第三話 赤い教室
1952年、春。クルジュ音楽院の講堂には、赤い布が張られていた。
壁には、スターリンの肖像画とルーマニア労働党の旗。生徒たちは整列し、制服を着て、まっすぐ前を見ている。十歳のオイゲン・キケロも、その中にいた。
演壇に立つのは、党の文化委員会から派遣された男だった。グレーのスーツを着た、四角い顔の男。名前はヴァシレ・ポペスク。
「同志諸君」ポペスクは声を張り上げた。「音楽は、人民の芸術である。しかし、すべての音楽が人民のためになるわけではない」
オイゲンは退屈そうに立っていた。こういう集会は、月に一度開かれる。いつも同じような話だった。
「西側の退廃的な音楽は、我々の敵だ」ポペスクは続けた。「特に、アメリカのいわゆる『ジャズ』というものは、資本主義の腐敗を象徴している。騒がしく、秩序がなく、堕落している」
オイゲンの背筋が凍った。ジャズ。兄が密かに聴かせてくれた、あの音楽。
「諸君が学ぶべきは、我々の偉大な作曲家たちの作品だ。チャイコフスキー、ムソルグスキー、ショスタコーヴィチ。そして、西側の古典作曲家の中でも、進歩的な作品を選ぶべきだ。ベートーヴェンは許される。彼は革命の精神を持っていた。しかし、退廃的なロマン派や、無調音楽などは、人民を惑わすものだ」
オイゲンは隣に立つ友人、ミハイを見た。ミハイは小さく肩をすくめた。
集会が終わった後、生徒たちは教室に戻った。オイゲンのクラスには、十五人の生徒がいた。全員がピアノ専攻だ。
ドミトレスク教授が入ってきた。
「今日は、ショパンのエチュードを学ぶ」
教授は言った。「作品10の第3番、『別れの曲』だ」
オイゲンは楽譜を開いた。美しいメロディ。右手が歌い、左手が波のように流れる。
「しかし」教授は付け加えた。「ショパンは注意して扱わなければならない。彼はポーランドの愛国者だったが、同時にブルジョワジーの寵児でもあった。諸君は、彼の音楽から技術を学ぶべきだが、その背後にある退廃的な感傷主義には注意しろ」
オイゲンは黙って頷いた。しかし、心の中で疑問が渦巻いていた。音楽に、政治的な正しさが必要なのか。美しいメロディは、ただ美しいだけではいけないのか。
授業が終わった後、オイゲンとミハイは中庭のベンチに座った。
「さっきの集会、どう思った?」ミハイが尋ねた。
「いつものことだろう」オイゲンは肩をすくめた。
「でも、ジャズを敵だって言ったぞ」
オイゲンは周りを見回した。誰も聞いていない。
「僕は、ジャズを聴いたことがない」彼は慎重に答えた。
ミハイは疑わしそうに彼を見たが、それ以上は追求しなかった。
「俺の叔父が言ってた」ミハイは声を落とした。「西側では、音楽家は好きなものを演奏できるって。誰も、何が正しいとか間違ってるとか言わないって」
「本当か?」
「叔父はブカレストで働いてる。外交官と会うこともあるんだ。彼らから聞いた話らしい」
オイゲンは空を見上げた。青い空。しかし、その向こうに、見えない壁があることを感じていた。
その夜、家に帰ると、両親が深刻な顔で話していた。オイゲンはドアの陰から聞き耳を立てた。
「ペトレの家族が連れて行かれた」父が言った。
「どこへ?」母の声は震えていた。
「わからない。おそらく、再教育施設だろう。彼は党の方針を批判したらしい」
「神様」母は囁いた。「子供たちは?」
「一緒だ。家族全員」
「―――」。
「テオドール」母は言った。「私たちも、気をつけなければ。子供たちのためにも」
「わかっている。だから、学校では何も言うな、と言っている。オイゲンにも、アドリアンにも」
オイゲンは部屋に戻った。心臓が激しく打っていた。ペトレ氏は、近所に住む教師だった。優しい男で、時々オイゲンに本を貸してくれた。その家族が、連れて行かれた。
オイゲンの部屋には、兄のアドリアンがすでにいた。窓辺に立って、外を見ている。
「聞いたか?」アドリアンが振り返った。
「うん」
「オイゲン」兄は真剣な顔で言った。「あのレコード、隠さないと」
「どこに?」
「俺が預かる。俺の部屋の床下に隠し場所がある」
オイゲンは頷いた。
アドリアンは、弟の肩に手を置いた。
「怖いか?」
「少し」
「俺もだ」アドリアンは認めた。「でも、お前を守る。兄の役目だから」
オイゲンは兄を見上げた。
「ありがとう、兄さん」
二人は並んで窓の外を見た。夜のクルジュ。街灯が少なく、暗い。遠くで、犬が吠えている。
「兄さん」オイゲンが言った。「いつか、この街を出られるかな」
「どこへ?」
「わからない。でも、自由に音楽を演奏できる場所」
アドリアンは弟を見た。十歳の少年が、すでにこの街の閉塞感を感じている。
「出られるよ」アドリアンは言った。「いつか、必ず。お前の才能なら」
「兄さんも一緒に?」
アドリアンは躊躇した。
「わからない。でも、もし俺が残っても、お前は行け。お前には、世界を見る権利がある」
オイゲンは首を振った。
「一緒じゃなきゃ嫌だ」
アドリアンは微笑んだ。
「じゃあ、二人で行こう。いつか」
しかし、兄の目には、不安があった。オイゲンには才能がある。しかし、自分には?
その夜、ベッドに横たわりながら、オイゲンは天井を見つめていた。
音楽家になりたい。ただ、ピアノを弾いていたい。バッハも、ベートーヴェンも、ジャズも。すべてを。
しかし、この世界では、選択を迫られる。従うか、逃げるか。
まだ十歳の少年には、どちらも選べなかった。
彼は目を閉じた。夢の中で、自由が待っているかもしれない。
翌週、音楽院での個人レッスンの時間。
ドミトレスク教授の部屋には、グランドピアノがあった。オイゲンは椅子に座り、今日の課題であるベートーヴェンのソナタ「悲愴」を弾き始めた。
第一楽章の序奏。重々しく、劇的に。和音が力強く響く。
しかし、主部に入ると、オイゲンの指が止まった。
「どうした?」教授が尋ねた。
「すみません」オイゲンは言った。「もう一度、最初から」
再び弾き始める。しかし、集中できない。頭の中で、ペトレ氏の家族のことが渦巻いている。連れて行かれた。どこへ。なぜ。
また、間違えた。
「キケロ」教授の声が鋭くなった。「お前らしくない。何があった」
「何も」
「嘘をつくな。私は三十年、生徒を教えてきた。お前の心がここにないことくらい、わかる」
オイゲンは黙っていた。
教授はため息をついた。「立ちなさい」
オイゲンは立ち上がった。
教授は窓に近づき、外を見た。中庭には、誰もいない。
「オイゲン」教授は背中を向けたまま言った。「お前には才能がある。並外れた才能だ。しかし、この国で、この時代に、才能だけでは生き残れない」
「はい」
「わかっているか?」教授は振り返った。「音楽家として成功するには、技術だけでなく、政治的な賢さも必要だ。何を言うべきか、何を言わないべきか。誰を信頼すべきか、誰を避けるべきか」
オイゲンは頷いた。
「そして何より」教授は近づいてきた。「何を演奏すべきか、何を演奏すべきでないか」
オイゲンの心臓が早鐘を打った。教授は、知っているのだろうか。ジャズのレコードのことを。
「私は」教授は声を落とした。「お前が何に興味を持っているか、察している」
オイゲンは息を止めた。
「心配するな」教授は続けた。「私は密告者ではない。しかし、他の人間は違う。お前は若い。若者は不注意だ。そして、不注意は命取りになる」
「先生」オイゲンは囁いた。「でも、音楽は音楽じゃないんですか。どんな音楽でも、ただの音楽じゃないんですか」
教授は悲しそうに笑った。
「理想の世界では、そうだ。しかし、我々は理想の世界に住んでいない。ここでは、音楽も政治だ。すべてが政治だ」
教授はピアノに戻った。
「今日のレッスンは終わりだ。家に帰りなさい。そして、考えろ。お前の才能を守るために、何が必要か」
オイゲンは一礼して、部屋を出た。
廊下を歩きながら、涙がこぼれそうになった。怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。
音楽院の玄関を出ると、冷たい風が顔を打った。空は灰色に曇っていた。
通りの向こうに、党の事務所があった。赤い旗が風にはためいている。
オイゲンは足を速めた。家に帰りたかった。母の顔を見たかった。兄と話したかった。ピアノを弾きたかった。
しかし、何を弾けばいいのか、もうわからなくなっていた。
家に着くと、兄のアドリアンが部屋で待っていた。
「オイゲン、大丈夫か?」
オイゲンは兄に抱きついた。
「兄さん、怖いよ」
「わかってる」アドリアンは弟の頭を撫でた。「でも、俺たちには音楽がある。それを忘れるな」
「音楽も、自由じゃない」
「今はそうだ」アドリアンは言った。「でも、いつか、自由に演奏できる日が来る。その日まで、生き延びるんだ」
二人は並んで窓の外を見た。
夜が降りてくる。クルジュの暗い夜。
しかし、部屋の中には、二人の兄弟がいた。
音楽を愛する二人の兄弟。
それが、希望だった。




