第二話 バッハと禁じられた音楽
1950年、クルジュ音楽院の廊下は、冬の冷気に満たされていた。
八歳のオイゲン・キケロは、重い革のカバンを肩にかけて、練習室へ向かっていた。カバンの中には、楽譜が詰まっている。バッハ、ベートーヴェン、ショパン。毎日、新しい曲を与えられる。毎日、完璧に弾くことを求められる。
練習室のドアを開けると、冷たい空気が顔を打った。暖房はほとんど効いていない。オイゲンは息を吐くと、白い霧が口から出た。しかし、彼は気にしなかった。ピアノの前に座れば、寒さは忘れられる。
鍵盤に指を置く。冷たい。しかし、弾き始めれば温かくなる。
バッハのインヴェンション第一番。右手と左手が、独立した声部を奏でる。対位法。音楽の建築。
オイゲンは目を閉じた。音符が頭の中で踊る。左手のメロディが階段を下り、右手のメロディが階段を上る。二つの声が出会い、交差し、また離れていく。
「キケロ!」
厳しい声が背後から響いた。
オイゲンは手を止め、振り返った。イオン・ドミトレスク教授が、ドアの前に立っていた。痩せた長身の男で、常に黒いスーツを着ている。目は鋭く、表情は硬い。
「はい、教授」
「お前は音符を追っているだけだ」ドミトレスク教授は近づいてきた。「バッハは音符ではない。構造だ。論理だ。感情ではなく、数学だ」
「はい、教授」
「もう一度。今度は、各声部の独立性を意識しろ。右手は右手、左手は左手。それぞれが別の楽器だと思え」
オイゲンは再び弾き始めた。今度は、より注意深く。右手のメロディを際立たせながら、左手のメロディも忘れない。二つの世界を同時に創造する。
ドミトレスク教授は腕を組んで聞いていた。表情は変わらない。オイゲンは緊張しながらも、音楽に集中した。
曲が終わった。
沈黙。
「まだ足りない」教授は言った。「しかし、進歩はしている。来週までに、インヴェンション全曲を暗譜しろ」
「全曲ですか?」オイゲンは目を見開いた。
「十五曲もあります」
「だから何だ?お前には才能がある。才能があるなら、使え。それが義務だ」
教授はドアへ向かった。しかし、出て行く前に振り返った。
「キケロ、お前はこの学校で最も将来を期待されている生徒だ。しかし、期待だけでは何も生まれない。努力が必要だ。規律が必要だ。そして何より...」彼は一瞬、躊躇した。「何より、党の方針に従うことが必要だ」
オイゲンは黙って頷いた。
教授が去った後、練習室には再び静寂が戻った。オイゲンはピアノの前に座ったまま、窓の外を見た。
音楽院の中庭に、赤い旗が掲げられていた。鎌と槌の紋章。ルーマニア人民共和国の旗。
党の方針に従う。それは何を意味するのか。八歳の少年には、まだ完全には理解できなかった。しかし、父や母が時々交わす小声の会話から、何か大きな変化が起きていることは感じていた。
オイゲンは再び鍵盤に向かった。バッハ。インヴェンション第二番。音楽だけが、彼の世界だった。
その日の午後、オイゲンは兄のアドリアンと一緒に家に帰った。アドリアンは十三歳で、すでに音楽院の上級クラスに通っていた。最近、兄は打楽器に興味を持ち始めていた。
「兄さん、今日は何を習ったの?」オイゲンは尋ねた。
「リズムの基礎」アドリアンは答えた。「ドラムとパーカッション」
「楽しい?」
「ああ」アドリアンは微笑んだ。「お前のピアノとは違うけど、リズムには自由がある」
オイゲンは首を傾げた。自由?
「いつか」アドリアンは続けた。「お前のピアノと、俺のドラムで、一緒に演奏したいな」
「うん」オイゲンは頷いた。「それ、いいね」
二人は家に着いた。古いアパートメントの三階。階段を上ると、母の料理の匂いがした。
「ただいま」オイゲンは呼びかけた。
「お帰りなさい」リヴィアがキッチンから顔を出した。「手を洗って、すぐに食事よ」
夕食の席に、家族四人が揃った。父のテオドール、母のリヴィア、アドリアン、オイゲン。テーブルの上には、質素な食事が並んでいた。パンとスープ、少しの野菜。肉はなかった。
「今日、学校で何があった?」父が尋ねた。
「ドミトレスク教授が、来週までにインヴェンション全曲を暗譜しろと言いました」オイゲンは答えた。
父は眉をひそめた。「全曲か。厳しいな」
「でも、できます」
「そうだろう。お前なら」父は一口スープを飲んだ。「しかし、オイゲン、勉強も忘れるな。数学、歴史、文学。音楽だけでは生きていけない」
「でも、僕はピアニストになりたい」
「なれるだろう。しかし、この国では、ピアニストであることだけでは十分ではない」父は声を落とした。「党員であることも必要だ。体制に忠実であることも必要だ」
リヴィアが夫に目配せした。子供たちの前で、こういう話は避けるべきだという無言のメッセージ。
しかし、オイゲンは聞いていた。
党員。体制。これらの言葉は、最近よく耳にした。学校でも、街でも。
「父さん」オイゲンは尋ねた。「音楽に、政治は関係あるんですか?」
父は長い沈黙の後、答えた。「あってはならない。しかし、現実には、ある」
食事が終わった後、アドリアンがオイゲンの部屋を訪ねてきた。
オイゲンの小さな部屋には、ベッドと机と、古いアップライトピアノが置かれていた。
兄は、ドアを閉めた。そして、小声で言った。
「オイゲン、見せたいものがある」
アドリアンは、ジャケットの内ポケットから、小さなレコードを取り出した。
「これ、何?」
「ジャズのレコード」アドリアンは囁いた。「友人の兄が、こっそり譲ってくれた」
オイゲンは目を見開いた。ジャズ。禁じられた音楽。
「聴いてもいいの?」
「小さい音でなら」アドリアンは、古い蓄音機にレコードをセットした。
針が溝に落ちた。
音楽が流れ始めた。
デューク・エリントンの「Take the A Train」。
オイゲンは、息を飲んだ。
これはバッハとは違った。自由だった。リズムが跳ねる。和音が複雑だ。メロディが予測できない方向に進む。
トランペットが叫ぶ。サックスが歌う。ピアノが踊る。
オイゲンは夢中になった。
「すごい」彼は囁いた。「これ、すごい」
アドリアンは微笑んだ。
「だろう?でも、誰にも言っちゃだめだ。これは禁じられている」
「どうして?」
「アメリカの音楽だから。資本主義の音楽だから」
オイゲンは首を傾げた。音楽に、資本主義も社会主義もあるのか。
曲が終わった。
「もう一回、聴きたい」オイゲンは言った。
アドリアンは針を戻した。
二人は、禁じられた音楽に耳を傾けた。窓の外では、雪が降り始めていた。クルジュの長い冬が、また始まろうとしていた。
しかし、この小さな部屋の中では、アメリカのジャズが密かに響いていた。自由の音楽。まだ見ぬ世界の音楽。
オイゲンは知らなかった。この音楽が、いつか彼の人生を変えることを。この渇望が、いつか彼を別の世界へ導くことを。
今はただ、兄と二人で、禁じられた音楽を楽しんでいた。それだけで十分だった。
最後の音が消えた。
「兄さん」オイゲンが尋ねた。「もっと、こういう音楽があるの?」
「たくさんある」アドリアンは答えた。「いつか、全部聴けるといいな」
「いつか、どこで?」
アドリアンは窓の外を見た。雪が降り続いている。白い世界。しかし、その向こうに、別の世界があることを、兄は感じていた。
「わからない」彼は言った。「でも、いつか」
その夜、ベッドに入る前、オイゲンはもう一度ジャズの音を思い出していた。
自由な音楽。
彼は目を閉じた。
夢の中で、彼は広い舞台に立っていた。観客はいない。ただ、グランドピアノがあった。そして、彼は好きな音楽を、自由に弾いていた。バッハも、モーツァルトも、ジャズも。すべてが許されていた。すべてが可能だった。
それは、まだ遠い未来の夢だった。




