第21話 ネリルの過去③
翌日、少し変化があった。ラクタが体調を崩したのだ。
いつもなら家事をやっていると問答無用でダメ出しをされるのだが、言葉に覇気がなかった。仕事の量自体は変わらないのだが、それだけでも精神的に少し楽だった。
ルインと話しているのを盗み聞きしたところ、なんでも悪い夢を見たらしい。それが原因かどうかはわからないが、その結果がこれならばずっと夢を見ていて欲しい。
しかし、それ以外は特に変化がなく、その日もネリルは牢屋で眠りについた。
それから、村は少しずつ謎の災禍に浸食されていった。
一人、また一人と悪夢を見たという人が増えていき、その人たちは決まって体調を崩していくのだ。
一か月も経った頃には、村にいる全ての人間が大なり小なり悪夢に悩まされる事態となった。ただ一人、ネリルを除いて。
そして三か月が経ったとき、ついに死人が出た。この村の村長だった人だ。最も高齢だったため、身体が不調に耐えられなかったのだろう。
ある人は、祟りだと騒いだ。ある人は、奇病だと訴えた。各々が苦しみに耐えながらなんとか解決策を模索していたが、しかし明確な答えを得ることができない。
村人達の症状が進んでいくほど、ネリルには余裕が生まれていった。作業をおざなりにしていても、咎めるほどの体力がないのだ。迫力だって消えている。
ネリルはラクタの世話をしつつ、最低限の仕事だけを行っていた。家の主だったラクタも、布団に伏している時間がかなり増えた。
ネリルが庭の井戸で水を汲んでいると、背後に人の気配がした。
「……ルインさん」
ルインも悪夢に悩まされているうちの一人である。だが、他の人に比べて症状は軽いらしい。
「どうかしましたか?」
「……お前なんだろ」
「はい?」
ルインは険しい顔をして、ネリルに詰め寄ってくる。
「この惨状はお前のせいなんだろ! なんのつもりだ! 復讐か?! 酷い目に遭わされたから全員殺してやろうってか!!」
ルインが胸ぐらを掴んでくる。しかし、そこには今までのような元気は感じられない。
「落ち着いてください。私なんかにこんなことできるわけないじゃないですか」
「なら病気だろ! 部外者のお前がこの村に病気を持ち込んだんだ!」
「それなら私だって同じようになってないとおかしいじゃないですか」
「うるさい! それなら! それなら──ゴホッゴホッ」
ルインが咳き込んで身を縮める。見かねたネリルはその背中をさすってやった。
「大丈夫ですか? あまり無理しないでください」
「はあ、はあ、うるさい……」
ルインは踵を返し、家の中へと戻っていく。その背中は、ネリルの目には酷く小さく見えた。
それからも、村が快方に向かうことはなかった。
村人達は悪夢を見続け、一人また一人と命を失っていった。
ネリルの仕事は少しずつ遺体の火葬や病人の世話へと変わっていた。
死体を扱い、病人には呪詛を吐かれ、今までとは違った理由でネリルの精神は蝕まれていった。
三十人ほどいた村人も今では一桁にまで減ってしまった。ラクタもほぼ寝たきりだ。
そしてネリルは、一つの決心をした。この村から逃げようと。
農業を行う人がどんどん減り、食料の備蓄も尽きかけてきた。懸念の種だった監視の目も、今はほぼないと言っていい。
追いかけられて捕まる可能性も、この惨状だとほぼゼロだろう。いたぶる人が減ったことで、ネリルの体力もちょっとずつ回復していた。
問題があるとすれば、どの方角にどれだけ逃げればいいかわからないことだ。最悪の場合、森から抜けることができず餓死してしまうかもしれない。
ただそれは、ずっとここにいても同じこと。ならば、自分の足で未来への可能性へと踏み出したかった。
そして、実行日の夜。ネリルは村の出口に立っていた。
「……やっとだ」
この村にきてから、良い思い出なんて一つもなかった。
それどころか、毎日のようにワーストが更新されていったのだから大したものだ。
後ろ髪なんて全く惹かれない。早く楽になりたい。それなのに、あと一歩が踏み出せない。足が地面にくっついて離れてくれない。
「……ははっ」
冷や汗が頬を伝う。心臓が大きく鼓動を鳴らす。
これは呪いだ。
ネリルはそこで、自分が想像以上にこの村に縛り付けられてしまったことに気がついた。
「なんでこんな……」
心も身体もめちゃくちゃにされてしまった。
ついには自分の意思にすら従ってくれなくなってしまったというのか。
怖い。
また罰と称して殴られるのか。繋がれるのか。暗い部屋に閉じ込められるのか。
あらゆる悪夢が、ネリルの全身を駆け巡って自由を奪う。
そんなことをする人間たちはもうこの村にいないというのに。残っている人たちも、そんな力はないはずなのに。
そのとき、背後で足音がした。
息が詰まる。心拍数がどんどん高鳴っていく。怖い怖い。
「逃げるのか?」
「……ルインさんですか」
振り向くと、青い顔をしたルインが立っていた。
少しずつ近づいてこようとするが、その足取りは重い。そして、十メートルほど手前で立ち止まった。
「村をめちゃくちゃにしておいて、お前だけ逃げるのか?」
「私は何もしていませんよ」
話を始めると、不思議と冷静になっていく。滑稽なことを言っているルインを目にすることで、心が冷めているのかもしれない。
「そんなわけないんだ……お前がやったに決まっている」
「……可哀想な人ですね」
「そんな目で僕を見るな!!」
ルインのボルテージが上がっていくほど、ネリルの頭は冴えていく。
さっきまで固まっていたはずの足は、いつの間にか軽くなっていた。
ネリルは、一歩ずつルインへと近づいていく。それに合わせて、ルインは一歩ずつ後ずさりしていく。
「どうしたんですか?」
「……うるさい」
ネリルはさらに一歩を踏み出す。やはりルインは一歩下がった。
「来るな」
「……」
「来るな!!!」
自分はどうしてこんなちっぽけな存在に恐怖していたのだろう。
身体に絡みついたしがらみが、軽くなったような気がした。
ネリルは踵を返し、再び出口に向かって歩き出す。
「僕はお前を許さない!」
背中に呪詛の言葉を受けながら、それでもネリルは歩みを止めない。
「ただで済むと思うなよ!!」
徐々に、足を踏み出す速度が早くなる。
「絶対に復讐してやる!!」
どんどん駆け足になって、村の出口を抜けた。
「僕が死んだら、お前を呪い殺してやるからな!!!」
ついには全速力で、ルインの言葉が聞こえなくなっても走り続けた。
そのままどれだけの時間走っただろうか。誰の声も聞こえない。月明かりさえも木々に遮られる森の中。
ネリルは息を整えようと、大きな木の根元に腰を下ろした。
「はあ、はあ……終わった」
この約一年間の悪夢を終わらせた。
やったのはただ逃げただけ。それでも終わらせた。
ネリルは幹に背中を預け、両膝に顔を埋める。
「もう……自由だよね……お母さん……お父さん……」
しばらくの間、暗闇にネリルの泣き声が響いた。
△
「……その後気が遠くなるほど歩き続けたあたしは、なんとか森を抜けて倒れていたところをおばあちゃんたちに拾われて幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
「……」
ミルカとフレンカは、ネリルが話し終わってもしばらくの間なにも言葉を発することができなかった。
どんな過去があるのかあれこれ想像は巡らせていたが、結果は大ハズレ。予想を遥か超えた凄惨なものだった。
フレンカは立ち上がり、無言でネリルを抱きしめる。
「フレンカさん? どうしたんですか?」
「……すごく辛かったよね」
「……そうですね。辛かったです」
フレンカのネリルを抱く腕に、思わず力がこもる。
「苦しかったよね。誰かに助けて欲しかったよね」
フレンカの声が、徐々に震えていく。同時に、その瞳には涙が浮かび始めていた。
「もう……なんでフレンカさんが泣いてるんですか」
「側にいてあげられなくてごめんねぇ。私がいたらなんとしてでも助けてあげたのになぁ」
決壊するのは簡単だった。枷を失ったその感情は、涙となってフレンカの顔をぐしゃぐしゃにする。けれどフレンカはそれを止めようとはせず、ただただネリルを全身で包み込んでいた。
「やめてくださいよ……そんな風にされたら……」
フレンカの想いに共鳴したのか、ネリルの声にも嗚咽が混ざり始める。
「もう大丈夫だからね。私が一緒にいてあげるからね」
「フレンカさん…………」
ネリルの身体に力が入るのを感じる。我慢しようとしているのだろうか。それでも、一度始まった心の震えは治まってはくれない。
しまいには涙が頬を濡らし、その部屋には一人の少女の控えめな泣き声と、それを抱きしめる少女の大きな嗚咽がこだまし続けた。
その状態で一体何分が経っただろうか。
二人の感情がやっと落ち着き、フレンカは腕を解いた。
そしてネリルは涙を拭って口を開いた。
「さあミルカさん、フレンカさん。お話ししたとおり、あたしは過去に人を殺したことがある殺人鬼です。それでも今まで通り、あたしと接することができますか?」
ネリルの手が震えていた。ミルカたちの目が変わるのが怖いのだろう。
「当たり前だよ! そもそも悪いのはその村の人たちだし、ネリルちゃんだって殺したくて殺したんじゃないもん!」
「……そうですね」
それでも後ろめたさがあるのか、ネリルは目をそらす。
なんと声をかけるのが良いか、ミルカは話を聞いてからずっと考えていた。
フレンカのような言葉が一般的だろう。実際その通りだし、ミルカ自身これでネリルとの関係を悪化させるようなつもりは毛頭無い。
だが、それ以上にミルカが感じたのは親近感だったのだ。
「……同じだな」
「え?」
「ネリル、お前は俺と同じだよ」
「……同じ?」
理解できないとでもいうように、ネリルは首をかしげる。
「ああ、俺も過去に人を殺したことがある。この能力でな」
ミルカは自身の過去を思い出す。思い出したくもないクソみたいな過去を。
この能力を得たとき、ミルカは最初嬉しかった。
だってそうだろう。多くの人を幸せにできると思った。そう信じたかった。
でも現実はそう甘くなかった。
「ミルカさんも……ですか……?」
「ああ。だから俺たちは仲間だ。人殺し同士、仲良くやっていこう」
「仲間……」
ネリルは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑った。
「よし、じゃあ帰るか! 何か美味いものでも食おう」
「あら、もう帰っちゃうの? ゆっくりしていけばいいのに」
「いえ、クラさんもありがとうございました。ネリルを見つけてくれて」
「いいのよそれくらい。お礼ももらったし」
クラはペロリと舌を覗かせた。
「お礼?」
ネリルは首をかしげる。
「細かいことはいいじゃない。さ、玄関まで送るわ」
みんなは立ち上がり、リビングを後にする。
「同じ……仲間……」
フレンカがそう小さく呟いた声は、しかし誰にも届くことなく空間へと吸い込まれて消えた。




