第十二話 成長の日々
1963年、秋。
十七歳のニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、高校卒業後、完全にプロの音楽家としての生活に入っていた。
モンマルトルでの演奏は週五回に増え、レコーディングの依頼も絶えなかった。ケニー・ドリューとのトリオは、コペンハーゲンで最も人気のあるグループの一つになっていた。
ある十月の夜、ヘニング・ウルセンが興奮した様子で楽屋に来た。
「ニールス、今週末、特別なゲストが来る」
「誰ですか?」
「コールマン・ホーキンス」
ニールスは息を飲んだ。
コールマン・ホーキンス。「ビーン」と呼ばれる伝説のテナーサックス奏者。スウィング時代からビバップまで、ジャズの歴史そのものを生きてきた巨人。
「本当ですか?」
「ああ。それに、デンマークのテレビ局が撮影に来る。『Coleman Hawkins kom forbi』という番組だ。お前も出演する」
「テレビ?」
「そうだ。デンマーク中が、お前の演奏を見ることになる」
ニールスの手が震えた。
1963年10月12日。モンマルトル。
テレビカメラが、クラブの中に設置されていた。照明が、いつもより明るい。
ニールスは、ベースを抱えてステージの隅に立っていた。
そして、コールマン・ホーキンスが入ってきた。
五十代後半の男性。堂々とした体格。サックスケースを持ち、葉巻を咥えていた。
「やあ、みんな」彼の声は、深く、力強かった。
ケニー・ドリューが近づいた。
「ホーク、ようこそコペンハーゲンへ」
「ケニー、久しぶりだな」二人は抱擁した。
「こちらが、ニールス・ペデルセン。僕たちのベーシストだ」
ホーキンスはニールスを見た。
「若いな。いくつだ?」
「十七です」
「十七?」ホーキンスは笑った。「俺が十七の時は、まだフレッチャー・ヘンダーソン楽団で雑用係だった。お前は、もうプロか」
「はい」
「良いベースを弾くそうだな。ケニーから聞いた」
「ありがとうございます」
「さあ、やってみようか。俺の演奏についてこられるか、試してやる」
リハーサルが始まった。
ホーキンスのサックスが歌い出した。
豊かで、深い音色。しかし、古臭くはない。伝統と革新が融合した、円熟の芸術。
ニールスは、彼の音に耳を傾けた。
ホーキンスは、リズムを自在に操る。前に出たり、後ろに下がったり。しかし、決してビートを外さない。
ニールスは、ホーキンスの呼吸を感じ取った。そして、完璧にサポートした。
曲が終わった後、ホーキンスは振り返った。
「お前、本物だな」
「―――」
「いや、マジだ。俺は何十年も、何百人ものベーシストと演奏してきた。お前ほど、俺の音楽を理解しているベーシストは、数えるほどしかいない」
ニールスは照れくさそうに笑った。
「今夜の本番、楽しみだ」ホーキンスは葉巻に火をつけた。「お前となら、良い音楽ができる」
その夜のライブは、成功だった。
テレビカメラが回る中、ホーキンス、ケニー・ドリュー、ニールス、そしてアレックス・リールのカルテットが演奏した。
スタンダード曲。ホーキンスのオリジナル。そして、即興のブルース。
ニールスは、カメラを意識しないように努めた。ただ、音楽に集中した。
ホーキンスのソロの後、ニールスのベースソロがあった。
ニールスは、躊躇なく弾いた。
低音が語る。メロディが歌う。
ホーキンスは、ステージの隅で腕を組んで聞いていた。そして、満足そうに頷いた。
演奏が終わった後、楽屋で、ホーキンスはニールスに言った。
「ニールス、お前に言っておきたいことがある」
「はい」
「お前は、これから世界中で演奏することになるだろう。お前の才能なら、間違いない」
ニールスは黙って聞いていた。
「しかし」ホーキンスは続けた。「成功しても、謙虚さを失うな。音楽は、自分一人では作れない。常に、周りの音楽家を尊重しろ」
「わかりました」
「それから」ホーキンスは微笑んだ。「楽しめ。音楽は、仕事じゃない。人生だ」
1964年、春。
ニールスは、ローランド・カークと共演していた。
ローランド・カーク。盲目のサックス奏者で、複数の楽器を同時に演奏することで知られていた。
リハーサル室で、カークは三本のサックスを首にかけていた。
「ニールス、準備はいいか?」
「はい」
「じゃあ、始めよう。『Serenade to a Cuckoo』」
カークは、三本のサックスから同時に音を出し始めた。
ニールスは驚いた。どうやって、三本同時に吹けるのか。
しかし、驚いている暇はない。彼の複雑なリズムに、ついていかなければならない。
ニールスは、集中した。
カークの音楽は、予測不可能だった。突然テンポが変わる。突然静かになる。突然爆発する。
しかし、ニールスは対応した。
カークが変化すれば、ニールスも変化した。カークが止まれば、ニールスも止まった。
音楽的な対話。
曲が終わった後、カークは笑った。
「お前、すごいな。俺の無茶苦茶な演奏についてこられる奴は、そうそういない」
「ありがとうございます」
「お前のベースは、柔軟だ。どんなスタイルにも対応できる。それが、お前の強みだ」
その週、ニールスはカークと毎晩演奏した。
そして、「Kirk in Copenhagen」というアルバムを録音した。
このアルバムは、後に評論家から絶賛されることになる。
1964年、秋。
デンマーク・ジャズ協会から、連絡があった。
「ニールス・ペデルセン君、おめでとうございます」
「何がですか?」
「君が、今年のデンマーク・ジャズ・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤーに選ばれました」
ニールスは信じられなかった。
「僕が?」
「そうです。十八歳での受賞は、史上最年少です」
授賞式の夜、ニールスは両親と一緒にコペンハーゲンのコンサートホールにいた。
壇上で、協会の会長が言った。
「ニールス・ペデルセンは、デンマーク・ジャズの誇りです。彼の才能は、世界中で認められています。そして何より、彼は謙虚で、勤勉で、音楽を心から愛しています」
拍手が響いた。
ニールスは壇上に上がり、トロフィーを受け取った。
「ありがとうございます」ニールスは言った。「この賞は、僕一人のものではありません。僕を育ててくれた両親、僕に機会を与えてくれたモンマルトルのヘニングさん、そして僕と一緒に演奏してくれたすべての音楽家たちのおかげです」
会場は、再び拍手に包まれた。
1965年、春。
ニールスは、十九歳になっていた。
そして、人生を変える出会いが訪れようとしていた。
ある四月の朝、電話が鳴った。
「ニールス・ペデルセンですか?」
「はい」
「私は、ビル・エヴァンスのマネージャーです。ビルが、ヨーロッパツアーをします。あなたに、ベーシストとして同行してほしいと言っています」
ニールスの心臓が止まりそうになった。
ビル・エヴァンス。ピアノの詩人。ジャズの哲学者。
「本当ですか?」
「はい。ツアーは六月から三週間。パリ、ロンドン、アムステルダム、そしてコペンハーゲン。参加できますか?」
「できます」ニールスは即答した。「喜んで」
1965年6月、パリ。
ニールスは、ホテルのロビーでビル・エヴァンスを待っていた。
ドアが開き、痩せた男性が入ってきた。黒いスーツ、疲れた顔、しかし優しい目。
「ニールス・ペデルセン?」
「はい」
「ビル・エヴァンスだ」二人は握手した。「会えて嬉しい。君の演奏は、録音で聴いた。素晴らしかった」
「ありがとうございます。僕は、あなたの大ファンです」
「そうか」ビルは微笑んだ。「じゃあ、期待に応えないとな」
その夜、リハーサルが行われた。
ビルはピアノの前に座り、「Waltz for Debby」を弾き始めた。
繊細で、美しく、哀愁に満ちた演奏。
ニールスは、息を飲んだ。
この人は、ピアノで詩を書いている。
ビルが合図した。ニールスが入る。
ニールスのベースは、深く、揺るぎなく、ビルの音楽を支えた。
曲が終わった後、ビルは振り返った。
「完璧だ」
「ありがとうございます」
「いや」ビルは真剣な顔で言った。「君は、音楽を理解している。多くのベーシストは、ただ音符を弾く。しかし、君は、音楽の魂を弾いている」
ニールスは、何も言えなかった。
「君と演奏できることを、光栄に思う」ビルは続けた。「音楽は、会話だ。そして、君は最高の対話相手だ」
そのツアーの三週間、ニールスは人生で最も大切な教訓を学んだ。
音楽は、技術ではない。
音楽は、心だ。
そして、最高の音楽は、心と心が触れ合う時に生まれる。
ツアーの最終日、ロンドンのロニー・スコッツ・ジャズクラブ。
満員の観客。ビル・エヴァンス・トリオの演奏。
ニールスは、ベースを抱きながら、思った。
僕は、今、世界で最も幸せな人間だ。
音楽がある。仲間がいる。そして、まだ見ぬ未来が待っている。
演奏が終わった後、ビルはニールスの肩を叩いた。
「また一緒に演奏しよう。約束する」
「はい」ニールスは答えた。「いつでも」
その約束は、後日守られることになる。
1965年、秋。
コペンハーゲンに戻ったニールスは、ある晩、一人で港を歩いていた。
波の音が、穏やかに響いていた。
この三年間、彼は多くの音楽家と出会った。
バド・パウエル。デクスター・ゴードン。ソニー・ロリンズ。コールマン・ホーキンス。ローランド・カーク。ビル・エヴァンス。
そして、それぞれから、何かを学んだ。
バドからは、音楽の本質を。
デクスターからは、スタイルの確立を。
ロリンズからは、自分の道を歩む勇気を。
ホーキンスからは、謙虚さを。
カークからは、柔軟性を。
ビルからは、魂を。
ニールスは、空を見上げた。
星が輝いていた。
十九歳。まだ若い。しかし、もう子供ではない。
彼は、自分の音楽を見つけ始めていた。
誰かの模倣ではなく。誰かのスタイルの継承でもなく。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンの音楽。
それは、すべての経験から生まれた、唯一無二の声だった。
波が、優しく岸を洗っていた。
ニールスは、微笑んだ。
次は、何が待っているのだろう。
どんな音楽家と出会うのだろう。
どんな音楽を作るのだろう。
未来は、まだ白紙だった。
しかし、その白紙に描かれる音楽は、きっと美しいものになるだろう。
ニールスは、そう信じていた。




