おわり、おわり、おわり
シャルの遺体は回収されて、司法解剖は恙無く行われた。
第一発見者たるボクには、聴取を求める担当刑事の代わりに、カウンセラーが割り当てられた。ショックを与えないためか、カウンセリングの最中、シャルの情報はボクに殆ど与えられることはなかった。
なので、担当刑事に聞いた。
彼の聴取に答える代わりに、ボクは、シャルの遺体に残った傷の数々を教えてもらった。
生前に行われた暴行の数々が、リアリティを持って浮かび上がる。
切創、擦過傷、挫創、割創、剥脱創、咬傷……シャルの爪には、犯行者の皮膚がごっそり残っていた。彼女の体内からは、犯人の体液が見つかって、DNA情報はたっぷりと残されているようだった。
「でも、捕まらないケースもある」
申し訳無さそうな顔で、担当刑事は言った。
「前科がなければ、DNA型のデータベースに載らない。当然の話だが、全人類のDNAを採取してデータベースに登録してるわけじゃないんだ。この手の事件の場合、接触証拠は多数残るが、直ぐに犯人逮捕と言う訳にはいかない」
「…………」
「もし、データベースにヒットしなければ、後は地道に辿るしかない。蟻と同じだ。クソ野郎の残したフェロモンを、トコトコ、辿り続ける。大抵、こういった暴行事件の場合、容疑者は自分で自分の口を開く。バーなんかで、犯罪自慢するんだ。ソレを待つしかない」
「…………」
「おい」
優しく、肩を揺すられる。
「だいじょうぶか?」
ボクは、無言で、彼から離れて帰途に着いた。
クロフォード家は、ものの見事に崩壊していた。
安楽椅子に座ったオリビアママは、ぼけっと、虚空を眺めたまま何もしなかった。朝から晩まで、ただ、何かを見つめ続けるだけだ。ルーカスパパは、足を組んで、同じ本の同じページを、瞬きひとつせずに眺め続けている。
「あぁ、お帰り、シャル」
「…………」
部屋に閉じこもっていたレアは、ボクのノックにだけは反応した。
「遊びに行ってたのか? あまり、遅くならないようにな。誰も彼もが、善人ってわけじゃないんだ。
妙な事件に巻き込まれるのも嫌だろ?」
「アラン」
タオは、顔を歪めて、ボクを指差す。
「彼は、シャルじゃありませんよ。ミナトです」
「ミナト……?」
レアは、ニヤニヤと笑った。
「あぁ、わかってるよ。シャルだろ。わかってる」
「…………ッ!!」
思い切り。
タオは、拳を机に叩きつけた。凄まじい音がして、反動で、机上のPCが横倒しになる。山のように盛られたファイナル・エンドの開発資料が、宙へと舞い上がり、バサバサと音を立てて崩壊する。
「すみません」
彼女は、皮を突き破って、骨がはみ出た右拳を見せる。
「開放骨折した。治療してきます」
目が。
目が、なにかを、逸していた。
タオの両目は、ギョロついていて、そこに備わっていなければならないなにかが失われていた。その奥底には、憤怒と怨嗟が淀み、噛み切った唇の肉が顎の辺りに垂れている。
「……殺してやる」
ぼそぼそと、彼女は言った。
「殺してやる……殺してやる……殺してやる……」
そのまま、タオは部屋を出ていく。
シャルの端末には、クラウドからの着信が数百件も入っていた。既に事情はチャットで知らせている。それでも、彼女は、ボクかレアから、話を聞かなければ納得出来ないのだろう。
呼び出した瞬間、彼女は、ワンコールで出た。
『……嘘だ』
変わってしまったボクとレアを視て、クラウドは瞬時に理解する。
『うそだぁ……うそだうそだ……ぁあ……うそだぁあ……ぁ……』
彼女は、頭を抱えて、何度も机に叩きつける。次第に、額が割れて、机上に血溜まりが出来始めていた。
ボクとレアは、ぼうっと、その光景を眺めていた。
いつの間にか、クラウドとの通信は切れていて、外にはオレンジ色のお日様があった。ボクは、レアの膝の上に抱かれて、ぼんやりと橙色に包まれる。頭が上手く働かなくて、世界が鈍色に歪み、現実感が失われていた。
レアは、ボクの頭を撫でながら、オルゴールを鳴らしていた。
ヨハネス・ブラームス――『眠りの精』。
静かに、静かに……子守唄が流れている。
「憶えてるか?」
「…………」
「シャルが不機嫌になった時に、この曲を流すと、直ぐに機嫌が良くなる。落ち着くんだろうな。赤ん坊の頃にも、コレを流したら、途端に寝付いたって母さんたちが言ってたぞ」
「…………」
「シャル」
「…………」
「お姉ちゃんのこと……好きか……?」
半開きになった両目の先に、紅色に染まった日が視えた。
赤黒く染まったボクの首元は、失われてしまったシャルを象徴し、撫でられている頭から寒気が伝わる。いつまでもどこまでも、続いている悪夢が、靄がかった脳みそを揺らしていた。
「うん、大好きだよ、お姉ちゃん……」
「そうか」
レアは、微笑を浮かべて、窓の外を眺める。
その紅い日を。
損なわれた思い出の只中を。
「そうか……」
殺そう。
ボクは、思った。
アイツを殺そう。
レアが寝付いたのを確認し、暗闇の中、自分の部屋で動画を見つめる。GLOCK 43の扱い方を学びながら、ボクは、キッチンにある果物ナイフを思い浮かべる。探してみたら、呆気なく見つかって、ズボンとベルトの間に差しておく。
「…………」
ボクは、一脚の椅子に座って、クロフォード家のリビングを眺める。
目の前に、シャルの笑顔があった。
オリビアママも、ルーカスパパも、レアも、ココでは幸せそうに笑っていた。この人たちは、なにも、悪いことをしなかった。ただ、誰もが望む幸福な日常を、描き続けていただけだった。
――えっ!? な、なに、誰!? ミナトくん!?
あの時。
あの時、アイツを殺しておけばよかった。
――ねぇ、ミナトくん
満面の笑みを浮かべたシャルが、ボクの頬を両手で包み込む。
――笑おうよ
ボクは――笑った。
ルーカスパパの工具箱を引っ張り出してきて、爪を剥がすのに適したラジオペンチを見繕う。庭を飾り付けた電極と電源を引っ張り出し、失神した際の気付け薬として用いることにした。
針とソレを押し込むトンカチを用意し、笑いながら、ルーカスパパの書斎に向かう。
――ただのモデルガンだ。本物は、父の書斎、鍵付きの引き出しに入ってる。9mmピストル、GLOCK 43、シングルカラム6発
ボクは、かつてのレアの助言に従い、凶器を求めて書斎の扉を開ける。
そして、開けっ放しの引き出しを見つけた。
血の気が引いた。
凄まじい勢いで反転して、一気に階段を駆け上がり、レアとシャルの部屋に飛び込む。ベッドで寝ている筈のレアが、温もりを残して消え失せている。無我夢中で、2階の窓から1階の庭に飛び下りる。
着地に失敗して、顔を打ち、縫ったばかりの頭の傷が開いた。
どろり、血が滲み出てきて、ボクは叫びながら走る。
レアの名前を呼びながら、深夜の住宅街を駆けずり回り――彼女を見つける。
ぼうっと、突っ立っていた彼女の腕を、思い切り、掴む。
「やめろッ!! ボクが殺るっ!!」
「…………」
「銃を渡せ!! 渡せッ!!」
「……わたしじゃないよ、ミナト」
正気を取り戻した両目……今までのアレは、ボクの不意を突くための演技だとわかって、ボクは、唖然とする。
「わたしは、持ってない」
「……なら、誰が」
「明日にはわかるさ。
そんなことよりも、わたしとシャルにはしなければならないことがある」
怪しく濁った両目、その笑みの深さは口が裂けているみたいで、小刻みに痙攣している頬が薄桃色に光る。
「こんな現実に割くような時間はない。
なぁ、シャル?」
RASを抱いたレアは、ニヤニヤしながら、赤ん坊のようにソレを撫でる。いや、RASを撫でているわけではない。その中に詰まった、シャルの情報を、彼女が視ていた夢を撫でているのだ。
「なぁ、シャル、思い知らせてやろう……現実に生きる人間どもに……だいじょうぶ、ぜんぶ、お前のための世界だよ……しーっ……良いんだ、おやすみ……後は、お姉ちゃんにまかせておいて……」
レアの笑みが、緩慢に変じる。
「ミナト」
爛々と光る目で、幼児のような笑顔を浮かべたレアは言った。
「お前にも! お前にも、責任! 責任、とってもらうからな!! な!! あは!! 責任!! 責任、責任、責任!!」
あぁ、この目は視たことがある。
「レア……」
「違う。わたしは」
異彩を放つ諦観と憤怒、そして、軽蔑の視線。
「アラン・スミシーだ」
その瞬間、ボクは。
レア・クロフォードは、もう、戻れないのだと知った。
彼女の信じる虚構の世界、いや、現実の世界へと行ってしまったのだ。
レア・クロフォードは――
「わたしが、賽子を振る」
最後の境界を超えた。
RASをあやしながら、彼女はどこかへと歩いていく。
レア・クロフォードが死んで、アラン・スミシーが生まれる。
彼女は、シャルのための世界を生み出し、それ以外の人間に思い知らせる。現実を模した虚構で、彼女が受けた理不尽の鉄槌を下し、全プレイヤーは唐突に命を奪われたシャルと同じ目に遭う。
名前も知らない誰も彼もに、彼女は、親切で教えてやったのだ。
誰もに起こり得る現実を。
神は賽子を振らない。
だから、代わりに、アランは賽子を振った。
現実に虐げられたシャルが、もう酷い目に合わないために、彼女はシャルのためだけの世界を創った。あの世界では、神も理不尽も暴力も強姦も、なにもかも存在し得ることは出来ない。
レアは、この現実を捨てて、虚構へと旅立ったのだ。
明くる日。
レアの代わりに、ルーカス・クロフォードは、綺麗に復讐を完遂させた。タオが資金提供をして、あっという間に犯行者を見つけ出し、ボクの考えていたことがお遊びみたいに思えることを徹底的にやった。
「金さえ払えば、人はなんでもしますよ」
タオは、薄く笑って言った。
「愛さえあれば、なんでもするように」
あの優しかったルーカスパパが、ココまでのことが出来るのかと、恐れを為すくらいの手際だった。疲れ切った笑顔を浮かべるルーカスパパは、形状を保っていない男の死骸の横で、お手伝いをしたプロと一緒にピースサインをしていた。
結局のところ、ボクの知らないところで、なにもかもが終わっていた。
そして、レアの部屋をノックした瞬間に――引っ張り込まれる。
一瞬にして、城街領域に戻っていたボクの目に、無表情でこちらを見下ろすレア――いや、アランの姿が映る。
「わたしの過去を」
彼女は、ささやく。
「勝手に覗くな」
ボクは、ゆっくりと、目を閉じた。