第四話 兄弟の絆
1954年、夏。クルジュの街は、珍しく明るい陽光に包まれていた。
十二歳のオイゲンと十七歳のアドリアンは、家から少し離れた丘の上に座っていた。ここからは、街全体が見渡せる。赤い屋根、教会の尖塔、そして遠くに見えるソメシュ川。
二人の間には、小さなラジオが置かれていた。父が仕事部屋から持ち出したもので、本来なら子供が触ってはいけない代物だった。
「本当に大丈夫なの?」オイゲンが心配そうに尋ねた。
「誰も見てない」アドリアンはダイヤルを回した。「それに、ここまで来れば、誰にも聞こえない」
ラジオから雑音が流れた。アドリアンは慎重にダイヤルを調整する。ルーマニア国営放送の声が聞こえ、すぐに通り過ぎる。さらに回す。ハンガリー語の放送。ロシア語の放送。
そして、別の音楽が聞こえてきた。
ジャズだった。
「これだ」アドリアンは囁いた。
ラジオ・フリー・ヨーロッパ。西側から放送される、自由世界の声。
サックスの音色が、夏の空気に溶け込む。リズムが跳ねる。ピアノのソロが始まる。即興演奏。自由な音楽。
オイゲンは目を閉じた。音楽が体に染み込んでくる。
「すごい」彼が息を飲んだ。「これ、どうやって弾いてるの?楽譜があるの?」
「即興なんだ」アドリアンは答えた。「その場で作ってる。決まったメロディはあるけど、そこからどう発展させるかは、演奏者次第」
「自由に?」
「自由に」
オイゲンは首を傾げた。「でも、間違えたらどうするの?」
アドリアンは笑った。「ジャズには、間違いがないんだ。どんな音も、次の音次第で正しくなる」
二人は黙って音楽を聴いた。曲が終わると、アナウンサーの声が英語で流れた。オイゲンは少しだけ英語を理解できた。学校で習った単語と、自分で覚えた言葉を組み合わせて。
「何て言ってるの?」オイゲンが尋ねた。
「えーと...」アドリアンは耳を傾けた。「デューク・エリントン楽団、だって。ニューヨークのクラブで演奏してるらしい」
「ニューヨーク」オイゲンは夢見るように繰り返した。「行ってみたいな」
「いつか行けるよ」アドリアンは言った。
「本当に?」
アドリアンは弟を見た。真剣な目。
「お前なら、行けるよ。お前には才能がある。世界レベルの才能だ」
「兄さんも一緒に行こうよ」
アドリアンは微笑んだが、その笑みには少し影があった。
「俺は、お前ほどの才能はない。でも、お前を支えることはできる」
「何を言ってるの?兄さんだって、すごいドラマーじゃないか」
「ありがとう」アドリアンは弟の頭を撫でた。「でも、お前と俺は違う。お前は天才だ。俺は...努力家だ」
次の曲が始まった。ピアノトリオ。ピアノ、ベース、ドラムス。シンプルな編成だが、信じられないほど豊かな音楽が生まれていた。
オイゲンは、ピアノの音に集中した。左手はベースラインを刻み、右手は自由にメロディを紡ぐ。和音は複雑だが、決して混濁していない。クラシックの対位法とは違う、しかし同じくらい洗練された構造。
「兄さん」オイゲンが言った。「これ、弾けるようになる?」
「練習すれば」
「教えて」
アドリアンは驚いて弟を見た。「本当に?」
「うん。兄さんみたいに、いろんな音楽を知りたい」
アドリアンは複雑な表情になった。弟に教えたい。しかし、それは弟を危険に晒すことでもあった。
「オイゲン」アドリアンは真剣な声で言った。「もし誰かに聞かれたら、僕たちは...」
「わかってる」オイゲンは遮った。「秘密だよね。ずっと秘密」
「本当にわかってる?ペトレさんの家族のこと、覚えてるだろう?連れて行かれた。もし僕たちがこういう音楽を弾いてることがバレたら...」
「でも」オイゲンは頑固に言った。「音楽は悪いことじゃない。きれいな音楽を聴くことが、どうして悪いの?」
アドリアンは答えられなかった。弟は正しかった。しかし、正しさが通用しない世界に、彼らは生きていた。
ラジオから、また別の曲が流れてきた。今度はゆっくりとしたバラード。女性ヴォーカルが、切ない恋の歌を歌っている。
二人は並んで座り、音楽に耳を傾けた。丘の上の草は柔らかく、風が優しく吹いていた。この瞬間だけは、彼らは自由だった。
曲が終わった。アドリアンはラジオを消した。
「もう帰らないと」彼は言った。「父さんが気づく前に」
二人は丘を下りた。街に近づくにつれて、現実が戻ってくる。赤い旗。灰色の建物。監視の目。
家に着くと、母が台所で夕食の準備をしていた。
「どこに行ってたの?」リヴィアは尋ねた。
「丘の上」アドリアンは答えた。「景色を見てた」
母は疑わしそうに二人を見たが、それ以上は何も言わなかった。
その夜、夕食後、父が珍しく早く帰宅した。顔色が悪かった。
「どうしたの?」母が心配そうに尋ねた。
父は息子たちを見た。そして、「二階に行きなさい」と言った。
「でも」オイゲンが抗議しようとした。
「今すぐ」父の声は厳しかった。
二人は階段を上がった。しかし、アドリアンは途中で止まり、下の様子を窺った。オイゲンも一緒に。
「合唱団で査察があった」父が言った。
「査察?」
「党の文化委員会だ。指揮者全員が面接された。何を教えているか、団員たちに何を話しているか」
「あなたは...」
「大丈夫だ」父は言った。「私は党の方針に従って指導していると答えた。問題はない」
「―――」。
「しかし」父は続けた。「同僚の一人が、連行された」
母が小さく悲鳴を上げた。
「イオンだ。彼は合唱団で西洋の宗教曲を扱っていた。『宗教は人民の阿片』という方針に反したらしい」
「神様」
「リヴィア」父は妻の手を取った。「私たちは、もっと気をつけなければならない。子供たちにも、厳しく言い聞かせないと」
アドリアンは、オイゲンを見た。弟の顔が青ざめている。
二人は静かに自分の部屋に戻った。
オイゲンの部屋で、アドリアンがドアを閉めた。
「聞いた?」オイゲンが囁いた。
「ああ」
「怖い」
アドリアンは弟を抱きしめた。
「大丈夫。俺たちは気をつければ大丈夫」
「でも、イオン先生も気をつけてたはずだよ」
アドリアンは何も言えなかった。
二人はしばらく黙って座っていた。窓の外では、夜が深くなっていく。
「兄さん」オイゲンが言った。「いつか、本当に、ここを出られるかな」
「出る」アドリアンは断言した。「いつか必ず。そして、好きな音楽を、自由に弾くんだ」
「約束する?」
「約束する」
しかし、アドリアンは知っていた。この約束を守ることが、どれほど難しいか。
そして、心の奥底では、もう一つの真実も知っていた。
オイゲンは、いつか本当に出て行くだろう。天才には、翼がある。
しかし、自分は?
アドリアンは、弟を見た。十二歳のオイゲン。すでに音楽院で最も才能のある生徒。
自分は、兄として、何ができるだろう。
弟を守ること。弟を支えること。そして、いつか、弟を自由な世界へ送り出すこと。
それが、自分の役割かもしれない。
アドリアンは、弟の頭を撫でた。
「オイゲン、お前は特別なんだ。忘れるな」
「兄さんも特別だよ」
「いや」アドリアンは微笑んだ。「俺は普通だ。でも、お前は違う。お前は、この街を超える。この国を超える。世界に出るんだ」
「一緒に行こうよ」
「もし行けたらな」アドリアンは言った。「でも、もし俺が行けなくても、お前は行け。約束してくれ」
オイゲンは首を振った。
「嫌だ。一緒じゃなきゃ」
アドリアンは、それ以上何も言わなかった。
ただ、弟を抱きしめていた。
窓の外では、星が輝いていた。
同じ星が、世界中のどこからでも見える。
いつか、二人で、自由な空の下で、その星を見られるだろうか。
アドリアンは、そう願った。
しかし、心のどこかで、別の未来も見えていた。
オイゲンが、一人で、遠くへ行く未来。
そして、自分が、この街に残る未来。
でも、それでいい。
弟が自由になれるなら、それでいい。
それが、兄の愛だった。




