一、殺人鬼の神父と舌に傷を持つ少女の話
あらゆる情念が氾濫し、複雑に絡み合った現代社会において、必要でなくなったり、忘れられてしまった想像の産物はたくさん存在する。
イマジナリーフレンドと呼ばれる概念はその代表例である。
子どもが空想上の友だちとして、あるいは稚拙な欲求の捌け口として頭の中で生み出し、主の成長と共に忘れられ消えていく存在。
そんな、不要になったイマジナリーフレンドたちが、捨てられ、彷徨った末に行き着く町があった。
人間の集合的無意識の辺境──人の意識など届かない奥地。
そこに追いやられたイマジナリーフレンドたちは自然に住み着き、少しずつ発展させて小さな町が生まれたのだ。
この想像力の掃き溜めの町に、一人の孤独なイマジナリーフレンドがいた。
この男は、名を『殺人神父』といい、周りからは『神父』で通っている。
ホラーマニアの男子中学生から生み出された彼は、身長が二メートルに達し、醜い十字傷が刻まれた隈の浮いた顔に、神父服を纏い、巨大な十字架を模した武器で悪人を殺す殺人鬼、ということになっている。外見の設定や、何故殺す対象が悪人のみなのかということには大した意味はない。ただ単にその男子中学生はそういうものが好きだった、というだけだ。
神父は男子中学生の頭の中で、主の想像力に従いながら想像上の悪人を殺し続けた。
やがて男子中学生は子どもではなくなり、彼の心は成長し、もう神父の存在は必要ではなくなった。
そして神父はこの町に追いやられた。
とはいっても、環境が変わっても彼のやることは変わらない。来る日も来る日も、町に住む悪人のイマジナリーフレンドを殺すだけの日々。『そういうもの』として生み出されたというだけの理由で、彼は『そういうもの』として在り続けた──『悪人を殺す殺人鬼』として。それがイマジナリーフレンドとしての彼の”性”だったからだ。
神父は労働をすることはなかったが、生活費は殺した悪人たちから奪い取っていた。
そのため周りからの心象も悪く、当然、神父は町の嫌われものだった。
その日、アメコミのスーパーヒーローものに出てくる悪役の何番煎じのような格好の悪人イマジナリーフレンドたちが、街を荒らしていた。
弱いイマジナリーフレンドが虫けらのようになぶり殺されているという噂を聞いた神父はすかさずその場に駆けつけ、きちんと殺人鬼風のおどろおどろしいマスクを被り、手持ちの凶器によって悪人イマジナリーフレンドたちを皆殺しにした。
その結果として神父は、殺される寸前だった少女のイマジナリーフレンドを、意図せず助けた形になってしまった。
助けられた少女は何故か神父の後をつけ回し、ついには彼の家にまで入ってきていた。
「……何でいるんだ」
この町の至るところにあるスラム街とは月とすっぽんの高級住宅街の一角、神父の住む立派な民家の内装は外観に反して散らかっている。その玄関で、巨体の神父は小さな侵入者に対して、不満げに尋ねていた。
「お礼させてほしいの」
淡々と答える少女は、見た目からは中学生くらいに見える。神父は、彼女の返答に眉を潜めた。
「お前みたいなガキに何ができる?」
「お掃除やお洗濯……それに、ご飯が作れるわ」
「全部いらねぇ」
とりつく島もないとばかりに、ぴしゃりと断る神父。
「……家事、全部やってあげられるんだよ?」
「いらねぇ」
神父が家の奥に進むと、少女もついてきた。手で払うように追い返そうとするも、彼女は応じない。
「ご飯も、いらないの?」
「いらねぇ。何度も言わせるな」
「とっても美味しいのよ」
「出てけ」
「……ところで、掃除用具はどこ?」
「オイこら、勝手に漁るな」
「散らかり放題ね、この家」
少女は神父の拒絶を無視して部屋の掃除をし始めた。
「こんなに立派なお家があるのに、普段からだらしない生活を送ってるんでしょ? ……そういうのって、すっごくダメなんだよ?」
「うるせぇ、とっとと出てけ」
神父は鬱陶しそうに、手近にあったグラスを少女の方へ投げつけた。それは少女に当たることはなかったが、彼女の足元の埃まみれの床に激突して割れた。
少女は派手な破砕音にとても驚いた様子だったが、すぐにグラスの破片を片付け始めた。
二、三度同じことをしてみたが少女の反応は変わることがなく、あまりの不毛さにさすがの神父も諦めた。彼はテレビを点けると、放送していた陳腐なホラー映画を何も考えず眺め始める。
そうこうしている間も少女は居座り続け、掃除の他に洗濯や洗いものをした。そして夜になると彼女は神父に夕食を作った。
神父はそれを迷惑に思ったが捨てるようなことはせず、黙々と食べた。先ほどの出来事から拒んだ方がかえって面倒なことになるのを学習していたからだ。
神父が食事に手をつけ始めたのを認めるや、少女がすかさず尋ねてきた。
「どう?」
「どうって?」
「味よ。美味しい?」
「どっちでも良いだろ。飯なんて腹に入れば全部同じだ」
神父がそう答えると、少女はどこか不満げな表情をしていた。
「何だよ」
「別にっ!」
そう答える少女の口の中を偶然目を留めた神父は、彼女の舌に刃物で切られたような傷跡があるのに気付いた。ほんの少しだけ気になったけれど、すぐに自分の顔の傷と同じように、どうせ大した意味もないのだろうと、何となく決めつけて気にしないようにした。
イマジナリーフレンドなんて、どいつもこいつも、どうせそんなものだ。
「俺がこれを食い終わったら出ていけよ」
「嫌よ。お皿も洗わせてもらうわ」
「……なら、洗い終わったら出てけ」
やがて神父が食事を終え、少女が食器を洗い終わる頃になると、外は酷い雨が降っていた。
「この雨じゃ、とても外には出られないわね」
少女は勝ち誇ったような表情で言った。
「何だそのツラは? 俺が雨くらいで追い出すのを躊躇するとでも?」
「ええ、神父様。あなたはわたしを追い出すことはできないわ」
「どうして?」
神父が尋ねると、少女は得意気に説明を始めた。
「街のイマジナリーフレンドたちが言っていたの。あなたは悪い人専門の殺人鬼だって。つまりそれ以外は殺せない。わたしは悪い人じゃない。けれどこんな雨の中外に出されたら、きっと肺炎か何かで死んでしまうわ。そうなったら間接的にあなたがわたしを殺したことになるんじゃないかしら?」
「俺にそんな理屈が通用するとでも?」
「この雨はきっと、神様が『この家で神父様のお世話をしなさい』、と言っているようなものなのね」
「聞けよ」
少女は聞いちゃいなかった。
「これも、神様のおめしぼし、というやつかしら」
「……それ言うなら、思し召し、だ」
「……え? おぼめし、し……?」
「思し召しだよ」
「おぼめしめ、し……?」
「思し召し」
「おし、おめし…………」
少女の言い間違いとその訂正にはまるでキリがない。神父はひときわ大きな声で言ってやった。
「お、ぼ、し、め、し!」
「おぼ、おし……おしめ…………、おしぼり……?」
「……もう良いよそれで」
ため息一つ。神父は何だか毒気を抜かれてしまい、脱力した。
少女は得意気に微笑んでいた。
それから数日が過ぎ、何度出ていくように言っても少女は神父の家に居座り続けた。神父はやがて諦め、『野良猫が住み着いた程度に思えば良いか』と、放っておくことにした。
神父は毎日昼間は悪人殺しに出掛けていて、夜になると少女の待つ家に帰ってきた。そしてそこでは頼みもしないのに、毎日彼女と彼女の作った夕飯が出迎えてくれる。
「毎回毎回、いらないっつってんだろ」
「だってわたし、これくらいしかできないから」
少女ははにかんだように笑いながら、神父が座れるようにダイニングチェアを少し後ろに引いた。
「神父様はわたしの恩人なんだもの」
神父は文句を言いつつも、黙々と少女の作った料理を食べ始める。
以前は市場で適当な弁当を買ってきて食べるようにしていたが、家に帰ると少女が料理を作っていることが分かっていたので、ここ最近はその習慣がなくなっていた。
神父は少女の食費として家にいくらかのお金を置くようにしていたが、彼女はそれを自分のためだけではなく、料理の食材に使っているようであった。かつてはガラガラだったこの家の冷蔵庫は今ではギュウギュウ詰めになっている。
少女は神父が食事をする様をニコニコしながら眺める。やがて神父が食べ終えると、いつもと同じ質問をする。
「美味しかった?」
「何度も言うが、俺は味というものに興味がねぇ」
少女は残念そうに食器を片付け、洗い始めた。
「……何でそんなに味を気にするんだ?」
「だって神父様のために作ったんだもの。せっかくだから美味しく食べてもらいたいじゃない。料理って、美味しく食べてこそでしょ?」
神父は「下らない」と鼻で笑い、少女は悲しそうに微笑んだ。
そして言った。
「わたしにはもう、美味しいご飯なんて食べれないから。せめて誰かに与えてあげたいの」
少女は神父と一緒に食事をすることがなく、いつも彼が寝静まった深夜にリビングに行き、一人で食事をしているようだった。
『わたし、ご飯は独りで食べるのが好きなの』
あるとき神父は夜中にトイレに目覚め、少女の食事を目撃してしまった。
少女はリビングで、泣きながら、自分の涙や鼻水や唾液や胃液でグチャグチャになった料理を頬張っては吐き出し、それを繰り返した後、どうにか飲み込んでいた。それが彼女にとっての『食事』だった。
神父には何が何だか分からなかったけれど、とにかく少女は自分で作った美味しそうな料理を自分では美味しく食べられない、ということは理解した。
そして、それが少女が神父と一緒に夕飯を食べたがらない理由だということも。
翌朝目覚めると、いつものようにテーブルには少女の作った朝食が置いてあった。昨夜天板にぶちまけられていた汚物は綺麗に掃除されていた。
神父はいつも通り、黙々と料理を食べ始める。やがて食べ終えると、彼はちょっとした気まぐれで、こんなことを言ってみた。
「……味自体は悪くないが、薄味すぎる」
すると少女は──たったそれだけの感想で──跳び跳ねるように喜び、その日一日中上機嫌だった。
「夜は気を付けて作るからねっ!」
──そして夜。
「……今度は濃すぎる。一か百かしかないのか、お前は」
神父は乱暴な男だった。家の前に野良猫や野良犬が寝ていると怒鳴りつけ、道端にいる物乞いが近付いてくると蹴り飛ばし、すれ違い様誰かがぶつかると相手が誰だろうとぶん殴り、しかもドアの明け閉めや道具の扱いに至るまで全ての所作が粗暴だった。悪人と戦うときなんて、軽機関銃を内蔵した巨大な十字架を振り回し、乱射するのだ。
「どうして神父様ってそんなに乱暴者なの?」
「それは俺が非道い奴だからだ」
ある日のこと。少女の問いに、神父はそう即答した。
「非道い奴として生み出されたから、『そういう風に』在らなければならないんだ。俺だけじゃなく、イマジナリーフレンドはみんな、生みの親である”想い主”の設定した”性”に従って、生み出されたままに生きてる。お前もそうなんじゃないのか?」
「……そうね。わたしも、人のお世話をするために生み出されたから」
「へえ。だからお前、あんなに家事がうまいんだな。料理以外は」
「そうよ。褒めてくれてありがとう」
鼻白む様子もなくお礼を言う少女。彼女に嫌味は通じなかったらしい。毒気を抜かれながらも、神父は話を続ける。
「……世話をさせるために生み出したなんて、お前の”想い主”は、さぞかし寂しがり屋だったんだろうな」
「寂しがりっていうか、甘えん坊さんだったの」
少女はどこか懐かしむような口調で答えた。
「お前も『卒業』されたクチか?」
「違うわ。彼は、わたしのことを考えるのが苦しくなっちゃったの」
「……『そっち』か」
神父には心当たりがあった。前にも別のイマジナリーフレンドから、同じようなパターンの話を聞いたことがあるのだ。
「うん。わたしの想い主は、わたしのオリジナルの女の子に恋してた。それで、その子にたくさんたくさん甘えたかったみたい。彼は頭の中で、その欲望を満たしていたわ。わたしに身の回りのお世話をたくさんさせていたの。……その日が来るまで」
「振られて、お前を思い浮かべるのが苦痛になったと」
「そうなの。誕生日にお菓子をプレゼントしようとして、酷い言い方で断られたんだって。彼のオリジナルへの感情は恋から憎しみに変わったわ。最後に『おれのあげたものが食べられないような舌なんていらないだろ』って、わたしの舌に仕返しして、それっきり」
言い終えると、少女はべえっと舌を見せる。そこには醜い傷跡が刻まれている。
「そのときの傷だったのか」
「ええ。この傷のせいで、わたしの味覚はおかしくなって何を食べても美味しく感じられなく──むしろ物凄く不味く感じられるように──なった。現実じゃ傷がついたくらいでそうはならないのかもしれないけれど、これは彼からの呪いのようなものなのかも。……それで、とにかくその日から、わたしは『いらない子』になってしまったの。わたしはオリジナルとは違って、彼のことが大好きだったのに……」
少女の言葉には皮肉が混じっていた。それは彼女には珍しいことだった。
「お前、自分にそんな仕打ちをした想い主を好きだったのか?」
「好きだったわ。神父様は、自分の想い主のこと嫌いなの?」
「俺はお前とは違って、想い主と直接対面するようなことがなかったからな。そういう『捨てられた』みたいな感覚はない。奴の頭の中にいたときも、この町に追いやられてからも、やることは変わらないしな」
「そっか。神父様はわたしとは違うのね」
「ああ。だから悪いけど、お前の気持ちは分からないな」
すると、少女は悲しそうな表情を浮かべ、気まずい沈黙が流れるようになってしまった。神父は何だかバツの悪い気分になった。
「その、何だ…………俺はお前の気持ちは分からないが……お前はいらない子なんかじゃねえよ。現にこうして俺の世話をしてくれてるわけだし……」
頭をガリガリと掻きながら、口下手の神父がどうにか絞り出した言葉に、少女は嬉しそうな表情を浮かべたかと思うと、可笑しそうに笑いだした。
その様子にムッとした神父は、少女に厳しく問いただした。すると、
「だってあなた、自分のこと『非道い非道い』って言いながら……わたしには凄く優しくしてくれるんだもの。それはどうしてなの?」
少女がそう言うと、神父はしばらく困ったような顔をした後、急に眉間にシワを寄せたかと思うと、彼女を突き飛ばした。
「きゃっ────」
あまり強い力で押したつもりはなかったが、少女は簡単に転び、よく磨かれた床に尻餅をついてしまう。神父はそのことに、自分でやっておいて、不意を突かれたように驚いた。
「……やっぱり、非道い人だね」
彼女にそう言われると、神父はさっきよりもバツの悪そうな表情になった。
すると少女は少し口許を綻ばせ、添えるようにもう一言。
「でも、気付いてる? 悪い人を殺しに行く前のあなたって、少し辛そうな顔してるんだよ」
言われたことを理解した途端、神父の胸を、微かな痛みが過ったような気がした。
その日、神父と少女は一緒に買い出しに行くことになった。少女がしつこく誘ったからだった。
外に出ると、どんよりとした空気が二人を包み込む。イマジナリーフレンドの町には霧が立ち込めており、それは外周部に近付くにつれ濃くなっている。空は基本的に曇っており、現実より高い確率で雨が降る。道は舗装されているものの整備が行き届いておらず荒れている箇所が多く、町の半分弱は生活能力のないイマジナリーフレンドが住むスラムになっている。
彼らはそんな道を歩いていく。
市場までの道中、転がっていた石をずっと蹴りながら歩いている神父に、見かねた少女が注意をした。
「神父様って本当に子どもね。いい加減そんなことやめなさいよ」
「何言ってんだ? 子どもも何も、そもそも俺たちイマジナリーフレンドは大人になんかなれないんだぞ」
「えっ、そうなの?」
少女は意外そうに目をしばたたかせ、素直に驚いている様子だった。
神父が説明を加える。
「俺たちは元々子どもの心の一部だったんだ。そして奴らは大人になる過程で俺たちを切り離す(パージする)。残った俺たちは成長なんてしようがない。大人になんてなれない。この町に住む奴らはずーっと子どものままなのさ」
「そうだったの、はじめて知ったわ」
少女は感心したように息をついた。
「……まるでピーターパンの世界ね」
「何だよ、それ?」
神父の問いに、少女は再び表情を驚きに染めることとなった。
「ピーターパンのお話を知らないの?」
「知らないね」
「有名な童話よ?」
「童話ねぇ……多分、俺の想い主がそういうのに興味なかったんだろう」
神父はどうでも良さそうに自己完結する。
そうこう話しているうちに、彼らは目抜通りから一本外れたところにある、大きめの市場に到着していた。そこでは子どもたちの欲望や執着、不安などを体現した、多様な住人たちが行き交っている。
ピエロや魔法使いなどの奇抜な衣装を着けた者、人と他の動物が合わさったような身体をした者、道具や概念を擬人化したような外見の者……色んな姿のイマジナリーフレンドたちがいるのだ。
「そのピーター何とかさんがどうだかは知らんがな、コイツらは見た目はともかく、どいつもこいつも中身はガキなんだよ。……ほら、見な」
神父が指差した先では値切りに失敗したらしき客と店主がもめていたり、商品に勝手なことをしようとして怒られた客が逆上して店を荒らしていたり……ということが方々で起きていた。
「思い通りにならないことがあるとキレるわ泣くわ、そんな奴らばっかさ。まあ俺もその中の一人なんだがね……」
「そうね、神父様は人一倍子どもだものね」
「おめーもな」
神父はちらりと少女に目をやって言い返すと、小バカにするような笑顔を浮かべて町の住人たちに視線を戻した。
「ここには成熟という概念がない、子どもの町さ。自治体みたいなものはあるにはあるが、ソイツらの政治とやらも割りと滅茶苦茶だ。ガキがいくら集まってもまともな社会なんざできるはずもなく、この町の半分くらいはスラムみてーな有り様だ。労働の概念を理解していない奴すらいるくらいだからな」
「正直荒れ果ててる場所が多くて、どこまでかスラムか分からないわよね」
「インフラ整備も行き届いてねぇ。この辺はマシだが、お前の言う通り酷いところは本当に酷い」
二人は話しながら市場を廻る。
その途中、神父が誰かと肩をぶつけた。
「おい、どこ見て歩いてやがる」
「おっと、すまないな。おや、君は──」
「てめえは……」
相手は、昔の漫画に出てくる未来人のような全身タイツ風の服装に、背中には純白のマントを羽織った少年だった。瞳は赤く、髪は白い。
「殺人神父か。こんなところで何をしている?」
少年が、訝しむような口調で神父に問うた。
「何って、買い物だよ。悪党が買い物をしちゃ悪いのか?」
「いや、当然そんなことを咎めるつもりはないが……それより、その女の子は何だ?」
少年が少女の方に目をやる。
「何でもねぇよ。ただの連れだ」
「ほう? 君が誰かと一緒に街を歩くなんて随分と珍しいな」
ますます訝しげに眉をひそめた少年を、神父が睨み付けた。
「悪いか?」
「いや……どうやら嘘ではなさそうだな。君は顔に出さずに嘘をつけるほど器用な奴じゃないだろうしし……。まあいい、悪事を働いているようではないみたいだし、今日のところは見逃してやろう」
そう言い残すと、白髪の少年は去っていった。
神父は舌打ちひとつ。
「今の人知り合いなの?」
「あぁ。俺の対極にいる男だよ……」
「?」
と。
不思議そうに小首を傾げている少女の前を、一匹の黒猫が横切った。
「あら、可愛らしい」
「黒猫が目の前を横切るって、あんまり縁起の良いことじゃ──ん?」
「どうしたの?」
そのとき、神父は眉をひそめて、呟くように言った。
「なんか今一瞬、妙に血の匂いがしたような……気のせいか?」
彼の言葉に、少女は再度首を傾げることになった。
数分後。
「野菜なんてどれを買っても同じだろ?」
「そんなことないわ。素材の重要性を分かってないなんて、神父様、やっぱり子どもね。ほら、例えばこれとこれ、触ってみて? 同じにんじんでもね……」
「俺、にんじん嫌いだって、何度も言ってるだろうが」
「こっちの台詞よ。何度も言ってるでしょ? 好き嫌いって、すっごくダメなんだよ?」
「まあ別に、食おうと思えば食えないことはねえが……」
「ていうか、神父様……よく考えたら話が矛盾してるじゃない。食べ物の味なんてどうでも良いんじゃなかったの?」
「……………………うるせぇ。……何ニヤニヤしてやがる?」
やがて、二人は目当ての食材を買い終え、最後の屋台で会計をしていた。
コインの中央に人面があり、その四方から白い四肢の伸びている店主は、明らかに神父に対して怯えを抱いていた。
彼が震える手でようやくおつりを数え終え、少女に渡そうとしたその時、
それは起こった。
背後からの、空を切る音。
突如襲来したそれに対応できたのは、その場で神父ただ一人だった。
神父は外を出歩く際、常に巨大な十字架型の武器を持ち歩いている。
彼が右の手首を後ろに返すことで、十字の鉄塊が重厚な軋みをあげて上を向いた。
瞬間、鋭い衝突音が響く。
神父が振り返ると、忍者風の戦隊ヒーローのようなスーツとヘルメットを身につけた男が、十字架を日本刀のような武器で斬りつけているところだった。
「──誰だ、お前は?」
日本刀の刀身が本来、神父そのものを狙っていたことは考えるまでもない。
神父は身体の向きを男に対面させる。
男は質問に答えることなく、日本刀にかける力を強めた。けれど十字架はピクリとも動くことはなく、彼の両足は地面に強く押し付けられる。膂力では勝てぬと瞬時に判断したらしき男は十字架の上に躍り上がると、風のような俊敏さで数手の突きを放った。
──が、神父はそのいずれをも紙一重の動作でかわすと、男が乗ったままの十字架を薙ぎ払う。
「ッ!!」
男の身体は軽々と吹き飛ばされ、向かいの屋台の屋根を突き破って落下した。悲鳴が響き、側にいた人々が散っていった。
男は怯むことなく素早く身を起こすと、神父に向けて叫んだ。
「殺人神父! 貴様の悪行は私の耳にも届いているぞ!! ここで会ったからには正義の名の元に成敗してやる!!」
「……いや、誰だ、お前は? と俺は訊いているんだが」
神父が再度問うと、相手は誰もが知っているようなヒーローのものをもじったような名前を名乗った。
「ふぅん。……そんで? そのヒーローくんが俺に何のご用だ?」
「貴様、そこの屋台の店主を襲って金でも巻き上げていたのだろう!? 許せん!」
「いや、そりゃお前さんの思い込みだ」
「ほざけぇ!」
ヒーロー男は日本刀を神父に突き付けるようにして、叫んだ。
「神父様はそんなことしないわ!」
少女が神父の無実を訴えるも、ヒーロー男の耳には届かない様子で、
「き、貴様さては、そのいたいけな少女を騙して……洗脳などして、言うことを聞かせているのだな!? ますます許せん!!」
「だから、お前の思い込みだと言ってるだろうが」
ヒーロー男は相変わらず聞く耳を持たず、日本刀を構えた。
「やめときな。お前さんじゃ俺には勝てねぇよ」
とは言うものの、相手方に戦意を沈める気がないのを分かっていた神父は、両の十字架を構える。
「俺が手にしてる十字型のコレには、軽機関銃が内蔵されている。弾薬もフル装填済みだ」
神父とヒーロー男を中心に、緊張が厭な脂汗のように広がっていく……。
「だが、今回はコイツをぶっ放す必要はないだろうさ」
神父がそう、言い終わるや否やといったところで。
どちらからともなく、駆け出し、躍り上がる──両者は空中で、凄まじい速度で数手交わす。ほぼ一つに集約された巨大な金属音が空間に広がると、直後、彼らは最初とは逆の位置で着地した。
二人は同時に振り返る。どちらにも怪我はないようだったが、勝敗は明らかだった。ヒーロー男の日本刀の刀身が鍔のあたりから折れていたのだ。
「……くぅっ!!」
それに気付いたヒーロー男の表情が悔しさに歪む。
「俺なんかと戦ってる暇あったら、かわいそうな恵まれないイマジナリーフレンドの一人や二人でも助けてやれよ。ヒーローならよ」
「お、覚えていろよっ!! 悪に明日はないっ!!」
当たり障りのない捨て台詞を吐いて、ヒーロー男は走り去っていった。
それからしばらく、その場はどこか気まずい沈黙に支配されることとなった。
「……面倒くせぇ」
やがて、神父がしぶしぶといった具合に動き出す。
「修理代だ。……元はといえば俺の金じゃねぇけどな」
神父は財布から出した数枚の紙幣をその場に投げ落とすと、少女を連れて去っていった。
帰路を歩く途中、神父は愚痴を吐き出すように言った。
「今さっきのヒーローくんもガキだ。こんな場所で戦えば周りを巻き込むのなんざ分かりきってるのに、独善的な、子どもじみた正義感の衝動に抗えない……。証拠もないことを思い込みで決めつける……。ガキそのものだ」
「その通りだわ」
少女は何だか、さっきのヒーローのイマジナリーフレンドに腹が立っていた。ありもしないことを決めつけて、神父を悪者にしたからだ。
「まあそれでも、悪人じゃないから殺せないんだがな」
「やっぱり神父様っていい人ね」
「何でだよ?」
神父は眉をひそめ、不愉快そうに尋ねた。
「襲われたのに、相手をやっつけなかっただけじゃなくて、周りのことまで考えるなんて」
少女が得意気に返答する。
「お前のそういう視野が狭いところも、本当にガキっぽいよ。見た目も中身も、俺より遥かにガキだ」
「あら、神父様の方が子どもよ。思ったことすぐ口に出したり、かと思えば素直じゃなかったり」
「……お互い様だな。皆違って、皆ガキ」
家に帰ると、特にすることもなかったので、何となく少女はテレビをつけてみた。どこの誰が生み出したのかわからないが、電波搭のイマジナリーフレンドがいるおかげで現実世界の電波を受信して、普通に番組を視聴することができるのだ。
画面には先ほどの話題になっていた人物が映っていた。
「ほら、これがピーターパンよ」
「何だこりゃ、皆して躍り回って、とち狂ってんのか?」
「ミュージカルを知らないの?」
少女が不思議なものを見るような目をする。神父はどうでも良さげに答えた。
「知らんね」
そのとき、家のインターホンが鳴った。
「あら、誰か訪ねてくるなんて珍しいわね」
「本当にな」
「誰か仕返しに来たのかしら……」
想像して、少女は少し不安な気持ちになる。だが神父はあまり気にしていないようだ。
「あり得なくはないが……しかしだとしたらわざわざチャイムなんか鳴らさないだろう」
「それもそうね」
とはいうものの、警戒心を抱きながら二人は玄関に向かう。神父は武器である十字架を持っていくのを忘れずに。
神父がチェーンをつけたまま扉を開けた。
するとそこには、土下座をした状態のヒーロー男が佇んでいたのである。
「……何でいるんだ」
これにはさすがに二人とも驚いていた。だが、ヒーロー男はそれに構わず、物凄い勢いで話し始めた。
「神父殿ぉ! 拙者はそなたのことを誤解しておった!! 今しがた街で聞いたのだ……そなたが悪人のみを殺す所謂『だーくひーろー』というものであることを!!」
「……お前、さてはガキなだけじゃなくアホだろ」
呆れ顔の神父。そして、罪悪感と敬愛の混ざった眼差しを彼に向けるヒーロー男。
「光と闇の違いはあれど、同じ正義を志す者であったというのに……拙者は……拙者は……!」
「違ぇって。俺はただの悪い奴だよ」
「そうではないだろう!? 神父殿の心には揺るぎなき善が確かに宿っておる!! 拙者はそれを感じている!!」
ヒーロー男の力強い声が遠慮なく住宅街に響き渡る。そしてそれに被せるように少女も、
「その通りよ、神父様は本当はとってもいい人なのよ!!」
「何でお前も参加してくるんだよ」
神父は両方向から聞こえてくる騒音に辟易した。
「おぉ! お嬢もそう思うでござろう!?」
「……お嬢?」
「つーかお前何か口調変わってね?」
「忍の道の原点に立ち返ったのでござるよ!!」
「意味わからんけど」
得意気に宣言するヒーロー男を前に、神父はもう彼の発言内容を気にしないことにした。面倒くさいからだ。
「……ねえ、お嬢って何?」
一方で少女は初めて向けられた謎の呼び名に困惑していた。
「とにかく!! そなたは立派なひーろーでござる!!」
「何でわたしは無視するのよ?」
「先の戦いもそうでござろう!? 不意打ちという卑怯な手を使った拙者を、傷ひとつなく打ち負かして見せた!! 力と優しさを併せ持った素晴らしき戦士っ!!」
「戦士なのかヒーローなのかハッキリしろよ」
ヒーロー男は勢いを止めることを知らずにまくし立て続ける。
「しかも!! 身寄りのない少女を保護して面倒を見ているという!! 神々しさすら感じられる、保母さんがごとき慈愛!!」
「多分保母さんってそんな神々しくはねーよ」
「そうでござろう!? お嬢!?」
「あなたがどういうジャンルの人なのかもう全然分からないんだけど……あとわたしのこと何だと思ってるの?」
神父は話の通じないヒーロー男に苛立ってきていた。早く会話を打ち切りたかったので、舌打ち混じりに、話の核心を簡潔に尋ねる。
「……それで、結局俺に何の用なんだよ?」
「弟子にしてほしいので候!!」
「口調統一しろよ」
「お願いでござる!! 良いでござろう!? 師匠!!」
「誰が師匠だ。弟子なんか取ってねぇんだよ」
「そんなぁ!? 弟子にしてくれるまで、拙者ここを動かないでござるよぉぉ!!」
ヒーロー男はそう言いながら神父に詰め寄ってきた。
「現在進行形で動きまくってんじゃねぇか」
「ごさるぅぅううう!!!!」
「それ一語だと何て返しゃ良いか分かんねぇよ。感嘆符か?」
「えぇい!! うるせぇ弟子にしろぉぉ!!」
そう言ってヒーロー男は突然躍り上がると、扉にかかったチェーンごと神父に日本刀で斬りかかってきた。神父はそれを紙一重でかわす。
「うぉぉ!? 危ねぇぞこいつ! やっぱ悪人認定して殺しちまった方が良いんじゃねえかもう!!」
「ふはは! 拙者を追い出したくば、拙者を倒してからにしろぉぉ!!」
「趣旨変わってきてんじゃねぇか! お前は俺を一体どうしたいんだよ!?」
「二人とも! 家の中が滅茶苦茶になっちゃうわ!! 遊ぶなら外で遊んでよ!」
「お前には今の光景がそんな平和的なものに見えてんのかよ!?」
それからしばらく家の中で暴れて複数の家具を破壊したヒーロー男は数分を経てどうにか落ち着き、神父によって外へ引きずり出された。そしてなし崩し的に、勢いに任せるまま戦いの稽古をするような流れになってしまった。
「お前は、動きのスジは良いくせに考えなしに突っ込み過ぎなんだよ」
「うぉぉ!? 確かにそうでござった! さすが師匠!!」
「もっと相手の目線や気配で出方を読め。それと、自分の次の動きを極力相手に読ませるな」
「確かにそれは大事でござるな!! 気を付けるでござる!!」
(大したこと言ってるわけでもないのに、死ぬほど素直な人ね……)
少女は二人の様子を覚めた気持ちで見ていた。
「でやぁぁああああああああ!! 師匠覚悟ぉぉ!!」
「お前、人の話聞いてないだろ」
そうこうしている内に時刻は夕方になった。
「師匠ー! お嬢ー! さよならー! 夕焼けチャイムが鳴ったので帰るでござるー!! また明日も来るでござるよー!!」
ヒーロー男は、神父たちに向けて手を激しく振りながら走り去っていった。
「二度と来るんじゃねぇ!!」
「嵐のように来て嵐のように去っていったわね」
「まったくだ……」
「神父様、何か珍しく充実感のある表情をしてるわね」
「…………そうか?」
「あのヒーローさんと遊ぶのが、わたしといるより楽しい?」
「そんなわけねぇだろうが。大体遊びじゃねぇし」
「ふぅん……」
少女は、自分だけ男の子同士の遊びにいれてもらえないようで、何だかモヤモヤした気持ちだった。
やがて夜になった。
先刻、ヒーロー男が暴れた際に少女の分のベッドが大破したため、今日の彼らは同じベッドで同じ毛布にくるまって眠ることになった。少女はそれに対して、少し気恥ずかしいような、胸がドキドキするような不思議な感覚を覚えていたが、神父の方は特に気にしていないようだった。
(ようやく、本当の意味でわたしが神父様を独り占めできる時間がきたわね……)
などとベッドのなかで少女が考えていると。
神父はふと気になって、少女に訊いてみた。
「そういえばお前、誰かの世話をするために生み出されたんだよな? ってことは、この町に来て、俺と会う前にも誰かの世話をしてたのか?」
少女にとって、それは愚問だった。彼女は飄々とした様子で答える。
「ううん。神父様に会ったあの日は、まだこの町に来て間もない頃だったから、そんなことなかったわ。わたしには神父様だけよ」
「何だ、そうだったのか」
「右も左も分からないっていうのに、誰も助けても話しかけてもくれないし…………神父様だけよ、わたしに良くしてくれたのは」
「……まあ、どいつもこいつもガキだからな」
神父の返答は素っ気なくて、少女にはそれは不満だった。けれど彼と話していると楽しくて、自分が少しでも興味を持たれていると思うとそれだけで嬉しかった。
「神父様はこの町に来てどれくらいなの?」
「十年は経つな」
「そんなに? 長いのね」
「あぁ、長いな」
十年──自分にとっては途方もない時間を思って、ふと、疑問と不安が少女の胸をよぎった。
「──ってことは、その間もずっと悪い人たちと喧嘩してたんだよね?」
「そりゃな」
「じゃあ……これからも、続けるんだよね?」
「もちろんだ」
神父は何でもないことのように即答した。その答えが少女の胸の不安を深めていく。彼女は溜まらず、重ねて質問をしていた。
「……でもそれって、とっても危ないことでしょ?」
「あぁ、まあ……そうだな。たまにだけど、強い奴もいるしな」
その返答はさらに少女の中の不安を刺激した。 僅かな間が空いてから、少女はまた神父に訊いた。
「神父様は……死んだりしないよね? 明日もちゃんと、帰ってきてくれるよね?」
すると、神父はすぐに答えた。
「当たり前だ。俺は非道い奴だからな。世の中、非道い奴ほど簡単には死なないものさ」
それを聞くと、少女は安心することができた。だから、また別の疑問を胸に抱く余裕も、生まれた。
「ねぇ、神父様はどうして、悪い人を殺したがるの?」
「前にも言っただろう。それは俺が『そういう風に作られた』からだ。それ以上でも以下でもねぇよ」
「それだけ?」
「そうだ。イマジナリーフレンドってのはみんな、そういうもんだろうが」
「わたしは違うけどなぁ」
「何だと?」
「わたしは、確かに『そういう風に作られた』からっていうのもあるけど……神父様のお世話をするのは、『自分が楽しいから』っていう気持ちも大きいよ」
「……フン」
神父は鼻をならした。心なしか少し嬉しそうに。
「わたしは、もう自分が感じられなくなってしまった『美味しい』っていう宝物を、自分の代わりに誰かに与えたい。その相手は、他でもない、わたしを助けてくれたあなたが良いの。これは想い主なんて関係ない、わたし自身の意思なのよ」
その日、神父はいつもより早く悪人殺しから帰ってきたので、珍しく二人で一緒に昼食をとることになった。
そこにちょうど、少女にとっては招かれざる客であるヒーロー男がやって来た。
「いやぁ、すまんでござるなぁ、お嬢。ごちそうになってしまって……」
「お構いなく……」
不満げな顔ながらも口ではそう言う少女。
「いやぁ、ありがたい!」
と、美味しそうに食事を進めるヒーロー男。さすがに今はスーツのヘルメットを脱いでおり、素顔は普通の青年だった。
「ところでお嬢、このご飯、味は大変美味しいのでござるが、味が少々薄いというか……」
その言葉に、神父は意地悪くにやりと笑った。
「そうか、お前もそう思うか。はは、コイツ、いくら指摘しても味が薄すぎたり、濃すぎたり、行ったり来たりしてるんだよ。微妙な調節ができねぇでやんの」
よってたかって料理の味の批判をされる少女。いつもはそんなことは決してないのだが、今日は何だか自分だけが不利な立場に立たされているような気がして腹立たしくなり、神父の脛を無言で蹴ってやった。
「いってぇ!? 何しやがるクソガキ!!」
「ふん、あなたたちの方がよっぽどガキよ!!」
「ところで師匠、今日はどのような稽古をしてくれるでござるか?」
一方、目の前で起きている小さな騒動を意に返すことなく関係ないことを問うてくるヒーロー男。
「はぁ? お前、人の家で飯たかった上にまた鍛えてくれなんて言うのかよ」
呆れ顔の神父──しかし結局、この後二人は先日と同じように外で稽古を始めたのだった。
「うるさい野良猫が一匹増えたな……」
「誰が野良猫よ!」
数週間が経った。
神父とヒーロー男の稽古は毎日のように続いている。最近だと神父は悪人殺しの時間をずれ込ませてヒーロー男に会うことすらあるほどだ。
「ヒーローさんのお稽古、どうなの?」
少女が何の気なしに聞いてみると、少しだけ得意気な顔を浮かべた神父が答える。きっと自分の表情には気づいていないのだろう。
「やっぱりアイツは筋が良いよ。初めて会ったときは弱っちいわ人の話聞かないわでダメだと思ったけど、飲み込みが早いから──」
「友達ができて良かったわね、神父様」
遮るように言ってやる。
「はぁ? アイツが? いや、そんなんじゃねぇよ」
口ではそう言うものの、稽古をするときの彼らの表情は、友達と全力で遊ぶ年頃の少年たちのものだった。
(あの人が神父様の友達だとすれば、わたしとこの人の関係は、一体何なのかしら……?)
朝食を運びながら、少女はそんなことを考えた。そして口では別のことを言う。
「わたし、これからもあの人の分のご飯を作らなきゃならないのね……日によっては」
「何だよ、嫌なのか? お前は『人の世話をする』イマジナリーフレンドだろ?」
「何度も言わせないで。わたしは、神父様のお世話がしたくてここにいるの」
ある日の昼食の時間。そのときもヒーロー男は神父たちの家に来ていた。
「師匠はなぜ、ヒーローであることを口では否定しているのに、悪人を殺し続けるのでござるか?」
ふと、ヒーロー男がそう言った。その質問は、少し前に少女がしたものと同じだったので、彼女は何だか、自分の方が神父を知っている気になって、少しだけ誇らしい気分になった。
「そりゃ、俺が『そういう風に作られた』からだ。それ以上でも以下でもねぇ」
回答は同じものだった。
「そう言うでござるが……でも拙者にはやはり、師匠の根本には正義の心がしっかりとあるように思うんでござるが……」
「……お前、分かってんのか? 殺人鬼に向かって『正義の心』だなんて、最大限の侮辱だぞ? 次言ったら殺すからな?」
「うーむ……そうは言ってもやはり、拙者にとってこの町で一番のヒーローは、他でもない師匠ということになっているでござるから……」
そう言って浮かべたヒーロー男の笑顔は、混じりけのない、ひた向きに何かを信じるような、愚かで純粋無垢で、綺麗なものだった。
それを見て、少女はあることに気付いた。
(そうか……わたしもこの人も、神父様に抱いている感情は、きっととても似ているんだ…………)
そうして時間は過ぎ、ヒーロー男の実力も上がっていき、いつしか二人は一緒に悪人退治をするようになり。
そして、そんなことが何度か繰り返された、ある日。
それは、起こった。
その日、悪人殺しから帰ってきた神父は傷だらけだった。そのことに気付いた途端、少女は大急ぎで部屋の奥へ救急セットを取りに走った。
「落ち着け、大丈夫だ。見た目ほどひどい怪我じゃない」
神父の言葉通り、彼の傷は見た目ほどの重症ではなかった。手当てをしながら少女はそっと胸を撫で下ろし、そして訊いた。
「神父様、今日は悪い人との喧嘩、負けちゃったの?」
少女は心配であると同時に不思議に思っていた。今まで彼が怪我をして帰ることなんて一度もなかったのに……。
「俺は……負けちゃいねぇ。せいぜい引き分けってとこだ。でも……アイツは、負けた」
「アイツ? もしかして──」
「例のヒーローくんだ。奴は殺されたよ」
少女は息を飲んだ。
今にも泣き出しそうな顔をした神父は、今日戦った相手について話し始めた。
相手のイマジナリーフレンドは、この間市場で神父とぶつかった、あの白髪の少年だった。少年は表向きはヒーローのように振る舞っているものの、裏ではコソコソと悪どいことをしているという。そしてその
悪事を神父に見咎められたことにより、彼らの標的とされたのだ。
だが、偽ヒーローはかなり強いことが伺えた。
『一度出直そう』と言う神父の言葉を聞かず、ヒーロー男はその愚直な性格にしたがって、偽ヒーローが許せず、戦力差も考えずに飛びかかった。そして──
神父は今にも泣き出しそうな顔のまま事の顛末を話し終えた。少女は、神父のこんな表情を見るのは初めてだった。彼が悪人殺しに向かう前に浮かべるのと同じ系統のものではあるが、それより遥かに途方もない感情が伺えた。
少女も胸が張り裂けそうだった──嫉妬こそ抱いていたものの、死んでほしかったわけじゃない──が、きっと神父はそれ以上に悲しいはずだ。ヒーロー男と過ごしていた時間は少女の比ではないのだ。
自分には彼に言ってあげなければならないことがある。少女はそう思った。すると自然、彼女の口は動いていた。
「あのね、神父様……わたし、あなたの気持ちがとってもよく分かるの」
「……何が分かるっていうんだ?」
萎んでしまったように、神父の問いには力がない。
「お友だちがいなくなっちゃったら、すごく悲しいわよね」
「……友だちなんかじゃなかったよ」
台本を読み上げるような口調で、けれど悲壮感の滲んだ声で否定する神父。
「でも、二人ともとっても仲が良かったわ。わたしが羨ましくなっちゃうくらいに」
「そんなことはねぇよ。俺は非道い奴だから、そういう風に生み出されたから……友だちなんか作っちゃいけないんだ」
神父はことこの話題に関して、本当に同じ文言しか返さないのだ。少女は、彼の頑固っぷりに思わず関心しそうになった。
「神父様って子どもなのに、すごく真面目な人よね」
「意味が分からねぇよ」
「でもね、神父様。あなたは非道い奴なんかじゃなくって良いのよ。わたしがわたしで、ヒーローさんがヒーローさんであったように、あなたはただ、あなたなのよ」
少女は必死に説得を続ける──だが、
「そういうわけにはいかないさ」
返ってくる言葉は変わることがない。
「……とんだ頑固者ね」
思わずそう愚痴るように言うと、神父がとても大きな溜め息を吐いた。少女はその声にちょっとビックリする。
「……そういうわけにいかない、はずなのになぁ…………俺は殺人鬼だから、こんな気持ちになっちゃいけないのにな……これじゃ、非道い奴失格だ」
「なら失格で良いじゃない。神父様は神父様なんだから……きっと、誰かに決められたように生きなきゃいけないなんてこと、ないのよ」
「……そんな、ことは…………」
神父が言葉に詰まる。少女はここぞとばかりに、先ほどよりも力強く、言ってやった。
「ねぇ、それならいっそ、殺人鬼なんて、やめちゃいなさいよ!」
「……………………」
神父は何も答えなかった。彼は泣きそうな顔のまま、黙り込んでしまった。
「わたしたち、ずっと子どもなんでしょ? 子どもなら我慢なんかしなくって良いじゃない。自分に嘘なんかつかなくて良いじゃない」
「……………………」
神父は答えない。
「…………ねえ、神父様。自分を偽るのって、すっごくダメなのよ?」
「……………………」
神父は答えない。泣きそうな顔はどんどん崩れていき、今にも感情が爆発しそうなのに、それでも何も言おうとしない。彼は少女に、自分の心を見せようとはしない。 ……やはり自分では、ダメなのだろうか? 心を開いてはくれないのだろうか? 少女の胸に不安が広がっていく。
「ねぇ、わたしじゃ力不足かしら? まだ、わたしじゃあなたに、届かないのかしら?」
少女が言うと、また、しばらく沈黙が降りた。
けれど今度は、返答があった。消え入りそうな声ではあったけれど。
「………………そんなこと、ねぇよ」
そして、
神父はその日、生まれてはじめて泣いた。
泣いて少女に飛びついた。
「よしよし……」
彼は泣きながら懇願した。
「…………なあ、頼むよ……お前は、ずっと、俺と一緒にいてくれよ! じゃないと、俺……もう、ダメになっちまうよぉ……!!」
彼はとめどない涙を、少女の小さな胸に流すこととなった。
「もちろんよ」
少女は神父の頭を優しく撫でてやる。
「俺、もう非道い殺人鬼なんて、やめちまいてぇよ……」
「なら、やめちゃえばいいわ」
「でも、今さら、そんな生き方が許されるのかな……」
「今さらとか関係ないわ。好きなように生きればいいのよ」
「でもなぁ……」
神父の声は相変わらず消え入りそうで、ひどく弱々しい。
「今まで大勢、恨みもないのに殺してきて……その揚げ句、友達まで巻き込んじまったんだ……バカだよなぁ……非道いどころか、最悪だなぁ、俺……」
「ねえ。それなら、もう悪いことはやめて、今までそうしてきた分、今度は良いことをしていくのは、どう?」
弱気な台詞を止めどなく流していく神父に、少女はそう提案した。
「でも、そんなことしたってとても許されねぇよ」
「確かに許されないかもしれないけど、だからって、ずっと悪いままでいることはないでしょ? 変わることを怖がっちゃダメ」
「そうかなぁ……」
神父は尚も不安げな様子である。
「あなたにはわたしが付いてるのよ。大丈夫よ」
少女は神父の服のポケットからマスクを探し出すと、ゴミ箱に投げ捨てた。
「ね?」
神父はしばらく押し黙ったかと思うと、少女の肩に置いていた手に力を込め、頷いた。そして、
堰を切ったようだった。
神父は再度、堰を切ったように泣いた。この世の悲しみを全て使い果たしてしまうんじゃないかと思えるくらいの、滝のような慟哭だった。
少女の胸に顔を密着させる。みっともなく、すがり付くように。
悲しみ、悔しさ、怒り──哀しみ。神父は初めて本当の感情を全力で誰かにぶつけていた。
「……よしよし」
少女はそれを受け止めた。
その夜。彼らは数日前からの習慣に従って、二人で一緒に寝ていた。
ふと、神父が溢すように呟いた。
「……俺は確かに、今まで真面目すぎたのかもしれねぇ」
「きっとそうよ」
少女がそう応じる。
「俺はもう、自分を偽らないことにした」
「えぇ、それが良いわ」
「これからは、俺は俺の好きなようにするし、自分が思ったことを言う。”性”なんか知ったことか」
神父はそう言って少女を抱き締めた。
「俺はお前が大好きだ」
少女は一瞬言葉に詰まるも、数秒後、どうにか返事を絞り出した。
「……わたしも、神父様が好きよ」
「今まで、本当にありがとうな」
「こちらこそよ。…………今まで、だけじゃなくて、これからも、でしょ?」
「あぁ、そうだな」
一瞬、沈黙が降りる。
「俺は明日、またあの偽ヒーローを殺しに行く。それは俺が非道い殺人鬼だからじゃなく、友達の敵を討つためだ」
神父は決意を新たにしたように宣言した。
「……やっぱり、行っちゃうのね」
「あぁ。明日はどうしても行かなきゃならない。これだけは譲れないんだ。……けど、必ず帰ってくる。約束するよ」
「……約束よ」
「うん。……きっと明日が、俺の最後の殺しになるはすだ」
「きっとそうね。それが良いわ」
神父は少女を抱き締める力を強めた。
「俺はお前のことが好きで好きで仕方がなかったんだ。でも、今まではどうすれば良いのか分からなくてな……こういう風にすれば良かったんだな」
「……神父様ったら、急に素直になったのね」
「本当はもう少し前から、お前にこういう風にしてやりたかったんだ」
「わたしももう少し前から、神父様にこういう風にしてもらいたかったな」
少女はおかしいやら嬉しいやらで、思わず笑い転げてしまいそうになった。
(……お友達が死んだ後なのに。
わたしって、罪深いのね。
でも嬉しいものは嬉しいのだから、どうしようもないわ。
わたし、こんなに幸せで良いのかしら?
もう、幸せすぎてダメになってしまいそう……)
「もっと前にお前と出会いたかったなぁ……もっと前から、こういう生き方ができてれば良かったのになぁ……」
「うん、その通りね」
「そうすればアイツとも、もっと色んな話ができたのかなぁ…………もっと色んなこと、言ってやれば良かったなぁ……悪いことしたなぁ……残念だなぁ…………」
それから、神父がまためそめそと泣き始めてしまったので、少女は黙って、彼を抱き締めたまま、優しく頭を撫でてあげた。
やがて二人は眠りについた。
翌朝。心なしかいつもよりずっと温かい気がする部屋で目を覚ました少女は、神父が朝御飯を食べ終えると、こう言った。
「ねぇ、神父様。キスしましょうよ」
神父はすぐに反応することができず、たっぷり十秒ほど目を白黒させた後、瞬時に顔を赤らめて、吐き出すように言った。
「はぁ!? おまっ……突然何を言ってやがる!?」
「突然じゃないわ。昨日、わたしのこと『大好き』って言ってくれたじゃない。わたしもあなたのことが好きなんだから、キスくらいしたって良いでしょう?」
少女は毅然と反論するものの、神父はというと、
「いや、うーん……確かにそうだが、しかし」
などとうだうだ言っている様子。対する少女の態度は真剣だった。
「神父様のいくじなしっ! 肝心なときにお茶を濁そうとするのって、すっっっごく、ダメなんだよ!?」
「いや、その……そういうわけじゃないんだが……しかし…………俺とお前だと、絵面的に何かこう、まずいだろう……?」
「何を言ってるの? お互い子ども同士なんだから、何もまずくないじゃない。ご託は良いから、早くキスしましょうよ」
少女は強気で、けれど内心おっかなびっくりを悟られないように、神父に詰め寄る。
神父はまだ顔を赤らめながら、往生際悪くグチグチと何か言い訳のようなものをして、
「あ、そうだ! き、今日の朝飯な……また少し、味が薄かったぞ!? 晩飯のときは気を付けろよ!?」
強引に話題を逸らしてきた。
「えっ、あ……ごめんなさい……」
唐突に責められたことで咄嗟に少女が謝ると、神父はその隙をついて、さっさと準備をして出掛けていってしまった。
「じゃあな、行ってくる! 晩飯、期待してるからな!!」
かなりの大勝負をするはずだが、神父はまるで学校や職場にでも行くような気楽さで、ちゃんとしたお見送りもできなかった。
「神父様ー! 絶対、帰ってきてねー!!」
せめてそう、大きく声をかけると、既に家からかなり離れていた神父は立ち止まった。先ほどの慌てふためいた様子はどこにもない。彼は何かを決意するような硬質な空気を漂わせて、言い切った。
「……当たり前だ。昨日、約束したからな」
そして、勢いよく駆け出す。神父の足は速く、彼の姿はすぐに見えなくなった。
一人になってからも、けれど少女は不安になるようなことはなかった。彼のことを心から信じていたからだ。
約束したのだから。
彼は絶対、帰ってくるはずだ。
少女は、彼が帰宅する前に夕食を作らなければならないことや、彼が帰宅してから返り血にまみれた衣服を洗うこと……そしてキスの約束に想いを馳せた。
(また味が薄いって言われちゃったから、今度こそ気を付けないと)
そう思いながら少女は黙々と、一生懸命料理を作った。
(ヒーローさんには申し訳ないけど、わたしなんだか、これからもっともっと幸せになってしまいそう……。
あの人が帰ってきたら、今度こそ────)
●◯●
スラム街の一角。積み上げられたイマジナリーフレンドの死体の上に、白髪の少年は座っていた。空虚な赤い瞳には何も映っておらず、手は血で染まっている。
彼は、近付いてくる者の気配に気付いていた。
「やはり来たか、殺人神父」
廃墟の影から、神父は姿を現した。
「当たり前だ」
「……おや、今日はマスクを持ってきていないのか?」
「今日は殺人鬼としてここに来たわけじゃないからな」
一人の殺人鬼と、一人の元殺人鬼の対面。
少年は神父の返答に眉を潜めた。
「ほう? では何の用で来たというんだ?」
「今の俺は、友達の敵を取りに来た奴だよ」
神父は、あくまで堂々とした口調で言い切る。
「友達? あのバカな忍者のことか?」
「そうだ。悪いか?」
「まさか貴様の口からそんな単語が飛び出すとはな……」
少年は呆れと驚きを混ぜたような表情で、いぶかしげに呟いた。
「それに、敵を取るだと? 『そういう風に作られたから』という理由でしか存在できないイマジナリーフレンドが、そんな明確な個人的理由で行動しようなどと──」
「俺は、俺がお前を憎いから殺すんだ。どういう風に作られたからなんて、もう関係ねえ」
神父は少年を遮って、彼の発言を否定した。対する少年は眉間の皺を深める。
「何を馬鹿なことを……子どもの残りカスでしかない我々に、そんな自主性があるものか……」
「うるせぇな、そんなのテメェが決めることじゃないだろうが。それより、早く始めようぜ。こっちはとっととテメェをぶち殺して、家に帰りたいんだよ。連れも待ってるんだ」
「連れだと? この間一緒に歩いていた娘か? ……あれはお前の何なんだ?」
「一言じゃ言い表せねぇくらい大切な奴さ」
キッパリと言い切る神父。
「曖昧な答えだな。もしかして自分でもよく分かっていないんじゃないか?」
「……かもな。だが、それを考えていく時間は、これから先たくさんある」
「ほざけ。貴様に残された時間はあと僅かだよ」
少年は死体の山から飛び降り、空中で一度跳ねるようにしてから着地した。
一度に三回まで、宙を跳ねることができる──少年の足に内在する能力だった。
「こっちの台詞だ、白髪野郎」
そうして両者は、同時に駆け出した。片やいつもと同じ、自分の”性”という流れに押され、身を任せるように。
片や、確かな重みを持った、彼自身の意思で。