05 間に合って
「へー!! ディミトリ・リズウィンと話せたの? 良かったね」
朝、とても眠そうな顔をして登校したヒューに、浮かれていた私が、昨日の放課後ディミトリと話したことを伝えれば、驚いた顔で眼鏡の奥の目を輝かせた。
「そうなの。そうなのよ! すごくない? ヒュー! ……私。彼を前にしたら何も話せなくなってしまうんじゃないかと予想していたんだけど、意外や意外。ペラペラと、必要のないことまでなんでも話せてしまったわ……はああ……素敵だった。やっぱりディミトリは、最高の推しだわ……」
「おし?」
ヒューは完全にディミトリに夢中な私の話を聞いて、不思議そうに首を傾げた。
あ。そうそう。そうだった。この世界に『推し』という概念は存在しない。
多分だけど、結構時期が古めのWeb小説だったし、シリアス展開の硬派っぽい書き味の先生だったから、そういう新しめの言葉は使いたくなかったのかもしれない。
「あ。ごめんごめん。好きな人の言い間違い……なんか、今日は馬術の授業で、湖の方まで遠乗りに行くらしくて……?」
その時に私の頭には、とある光景がフラッシュバックした。ああ。なんで、昨日の時点で気がついてないの? 私の馬鹿!
「シンシア? シンシア……? どうかしたの?」
「ヒュー……どうしよう……いけない。彼を止めなきゃ!」
私はもうすぐ授業が始まる時間だと言うのに、慌てて教室を飛び出して廊下を走った。ヒューが私の名前を呼んだ気がしたけど、もう応えている場合でもない。
悲劇のラスボスディミトリには、物語開始前のエピソードにもいくつか不幸な出来事があった。人の役に立ちたいとドニミオリアへと入学し学んでいる真面目な彼が闇堕ちするには、誰もが納得出来るようないくつもの理由があったのだ。
彼はヒロインのアドラシアンに出会う前に授業で遠乗りをして、あの綺麗な顔に傷を負ってしまうことになる。それが原因になって、彼はより迫害を受けてしまうことになるのだ。
ディミトリがアドラシアンに恋をしてから失恋し、闇堕ちしてしまうまでの理由は、物語の中で何個も用意されていた。
幼い頃から迫害されていて、けど育ての親に恵まれて、とても優しい性格で……だからこそ、壮大な物語の中で彼は、ラスボスたる大きな存在感に悲哀や憂いを滲ませるのだ。
自分の物語に深みを出したかった作者の先生は、きっとそれでご満足だろう。確かに、色々とエピソードがエモくてとても面白かった。だからこそ、アニメ化だってしたんだし。
けど!! こうして、大好きな小説の世界に転生して、彼に会うことの出来た私はそんなディミトリが苦しむだけの事故などは、決して欲しくはない!!
今はまだ授業が始まる前の朝だから、もしかしたら廊下を懸命に走れば、ディミトリはまだ校内に居てくれるかもしれない。
間に合って。間に会って欲しい。走って、今すぐにそこまで行くから。
けど、もうすぐ死ぬ予定の私の胸の奥にある心臓は、もう無理と大きな悲鳴をあげていた。ぎゅうっと、心臓を誰かの手に掴まれるような感覚。
痛い苦しい辛い。けど、走らなきゃ。
どこか遠くから先生が「廊下は走るな!」と怒っていたような気がした。
けど、私だって必要がなければ廊下は走らない。国宝級の推しの顔面に傷が入るかもしれないとんでもない緊急事態なので、後からちゃんと怒られるのでどうか今は許してください。
昨日の私は、初めてディミトリと話すことが出来て浮かれていた。
浮かれていて、馬術の授業で遠乗りに行くということの意味が、彼の顔にあった怪我と結びつかなくて……。
ああ……。




