真夜中の騎士
この作品はPG12程度です。性表現の仄めかしがありますが、直接描写は全くありません。キーワード:恋愛ファンタジィ、片想い、そこそこハッピィエンド
彼は父の騎士だった。
寡黙で、心の中を見透かすかのような鋭い視線が印象的だった。子ども心に恐怖を感じ、夢にまで見たほどだ。彼に見つめられて動けなくなった私に、彼が襲い掛かってくるのだ。飛び掛ってくる直前に目を閉じて、恐怖で目を覚ます。目を覚まさなければどうなったのだろうか。口が裂けていたから、食べられたのかもしれない。
私の中で、彼はずっと怖い人だった。私は人一倍怖がりだったから、特に怖かった。怒鳴られたわけでもない、暴力を振るわれたわけでもない。
笑ってしまうことに、直接口を利いたこともなかった。目が合えば、会釈を返されるだけ。彼の名前を口にしたこともなかった。侍女から聞いて、知ってはいたけれど。
何故なら、恐ろしい彼の噂を聞いて、名前を口にしただけでも呪われてしまいそうに思えた。人を、食べるのだという。私の夢も、そのせいだと思う。
実際に口は裂けていなかったし、外見も恐ろしくはなかった。あの、射抜くような目さえなければ。この国には珍しい、黒い眼。闇を寄せ集めたかのようで恐ろしい。まだ十分に大人にはなりきっていない肢体に、不似合いだった。
私がだんだんと歳を取り、大人へと近付いていっても、彼はずっと幼いときに見たあの姿と同じだった。同じ背の高さ、同じ顔、同じ表情、同じ声、同じ眼。大きくなれば、彼のことが怖くなくなると思っていたのに、いつまで経っても怖いままだった。
彼は強く、父は彼のことを信頼しているようだった。それは、彼の地位が物語っていた。腕を信頼して任せているのだ、あの少年……? いや、青年に。
私が十六になったときのことだった。相変わらず彼はそのままで、そのうち私が追い越してしまうのではないかと思えた。
そのころ私は、寝室へ向かう途中にある渡り廊下を通るのが怖くて怖くて堪らなかった。何故なら、下に生えていた樹がかなり大きくなって、渡り廊下を追い越してしまい、それが夜、風に揺れて不気味なのだ。お付きの侍女が一緒にいるのだが、それでも心細さは変わらない。彼女は、私の後ろを歩いていた。
前々から怖いとは思っていて、私と共に成長していく樹は、ますます不気味になっていった。風でざわざわ揺れ、迫り来る闇を象徴しているかのようで。
あるとき、私はぽろっとそのことを父に言ってしまった。父は、怖がる私を怖がりだと笑った。私は恥ずかしくて泣きそうになった。やはり、口にしなければ良かったのだ、と後悔した。そして、父の側に彼がいて、そのことを聞かれてしまったことをさらに後悔した。
内心、彼も私を笑っているのだろう、と思った。彼とは一瞬、目が合っただけで、すぐに逸らされただけだった。
そのあと、父の前を辞するとき、彼に呼び止められた。名前ではなかった。そうだ、私の名前を呼ぶのは父と母しかいない。心臓が跳ね上がり、恐ろしい気持ちを抑えながら振り向いた。父がいるから、酷いことをされるはずもない、と分かってはいたのに。
しかも、彼は私が不注意に落としたハンカチーフを拾ってくれただけで、本当に用はそれだけだった。あらぬ猜疑心を働かせてしまった自分が恥ずかしくなると同時に、ハンカチーフを受け取って固まってしまった私は、彼が私を一瞥し、父に会釈して立ち去ろうとする背中に、お礼の言葉を振り絞ることで精一杯だった。
そして夜。夕食を終えて部屋に帰る時間がやって来た。いつもの渡り廊下はいつものように恐ろしく、手前に来ると身構えてしまった。
無駄だと分かってはいたが、渡るまえに安全を確かめようとすると、途中に黒いものが見えた。樹の影ではない、風に揺れる小枝の中で、その影は止まっていた。当然、足が竦む。
侍女に言うと、彼女は訝しげにそちらを見、苦笑いしながら答えた。言われてみて見返すと、彼女の言うとおり、それは手摺のすぐまえに立っている彼だった。少しもたれかかるようにして、夜空でも見上げている風だった。人心地着き、意を決して渡り始めた。
「こんばんは……」
擦れ違うとき、絞り出すように挨拶をすると、彼は黙って会釈をした。
目付きは相変わらず。何とか声が震えないように言えた自分を褒めたくらいだ。廊下を渡り終え、無事に部屋に戻ることができた。
その次の日も、その次の日も、彼は渡り廊下の途中にいた。鈍い私は、一週間くらい経つまで、私が渡り廊下が怖い、と言ったから彼がそこにいるのだと気付かなかった。最初の日など、廊下よりも彼の存在が怖かったのだ。
そのことに気付いてから、彼の怖い夢を見なくなった。今度は、彼が笑っている夢を見るようになった。夢の中の彼は、怖くなかった。
彼が怖いのは、微笑まないからだ。
次第に、私は夜の渡り廊下を歩くのが楽しみになった。そこに行けば、彼がいるから。彼は空を見上げていた。
夢の中では、彼は微笑んで私を見ていた。私の名前を呼んでくれていた。
そしてある日、私に『好き』だと囁いた。
ビックリして目が覚めた。心臓がドキドキしていて、壊れそうだった。
現実の彼は、微笑んではくれないし、ましてや名前など呼んでくれない。懸想されるなどもってのほかだ。夢の中の彼は彼ではない。私の願望なのか。
彼が渡り廊下に立つようになって半年ほど経っても、まともに話をしたこともなかった。渡り廊下は怖くなくなったのに、いまでは彼を意識してしまって、逆に変な風になってしまった。
昼間なら、もう少し会話ができるのではないか、と思っていたのに、彼は昼間あまり見かけない。だから、珍しく彼が廊下を歩いているのに気付き、柄にもなく駆け寄ろうとしてしまい、裾を踏んで転んだ。何と無様なのだろう。不恰好な場面しか見られてないのではないか。
ショックのあまり起き上がれないでいると、だんだんと近付いてくる足音。すぐ横で止まり、膝の上に抱き起こされた。今度は違うショックで口も聞けなくなった。
「姫、お怪我はございませんか?」
相変わらずの目付き。でももう怖くない。彼の手が、私の頬の髪を払った。その手は、冷たかった。いままでになく接近した彼の顔を見つめた。このとき私は、初めて彼の名前を口にした。
「はい」
もう一度、呼んでみた。
「ご用であれば何なりと、姫」
答えてくれたのが嬉しくなり、恐る恐る彼の頬に手を伸ばした。この時点で、私は夢と現実の違いが分からなくなっていたのかもしれなかった。彼の頬も冷たかった。
「冷たいわ……」
呟くと、彼が目を伏せて謝った。
ほんのりと汗ばんだ肌には、彼の冷たさは心地良かった。触っていても不快な感じが全くしない。輪郭を何度もなぞった。
「姫、お歩きになれますか?」
表情を変えずに彼が私の手を除けた。妨げられたことが不満だった。夢の中の彼なら、抱き締めて口付けをしてくれるに違いないのに。
返事をしなかったら、彼は私を抱きかかえて立ち上がり、椅子がある場所まで運ばれた。落とされるのではないか、とさすがに怖くて、下ろされるまで動くことはできなかった。
「ご無礼を……」
スッと彼が身を引いた。私は咄嗟に手を伸ばした。その手を彼が取り、膝を突いて口付けをされた。忠誠の口付け。手が熱い。息が自然にできなかった。彼が会釈をして去っていった。私は、呼び止めることすらできず、その後姿を見つめていた。
ますます私は、彼とまともに話すことができなくなり、夢の中の彼は私に愛しか囁かなくなった。夢が覚めなければ良い。醒めなければ、彼はずっと微笑んでくれるのだ。
「姫……」
彼の声がした。夢だ。いいえ、夢の彼は私を名前で呼ぶ。姫、などとは呼ばない。私をそう呼ぶのは、本当の彼だ。
「姫、このような場所で眠られては、お風邪を召しますよ」
夢ではない。
私は飛び起きた。揺り起こしていたらしい彼は、さっと身を引いた。
庭の木陰で読書をしていたつもりが、いつの間にか居眠りをしていたらしい。慌てて頬を擦ると、そこにはくっきりはっきりと、本の跡が残っていた。カーッと頬が熱くなり、彼の様子を窺う。もしかすると、まだ見られていない可能性があった。
彼は、笑っていた。これは、夢なのだろうか。夢の中と同じ。嬉しくなって微笑み返した。抱き締めて欲しくて、ふらふらと立ち上がり、両腕を伸ばした。
それなのに、そのタイミングで椅子の足に引っかかって転びそうになった。だが、倒れかかったのは芝生の上ではなく、彼の腕の中だった。
「姫、まだ寝ぼけていらっしゃるのですか?」
すぐ上で彼の声がした。彼の制服にしがみ付きながら顔を上げると、もう彼は笑ってはいなかった。あれは、幻だったのだろうか。淡い闇の双眸に見下ろされていた。
「……カディ」
つい、軽々しく呼んでしまった。だって、夢の中の彼が、そう呼んで欲しいと私に言ったのだから。
「姫、お付きの者が御身を捜していましたよ」
さらり、と受け流されてしまった。
「……カディと呼ぶのは、嫌?」
彼の表情は変わらない。喜んでいるようにも、嫌がっているようにも見えない。
「いえ、お好きなようになさって下さい」
つまり、私に何と呼ばれようがどうでも良い、ということだろうか。ガッカリしてしまった。私なら、彼から名前で呼ばれたら嬉しいのに。
でも、私は呼びたかったので、そう呼ぶことにする。
彼をそんな風に呼ぶ者など、城中を捜してもいなかった。仕事中以外の彼は他者と群れることもない。彼が独りでいるとき、その肩に白い鳥が乗っているのを遠くから見かけたことがあった。動物には好かれるのかもしれない。
彼との間に進展がないまま、彼は父の命令で遠征に行ってしまった。彼のいない日々、渡り廊下には誰もいない。寂しくて、寂しくて、彼に会いたかった。だから、毎晩のように彼は、私の夢の中に現れて、恋人のように振舞う。会いたくて、会いたくて、夢に見た。
一年後、彼は遠征から戻ってき、父から功績を認められ、さらにお気に入りとなった。一年振りに会った彼は、なにも変わっていなかった。
黒い瞳、見据える視線、そして素っ気ない態度。
未だ子どもの域を十分に抜け出しきれていない肢体。彼は大人にならなかった。だから、恐ろしいのだ。子どものまま。成長しない。時間だけが過ぎていく。私はどんどん大人になって行くのに。このままだと、いつか私は彼を追い越して、大人になって老いていくのだろうか。
何と残酷な。
だから彼は畏怖されている。老いないから。その外見と強さが釣り合わないから。彼は人間ではないのだ。
侍女らに聞いたその話が本当なのか、彼に直接確かめたことはない。怖くて、聞けなかった。なかなか話す機会もなかったのだから。だが、確かめなくとも彼が老いを超越していることは明らかで、私自身が知っていた。
彼がいなかった間、夢の中での私たちは結婚を誓い合った。夢から覚めるといつも笑ってしまう。でも、嬉しかった。
彼の言葉が態度が心が、現実と違っていても、いずれ私が彼を置いていってしまうとしても。夢の中くらいでは、幸せになりたかった。本当にそう、それが夢であっても。
私は、どうにか彼に近付きたくて、毎日一度は勇気を振り絞って話しかける努力をした。挨拶だけに終わってしまうことも多かったけれど、数をこなしていくことで、さすがに慣れというものが生じてくる。だんだんと自分にも自信がついてくるような気がした。相変わらず、だったけれども。
やがて私は十八歳の誕生日を迎え、誕生パーティが催された。その席で、父が発表した。それは、こともあろうか、私の婚約だった。
父が述べる、私の知らない誰かの名前。私が成人すれば結婚させるつもりらしい。父が、全部全部勝手に決めてしまった。私の意志など関係なしに。
ショックだった。
彼と私は所詮結ばれるはずもないことは分かっていたけれど、心のどこかでは夢が現実になることを期待していた。少しずつ近付いた二人に、そんな未来が待っていることを願っていた。
分かっていた、分かっていた、彼の私に対する態度はほとんど変わらないし、兄がいなくなった空白を私が埋めなければならないのは。
でも、でも、こういう風に知らされたくはなかった。彼がいるところで、何の前置きもなしに。泣きそうになってしまうのを必死に堪えた。いくら堪えたところで婚約は破棄されないし、彼がダーンスを踊ってくれるわけでもない。独りで期待して、傷付いて、馬鹿みたいだ。
私は王女、彼は父の騎士。この関係は、ずっとこのまま。彼が、私の隣に立つことはない。いくら彼が王に相応しい存在であったとしても、実績を認められたとしても、彼は王になり得ない。それは、彼が人間ではないから。
解っている、解っている。この溝が埋まることがないことは、だから、夢の中でだけは、彼と一緒にいたかった。
パーティの間、彼と話すことはできなかった。周りにいた誰もが、知らない相手との婚約を祝福してくれる。嫌になる。みんな、私が不幸になるのがそんなに嬉しいのだろうか。嫌だ、嫌だ。見知らぬ相手と結婚して、跡取りを儲けなければならないなどゾッとする。
自室に戻り、身を清め、人払いをした。ベッドの上から月を眺めた。今日は、満月だった。物思いに耽る。考えたいことは山ほどあった。
逃げ出してしまおうか? ……無理だ。
それならいっそのこと、命を絶ってしまおうか? ……無理かもしれない。私には、勇気がない。
それでも、始まったカウントダウン。どちらにせよ、死刑を宣告されているに等しい。結婚したとしても、彼はずっと近くにいるのだ。拷問ではないか。
結婚相手が彼であれば、天にも昇る気持ちだっただろうに。
……ああ、そうだ。どうせこの想いが遂げられないのであれば、好きでもない誰かと結婚しなければいけないのであれば、せめて初めて触れられる男性は彼が良い。一度だけで良いのだ、たった一度だけ。こんな我侭なお願いを彼が聞いてくれるだろうか? きっと無理だと思うけれど、もしかしたら……、と少しの可能性を考える。
彼も、私に同情してくれないだろうか。同情でも良い、恋愛感情がなくとも良い、これからの未来を受け入れるための礎が欲しかった。
一度だけでも、夢を見られたら、これからのことも我慢できそうな気がした。
……でも、男性は恋人でもない、好きでもない相手からそんな申し出をされたらどうなのだろう。首を振って振り払う。
そうだ、彼が嫌であってもお願いするくらいでなければ駄目だ。それで押し切れなかったら、彼に断られたら、諦めるしかない。それほど私が嫌なのであれば、そう……、もう思い残すこともないだろう。
ベッドから立ち上がる。高鳴る鼓動を抑えながら上着を羽織り、何度も深呼吸をした。何度深呼吸をしても落ち着くことはなく、そのうち諦めてそっと部屋を出る。
彼の部屋は知っていた。尋ねるのはもちろん、初めてだった。
月明かりの下、誰に会うこともなく、彼の部屋の前までたどり着けた。部屋には仄かな明かりが点っている。彼は起きているに違いない。
なかなか扉を開けられなくて、何度も固唾を呑んだ。やっとの思いで扉を開け、彼を確認する。彼がこちらを見て、咎めるように私を『姫』と呼ぶ。もう、あと戻りできない。中に入って、鍵をかけようとしたけれど、かけ方が分からなくて、時間がかかった。
ようやく鍵がかかると、彼に近寄って、必死の思いで抱き付く。彼はかなり驚いたようで、動くことすらままならない様子だった。
私は必死であれこれ理由をつけ、彼にお願いを試みる。死にそうな思いで、私のことが嫌いかどうかを尋ねた。彼は私に好意がある、ようなことを言ってくれたけれど、願い事のほうは父を理由に断られてしまう。父なんて関係ないのに。やはり、私に興味がないなど、口が裂けても言えなかったのではないか。
彼にとって一番大事なのは、私ではなく父で、私など、私など……。
こうなる可能性は初めから高かった。どこかで分かっていたのに、考えないようにしていた。それなのに、目の前が真っ暗で、胸が張り裂けそうで、絶望に押し潰されそうだった。
次の瞬間、ああ、これが絶望なら、そのまま押し潰されてしまえば良いのだ、と気付く。このまま、彼に見守られながら死んでしまおう。
自ら命を絶つなどできないと思っていたけれど、それは希望があったから、その希望すら失せてしまえば、こうも変わるとは。バルコニィに出て、彼に手伝ってもらい手摺に登る。彼が手を離そうとしない。こういうときだけ、離してくれなくとも良いのに。
やっと離してもらい、身を投げようとすると邪魔される。私は暴れたけれど、それは無意味で……。
私を大人しくさせるためか、口付けをされる。それは効果覿面で、あっという間の出来事だったのに、今度は頭が真っ白になって動けなくなった。意地悪な彼。我慢していた涙が溢れてくる。
抵抗したのに、バルコニィから連れ去られ、ベッドの上に下ろされた。希望さえ見出せず、彼にも拒まれ、それなのにこれから生き恥を晒していかなければならない惨めな私。震えが止まらない。怖くて怖くてたまらない。
ところが、見かねたのか彼が、私の無理なお願いを聞いてくれる、と言った。耳を疑った。でも、気が付いた。
彼は、私に死なれると困るのだ。それよりも、私の我侭を聞いたほうがマシだと気付いたのだろう。傷付きはしたけれど、自らが望んだこと。愛されなくても良い。一度だけ、触れてもらえれば……。
嘘を吐いた。
本当は、彼に愛されたい。それも、心から。
けれど、彼は私などにそれほど心を動かされない様子で、いつだって父の、仕事のことばかり。彼に愛されるのは、どんな女性なのだろう。そんな女性になることは、もはや私には不可能だ。
もう、なにも変われない。手遅れだった。
もし私が王女でなければ、彼に近付けただろうか。後悔ばかり。いえ、後悔してもどうにもならないようなことばかりだ。王女でなければ、彼と出逢えなかったかもしれない。
彼にとって、仕事の一部として処理されたとしても、触れ合えることが奇跡。
どうせなら、と我侭を言うと、彼は夢の中でと同じように、私の名前を呼んでくれた。夢が現実になったようで、嬉しかった。いままで聞けなかった、彼の話を聞くこともできた。噂のとおり、彼の半分は人間ではなかった。それでも、私の気持ちは変わらない。彼が人間だから、好きになったのではなかったから。
私が相手なのに、彼は優しかった。私が王女だからだろうか。私の身体が、私ではないようで、融けてしまいそうになった。
彼の大切なものを一つ貰ってしまった。それを決意してくれただけでも、嬉しかった。
きっと、ずっと忘れない。この夜のことを。満月がとても綺麗で、彼に触れられ、名前を呼ばれる心地良さ。
月だけが見ていた。
私は調子に乗って、もう一つお願いをしてしまった。もっと先のこと。いつになるかは判らない。私が彼を置いていってしまう、ずっと先のこと。返事をしてくれた彼。そのとき覚えていてくれる、実行してくれる保証はなかった。でも、嘘でも良い、返事をしてくれたことが嬉しかった。
また普通の日々が戻った。
父に隠し通せるつもりだったのに、彼とのことが知られてしまい、ショッキングな出来事も起こった。けれど、何とか私は立ち直り、約束どおり父の選んだ相手と結婚する。夫になった人は優しい人だったから、想像していたよりも辛くない結婚生活ではあった。
それでも、夫は彼ではない。
夫との間になかなか子どもはできなかった。それが私には、父に対する細やかな仕返しであるかのように思えた。
やがて身篭るも、一人目は王女だった。二人目も王女だった。そして、私が三人目を身篭ることはなかった。
二人目を産んでから体調を崩した私は、ゆるゆると療養を続けていたけれど、娘たちが成人するまでこの身が持たないだろうことに気が付いた。父も他界した。夫が国を治めてくれていたけれど、夫も可哀想だ。私は、自分だけが望んでもいない相手と結婚したと思っていたが、夫もそうだったのかもしれなかった。
夫のことを彼以上に好きになることはなかったけれど、夫に対してはいつも感謝の気持ちで一杯だった。
下の娘が五歳になったころ、私の体調は一気に悪化する。
いよいよだという思い。
娘たちのことは心配だった。特に下の娘は聡明なのに、怖がりなところが私に似ている。それに、彼のことを怖がっているところも。彼が現れると、動揺して、いつも誰かの後ろに隠れていたものだ。上の娘は勝気な性格のため、彼の存在などもろともしなかった。
ある晩、酷く咳き込む。喉の奥で血の味がした。息が上手くできない。傍らにいた侍女が医者を呼びに走った。
私は、もう無理だろうと思った。身体中が限界だと叫んでいる。食事さえ、喉を通らないというのに。最後の最後に思い出すのは、やはり彼のことで、夫でも娘でも、ましてや国のことではなかった。
彼は覚えているだろうか。最後の、私の我侭な願いを。彼に会いたい。
朦朧とする意識の中、彼に向かって祈りを捧げていた。ふと気付くと彼がいる。彼が私の手を握ってくれた。彼は覚えていてくれたのだろうか。私の最後を看取って欲しい、と言ったのを。それとも、これも夢なのだろうか。
彼が名前を呼んでくれる。ああ、これは夢なのだ。一瞬が永遠のように思えた。
彼の顔が涙で霞む。微笑んだ彼の顔。やっぱり夢なのだ。
彼がまた私の名前を呼んでくれた気がした。でもそのあと、なにを言ってくれているのか聞こえなくなる。優しい表情。きっと素敵なことを言ってくれているのだろう。聞こえないのが残念だ。
最後の最後に、幸せな夢を見られて良かった。
私は、生まれてきたことに感謝しながら、静かに目を閉じる。