第27話 私だって
「フレンカ、ご飯よ」
「はーい、今行くー」
リビングから母の呼ぶ声が聞こえる。窓から外を眺めていたフレンカは、上の空で返事をした。
自室から外を観察するのはフレンカの日課だった。歩いている人、走っている人、色々な人がいる。
そのどれもがフレンカには真似のできないことだった。
一つ、ため息をつく。
そしてフレンカは車椅子を操作し、自室からリビングへと向かった。
「今日は学校どうだった?」
「いつも通りだよ」
「そう」
母親は浮かない顔を浮かべる。
素っ気ない返事になってしまったことを少し申し訳なく思うも、本当のことなのだから仕方ないと自分を言い聞かせる。
学校でフレンカができることは勉強だけ。登校して授業を受けて下校するだけ。
休み時間にクラスメイトが校庭で走り回っているのを眺めることしかできない。邪魔になるから掃除に参加することもできない。身体を使うようなことは基本的に参加できない。一度くらい、廊下を走るなと怒られてみたいものだ。
「いっぱい食べて、明日のリハビリも頑張ろうね」
「うん」
明日は週に二回設定されているリハビリの日。考えるだけで憂鬱だ。
痛くて、苦しくて、しんどくて、なのに全然良くならない。
病院の先生や母は頑張ればきっと治ると言ってくれるが、あまり改善している気がしない。これでは頑張れと言われても頑張れない。
ご飯を食べ終えたフレンカは、母の助けを借りながら身体を洗い、改めて自室へと戻る。
既に日は暮れ、窓の外は薄暗い街灯と月の明かりで照らされていた。流石に、人通りはほとんど無い。
もう寝ようかと考えていたとき、カップルと思しき二人組がゆっくりと窓の枠内に入り込んできた。
二人は手をつなぎ、時折顔を見合わせながら楽しそうに話している。
かと思えば立ち止まり、ちらっと周りを確認してお互いに抱き合った。側の家の窓からフレンカが見ていることまでは気がつかなかったらしい。
フレンカは考える。自分はあんな風に恋愛ができるのだろうか。
車椅子が無いとどこにも行けない。車椅子があっても一人での行動には限界がある。そんな自分に好意を抱いてくれる人はいるのだろうか。
自分を好きになってくれる人がいないというのもそうだが、もし好きな人ができたときにその人を諦めなければならない可能性が高いという事実が、フレンカの心臓をギュッと握る。
毎日のようにこうして窓から理想を眺め、毎日のように現実との差異に打ちひしがれる。ずっとそうしてきた。
いつものように落ち込んだ心で、フレンカは眠りについた。
△
「頑張って、フレンカちゃん!」
「はあ……はあ……」
左右に設置された棒に両手を乗せて体重を支えながら、フレンカは一歩一歩前へと進む。
なんとか歩みを進めてはいるものの、脚で支えている体重なんてほんの僅か。なんとか力を込めようとするものの、まるで神経が繋がっていないかのようにいうことを聞いてくれない。これは本当に自分の脚なのか、そんな問答を繰り返す。
腕には一瞬で乳酸が溜まっていく。助けてくれと悲鳴を上げている。
ほどなくして、フレンカはバタンと床へ倒れ込んだ。すぐにリハビリ担当医が飛んできて身体を支えてくれる。
「お疲れ様。ちょっと休憩しようか」
「はい……」
フレンカは車椅子に座り汗を拭う。もう腕はパンパンで、しばらくは使い物にならなそうである。ちょっと長めに休憩をもらうしかない。そうしかない。
最近のフレンカは、ただひたすらにこの時間を苦痛に感じていた。早く終わってくれと、心の中で唱えながらなんとか耐えていた。
だって、全く進捗がない。
リハビリを始めたての頃はちょっと歩けるようになるだけで嬉しかった。もしかしたら自分も……なんて希望が宿ったこともあった。
でも、ここ二年くらいは変化がない。それどころか、むしろ弱っているのではないかと感じる。
きっとこの脚は良くならないんだ。そんな想いは既にフレンカの胸中を埋め尽くし、表情や言動にまで表れていた。
事実として、フレンカは最近リハビリに本気で取り組めていない。ちょっと苦しくなったらさっきみたいにすぐ諦めている。
こんなことでは良くなるものも良くならない。最近の停滞は自身の不真面目さが原因の一端であることもフレンカは自覚している。
でも、辛いのだ。もう早く楽になってしまいたい。
「フレンカちゃん」
気持ちがどんどん暗闇へと沈んでいくさなか、リハビリ医が声をかけてくる。
「続きいける?」
「はい……頑張ります」
こうやって自分の本音を隠すからそれが自分に返ってくる。もう止めたい、そう言えたら良いのに。
自己嫌悪に陥りながら、フレンカは車椅子に手をかけた。
△
「じゃあ、お母さんは仕事に行ってくるから良い子にしててね。冷蔵庫にお昼ご飯入ってるから」
「はーい」
リビングから母が出ていく。今日は休日だが、母の仕事は休みではない。
どうしてそうしたのかはわからない。いつもだったら家で本を読んだり寝転がったり、そうして母が帰ってくるまでただただ時間を消費していた。
でも今日は何を思い立ったか、外に出ようという気になった。
母からは、絶対に一人で外に出ないように言われている。当然のことだ、車椅子でしか移動できない八歳の少女がふらっと外へ出て行くのは危なすぎる。
でも今日は、それでも出たかったのだ。怒られることも怖くはなかった。
こういうときに、家の中が車椅子で動きやすい作りになっているのはありがたかった。
特に何を準備するでもなく、フレンカは日のもとへと躍り出た。
一人で味わうその日差しは、なんとなくいつもより心地よい気がした。
さて、どこへ行こうか。特になにか予定があるわけではない。心配をかけるわけにもいかないので、ふらっと近場を巡ったらちゃんと家に帰りたい。
とりあえずフレンカは、側にある公園に行くことにした。住宅街の中にある、小さな公園である。
流石に外は車椅子に優しくない。ちょっとした段差がもどかしい。
なんとか公園へとたどり着く。そこでは、同じく近所の子であろう子供たちがボール遊びに興じていた。
また、自分にできないこと。いけない、せっかく外に出たのだから楽しいことを見つけよう。
視界の端にベンチが映る。
そこには、少年が一人座り込んでいた。遠目に見ても、うなだれるようにしているのがわかる。
フレンカは、近づいてみることにした。ベンチの目の前へと、車椅子を進める。
「大丈夫?」
反応はない。
「ねえ、体調が悪いの?」
再度問いかけると、少年がゆっくりと顔を上げた。
フレンカと同じくらいの年齢。しかしその目元には隈が広がり、瞳もどこか虚ろだった。
「酷い顔してる。何かあったの?」
「いや……」
フレンカの問いをぼんやり否定するその少年は、改めてその焦点をフレンカに合わせる。
「脚……悪いの?」
「生まれつきね。車椅子がないとどこへも行けない。本当は一人で出てきちゃダメなんだけど、今日は冒険」
ペロッと舌を出して笑ってみる。普段なら絶対こんなことはしないのに。やっぱり今日は何かおかしいのかもしれない。
「辛くない?」
「辛いよ。私だってああやって思いっきり遊びたい」
公園の反対側でボールを投げ合っている子供たちの方を見る。走り回って、ボールを投げたりキャッチしたり、本当に楽しそう。
「でも、投げたり捕ったりならできるんじゃない? 走ることは難しいかもだけど」
「うん、できるよ。前に友達とそうやって遊んだことはあった。でも、この身体だとどうしても気を遣わせちゃうから。お互いに心から楽しめないの」
その場からすぐに動けないフレンカに対して、友達は捕りやすいようにゆっくりと、コントロールにも細心の注意を払って投げてくれた。ちょっとでも逸れてフレンカが捕り損ねると、謝りながらボールを捕りに走ってくれた。
そんな緊張感のもとだと、友達はきっと楽しめない。フレンカも、理想とはかけ離れたそのボール遊びを心から楽しめない。誰も得をしない。
「治るの?」
「わからない。リハビリはしてるけど、良くなってる気はしないの。最近はもう疲れちゃった」
一回で良いから、思いっきり走り回ってみたいな。ぼそっと呟いたその言葉が、少年の耳に届いたのかはわからない。
それでも、次に少年の口から出た言葉の意味をフレンカは理解できなかった。
「僕が……体験させてあげようか?」
「……え?」
この人は何を言っているのだろうか。頭に浮かぶのははてなマークばかり。しかし、その少年はさらに続ける。
「僕、他人に好きな夢を見せることができるんだ」
「……何を言ってるの?」
少年の口からは理解できない言葉がどんどん出てくる。
「そうだよね……でも、実際できるみたいなんだよ。今まで何人にもやってきたし、喜んでくれた」
「じゃあなんで……」
「ん?」
「どうしてそんなに、辛そうに話すの?」
その言葉に、少年は目を見開いた。自分がどんな表情をしているのかわかっていなかったのだろう。ベンチでうなだれていたときからずっと、少年の顔は曇ったままだ。
「そんな顔してた?」
「うん。喜んでくれたって言うのに、全然嬉しそうじゃない」
「……君はさ、一度自由に走り回れる夢を見たら、また何度も見たいと思う?」
自由に走り回れる。それこそフレンカの理想である。だが、実際にそうなるのではなくそれを夢で見るという。いったいどんな気分なのだろうか。
「それは……わからない。見たいと思うかもしれないし、現実が辛くなるから見たくないと思うかもしれない。どうなんだろ」
「たぶん見たくなるよ。今までみんなそうだったから」
そう語る少年の目は遠くを見ており、暗く濁っている。
いつの間にかボールで遊んでいた子供たちの姿は消え、公園内に存在するのは二人だけになっていた。
「逃げないの?」
「……逃げる?」
「嫌なんでしょ? 逃げたらいいじゃん」
少年の言葉の節々から漏れている憎しみ。能力を聞くだけなら素晴らしいものに感じるが、本人はその能力に苦しめられているのかもしれない。そんな気がした。
「いや、そんな簡単に──」
「でも逃げられる。だって……あなたは歩けるじゃない」
結局フレンカは一人では生きられない。逃げ出すこともできない。羽をもがれた小鳥のように、檻の中で生き苦しむことしかできないのだ。
「……さっきの続き」
「え?」
「夢、見せてあげるよ」
「いいよ。嫌なことをわざわざやる必要はない」
「君にはやってあげたいんだ。大人にはもうしたくないけど、君みたいな人のためになれるなら自分に自信が持てるかもしれない」
さあ行こう、そう言って少年は立ち上がり、フレンカの車椅子の後ろに回った。
押し手を持ち、歩き出そうとする。
「ちょっと待って、行くってどこに」
「あーええと、俺の家は……無理か。どこか眠れる場所知らない?」
「……私の家でいいなら」
我ながら、なんて不用心なんだとフレンカは思う。今日出会った名前も知らない少年を、親のいない家に招こうなんて。
だけど、今日に限ってはブレーキが壊れている。光の差さない毎日に、僅かな変化をもたらしてくれるかもしれない。フレンカに迷いはなかった。
「よしじゃあ行こう」
勢いよく車椅子は走り出した。少年の声にも、どこか楽しげな響きが生まれていた。
フレンカの胸中にも、何か熱いものが灯ったのを感じた。
「じゃあ、ベッドに寝て」
「うん」
目的地に着いた二人は、フレンカの自室にいた。
少年に促されてフレンカはベッドに横たわり、少年は枕元の椅子に座っている。
冷静に考えると、自室に異性を招き入れたのはこれが初めてである。フレンカは今になって恥ずかしくなる。
「私は何をすれば良いの?」
「見たい夢を思い浮かべて。こんな自分になりたい、こんなことをしたい、そういったものを形にして。具体的であればあるほど良いかな」
「こんな自分になりたい……」
そんなものは、フレンカの中で決まっていた。
自分の足で歩く。走る。みんなと同じように学校に行き、みんなと同じように授業を受け、みんなと同じように帰ってくる。
今の日常を、普通の人と同じように過ごしたい。
「準備はいい?」
「うん」
「じゃあ目をつぶって」
言われたとおりに目をつぶる。おでこに何か温かいものが当てられた。少年の手だろうか。
「君は今から眠りにつく。そこは君の理想の世界になっている。どのくらい眠っているかは人によって違うけど、大体一時間くらいかな」
少しずつ、意識が薄れていくのを感じる。いつものように気がついたら眠っているのとは違う、自分が眠りに落ちていくのが理解できる感覚。
「あなたは……」
「ここにいる」
「そう……」
なんとなく、その言葉に安堵を覚えた。
そして、フレンカの意識は宙へと吸い込まれていった。




