追いかけてきて。それで、怖くて、キッチンにあった包丁で」

「刺したのか? 」

「気がついたら、床に倒れてたんです。全然動かないから、怖くなって毛布を掛けました」

「とにかく、救急車を呼んだほうがいい」

透がそう言うと、はるかが激しく叫んだ。

「だめよ。もう死んでます」

本当に死んでるのかは、素人判断ではわからない。透は、はるかをなだめるように冷静に言った、

「意識が無いだけかも知れない。早く病院に行けば助かる可能性もある」

「死んでます。冷たいし、脈が無いですから」

透は恐る恐る毛布の脇から除いている腕に触った。ひんやりと冷たい。

手首を取り、脈があるか確かめる。脈は無かった。確かに死んでいるようだった。

「とにかく、救急車を」

「やめて。わたしが殺したってことがわかったら、逮捕される」

「襲われたんだから、正当防衛だろ」

「お願いです、警察には言わないで!」

はるかが透の腕を掴み、懇願した。

「しかし、このままではどうしようもない」 

「警察に行けば、たとえ正当防衛でも、もう仕事が出来ない」

はるかの目から涙がこぼれた。

「そう言われても俺にはどうすることもできない」

「助けてください」

「正当防衛の証言ならできる。ベランダで君が男に首を締められていたと、警察で証言するから」

どこから出してきたのか、はるかは手にカッターを持ち、それを首筋にあてた。

「警察に言うのなら、死にます」

「やめろ」透は低い声で言った。

「警察に言わないって、協力してくれるって約束してくれたらやめますから」

透はしばらく黙ってはるかを見た。はるかの首筋に次第にナイフが食い込む。思いつめたその顔は本気で死を覚悟しているように見えた。

「わかった。わかったから、ナイフを置いて」

はるかは、ナイフを首から少し離した。

冷静に事情を聞く必要があった。

「この男は誰なんだ。恋人か? 」

「学生時代に少しだけ付き合っていた人です。その時に2人で撮った写真を持ち出してきて、自分の女にならないなら、写真を売るぞって脅してきて」

「それで?殺した? 」

「いいえ、わたしは、お金を払うと言ったの。だけどそれには応じなくて、関係をせまって来たんです。拒むと逆上して、殺すぞと言われて首を絞められて…慌てて逃げて、思わずキッチンにあった包丁で」

「包丁で刺したのか」

はるかはコクリと頷いた。

正当防衛か。過剰防衛ともとれるが。

「お願いです。死体を、どこかに埋めるのを手伝って下さい。わたし一人では無理です」

透は唖然とした。死体を埋めるとは、とても正気とは思えなかった。はるかは透に構わずに続けた。

「山の中に埋めれば、死体がなければ、警察も失踪したと思うでしょう。それなら事件にはならない筈です」

「そんなことをしたって、見つかる確率の方が高い。誰にも見られずに死体を始末できるかどうかもわからない」

「他に方法が無いんです」

「無理だ。埋めた死体が発見されれば、余計に罪が重くなる。俺も死体遺棄で共犯だ。そんなリスク犯せる筈がないだろう」

はるかが、再度カッターナイフを持った手を首にあて、力をこめた。

「だったら、ここで死にます」

カッターナイフの先がわずかに首の皮に喰い込む。赤い血がスーっと首筋から垂れた。

はるかに、ここで死なれたところで、透には何の問題もなかった。むしろ、大スキャンダルの現場に居合わせたことになり、とんでもないスクープをものにできる。鴨がネギをしょってやってきたようなものだ。

だいたい、共犯者になるリスクをわざわざ俺が背負うはずないだろう。一緒に死体を埋めろとは、馬鹿げている。

そう心の中でごちながら、透は答えていた。

「わかった、協力するから、やめろ」

自分でも唖然とする言葉だった。

協力するだって? 何を考えているんだ。

はるかはゆっくりと、カッターナイフをテーブルの上に置いた。首の傷は、皮膚をわずかに数ミリ切った程度のかすり傷だった。

透の口の中に苦い味が広がった。

女のために破滅の道を選ぶのか。バカ馬鹿しい。さっさと部屋を出て警察に通報しろ。はるかが死のうが、捕まろうが、俺には関係無い。

そう頭の中では思っているのだが、口から出る言葉は、まるで真逆だった。

「死体を入れられる大きめの段ボールを探してくれ」

透がそう言うと、はるかは頷き、リビングのドアノブに手をかけた。

「ベタベタと指紋をつけるな。ダンボールならそのへんに積んであるだろう」

はるかは、着ていたカーディガンの袖で指を隠し、ドアを開けた。

「ダンボールならそこにある」

透がそう言うのも構わず、はるかはリビングから出ていった。透は遺体のそばにしゃがみ込み、掛けてあった毛布をはいだ。男は仰向けの状態で死んでいた。腹の真ん中当たりに、包丁が刺さっている。ドス黒く、血が吹き出した痕が広がっていた。もし包丁を抜けば、もっと返り血が夥しかったに違いない。

遺体の上着のポケットをさぐり、財布を取り出した。中には数枚の札とカード、免許証が入っている。

「佐々木光男」

それがこの死体の男の名前だった。腰の下をさぐり、ジーンズのポケットを確認する。

部屋の鍵と携帯電話が見つかった。身元が割れそうなものは、他に見つからなかった。

光男の携帯の電源を切り、自分の上着のポケットにしまった。

リビングのドアが開くと、はるかが入ってきた。寝室からスーツケースを探し出してきたらしい。

「クローゼットにあったの。これなら死体が入るんじゃないかと思って」

銀色の特大のスーツケースだった。未使用なのか新品のようにきれいだ。死体の男は痩せて、小柄な体系だ。足を折曲げれば入るだろう。

「死後硬直が始まる前に早く死体を入れるんだ」

死体にかけられた毛布は薄手のものだ。スーツケースには、毛布ごと入れることにした。

死体に触るのは始めてだった。ひんやりと冷たく皮膚が硬い。死後硬直が始まっているのだろうか。

はるかに足を持たせ、透は両脇をかかえた。男はやせ型で小柄だったが、死体は重い。

何とか体を折り曲げて、ケースに収めた。筋肉に硬直が始まっていたが、力づくで無理やり折り曲げた。

スーツケースの蓋をしめ、鍵をかける。

はるかは無表情だった。部屋が冷えているせいか、唇が紫色だ。

「マンションに防犯カメラはついてるか? 」

「いいえ」はるかは首を振った。

防犯カメラが無いのはラッキーだった。怪しまれずに、スーツケースを透の車まで運べばいい。

時間はまもなく12時30分になる。

透は、はるかと重いスーツケースを押して、廊下に出た。はるかは帽子をかぶりサングラスをかけている。部屋の鍵を閉めた。

透がスーツケースを押して歩く。誰かに会っても、これから旅行にでも行くカップルとしか思わないだろう。4輪のキャスターが恐ろしい音を立てて、廊下に鳴り響いた。幸いにも、他の部屋はドアが閉ざされ、誰かが出てくる気配は無い。他人に無関心な世の中で助かったよと透は思った。

エレベーターに乗ったが、ここでも誰とも鉢合わせせずに済んだ。

道路に駐車した透の車まで運ぶと、スーツケースを2人で持ち上げ、トランクに放り込んだ。かなり重い。車の後方が、重みで一瞬たわんだ。

幸いなことに、透の車には常時スコップが積んである。万が一雪やぬかるみにはまった時のために、積んであるのだ。スコップを買いに行く手間が省けた。時間の節約になる。

車に乗り込むと、はるかを助手席に座るように促した。

運転席に座ると、全身から冷たい汗が噴き出た。手が汗ばんでいる。

隣で、助手席のシートベルトを締めながら、はるかが口を開いた。

「伊豆方面に行ってください」

はるかは、意外にも落ち着いた声だった。こんな時は、女の方が肝が座っているのかも知れない。

「伊豆? 」

「人がいなくて埋めるのにいい場所を知ってるんです」

伊豆方面ならさして遠くない。朝には戻ってこれるだろう。

透は頷くと、車にエンジンをかけた。

2人と死体を乗せた車は、順調に走り首都高から東名高速に乗った。日曜の夜の東名は空いている。スピード違反にならないように、慎重に運転した。

しばらく走ると、はるかが休憩したいと言いだした。仕方なく、一番近いパーキングエリアに立ち寄った。

駐車場は空いていた。大型トラックがポツポツと駐車している。誰も、透とはるかを怪しむ人間はいない。

透は早く死体を始末して、さっさと終わらせてしまいたかった。

はるかがトイレから戻ってくると、透に紙コップに入ったコーヒーを差し出した。

「そこの自販機で買ったんです」

こんな時に、コーヒーか。透はそう思ったが、差し出されたため、仕方なく受け取った。

妙に冷静なはるかに苛立ちを覚えながら、コーヒーを飲んだ。いつもより苦い気がしたが、味などわからない。気が急いていて、それどころではなかった。

はるかが「わたしが運転替わります」と言った。

「それはだめだ。万が一オービスに顔を撮られたらまずい」

「スピード違反しないですから、大丈夫です」

「おい、君が運転するのはまずいと言ってるだろう」

だが、頑としてはるかは自分が運転すると聞かなかった。はるかは、車から降り何度も運転席のドアを叩く。

「やめろ、怪しまれるだろう」

いったい、はるかは何を考えているのか。こんなくだらない押し問答で、何十分も時間のロスをしている。まるで時間を稼いでいるようだった。

次第に、透は瞼が重くなるのを感じ始めていた。

「だめだ…」

そう言いながら、頭がやけに重かった。体中の手足が重く感じられる。はるかが、運転席側のドアを開けるように言う。

「替わりますから」

はるかの声が遠くで聞こえる気がした。どうしようもなかった。このままでは、運転などできるはずがない。透は仕方なく一旦車から降り、ふらふらとしながら、助手席に座った。

「睡眠薬入れたのか…」透の声がかすれた。

はるかは何も答えず運転席に座り、じっと透を見ている。

「何で睡眠薬を」

遂には、透の視界から、はるかが消えていった。

第二章 悪女


人はなぜ、そうとわかっているのに、破滅への道を選択するのか。

いくら問いかけても、答えが出ることはない。

そちらを選んだからといって、何か覚悟ができているわけではない。

田所、おまえはなぜ選択した。

もがいても、もがいても抜けられない穴がある。

いや、田所、おまえは落ちなかったんだ。落ちたのは俺のほうだ。

もがけばもがくほど、穴は深くなっていく。穴に落ちたのは、自業自得だ。

忘れたのか、穴を掘ったのが自分であることを。

助けてくれ。

いいや、ここで息絶えろ。それが望んだことなのだから…


透は夢を見ていた。夢の中で早く目覚めなければと、もがいていた。

カラダが金縛りにあったように動かない。車の振動が身体に伝わる。

ゆっくりだが、車は勝手に動いていた。

「まずい! 」

そう思った瞬間、透は、素早い動きでシートベルトをはずし、ドアを開けると運転席から転がり落ちた。

落ちた道路は砂利道だった。

肩から落ち、何度か身体が回転した。革のジャケットを着ていたため、大した怪我は無い。

車のスピードがゆっくりだったことが、幸いした。

車はジャリジャリと音を立てながら、ゆっくりと崖から頭を突き出し、断崖から落ちていった。

ザバンと車が水に落ちた大きな音が聞こえ、その後に、波が砕ける音がした。

断崖の先は暗く見えない。あのまま目が醒めなければ、危うくはるかの罠にはまり、海の藻屑となるところだったのだ。

 なんて女だ。俺に光男殺しの罪を被せ、事故か自殺に見せかけ始末しようとしたのか。透はあたりを見回した。道の両側は暗い藪だった。民家も無く、波の音以外、聞こえてこない。月明かりが無ければ、暗闇でよく見ることもできないだろう。

時折り、藪からふくろうの声が聴こえた。海に車が落ちても、誰も気づいた様子はなかった。

そうはいえ、いつまでもこの場所にいるのは危険だ。透は崖を背にして歩きだした。

砂利道は、海に向かって緩やかに下り坂になっている。崖にはガードレールも柵も無い。

ブレーキを掛けなければ、車はゆっくりと坂を下り、崖から落ちる。

これを利用したのだ。

なんて女だ。

はるかの美しい横顔を思い浮かべながら、透は騙され殺されかけた悔しさで腹ワタが煮えくりかえっていた。

とにかく、ここから離れよう。早足で歩き始めた。30分くらい歩くと、広い国道に出た。夜は明けかけている。近くに列車が走っている気配はない。タクシーで最寄り駅まで行くしか方法は無さそうだった。

時折りダンプが通ったが、タクシーはなかなか通らなかった。財布をジャケットの内ポケットに入れていたのは幸いだった。もし、車に置いてあったら、タクシーを拾うことができない。

ひたすら歩いた。朝も早い時間だ。東京とは違って、タクシーが通る気配はなかった。

しばらくすると、透の後ろから、車の走る音が聞こえてきた。振り返ると空車のタクシーだった。運がいい。透は、手を挙げタクシーを止めた。

乗り込むと、運転手は、早朝フラフラと国道を歩く客を珍しそうな目で見ていた。

透は、最寄りの駅まで行ってくれと頼んだ。

「最寄り駅までは50分くらいかかりますよ」と運転手が言った。

「お客さん、 これから東京にお帰りですか」

「ええ、まあ」

運転手が透に興味を持ったらしく、やたらと話しかけてきたが、透は適当に相槌を打った。

助手席のシートの背にタクシー会社の名前があった。

「西伊豆観光」

はるかは、死体を埋めるために、伊豆方面に向かって欲しいと言っていた。伊豆に土地勘があったのだろう。最初から、あの断崖で光男の死体もろとも海に捨てようと計画していたのだ。

しかし、まずいことになったと、タクシーに揺られ適当に運転手と会話しながら、透は考えていた。

車が発見されれば、登録番号から、自分の車だとすぐにわかる。

警察はまず車の持ち主である自分を疑うだろう。光男を殺し車に乗せ、海に捨てたと。

だが、そうなれば本当のことを全て喋る。果たして、それを警察が信じるかだ。はるかが光男を殺ったという証拠があるだろうか。

凶器の包丁は死体に刺さったままだ。指紋は自分が拭き取った。はるかが光男に襲われていた唯一の証拠写真は車と共に海に消えた。たとえ見つかったとしても、復元は難しいだろう。

はるかは、写真のことで光男に脅されたと言っていた。しかし、その写真は、既にはるかが回収しているに違いない。そうなると、はるかが光男を殺したと立証するのは、難しいかも知れなかった。

厄介だな。

 午前6時すぎ。気がつくと、駅に着いていた。透は料金を払いタクシーから降りた。

JR線だが、それ程大きい駅ではない。取りあえず、東京まで切符を買った。

ホームで列車を待っていると、数名の男子学生の先客がいた。

短髪で、スポーツバッグを持っている。おそらく部活の朝練か何かだろう。背の高さや顔付きからして高校生に見えた。

彼らは黒の詰襟で、上着の合わせにはエンジの縦のラインの入った、変わった制服を着ていた。

今時、詰襟の制服とは珍しいな。

彼らと目が合わないように、透は顔を伏せた。学生達は透を一瞥したが、気に留める様子もなく、ゲームの話に講じていた。


東京に戻ったときには、すでに朝の9時になっていた。

透は、家に帰らず、渋谷にある、はるかのマンションの向かった。今までに何度か張り込んだことがあるため、場所がどこかは知っていた。

芸能人が多く住むそのマンションに着くと、はるかをどう呼び出すか考えた。

最新の設備が整っている高層マンションだ。オートロックで、いたるところに防犯カメラが設置されている。インターフォンを鳴らしても、居留守を使われる可能性があった。

透は佐々木光男の携帯電話を、ジャケットのポケットから取り出した。

アドレス帳を調べると、はるかのプライベートな電話番号が登録されていた。

光男の携帯からはるかに電話をかけた。何度かかけると、はるかの声がした。

「もしもし」

「俺だよ」透は低い声を出した。

電話の向こうでは何も答えがなかった。透が生きていたことで、驚いているに違いない。

「俺が生きていて生憎だったな。話がある」

「今、下に行きます」

ホテルのように広いロビーには人の気配はなかった。フロント受付には女性が一人座っていたが、そこから見えない場所を見つけると、はるかが出てくるのを待った。

しばらくすると、はるかが部屋からマンションのロビーに降りてきた。

透はすぐさま駆け寄り、はるかの腕を掴むと、脇の目立たない場所に連れていった。

「痛いから放してください」はるかが言った。

透は、はるかの華奢な腕を放した。

「生きてて、生憎だったな。驚いたか」

「どうして、ここに来たんですか? 」声が震えていた。

怯えているようだった。

「一緒に警察に行くんだ」

はるかの顔から血の気が引いた。

「自首したほうが罪が軽い。車はいずれ見つかる。光男の死体もだ。警察は車の持ち主である俺を真っ先に疑うだろう。そうなれば、俺は警察に君のことを喋るぞ」

はるかは口をつぐんだままだった。

「このまま、警察に駆け込んで全部喋ったっていいんだ」

透がそう言うと、はるかが透を睨みながら言った。

「どうぞ、警察に駆け込んでください。わたしも本当のこと、証言しますから」

「本当のこと? 」

「佐々木光男を殺したのは、あなただって、そう証言します」

「何? 」

「わたしのストーカーだったあなたは、ゆうべ突然、嫉妬にかられ光男の部屋に駆け込んできましたよね。そこで佐々木光男ともみ合いになり殺してしまった。わたしは救急車を呼んだほうがいいと主張したけど、あなたは聞かず、死体を車のトランクに入れ、どこかに始末すると言い、このことを誰かに喋れば殺すとわたしを脅した。そうですよね? あなたがどうやって死体を始末したか、わたしは知りませんけど」

いい終わると、はるかは目を伏せた。まるで用意してあった、台詞を喋っているみたいだった。

透は思わず、ふっと笑いを漏らした。

「君に崖から車ごと突き落とされ、殺されかけたことを俺が言わないわけはないだろう。あのあと、どうやって帰ったのか知らないが、君があの崖にいた事など、警察が調べればすぐにわかる」

「あの場所は、人もいなくて、目撃者もないでしょうね」

「パーキングエリアでも君は目撃されているはずだ。警察は君のアリバイも調べる。逃げきれないぞ」

はるかは黙っていた。その表情から焦りは見えなかった。

「自首しろ」

透はもう一度、そう言った。

はるかは、ゆっくりと首を横に振った。

「わたしはゆうべ、午前2時くらいから、恵比寿のシエラ っていうバーにいたんです。朝までいました。お店の人に聞いてみてください」

「店の人間にそう証言してくれと頼んだのか。小細工したって、すぐにわかる。その時間は君も伊豆にいたはずだ」

「いいえ。わたしは東京にいました。調べてください。シエラにいたんですから」

はるかの整った横顔からは、その言葉が嘘なのか本当なのか、透にはわからなかった。


恵比寿のバー「シエラ」は会員制のバーだ。

知る人ぞ知る、芸能人御用達のバーであることで、週刊誌カメラマンの間でも有名だった。

オーナーが若い頃に俳優だったらしく、芸能人に対して好意的な店だ。訪れたことはないが、店内は、カウンターとテーブル席、それに個室が二つほどあると聞いた。

お忍びで訪れる芸能人は、必ず個室を予約するという噂だった。

「シエラ」が芸能人に人気の理由それだけでは無い。

店のスタッフは、たとえ有名アイドルがカップルで訪れても、決して、それを外部に漏らすことは無いのだ。

昨今は、たとえ高級店であっても、店のスタッフが小遣いあほしさに週刊誌にたれ込むことが多い。その点、そういったスタッフの教育も「シエラ」では徹底していた。

その口の堅いことで有名な店が、警察ならともかく、一介のカメラマンである透にスタッフが口を割るはずもない。

ただ、「シエラ」はお忍びで訪れる芸能人が多いため、スクープ撮りたさに張り込む記者も多かった。運よよければ、昨日張り込んでいた記者がいるかも知れないのだ。

西嶋はるかは店には来なかったと、記者仲間から証言が取れれば、はるかのアリバイは崩れるはずだ。

 透は携帯電話で、某誌のカメラマン仲間である春日井に電話をした。

世間では、会社が違うと記者同志スクープの奪い合いで、他誌には決して情報を明かさないと思われがちだが、内情は案外そうでもない。

週刊誌カメラマンは契約であることが多く、会社への忠誠心が薄い。そのため、会社を超えて、カメラマン同志の仲間意識が強く、横の繋がりは外部の人間が思っているよりずっと濃いのだ。

電話をかけると運良く、春日井の声がした。

「はーい、春日井。」

「神戸だ。忙しいのに悪いな」

「おお、神戸か。どうした。なんかネタ掴んだか? 」

「いや、ちょっと確かめたいことがあるんだ」

「なんだ? 」

「昨日、恵比寿のシエラに西島はるかが来てたって聞いたんだが、誰か張り付いてたか知らないか」

「ああ、その事か。俺もシエラに張り付いてたよ。おまえ、来なかったな。ツイッター見てないのか? 」

「ツイッター? 」

「なんだ、知らなかったのか」

「ツイッターに何か流れたのか」

「昨日の夜中、ツイに情報がはいったんだよ。西嶋はるかが男とシエラで密会するってさ。だもんだから、昨夜はシエラに各雑誌社が勢ぞろいしたってことよ。おまえ、知らなかったのか? 詰めが甘いなあ」  

「それで、はるかは現れなかったんだな」

「いや、現れたよ。夜中の2時頃だったかな。はるかが一人でふらっとさ。そのあとずっと一人で飲んでたらしい」

「2時か。男は一緒じゃなかったのか? 」

「ああ。店に入るのも一人、出るのも一人。ずっと張ってたが、結局それらしき男は現れなかった」

「目撃された女は、本当に西嶋はるかだったのか? 」

「薄いサングラスを掛けてたが、間違いないね」

はるかは、夜中の2時に記者に目撃されていた。夜中の2時といえば、睡眠薬で眠り込んだ透を乗せ、車を走らせていた時間だ。

黙り込む透に、春日井が言った。

「結局男は現れず、骨折り損よ。ツイの情報なんてあてになんねえ。まあ、だいたいがそんなもんだけどな」

「そのツイッターの発信元は調べたのか? 」

「そんなの、いちいち調べてらんねえだろう」

「そうだな、いや、助かったよ。何かネタがはいったらまた連絡する」

透はて早く礼を言って電話を切った。

車を突き落とした崖から、すぐにタクシーで戻ったとしても、2時に東京に戻れる筈はない。はるかが運転してたのでは無かった。

つまり、はるかには、共犯者がいたのだ。

第三章 共犯

パーキングエリアで、睡眠薬入りのコーヒーを飲ませ、その共犯者と入れ替わった。

恐らく、共犯者が乗ってきた車で、はるかは東京に戻ってきたのだろう。それなら、2時に恵比寿に現れることは可能だ。はるかは、夜明けまでシエラに居た。

共犯者はツイッターで偽の情報を流しシエラで記者達に、はるかを目撃させ、アリバイを作ったのだ

よくよく考えてみれば、睡眠薬で正体なく眠っている自分を、助手席から運転席に移動するには、女の力では無理だろう。つまり、共犯者は男ということだ。

ただ、透にはわからないことがあった。共犯の男がいたなら、なぜ死体の始末を自分に頼んだのか。海に車ごと突き落とすより、どこかの森に穴掘って埋めたほうが、死体が見つかる可能性は少ない。

透を巻き込んだ挙句最後に殺すより、共犯者が単独で死体を埋めたほうが、リスクが少ないことは明らかだ。

透は自宅のマンションに戻り、シャワーを浴び2時間程度仮眠をとった。身体は疲れきっていたが、頭は冴えていたため、たいして眠れるわけでもない。しかし休息が必要だった。まだまだ調べることが山のようにある。そのためにも休む必要があった。

しばらく、うとうとすると、テレビをつけた。夕方のニュース番組の時間だ。海から車が発見されたというニュースは無い。発見され引き上げられるのには時間がかかるだろう。

透のところに警察が来るまで、まだ猶予がありそうだった。

それまでに、はるかの共犯者を突き止め、警察に突き出さなければ、自分が犯人にされてしまう。透は焦りを感じた。

机の上のノートパソコンを開き、今までに撮りためた西嶋はるかの写真を眺めた。

この中に共犯者の手がかりがあるのでは、と推測した。

透は、はるかがアイドルとしてデビューした当時から、隠し撮りでスナップ写真を撮っていた。その殆どを雑誌社やプロダクションに売った。

はるかは、今までに男とのスキャンダルは一切無かった。プライベートな写真は、全て独りでいるか、アイドル仲間または、学生時代の友人と写っている写真が殆どだ。たまに、男と肩を並べている写真があるが、男の方は仕事関係者か、マネージャーだった。

それでも、透は丹念にパソコンに残されている写真を調べた。

人は必ず自分の真実の姿を、無意識に誰かに伝えようとする。いくら隠しているつもりでも、心の奥深く押し殺され抑圧された真実は、必ず正体を現す。隠していると信じているのは、本人の表層意識だけだ。だから、嘘は決して突き通すことはできない。

それが透の持論だった。

カメラは正直だ。人間の能力では決して感知できない、一瞬一瞬の姿を捉える。

 何時間パソコンに向かっただろうか。 いつの間にか窓の外はとっぷりとした夜に変わっていた。1千枚近い写真を調べた。撮った写真全てを調べるのは、不可能に思えた。

まだ、全ての写真を調べたわけでは無いが、透は手がかりを見つけていた。

1年前の11月の写真に、アプリコットが秋葉原でゲリラライブを行った写真がある。

アプリコットの回りには、かなりの人だかりが出来ているが、その中に佐々木光男が写っていた。透は死体の顔しか見ていないが、細い目と小柄な身体つきは光男に間違いなかった。光男はリュックを背負い、いかにも秋葉原に居そうな服装をしている。

その少し離れた場所から、若い男が光男を見ていた。男の年齢は20歳そこそこくらいだろうか。痩せているが、肩幅はしっかりしている。顔立ちは、はっきりとはわからないが、端正な顔立ちをしていた。

さらに2年前、テレビ局の前で、アプリコットの出待ちするファンを撮った写真がある。

その中で、入口に群がるファンから、だいぶ離れた場所に、その若い男が映っていた。その目は、群がるファンの男達を冷めた目で見ていた。

そして、さらにその前の年の11月。アイドル仲間の友人と竹下通りを歩く、はるかを撮ったものだ。この頃は、アプリコットは、まだ知名度も低く、原宿を歩いていても、はるかがファンに囲まれるようなことは無かった。

はるかの後方に、やはりその若い男が映っていた。うつむいて顔がよく確認できないが、背格好と髪型からしてゲリラライブと、出待ちで写っていた時と同じ、端正な顔をしたあの男に違いなかった。

その時の男は学生服を着ていた。詰襟の制服に特徴がある。黒で前ボタンにエンジのラインが入っている。

「ビンゴ」透は呟いた。


今朝、透が駅のホームで会った学生と、同じ制服をその写真の若い男は着ていた。

3年前、男は、あの付近の高校の生徒だったのだ。

海まで続く緩い坂道。ガードレールのない崖。あたりは藪で民家も満足な街灯もなく暗い。

あの場所なら、誰かに目撃される心配無く、崖から車を落とすという犯行に及ぶことが出来る。つまり、共犯者には十分な土地勘があったということだ。

そして、この男が共犯に間違いなかった。

はるかとは一体どういう関係なのか。年齢は、はるかより2,3歳、年下だろう。

西嶋はるかのプロフィールでは、彼女は一人娘だ。兄弟はいない。

佐々木光男のように、学生時代に付き合った事がある男か。

 はるかにこの男のことを聞き出そうとしても、答えないのは明白だ。

男を探しだすしかない。もう一度、あの町に行けば手がかりがありそうだった。再度あの町をうろつくのは、自分にとっては、警察に見つかるリスクが伴い危険だが、他に手立てはなかった。男に会わなければならない。


K市は静かな港町だった。

既に夜は明けている。透は中型バイクでK市に来ていた。電車よりも早い。

男が着ていた制服の学校を見つけ出すのに、そう時間はかからなかった。

列車の駅で、詰襟にラインの入った制服はどこの学校かと聞けば、駅員は心よく教えてくれたのだ。

その高校は、駅から1キロほどの場所にあった。7時にもなれば、生徒が登校してくる。

バイクを道の脇に寄せ、校門から少し離れた場所で待つことにした。

学生に聞き込みをするしか、方法は無い。学校に問い合わせたところで、個人情報を教えるはずはないのだから。

7時をすぎると、部活の朝練があるのか、生徒達がぼちぼちと登校し始めた。

男子学生は、あの、詰め入りにラインの入った制服、女子学生は今時珍しい、セーラー服だった。

あまり目立つと怪しまれるのだが、学生に片端から聞いてみるしかなかった。

数人の男子学生に声をかけ、はるかの後ろで写っている制服の男の写真を見せる。

学生達は、たいして透を怪しむことも無く、むしろ、西嶋はるかの写真に興味を持ったのか、次々に周りに寄ってきていた。

「おお、西嶋はるかじゃん」男子生徒が写真を除き込み、口々に叫んだ。

「はるかの後ろにいる男、多分、君達の先輩だと思うんだけど、知らないかな? 」

透が聞いた。

学生は、首を振り、口々に「知らない」と答えた。

何人かに聞いたあと、ある男子学生が写真を覗きこんだ。部活で日焼けしたのか、色が黒く、実直そうな学生だった。彼は写真に写ったはるかを見ると、驚いたように「おお、西嶋はるかだ」と言った。

「西嶋はるかの後ろにいるこの男、この学校の生徒だと思うんだけど知らないかな」

学生は写真に浅黒い顔を近づけた。

「ああ、松田先輩だ、この人」

「マツダ? 」

横で見ていた別の男子学生が言った。

「ああ、そうだ、そうだ、松田先輩だ。」

「彼は、松田くんて言うんだね。詳しく教えてくれないかな」

「俺らの2つ上ですよ。アプリコットの熱狂的なファンで有名だった」

「マツダ、何て言う名前?」

「松田…浩一だったかな、確か」

「彼は、西嶋はるかのファンだった? 」透が聞いた。  

「ええ。学校中で有名でした。時々、東京に、はるかを追っかけに行ってたらしくて。それで学校休んで、先生に目つけられてたみたいだから」

別の生徒がそれに答えた。

「そうそう、バイト代つぎこんで、はるかの追っかけやってたらしいけどね。」

「松田さん、ちょっとキモかったよな。女子からもキモがられてた」

「うん、なんか、得体の知れない先輩だったよな。キモくて有名だった」

透は、口々にしゃべりだす学生達を制すようにして聞いた。

「彼が今、どこにいるかわかるかな? 」

「確か、施設出て、待ちはずれの鉄工所で働いてるって聞いたような気がするけど」

「施設って? 」

「先輩、施設にいたんですよ。児童福祉施設。親のいない子供が行くとこ」

「そうそう、施設上がりだったよ」別の学生がそう言った。

これだけ聞ければ十分だった。

透は学生に礼を言うと、教えてもらった鉄工所までバイクを走らせた。

今もそこで働いているかはわからないが、大きな手がかりは得られた。

 町のはずれにある鉄工所は、空き地の中にポツンと立っている、こじんまりとした町工場だった。カンカンという音がどこからとも無く響いていた。入口からは、少し入った作業場がうかがえ、覗くと、従業員が顔にマスクをつけ、鉄を削っていた。

透は作業場にいたマスクをつけていない従業員らしき男に「すみません」と声をかけた。

「はい」男は無愛想な声で答えた。

「こちらに、松田浩一さんという方、いらっしゃいませんか? 」

男は、透を訝るような目で見た。

「あんた、誰? 」

「僕、佐藤っていいます。東京で、浩一君と友人になったんですが、彼と連絡がとれないんで心配してるんです」

透はいつもより高い声で、いかにも好青年であるかのように、少し薄笑いを浮かべてそう言った。佐藤は、もちろん偽名だった。

「それでわざわざ、うちに? 」

男は、いかにも怪しむように目を細めたが、面倒臭そうにすぐに答えた。

「浩一ならだいぶ前にやめたけどな」

「やめたあと、どうしたかわかりませんか? 」

「知らないねえ。安岡に聞いてみなよ」

「安岡? 」

「浩一と同僚だった奴がいるからさ」

男が、作業場の奥のドアに向かって叫んだ。

「おい、誰か安岡、呼んできてくれよ。客だよ」

しばらくすると、作業場の奥のドアから、白い油での汚れたツナギを来た若い男が作業場に入ってきた。周りの先輩達を気にするように、背中を丸めている。

「安岡、この兄ちゃんが、松田のことで聞きたいことがあるんだってよ」

「浩ちゃんのことで? 」

「しばらく休憩やるから、いってきな」

「あ、はい」

先輩に促されて、安岡は透と外に出た。

「近くに公園があるんで、そこで話しましょう」

そう言われ、2人は公園まで歩いた。途中、透が缶コーヒーを買って安岡に渡した。

こじんまりした公園には遊具がなく、ポツポツとベンチが置いてあるだけだった。人影はなかった。2人はベンチに座り、缶コーヒーを開けた。

安岡と言う男は、顔にまだ少年のあどけなさを残していた。年齢は、20歳そこそこくらいだろうか。指先は鉄を削るせいなのか、黒ずんでいた。

「浩ちゃんのことって、何ですか? 最近は会ってないですよ」

安岡が気弱そうに言った。

「安岡くんだっけ。浩一君とは、一緒に鉄工所に就職したって聞いたけど、高校が一緒だったのかな? 」

「高校も一緒だったけど、どころで、あなた、誰ですか? 」

「ああ、俺は、佐藤、佐藤透。東京で浩一君と…その、アプリコットってグループ知ってるだろ?実は俺もいい年して、おっかけしててさ。それで浩一君と友達になったんだけど、連絡取れなくて、困ってんだよ」

「へえ。浩ちゃん、まだ追っかけてんだ。それでわざわざ、こっちまで? 」

「うん、ちょうどツーリングの途中でさ。ああ、この辺が出身だって、浩一君が言ってたなあって思いだして」

「ふーん。何だか、浩ちゃんにダチができるって、珍しいな」

透と浩一では20歳も年が違う。友達になったというのは、少々無理がある嘘だったか。

だが、安岡にたいして疑った様子は見られなかった。

「浩ちゃんは、人見知りだから。俺が唯一のダチだと思ってた。浩ちゃんとは幼馴染なんすよ」

安岡が言った。

「幼馴染ってことは、子供の頃から知ってるってこと? 」

「うん、俺ら同じ施設で育ったから」

「そう。それで、何とか、浩一君に連絡取りたいんだけど、連絡先知らないかな」

安岡は、すぐに首を振った

「知らないっすね。浩ちゃんが2年前にこの町出てってから、会ってないから」

透は落胆した。幼馴染みなら、連絡先くらい知っていても良さそうなものだ。

ここで、万事休すか。

「佐藤さん、東京で浩ちゃんと会ったんですよね。あいつ、ちゃんと生活してましたか? 」

「ああ、うん。普通にバイトとかしてたな 」

透は適当に答えた。

「浩ちゃん、東京で姉ちゃんと会えたのかな」

安岡が思いもかけない言葉を言った。

「姉ちゃんて? 」

「施設で一緒だったんですよ。浩ちゃんの姉ちゃん」

「浩一君にはお姉さんがいたの? 」

「うん。ガキの頃、施設出ていっちゃったんすよ。浩ちゃん置いて。出ていったっつうか、まあ、養子にもらわれてったんだけど」

透は心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。

「お姉さんて、何歳違いの? 」

「あんまよく覚えてねえけど、確か、2こ上くらいだったかな」

透の脳裏に西嶋はるかの顔がよぎった。

「その、お姉さんて人の名前、わかるかな」

「ええ。確か、キョウコっていったかなあ? 俺はキョウねえって呼んでた。浩ちゃん、施設で悪さばっかりしてたけど、姉ちゃんのことは大好きだったんですよ。だけど、俺らが8歳くらいん時、キョウねえが施設から出て行っちゃったんだ。多分、養子になったんだよね。そん時、浩ちゃん、姉ちゃんに捨てられたって、わんわん泣いてさ。それ以来浩ちゃん暗くなっちゃって」

「お姉さんと浩一君は連絡取り合ってなかったの? 」

「うん、連絡は取れなかったみたいですよ。そういうの禁止されてた。だけど、いつか姉ちゃんに会いたいって浩ちゃんずっと言ってたから。それで、東京に行ったんだと思ってた。姉ちゃん探しに行ったんじゃないかって」

「そのお姉さんて、彼女じゃない? 」

透は、安岡にはるかの写真を見せた。

安岡は黒く汚れた顔を袖出拭きながら笑った。

「まさか、キョウネエが西嶋はるかって、おもしれえ。でも、わかんないっすね。もしかしてそうだったりして。俺、ガキだったからキョウネエの顔、よく覚えてないっすよ。そういや、浩ちゃんに、何で西嶋はるかの追っかけしてんだよって聞いたことあるんすよ。そしたら、何か姉ちゃんに似てっからって言ってたな。もしかして本当に、西嶋はるかが姉ちゃんだったりして」

安岡は愉快そうに笑った。ひとしきり笑い終わるのを待って透が聞いた。

「ところで、君はどうして施設に? 」

透の質問に、安岡の笑顔が消えた。

「あ、いや、答えたくなかったら答えなくていいんだけど」

「いいえ、別にいいっすよ。俺は、赤ん坊の時に親に捨てられたんです。病院の前に捨てられてたらしい。産んどいて殺されちゃう子供が多いんだから、俺は母親に愛されてた幸せな赤ん坊だったって、何度も施設の先生から聞かされてたっすよ」

「そう…松田君は何で施設にいたのかな」

「キョウねえと浩ちゃんは、父ちゃんが酒飲んで暴れるから、母ちゃんが男と出ていっちゃったんだって」

「2人にはお父さんがいたんだ。それで何で施設に? 」

「なんか、父ちゃんがひどい暴力したらしいっすよ。それで虐待ってことになって、子供育てる能力が無いとかで、施設に入ったんすよ」

父親による虐待。DVか。

「浩ちゃんの右耳、聴こえないんすよね。キョウねえがオヤジさんに殴られそうになったのを浩ちゃんがかばったんだって。キョウねえがそう言って泣いてるとこ何度も見た」

安岡がよく喋る男で助かった。透は礼を言い、バイクで東京に向かった。

はるかのプロフィールでは、市川市の小児科医を営んでいる両親に、何不自由なく育てられたお嬢さんということになっている。だが子供の頃に養子縁組ということは十分考れらる。名前もキョウコから、はるかに改名したのだろう。

西嶋はるかが浩一の姉であることを透は確信していた。

恐らく、浩一は、はるかをテレビで見て自分の姉であることを悟ったに違いない。そして、はるかに会いに行った。はるかは、浩一がベラベラと余計なことを喋らないように監視する目的で、東京の自分のそばに住まわせ手懐けていたのだろう。

松田浩一はいわば被害者なのだろうか。

はるかは、自分自身を守るために弟を共犯に利用したのだ。

テレビで見る美しく可憐で清楚な西嶋はるかは、完全に作られた虚像にすぎないのか。

 だが、透の胸には何かがつかえていた。

ジャーナリストにとって、客観的に事実を見つめることが大切だ。

透はバイクを走らせ風を感じながら、最初から考えを整理した。

西島はるかは、男を誤って殺してしまった。そして、男の死体の始末に困り、俺に助けを求めた。しかし、他人では共犯として信用ができない。そこで弟に死体の始末と俺の口封じをさせることにし、自分はアリバイを作っておいた。

だが、どうしても腑に落ちないのは、なぜ、最初に死体の始末を俺に頼んだかだ。

最初から、弟に始末させればよかったではないか。俺を巻き込んだことで、余計におかしなことになっている。なぜだ。なぜ、俺を共犯に仕立て、そして殺そうとした。

走り続ける透に東京のビルが迫ってくるころ、夕暮れが近づいてきていた。

そろそろ沈んだ車が海から引き上げられるだろう。浩一に会う必要がある。

透は再び西嶋はるかのマンションに向かった。


第四章 確信


 はるかのマンションに到着したのは5時を過ぎていた。

すでに、日は暮れはじめていた。

西嶋はるかに電話をしたが、はるかは出なかった。

マンションは、共有玄関に入るためにインターフォンを鳴らし、住人に中から共有玄関のロックを解除してもらう必要がある。

透はインターフォンを鳴らしたが、何も返事がない。

監視カメラで、誰がインターフォンを鳴らしたかすぐにわかる。はるかは、透だとわかると警戒し、ロックを解除する気は無いようだった。居留守を決め込まれた可能性は大きい。再度鳴らしたが、応答がない。

そのまま立ち往生していると、住人らしき中年の男性が、カード式の鍵をセンサーにかざしロック解除して、自動ドアを開けた。透は何食わぬ顔で、その男性の後へ続いた。

オートロック式のマンションは、こういった点がセキュリティ上の盲点だ。住人の後に素知らぬ顔で続いて入ってしまえば、誰でもロビーには入り込める。

中年の男がエレベータで上階に行ってしまうまで、ロビーで時間を稼ぐ。

しばらくたって透もエレベーターではるかの部屋の階まで昇った。部屋は15階だ。部屋番号も調べてある。今度は部屋のインターフォンを鳴らしたが、何の返事もない。

居留守なのか、本当に居ないのか。

何度も鳴らしたが誰も出ない。透は強行手段に出ることにした。

ドアを何度もドンドンと叩いて、「あけてくれ」と叫んだ。

この方法は2日前にも光男の部屋で使っている。近所に不審がられるからと慌てて出てくるに違いない。そして、そのとおりだった。

ドアが少しだけ開き、はるかが顔を出した。

「近所の人が怪しむから、やめてください」

まるで、デジャビューだと透は思った。

「話がある」

「話なんてわたしにはありません、帰って」

「松田浩一君は、今、どこに居る? 」

透が切り札のようにそう言うと、はるかの顔が青ざめた。

「弟のこと、聞いたよ」

はるかはドアを開け、透に中に入るように促した。

「中に入って」

2日前と違うのは、ここがはるかの部屋であることだった。

部屋に入ると、簡素なダイニングセットと小さなソファとテレビがあるだけで、案外シンプルなインテリアだった。飾り立てるのは苦手らしい。

はるかが立ったまま言った。

「弟のこと誰から聞いたの」

「それは言えない」

「警察に言うの? 」

「ああ、言わなきゃ俺が犯人にされるからな」

はるかはしばらく黙っていたが、意を決したように口を開いた。

「だったら、取引しましょう」

「取引? 」

「私が自首します。誤って光男を殺しましたって。正当防衛だったと。だから、あなたを殺そうとしたことは、お願いですから黙ってて下さい。私があなたの車を盗んで、死体を海に捨てたって証言します」

透は言葉が出なかった。はるかの言っている意味が理解できない。

「何を言ってるんだ。だったら最初からそうすればいいじゃないか。そもそも何で俺を巻き込んだ? いったい何を考えている? 」

はるかは目をそらして黙り込んだ。

「俺にはおおかた、検討がついてる。光男を殺したのは、君じゃない。浩一君だったんだ」

はるかの顔色がみるみる青ざめた。

「俺は、なぜ君が俺という他人を巻き込んだのか、どうしてもわからなかった。だが、君が浩一君を守ろうとしたのなら理解できる。君は、浩一君に死体の始末をさせるつもりなど毛頭なかったんだ」

透は続けた。

「君は、浩一君を守るために、自分が光男を殺したことにしたかった。その為に第三者の目撃者が必要だった。それが俺だ。恐らく、あの夜、俺が部屋に入るよりもっと前に光男は浩一によって殺されていた。君は、咄嗟に俺を目撃者に仕立て上げるべく、コンビニから雑誌社にFAXでタレコミをした。君は俺が契約している雑誌社がどこかは、事務所を通じて知っていたんだからな。」 

はるかの紫色をした唇がわなわなと震えていた。

「そして、あの銀色のスーツケース。随分用意がいいと思ったよ。あれは、あらかじめ、俺が来るまでの間に浩一君が用意したんだ。俺は君の策略通り、光男のマンションを張り込んでいた。そこで、ベランダで君が襲われているのを見た。しかしあれは、君と浩一君の芝居だった。俺を部屋におびき寄せるためと、君が光男を殺したと思い込ませるための芝居だったんだ」

はるかは首を振りながら言った。

「デタラメ言わないでください。そんなことをして、あなたがその場で警察を呼ばない保証なんてない。どうして、あなたが私に協力してくれるって思うんです? そんな危険なことするはずないじゃないですか。下手をすれば、警察を呼ばれていたのに」

「いや、君には俺が君に協力するっていう確信があった。いや、万が一俺が警察に言ったとしても、その時点では、君が正当防衛で光男を殺した犯人だ。浩一のことは誰も知らない。君には自分が罪を被るその覚悟が出来ていたはずだ」

「わたしに確信があったって…? 」

「そうだ。君には俺が協力するっていう確信があった」

透はしばらく黙っていた。はるかのその確信がどこから来るのか、今、ここで言及するつもりはなかった。

「とにかく、俺は君の話を信じ込み、死体の始末を引き受けた。君の計画では俺の車で死体を運び、山に埋める筈だった。だが、途中で浩一君が車で、俺たちの後を尾けていることに君は気がついた。だからパーキングエリアで停ってほしいと言ったんだ。そして、トイレに行く振りをして、尾けてきた浩一君と隠れて会った。彼は俺に睡眠薬を飲ませろと、君に薬を渡した。浩一君が何をするか、君にはおおかた検討がついていたはずだ。だが、彼を止める術も無かった。言われるままに、俺に睡眠薬入りのコーヒーを渡し、君は浩一君の乗ってきた車で東京に帰った。そして、浩一君に言われたとおりに、シエラでアリバイを作ったんだ」

はるかがシエラに来るとツイッターに情報を流したのは、恐らく浩一だろう。

はるかは青ざめ、うなだれていた。

「君は浩一君を見捨てたと、自分を責め続けている。だけど、君だって子供だった。君には何の責任も無い」

はるかは激しくかぶりを振った。

「わたしがずっとそばにいれば、浩ちゃんはああならなかったんです」

「浩一君は、暴力的な大人に育った。それを君は自分のせいにしているが、関係ない。浩一君の問題なんだ。」

暴力の連鎖だ。ドメスティックバイオレンス、つまりDVは、子供が被害者の場合、その子供に連鎖する場合がある。暴力を受けて育った子供は無意識に暴力を容認するようになる。だが、それはわずかなケースなはずだ。浩一が暴力的な大人に成長したことが、子供の頃に受けたDVに原因があるとは言い切れない。

確かに、子供の時に、たった一人の肉親である姉が自分を置いていったことは、浩一にとって相当なショックだっただろう。だがそれは、同じように子供だったはるかには、何の責任も無いことだ。

「浩一君は、光男が君を脅したから殺したのか」

顔をあげたはるかは、うつろな目をしていた。

「18歳の時、興味本位で、ほんのちょっと光男と付き合ったことがあったんです。それで一緒にプリクラを撮ったりして。でもすぐに別れました。もちろん肉体関係なんて無かった」

「それで、今になって光男が、君を脅してきたのか」

「プリクラの写真を、週刊誌に売るって。それが嫌なら自分と寝ろって言われたんです。私は、勝手にすればいいって思ったけど、浩ちゃんがそれを知って」

はるかは肩をふるわせながら続けた。

「浩ちゃんは光男を許さなかった。わたし、止めたけど、でも」

その時、部屋の隅でガタっと音がすると、若い男の声がした。

「殺されて当たり前だよ、あんな奴」

「浩ちゃん! 」

いつの間にか、部屋の隅に浩一が立っていた。透は浩一を見て言った。

「君は姉さんに近づく光男を殺した。そして同じように俺を殺そうとした。俺に光男殺しの罪を着せるためじゃない。姉さんに近づく俺を殺したかったんだ。そうだろ? 」

浩一はまるで幽霊のように怨念のこもった目で透を見ていた。

「ああ、そうだよ。だって、あんた、前からウザかったんだよ。カメラマンだかなんだか知んねえけど、姉ちゃんのこと、コソコソとつけまわしやがって。姉ちゃんに死体の始末頼まれて、鼻の下伸ばしてんだろ。キモイんだよ、いい年したおっさんが」

「君はいわば被害者だ。適切な治療を受ける必要があるんだよ」

「黙れ! 姉ちゃんに近づく男は俺が全員殺してやる。おっさんもだ。死体の始末したら、姉ちゃん脅して、寝ちまおうとか、たくらんでたんだろが、このスケベ野郎! 」

浩一はそう言うと、ニタニタと薄気味の悪い顔をして、フラフラと透に近づいてきた。手には包丁を握っていた。

「やめて、浩ちゃん! 」

一瞬のことだった。包丁を握って腕をつき出す浩一の前に、はるかが飛び出したのだ。透は咄嗟に横からはるかの身体を押しやった。はるかは床に倒れ込んだ。

その瞬間、浩一の包丁が透の脇腹に鋭く食い込んだ。激しい衝撃が全身に走る。

はるかが甲高い叫び声を上げた。

透は立っていることができず、ヨロヨロとソファにもたれかかるようにその場に座りこんだ。脇腹には包丁が突き刺さっていた。生温かい血がドクドクと腹から流れ出すのを感じた。たいした痛みもないのに、立つことができないのが不思議だ。

浩一がこっちを見てニタニタと笑っている。はるかが透を見て、何か叫んでいたが、よく聞こえなかった。


……はるか、君には確信があった。

俺が警察に言わないという確信が。

君に協力するという確信があったんだ


次第に意識が薄れていく中で、透の目は、いつまでもはるかを捉えていた。

エピローグ


4年前、君がまだかけだしの無名のアイドルで、小さな劇場でライブに出演していた頃だ。俺は、週間誌カメラマンで、駆け出しのアイドル撮ろうと 劇場の外で待ち構えていた。

他にもカメラマンが何人かいた。

その日、東京ではめずらしく雪が降ってきた。他のカメラマンはみんな、あきらめて帰っていった。俺はライブ終わりの写真がどうしても写したくてそこに残っていた。

待っている間に俺は、携帯ラジオを聞いていた。

日本人ジャーナリストがバクダッドで銃撃戦に巻き込まれて死んだというニュースが流れた。ジャーナリストの名前は田所だった。

ラジオは繰り返し、日本人ジャーナリストが銃撃戦で死んだと報じた。

俺は、ただニュースを聞いていた。

心がそこに無いかのように、ニュースを聞いていた。


ライブが終わった頃、雪が降りしきる中、君は傘をさして、片手にコーヒーを持ちながら、俺のところまで来た。

そして、紙コップに入ったコーヒーを差し出して微笑みながら言った。

「雪の中大変ですね。頑張ってくださいね。」 

俺はうつむいて「どうも」と言った。

降りしきる雪と、湯気の立ったコーヒー。


たったそれだけだ。

たったそれだけのことなのに、君は俺が決して断らないと確信していた。


牡丹雪が降っていた。フワフワとコーヒーの中に落ちて一瞬で溶けていった。

見上げると、電灯に照らされて雪が舞っていた。

…まるで真っ白な蝶のように。



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