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風を盗む者、風にほどかれる

掲載日:2026/06/30

 午前四時四十分。

 港町のビジネスホテルは、まだ夜の色を残していた。


 鏡の前に立つ人物は、何度も深呼吸を繰り返していた。


 淡い灰色のランニングジャケット。膝まで届く黒いタイツ。大会公式の白いキャップ。肩まで落ちる栗色のウィッグ。汗で崩れにくいように整えたメイク。胸元と腰回りには、競技用ウェアの下から体形を変えるための補整具を着けている。


 鏡の中には、水瀬紗季という二十六歳の女性ランナーがいた。


 少なくとも、そう見えるように作られていた。


「水瀬紗季です。本日はよろしくお願いします」


 鏡の中の女が、静かに言う。


 声は柔らかかった。高すぎず、甘すぎず、しかし明らかに女性として聞こえる音域。練習に練習を重ねた声だった。


 鏡の前にいる本当の男、凪原透は、その声を聞いても、もう驚かなかった。


 驚かなくなったことこそが、透には少し恐ろしかった。


 水瀬紗季という人物は、存在しない。


 それでも、ゼッケンには「MIZUSE SAKI」と印字されている。大会の参加者名簿にも、その名はある。SNSには、練習記録らしい写真が並び、仕事の合間に走る市民ランナーとしての短い投稿も残されている。


 すべて、自分で用意した。


 賞金は三百万円。


 地方都市で行われる「潮風女子オープンマラソン」は、国内の有力選手が海外遠征や実業団の駅伝日程を優先するため、年によっては市民ランナーにも上位入賞の可能性がある大会だった。


 優勝すれば三百万円。


 二位でも百万円。


 透にとって、その数字は単なる賞金ではなかった。


 人生を一度、立て直すための金だった。


 かつて透は、大学時代に長距離走をしていた。記録は悪くなかった。だが、競技で生きるには届かなかった。卒業後はスポーツ用品店で働き、休日には市民大会に出た。


 それでも、走ることを仕事にはできなかった。


 やがて店を辞め、投資話に乗り、知人に金を貸し、返ってこなかった。目先の支払いを埋めるために借り、その借金を返すためにまた別の借金を重ねた。


 気が付けば、まともに働いて返せる額ではなくなっていた。


 だから、透は水瀬紗季を作った。


 そして今日、水瀬紗季は優勝する。


 透は鏡に向かって、もう一度笑った。


「大丈夫。走ればいいだけだ」


 返事をする者はいなかった。


     *


 午前六時。

 会場となる港湾公園には、すでに数千人の参加者が集まっていた。


 潮の匂いと、コーヒーの香りと、使い捨てカイロのような甘い薬品臭が混じっている。空は薄く曇り、海の向こうには低い雲が垂れ込めていた。


 女子オープン部門の待機エリアでは、選手たちがストレッチをしていた。足首を回す者。音楽を聴く者。仲間と写真を撮る者。無言でコース図を見つめる者。


 透は、水瀬紗季として列の端に立った。


 余計な会話はしない。


 会話をすれば、どこかで綻びが出る。


 それでも、背後から声をかけられた。


「水瀬さん?」


 透はゆっくり振り返った。


 そこにいたのは、背の高い女性だった。


 髪は短い。黒いキャップの下から覗く横顔は鋭く、ジャケットも細身のパンツも、どこか男性的な印象を与える。だがゼッケンには、はっきりと女性名が印字されていた。


 永瀬樹。


 二十五歳。


 今年の大会の有力選手の一人として、前日から地元紙にも名前が出ていた。


 市民クラブ所属。フルマラソンの自己ベストは二時間四十五分台。派手な実績はないが、粘りのある走りをする選手として知られている。


「はい。水瀬です」


 透は、作った声で答えた。


 樹はじっと透を見た。


 視線が長い。


 顔を見る。肩を見る。腕を見る。脚を見る。


 ただの挨拶ではない。


「初参加ですよね」


「そうです」


「緊張してますか」


「少しだけ」


「私もです」


 樹はそう言って、笑った。


 しかし、その笑顔は柔らかいのに、目だけが笑っていなかった。


「この大会、風が強いんです。特に三十キロ地点を過ぎた海沿い。向かい風になると、脚より心が先に止まります」


「ありがとうございます。気を付けます」


「ええ。気を付けたほうがいいです」


 樹はそれだけ言うと、去っていった。


 透は、無意識に胸元へ手を置いた。


 補整具の位置を確かめるように。


 その仕草を、樹が振り返って見ていたことには気付かなかった。


     *


 午前七時。


 号砲が鳴った。


 一斉に足音が動き出す。


 港湾公園を出たランナーたちは、海沿いの大通りへ流れ込んでいった。最初の数キロは密集している。周囲の足音、呼吸、ゼッケンが擦れる音、応援の声、信号機の電子音。


 透は焦らなかった。


 最初の五キロは抑える。


 十キロまでは周囲に合わせる。


 二十キロまでは、目立たず、しかし上位に残る。


 そして三十キロから引き離す。


 それが透の計画だった。


 走り始めると、余計なことは消えた。


 借金も、偽名も、ウィッグも、メイクも、賞金も。


 残るのは、呼吸と足音だけだった。


 一歩。


 また一歩。


 地面を蹴る。


 腕を振る。


 前へ進む。


 大学時代、透は走ることだけは嫌いになれなかった。


 競技を辞めても、職を変えても、人生が崩れても、走っている間だけは、すべてが単純になった。


 速い者が前へ行く。


 遅れた者が置いていかれる。


 言い訳は通らない。


 努力も才能も、当日の体調も、風向きも、すべてが一つの記録になる。


 だからこそ、透は走ることを使って金を取ろうとしていた。


 そして、その矛盾を考えないようにしていた。


 十五キロ地点を過ぎた頃、透は先頭集団の後方にいた。


 樹もそこにいた。


 短い髪の女性は、無駄のないフォームで走っていた。肩が揺れない。呼吸が浅く、一定だ。脚を大きく前へ出すのではなく、地面を静かに後ろへ送っている。


 透は、その走りを見て分かった。


 強い。


 単に速いのではない。


 苦しくなってからも崩れない走りだ。


 樹が横に並んだ。


「水瀬さん」


 透は答えなかった。


 レース中の会話は、体力を使う。


「走り方、綺麗ですね」


「ありがとうございます」


「どこで走っていたんですか」


 透の心臓が、一拍だけ強く鳴った。


「学生の頃、少し」


「女子大の陸上部?」


「ええ、そんな感じです」


「そんな感じ、ですか」


 樹の声に、わずかな冷たさが混じった。


 透は前だけを見た。


「走っている時に、余計な話はしないほうがいいですよ」


「そうですね」


 樹はすぐに引いた。


 だが、彼女の言葉は透の頭から離れなかった。


 なぜ聞く。


 なぜ、そこまで気にする。


 偶然だ。


 ただの会話だ。


 そう思おうとしても、喉の奥に小さな棘が残った。


     *


 二十六キロ地点。


 空から細かな雨が落ち始めた。


 最初は、汗と区別がつかない程度だった。


 だが海沿いの区間に入ると、風が強くなった。


 海から吹き付ける冷たい風が、ランナーたちの身体を押し返す。


 先頭集団は、少しずつばらけ始めた。


 一人、また一人と遅れる。


 透は前へ出た。


 ここからだ。


 脚はまだ動く。


 呼吸も乱れていない。


 補整具は重い。コルセットは呼吸を浅くする。濡れたウィッグは首筋に張り付き、キャップの下でずれていく。


 それでも走れる。


 走るために準備してきた。


 身体を女に見せるための準備より、速く走るための準備のほうが、遥かに長かった。


 透は二位の選手を抜いた。


 続いて、先頭を走っていた実業団出身の市民ランナーを抜いた。


 残るは、永瀬樹だけだった。


 樹は、透の少し前にいた。


 追いつける。


 透は呼吸を整え、腕を強く引いた。


 その時、横から声が飛んできた。


「水瀬さん!」


 樹だった。


 彼女は前を向いたまま走っている。


「何ですか」


「あなた、勝つつもりですか」


「当然です」


「賞金のために?」


 透は、一瞬だけ視線を向けた。


 雨が樹の頬を流れていた。


「誰だって、賞金は欲しいでしょう」


「私は欲しいです」


「なら、黙って走ってください」


「でも、私は、自分の名前で欲しい」


 透は返事をしなかった。


 樹が続ける。


「あなたは、自分の名前で勝てないんですか」


 その言葉で、透の脚がわずかに乱れた。


 胸元の補整具がずれた。


 呼吸が詰まる。


「何の話ですか」


「分からないなら、いいです」


「分からないなら言うな」


 透の声が低くなった。


 一瞬だけ、水瀬紗季の声ではなくなった。


 樹は、それを聞き逃さなかった。


「やっぱり」


「何がですか」


「あなたは、走りながら嘘をつくのが下手ですね」


 透は加速した。


 会話を切るように。


 樹を置き去りにするように。


 だが、向かい風は強く、雨は次第に激しくなった。


 濡れたウィッグが首筋にまとわりつく。


 アイメイクが滲み始めている感覚があった。


 胸元の補整具は、汗と雨で位置を失い、呼吸のたびに違和感を増していく。


 それでも、透は前へ出た。


 二人の間に数メートルの差ができた。


 観客が叫ぶ。


「一位、水瀬さん! 頑張れ!」


「紗季ちゃん、いける!」


 知らない人間たちが、水瀬紗季を応援している。


 その声が、透には苦しかった。


 自分に向けられているのに、自分には向けられていない。


 透は、誰かの名前を盗んで走っていた。


     *


 三十五キロ地点。


 透の脚が重くなった。


 マラソンでは、三十キロ以降に本当の差が出る。


 身体に残った力ではない。


 苦痛の中で、どこまで自分を前へ進ませられるか。


 走り続ける理由がある者だけが、最後に残る。


 透は、何度も自分に言い聞かせた。


 三百万円。


 三百万円。


 三百万円。


 それだけでいい。


 それだけあれば、一度は返せる。


 電話も止まる。


 督促状も止まる。


 部屋を追い出されずに済む。


 水瀬紗季を消せる。


 誰も知らない町へ行ける。


 だから走れ。


 走れ。


 走れ。


 しかし、その言葉は次第に力を失った。


 樹が近づいてくる。


 足音が聞こえる。


 一定のリズム。


 乱れない呼吸。


 彼女は、透の右側に並んだ。


「まだ走れますか」


「黙れ」


「まだ走れますか」


「黙れと言っている」


「あなたは、走ることが好きなんでしょう」


 透は答えなかった。


「賞金より前から、走っていたはずです」


「だから何だ」


「だったら、こんなことをしてまで勝つ理由はない」


「ある」


 透は荒い息を吐いた。


「金がいる」


「だからって、人の競技を盗んでいい理由にはならない」


「綺麗事を言うな」


「綺麗事じゃない」


 樹の声は強かった。


「私は、昔から男みたいだと言われてきた。服も、髪型も、走り方も、話し方も。女子の部で走るのが変だと言われたこともある」


 透は、少しだけ樹を見た。


「でも私は、私の名前で走る。誰かにどう見られても、それだけは変えない」


 樹は前を見たまま続けた。


「あなたは、女に見えることが目的なんじゃない。あなた自身を消したいだけでしょう」


 その言葉は、透の胸に刺さった。


 否定できなかった。


 水瀬紗季を作ったのは、女になりたかったからではない。


 透という男のままでは、何もできないと思ったからだ。


 借金を抱えた透。


 失敗した透。


 何者にもなれなかった透。


 その名前で走っても、誰も見てくれないと思った。


 だから、別の誰かになった。


 別の顔。


 別の声。


 別の人生。


 だが、走る時だけは違った。


 走っているのは、水瀬紗季ではない。


 凪原透だった。


 その事実を、透はずっと見ないようにしていた。


     *


 三十八キロ地点。


 透は失速した。


 脚が止まったわけではない。


 だが、一歩ごとに地面が遠くなる。


 胸元が苦しい。


 腰回りの補整具も、濡れたウェアの下でずれている。


 走るために必要のないものを、身体にいくつも抱えている。


 それが急に、耐え難い重さになった。


 樹が前へ出た。


 透は追えなかった。


 観客の声が遠く聞こえる。


 永瀬樹が先頭。


 水瀬紗季が二位。


 残り四キロ。


 透は前だけを見た。


 ここでやめたら、すべて終わる。


 だが、勝っても終わる。


 勝てば、賞金は得られる。


 しかし、水瀬紗季は有名になる。


 表彰台に立つ。


 カメラに映る。


 インタビューを受ける。


 記録が残る。


 次の大会にも呼ばれる。


 嘘が大きくなる。


 今までのように、消えることはできなくなる。


 透は、初めてそのことをはっきり理解した。


 賞金を取れば、逃げられると思っていた。


 逆だった。


 勝てば勝つほど、水瀬紗季に閉じ込められる。


     *


 ゴール地点が見えた。


 港湾公園の特設ゲート。


 青いアーチ。


 雨に濡れた旗。


 大勢の観客。


 先に樹がゴールした。


 時計は二時間四十七分台を示していた。


 彼女は両手を上げることもなく、ただ呼吸を整えながら、ゴールラインの先へ進んだ。


 数十秒後、透が入ってきた。


 二位。


 歓声が上がる。


 スタッフが駆け寄る。


「水瀬さん! 二位です! おめでとうございます!」


 透は笑おうとした。


 だが、顔がうまく動かなかった。


 雨と汗で、メイクはすでに崩れていた。


 キャップの下で、ウィッグが少しずれている。


 周囲のスタッフはまだ気付いていない。


 だが、樹はゴール後の導線の先で待っていた。


 タオルを肩にかけ、透をまっすぐ見ている。


 その隣には、大会事務局の腕章を着けた女性がいた。


「水瀬紗季さんですね」


 腕章の女性が言った。


「失礼ですが、登録情報に関する確認をさせてください」


 透の喉が乾いた。


「今ですか。レース直後ですよ」


「はい。重要な確認です」


「後にしてください」


「できません」


 樹が言った。


 透は樹を睨んだ。


「あなたが何をした」


「私は、大会側に伝えただけです」


「何を」


「登録に不自然な点があること。本人確認書類の照合に疑義があること。過去の大会写真と、今日のあなたの動きに違和感があること」


 透は、周囲を見た。


 スタッフが増えている。


 一般参加者は気付いていない。


 まだ騒ぎにはなっていない。


 逃げられるかもしれない。


 透は急に走り出した。


 ゴールエリアの脇を抜け、仮設テントの裏へ向かう。


 疲れた脚が悲鳴を上げる。


 それでも、止まりたくなかった。


「待ってください!」


 後ろから声が飛ぶ。


 透は振り返らない。


 しかし、濡れた地面で足を滑らせた。


 転倒はしなかった。


 だが、キャップがずれた。


 その瞬間、ウィッグの留め具が外れた。


 栗色の髪が、雨に濡れたまま肩から落ちた。


 透は反射的に手で押さえた。


 だが遅かった。


 後ろから追いついた樹が、透の腕を掴んだ。


「もうやめろ」


「離せ」


「逃げるな」


「離せ!」


 透は腕を振った。


 樹の手を振りほどこうとした拍子に、ウィッグが完全に外れた。


 濡れた人工毛が地面に落ちる。


 透の短い髪が、雨に晒された。


 顔からは、汗と雨に混じった化粧が流れている。


 そこにいたのは、水瀬紗季ではなかった。


 疲れ切った二十六歳の男だった。


 透は、地面に落ちたウィッグを見た。


 拾えなかった。


 拾っても、もう意味がない。


     *


 大会本部の簡易会議室には、雨の音が響いていた。


 透は椅子に座っていた。


 正面には大会責任者、事務局員、競技審判、そして樹がいた。


 透の前には、外したウィッグ、補整具、キャップ、ゼッケンが置かれていた。


 すべてが、ただの物に見えた。


 少し前まで、自分を別人にしてくれる道具だった。


 今は、嘘の証拠だった。


「本人確認書類について、説明を求めます」


 大会責任者が言った。


 透は黙っていた。


「水瀬紗季という登録者本人ではないことは、確認できています」


 透は、ゆっくり息を吐いた。


「そうです」


「登録はどのように行いましたか」


「答えたくありません」


「賞金の不正取得を目的としていたのですか」


 透は、少し間を置いて答えた。


「はい」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 大会責任者は書類に目を落とした。


「記録は失格とします。順位は繰り上げます。賞金は支給しません。必要な対応については、後日、関係機関と協議します」


 透は頷いた。


 予想していた。


 それでも、言葉になると重かった。


 三百万円は消えた。


 水瀬紗季も消えた。


 残ったのは、借金と、失格という記録だけだった。


 大会責任者と事務局員が退出した後、部屋には透と樹だけが残った。


 しばらく沈黙が続いた。


 樹は、テーブルの上のウィッグを見た。


「私は、あなたを捕まえたかったわけじゃない」


 透は笑った。


「結果は同じだ」


「違う」


「何が」


「私は、あなたに走るのをやめてほしくなかった」


 透は顔を上げた。


 樹は、まっすぐ透を見ていた。


「あなたは強かった。三十キロまでは、私より強かった」


「褒めるな」


「褒めてない。事実を言っているだけ」


「じゃあ、何だよ」


「自分で自分の走りを汚すなと言っている」


 透は黙った。


「私は、男みたいだと言われても走る。女らしくしろと言われても走る。何を着るか、どんな髪型にするか、どう見られるかは、私が決める」


 樹は続けた。


「でも、競技に出る時だけは、自分の名前を使う。記録も失格も、全部、自分のものにする。それが走るということだと思っている」


「綺麗に生きてきた人間の言葉だ」


「違う」


 樹の声は低かった。


「私も何度も逃げた。走るのをやめたこともある。人に見られるのが嫌で、大会を欠場したこともある」


 透は意外そうに彼女を見た。


「でも、逃げても、自分が消えるわけじゃない。名前を変えても、借り物の顔をしても、苦しい時に走っているのは自分だ」


 透は視線を落とした。


 樹の言葉は、慰めではなかった。


 許しでもなかった。


 ただ、逃げ道を塞ぐ言葉だった。


 透は初めて、自分が何から逃げていたのかを理解した。


 借金からではない。


 失敗からでもない。


 凪原透という、自分自身から逃げていた。


     *


 三か月後。


 透は、河川敷の市民ランニングクラブにいた。


 空は晴れていた。


 風は弱い。


 春の終わりの朝で、土手には薄い緑が広がっている。


 透は、古いランニングシューズの紐を結んだ。


 周囲には、会社員、学生、主婦、定年後の男性、競技経験者、初心者がいた。


 誰も、透の過去を知らない。


 いや、正確には、知っている者もいる。


 大会の失格は小さく報じられた。


 ネット上には、断片的な情報も残っている。


 透は、完全に過去を消せなかった。


 だが、逃げることもやめた。


 大会事務局との対応は続いていた。


 借金も残っている。


 以前より状況が良くなったわけではない。


 むしろ悪くなった部分もある。


 それでも、透は今日、走りに来た。


「凪原さん、準備いいですか?」


 クラブの代表が声をかけた。


「はい」


 透は答えた。


 自分の名前で。


 凪原透として。


 少し離れた場所に、短髪の女性が立っていた。


 黒いキャップ。細身のジャケット。鋭い目。


 永瀬樹だった。


「ここにいたんですね」


 透が言うと、樹は肩をすくめた。


「あなたがまた走ると言ったから、確認に来ただけです」


「監視ですか」


「競争相手の偵察です」


「俺はもう女子の大会には出ない」


「知っています」


「じゃあ、何の競争だ」


 樹は、少しだけ笑った。


「次の十キロ記録会。一般部門です」


「俺に勝てると思っているのか」


「あなたこそ」


 透は立ち上がった。


 脚にはまだ疲労が残っている。


 過去は消えていない。


 失ったものも、取り戻せない。


 だが、スタートラインは、誰の前にも同じように置かれている。


 号令がかかった。


 透は前を見た。


 今度は、借り物の名前ではない。


 借り物の顔でもない。


 風を盗むためではなく、風の中を走るために。


 凪原透は、自分の足で走り始めた。


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