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第一話 クルジュの神童


 音楽は、壁を越える。

 1977年2月、ベルリン。東と西を隔てる壁がまだ立っていた時代。小さなジャズクラブで、三人の音楽家が出会った。

 一人は、ルーマニアから命がけで亡命したピアニスト。

 一人は、デンマークで家族に囲まれて育ったベーシスト。

 一人は、アメリカから来たドラマー。

 三日間だけの録音。しかし、その三日間は、奇跡だった。

 クラシックとジャズが融合した。東と西が、音楽で一つになった。そして、その音楽は、録音された。永遠に。

 この物語は、実在の音楽家たちを基にしたフィクションです。

 オイゲン・キケロ。ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。トニー・インザラコ。三人は、本当に存在した。1977年、本当にベルリンで録音した。そして、その音楽は、今も残っている。

 しかし、本作で描かれる会話、感情、内面は、すべて創作です。彼らが何を考え、何を感じていたかは、誰にもわからない。ただ、音楽だけが残っている。

 私は、その音楽を聴いた。何度も、何度も。

 そして、想像した。あの三日間、ベルリンの小さなクラブで、何が起きたのかを。

 音楽家の人生は、音楽そのものだ。

 喜びも、哀しみも、淋しさも、すべて音楽に込められる。

 キケロは、故郷を失った。しかし、音楽があった。

 ニールスは、家族に囲まれた。しかし、責任もあった。

 それぞれの人生。それぞれの音楽。

 しかし、ベルリンでの三日間、三人は一つになった。

 その音楽は、47年経った今も、色褪せない。

 この物語を、音楽を愛するすべての人へ。

 そして、ベルリンでの三日間の奇跡を、永遠に記憶するために。

著者

はじめに:著者注記

本作品は、ジャズ・ピアニストのオイゲン・キケロ(1940-1997)とジャズ・ベーシストのニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン(1946-2005)という実在の音楽家の人生に着想を得た小説です。

二人の音楽的業績と基本的な経歴は史実に基づいていますが、日常の会話、内面の思考、人間関係の詳細、特定の場面における行動や感情などは、限られた資料から著者が想像し創作したものです。

本作品は伝記ではなく、二人の音楽家へのオマージュとして書かれたフィクションであることをご了承ください。



【オイゲン・キケロ編(第1話〜第7話)】


 窓の外では、灰色の空が街を覆っていた。

 1946年、初秋。ルーマニア北西部の古都クルジュは、まだ戦争の傷跡を癒しきれずにいた。壊れた建物の残骸が通りのあちこちに残り、人々の顔には疲労の色が濃く刻まれている。しかし、この街の中心部にある古いアパートメントの一室では、ひとつの奇跡が生まれようとしていた。

「オイゲン、こっちにいらっしゃい」

 リヴィア・キケロは優しく息子に呼びかけた。彼女の声には、戦争を生き抜いた女性特有の強さと、母親としての温かさが同居していた。かつてオペラ歌手として舞台に立っていた女性。しかし今は、二人の息子を育てる母だった。

 四歳の少年は、おずおずと母親のそばに近づいた。オイゲン・キケロ。深い茶色の目を持つ痩せた少年は、ピアノという巨大な楽器を見上げていた。黒い木製のボディは、子供の目には怪物のように大きく見える。

 その隣には、九歳になる兄のアドリアンが立っていた。兄はすでにピアノの基礎を学んでいて、時々母と一緒に弾いていた。

「怖がらなくていいのよ」リヴィアは幼いオイゲンを膝の上に乗せた。「ピアノはね、お話をするの。指で触れると、音という言葉で答えてくれるのよ」

「お話?」オイゲンは不思議そうに母を見上げた。

「そう。聞いてごらんなさい」

 リヴィアの指が鍵盤に触れた。単音が部屋に響く。ド。明るく、はっきりとした音。それから、レ、ミ、ファ、ソ。音階が階段のように昇っていく。

 オイゲンの目が輝いた。彼の小さな手が、思わず鍵盤に伸びる。

「触ってもいいの?」

「もちろん。あなたの指で、お話ししてごらんなさい」

 小さな人差し指が、恐る恐る白い鍵盤を押した。ポン、という音。美しい音ではなかったが、オイゲンにとっては魔法だった。

「もっと」彼はささいた。「もっと、お話ししたい」

 リヴィアは微笑んだ。窓の外の灰色の世界とは対照的に、この瞬間、部屋の中には希望の光が差し込んでいた。

「母さん」アドリアンが口を開いた。「オイゲンにも、僕みたいにピアノを教えるの?」

「そうよ。あなたたち二人とも、音楽の才能があるわ」

「でも、オイゲンはまだ小さいよ」

「あなただって、四歳で始めたでしょう?」リヴィアは兄に微笑んだ。

 それから数週間、オイゲンは毎日ピアノの前に座った。最初は単音だけだったが、すぐに簡単なメロディを弾けるようになった。リヴィアは驚いた。四歳の子供が、これほど早く音楽を理解するとは。

 兄のアドリアンも驚いていた。自分が何ヶ月もかかって習得したことを、弟は数週間で身につけていく。

「彼には才能がある」ある夜、リヴィアは夫に言った。

 テオドール・キケロは新聞から目を上げた。彼は地元の合唱団を指揮する厳格な男だった。眉をひそめて、「才能だけでは足りない。この国で音楽家として生きるのは容易ではない」

「でも、あの子の音を聞いたでしょう?」

「聞いた。早熟だ。しかし、リヴィア、現実を見なければならない。我々は戦争に負けた国にいる。ソ連の影響下にある。音楽は...」彼は言葉を選んだ。「音楽は、許された範囲でしか演奏できない」

 リヴィアは黙って窓の外を見た。通りの向こうに、ソ連軍の兵士が二人、巡回していた。新しい時代が始まっていた。

 しかし、リビングルームでは、オイゲンがまだピアノの前に座っていた。小さな指が、母が教えてくれたメロディを繰り返し弾いている。何度も、何度も。完璧になるまで。

 その横で、兄のアドリアンが窓辺に立って外を見ていた。弟の才能を、複雑な思いで見つめていた。嬉しさと、少しの羨望と。

「オイゲン、もう寝る時間よ」リヴィアが呼びかけた。

「あと一回」少年は答えた。「あと一回だけ、弾かせて」

 彼の目には、四歳の子供とは思えない集中力が宿っていた。母から受け継いだ美しい指が、鍵盤の上で踊る。音が、会話をする。

 リヴィアは息子を見つめながら、祈った。この子の才能が、この灰色の世界で花開くことができるように。音楽が、この子を守ってくれるように。

 窓の外では、夜が深くなっていく。しかし部屋の中では、ピアノの音が希望の灯火のように響き続けていた。

 それから二年後、1948年。オイゲンは六歳になっていた。

 クルジュ国立劇場の舞台袖。少年は母の手をしっかりと握りしめていた。

「怖い」彼は小さな声で言った。

「大丈夫よ」リヴィアは膝をつき、息子の目を見つめた。「あなたはもう何百回も弾いてきたでしょう?モーツァルトのピアノ協奏曲第11番。あなたの指は、もう覚えている」

「でも、たくさんの人が見ている」

「そうね。でも、彼らは敵じゃない。音楽を聴きたい人たちよ。あなたの音を、待っている人たちなの」

 オイゲンは深呼吸をした。小さな体に、白いシャツと黒いズボン。髪はきちんと整えられている。しかし、その目には恐怖と期待が入り混じっていた。

 舞台袖の別の場所では、兄のアドリアンが父と一緒に立っていた。十一歳になった兄は、すでに大人びた顔つきをしていた。

「アドリアン」父のテオドールが言った。「お前の弟は、特別な才能を持っている」

「わかっています」

「しかし、才能は重荷でもある。これから、オイゲンは多くの期待を背負うことになる。お前は、兄として彼を支えてやってくれ」

 アドリアンは頷いた。

「思い出して」リヴィアがオイゲンに言った。「ピアノはお話をする。あなたはただ、お話を続ければいいの。観客がいようと、いまいと、音楽は変わらない」

 ステージマネージャーが手を振った。時間だ。

 オイゲンは舞台に歩み出た。

 劇場は満席だった。クルジュ・フィルハーモニー管弦楽団の楽団員たちが、楽器を構えている。指揮者のミハイ・ブレダンが、優しく少年に微笑みかけた。

 ピアノの前に座る。足台に足を置く。手を鍵盤の上に置く。

 静寂。

 そして、指揮者の合図。オーケストラが序奏を始める。弦楽器の柔らかい響き。ホルンの豊かな音色。劇場全体が、一つの楽器になった。

 オイゲンの番が来た。

 最初の音を弾いた瞬間、恐怖が消えた。

 母が言った通りだった。音楽は変わらない。観客がいようと、いまいと。指が鍵盤の上で動き始めると、世界は音だけになった。

 モーツァルトの明るいメロディが、劇場に響く。六歳の少年の手から生まれる音は、驚くほど明瞭で、正確で、そして—深かった。

 観客席では、息をのむ音が聞こえた。

 オーケストラと少年のピアノが対話する。質問と答え。呼びかけと応答。音楽という言語で、完璧な会話が成立していた。

 第一楽章が終わった。拍手。しかしオイゲンは聞こえていない。彼はすでに第二楽章の世界に入っていた。

 緩やかで美しい旋律。ここでモーツァルトは、人間の心の奥底にある何かに触れる。喜びではなく、悲しみでもなく、その間にある何か。六歳の少年が、どうしてこの感情を理解できるのか。観客は不思議に思った。

 しかし、オイゲンは理解していた。音楽は言葉を超えていた。彼の指が知っていた。心が知っていた。

 第三楽章。再び明るく、活発に。指が鍵盤の上で踊る。速いパッセージも、正確に、美しく。オーケストラと少年が一体となって、音楽の歓びを表現する。

 最後の和音。

 静寂。

 それから、劇場全体が爆発した。拍手の嵐。

 オイゲンは我に返った。舞台の上。ライトの光。何百もの手が拍手している。人々が立ち上がっている。

 彼は立ち上がり、不器用にお辞儀をした。

 舞台袖で、リヴィアが涙を流していた。

 その隣で、兄のアドリアンも拍手していた。弟への誇りと、自分では決して到達できない高みへの憧れが、入り混じった複雑な表情で。

 その夜、家に帰る馬車の中で、オイゲンは窓の外を見つめていた。クルジュの街は暗かった。街灯は少なく、多くの建物はまだ修復されていない。しかし、少年の心の中には、新しいものが芽生えていた。

「母さん」彼は言った。「僕、ピアニストになりたい」

 リヴィアは息子の頭を撫でた。「あなたはもう、ピアニストよ」

「ううん」オイゲンは首を振った。「もっと、もっと上手になりたい。もっとたくさんの曲を弾きたい。もっと、音楽とお話ししたい」

 隣に座っていた兄のアドリアンが、弟を見た。

「オイゲン、お前はすごいよ」アドリアンは言った。「でも、一人じゃないからな。俺もいる」

 オイゲンは兄を見上げた。

「うん。アドリアン、ありがとう」

 リヴィアは微笑んだ。しかし、その笑みの奥には、不安があった。この国で、この時代に、音楽家として生きることの困難を、彼女は知っていた。

 しかし今夜は、そのことを考えたくなかった。今夜は、息子の才能が花開いた夜だった。それだけで十分だった。

 馬車は暗い通りを進んでいく。少年は、心の中でまだモーツァルトを奏でていた。

 これが、オイゲン・キケロの物語の始まりだった。




注釈:リヴィア・キケロについて

本作では、キケロの母リヴィアを「オペラ歌手」として描きました。キケロにピアノを教えたため「クラシック・ピアニスト」とされることが多いですが、本作では母の「歌声」が失われた故郷への郷愁をより強く表現できると判断しオペラ歌手を採用しました。


 この物語を書き終えて、私は一枚のレコードを手に取った。

 『オイゲン・キケロ・イン・ベルリン』。

 1980年代に手に入れた、日本盤。三人の絵が描かれたジャケット。すり切れるほど聴いた、このレコード。

 針を落とす。

 ノイズ。

 そして、音楽が始まる。

 47年前の、ベルリンの音楽が。

 私がこの音楽に出会ったのは、40年以上前のことだ。

 東京の小さなレコード店。店員が薦めてくれた。

「これ、いいですよ」

 その一言が、すべての始まりだった。

 クラシックの曲が、ジャズになっている。しかし、クラシックの美しさも残っている。不思議な音楽だった。何度も聴いた。そして、いつしか、この音楽の背景を知りたいと思うようになった。

 オイゲン・キケロとは、誰なのか。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンとは、誰なのか。

 なぜ、この音楽は、こんなにも心を打つのか。

 調べれば調べるほど、わかったことがある。

 キケロは、ルーマニアから亡命した。命がけで。

 ニールスは、デンマークで家族に囲まれて育った。

 二人とも、偶然、その国に生まれた。それが、二人の運命を決めた。

 しかし、音楽で、二人は出会った。

 1977年、ベルリンで。

 その三日間の録音が、この音楽になった。

 この物語は、フィクションです。

 彼らが何を考え、何を感じていたかは、誰にもわからない。

 私は、想像しただけです。音楽を聴きながら。

 しかし、一つだけ、確信していることがある。

 音楽は、嘘をつかない。

 この音楽には、魂がある。三人の魂が、一つになっている。それは、聴けばわかる。

 キケロは、1997年に逝去した。59歳だった。

 ニールスは、2005年に逝去した。58歳だった。

 二人とも、60歳を前に。短い人生だった。

 しかし、音楽は残った。

 ベルリンでの三日間の音楽は、今も生きている。

 レコードに。CDに。ストリーミング・サービスに。

 そして、人々の記憶に。

 この物語を書きながら、私は何度も泣いた。

 キケロが母に手紙を書く場面。

 ニールスが娘を抱きしめる場面。

 そして、二人が逝く場面。

 音楽家の人生は、音楽そのものだ。

 喜びも、哀しみも、淋しさも、すべて音楽に込められる。

 それが、美しい。

 最後に、感謝を。

 この音楽を残してくれた、三人の音楽家へ。

 オイゲン・キケロ。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。

 トニー・インザラコ。

 あなたたちの音楽は、永遠に生き続けます。

 そして、この物語を読んでくださった、すべての読者へ。

 ありがとうございました。

 もし、この物語を読んで、ベルリンでの録音を聴いてみたいと思われた方がいらっしゃれば、それが私の最大の喜びです。

 音楽は、壁を越える。

 時間を越える。

 そして、人の心に届く。

 それを、信じています。

2026年3月

著者

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