第19話 ネリルの過去①
「パパ! おかえり!」
玄関へと駆けた白いワンピースの少女は、現れた男性の腰へと抱きついた。
「おっとっと。ただいま、ネリル」
準備をしていなかった男性はよろけてしまいそうになるが、なんとか踏ん張ってネリルを抱き留める。
「またその服着てるのか?」
「うん! パパとママからのプレゼントだもん!」
ネリルはくるっと回って見せびらかす。
「それより! 丁度ご飯ができたところなの! 早く早く!」
「わかったわかった。危ないから落ち着きなさい」
ネリルは父親の腕を引っ張ってリビングへと連れて行く。食卓には丁度夕飯が並べられているところだった。
「あなた、おかえりなさい」
「ただいま、ナタリア」
ナタリアと呼ばれたその女性は、キッチンから顔を出して笑顔で男性を迎えた。
「ご飯はできてるけどどうする? 先にお風呂でも構わないけど」
「いや、先に食べるよ。そうしないとネリルに噛みつかれそうだからね」
男性はすぐ横にいるネリルに目をやる。ネリルは不服だったのか、少し頬を膨らませて不満を露わにしていた。
「むーそんなことしないよ!」
「ははは、そうだな。パパは着替えてくるからネリルは先に座ってなさい」
「はーい!」
ネリルは言われたとおり食卓につく。並べられる料理に目を輝かせながら、家族が揃うのを待っていた。
両親が事故にあったと先生から告げられたのは、それから一週間後のことだった。
授業中に教頭が血相を変えた顔でネリルを呼びに来たのだ。
最初は、先生の言っている言葉が理解できなかった。耳に流れ込んでくる文字列は、ネリルの脳みそで意味を持つ言葉に変換されず、反対側からこぼれ落ちていった。
それでも連れられて病院に行き、ベッドの上で顔を隠された両親を見たときには状況を理解した。理解したつもりだった。
だけど身体は追いついていなかったのだろう。その後のやり取りはあまり覚えていない。
いつの間にか、名前も顔も知らない遠い親戚の家に引き取られることになっていた。
ネリルの知る限り、親類と呼べる人間はいなかった。
祖父母はみな既に鬼籍に入っていたし、両親に兄妹のような存在がいるという話も聞いたことがなかった。
だからその人がどういう筋の人なのかは知らなかったし、今でもわかっていない。
ただ一つわかっていたのは、ネリルは一人になってしまったのだということだけだった。
△
その村は、ネリルが想像できる限りの田舎の五倍は田舎と言っていいところだった。
森の畦道を何時間走ったかわからない。車が止まって到着したのかと思ったら、そこからさらに長時間歩いた。
そして、開けた空間が現れたと思ったらそこには家が数軒建っていた。その中の一つが、ネリルを引き取った人の家だった。
「ここが今日からあなたの家よ。迷惑かけないでね」
最初に対面したときから、微塵も歓迎されていないのがありありと伝わってきた。
おそらく他に引き取り手がいなくて、唯一残っていたこの人のところに貧乏くじが回ってきたのだろう。
それでもネリルはこの人に頼るしか生きる道が無かった。生きる道を知らなかった。
「はやく来なさい」
「はい、ラクタさん」
玄関から家に入る。
今まで生活していたマンションとは雰囲気が全く違った。物心がつくかつかないかのときに行った祖母の家が少し近いだろうか。それでも、比較するとそれより圧倒的に古くさい。
「お母さん、その子は?」
居間に到達すると、男の子が顔を出した。
「この前話したでしょ。今日から一緒に暮らすネリルよ」
「ふーん……」
その男の子は、まじまじとネリルの全身をなめ回すように眺めている。嫌な感覚だったが、ネリルはその場を動くことはできない。あくまでお世話になる立場なのだ。
男の子がゆっくりとネリルの方へと歩いてくる。そして、目の前で止まった。
「僕はルイン。よろしくね」
スッと右手が差し出される。ネリルはそれをおずおずと握った。
「ネリルです。よろしくお願いします」
ルインは笑っていた。一見それは優しい笑顔だったが、その瞳の奥に続く深さにどこか恐怖を感じてしまう。
「さて、次はあなたの部屋に案内するわ。荷物もこっちに持ってきなさい」
「はい」
今を出る際も、ルインの視線はずっと刺さっていた。
ラクタに連れられ、二階への階段を上がる。てっきり二階の一角に案内されるのかと思っていたが、そうではなかった。
「ここから上がりなさい」
示されたのは、さらに上へと向かうはしごだった。その先は天井へと繋がっている。
「……ここですか?」
「そう、屋根裏部屋ね。悪いけど、あなたに貸せる部屋はここしかないの」
ネリルははしごを登る。天井のその部分は確かに扉になっている。
左手ははしごを掴んだまま、右手を扉に添えて力を込めてみる。しかし、思いのほか抵抗が強く開いてはくれない。
今度は少し思い切り押してみる。すると、ギギギと軋む音を立てながら扉が持ち上がった。
「コホッコホッ」
開いた隙間から埃が飛び出してネリルの顔にかかる。危うく手を離してしまいそうになるが、すんでの所でなんとか耐えた。
さらに力を込めて扉を最後まで開き、屋根裏部屋へと顔を覗かせる。
「ここが……」
最初に抱いた感想は「何も無いな」だった。
床一面に均等に埃がかぶっており、そういう色なのかと錯覚してしまうほどだ。
物が置いてあった形跡も見受けられない。ネリルのために移動したわけでもないのだろう。最初からこの空間は何にも使われていなかった。必要とされなかった。
その様がなんとなく今の自分に重なり、身を置く場所としてこれほど適した場所も無いのではないかと考える。
「とりあえず、綺麗にしてあげないとね」
ネリルは階下のラクタに声をかける。
「ラクタさん……バケツとぞうきんを貸して頂けませんか?」
「いいわ。ついてきて」
フレンカはラクタに連れられて物置へと向かう。
天井裏というあの空間に自分の場所を見つけられたような気がしてほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
「ふぅ……一段落かな」
あれからおよそ二時間が経っただろうか。屋根裏部屋の掃除は順調に進んでいた。
全く使われていなかった空間の掃除は大変ではあったが、物がほぼ存在しなかったことは幸運だった。大掃除ではあるものの作業自体は単純だった。。
そのとき、コンコンと戸を叩くような音が聞こえた気がした。
「ん?」
気のせいかと思いそちらから意識を離そうとしたが、再び扉が叩かれギギッと音を立ててゆっくりと開いた。
「……ルインさん?」
床から顔を覗かせたのは、さっき居間で顔を合わせたルインだった。
「どうかしましたか?」
「何か手伝えることはないかなって」
そう言ってニコニコ笑うルイン。
「でも、そんなことしてもらうわけには……」
「いいんだよ! 僕たちは家族になるんだから!」
先ほどのように、それは屈託のない笑顔だった。ネリルはルインのことがよくわからなかった。最初はどこか嫌な感じがあると思ったが、今は凄く良い人みたい見える。
「それじゃあ……残ってる拭き掃除を一緒にお願いしてもいいですか?」
「もちろん!」
初対面のときにルインに抱いた不信感は、どんどん薄れていった。
「じゃあやっちゃおっか」
「はい」
これが地獄の始まりになるなんて、このときのネリルは夢にも思っていなかった。




