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第20話 ネリルの過去②

「いたっ!」


 ドタンという大きな音と共に背後から聞こえたその声に、ネリルの意識は一瞬で引っ張られた。

 振り返ると、そこには膝を抱えてうずくまるルインの姿があった。


「大丈夫ですかっ!?」


 慌てて駆け寄ると、ルインの右膝から血が出ているのが見えた。


「大変! すぐにラクタさんを呼んできます!」


 そう言ってその場を離れようとしたネリルの手首をルインが掴む。


「待って」

「でも……血が……」

「転んで擦っただけだから大丈夫。自分でどうにかなるよ。母さんに聞かれたら上手いこと言っておくから。変に心配かけたくないし」


 神妙な面持ちで嘆願してくるルイン。その様を見ると、ネリルは何も言えなくなってしまった。


「わかりました……」

「ありがとう。ちょっと僕は下に行って洗ってくるから、残りはお願いしていい? 中途半端になっちゃってごめんね」

「そんな……こちらこそ手伝っていただきありがとうございました」


 ネリルは頭を下げ、屋根裏を去るルインを見送った。

 ふとルインがいた場所を見ると、床にわずかに血がついている。


「痛そう……」


 持っていたぞうきんで綺麗に拭き取る。見渡せば、ルインのおかげでほとんど掃除は終わっていた。あとは窓まわりのような細かな部分だけだ。


「助かったなあ。これなら問題なく終わりそう」


 ぞうきんを絞りながらネリルの脳裏では、赤く色づいたルインの膝のイメージが消えてくれなかった。




 ネリル、ラクタ、ルインの三人は食卓を囲んでいた。

 ネリルの目の前にはご飯と味噌汁のみ。他の二人と比べると明らかに質素だった。


「うちには三人を同等に養う余裕はありません。それで我慢しなさい」

「はい……」


 家においてもらっている身としては、そのことに文句など言えるはずもなかった。

 本来ならまともに生活することすら危うかったはずなのだ。


「明日からは家のことを色々やってもらいます。家事は?」

「ある程度なら一通りできます」

「よろしい。あとは畑仕事ですね。これは明日教えます。一度しか説明しないからちゃんと覚えてください」

「はい」


 聞いただけでも大変なことになりそうだが、やることがなくて嫌なことを思い出すくらいなら多忙の中に身を置いた方が自分のためだろう。

 ネリルはこれからの人生を想う。自分は一体どうなるのだろう。この家で馬車馬のように働かされながら一生を終えるのだろうか。

 それでも、今すぐ終わりになるよりはましなのかもしれない。生きていれば見えてくるものもあるかもしれない。


「ごちそうさま」


 ルインが立ち上がった。


「もういいの?」

「うん」


 ルインの分のご飯やおかずがちょっと残っている。ネリルはこの日がこの家での初めての食卓なので、普段がどうなのかはわからない。


「ちょっと待ってルイン、その膝どうしたの」


 時が止まった。空気が凍るとでも言うのだろうか。その瞬間をハッキリと知覚した。

 ゆっくりとルインの膝に目をやると、包帯でぐるぐる巻きにされた右膝が目に入る。


「いや、なんでもないよ」

「なんでもないことないでしょう! そんなに包帯巻いて!」


 ラクタがルインに詰め寄る。息子が怪我をしていたらそれを心配するのは当然かもしれないが、それでも雰囲気が怖い。

 だいたいルインもルインだ。血が出ていたとはいえ、ちょっと擦りむいていただけだったではないか。消毒して少し大きめの絆創膏を張っておく程度で何も問題なかったはずだ。それをあんなに大げさに包帯なんか巻いて、そりゃ心配されてしまうだろう。


「これは……ちょっと転んじゃって」

「どこで?」

「それは……」


 ルインは言い淀む。目線がちらりとネリルの方へと向いた。


「言いなさい」


 その言葉に観念したのか、ルインは口を開いた。


「ネリルの掃除を手伝ってたんだよ。そのときに」


 これは少し怒られてしまうかもしれない。上手くごまかしてくれるとルインは言っていたが、こんな空気で問い詰められてしまっては本当のことを言うしかないだろう。

 直接的に私が怪我を負わせたわけではないとはいえ、疎まれているネリルは責められても仕方がない。


「ネリル、あなた自分のことは自分でやりなさいって言ったわよね?」


 ラクタがにらみつけてくる。ここは素直に謝ろう。


「すみません。私が──」

「ネリルを責めないであげて」


 ネリルの言葉を遮って、ルインが声をあげた。

 こんな状況でも庇おうとしてくれるなんて、やはり優しい人なのかもしれない。不信感を抱いていたことが申し訳なくなる。

だが、これ以上話を拗らせるとどんどんラクタが激高してしまう。だから、早く謝ってこの場を収めたい。

 しかし、続くルインの言葉にネリルは違和感を抱いた。


「僕が断り切れなかったのが悪いんだから」


 あれ、断り切れないというのはちょっと話がおかしい。

 あのときはルインの方から手伝いを申し出てきて、最初ネリルが断るも押してくるものだからお願いすることにしたという流れだったはずだ。そこにルインが断る断らないの話は出てこない。

 ルインは言葉を続けた。


「お母さんがいないところでネリルに手伝って欲しいって言われたんだ。断ったんだけどやらないと虐めるって言うから仕方なく……。それで拭き掃除をしているときに後ろから押されて怪我しちゃった」


 驚いてルインの顔を見る。彼は楽しそうに笑っていた。楽しそうに笑っているのに、その裏にどす黒い悪意を見たような気がした。

 ネリルは自分がはめられたのだと理解した。


「ちがっ──!」

「ネリル!!」


 それは怒号と呼ぶに相応しい叫びだった。大きな敵意が自分に向いているのを感じる。全身が針で刺されているようだ。


「ち、違うんです。聞いてください」

「あなたにこれ以上聞くことなんてありません」


 コツ、コツ、とゆっくりラクタが迫ってくる。一歩近づくごとに圧迫感が増していく。


「お願いです! ルインさん、なんでこんな──いたっ」


 言い終わるより先に、ラクタに胸ぐらを捕まれてしまった。


「こっちに来なさい。お仕置きです」


 そのままラクタに引きずられる。抵抗しようとするが、大人の力には到底叶わなかった。


「ラクタさん聞いてください! ルインさんも説明してください! なんであんな嘘をつくんですか!」

「ルインが嘘をついてるっていうんですか?」

「いやちが……わないんですが、改めてちゃんと説明して欲しいんです! 誤解があります! ルインさん!」


 そう言っている間にもネリルはどんどん廊下を連れて行かれる。背後に目をやったとき、視界に入ったルインはずっと笑っていた。

 なんでこの状況で笑っていられるのか。どうしてあんな嘘をつくのか。自分はこれからどうなるのか。様々な思いが折り重なって激しい恐怖がネリルの胸中には吹き荒れていた。

 廊下の端にあるドアの前でラクタは立ち止まる。


「あなたには一晩ここに入ってもらいます」

「……ここは?」

「来ればわかります」


 ドアを開けると、そこには下へと続く階段があった。ラクタは壁に掛けられた懐中電灯を手に取って点けたが、終着点は見えない。

 ラクタに連れられて、ネリルは階段を降りていく。

 下までたどり着くと、そこには想像もしていなかった空間があった。


「これは……」

「牢屋です。この村では悪事を働いたものをここに閉じ込めるのです」


 それを聞いて、ネリルは身が震え上がる。これから告げられることを否が応でも想起させられてしまったからだ。


「まさか、ラクタさん……」

「あなたには一晩ここで反省してもらいます」


 必死に抵抗するネリルだったが、やはり体格の差は大きかった。あっさりと牢屋の中に放り込まれ、鍵をかけられてしまう。


「ラクタさん出してください! 誤解なんです! 出してください!」

「誤解だろうと何だろうと今日はここです。明日の朝まで大人しくしていなさい」


 懐中電灯の明かりが遠のいていく。ドアの閉まる音と共に、地下室は闇に包まれた。


「なんでこんなことに……」


 まさかこんな部屋が普通の民家に存在するなんて。

 それとも、この村ではこれが普通なのだろうか。だとしたら、とんでもない場所に引き取られてしまったのかもしれない。冷や汗が背筋を伝った。

 少しずつ暗闇に目が慣れてくる。周りを見回してみても、特別な何かがあるわけじゃない。

 石造りの空間に鉄格子がはめ込まれており、牢屋を成しているようだ。

 簡易ベッドのようなものと、おそらくトイレであろう穴が地面に開いていた。

 石の冷たさが肌に染みる。

 ネリルは先ほどの居間でのやりとりを思い返す。

 ルインの怪我がラクタに見つかる、ここまでは良かった。その結果ネリルが怒られるのは構わない。少なくとも手伝っている最中に怪我をしたのは事実なのだから。

 問題はそのあとだ。ルインは、ネリルが無理矢理手伝わせ、怪我まで負わせたかのように報告していた。それはおかしい。そんなことをしたら、より怒られるのは目に見えている。


『母さんに聞かれたら上手いこといっておくから』

「これが上手いことだっていうの?」


 手伝ってくれると言ってくれたときのルインの笑顔が頭に浮かぶ。しかしその表情は次の瞬間、最初に出会ったときのねっとりとした笑顔に上書きされた。

 最初に抱いた感覚がやはり正しかったのだ。これはネリルをハメるための罠だった。

 そうなると、今後も同じようなことが何度も起こるだろう。その度に、この地下室へと幽閉される。


「お母さん……お父さん……」


 ネリルは隅にうずくまり両膝を抱えた。

 こんなことなら、二人と一緒に死ねば良かった。そうすれば、ずっと側にいられたのに。そんな想いが胸の中でどんどん膨らんでいく。


「誰か……助けて……」


 新たな住処での最初の就寝は、見つけた屋根裏という居場所ではなく暗く深い地下室になった。吹くはずのない隙間風が吹いたのだろうか。ネリルの心と身体は一気に冷え込んでいった。




 コツコツと階段を鳴らす音が近づいてくる。

 その音の数が想定されるものより多いことに気づき、ネリルの意識は覚醒した。

 少しでも機嫌を損ねないように、しかし不自然になりすぎないようにとベッドの縁に腰をかけた状態で来客を迎えた。


「ネリル、起きてるわね」

「おはようございます、ラクタさん。そちらの方々は……?」


 ラクタの後ろに続いた複数の人たちに目を向ける。男女あわせて四人、歳はいずれも六十を超えているように見えた。


「この村の村長さんと、お世話になっている方々です。挨拶しなさい」


 複数の視線がネリルの肌を刺す。ねっとりとした嫌な視線だ。初めてルインに会ったとき向けられたものに近い。いや、それ以上だろうか。


「……はじめまして。ネリルと申します。これからこの村でお世話になります」

「おうおう、あんまり固くなりなさんな。お前さんはもうこの村の人間なんじゃから」

「はい……ありがとうございます」


 この人が村長だろうか。一見一番偉いように見えるが、確かなところはわからない。


「これから村の方々が、あなたに色々とお願いをすることがあるかもしれません。それを断ってはいけませんよ? 村にお世話になるのですから、お返しをするのは当たり前です」

「お願いというのは……」


 ラクタの表情を伺う。しかし、その瞳には温かさなど微塵も感じられない。


「そんなものはこれからわかることです」


 これから自分の身に起こることを想像し、ネリルの身体は震える。

 今が最悪だと思っていた。両親が死に、どこにあるのかもわからない村に連れてこられ、ルインの策略にはめられこんな牢屋にぶち込まれ、この瞬間がどん底だと思っていた。

 だが、さっきまで見えていたはずの底が見えなくなっていた。深い闇が手招きしているように感じた。

 ネリルの瞳から溢れた一筋の涙が、牢屋の床を鳴らして消えた。




 それからの三ヶ月は怒濤だった。

 ネリルはラクタ家だけでなく、村全体の奴隷のような存在として扱われた。

 掃除洗濯料理などの家事はもちろん、畑仕事やその他力仕事、挙げ句の果てには入浴の手伝いなど片っ端からこき使われた。

 ちょっとでも気にくわないことがあると殴る蹴るは当たり前。身体だってたくさん触られた。一線は越えられていないのが奇跡と思えるほどだ。

 そして今は、牢屋の床に転がってぼうっと天井を眺めている。

 満足にご飯も与えられない状況で、ネリルは自身の身体が痩せ細っていくのを強く感じていた。

 この生活が始まって最初に抱いた感情は苦しみだった。あまりの重労働にただただ辛い、苦しいという思いが蓄積されていった。

 その次は無だった。何を考えたって無駄なこと。ひたすら感情を無にして目の前の作業こなす機械のようになっていた。

 それすらも超えた今、残っているのは憎しみだった。


「憎い……」


 どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。両親が死んだとき、この村に連れてこられたときに抱えた自問自答を何度も繰り返す。


「憎い……」


 そもそもおかしい。こんな仕打ちが許されるはずがない。明らかに犯罪だ。それがまかり通っているのは、この村が外界から隔絶された閉鎖空間だからだ。


「憎い……」


 どうしたらここからおさらばできるだろう。今思えば、さっさと逃げ出しておけば良かった。

 最初はここまで悪意にさらされるとは思っていなかった。なんだかんだ最低限の生活は送れるのではないかと考えていた。

 でも甘かった。心から逃げ出したい今となっては、それが難しくなっている。日中は当たり前のように監視がつけられているし、夜は当たり前のように牢屋に入れられる。人の目をかいくぐれる瞬間というのが全くと言っていいほどない。

 死のうとしたことも何度かある。舌を噛み切ろうだとか、農具で首を切ろうだとか、いろいろと試そうとした。

 だけど、最後の一歩が踏み出せない。この期に及んで、死ぬことを怖がっている。

 自分で自分を傷つけるというのは、想像以上に勇気がいることらしい。ネリルはその勇気をまだ持てていない。


「……そうだ」


 ドス黒い感情が形となり、一つの結論を導き出す。

 しかしネリルは、それを即座に消し去ろうと頭を振る。


「何考えてるんだろ私」


 罪悪感に駆られたネリルは、さっさと眠ってしまおうとベッドに横たわり目をつむる。

 だがそれでも、決して至ってはいけなかったはずのその答えは、ネリルの意に反して身体にまとわりついて消えてはくれない。

 なんてことを考えてしまったのだろう。

 自分以外の人がみんな死んでしまえばいいだなんて。

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