胸中で、蝶が羽ばたく
柚浅葵は、幼馴染のことを考えていた。
彼の家を掃除しながら、ため息を吐く。
なぜ、未だに、彼との関係性を繋いでいるのか……自分でもわからない。自分以外で、この歳になっても、異性の幼馴染と一緒にいるなんて人は視たことがない。
彼のことが好きなのかと、揶揄されたこともあった。
その問いに対して、葵は、肯定も否定もできない。
たぶん、葵と彼の関係性は、好意や嫌悪では表せない。言うなれば、呪いに近い。必要だから、傍にいるだけだ。
ただ、自分にとって、白亜湊は特別な存在である。それだけは、ハッキリしている。
物思いに耽りながら、掃除をしていると――一枚の写真が目に入る。
写真立てを手にとった。
「…………」
美しい女性が、幼いミナトと葵を両腕で抱いていた。
三人の背後には、クリスマスツリーがある。電極が巻き付いていて、オーナメントが飾られている。かと思えば、七夕の短冊が飾られていたり、お餅がぶら下がっていたりもする。
その、おかしなクリスマスツリーは。
昔、視た時は、幸福の象徴のように映った。
今、視た時は、不幸の象徴のように映った。
過去の楽しかった思い出が――悲しみが、渦巻くように戻ってくる。
たまに、ミナトが見せる過去の顔が、脳裏に焼き付いていた。
――ま、もう、潮時かなとも思ってたし。丁度良い機会でしょ
暗い部屋の中で、彼が、Vtuberを辞めると言った時のことを思い出した。
白亜湊という男の子は、趣味や道楽で、なにかを始められる人間ではない。彼にとって、あの姿で、Vtuberを始めたのは意味のあることなのだ。
そして、それは、とても大切なことだった。
――ちく……しょう……
彼は、泣いていた。
あの時と――同じように。
「……ミナト」
やり直そうとしているのだろうか。
彼は、己の誤ちだとでも思っているのか――床に散らばった大量のどんぐりが、目の裏にこびりついている。
床に落ちた実に囲まれて、彼は、ただ立ち尽くしていた。
誰もいない真っ白なベッドを見つめて――ただ、立っていた。
あの時、私は……私は、彼の顔を視れなかった。声をかけることもなく、その場から逃げ出した。
だから。
だから、今、私は――彼の傍にいる。
「なんで……いつも……私は……」
彼が、ゲームを終えたら、今度こそきちんと話をしよう。
そうすれば、きっと、今度こそ――手から滑った写真立てが、床に落ちる。
「…………あ」
葵の決意を嘲笑うかのように、写真立てには亀裂が入っていた。
葵とミナトの間を分け隔つようして、大きな亀裂が。
「…………」
胸の中で、蝶が羽ばたいている。
羽ばたきのような胸騒ぎが――彼女の胸中を支配していた。
ボクは、配信開始のボタンを押した。
回線が開いて、全プレイヤーに映像がお届けされる。このクソゲーに囚われている全員が、配信開始通知を受け取っている筈だ。
なにせ、ボクは、公式Vtuber……無敵特典も備わってないかなと思ったが、恐らく、そんなに甘い話はないだろう。
「は~い♡ みんな、ミナトちゃんだぞ~♡ この地獄を満喫してるか、頭おかしい野郎ども~♡ 現実では、もうとっくの昔にゲームオーバーなんだから、今更ながらに死を恐れるな♡ 進め♡ ワーグナーの行進曲流してやるよ♡」
こんな状況下でも、コメントをする人間はいるのか……ボクの周りに、蒼色の文字が、浮かび上がる。
『正気か?』
『ミナトちゃん、死にたいの?』
『狂人のTear表で、唯一、Tear1入りする女』
『義務教育で、死を習わなかった女』
『死後の世界から、配信を行いそうな女』
『ミナト、デスループ説』
『公式Vtuberは、無敵補正かかってるからじゃね?』
『無敵補正、たぶん、消えてるよ。初日の死者の中に、配信中の公式Vtuberも含まれてたって話だし』
『英雄って、大半は、死後に評価されるからね。伝説になりたいなら仕方ないね』
『ハデスから、冥府の立入禁止を言い渡されそう』
『コレが、本物の自殺配信ちゃんですか……』
言いたい放題だな、このクソどもが……大半のプレイヤーは、安地で、ボクの配信を視ているのだろう。
次々と、コメントが飛んでくる。
『ミナトちゃん、今、どこにいるの?』
「地球♡」
『死ね』
「『今から、お前を殺しに行く』が、本当に出来る世界になったことを忘れるなよ♡」
『職業、なんですか?』
「素人♡」
『配信情報視て、目玉飛び出た。この人、HP1しかない』
「現実でも、命はひとつだろーが♡」
『(敬礼)』
「(親指を下に向ける)」
『ミナトちゃん』
蒼色の文字が、ボクの目に映る。
『死なないで』
どこぞの誰かの言葉に、ボクは微笑む。
横合い。
唐突、突き出された錫杖を――団長の剣で、弾いた。
「死なないよ」
ジャストガード――大量の影が、四方八方で湧き始めて――ボクは、一気に、その中心へと突っ込んだ。