二、偽物のヒーローと寝心地の良い黒猫の話
その白髪の少年は紅い瞳を持ち、昔の漫画に出てくる未来人のような全身タイツ風の服装で、背中には純白のマントを羽織っていた。
彼はいつものように街で悪事を働くイマジナリーフレンドをこらしめて周りから喝采されたあと、野次馬の中からなるべく善良で、帰りに人気のない道を通る者を見出だし──この辺りの善良なイマジナリーフレンドの住居の多くは頭に入っている──そのあとをつけた。
「おい、アンタ……ヒーローのイマジナリーフレンドだろう!? なんで、こんな……!?」
裏路地に男の声が響く。
「悪いが、俺の『性』には二面性があるんだ。いつもアンタたちに見せているのは表向きの顔でしかないのさ」
少年は表向きには街を守るヒーロー。しかし裏の顔は、善人専門の殺人鬼だった。
彼の両手には銃剣が装着された自動拳銃が一丁ずつ握られ、その刃先はいずれも目の前の善良なイマジナリーフレンドの急所へと向けられている。
「よ、よせ!! やめ──」
二つの銃剣がイマジナリーフレンドの胸部に吸い込まれる。
路地裏に断末魔が響き渡った。
少年の想い主は周りの大人に常に良い顔を向けているのに疲れていた。それでいつしか少年のようなひねくれた性質を持つイマジナリーフレンドを生み出し、想像の中で鬱憤を晴らしていたのだ。
少年は赤く湿った銃剣の血振りをし、それらをヒップホルスターへと収めた。
辺りを見回す──誰にも見られていないことを確認する。
先ほどの悲鳴を聞き付けて誰かが来ない内に、さっさとこの場から退場しなくてはならない。彼はそそくさとその場から歩き去り──数歩進んだところで何かの気配を察知して振り返った。
「……ナー」
少年と同じ赤い瞳をした黒猫がいた。いつの間に現れたのだろう。よほど空腹なのか、死体から流れ出た血液を舐めている。
(この町にいるからにはコイツもイマジナリーフレンドなんだろうが……まあ、こんな猫の言うことなど誰も信じないだろう)
少年は気にせず、家に帰ることにした。
ヒーローは表向きには質素な生活をしなければならないため、少年の住居は平凡な民家だった。
その玄関で、彼は侵入者の存在に困惑していた。
「……何でいるんだ」
先ほどの黒猫が、玄関扉を閉める寸前に隙間から入ってきてしまったのだ。
「出ていけ、ここは俺の家だ」
「ナー」
「何を言ってるのか分からんが……お前もイマジナリーフレンドなら、俺が何を言っているかは分かるだろう? 二度も言わせるな。出ていけ」
「ナー」
猫は悪びれもせず、何かをねだるような視線を向けてくる。それがしばらく続き、とうとう少年が折れ、冷蔵庫のある台所へと向かっていった。
「まったく……本来の俺は冷酷な殺人鬼でなければならないんだ。だから普通はこんなこと他人にしてやるわけにはいかないんだ」
ブツブツと文句を言いながら、彼はミルクを入れたボウルを手に戻ってきた。
「いいか? これはほどこしなんかじゃない。お前をとっとと追い出したいから、仕方なくくれてやるんだ。これを飲んだらとっとと出ていけよ?」
そう言って猫の前にボウルを置いてやるも、猫はそれに手をつけることはなかった。
「……何だ? 俺の入れてやったミルクを飲めんと言うのか?」
少年が不快感を露にするも、しばらく猫の赤い瞳を見ている内に、先ほど彼女が──おそらくメス猫だろう──血を舐めていたのを思い出した。そしてひとつの仮説に至る。
(なるほどな……血しか飲むことのできない吸血猫か……いかにもダークファンタジーやら何やらが好きな子どもが考えそうなイマジナリーフレンドだな)
少年はその日、もう一人イマジナリーフレンドを殺すことになった。その死体から血を取り、猫に与えてやると、彼女は今度はうまそうに舐め始めた。
「やはりそうだったか。よし、飲み終わったのならとっとと帰れ。そういう約束だったろう?」
しかし猫は、ついに少年が就寝する時間になるまで彼の家に居座っていた。
「おい貴様……約束を破る気か?」
「ナー」
「何っ!? 約束などした覚えはないだと!? 貴様、どれだけ偏屈なのだ! 俺より質が悪いぞ、この悪女め……!」
言葉が分かったわけではないが、声音から何となく心中を察したのだ。そして少年の解釈はあながち間違っていなかった。猫はベッドの上にピョンと上ると、あくびを一つ。図々しくも、緩やかにくつろぎ始めた。
「貴様、分かっているのか!? 俺は冷酷な殺人鬼なんだ。他人に無償で何かしてやったりなど絶対にするわけにはいかない。だから、これ以上貴様が俺に何かを求めるのなら、貴様もこちらに相応のリターンを──」
少年はベッドに詰め寄り、猫を強引に下ろそうと彼女に触れた。その途端、あまりの衝撃に一瞬、言葉を詰まらせた。
「な、何て触り心地の良い毛並みだ!! その辺の高級寝具など顔負けではないか……!! こんなものを抱きながら寝たら、さぞかし……」
少年はしばらく感動に身体を震わせると、感服したとばかりに、何かを認めるような微笑みを浮かべて、言った。
「よし、これから貴様が毎晩俺と共に寝るというのなら……ここに居座ることを許可してやろう」
「……ナー?」
猫は不思議そうに鳴いた。
──今まで誰も、わたしのこと『汚い汚い』って触れようともしなかったのに。
──自分から触りたがるなんて、おかしな人ねー。
少年の感性はどこかずれていた。けれどそれが幸いして、猫は食べ物と住みかを確保することができたのだった。
その夜、少年は宣言通り猫を抱いて眠った。
彼女は見た目は猫であるが、その意識は想い主のものを引き継いでいる部分がある。イマジナリーフレンドとはそういうものなのだ。
少年から見れば動物でしかなくても、猫の心は、年頃の女の子だった。故に異性に抱かれて眠るなどというのは、気恥ずかしいというレベルではない。彼女はなかなか寝付けなかった。とはいえ食事を貰って、寝る場所まで提供してもらっている身である。見返りとして寝具の役割に徹していなければ、今度こそ追い出されて、また飢えた毎日を過ごすことになる。人間型イマジナリーフレンドの血しか飲むことができず、大した力もない彼女は、その日食っていくことすらままならず、いつ飢え死にしてもおかしくないのだ。
眠れない時間が続き、猫の心に不安が陰りだしていく──そんな中。
隣で眠る少年のうめきが聞こえてきた。見ると、彼はじっとりと汗をかき始め、うなされているようだ。うめき声は徐々に明確な寝言へと変化していき、彼の目からは涙が流れていった。寝言はどんどん大きくなり、謝罪の言葉が滝のごとく溢れだす。
やがて少年は叫び声をあげながら飛び起きると、トイレに駆け込んで嘔吐した。
猫はビックリしてトイレの方向に視線を向けている。
水を流す音が聞こえると、バツの悪そうな顔をした少年が戻ってきた。
「すまないな……起こしてしまったか」
「ナー……?」
猫の心配そうな声に、少年はハッとする。
「いや、そうだな……今のは聞かなかったことにしてくれ。冷酷な殺人鬼が他人に謝罪など……」
「ナー」
「何? 馬鹿を言うな……俺が泣くわけないだろうが。それは貴様の見間違いだ……
「ナーナー?」
「いや、別にこんなことしょっちゅうあるわけじゃない。今夜はたまたま気分が悪くて……」
「ナー」
「……寝言? そんなもの言った覚えはない。それもきっと、貴様の聞き間違いだ」
──頑固な人ねー。
「俺は街の善人たちを欺く冷酷な殺人鬼なんだ。『そういう風に生み出された』から、そう在るだけだ。頑固かどうかは関係ない。イマジナリーフレンドとはそういうものだろう。貴様は違うのか?」
──殺人鬼のくせに、真面目な人ねー。
「……フン、そうだったな。貴様はただ血を飲んでれば良いのだから、楽なものだよな。貴様に俺のことは分かるまい」
──そんな簡単なものじゃないわよ! わたしには、あなたみたいに力もないんだから!!
猫の発した不機嫌な抗議の鳴き声は無視し、少年は仕切り直すように再びベッドに横になると、猫を抱いた。
だが彼はなかなか寝付けないようで、隣で寝苦しそうな気配を放っていた。
見かねた猫は小さな前足を少年の後頭部に回すと、優しくその頭を撫でてみた。
「な、何をする……!?」
「ナーナーナー」
小さな声で、即興の子守唄も歌ってやる。
「おい、やめろ……俺を慰めるようなことをするな。俺は冷酷な殺人鬼だぞ?」
「ナー、ナー」
猫は構わずに少年の頭を撫で続けた。
「いや肉球気持ちいいなオイ…………じゃなくて! ……頭を撫でるのを、やめろ……と、言っている……のだ…………」
口ではそう言うものの、少年は静かにまどろみ始め、やがて眠った。そこでようやく猫も頭を撫でる前足を止めた。
安心したように寝息をたてる少年を見ていると猫の方にまでその眠気が移っていったようで、さっきまで固まっていた彼女はすぐに寝息をたて始めた。
翌日。少年はいつもより遥かに目覚めの良い朝を迎えたが、その理由はきっと素晴らしい寝具を手に入れたからで、それ以上でも以下でもないはずだと自分に言い聞かせた。
少年は自分の朝食を済ませると冷蔵庫の中に保存しておいた血液の残りを猫に与えた。彼女の食欲は非常に旺盛で、血液はほぼすべて飲み尽くされてしまった。
(何と食い意地の張った奴だ……この分だと今日もまた、殺した奴から血を抜いてこなければならない……)
しかもこれからは、標的にするイマジナリーフレンドを人間型に限定しなければならないのだ。
面倒だなー、などと考えていると、猫がそわそわしていることに気づいた。
「……どうしたんだ?」
猫はトイレの方に歩きだし、扉を爪でカリカリし始めた。
「トイレか?」
少年が扉を開けてやると、猫は急いで中に入り、便器の上に飛び乗って器用に蓋を開けた。
「おいおい、お前猫の癖に……外の茂みででもしてくれば良いだろうに」
「ナー!」
猫の抗議するような鳴き声に、少年は仕方なく扉を閉めた。
(まったく、図々しい奴だ……)
その日も、少年は一日一善と一日一殺をしに街へ出掛けた。
猫がよく血を飲むため、少年の殺す人数は増えることになった。
(これも、寝覚めの良い朝を迎えるためだ……)
それからも同じように、彼らの共同生活は続いた。
少年が寝苦しそうにしていると猫が頭を撫で、猫語の子守唄を歌ってやるのは恒例になっていた。少年は口では『止めろ』と言うものの具体的に抵抗するようなことはなく、また、すぐに眠りにつくことができた。彼の安心したような寝息を聞いていると猫の方まで安眠することができたのでWIN-WINというやつだった。
やがて少年は猫の寝具の役割を越えた行動に対して文句を言うようなこともなくなっていった。
少年が殺す人数は、徐々に増えていった。
●◯●
神父は腰だめの姿勢で十字架型軽機関銃を、少年は神父の左側に回り込むようにしながら二丁拳銃を、各々乱射していた。
神父は右利きなので、相手の利き腕の逆向きに動くという銃撃戦のセオリー通りの立ち回りを、少年はしていた。
(取り回し云々以前に火力と総弾数の差は歴然……時間の問題で向こうが先に押し負けるのは目に見えている)
少年は障害物の多い場所に逃げ込もうとしているようだが、その前にけりを付けてやる──そう神父が思ったところで、彼はふと疑問を抱いた。
そもそも、障害物の多い場所で戦いたいのなら、初めからそういう場所で待っていれば良かったのだ。少年も神父が来ることは分かっていただろうに、何もわざわざこんな開けた場所にいなくとも──。
と。
不意に、少年が片手で何かを取り出し──器用にも拳銃を持ったまま──それがスモークグレネードだと気付いたときには、ピンは抜かれ、地面に放られていた。
(……ブラフか)
緑色の煙が拡散し、瞬時に視界が奪われた。同時に発砲音が止む。
神父は残った感覚を集中させた。目は見えずとも、空間を物体が動くときは必ず気配が発生するはずだ。
直後──右斜め後方という無茶な角度から、空気の震えを感知した。そちらへ振り向き様、頭部の位置を想定して十字架を凪ぐ。
しかし、空を裂いた鋼鉄の凶器は如何なる質量も捉えなかった。代わりに直後、上から人間一人分の体重が掛けられる。
上方に──まるでアクションゲームに出てくる二段ジャンプのように──身をかわした少年が、十字架の上に着地したのだ。
視線が交錯する間は一刹那もなかった。
状況は接近戦に移行した──この距離ならお互い、視界が悪くとも戦える。
神父の切り替えは早かった。十字架から手を離すと、突き出された少年の右手を弾く。同時に、対の手で拳銃の照準が行われていることも察知していたため神父はさらに対応する手でそれを捌くと、彼の真横をフルオートで発射された拳銃弾の列が、両者の立ち位置と平行して擦過し、足元をしっちゃかめっちゃかにした。
次いで繰り出した中段蹴りは少年の膝頭で防がれる。
神父は神父服から新たにダガーナイフを取り出すと、続けて応戦。
少年はそれからも宙を蹴りながら三次元的な移動を繰り返し、二人は幾手か格闘すると、少年は弾切れを契機に斜め上空へと後退した。
少年が三歩、宙を跳ねる。
一歩目の段階で既に少年はリロードを終えており、射撃が再開される。しかし移動しながらの拳銃の命中率などあってないようなもので、いずれの弾薬も神父の足元のアスファルトを削るのみだった。
二歩目でも弾は神父に当たらない。激しい発砲音だけが騒々しく響き渡る。この時、神父は地に落ちた十字架に飛びついていた。
三歩目の位置で、少年は両の拳銃をホルスターにしまい、背後にある廃ビルの外付け階段の支柱を掴んだ。
外付け階段は錆びと老朽化でほぼ宙吊り状態だった。少年はその一部を強引に引き剥がすと、外壁を踏ん張りにして神父へと投げつけた。神父に負けず劣らずの、凄まじい怪力である。
一方、神父が取り直した十字架は既にフルオートで凶弾を吐き出しており、それらは少年ではなくかつて階段だった鉄の構造物を貪欲に食い荒らした。
神父は破片から逃れるために飛び退く──その場所を目掛けて、既に少年は落下していた。両手に従えたバヨネットの刃で、空を唸らせて。
十字の鉄塊と一対の刃が、交錯する──。
●◯●
「ただいま、ネコ子。帰ったぞ」
ある日、少年は帰宅した際に耳慣れない呼び名で猫に声をかけてきた。
「……ナー?」
「いつまでも猫と呼ぶのは変だから、名前をつけてやったんだ。猫でメスだからネコ子。分かりやすくて良いだろう?」
「…………ナー……」
「そうかそうか、気に入ったか」
呆れた溜め息を溢す猫と、的外れな解釈をする少年。彼の感覚はやはり、どこかずれていた。
──まったく。センスのないご主人様だわ。
猫はふてくされたように鼻を鳴らした。けれど、彼女は初めて誰かから名前を呼んでもらったということに奇妙な嬉しさを感じていた。
あくる日。
「ネコ子、今日は貴様を風呂にいれてやる」
少年のその言葉に、猫は思わず固まっていた。
「……ナ?」
「綺麗になれば、きっとより一層寝心地の良い毛並みになるだろうからな」
固まっている内に猫は抱き上げられ、そのまま風呂場に連れて行かれた。
「いいか? 別に貴様のために洗ってやるわけじゃない。俺がより快眠できるようにするためだからな」
暴れる猫と、それを無理矢理押さえつける少年。
「コラ、暴れるな! シャンプーがそんなに嫌か!?」
「ナ、ナナナナーーーーっ!!」
──バカ! 子どもじゃないんだから、シャンプーが嫌なわけじゃないわ! そんなに色んなところ触らないでよ!
「貴様っ! 誰を引っ掻いているのか分かっているのか!? 俺は冷酷な殺人鬼だぞ! 仕返しが怖くないのか!?」
──無神経なご主人様ね!!
少年の殺す人数は、日に日に増えていった。
●◯●
霧に包まれた廃墟。突き刺すように鋭利なマズルフラッシュと銃声、ダイレクトに凶器同士のかち合う金属音が、断続的に、鈍重な空気を蹴散らしていた。
やがて一際大きな金属音が鳴り響いたかと思うと、両面の壁と天井が崩れて一枚の板ようになった連絡通路を、付け根になっている廃ビル内部から少年が勢い良く後退してきた。
間を置かず、同じ方向から別の足音が響く。
猛然と向かってくる神父に、少年は冷静かつ慎重に銃口を定めた。
マズルフラッシュ──空を裂く無数の異音の重なり。
一発一発のブランクを極限まで省略し、ほぼ一体化したかのような銃声。少年による正確かつ高速な連射は五度に渡り、何れもが標的の急所へと迷いなく進んでいく。
だが、神父が振るった十字架は、各々の瞬間において、的確なタイミングで襲い来る凶弾との接触を果たしていた。
鋭利な金属音が紡がれ、不可逆とさえ思えるほど正確無比だった暴力の直線進行が断絶する。
銃腔を走る削条の通過と爆燃のもたらす途方もない反作用での圧出──それらによって最適化されていた銃撃の殺傷能力は、乱雑に剥奪されていた。洗練された弾頭たちはかくも無惨に愚鈍なる鉛屑と化し、空気を荒々しく掻き分けながら無作為に四散していった。
「……くぅっ!」
神父はそのまま、シームレスな動作で自身の凶器を振りかざす。少年の方も、銃撃から白兵戦へと転じる他なかった。
一対のバヨネットが煌めく。
漆黒の十字を、銀色の瞬きが迎えうった。
●◯●
その日は二人で市場に買い出しに出掛けた。悠然と歩く少年の後を、最近あまり外に出ていなかった猫が辿々しくついていく。
「おや、こんにちは」
と。少年が知り合いの初老のイマジナリーフレンドと会ったようで、しばらく立ち話が続くことになった。
「おお、君か。この間は店を荒らす輩を追い出してくれてありがとうね」
「いえいえ、当然のことをしたまでですよ」
少年は猫には一度も見せたことがないような愛想笑いで相手に応じている。
「猫を飼い始めたのかい?」
「えぇ。道で怪我をしているところにたまたま出くわしましてね。可哀想だったんで家で手当てして、そのまま飼ってやってるんですよ」
「そうかそうか。君のことだからこんなこと言うまでもないだろうが、生き物は大切にしてやるんだぞ」
「もちろんですよ」
──調子の良いご主人様だわ。
珍しくお出掛けに誘われたから、ちょっとはしゃいでついてきたのに。こうやって街の人に良い顔をするためだったのかしら。そう考えると、猫は不機嫌になった。
「名前はあるのかい?」
「ネコ子です」
少年がそう答えると相手のイマジナリーフレンドは少し引いていたので、猫の腹の虫はちょっとだけ収まった。
「……い、良い名前……じゃないか……?」
「でしょう?」
自信満々に胸を張る少年。
この調子で見栄っ張りに利用されるのは癪なので、猫は少し離れて少年についていくことにした。
そうしていると、やがて少年が誰かとぶつかり、因縁をつけられ始めたので、猫はビックリした。
相手は身体の大きな神父で、とても怖そうだったが、猫が追い付く頃には揉め事は終わっているようだった。
「ナー?」
──あの人、知り合いなの?
「まあな。……俺の対極にいる男だよ」
──?
「それにしても、妙だな……。アイツは俺と真逆とはいえ、同じ殺人鬼だぞ? そんな奴があんな少女と行動を共にしているなんて……奴の場合は俺のように、街の人々へ良い顔をする必要などないはずだから、恵まれない少女を保護しているということはあるまい。かといって、まさかあの少女を寝具として抱いて眠っているなんてこともないだろうに……」
少年は一人で考え込んでいた。
あの神父も自分も、非道いことをするために生み出されたのだ。そんな性に逆らう行動をするなんてことがあるはずがない。もしそんな生き方が許されるとするならば、自分が今まで性に従って行ってきた行為は、やらなくても良かったということになってしまうではないか。少年はその考えに行き着き、心の底からゾッとした。だから、それ以上考えないことにした。
●◯●
廃墟の連絡通路にて──ダイレクトに殺意が交錯する、無遠慮な金属音が再開していた。
幾度も金属が打ち合い、音が、緊張で満たされた空間を、さらに犀利に研いでいくようで──
やがて、神父の繰り出した大振りな十字架の攻撃によって生じた僅かな隙をついて、少年の下半身が動いた。
渾身の回し蹴りが神父の右側頭部を襲う。それは空中を跳ねることによって成立した、体格差を無視した無茶なものだった。神父は咄嗟に十字架から離した左腕を振り上げて攻撃の進行を妨げる。衝撃の後、関節の軋みが肉体を震わした。
幾度目かの交差で両者の武器はそのまま静止を維持していたが──神父が十字架に加えていた力が腕一本分抜けたことで、少年の方も同じだけの自由を得てしまう。
反対側から、少年の刃による追撃が繰り出される。
神父は蹴られた勢いを利用して横に倒れ、刃をかわすと空中で仰向けの姿勢に身体を反転させ、床の際スレスレの所でどうにか受け身を取った。
待ち主の制御を失った十字架は重力に隷属し、傷んだ床にはまりこむように突き立つことになった。
さらに神父は、倒れる際に少年の足を払い、そして着地後、彼の胴を宙に向けて蹴りだしていた。
──しかし、少年の足には能力がある。
空に投げ出された少年は易々と空中を蹴り、地上に帰還。すかさず不利な姿勢のままだった神父を、報復するように蹴り落とした。
二人のいた位置は建物の七階に相当する──莫大な位置エネルギーによる冷徹な下降が神父を襲うことになった。
神父は反射的にに十字架を手に掴んではいたが、その銃口は当然あらぬ方を向いており、今から少年に照準を合わせているような時間はとてもない。そんなことをするより前に彼は路上でアスファルトの染みと化していることだろう。壁を蹴るにも、距離が空きすぎていて足が届かない。あとはただ、死を待つのみ……。
そう思われたが、神父はそれでも引き金を引いていた。
ライフル弾の応酬が、神父に近い側のビルの外壁を無数の瓦礫として飛び散らせる。複雑な力学的影響にたらい回しにされた挙げ句に、偶然神父の足元付近に弾き出された石材の欠片の一つを、彼は見逃さなかった。およそ数秒間しか足場として機能し得ないそれを、彼は最善の瞬間に利用することに成功した──ほとんど奇跡だった。
自身の発生させた強力な反作用の力によって少年のいる位置に向けて飛び上がった神父。滑空の最中、引き金は未だに引かれた状態だった。十字型の大型自動火器は装填された限りの弾頭と薬莢を吐き出し続ける。
撃発の反動にも助けられながら、神父は十字架を少年に向けて、凪ぎ払った。
描かれた弧と平行に存在するすべてに、弾丸が叩き込まれていく。
十字架の残弾が尽きたと同時に、金属同士の接触音が場に波及した。
少年は神父の反撃に意表を突かれたものの、どうにか右のバヨネットで受け止めていたのだ。だが身体は勢いに飲まれてしまう。
二人はゼロ距離を維持したまま地面へと落下していった。
●◯●
少年は猫と共に寝るようになってからも、完全にうなされることがなくなったわけではなかった。けれど、その頻度は明らかに以前より少なくなっており、吐くことはほとんどなくなった。悪夢を見る間隔も短くなっている。
猫の眠りは浅い。少年が悪夢に怯えてうなされ出すと、猫はすかさず起きて少年を慰めた。大切な義務を果たすように丁寧に、優しく彼の頭を撫で、子守唄を歌ってやるのだ。
猫には、そのような時、眠りを邪魔されたという不満はなかった。一度慰めてやれば少年は翌朝までぐっすり眠り、再度起きることはなかったし、また、うなされているときの彼はいつもより素直になるからだった。
少年には悪いが、猫は彼を慰めているときの──つまりは彼がうなされている時間が好きだった。
とある日の深夜、少年が言う。
普段は憎まれ口ばかり叩いてしまうけれど、自分は本当は猫にとても感謝しているのだと。
猫は喜びのあまり、逆に胸が張り裂けそうになる。
彼女はすかさず、自分も同じ気持ちだと答える。
少年は、『ずっとそばにいてほしい』という旨の言葉を、たどたどしく口にする。『寝具』としてだけでなく、同居人として。
──当たり前じゃない。わたしはあなたが居ないと生きていけないんだから。
その返事には色んな意味が含まれている。
それを察している少年は深く安堵する。
少年の眠りが安定すると、猫も安心して眠ることができる。戯れで生み出された自分が誰かに必要とされ、しかも、それに見合う働きができているのがとても嬉しかった。
けれど翌朝、少年の寝言に言及してみても、彼は頑として認めることはない。
「そんなことを、冷酷な殺人鬼の俺が言うはずないだろう」
少女はとても悲しくなる。
少年の睡眠の質は日に日に上昇していった。
少年は安眠できる時間が増えるのに比例して、殺しを張り切るようになっていく。
猫はその様子がだんだん心配になってきていた。
死体の数はうなぎ登りになっていった。
●◯●
落下していく神父と少年。
神父の足は少年のそれをがっしりと巻き付けており、宙を蹴ることができない。
(どうせ落ちるのなら道連れに、というのか……分からん、何がこの男をそこまでさせる!?)
二人は何もないはずの空間に挿入された異物として、重力と位置エネルギーの暴挙にさらされ続ける。肉体が空を切る異音がダイレクトに彼らの鼓膜を叩き続ける。
少年は突発的に発生した危機を理解しながらも、しかしそればかりを考えていることはできなかった。敵の追撃が予測できたからだ。
先ほどまで十字架に添えられていた神父の左腕が宙を仰いでいるのが視界の端に入っている。その先に握られているのがダガーであることは、直接は見えずとも、刃に反射した日光が教えてくれた。
少年はほとんど何も思考せず、左手に神経を集中させ、バヨネットを敵の二の腕あたりに乱雑に突き刺した。
少年の頸動脈を終着点として定めていたナイフの軌道が、使用者の腕が深く傷ついたことにより、僅かに狂った。
目標を逸れた刃先は少年の左耳を根本から凪いだ。
今まで聞いたこともないような醜悪な擬音に脳を貫かれる。彼がそれまで聴覚として認識していた感覚には致命的な欠落と歪みが生じ、意識は直ぐに痛みへと到達した。
頭の奥が焼かれるようだ──否、何も感じてはいけない。意思を集中しろ。神父の骨に食い込んで抜けなくなった武器も今は捨て置く。
少年は夢中で左手を虚空に伸ばした──その手が何かを掴む。
先ほどまで彼らがいた連絡通路から見て、斜向かいにある建物に通された配管だった。
配管はベキベキと引き剥がされていき、その破壊に費やされた分、二人を襲う落下の勢いにブレーキがかけられ、方向もずれた。
彼らは配管のたるみに合わせて再び宙に投げ出されると、建物の手前にあった、それよりは背の低い立体駐車場の屋上へと転がり込んだ。
距離を置いて停止した両者はほとんど同時に跳ね起きると、各々に向かって踊り上がった。
●◯●
その日、少年は傷だらけで帰って来た。猫はそれを見ると驚いて、急いで駆け寄った。
「ナー!」
少年が怪我をして帰ってくることなんてほとんどなかったのに……。猫は戸惑っていた。
「大丈夫、見た目ほど重症じゃない。寝れば治るから、また明日も血を取りに行けるさ。心配するな」
「ナー、ナー!」
──違うわよ! わたしは、あなたの身体を心配してるのに!!
猫は少年の傷口を舐め始めた。
「おいおい、血の蓄えならまだ冷蔵庫の中にあるだろう? ……卑しい奴だなぁ」
「ナー! ナーっ!!」
──だから、違うってば! どうして気付かないのよ!? どうしてそんなに頑固なのよ!? ……どうして頑なに、気付かない振りをしてるのよ!?
「──そうだ、ネコ子よ。明日は特に質の良い血液が手に入りそうだから、期待していると良いぞ」
血だって毎日そんなにたくさん、飲みきれないくらいの量取ってこなくても良いのに。お風呂にも自分で入れるから、入れてくれなくて良いのに。毛並みだって自分で整えられるのに。
──それだけたくさん、わたしにしてくれるのに、どうして起きているときのあなたは、言葉では伝えてくれないの!?
●○●
銃剣の差し込まれた二挺拳銃と十字の鉄塊に覆われた軽機関銃の攻防。
莫大な銃声と、金属の衝突音が連続して、スラム街に響き渡る。
(何故だ!? 何故俺が、こんなザコにここまで苦戦している!?)
戦況はまさしく五分五分というところだった。本来、少年の方が力量は上のはずなのに、極めて不可解だった。一手間違えれば、少年が負けることも有り得るような状況である。
(何だっていうんだ!? 奴と俺の何がそんなに違うというのだ!?)
「絶対、ぶっ殺す……!!」
神父から発せられる凄まじい殺意。その源流が、もはや『殺人鬼として生み出されたからそう在る』というだけではないことは明白だった。
まさか、本当だというのだろうか。彼が個人的な理由で自分を殺そうとしているというのは。
イマジナリーフレンドがその性に逆らって、自分の意志で行動するなどということが可能なのだろうか。もしそうだとしたら──
神父にできて、少年にできないなどということはないだろう。
ならば自分は、性に逆らうという生き方ができるにも関わらず、それを選択しなかったということになる。目を逸らしていただけだということになる。
だとしたら、今まで犯してきた罪は、どうなるのだろうか。今まで奪ってきた命を、彼はどう受け入れれば良いというのだろうか。
(み、認めない……! そんなこと、あって良いはずがないのだ……!!)
神父は足を踏み出し、再び少年へと接近してきた。彼が持つ鉄塊は、その燃え上がる感情を載せたかのように重々しく見えた。
少年は悟った。きっとこの一擊は今までとは違う。
これを凌げなければ自分は負ける。そして神父もこの一擊に全力を注ごうとしている──つまりカウンターを打ち込むことができれば、まだ自分にも、巻き返す取っ掛かりができるかもしれない。
両者の距離が縮まっていく。
極限まで高まった緊張が空間を震わせているかのようだ。
衝突の寸前、少年は猫のことを考えた。そして、自分が築き上げてきた死体の山のことも考えた。
(俺は冷酷な殺人鬼だ。誰かのために何かをするなんてことは、あり得ない!! 俺がネコ子を大切にするのも、俺がこの男を殺してアイツにくれてやるのも、寝覚めの良い朝を迎えるためでしかない……!!)
少年は、自身の中に沈殿した疑念を、感情で殴り付けるように否定する。
追い詰められたような表情。
まるでもうそこにしか逃げ場がないかのように、向かってくる神父を強く睨み付ける。
一際強く、銃のグリップを握りしめ、
──一対のバヨネットが瞬いた。
そうして直後、スラム街に、一際大きな衝突音が響き渡った。