沈黙の魔術師の沈黙 ―サイレント・サイレント・サイレント―
『俺はあいつを生き返らせる。そのためにここに来た』
科学が発展し、魔術が異端とされ、魔術師たちがささやかに生きる時代。
現代社会に溶け込む術を教える「ウェストサイド魔術学園」に一人の少年が入学した。
彼の名はシュウ=フェイカー。幼い頃に受けた魔術の影響で声を失った彼の目的はただ一つ。
死者蘇生――通称「第8番」と呼ばれる禁忌の魔術を完成させることだった。
「魔術の基本は詠唱よ。あんたみたいな人がこの学園で何を学べるって言うの?」
魔術師人口のおよそ9割が女性で占められる世界。
詠唱文を読み上げることができず、ろくに魔術も使えない彼への風当たりは強い。
けれど、彼女たちはまだ知らない。
彼が、シュウ=フェイカーが、やがて「沈黙の魔術師」と呼ばれる大魔術師になるということを。
これは声を失った少年が、大切な人を生き返らせるまでの――愛と沈黙の物語。
たとえそこが地獄でも、君と二人なら幸せだった。
――この世界にはね、ちょっとだけ魔術が残ってるの。
その日は躯骸が外をうろついていたので、僕とエヴァは古びた排水管の中で、紙切れに文字を書いて会話をしていた。
昨日ゴミ山から偶然見つけた宝物、魔術の本。彼女はそれをぱらぱらとめくって、何やら難しい記号が書いてあるページを僕に見せた。
――ほら、ここ。詠唱と触媒さえあれば、素質がある人間なら誰でも扱えるって書いてあるわ。
――素質かあ……残念だけど僕には無理そう。
――見たい?
目線をあげると、エヴァが意味ありげに笑っていた。
え、まさか……?
次いで僕が文字を書き足そうとした、その時。
辺り一面に警戒音が鳴り響いた。
反響に反響を重ね、出どころの分からない警戒音。
やがてアナウンスが流れだし、躯骸たちが動き出す音がする。
【エラーコード:50500】【生体反応を確認しました。速やかに排除を行います】【エラーコード:50500】【生体反応を確認しました。速やかに排除を行います】【エラーコード――
躯骸が動き出す音がして、僕たちは息を殺した。
躯骸は人の形をした化け物だ。
肌は破れ、肉は飛び出し、濁った体液が泡立ちながら吹き出している。
目の周りには布が捲かれて視界が奪われているけれど、聴覚が非常に敏感で、ささいな音にも反応し、音の発生源に襲い掛かる。
今も誰かが食べられているようで、悲痛な絶叫が辺りに響き渡っている。
巨大な地下空間。躯骸と、年端のいかない子供たちだけが存在する世界。
数か月前、記憶を失っていた僕はゴミ山の中からエヴァに助けられ――以来ずっと、一緒に過ごしている。
「ちょうど誰かが食べられてるみたいね」
エヴァが耳元で囁いた。警戒音が鳴っている間は、その音に紛れるくらいの囁き声であれば、躯骸に察知されることはなかった。
「見てて?」
そして彼女は、近くに落ちていた鉄の棒きれを掴んで、小さな声で唱えた。
「鉄は灰に。灰は火花に。一片の光を、希い奉る」
瞬間、エヴァの握っていた鉄の棒から色とりどりの火花が散った。
深紅に黄色、藍色に橙色。無数の火花が辺りに飛んで、排水管の中を鮮やかに照らした。
「どう、ロマンチックでしょう? 触媒がもっといい物なら、他にも色々試せるんだけど……この棒じゃ、こんなものよね。……ちょっとがっかりさせちゃった?」
「そ、そんなことないよ。すごいよエヴァ。本当に魔術が使えるんだね!」
「お気に召したようで良かったわ」
そう言うとエヴァは僕の耳元に口を寄せて、そしてそのまま優しく食んだ。生暖かい舌が耳朶を這うと、痺れるような感覚が全身を襲った。
いつものスキンシップ。いつものじゃれ合い。
大きな声を出せない僕たちは、いつも耳元で会話を交わしていたから、いつしか互いの耳に口や舌を這わせることが、一つの愛情表現のようになっていた。
「エ、エヴァ……やっぱり……汚いよ……」
「好きな人の体に、汚いところなんてないのよ」
「僕のこと……好き、なの?」
「もちろん。じゃないと、こんなことしないわ」
「どうして好きなの?」
「人を好きになることに、理由なんているのかしら? もうこんなにも行動で示しているのに」
「それは……そうだけど」
「シュウは、私のこと好き?」
「う、うん……」
「じゃあ、あなたもして?」
彼女はそう言って、自分の耳を僕の口元に寄せた。
僕はおずおずと、エヴァの形のいい耳殻に舌を這わせた。彼女は熱っぽい息を吐いて、小刻みに震えながら僕の体を抱いた。声を出さないようにするためか、彼女が優しく首筋を噛む。その刺激が、僕の呼吸を早くした。
「ねえ、シュウ……。外の世界に出たい?」
「……どうだろう。エヴァと一緒なら、このままでもいい……かな」
「ふふ、嬉しい……。じゃあ、私が出たいって言ったら?」
「そしたら一緒に外に出たい」
「ありがとう、シュウ。大好きよ」
そしてまた、エヴァは僕の首筋にキスをした。
誰かが躯骸に襲われている時だけ、僕たちはこうして抱き合った。
外からは誰かの叫び声が聞こえていて、警戒音がうぁんうぁんと響いている。
そんな音を聞きながら、美しく爆ぜる光の元、僕たちは二人、戯れ合う。
声が漏れないように顔を寄せ合い、耳元で熱っぽく言葉を交わし、高ぶる気持ちを抑えもせずに、互いの耳に舌を這わせる。
近くで誰かが死んでいた。
次は僕たちの番かもしれなかった。
あまりにも死の近くで生きていた僕たちは、それゆえにひどく刹那的に生きていた。
「でも、このままじゃいけないわ」
エヴァのつぶやきの意味を、僕は理解できなかったけれど。
エヴァは思慮深くて聡明で、何をするにも彼女の言う通りにしていればうまくいったから。
「そうだね」
僕は静かに頷いた。
※
そんな毎日が続くと思っていたある日のこと。僕はエヴァとゴミ山に来ていた。
「見せたいものがあるの」
彼女はそれ以上何も言わず、黙って僕を連れてきた。
だけど……その日は近くに躯骸が徘徊していた。
ゴミを漁れば、どうしたって音が鳴る。何を見せるつもりかは知らないが、今日はやめておいた方がいいのではないだろうか。
嫌な予感がする。胸の奥がざわつく。
不安に思った僕は、彼女の手を取り、引き留めようとした。
だけどその前に、
「シュウ、よく聞いて」
エヴァが僕を抱きしめた。
僕を包む両腕に優しく力をこめながら、彼女は囁く。
「あなたは、強くなりなさい。一人でも生きていけるくらい、強く、逞しくなりなさい」
エヴァの言っていることは、よく分からなかった。
「強さって、なに?」
「難しい質問ね。でも、答えは簡単よ。強さっていうのはね、もう無理だって思った時、辛くて辛くて仕方がない時、それでももう後一歩が踏み出せる。そんな力のことなのよ」
「よく、分からないよ……」
「今はまだ分からないかもしれない。だけど、よく覚えておいて。私のこの言葉を、ずっとずっと、忘れないでいて」
エヴァは体を離し、僕の頭を優しく撫でた。
そして額に一つ、キスをして――
「さよなら、シュウ」
「え……?」
どんっと胸のあたりを押され、僕はゴミ山に倒れ込んだ。
がちゃがちゃとした騒音が響き、途端に周囲に警戒音が鳴った。
あたりを徘徊していた躯骸の顔が一斉にこちらを向き、湿った音を響かせながら僕に近づいてくる。
エヴァはどこからか取り出した鉄の棒を握りしめたまま、艶やかな髪に視線を隠していた。
「なん、で……?」
エヴァは答えない。
「なんでなの、エヴァ……?」
エヴァは答えない。
うつむいたまま、何かをぶつぶつと呟いている。
「ねえ、答えてよ! エヴァ!」
僕の、叫びは。
しかし強烈な金属音にかき消された。
キィイイィィィィイイイイイイイン!
発生源は、エヴァの握っていた鉄の棒だった。
ぐぎり。
と、音が聞こえるくらいの速度で躯骸の顔が九十度曲がり、エヴァに向かって歩み出す。
「な、何してるの……?」
まったく理解が追い付かない。
どうして僕を突き飛ばした?
どうして魔術で音を出した?
そんなことをしたら、躯骸に見つかってしまうのに……っ!
まとまらない思考を持て余した僕には目もくれず、エヴァの口はとどまることなく動き続けていた。
意味のないような言葉の羅列。
理解できない単語の配列。
詠唱。
「声に鉄。音に釘。大地に捧ぐは無音の詩。虚空に祀るは命の灯火。忘れず、答えず、希わくば、沈黙貫く花となり、後顧を憂うる根を巡らせろ!」
一体の躯骸がエヴァの足に噛みついた。
僕は悲鳴をあげて立ち上がった。
その時、気付く。
自分の声が、出ないということに。
(なんで、声が……っ⁉)
喉を抑えても、どれだけ声を張り上げようとしても、声は形にならなかった。
声を失った僕を躯骸たちは認識できず、金属音を纏いながら詠唱を続けるエヴァの元にぞろぞろと群がっていく。
エヴァは続ける。
「次いで我が願うのは、森羅万象悉く、絶海駆ける嵐なり! 走れ、走れ、疾く奔れ!」
数匹の躯骸が、彼女を羽交い絞めにして、その内の一体がほっそりとした腰に歯を立てた。
彼女が着ていた灰色のワンピースに、真っ赤な血がじわりと広がる。
それでもエヴァは、詠唱を止めない。
「……っ、吹き抜けろ、吹き荒れろ、止まることなく吹き晒せ! 羽搏き傅き、命を燃やし、今、永劫の空へと面を上げん!」
次の瞬間、僕の体が宙に浮かんだ。
翡翠色の光が僕を包み、体は上へ上へと浮き始め、大穴の中へと吸い込まれていく。
そこは地上から落とされたゴミの出口。
この地下施設の中で唯一、地上とつながる場所。
僕はここにきてようやく彼女の意図を悟り、叫んだ。エヴァの名を叫んだ。
けれど僕の声は形にならず、決して彼女に届くことはない。
必死に宙で体をバタつかせ、エヴァに向かって手を伸ばす。
エヴァは困ったように笑いながら、首を横に振った。少しずつなくなっていく自分の体にはちっとも興味がないみたいに、だけど引きちぎれる体の痛みに涙を流しながら、それでも穏やかな表情で僕を見つめていた。
一陣の風が吹き抜けた。
魔術によって生まれた、意志のある風は、僕の体を運んでいく。
エヴァの姿が遠のいていく。警戒音が聞こえなくなっていく。
僕の体が穴に消える直前、群がった躯骸の隙間から覗いたエヴァの口が小さく動いて、
「生きて、シュウ」
それが僕の目にした、彼女の最後の姿だった。