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第12話 温泉

 少し肌寒いある日の朝。

 ミルカはフレンカとリビングでゆっくりとコーヒーを飲んでいた。


「なんか今日寒くない?」


 ホットコーヒーを両手に包んで、肩をすくめながらフレンカは言った。


「もう夏も終わりが近いのかもな」


 テレビでは星座占いが流れている。


「あ、私十一位だ」

「俺は最下位だな」

「私たち運勢悪すぎない? 今日は外に出ない方がいいかもよ」

「占いなんて良い結果が出たときだけ信じてればいいんだよ。それに、外に連れ出そうとするのはフレンカの方だろ。今日もどこかいくのか?」

「良いこと言うねえ。うん、今日は温泉でも行こうかなって。ミルカには悪いけどね」

「なんでだ?」

「だって、温泉に入っている間はミルカがひとりぼっちになっちゃうでしょ?」

「俺は一人でゆっくり浸かっとくから大丈夫」

「覗かないでよ?」

「まだ逮捕はされたくないな」


 そのとき、ガチャリとドアの開く音がしてネリルが部屋から出てきた。


「あ、おはようネリルちゃん」

「おはようございます」

 

 一見いつもと変わらない朝のワンシーン。だが、心なしかネリルがボーッとしているようにも見えた。


「おはようネリル、どうかしたか?」

「おはようございます。どうかとは?」

「いや、なにもないならいいんだ。顔洗ってきな。朝ご飯できてるぞ」

「はい……」


 寝ぼけているのか、おぼつかない足取りで洗面所へとネリルは向かっていった。


「珍しいね。ネリルちゃんも朝あんな感じになるんだね」

「ずっとシャキッとした状態で起きてきたからな。少しだけ心を開いてくれたんじゃないか?」

「そうだったら嬉しいね」


 その後戻ってきたネリルは服装も含めてすっかりいつもと変わらない様子で、その違和感はすぐにどこかに消えてしまった。

 三人で朝食を食べ終えると、ミルカはフレンカにわざとらしく問いかける。


「今日は何か考えているのか?」

「よくぞ聞いてくれました!」


 フレンカは勢いよく立ち上がり、腰に手を当てる。


「今日はね、温泉に行こうと思います」

「温泉か。悪くないな」

「裸の付き合いってやつで交流を深めちゃいます。あ、ミルカ、今回は覗き禁止ね」

「今回はってなんだよ。俺が普段から覗いているみたいじゃないか。そんなこと言ったらネリルに誤解され……ああほらもう視線に少し軽蔑が含まれ始めた」

「い、いえ。趣味は人それぞれなのであたしが口をだすことではないかと……」

「気を遣われちゃった。年下に気を遣われちゃったよ。あれ、心なしか距離が遠くなってない? ほらフレンカ、ちゃんと誤解を解いてくれ」

「大丈夫ネリルちゃん! ミルカが覗くのは私だけだから!」

「解けてないんだよなそれ。フレンカだろうと他の誰だろうと覗いたことなんてないし、そもそもフレンカと温泉に行ったこともねえ!」


 やいのやいのと言い合いながらも話がまとまり、三人は温泉に行く準備をした。

 ネリルが来ているのはいつもと同じ白のワンピース。フレンカに買ってもらった服を着ている姿をミルカはまだ見ていない。


「よし、それじゃあ行くか」

「おー!」


 フレンカの元気な声が響く。三人はミルカの車に乗り出発した。



「温泉だー!」


 フレンカは引き戸を開けるなり駆け出し、湯船に飛び込もうとして──


「こら! フレンカさん!」

「はい」


 跳躍する直前でピタッと静止した。

 遅れてネリルがスタスタとゆっくり歩いて入ってくる。


「誰もいないからって、やっちゃダメなことはダメです。気をつけてください」

「はい、すみません」


 三人がやってきたのは田舎過ぎて秘境と言っても差し支えないような温泉だった。

 人が少ない方がゆっくりで来ていいだろうというミルカの案からこの場所に決めた。

 そしたらフレンカたち以外客のいない貸し切り状態だった。

 そんな背景もありテンションが上がったフレンカは、かねてからやってみたかった温泉に飛び込むという所業をやろうとしてネリルに怒られてしまったのだった。次は一人で来てやろう。


「全く。フレンカさんはそういう常識がある人だと思っていたのに……」

「そうだよ! お姉さんは常識人なのです!j

「常識人は自分のことを常識人だとはいいません」

「そうですよね……」


 がっくりとうなだれるフレンカ。だが、こういうやりとりも嬉しく思う。

 ネリルと生活をし始めて一週間が経った。

 最初の数日はほとんどまともに口も聞いてくれないような状態だった。

 話しかけても全然反応が返ってこず、それでも熱心にコミュニケーションを取ろうとした。

 それがむしろネリルの心証を悪くしているのではないだろうかと心配になることもあった。

 だが、結果的に今はある程度普通にこうやって話してくれるようにはなった。ミルカに対してはまだ恐る恐るといった感じだが。

 心を開ききってくれるにはほど遠いが、それでも十分な進歩だろう。


「は~あったまる~」


 今度は静かに温泉に浸かる。

 一人暮らしをしているとなかなか温泉に行く機会なんてないが、久しぶりに入ると気持ちよいものだ。


「ネリルちゃんは、温泉来たことあるの?」

「……昔、小さい頃にありました。でも最近はなかったので久しぶりです」

「私も同じ。いや~いいものだね~」

「そうですね。温まります」

「じゃあさ~」


 フレンカは離れたところに座るネリルの元へとにじりよる。


「そんな離れたところにいないで、こっちにおいでよ~」


 そして、ネリルにガバッと襲いかかった。


「きゃっ、ちょっとフレンカさん?!」

「こちょこちょこちょ~」

「ちょっとやめ、ははは!」

「もっとお姉さんと楽しもうよ~」

「わかりました! わかりましたからやめて! ははははっ!」

「よーし、それならやめてしんぜよう」

「はぁはぁ……」


 肩で息をしてぐったりするネリル。一方でフレンカはつやつやだった。


「大丈夫?」

「大丈夫じゃないですよ……本当に……」

「いやーごめんね? ネリルちゃんが遠かったから寂しくてさ」

「わかりましたから。ちゃんと近くに座りますからもうしないでくださいね」

「……ネリルちゃんは脇の下が弱い、と」

「何を記憶しようとしているんですか! またやる気満々じゃないですか!」

「やらないって。そんなに怖い顔しないで」


 フレンカは警戒してまた離れようとするネリルを落ち着ける。


「……とりあえず身体洗おっか」

「はい」


 湯船からあがるフレンカにネリルはしぶしぶついてくる。

 ありがたいことに、他の客が入ってくる気配はない。


「はい、ネリルちゃん座って? 洗ってあげる」


 その言葉に、ネリルはジト目でフレンカを見る。


「何もしないって。今度は本当だから」


 優しい表情のフレンカを見て納得したのか、ネリルはフレンカの前の椅子に座った。

 この状況で大人しく座ってくれるところも、気を許し始めてくれていることの証拠だろう。

 ボディソープをタオルにつけて泡立てる。そしてフレンカはネリルの身体を洗い始めた。

 ネリルの小さな背中、そこにはいくつもの小さな傷の跡が残っている。

 これはネリルと暮らし初めてすぐにわかったことだが、ネリルは体中にこういった傷や痣の跡がある。

 明らかに他の誰かからつけられたもの。

 だが、あのおじいさんとおばあさんがこれをやっているとは考えにくい。

 これは二人の態度というより、明らかにネリル自身が二人に心を許している様子が見られたというのが大きい。

 傷の跡も、直近でつけられたものには見えない。

 

 そう考えると、ネリルがあの二人と暮らし始めたのは意外と最近なのかもしれない。

 例えば両親から虐待を受けていて、それが発覚して祖父母に引き取られた。あくまでも想像でしかないが。

 実際のところはネリル本人の口から聞くしかない。それに、この傷とネリルの悪夢はまだ結びつかない。

 傷が少しでも痛くないように、優しく身体を洗って流した。


「はい、終わり! 私も洗うから先にお風呂入っておいで」

「あたしも背中流します」

「え、ほんと? じゃあお願いしちゃおうかな」

「任せてください」


 フレンカはネリルに背中を預けた。

 細い腕で一生懸命擦られる自分の背中。


「力加減はどうですか?」

「うん、丁度良いよ。ありがとう」


 正直に言えば、少し物足りなかった。だが、それを言うことはない。

 さらに数分、ネリルはフレンカの背中や腕を洗ってくれた。


「そういえば、フレンカさんとミルカさんは知り合ってどれくらいなんですか?」


 唐突にネリルが質問してくる。


「ミルカと? こっちに来てからだとまだ一年くらいかな」

「こっちに来てから?」

「うん。実は、小さいときに一回会ってるんだよね。ミルカは絶対覚えてないけど」


 会ったのはたった一回だけ。だけどフレンカにとっては運命の一回だった。

 その出会いによってフレンカは救われ、文字通り運命が百八十度変わったのだから。


「へえ、運命みたいですね」

「でしょ? 私もそう思ってる」

「案外ミルカさんも覚えているかもしれませんよ?」

「ないない。あれから十年以上経ってるし、私あの頃の面影ゼロだもん」


 正直、覚えていてくれたら嬉しいという気持ちもある。

 だけど、それをこちらから明かすことはない。

 今こうして一緒に生活できているだけでも、フレンカにとっては出来すぎているのだ。


「はい、終わりです」

「ありがとう。流しちゃうから、お風呂入ってきて」

「はい」


 ゆっくりとした足取りで、フレンカから離れていくネリル。そのとき、足をひっかけて転びそうになる。


「大丈夫?」

「はい、大丈夫です」


 悪夢のせいで身体が弱っているのだ。ちょっとしたことで怪我をしかねない。もうちょっとちゃんと見ててあげないといけない。

 どうやらネリルは露天風呂に向かうらしい。それを見届けてフレンカは残りを洗い始めた。



 フレンカが身体を洗い終えて露天風呂へと向かうと、ネリルが隅で湯船に足だけつけて縁に座っているのが見えた。

 背後から声をかける。


「熱かった?」


 その声を聞いて、ネリルは振り返る。


「いえ、これも気持ちいいなって」

「わかる。足が温かくて上半身が涼しいのってなんか気持ちいいよね」


 とはいえフレンカは身体を洗ったばかりで肌寒かったので、ネリルの隣で肩までお湯に浸かった。


「はあ~露天風呂最高~」


 冷えていた肌に熱めの湯がよく染みる。

 それを見ていたネリルも、すぐ横に入ってきた。


「やった。隣に来てくれた」

「またくすぐられたら死んじゃいます。まだ死にたくないので」

「じゃあ、なんで自分から悪夢を見ようとするの?」


 ピシリと、空気が固まる音が聞こえた気がした。ネリルの動きも同時に止まる。


「……言葉の綾です。あたしは死にたいんです」

「それは嘘だよ。まだ一緒に暮らし始めて一週間しか経ってないけど、ネリルちゃんがそうじゃないのくらいわかる」

「一週間くらいじゃ、他人のことなんて何もわかりませんよ」

「そうだね。私もそう思うよ。だから教えて? 何か理由があるんでしょ?」

「それは……言っても仕方のないことです」


「そう思っていても、話してみたら意外と道が開ける、そんなことだってあるものだよ」

「そうかもしれませんね」

「じゃあ……」

「でも話しません。これは決めていることですから。フレンカさんとミルカさんには感謝しています。だからこそ、これ以上負担をかけられません」

「負担なんて……おじいさんとおばあさんだって、ネリルちゃんの悪夢が治るのを心から願っているはずだよ」

「だからですよ。だから話すわけにはいかないんです」


 ザバッと、ネリルは立ち上がる。


「先に上がりますね」


 そう言って、ネリルは露天風呂を出て行った。

 だだっ広い空間にフレンカがだけが取り残される。


「ダメか……」


 フレンカは頭まで湯船に沈む。

 ぶくぶくと、泡が鳴る音だけが誰もいない露天に響いた。

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