風を盗む者、風にほどかれる
午前四時四十分。
港町のビジネスホテルは、まだ夜の色を残していた。
鏡の前に立つ人物は、何度も深呼吸を繰り返していた。
淡い灰色のランニングジャケット。膝まで届く黒いタイツ。大会公式の白いキャップ。肩まで落ちる栗色のウィッグ。汗で崩れにくいように整えたメイク。胸元と腰回りには、競技用ウェアの下から体形を変えるための補整具を着けている。
鏡の中には、水瀬紗季という二十六歳の女性ランナーがいた。
少なくとも、そう見えるように作られていた。
「水瀬紗季です。本日はよろしくお願いします」
鏡の中の女が、静かに言う。
声は柔らかかった。高すぎず、甘すぎず、しかし明らかに女性として聞こえる音域。練習に練習を重ねた声だった。
鏡の前にいる本当の男、凪原透は、その声を聞いても、もう驚かなかった。
驚かなくなったことこそが、透には少し恐ろしかった。
水瀬紗季という人物は、存在しない。
それでも、ゼッケンには「MIZUSE SAKI」と印字されている。大会の参加者名簿にも、その名はある。SNSには、練習記録らしい写真が並び、仕事の合間に走る市民ランナーとしての短い投稿も残されている。
すべて、自分で用意した。
賞金は三百万円。
地方都市で行われる「潮風女子オープンマラソン」は、国内の有力選手が海外遠征や実業団の駅伝日程を優先するため、年によっては市民ランナーにも上位入賞の可能性がある大会だった。
優勝すれば三百万円。
二位でも百万円。
透にとって、その数字は単なる賞金ではなかった。
人生を一度、立て直すための金だった。
かつて透は、大学時代に長距離走をしていた。記録は悪くなかった。だが、競技で生きるには届かなかった。卒業後はスポーツ用品店で働き、休日には市民大会に出た。
それでも、走ることを仕事にはできなかった。
やがて店を辞め、投資話に乗り、知人に金を貸し、返ってこなかった。目先の支払いを埋めるために借り、その借金を返すためにまた別の借金を重ねた。
気が付けば、まともに働いて返せる額ではなくなっていた。
だから、透は水瀬紗季を作った。
そして今日、水瀬紗季は優勝する。
透は鏡に向かって、もう一度笑った。
「大丈夫。走ればいいだけだ」
返事をする者はいなかった。
*
午前六時。
会場となる港湾公園には、すでに数千人の参加者が集まっていた。
潮の匂いと、コーヒーの香りと、使い捨てカイロのような甘い薬品臭が混じっている。空は薄く曇り、海の向こうには低い雲が垂れ込めていた。
女子オープン部門の待機エリアでは、選手たちがストレッチをしていた。足首を回す者。音楽を聴く者。仲間と写真を撮る者。無言でコース図を見つめる者。
透は、水瀬紗季として列の端に立った。
余計な会話はしない。
会話をすれば、どこかで綻びが出る。
それでも、背後から声をかけられた。
「水瀬さん?」
透はゆっくり振り返った。
そこにいたのは、背の高い女性だった。
髪は短い。黒いキャップの下から覗く横顔は鋭く、ジャケットも細身のパンツも、どこか男性的な印象を与える。だがゼッケンには、はっきりと女性名が印字されていた。
永瀬樹。
二十五歳。
今年の大会の有力選手の一人として、前日から地元紙にも名前が出ていた。
市民クラブ所属。フルマラソンの自己ベストは二時間四十五分台。派手な実績はないが、粘りのある走りをする選手として知られている。
「はい。水瀬です」
透は、作った声で答えた。
樹はじっと透を見た。
視線が長い。
顔を見る。肩を見る。腕を見る。脚を見る。
ただの挨拶ではない。
「初参加ですよね」
「そうです」
「緊張してますか」
「少しだけ」
「私もです」
樹はそう言って、笑った。
しかし、その笑顔は柔らかいのに、目だけが笑っていなかった。
「この大会、風が強いんです。特に三十キロ地点を過ぎた海沿い。向かい風になると、脚より心が先に止まります」
「ありがとうございます。気を付けます」
「ええ。気を付けたほうがいいです」
樹はそれだけ言うと、去っていった。
透は、無意識に胸元へ手を置いた。
補整具の位置を確かめるように。
その仕草を、樹が振り返って見ていたことには気付かなかった。
*
午前七時。
号砲が鳴った。
一斉に足音が動き出す。
港湾公園を出たランナーたちは、海沿いの大通りへ流れ込んでいった。最初の数キロは密集している。周囲の足音、呼吸、ゼッケンが擦れる音、応援の声、信号機の電子音。
透は焦らなかった。
最初の五キロは抑える。
十キロまでは周囲に合わせる。
二十キロまでは、目立たず、しかし上位に残る。
そして三十キロから引き離す。
それが透の計画だった。
走り始めると、余計なことは消えた。
借金も、偽名も、ウィッグも、メイクも、賞金も。
残るのは、呼吸と足音だけだった。
一歩。
また一歩。
地面を蹴る。
腕を振る。
前へ進む。
大学時代、透は走ることだけは嫌いになれなかった。
競技を辞めても、職を変えても、人生が崩れても、走っている間だけは、すべてが単純になった。
速い者が前へ行く。
遅れた者が置いていかれる。
言い訳は通らない。
努力も才能も、当日の体調も、風向きも、すべてが一つの記録になる。
だからこそ、透は走ることを使って金を取ろうとしていた。
そして、その矛盾を考えないようにしていた。
十五キロ地点を過ぎた頃、透は先頭集団の後方にいた。
樹もそこにいた。
短い髪の女性は、無駄のないフォームで走っていた。肩が揺れない。呼吸が浅く、一定だ。脚を大きく前へ出すのではなく、地面を静かに後ろへ送っている。
透は、その走りを見て分かった。
強い。
単に速いのではない。
苦しくなってからも崩れない走りだ。
樹が横に並んだ。
「水瀬さん」
透は答えなかった。
レース中の会話は、体力を使う。
「走り方、綺麗ですね」
「ありがとうございます」
「どこで走っていたんですか」
透の心臓が、一拍だけ強く鳴った。
「学生の頃、少し」
「女子大の陸上部?」
「ええ、そんな感じです」
「そんな感じ、ですか」
樹の声に、わずかな冷たさが混じった。
透は前だけを見た。
「走っている時に、余計な話はしないほうがいいですよ」
「そうですね」
樹はすぐに引いた。
だが、彼女の言葉は透の頭から離れなかった。
なぜ聞く。
なぜ、そこまで気にする。
偶然だ。
ただの会話だ。
そう思おうとしても、喉の奥に小さな棘が残った。
*
二十六キロ地点。
空から細かな雨が落ち始めた。
最初は、汗と区別がつかない程度だった。
だが海沿いの区間に入ると、風が強くなった。
海から吹き付ける冷たい風が、ランナーたちの身体を押し返す。
先頭集団は、少しずつばらけ始めた。
一人、また一人と遅れる。
透は前へ出た。
ここからだ。
脚はまだ動く。
呼吸も乱れていない。
補整具は重い。コルセットは呼吸を浅くする。濡れたウィッグは首筋に張り付き、キャップの下でずれていく。
それでも走れる。
走るために準備してきた。
身体を女に見せるための準備より、速く走るための準備のほうが、遥かに長かった。
透は二位の選手を抜いた。
続いて、先頭を走っていた実業団出身の市民ランナーを抜いた。
残るは、永瀬樹だけだった。
樹は、透の少し前にいた。
追いつける。
透は呼吸を整え、腕を強く引いた。
その時、横から声が飛んできた。
「水瀬さん!」
樹だった。
彼女は前を向いたまま走っている。
「何ですか」
「あなた、勝つつもりですか」
「当然です」
「賞金のために?」
透は、一瞬だけ視線を向けた。
雨が樹の頬を流れていた。
「誰だって、賞金は欲しいでしょう」
「私は欲しいです」
「なら、黙って走ってください」
「でも、私は、自分の名前で欲しい」
透は返事をしなかった。
樹が続ける。
「あなたは、自分の名前で勝てないんですか」
その言葉で、透の脚がわずかに乱れた。
胸元の補整具がずれた。
呼吸が詰まる。
「何の話ですか」
「分からないなら、いいです」
「分からないなら言うな」
透の声が低くなった。
一瞬だけ、水瀬紗季の声ではなくなった。
樹は、それを聞き逃さなかった。
「やっぱり」
「何がですか」
「あなたは、走りながら嘘をつくのが下手ですね」
透は加速した。
会話を切るように。
樹を置き去りにするように。
だが、向かい風は強く、雨は次第に激しくなった。
濡れたウィッグが首筋にまとわりつく。
アイメイクが滲み始めている感覚があった。
胸元の補整具は、汗と雨で位置を失い、呼吸のたびに違和感を増していく。
それでも、透は前へ出た。
二人の間に数メートルの差ができた。
観客が叫ぶ。
「一位、水瀬さん! 頑張れ!」
「紗季ちゃん、いける!」
知らない人間たちが、水瀬紗季を応援している。
その声が、透には苦しかった。
自分に向けられているのに、自分には向けられていない。
透は、誰かの名前を盗んで走っていた。
*
三十五キロ地点。
透の脚が重くなった。
マラソンでは、三十キロ以降に本当の差が出る。
身体に残った力ではない。
苦痛の中で、どこまで自分を前へ進ませられるか。
走り続ける理由がある者だけが、最後に残る。
透は、何度も自分に言い聞かせた。
三百万円。
三百万円。
三百万円。
それだけでいい。
それだけあれば、一度は返せる。
電話も止まる。
督促状も止まる。
部屋を追い出されずに済む。
水瀬紗季を消せる。
誰も知らない町へ行ける。
だから走れ。
走れ。
走れ。
しかし、その言葉は次第に力を失った。
樹が近づいてくる。
足音が聞こえる。
一定のリズム。
乱れない呼吸。
彼女は、透の右側に並んだ。
「まだ走れますか」
「黙れ」
「まだ走れますか」
「黙れと言っている」
「あなたは、走ることが好きなんでしょう」
透は答えなかった。
「賞金より前から、走っていたはずです」
「だから何だ」
「だったら、こんなことをしてまで勝つ理由はない」
「ある」
透は荒い息を吐いた。
「金がいる」
「だからって、人の競技を盗んでいい理由にはならない」
「綺麗事を言うな」
「綺麗事じゃない」
樹の声は強かった。
「私は、昔から男みたいだと言われてきた。服も、髪型も、走り方も、話し方も。女子の部で走るのが変だと言われたこともある」
透は、少しだけ樹を見た。
「でも私は、私の名前で走る。誰かにどう見られても、それだけは変えない」
樹は前を見たまま続けた。
「あなたは、女に見えることが目的なんじゃない。あなた自身を消したいだけでしょう」
その言葉は、透の胸に刺さった。
否定できなかった。
水瀬紗季を作ったのは、女になりたかったからではない。
透という男のままでは、何もできないと思ったからだ。
借金を抱えた透。
失敗した透。
何者にもなれなかった透。
その名前で走っても、誰も見てくれないと思った。
だから、別の誰かになった。
別の顔。
別の声。
別の人生。
だが、走る時だけは違った。
走っているのは、水瀬紗季ではない。
凪原透だった。
その事実を、透はずっと見ないようにしていた。
*
三十八キロ地点。
透は失速した。
脚が止まったわけではない。
だが、一歩ごとに地面が遠くなる。
胸元が苦しい。
腰回りの補整具も、濡れたウェアの下でずれている。
走るために必要のないものを、身体にいくつも抱えている。
それが急に、耐え難い重さになった。
樹が前へ出た。
透は追えなかった。
観客の声が遠く聞こえる。
永瀬樹が先頭。
水瀬紗季が二位。
残り四キロ。
透は前だけを見た。
ここでやめたら、すべて終わる。
だが、勝っても終わる。
勝てば、賞金は得られる。
しかし、水瀬紗季は有名になる。
表彰台に立つ。
カメラに映る。
インタビューを受ける。
記録が残る。
次の大会にも呼ばれる。
嘘が大きくなる。
今までのように、消えることはできなくなる。
透は、初めてそのことをはっきり理解した。
賞金を取れば、逃げられると思っていた。
逆だった。
勝てば勝つほど、水瀬紗季に閉じ込められる。
*
ゴール地点が見えた。
港湾公園の特設ゲート。
青いアーチ。
雨に濡れた旗。
大勢の観客。
先に樹がゴールした。
時計は二時間四十七分台を示していた。
彼女は両手を上げることもなく、ただ呼吸を整えながら、ゴールラインの先へ進んだ。
数十秒後、透が入ってきた。
二位。
歓声が上がる。
スタッフが駆け寄る。
「水瀬さん! 二位です! おめでとうございます!」
透は笑おうとした。
だが、顔がうまく動かなかった。
雨と汗で、メイクはすでに崩れていた。
キャップの下で、ウィッグが少しずれている。
周囲のスタッフはまだ気付いていない。
だが、樹はゴール後の導線の先で待っていた。
タオルを肩にかけ、透をまっすぐ見ている。
その隣には、大会事務局の腕章を着けた女性がいた。
「水瀬紗季さんですね」
腕章の女性が言った。
「失礼ですが、登録情報に関する確認をさせてください」
透の喉が乾いた。
「今ですか。レース直後ですよ」
「はい。重要な確認です」
「後にしてください」
「できません」
樹が言った。
透は樹を睨んだ。
「あなたが何をした」
「私は、大会側に伝えただけです」
「何を」
「登録に不自然な点があること。本人確認書類の照合に疑義があること。過去の大会写真と、今日のあなたの動きに違和感があること」
透は、周囲を見た。
スタッフが増えている。
一般参加者は気付いていない。
まだ騒ぎにはなっていない。
逃げられるかもしれない。
透は急に走り出した。
ゴールエリアの脇を抜け、仮設テントの裏へ向かう。
疲れた脚が悲鳴を上げる。
それでも、止まりたくなかった。
「待ってください!」
後ろから声が飛ぶ。
透は振り返らない。
しかし、濡れた地面で足を滑らせた。
転倒はしなかった。
だが、キャップがずれた。
その瞬間、ウィッグの留め具が外れた。
栗色の髪が、雨に濡れたまま肩から落ちた。
透は反射的に手で押さえた。
だが遅かった。
後ろから追いついた樹が、透の腕を掴んだ。
「もうやめろ」
「離せ」
「逃げるな」
「離せ!」
透は腕を振った。
樹の手を振りほどこうとした拍子に、ウィッグが完全に外れた。
濡れた人工毛が地面に落ちる。
透の短い髪が、雨に晒された。
顔からは、汗と雨に混じった化粧が流れている。
そこにいたのは、水瀬紗季ではなかった。
疲れ切った二十六歳の男だった。
透は、地面に落ちたウィッグを見た。
拾えなかった。
拾っても、もう意味がない。
*
大会本部の簡易会議室には、雨の音が響いていた。
透は椅子に座っていた。
正面には大会責任者、事務局員、競技審判、そして樹がいた。
透の前には、外したウィッグ、補整具、キャップ、ゼッケンが置かれていた。
すべてが、ただの物に見えた。
少し前まで、自分を別人にしてくれる道具だった。
今は、嘘の証拠だった。
「本人確認書類について、説明を求めます」
大会責任者が言った。
透は黙っていた。
「水瀬紗季という登録者本人ではないことは、確認できています」
透は、ゆっくり息を吐いた。
「そうです」
「登録はどのように行いましたか」
「答えたくありません」
「賞金の不正取得を目的としていたのですか」
透は、少し間を置いて答えた。
「はい」
その一言で、部屋の空気が変わった。
大会責任者は書類に目を落とした。
「記録は失格とします。順位は繰り上げます。賞金は支給しません。必要な対応については、後日、関係機関と協議します」
透は頷いた。
予想していた。
それでも、言葉になると重かった。
三百万円は消えた。
水瀬紗季も消えた。
残ったのは、借金と、失格という記録だけだった。
大会責任者と事務局員が退出した後、部屋には透と樹だけが残った。
しばらく沈黙が続いた。
樹は、テーブルの上のウィッグを見た。
「私は、あなたを捕まえたかったわけじゃない」
透は笑った。
「結果は同じだ」
「違う」
「何が」
「私は、あなたに走るのをやめてほしくなかった」
透は顔を上げた。
樹は、まっすぐ透を見ていた。
「あなたは強かった。三十キロまでは、私より強かった」
「褒めるな」
「褒めてない。事実を言っているだけ」
「じゃあ、何だよ」
「自分で自分の走りを汚すなと言っている」
透は黙った。
「私は、男みたいだと言われても走る。女らしくしろと言われても走る。何を着るか、どんな髪型にするか、どう見られるかは、私が決める」
樹は続けた。
「でも、競技に出る時だけは、自分の名前を使う。記録も失格も、全部、自分のものにする。それが走るということだと思っている」
「綺麗に生きてきた人間の言葉だ」
「違う」
樹の声は低かった。
「私も何度も逃げた。走るのをやめたこともある。人に見られるのが嫌で、大会を欠場したこともある」
透は意外そうに彼女を見た。
「でも、逃げても、自分が消えるわけじゃない。名前を変えても、借り物の顔をしても、苦しい時に走っているのは自分だ」
透は視線を落とした。
樹の言葉は、慰めではなかった。
許しでもなかった。
ただ、逃げ道を塞ぐ言葉だった。
透は初めて、自分が何から逃げていたのかを理解した。
借金からではない。
失敗からでもない。
凪原透という、自分自身から逃げていた。
*
三か月後。
透は、河川敷の市民ランニングクラブにいた。
空は晴れていた。
風は弱い。
春の終わりの朝で、土手には薄い緑が広がっている。
透は、古いランニングシューズの紐を結んだ。
周囲には、会社員、学生、主婦、定年後の男性、競技経験者、初心者がいた。
誰も、透の過去を知らない。
いや、正確には、知っている者もいる。
大会の失格は小さく報じられた。
ネット上には、断片的な情報も残っている。
透は、完全に過去を消せなかった。
だが、逃げることもやめた。
大会事務局との対応は続いていた。
借金も残っている。
以前より状況が良くなったわけではない。
むしろ悪くなった部分もある。
それでも、透は今日、走りに来た。
「凪原さん、準備いいですか?」
クラブの代表が声をかけた。
「はい」
透は答えた。
自分の名前で。
凪原透として。
少し離れた場所に、短髪の女性が立っていた。
黒いキャップ。細身のジャケット。鋭い目。
永瀬樹だった。
「ここにいたんですね」
透が言うと、樹は肩をすくめた。
「あなたがまた走ると言ったから、確認に来ただけです」
「監視ですか」
「競争相手の偵察です」
「俺はもう女子の大会には出ない」
「知っています」
「じゃあ、何の競争だ」
樹は、少しだけ笑った。
「次の十キロ記録会。一般部門です」
「俺に勝てると思っているのか」
「あなたこそ」
透は立ち上がった。
脚にはまだ疲労が残っている。
過去は消えていない。
失ったものも、取り戻せない。
だが、スタートラインは、誰の前にも同じように置かれている。
号令がかかった。
透は前を見た。
今度は、借り物の名前ではない。
借り物の顔でもない。
風を盗むためではなく、風の中を走るために。
凪原透は、自分の足で走り始めた。




