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第零章 秋月

よろしくお願いいたします。

こちらは更新が遅いと思います。

其の零 秋月


 ――器物損壊罪。


 彼女らが行っているのは、此の国では紛れも無く器物損壊罪に該当する。飼い犬や飼い猫を殴り殺したときに適用されるあれだ。それほどの罪じゃない。起訴すらされずに終わるだろう。こんなことで起訴されたなんて話聞いたことが無い。それくらい、当たり前のことだ。日常茶飯事。常日頃から此の街のどこかで行われている風景、一種の娯楽。

 殴り、蹴られる。

 あぁ、絶え間ない集団暴行の対象となっている「物」は紛れも無くこの僕だ。彼女たちの娯楽、この上なく卑屈な遊戯の対象になってからすでに半刻が過ぎようとしていた。五感はそれほど損壊していない。彼女たちが、獲物をゆっくり甚振ることに快感を得る性癖だったのが幸いしただろう。ひたすら暴力に訴える輩などは、鉄パイプでもって頭部を形がなくなるまで殴り続ける。開始十秒で息絶え、十分が経過した頃には、何らかの肉塊が吐瀉物のように撒き散らされている。僕の知り合い甲。それに比べれば僕は幸いだ。何せ、意識がはっきりとした状態で、半刻も生きながらえているのだから。

 「ムカつきますわね。その反抗的な態度」

 彼女らのうちの一人が言った。先ほどから何度繰り返されたか分からない表現である。一体、僕の態度のどこが気に入らないのか。全身が軋み、襤褸切れのようにだらしなく地面に横たわっている此の態度の。あぁ、成る程。息をしていることが彼女らは気に入らないのだ。そうならばそう言えばいいのに。どうして彼女らはこう婉曲的な表現を好むのだろうか?所詮、下等な物である僕には分からない。

 「汚らわしい男の癖に、女性のような名前をして。恥を知りなさい!」

 殴り、蹴られる。

 彼女らの靴のあとが身体のいたるところについているのではないか。何時になったら彼女らは飽きるのだろう?

 「あぁ、汚れてしまったわ。私たちの靴が。お前の所為だ!全くどうして男という物はこうも汚らわしい!」

 殴り、けら――れると思ったが、衝撃はなかった。僕の神経が完全に麻痺したのだろうか?それならそれで幸いだ。これ以上、痛みという余計な感覚に苛まれることはない。だが、しかしどうやらそうではないらしい。身をよじれば確かに身体が痛むし、息苦しさも感じる。では、彼女らが暴行を止めたのか?僕は土埃に霞んだ目を彼女らに向けた。

 「みすぼらしい物ね」

 「ねぇ、本当にやるの?私いやよ」

 「でも、面白そうじゃない」

 彼女らが、恐らく僕の処遇について話し合っている。なんと愉しそうに話すのか。かくも醜き鼎談を、僕は聴いたことがない。

 「舐めなさい」

 彼女らの一人が、靴を僕のほほに撫で付けながら言った。彼女らは新しい遊びを思いついたのだ。あぁ、そうだ。舐めればいいのだろう。断る理由など無い。男としての矜持など埃程度の価値も無い。女性の命令を断る権利も無い。ただ従順な狗のように、舌を出し、狂ったように、それでいて丁寧に靴を舐め上げればいいのだろう。

 「早くしろ!此の愚図!」

 彼女らの一人が苛立って叫ぶ。醜き貌がさらに映える。僕がなかなか命令に従わないのに腹を立てたのだろう。ヒトエニ生まれたばかりの赤子に同じ。

 どうしたのだ?従えばいい。そうすれば僕は、運がよければ物として生きながらえることが出来るかもしれない。あぁ、だが待てよ、玲奈。物として生きるのは、果たして生きると言えるのだろうか?

 「舐めろっ!!!!」

 髪を乱雑につかまれ僕の顔は黒く光沢のある革靴に擦り付けられた。あぁ、どうした。こんなに綺麗で高級な靴ではないか?何故舐めないのだ?僕は固く口を閉ざしたままだ。ズリズリとほほが擦れる。薄皮が破れ、小さな赤い粒がにじみ始めた。

 だが、かすれる視界の中、何かが見えたんだ。


 ――あぁ、そうか。彼女が見えたから、僕は物になるのを拒んだのか。


 僕は、視界に「彼女」が映ったのをはっきりと認識した。

 「この役立たず!」

 いきり立った女生徒は、手の平くらいの石を拾い、振り上げて、僕の頭に叩きつけようとした。其の時余程女生徒は興奮していたのであろう。僕をリンチしていた他の女生徒が、しきりに彼女を止めようとする声が聞こえていなかった。

 「止めろよ」

 「は?」

 振り上げられた手は、振り下ろされることがなかった。その手は、同じくらい華奢な手に、しかし相当な力を持って掴まれていた。

 「痛っつ!」

 余りに痛かったのか、普段痛みを経験したことのない女生徒は石思わず石を落としてしまった。しかし、その痛みにもだえる前に、彼女は自らの手を締め上げる主を見て驚愕する。

 「その辺にしとけよ。こんなこと、立派な淑女がやることじゃないだろ?」

 果たして、女生徒が言葉を失ったのは、視界に映った「彼女」の現世から隔絶されたかのような幽玄なる雰囲気に思考を奪われたからであろうか、それとも「彼女」が絶大な権力を誇る華族の令嬢だと知っていたからか。

 いずれにせよ、その玲瓏な声により発せられた一言によって、その場の熱された空気は一気に冷え込んだ。

 「紫藤様……」

 「さっさと行きなさい。こんなみっともないこと、他人に知られたくはないだろう?」

 静かな、命令。生まれながらの権力がすべてを支配する此の国に於いて、彼女に逆らおうとするものなどいない。女生徒たちはすでに僕のことなど思考の外にある。紫藤という女性に見据えられては、僕などという俗物にかまう余地は無い。蛇に睨まれた蛙、といえば齟齬が生じる。女生徒らは確かに動けずにいるが、それは恐怖から筋肉が萎縮しているわけではない。


 ――あぁ、なんと美しい。


 溜息が出るほどにその紫藤という女性は美しいのだ。威圧感に萎縮する空気とそれに苛まれる恍惚。ゆえに動けないのであろう。

 紫藤が女生徒の手を離すと、彼女らは足早に、されど名残惜しそうにその場を立ち去っていった。

 「おい」

 紫藤が何かに向かい、声を発した。それが、僕に対して発せられたものだと理解するにはもう二、三の言葉が必要だ。女尊男卑の極まる此の国に於いて、女性が、それも華族の令嬢が、路傍にうち棄てられた男に声をかけるなど聞いたことが無い。しかし、僕は知らなかったのだ。彼女がどれほどまでに変わった存在なのかということを。

 「大丈夫かよ」

 「……」

 「ったく、仕方ねぇな」

 僕は困惑していた。僕は、この紫藤という女性に礼を言うべきであった。彼女は恐らく僕の命の恩人であろう。しかし、僕は彼女に礼を言っていいのか分からなかった。僕などに声をかけられたのでは彼女は迷惑かもしれない。その葛藤の中、僕は地に伏せ続けることを選んだ。彼女にみすぼらしい姿を見せ続けたくなかったので、心の裡で、彼女が早く過ぎ去ってくれることを願った。

 だが、次の瞬間、僕の泥まみれの手につめたい感覚がはしった。あまりの冷たさに、氷でも当てられたのかと思った。それは人の手だった。細く、透き通るように白い。痩せ過ぎているわけではなく、無骨でもない。それが、僕の手を握った。白と茶が交じり合う。紫藤は僕を、引っ張り上げると、抱きかかえるように僕を支えた。僕の体中についた埃が、彼女の服に降りかかる。どれほど汚してしまったであろうか?彼女を汚してしまうことへの罪悪感と、感じたことのない焦燥感に僕の思考は軋みを上げた。僕は、ぐらつく足に力を入れる。鈍痛が走るだけでまるで言うことを聞かない。結果として僕は、さらに彼女に身体を傾けてしまった。

 「おい、無理すんなって。ちょっと休めるとこまで運んでやるから」

 紫藤はそういうと歩き出す。僕が重いので、足取りはゆっくりだが。

 何か、言わなければならない。喉が切れたとしても、僕は彼女に対して。声の出し方を知らない赤子のようにただ――息の出し入れが行われる。空気に振動を乗せることがこれほどに難しいとは思わなかった。僕が声を出そうと口を動かしているのを、彼女は怪訝そうな面持ちで見る。

 「息が苦しいのか?」

 いけない。彼女に心配をかけてしまったようだ。僕は、首を横に振る。頼むから、擦れ擦れでもいいから、一言。たった一言でいいから出てくれと願う。あぁ、僕は言わなければならない。この美しい少女に対して――

 「ありがとう」

 彼女が、微かに笑った気がした。

 「気にすんなよ」

 

 夏の暑さに翳りが見え始めた頃 僕は、紫藤菜月という少女に出会った。



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