亀戸の紙芝居男
昭和はじめ、それは目が眩むほどに酷く煌びやかな表と、淫猥・猟奇の泥沼のような裏が乱雑に入り乱れた時代。
亀戸の長屋に居つく相楽弟国は、己で絵を描き語る珍しいタイプの紙芝居屋だ。語りはいま一つなのだが派手に描かれる紙芝居――野垂れ死に寸前の弟国を助けた私立探偵鈴置成太朗をモデルとした物語が、子どもたちよりの人気を博している。
その成太朗からは、版元と契約し絵師としての生業をと勧められるが「子どもが好きだから」という理由を付けては街を回る弟国。
そんな中、逢魔が時に子供たちをかどわかす輩がいるという噂がまことしやかに流れてきたのだが――
さあさ、お立合い。そちらの坊ちゃん、あちらの嬢ちゃん、用意はよいか。
亀戸の紙芝居男が織りなす、闇と混沌の物語の始まり、始まりぃ。
――拍子木に釣られて来やるは子か子か子子か、食まれ喰われて鳴くのは誰ぞ
はぁ、はぁ、はぁっ。
息も絶え絶えに逃げ続ける男。背後を気にしながらどうしてこうなったのだと自問しても答えは返ってくることはない。
もうどれくらいこうして暗闇から逃げ回っているのか時間の感覚さえも朧げだ。
「喉……み、ず、どこか」
朦朧とした頭の片隅で、ちょろちょろと何かが流れる音を水だと信じ飛びついた。岩肌だと思いこみ、吸い付いたそれは生温かくぬめりと舌を撫でる。
次いで金気臭い匂いが鼻を襲った。
「おぶぅ、ぐ、……血?」
我に返り男がその眼に映したものは、裸の男女が重なり合い潰れた肉の岩。
「げえぇっ!」
自分が飲み込んだものが何であったかを知ると、男はその場にへたり込みえづく。
そのすぐ目の前にも、首を大きく捻り曲がった壊れた人形のようなモノが転がっていた。
ひっ、ひっ、と喉奥からの痙攣が身体中を蝕みはじめていく。
動かぬ身体で辛うじて残る理性が、今日の男の犯した罪を振り返った。しかし、幾度脳漿を絞ろうとも、自分がそこまでのことをしでかしたとは思えない。
男はただ、自分よりも少し人気のある男から、ネタ元を拝借しようとしただけだった――
「ほら、それが二十一巻の犯人の最後さあ。これを描くのは随分と骨が折れたっけ。その赤がね、上手く出なくって」
突然澄んだ声が耳もとに響く。
役者と言われても通りそうな美声だが、今の男には悪魔の爪に耳を突き立てられているようにしか感じられなかった。
「んー、どうしたの?コレが欲しかったんじゃないの?だから嘘を吐いて、僕に疑いをかけて、家から盗み出そうとしたんじゃあないか」
くつくつと忍び笑う声も、すでにその男には届きにくくなっている。闇の中から金色の瞳が二つ新たに浮かび上がった。
「もういいじゃろう、笛吹きの。そいつが壊れる前に、早う喰わせろ」
じゅるりと舌を舐めずる音が待ちきれないと催促する。あちらこちらに散らばる人だったものが影となり、集まり、そして輪郭を帯び始めた。
「ん、いいよ。でも間違えないで、フルヒト。僕は笛吹きなんかじゃない」
「こだわるのお」
恐怖が男を支配し終われば末期の断末魔が新たな闇に呑まれていく。
フルヒトと呼ばれた金色が満足げに「ではなんぞ」と尋ねると、ソレは歌うように語った。
「ただの――紙芝居屋さぁ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「さあ、激流に飲まれた名探偵涼成置太郎の運命にゃ、いかに!待て、次回!」
仕舞いの口上を言い切り、どうだと言わんばかりに拍子木を叩く。
そうして紙芝居屋、相楽弟国はいつものように子どもたちからの湧き上がる声を待った。
がしかし、今日も弟国の紙芝居を見にやってくる子どもたちの声はシビアだ。
「まーた、噛んだ。弟国ぃー、にゃ、はねえよ、にゃは」
「あと、間が悪ぃんだよな。ほら川に落ちるところなんかさあ」
などと一つ一つ論う。
昭和六年、先の大恐慌からの未曽有の就職難、首切りなどを要因として、元手のかからない紙芝居屋は爆発的に数を増やした。
子どもたちの新たな娯楽と言えば紙芝居と言っていいほどの大人気となり、数多の紙芝居屋が先を競い、街を回る。
目の肥えた子どもたちは正直だ。紙芝居が面白くなければ集まらない。
一度見たことのある紙芝居などはよく覚えていて、二度目をかければあの親父は何度も同じものをやると口コミを回す。
だからこそ紙芝居屋は毎日版元に通い、新しく人気のある紙芝居を借り受けるのに必死だった。
しかし弟国は違った。彼は自ら絵を描き子どもたちに語る。
組合に入る必要もない、他所の紙芝居屋と新しいネタものを競い会うこともない。好きな絵を描きそれを語る。
ただ、それもいい面だけとは限らない。それがこの、常連の子どもたちからのダメ出しだった。
「いやあ、今日は結構いけたと思うんだけどなあ」
鳥打帽を外し、ポリポリと頭を掻きながら弟国は眉尻を下げた。
黒いとは言い難い茶けた色だがパアマネントをかけたようなくるりとした髪に、濃い緑がかった不思議な色合いの瞳。長い睫毛と柔らかい口元と、見た目だけならば若い映画スタアのような様子だ。
けれどもどこかが抜けており、頼りない。
「ダメダメ!せっかく話が面白いのに、ぜーんぶ弟国の語りで台無しだよ」
「ぐっ、そこまで言う?」
酷い、と泣き真似をして見せる。普通の紙芝居屋のおやじならばこんなじゃれ合いなどしていく暇はないし、面白くもなければ子どもたちもさっさと離れて行く。
結局こういったところも子どもたちに気に入られている一因なのだろう。
そしてもう一つ、子どもたちが彼の周りに集まる理由がある。
「そりゃあ主役の名前を三回も言い間違える紙芝居屋なんて、お前くらいしかいないだろ?」
弟国が振り返ると、中折れ帽に縞のスーツを粋に着こなした、男が自転車の籠を漁り、ちゃっかりと売り物の飴を咥えているところだった。
それを見て、残っていた子どもたちが歓喜の声を上げた。
「うわっ!名探偵、置太朗だっ!」
「ばーか、がきんちょども。俺は鈴置成太朗だって言ってるだろうが。紙芝居と一緒にすんな」
けらけらと笑いながら、まとわりつく子どもたちと気軽に会話をしていくこの男こそ、弟国の紙芝居『名探偵涼成置太郎の冒険』のモデル、探偵・鈴置成太朗だ。
切れ長の目元に通った鼻筋、薄い唇から零れるのは、魅力的なバリトン。
しなやかですらりとした体躯の彼を誰もが魅力的な男だと言うだろう。しかし、行儀という点においてはいささかなっていない。
「成さん!飴を勝手に食べるなって」
「固いこと言うな。ほれ、飯行くぞ」
棒飴の残りをバリバリと噛み砕くと、さっさと歩き出して行ってしまう。弟国は紙芝居を片付け、子どもたちに別れを告げると、急ぎその後を追った。
そうしてひいた自転車を成太朗の横に付けると、大きくため息を吐いた。
「ああ、一銭損をした」
「飯を奢ってやるんだから、損じゃないだろう。そんなことよりも、盗みに入られたって聞いたが、本当か?」
「んー、一昨日ちょっとね。警察に呼ばれている内に、誰かが入り込んだみたい」
先週、拾った財布を弟国が警察へと届けたのだが、落としたという者から中身が抜き取られていると言われ、あらためて警察に呼ばれた。その隙を狙われたのだ。
「古人に騒ぎ立てられて逃げたって。隣のおばちゃんが早くに気がついてくれたみたいで、何も取られなかったよ」
「ふるひ……ああ、お前んトコの猫か。番猫かよ、やるなあ」
手のひらをぱんぱんと叩き面白がる成太朗。しかし、声は笑っていない。
「ま、何かあればすぐに連絡入れろ」
こういう時だけは、弟国も素直に頷く。
大正から昭和へと移り変わったその日、冷たい北風吹き荒れる中で成太朗に救われた。それからというもの、彼は何かと弟国を気にかけてくれている。
急ぎ長屋へ立ち寄り、紙芝居の入った箱を片付けていると、タンスの陰でにゃあ、と鳴く声がした。
それを無視して弟国はいつもの飲み屋に足を早める。すでに卓一杯に並べた料理を前にした成太朗がビール瓶を片手に手酌している向かいに座った。
弟国が早速と箸を持つと、成太朗がビール瓶を揺らして見せる。
「おい」
「飲まないよ」
「つまんねえの」
毎回同じことを言って繰り返す。
そうして卓の半分が弟国の胃に詰め込まれ、二本目のビールが置かれた頃になって、ようやく成太朗の口が開いた。
「上野でな、最近ちょっと嫌な噂が流れてきている」
「んん?どう、いった?」
弟国は顔に似合わぬほどの大ぐらいだ。目の前に食べ物がある時に箸を止めることなど考えたこともない。今も口をもごもごと動かしながら答える。
慣れている成太朗もそんなことは気にせずに話を続けた。
「子どもがいなくなるんだとよ。かどわかしだ、もう六人出ているらしい」
「へー。上野だけで?ちょっと多いね」
「おう。それがな、たまたまそれらしい様子を見かけた奴がいたんだが、そいつの話によるとだな」
コップについだビールを目の高さにまで持ち上げた。弟国の目の端を、しゅわしゅわと黄金色が楽しそうに弾け踊る。
――自転車を引いた、若い『紙芝居屋』に連れられていくんだとよ。
成太朗の言葉が、白い綿菓子のような泡と共に、一気に彼の喉奥へと飲み込まれ消えていった。