K.M.富豪の9枚の遺影
芸大を中退した私は、絵を描いて日銭を稼ぐ生活を送っていた。ある日。彼女のもとへ老執事タカギが訪ねてくる。主人であるクドウ・ミツハルの肖像を描いて欲しい。詳細を聞くためにクドウ氏の屋敷を訪れた私は、本人から妙な依頼を受けることに。
「自殺をするつもりだから、君には僕の遺影を描いてもらいたい」
2年という長くも短い歳月。高額な報酬を理由に依頼を受けた私は、クドウの人となりに触れながら、彼の望む遺影の形を描き出す。
夕暮れに染まる公園。カラスの声を引き連れて、その人は私の前に立った。
「まだ、やってますか」
私が顔を上げると、黒いマスクに燕尾服を身につけた、初老の男が立っていた
「ええ、まあ」
「ああ、よかった」
老人の目尻に、安堵のシワが浮かんだ。
やわかな物腰といい、品のいい佇まいといい。
資産家の執事や秘書がよく似合う男だと思った。
「申し遅れました。私、とあるお屋敷で執事をやっております、タカギ・イツキと申します」
やっぱり。自分の予想が当たったことに、私は内心ほくそ笑んだ。
「似顔絵ですか」
「いえ、肖像画を……ああ、私ではなく、旦那様のものをお願いしたいのです」
「旦那様、というと」
タカギはジャケットの内ポケットから、写真を取り出した。
そこに写っているのは、一人の男。
尊大で理知的な男がソファに座り、写真の向こうにいる私を、じっと見つめている。
「旦那様のクドウ・ミツハル様です。この方の絵を、貴女様に描いてもらいたい」
「このクドウ氏は、いまどちらに」
「ご自宅の方にいらっしゃいます。私は旦那様の使いで、貴女様に依頼をしにきたというわけで」
「なるほど」
写真を返しつつ、私はクドウ氏についていくつか訊いてみた。
「クドウ氏のご職業は」
「フランシーヌという人形メーカーの社長をなさっておられます」
聞いたことがある。
球体人形の老舗で、精巧な人形を作ると評判の企業だ。
スマホで検索をかけてみると、サイトにはしっかりとクドウ氏の名前と写真が表示された。
「クドウ氏の身分証明書は、持っておられますか」
「ずいぶんと警戒されるのですね」
「念のためですよ。お気に障ったのでしたら、謝ります」
「いえいえ、そんなことは。免許証でよろしいでしょうか」
「構いません」
黒いカードケースを開くと、タカギは免許証を私に渡してくれた。
AT限定の普通車免許。若社長の真面目な顔が添付されている。
生年月日を見て、驚いた。年齢32歳。私と3歳ほどしか変わらない。
かたや老舗企業の若社長。かたやホームレスの絵描き。
こんなところで世界の不平等さを感じさせられるとは、思っても見なかった。
「ありがとうございます」
タカギに免許証を返す。
「どうでしょう。ご依頼を引き受けてくださいますか」
「そうですね……ご本人に会ってみないと、何とも言えませんね」
「そう言われると思いまして。お車をご用意させていただきました。この後、何かご予定はありますか」
「いえ、特には。でも、いいんですか。急に押しかけるような真似をして」
「問題はありませんとも。ささ、参りましょう。お荷物は私がお持ちいたします」
「いいですよ、このくらい自分で持てますから」
「遠慮なさらず」
私の脇にあったバッグとキャンパス。それをするりとタカギは持ち上げる。
「さぁ、行きましょう」
彼は早足に歩道を進み、駐車場の方へと向かっていく。
「……まるで物盗りね」
ため息をついてから、私はタカギの後を追った。
流しの絵描き。
それが私の仕事。というか、芸大を中退し、居場所と住処を失った末に編み出した、生きる術だった。
時には居酒屋の酔っ払いたちを相手に。
時には田舎の公民館で老人たちを相手に。
ホテルのロビー。ショッピングモールの通路。
駅のホーム。スーパーの飲食コーナー。
場所を選ばず、環境を選ばず。
自前の集中力と道具を武器に、顧客の顔を絵にして、お駄賃をもらう。そういう商売だ。
が、このごろのウィルス騒ぎで、それまであった依頼は全部パー。
最近は同人作家の扉絵やキャラクターの絵の注文をとって、食い扶持を稼ぐ日々が続いていた。
それはそれで楽しかったが、空想上の顔は味気がなくて、ちっとも面白くない。
やっぱり私は人間を描くのが性に合っているとつくづく思った。
タカギの依頼は、そんな私に願ってもない機会だった。
彼の愛車は、黒塗りのジャガー マーク2復刻版モデル。
突出したフロンドと、前方についた四つの丸いライトが特徴だ。
タカギは私が乗り込んだのを見ると、エンジンをかける。
車の鼓動を感じながら、車はゆっくりと滑り出した。
一時間ほど進んだだろうか。県道を進み、山道へとさしかかる。
その頃には、あたりは真っ暗になっていた。
曲がりくねった道を、ヘッドライトが闇を切り裂きながら昇っていく。
山頂近くまで来た時、左手に細い砂利道が見えた。
タカギは器用にハンドルを切り、砂利道に入る。
道なりに進んでいくと、大きな屋敷が姿を現した。
「まるで、お城ね」
切りそろえた石を積み上げてできた外壁。
研いだ鉛筆のような赤茶色の屋根。
玄関は木製の大扉で、大きな窓が一階と二階についている。
吸血鬼が今にも飛び出してきそうな、古風な屋敷だった。
「こちらです」
両手を消毒してから、タカギの案内に従って、正面の扉へと進む。
重々しい開閉音とともに、タカギがゆっくりと扉を開く。
正面の壁に刻まれた巨大な壁画が、私たちを迎え入れた。
「系統樹」
微生物から始まり、植物、魚類、哺乳類、そして人間。
生命の進化の大いなる旅路を、巨大な広葉樹木として描いている。
樹皮の細やかな凹凸。葉の一つ一つの葉脈の一本一本まで。実に芸が細かい。
「美しいでしょう。旦那様が彫刻家を雇って作らせたのです」
そう言うタカギは、少し誇らしげだった。
壁画を横目に、タカギは私を連れて階段を昇る。
廊下を進んでいくと、広間にでた。
いや、正確には広い書斎と言うべきかもしれない。
両側には天井まである巨大な本棚。詰め込まれた書籍たちが背中を向けて並んでいる。
「ようこそ、待っていたよ」
部屋の奥。窓を背にして男が立っていた。写真通りの男だった。
「クドウ・ミツハルさん、ですか」
「いかにも、僕がクドウ・ミツハルだ。そこにかけてくれ、早速仕事の話をしよう」
部屋の中程には一対の黒革のソファが置いてある。
私が腰を下ろすと、クドウ氏は話を始めた。
「タカギからも聞いたかもしれないが、君には僕の絵を描いて欲しいんだ」
「デフォルメされた似顔絵でしょうか。それとも肖像画のようなしっかりとしたもの」
「イメージをしているのは、色彩豊かな肖像画だ。ジョン・ブランブリットのような、あんな絵がいい」
これはまた難題を吹っ掛けられたものだ。盲目の天才画家の色彩を注文とは。
「絵は全部で9枚」
「9枚も」
「ああ、少し無理があるだろうか」
「そういうわけじゃありませんけど、時間はかかりますよ」
「2年もあれば、足りるかね」
「それくらいなら何とか。絵の大きさにもよりますが」
「なら問題ない。報酬は、そうだな……」
クドウ氏はメモ帳にボールペンのペン先を踊らせる。
「このぐらいで、どうだろう」
そして私に紙面を見せてきた。
驚いた。書かれてた金額、実に2000万。これまでの稼ぎの何十倍もの額だ。
「どうやら、満足してもらえたようだ」
私の惚けた顔を見て、クドウ氏は微笑を浮かべた。
「絵を描いている間は、この屋敷で休んでくれ。不足した道具や絵具があれば、いつでも用意させる。何か不満はあるかい」
「不満だなんてそんな。是非やらせてください」
こんな依頼は滅多にない。
いや、この先もあるかどうかすらわからない。
巨大な魚を逃すまいと、私は前のめりに返事をする。
クドウ氏は苦笑しながらも、満足そうにうなずいた。
「テーマは、あるんですか」
「ある。この絵は飾るものだが、少し実用性も持たせるつもりだ」
「実用性?」
クドウ氏の唇が柔らかく歪み、
「遺影だよ」
と、言った。
まるで冷や水を浴びせられたようだった。
興奮が嘘のようにかき消える。
愕然としながら、私はクドウ氏を見た。そして、心配した。
「お身体が、悪いのですか」
「いや、僕は健康そのものだ。病気一つかかったことがない」
「だったら、どうして遺影なんか……」
「自殺をするからさ」
まるで空の天気を話すような気軽さで。クドウ氏はその2文字を口にした。
「な、何かお悩みでも」
「いいや、悩みはない。世界に失望したからでも、人間に絶望したからでもない。もちろん、気まぐれに死のうと考えていたわけじゃない。私は計画的に、自らで生命を断つことを決めたんだ」
「あの、その……命を、粗末にしない方がよろしいかと」
「生命を定義できない人間が、生命の尊さを説いたところで何になると言うのかね」
そう言って、クドウ氏は微笑を浮かべた。私は言葉を返すことができず、沈黙した。
「これは前払いだ。とっておいてくれ」
戸惑っている私を他所に、彼は私の手をとって、帯紙でまとめた分厚い紙幣をのせた。
初めて味わった、札束の重み。
混乱の深みにはまったまま、私はクドウ氏の顔を眺めた。
「絵を描く間に、私について色々と教えようじゃないか。個人の人生は個人の色彩に影響をもたらすと言うしね」
クドウ氏は慰める様に、私の肩を叩いた。
そして、彼はタカギを残して、一人部屋を出ていった。
彼の足音を聞きながら、私は呆然と窓を見た。
窓の闇に自分が写っている。間抜けな女の顔が。
当たりくじかと思ったら、とんでもない。
他人の自殺に付き合わされるなんて、ひどい貧乏くじだ。
後悔するのは好きじゃない。
だが、今日ばかりは、私自身を呪いたかった。