#001:唐突な異変
早朝の登校ルートには、相変わらず遅刻しそうな学生が走っていたり、その横を自転車で余裕ぶっこいた学生が颯爽と通り抜ける。そんな中、俺――倭 圭一は、やっぱ例に漏れず遅刻寸前組の仲間入りをしていた。
「ちっくしょー、ねぇちゃんに捕まらなかったらこんな事には……!」
走りながら思わず本音が出る。学校はもうすぐそこだが、最後の難所である急な坂が立ちはだかる。正直ここで脱落するやつはかなりいる。
……が、負けるもんか、これでも毎日無遅刻無欠勤の皆勤賞なんだぜ。こんな坂もう――
「お前ら、門を閉めるぞ〜。さっさと来い!」
――なんだとぉぉぉぉぉ!?
今何分だ?まだ51分じゃないか。まずあり得ん、門が閉まるのは8時ちょうどのはずだ。これは富永(意地の悪〜い体育教師!みんなの嫌われもん!)の罠か!?
「くぉら富永ァァァ!」
俺は多分今までにないくらいの全力疾走で坂を上りきり、目をまん丸にした富永の前に詰め寄った。もちろん、既に校門は越えている。
「な、な、なんだ倭!今のは100M12秒どころの早さじゃなかったぞ!?」
「ごまかすなよテメェ、今何分だと思ってやがる!門が閉まるのは8時ちょうどだろうが!」
富永の主に走りに対する俺へのコメントは軽く無視。詰め寄って問いただせば、そんなはずはないぞと自分の腕時計を見せてきた。
「……富永、アンタなぁ。これ5分早いだろ」
「なんだと?携帯もこの時間なんだぞ!」
さらに携帯を見せようとごそごそポケットを探る富永に、俺は決定打を与えてやった。
「アレを見ろよ」
「む……」
校舎のてっぺんで輝く時計。その針は間違いなく、7時55分を指していた。
「いやー間違いとはいえ、倭が富永を押さえといてくれなかったら一巻の終わりだったぜ」
教室に入って疲れを癒していると、机に冷えた缶コーラが置かれる。
それをおいた人物を見上げ、俺は軽く手を挙げた。
「よぉ、おはよ。今日は遅刻じゃねーのか」
「倭のおかげでな。しっかし富永じゃないが、お前本気出したらマジで陸上部のエース堅いんじゃないか」
多分今日の俺のあの坂道疾走のことを言ってるんだろう、相手――雅 小唄はニコニコしながら俺の肩を叩く。
「まーあれくらいは、本気出せばな。ところでこれ、くれんの?」
さりげなく偶然を自慢するかのように装い、俺は目の前のコーラを指差して話題転換する。小唄はニコニコしたまま、もちろんと頷いた。
「今この教室にいられんのもお前のおかげ!このくらい安い投資だぜ」
「投資ってなぁ……俺は株券じゃねーぞ」
あからさまに笑みの張り付いた小唄に、コーラを開けながらこいつ向きの冗談で返す。小唄の実家はミヤビコーポレーションとかいう大企業で、主に貿易関連で活躍している。が、こいつが子会社の雅ファンド――たしか投資関連の会社――の社長だっていう話はあんまり知られてない。
「俺的にはお前は株なんてもんじゃなく、国債みたいな堅実なもんだと思うがね」
ちちち、と指を振る小唄。が、俺にはそのあたりから単語の意味が全く解らん。
「国債てなんだよ?グローバルなんたらとかか?」
「いやいやいやそりゃ違う、株とは違ってだな……」
「授業をはじめますよー」
必死に俺向けに説明を考える小唄を遮り、教師が入ってくる。仕方なくとばかりに隣の席に座る小唄を後目に、俺はコーラを飲み干した。
雅 小唄はなかなかの美形として校内どころか他校でも名が知られていた。昼休みに小唄の席の周りに群がる女生徒たちに、俺は軽く胸焼けを起こす。
キャーキャー言うのはまだいい、色気のつもりか香水やら化粧の匂いがハンパない。正直化粧品の匂いには姉貴で慣れてるが、ここまで来れば異常だ。
俺はげんなりしながら席を立ち、女の子に囲まれて顔すら見えない小唄に声をかける。次は移動教室だ。
「少し早いけど俺、先行くわ。席取っといてやるから」
「えー!待ってよ俺も行くから!」
案の定慌てて教科書を用意する小唄に、周りの女生徒たちがえー、と残念そうな声を上げる。なんというはた迷惑。
「まだいいじゃない、小唄くんの話聞きたい〜」
「ごめんね〜、早く行かないと良い席埋まっちゃうんだ!」
やんわりと女の子を宥めつつ、小唄は俺に行こうかと言って肩を叩く。頷いて、俺は教室から足早に立ち去った。
まだ人がいない理科室の机の上、溜息を吐いて小唄が突っ伏した。その机、薬品染み付いてんだが。
「助かったよ……」
「嫌なら拒絶すりゃいいだろ?」
お人好しのこいつがどう答えるかなんて知っていたが、あえて言ってみる。案の定、答えは同じだ。
「いや〜、好意を持ってくれんのはありがたいからさぁ」
そらきた、だからいらん噂が立つんだ。
小唄は男女関係なく誰にでも優しい。そしてとりわけ顔も良い。細目がちでやや切れ長の目は、毎日ニコニコしているせいか鋭い感じはしない。加えて、アメリカ人の父親譲りのくすんだ金髪、特徴的な灰色の目。確かに、日本人にはないタイプの、だが好まれやすい美形だった。
対して俺は、こいつより身長が低い。自分では顔も普通で、こいつよりかは学生らしい――ようは子供じみた外見だと思う。ただひとつ、髪が赤いくらいが他とは確かに違う。母方の遺伝らしいが、よくは知らない。それにしたって、俺と小唄が並ぶとさぞかしカラフルなことだろう。
「嫌なもんは嫌って言わないと、いつか痛い目見るぞ。女は怖いからな」
ある意味比べるのはどうかとも思うが、俺は唯一の家族である姉貴を思い浮かべる。姉というより母親みたいな立場だが、正直言っていろんな意味で洒落にならないことばかりしてくれる。今日遅刻しかけたのだってそれが原因だ。
「まぁそりゃそうだけど……かといってなんて言うべきかもわからないし」
肩をすくめ、小唄は苦笑する。気持ちは解らないでもない。
そんな他愛ない話をしていると、ふと教室が未だに静かなことに気付く。
時計を見れば、既に授業が始まっていても良い時間。小唄もそのことに気付いたのか、手にしていた時間割を見ながら首を傾げた。
「急に教室が変わったにしても、変だよな?普通張り紙とか貼りに来るはずだし」
まず当たり前のことを言う小唄に、俺は頷いてあたりを見回す。気持ち悪いくらい物音が感じられない教室は、沈黙の「音」すら聞こえない。
「……つーか、この隣、美術室じゃないか?たしか隣のクラスが授業やってるはずだろ?」
俺の言いたいことに小唄も気付いたのか、やや不安そうに眉をひそめる。席を立って教室を見渡しても、まったく変化は――
いや、あった。
「なんだ、これ?」
教室の中心に当然の如くあった「それ」に、何故今まで気付かなかったのか。いや、もしかするとたった今出現したのかもしれないそれは、藍色の――人の頭くらいもある宝石のように見えた。
が、それがただの宝石でないのは、俺でなくても解る。
種も仕掛けもおそらく無く、そいつは浮いていた。
「綺麗、だな」
ぼそりと、小唄が呟く。そこに関しては異論はなかったが、俺も小唄もその「宝石」に近寄りたくはなかった。本能と言うべきか、この宝石に近寄れば何か良くないことが起こりそうな――
そんな事を考えていると、ぐい、と身体が引っ張られた。慌てて小唄を見れば、同じような感覚を受けたのだろうか、困惑した様子でこちらを見ていた。
「い、今引っ張っ……」
「俺じゃないぞ……」
さすがに俺も小唄も、不安は隠せない。小唄の腕を掴んで教室から出るように促すが、その瞬間、先程以上に強い力で体を引っ張られた。
そのあとのことは、あまり理解できなかった。
何かを突き破るような感覚、そして落下するときに感じる、胃がすくむような感覚。そこで今落下していると理解すると、しっかりと手を握る誰か――たぶん小唄だ――を認識した。
うっすらと目を開くような余裕もない。手を握る相手を引き寄せようと目を瞑ったまま腕を突き出すと、制服の裾らしきものが手に引っかかる。夢中でそれを掴んで、離れないよう引き寄せた瞬間――
また、何かを突き破った。
どさりと、落下時間にしてはかなり軽い衝撃ではっとする。たとえるならばそれは、足を引っ掛けて転んだくらいの衝撃。
もう落下していないとわかり、俺は目を開く。真っ先に入ってきたのは灼けるような太陽の光で、瞬時に目を反らした。視界の端に、見慣れた金髪が映る。そこでようやく、俺は小唄がいることに安堵した。
「おい、小唄。大丈夫か?」
半分俺に覆い被さるように倒れている小唄を助け起こし、べちべちと頬を叩く。うぅ、と月並みな呻きを上げて、小唄はうっすら目を開く。
「よし、生きてるな」
「生きてるよそりゃ……この歳で死んでたまるか」
溜息を吐いて起き上がり、小唄はあたりを見回す。それにつられて、俺も周囲を見渡した。
「……なんだ、ここ」
立ち上がり、服の埃を払いながら見渡す。視界には、石造りの古びた建物と、広大な海が広がっていた。
「マヤ文明とかエジプトみたいだな。神殿……にしてはもう、かなり古そうだし、使われてなさそうだけど」
確かに、小唄の言うように建物の一部は崩れかけ、テレビなんかでチラッと見たような古代文明の遺跡と通じるものがある。今居る場所はさしずめ玄関みたいなものか、すぐそこには建物の中に続く階段と、その上に天井があったことを示す柱があった。
「かなり崩れてるな……中に入っても意味はないかもな」
溜息を吐いて、俺は肩をすくめる。小唄は少し神殿に興味があるようだが、それ以前に状況を把握するほうを選んだのだろう、小さく頷いて同じように溜息を吐いた。
「――、」
ふと、俺の耳元を何かの声がかすめた。
鈴みたいな、凛とした、だが儚い声。
なんて言ったのか――もう一度、と考えれば、不思議ともう一度、その声が耳についた。
「神殿……へ……?」
「……倭?」
驚いた様子で、小唄が俺の呟きに反応する。小唄にも、あの声は聞こえていたのかも知れない。
「中に入れ――って、聞こえたよな?」
「――」
そう呟けば、小唄は沈黙する。多分、同じ事が聞こえたんだろう。
「……なんかちょっと怖くないか?」
眉をひそめ、小唄は呟く。考えるまでもなく、不可解だし気持ちが悪い。が、これ以外情報といえるものは実際のところ無い。
「……危なくなったら逃げるってことで」
「ま、マジか……」
泣きそうな顔で小唄が肩を落とす。変なところで、こいつは小心者だ。
「……嫌ならここ居てもいいぞ」
実際人気のないこの場所なら、留守番でも差し障りない。そう思いながら言えば、小唄はいやいやと首を振って俺の腕を掴む。
「こんなとこで独りとか有り得ないって、マジで」
相変わらず予想できる答えに、俺は苦笑して歩き始めた。