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第六話 東ベルリンの夜

 1962年2月、ブカレスト空港。

 二十二歳のオイゲン・キケロは、ルーマニア・ジャズ・アンサンブルのメンバーとして、飛行機に乗り込もうとしていた。

 東ドイツツアー。ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ。二週間の公演。

 オイゲンにとって、初めての国外演奏だった。

 アンサンブルは八人。ピアノのオイゲン、サックスのイオン、トランペットのゲオルゲ、そして五人の他のメンバー。リーダーは、党員で信頼されているアレクサンドル・ヴォイク。

 そして、彼らには監視員がついていた。ヴィクトル・ラドゥ。

国家保安局の職員。公式には「ツアーマネージャー」だが、全員がその本当の役割を知っていた。

 オイゲンの隣には、兄のアドリアンがいなかった。兄は、今回のツアーには選ばれなかった。

 空港の出発ロビーで、オイゲンは兄と最後の言葉を交わしていた。

「気をつけろ」アドリアンは小声で言った。「ヴィクトルから目を離すな」

「わかってる」

「そして」アドリアンは躊躇した。「もし...もし何かあっても、家族のことを忘れるな」

 オイゲンは兄を見た。「何かって?」

 アドリアンは答えなかった。しかし、その目には、言葉にならないメッセージがあった。

「搭乗開始です」係員が呼びかけた。

 オイゲンは兄を抱きしめた。

「また会おう」彼は囁いた。

「ああ」アドリアンは答えた。「必ず」

 しかし、二人とも、胸の奥に不安を感じていた。

 1962年2月15日。東ベルリン、テンペルホーフ空港。

 飛行機が着陸すると、オイゲンは窓から外を見た。灰色の空。雪が積もった滑走路。そして、遠くに見える建物群。

 ベルリン。かつてヨーロッパの文化の中心地だった都市。しかし今は、壁で分断された都市。

 空港では、東ドイツの文化省の職員が出迎えた。

「ようこそ、同志たち」職員はドイツ語で言った。通訳が訳す。「ベルリン民主共和国へようこそ」

 彼らはバスに乗せられ、ホテルへ向かった。

 バスの窓から、オイゲンは街を見た。

 修復中の建物。広い通り。しかし、人々の顔は硬く、笑顔が少ない。ブカレストと似ている、と彼は思った。

 そして、見えた。

 壁。

 ベルリンの壁。1961年8月に建設された、

東西を分断するコンクリートの壁。高さ3メートル。鉄条網。監視塔。

 バスが壁の近くを通った時、オイゲンは息を飲んだ。

 壁の向こう側。西ベルリン。

 そこには、別の世界があった。明るい照明。ネオンサイン。動く人々。

 こんなに近いのに、こんなに遠い。

「見るな」隣に座っていたヴィクトルが囁いた。「西側は堕落した世界だ。見る価値はない」

 オイゲンは視線を戻した。しかし、心の中で、何かが動いた。

 その夜、彼らは東ベルリンの文化会館で最初の公演を行った。

 観客は三百人ほど。ほとんどが党員と文化関係者。

 オイゲンはピアノの前に座った。アンサンブルのメンバーたちが、楽器を構える。

 最初の曲は、「ルーマニア民謡によるジャズ変奏曲」。安全な選曲。政治的に問題のない曲。

 演奏が始まった。

 オイゲンの指が鍵盤の上を動く。技術は完璧だった。和音は複雑で、リズムは正確。

 しかし、何かが足りなかった。

 魂。

 彼は、楽譜通りに弾いている。即興はあるが、限られた範囲内で。冒険はしない。危険を冒さない。

 これは、本物のジャズではなかった。

 許可されたジャズ。飼い慣らされたジャズ。

 曲が終わると、礼儀正しい拍手が起きた。

 公演が終わった後、楽屋で、ヴィクトルが満足そうに言った。

「良かった。政治的に問題のない演奏だった」

 オイゲンは何も言わなかった。

 三日後、オイゲンは一人でホテルの部屋にいた。

 窓から外を見ると、雪が降っていた。

 ノックの音。

 ドアを開けると、アンサンブルのリーダー、アレクサンドルが立っていた。

「オイゲン、明日、自由時間がある」彼は言った。「我々は東ベルリンを見学する。しかし、お前には特別な許可が出た」

「特別な許可?」

「西ベルリンへの一時訪問だ。一時間だけ。文化交流の一環として」

 オイゲンの心臓が激しく打ち始めた。

「本当ですか?」

「ああ。しかし、条件がある。ヴィクトルが同行する。そして、必ず一時間以内に戻ること。もし戻らなければ...」

 アレクサンドルは言葉を濁した。しかし、意味は明らかだった。

 もし戻らなければ、家族が報復を受ける。

「わかりました」オイゲンは答えた。

 1962年2月25日。午後2時。

 オイゲンとヴィクトルは、チェックポイント・チャーリーに立っていた。

 東西ベルリンを結ぶ検問所。アメリカ軍とソ連軍が向かい合う場所。

 書類審査。パスポート確認。

 そして、ゲートが開いた。

 オイゲンは、西側へ一歩を踏み出した。

 世界が変わった。

 まず、光。西ベルリンは明るかった。ネオンサイン、ショーウィンドウ、車のヘッドライト。すべてが輝いていた。

 そして、音。音楽が、どこからともなく聞こえてくる。ジャズ、ロック、ポップス。自由な音楽。

 人々の顔も違った。笑っている。話している。急いでいる。しかし、恐怖はない。

 オイゲンは、立ち止まって周りを見た。

「動け」ヴィクトルが促した。「一時間しかない」

 二人は、クーダム大通りを歩いた。

 カフェ。レストラン。本屋。レコード店。

 オイゲンは、レコード店の前で立ち止まった。

 ショーウィンドウには、何百枚ものアルバムが並んでいた。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンス。

 そして、見た。

 ビル・エヴァンス・トリオ、

「Portrait in Jazz」。1960年のアルバム。

 オイゲンは、このアルバムのことを、ラジオで聞いたことがあった。完璧なピアノトリオ。夢のような音楽。

 彼は、店の中に入った。

 棚には、無限の選択肢があった。クラシック、ジャズ、ロック。すべてが自由に買える。

 オイゲンは、ビル・エヴァンスのアルバムを手に取った。

 価格を見た。そして、財布を開いた。

 東ドイツマルクしかない。西ドイツマルクはない。

 彼は、アルバムを棚に戻した。

「時間だ」ヴィクトルが言った。「戻るぞ」

「もう少し」オイゲンは頼んだ。

「だめだ。一時間と決まっている」

 オイゲンは、もう一度店内を見回した。そして、外に出た。

 通りを歩きながら、彼は西ベルリンのすべてを記憶しようとした。光、音、匂い、人々の顔。

 これが、自由だ。

 これが、彼が夢見ていた世界だ。

 チェックポイント・チャーリーに戻った。

 ゲートを通る前に、オイゲンは振り返った。

 西ベルリン。光の世界。

 そして、東ベルリン。灰色の世界。

 彼は、決めた。

 この瞬間、オイゲン・キケロは、人生で最も重要な決断をした。

 いつか、必ず、戻ってくる。

 そして、今度は、戻らない。

 その夜、ホテルの部屋で、オイゲンは一人で座っていた。

 窓の外では、雪が降り続けている。

 彼は、ノートに何かを書いた。

 計画ではない。まだ、具体的な計画はない。

 ただ、言葉。

「自由」

「音楽」

「西側」

 そして、最後に、一つの文。

「家族を置いていく罪を、許してください」

 彼は、ノートを閉じた。

 そして、ベッドに横たわった。

 夢の中で、彼はピアノを弾いていた。

 西ベルリンの明るいステージで。

 誰にも止められず、何も禁じられず、自由に。

 ビル・エヴァンスのような音楽を。

 自分の音楽を。

 それは、まだ夢だった。

 しかし、夢は、計画になろうとしていた。






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