第五話 決断の18歳
1958年、初夏。クルジュ音楽院の卒業式の日。
十八歳のオイゲン・キケロは、黒いガウンを着て、卒業証書を受け取った。院長が握手を求め、オイゲンはそれに応じた。拍手。フラッシュ。笑顔。
しかし、オイゲンの心は重かった。
式が終わった後、彼は家族と一緒に音楽院の庭に立っていた。父、母、そして二十三歳になった兄のアドリアン。
「おめでとう、オイゲン」母が涙ぐんでいた。「あなたは立派なピアニストになった」
「まだ始まったばかりだ」父が言った。「これから、本当のキャリアが始まる」
オイゲンは黙って頷いた。
その時、ドミトレスク教授が近づいてきた。
「キケロ、少し話せるか」
オイゲンは家族に断りを入れ、教授について行った。音楽院の建物の脇、人目につかない場所。
「お前に、二つの道がある」教授は単刀直接に言った。
「二つ?」
「一つは、国立フィルハーモニー管弦楽団の専属ピアニストになることだ。安定した職。党の保護下。将来は保証される」
オイゲンは待った。
「もう一つは」教授は声を落とした。「ブカレストの音楽院に進学することだ。さらに高度な教育を受ける。そして、ジャズを学ぶ」
オイゲンの目が見開いた。「ジャズ?」
「驚くかもしれないが、ブカレストには、小さなジャズのシーンがある。公式には認められていないが、完全に禁止されているわけでもない。灰色の領域だ」
「でも、ジャズは退廃的だと...」
「表向きはな」教授は肩をすくめた。「しかし、現実はもっと複雑だ。党の高官の中にも、ジャズを愛好する者がいる。彼らは西側の文化を楽しみながら、民衆にはそれを禁じている」
オイゲンは複雑な思いで教授を見た。
「しかし」教授は続けた。「ジャズの道は危険だ。いつ弾圧されるかわからない。安定はない。そして、お前の家族も巻き込まれる可能性がある」
「なぜ、先生は僕にこれを教えてくれるんですか」
教授は長い沈黙の後、答えた。
「私も、若い頃は夢を持っていた。作曲家になりたかった。自分の音楽を書きたかった。しかし、戦争が来て、体制が変わって、私は教師になった。安全な道を選んだ」
彼は遠くを見た。
「私は後悔していない。生き延びた。家族を養った。しかし、時々考える。もし別の選択をしていたら、と」
オイゲンは何も言えなかった。
「お前は才能がある」教授は言った。「本物の才能だ。それを安全な道に埋もれさせるのは、もったいない。しかし、危険な道を選べとも言えない。これは、お前自身が決めることだ」
教授は立ち去ろうとしたが、振り返った。
「一つだけ覚えておけ。どちらの道を選んでも、音楽は裏切らない。音楽だけは、常にお前の味方だ」
その夜、キケロ家の食卓では、オイゲンの将来について話し合われた。
「フィルハーモニーは素晴らしい機会だ」父が言った。「毎月安定した給料。住居の保証。医療も」
「でも」アドリアンが口を挟んだ。「オイゲンは、もっと自分の音楽を弾きたいんじゃないのか?」
父は長男を鋭く見た。「自分の音楽?音楽は個人のものではない。人民のものだ」
「テオドール」母が夫を制した。「オイゲン、あなたはどうしたいの?」
オイゲンは皿の上の食べ物を見つめていた。答えは、すでに心の中にあった。しかし、それを口にすることが怖かった。
「僕は」彼は顔を上げた。「ブカレストに行きたい」
沈黙が落ちた。
「ブカレスト?」父が繰り返した。「そこで何をする?」
「音楽院に進学します。そして...」オイゲンは深呼吸した。「ジャズを学びます」
父の顔が硬くなった。
「ジャズだと?」
「はい」
「お前は正気か?」父は声を荒げた。「ジャズは退廃的な音楽だ。党が認めていない。そんなものを学んで、どうする?」
「でも、父さん」オイゲンは冷静に言った。「音楽は音楽です。ジャズにも、クラシックと同じくらい複雑な和声があり、構造があり、美しさがあります」
「美しさ?」父は立ち上がった。「お前は何もわかっていない。この国で、党の方針に逆らうことがどういう意味か」
「逆らうつもりはありません。ただ、音楽を学びたいだけです」
「音楽を学ぶなら、ここでできる!なぜわざわざブカレストへ行く必要がある?」
「なぜなら」オイゲンも立ち上がった。「ここには、僕が学びたいものがないからです」
父と息子が向かい合った。緊張が部屋を満たす。
「テオドール、オイゲン」母が間に入った。「座りなさい。落ち着いて話しましょう」
二人は渋々座った。
「オイゲン」母は優しく言った。「あなたの気持ちはわかる。でも、お父さんの心配もわかってあげて。私たちは、あなたの安全を願っているの」
「わかっています」オイゲンは言った。「でも、母さん、あなたが僕に最初にピアノを教えてくれた時、何て言いましたか?ピアノはお話をする、って。音楽は会話だ、って」
リヴィアは息子を見つめた。
「僕は、もっと多くの会話をしたいんです」オイゲンは続けた。「クラシックだけじゃなく、ジャズも。すべての音楽と、対話したい」
アドリアンが口を開いた。
「父さん、母さん。俺も、オイゲンと一緒に行きたい」
全員が、アドリアンを見た。
「お前まで」父が言った。
「俺はドラマーになりたい。ジャズドラマーに」アドリアンは言った。「オイゲンと一緒に、バンドを作りたい」
父は頭を抱えた。
長い沈黙の後、母が言った。
「テオドール、子供たちには夢がある。私たちが若い頃、夢を持っていたように」
父は妻を見た。
「私は歌手になりたかった。あなたは作曲家になりたかった」母は続けた。「戦争と体制が、それを奪った。でも、子供たちの夢まで奪う権利は、私たちにはないわ」
父は、二人の息子を見た。
オイゲン。天才ピアニスト。
アドリアン。情熱的なドラマー。
そして、ため息をついた。
「わかった」彼は言った。「行け。二人とも、ブカレストに行け。しかし、条件がある」
「条件?」
「党青年同盟に入会しろ。そして、定期的に帰省しろ。家族との連絡を絶つな」
オイゲンとアドリアンは頷いた。
「約束します」二人は同時に言った。
「そして」父は厳しい目で息子たちを見た。「もし問題が起きたら、すぐに戻ってこい。家族は常にお前たちの味方だ」
オイゲンとアドリアンは、父に近づいた。そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
1958年7月。
オイゲンとアドリアンは、ブカレストに到着した。
首都。ルーマニア最大の都市。クルジュとは比べ物にならない規模。
二人は、小さなアパートを借りた。二部屋。狭いが、自分たちの場所だった。
数週間後、二人はジャズのクインテットを結成した。
メンバーは五人。オイゲンとアドリアンのキケロ兄弟、サックス奏者のイオン、ベース奏者のミハイ、トランペット奏者のゲオルゲ。全員が音楽院の学生で、全員がジャズへの情熱を持っていた。
最初のリハーサルは、ミハイの家の地下室で行われた。
「何から始める?」イオンが尋ねた。
「スタンダードから」オイゲンは答えた。「みんなが知ってる曲。『All the Things You Are』」
彼らは演奏を始めた。最初はぎこちなかった。クラシックの訓練を受けた音楽家たちが、ジャズの自由さに戸惑っていた。
「違う、違う」オイゲンは手を止めた。「もっとリラックスして。楽譜通りに弾かなくていい。感じたままに」
「でも、どう感じればいいんだ?」ゲオルゲが尋ねた。
オイゲンは考えた。そして、ピアノを弾き始めた。ゆっくりと、メロディを変形させながら。音を足し、引き、ずらす。リズムを変え、和音を再構築する。
他のメンバーは聞き入った。
「これがジャズだ」オイゲンは言った。「ルールはある。でも、ルールの中で、無限の自由がある」
アドリアンがドラムスを叩き始めた。シンプルなビート。しかし、スウィングしている。
他のメンバーも、徐々に加わっていった。
音楽が呼吸し始めた。
数週間後、彼らは小さなクラブで初演奏を行った。ブカレストの郊外にある、半ば非合法な場所。観客は三十人ほど。
オイゲンは緊張していた。これまで、クラシックの演奏会には何度も出演してきた。しかし、これは違う。これは、彼自身の音楽だった。
「準備はいいか?」アドリアンが尋ねた。
オイゲンは頷いた。
ステージに上がった。照明は薄暗く、空気は煙草の煙で霞んでいた。
オイゲンはピアノの前に座った。深呼吸。そして、最初の音を弾いた。
音楽が始まった。
最初は慎重だったが、徐々に自信が増していった。音楽が流れ始めると、すべてが自然になった。指が、心が、知っていた。
アドリアンのドラムスが入ってくる。完璧なタイミング。兄弟の息が合っている。
イオンのサックスが歌う。ミハイのベースが大地を作る。ゲオルゲのトランペットが空を飛ぶ。
五人が一つになった。
曲が進むにつれ、オイゲンは即興を始めた。基本のメロディから離れ、しかし常に音楽の核心に触れながら。右手が自由に踊り、左手が複雑な和音を紡ぐ。
クラシックで学んだ技術が、ジャズの自由さと融合した。バッハの対位法が、スウィングのリズムと出会った。
観客は息を飲んでいた。
曲が終わった。
一瞬の沈黙。そして、拍手。
オイゲンは顔を上げた。観客が立ち上がっている。笑顔。歓声。
ステージの脇で、アドリアンが涙を流していた。
演奏が終わった後、楽屋で、メンバーたちは興奮していた。
「すごかった!」イオンが叫んだ。「本物のジャズだった!」
「みんなのおかげだ」オイゲンは言った。
その時、ドアがノックされた。
見知らぬ男が入ってきた。スーツを着た、中年の男性。
「素晴らしい演奏だった」男は言った。「私はブカレスト音楽院の代表だ。君たちに、提案がある」
オイゲンたちは顔を見合わせた。
「もっと大きなクラブで演奏しないか?もっと多くの聴衆の前で」
オイゲンの心臓が高鳴った。
しかし、同時に、父の言葉が頭をよぎった。危険。家族。
「考えさせてください」オイゲンは言った。
男は名刺を渡した。「連絡を待っている」
男が去った後、アドリアンがオイゲンの肩を叩いた。
「どうする?」
オイゲンは、窓の外を見た。
ブカレストの夜。光に満ちている。
しかし、その光の向こうに、もっと大きな世界があることを、彼は知っていた。
西側。
自由。
「兄さん」オイゲンは囁いた。「僕、考えてることがあるんだ」
「何を?」
オイゲンは、兄の目を見た。
「いつか、ここを出たい」
アドリアンは、弟を見つめた。
「西側に?」
「うん」
「―――――――――」。
「危険だぞ」アドリアンは言った。
「わかってる」
「家族は、どうする」
「それが...」オイゲンの声が震えた。「わからない」
アドリアンは、弟を抱きしめた。
「まだ時間はある。今すぐ決める必要はない」
しかし、二人とも知っていた。
種は、すでに蒔かれていた。
自由への渇望。
それは、消えることのない炎だった。




