始まりの夜
けたたましい警報が深夜の研究所内に響き渡る。幾多の足音で、怒号や指示は掻き消され、誰も正確な状況など把握していない。
そんな騒動など我関せずと、研究所の離れに位置する男はご機嫌な様子でその場を去ろうとしていた。
「やれやれ。直轄の研究所とはいえ、私の手に掛かれば容易いものでしたね」
男はコートの内ポケットに忍ばせていた一枚のカードを取り出し、ハットに触れながらほくそ笑む。そこに描かれているのは、旅人と一匹の犬──0番のタロットカード、愚者であった。冒険、自由、新たな始まりを意味するものなのだが、研究所にて管理されているということは一般的なタロットではないことは明白であろう。男は再びタロットをポケットに仕舞い、歩みを進めようとする。
「──燃え盛れ。獅子」
だが、それを許さんと灼熱を纏いし獅子が男に牙を向く。男は回避を試みるが寸前で行動を中断する。獅子は男に見向きもせずに、闇を駆け抜け、背後の大木に衝突するとそこに残っているのは銀色の弾丸であった。
「獅子、それに銀の弾丸……運命の契約者ですか」
既に男には目星がついており、指摘されると同時に、茂みから灰色髪の少年が銃口を向けながら姿を現す。
「威嚇射撃とは余裕がありますねぇ。それともビビって手元が狂いましたかぁ?」
「何を勘違いしている。貴様に当てるなんて行為は造作もない。獅子に恐怖して腰を抜かす貴様を目にしたかっただけだ。大人しく愚者のタロットを返せば、処遇ぐらい考えてやる」
引き金に指を掛けると、男はやれやれといった感じで首を振り、ハットを深く被り、少年を睨み付ける。
「そんなハエも逃げ出すような臭い台詞を吐くなんて恥ずかしいですね……まあ、遊んであげるくらいはしてあげますよ」
その言葉と同時に、弾丸が闇を切り裂くかのように男の頬を掠める。既に戦いの火蓋は落とされており、次の弾丸が放たれた。
「貫け、鷲」
先程の獅子とは打って代わり、弾丸は水を纏い、鳥の姿へと変貌する。鷲は槍の如く鋭い嘴で男の胸ポケットを貫き、愚者のタロットの奪取に成功する。しかし、男にはその行動を予測されたようであり、男が指を鳴らすと、鷲は泡となり、その姿を保てなくなる。そして、愚者のタロットは静かに音を立てて、川の急流へと飲み込まれる。
「なっ!?」
「おやおや? 確かこの川は西へと繋がっていたはずですが……私を優先すべきかそれともタロットを優先すべきか……お分かりですよね?」
男は首を傾げながら、挑発するようにして少年に語りかける。少年は顔をしかめ、歯を食い縛りながらも銃口を下ろし、背を向けて川を辿るようにして麓へと駆け出した。その背を見送るようにして男はコートの砂埃を払い、再び足を進める。
「さてと……その運命は誰が手にすることやら……」
一つの運命が動き出す。
それを祝福するかのように、スポットライトを向けるかのように、月が一段と地上を照らしていた──。